新富寿司

宮内庁御用達。銀座の老舗の「新富寿司」に行ってきました。

やはりこわいお店でした。40代後半の親方と20代後半の若手の二人で、客を品定めしてねめ回し、席はガラガラに空いているのに「そこに詰めて座って」などと指図されました。「あー、まずったなあ」というのが第一印象でした。

昼飯時。先客は金持ち風の親子3人連れ。娘さんは20代前半の感じでした。中小企業の3代目といった感じの旦那さんは、銚子のピッチがあがって、バカバカ注文してましたが、恐らく3人で10万円くらいいったんじゃないでしょうか。

親方は「お飲み物は!」と客の顔を見ないで言うので、最初、私に聞かれたかどうかわからなかったのですが、どうもそうらしいので、小さな声で「お、お茶でいいです…」というのが精一杯。「あがり」などと業界用語を使えば、どやされる雰囲気でした。

「何にしましょう!」と言うので、「い、い、いちにんまえで…」と俯き加減で注文しました。10分くらい待たされて出てきたのが、鮪とスミイカと鰹と穴子と縞鯛とイクラと玉子と河童巻きの8カンだけ。茶碗蒸しも汁物もなし。

お金を払おうと、席を立ったら「そこに座ってて」と命令されてしまいました。

締めて2,625円。

味は?

わかりませんでした。

とても池波正太郎にはなれませんね。

 

おめでとう!Felicitation! Congraturations!恭喜!

マーチンD-28

2006年7月18日(火)

今日は世界中の誰が何と言おうと、おめでたい日でーす。

ついにこの日を迎えてしまいました。

☆歳の誕生日。

若い頃はこんなに長生きするとは思いませんでした。

でも、なってみると、あっと言う間でした。

たとえ、100歳になってもそう感じることでしょうね。

残された人生。これから私は不良になりまあ~す。

人の目は気にしません。

もう我慢しないで自分を楽しませます!

余った分、幸せは皆さんに御裾分け致します!

これは、私のブログです。

文句あっか、てか!

でも、せっかくアクセスして頂いた方の皆さんのために、また、「サラリーマン川柳」をお送りします。

●駅まで25分 子供は送迎 旦那は歩き

●人生の 第二の職場は 妻の部下

●受け取りが 俺はおまえで おまえは子

●アラッ居たの? 今日行かないの? やだぁ父さん!

今村君も言ってました。

「やっと、この年になって『家内安全』の意味が深く分かるようになった。若い頃はさっぱりわかんなかったんだよなあ…」

マーチン D-28

 公開日時: 2006年7月17日

今日と明日は私にとって特別な日です。

明日に備えて今日は大きな買い物をしました。

マーチン D-28です。

言わずと知れたギターの名器です。フォークギターの元祖のようなものです。

特にビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが愛用したギターとしても知られています。「ハロー・グッドバイ」のプロモーション・ビデオでジョンが弾いています。映画「レット・イット・ビー」の中でポールが「トゥ・オブ・アス」で、左利き用に弦を逆に張り替えて弾いています。

フォークギターといえば、ジョンは、初期の頃、ギブソンのJ-160Eを愛用していました。茶色のピックアップ付きは、映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の「恋に落ちたら」などで弾いています。解散後の「平和を我ら」にで弾いているのもJ-160Eのようです。ポールの「イエスタデイ」はエピフォンのテキサンというフォークギターで演奏しています。ジョージ・ハリスンは、ジョンと同じギブソンのJ-160Eのほかに、ギブソンのJ-200も愛用していました。

でも、レコーディングでは結構、D-28を使用しているようです。「ホワイトアルバム」の「アイ・ウイル」もそうだと思われますし、ポールの最初のソロアルバムの「マッカートニー」では「エヴリ・ナイト」にしても「ジャンク」にしてもシャリシャリした音色は、マーチン以外には考えられない音なのです。

私はこれで、エレキギターはギブソンのESー335TD、クラシックギターはオベイション、そしてフォークギターはマーチンのD-28と「3種の神器」を揃えることができました。

ギブソンもマーチンも、ギター少年にとってはあこがれのギターで、とてもとても手に届かない代物でした。私も手に入れるのに半世紀も掛かりました。

うーん、フェンダーも欲しくなってきました。

シュス・トムセンさんの死

アメリカに住む今村哲郎君が久しぶりに帰国し、渋谷で会いました。6年ほど前にキューバ旅行した際、テキサス州の彼の家に厄介になったことがあるので、彼に会うのはそれ以来です。

彼は結婚してもう16年も経つのに、日本の親戚に結婚の報告と挨拶をするのが、これが初めてで、ご先祖さまの墓参りと親戚の挨拶廻りの忙しい中、私のためにわざわざ時間を取ってくれました。

日本人の奥さんと15歳になる娘さんも一緒です。

彼は叔父さんに言われたそうです。

「不義理もここまでくると、時効だな」

ま、彼はそこまで達観しているいい奴です。

ところで、彼の口からシュス・トムセンさんの死を聞きました。もう6年前の2000年7月だったそうです。

彼女はデンマークの人ですが、コペンハーゲン建築大学を卒業後、ロータリークラブの支援で1970年代に日本に留学し、これが縁で、今村君の出身地である福岡県の星野村の「源太窯」で焼き物を修行するようになった陶芸家です。文部省の給費留学生としても滞在しています。星野村の農村風景を写真にとって解説した本を出版したりもしています。

つまり、日本とデンマークの架け橋となる仕事をたくさんした人です。

私も今村君と知り合って、デンマークの彼女の住む工房兼自宅を彼と一緒に訪れたことがあります。彼女はコペンハーゲンの南のムーン島というところに一人で住んでいました。コペンハーゲンから電車で2時間、その駅から歩いて2時間くらい掛かる所でした。途中でヒッチハイクした記憶があります。もう三十年近く昔の話なので、あまり詳しく覚えていないのですが、真夜中なのに白夜だったので、あたり一面が明るく広大な麦畑が広がっていました。

彼女の寝床は屋根裏部屋で、そこに辿り着くには梯子を登っていきますが、彼女が寝るときは、その梯子をはずして屋根裏部屋にしまってしまうので、誰もその屋根裏部屋に近づけない家の作りになっていました。僕たち二人は1階で寝ました。

翌朝、コーンフレークのようなものと、ヤギの乳を出してくれたことを思い出します。

日本語に堪能で、残された写真を見ると「広辞苑」なども机の上にのっていました。

彼女は本当に日本を愛した人でした。徳利なども製作し、デンマークに日本の文化を伝えました。

彼女の祖父はデンマークの駅舎を設計した建築家で、親兄弟も建築家や芸術家だったようです。

今村君から最初はシュスさんは病気で亡くなった、と聞きました。

しかし、九州の地域誌に載った彼女の追悼号を読むと「コペンハーゲンのアパートで自殺」と書いてあったのです。

これには非常に驚き、つい落涙してしまいました。

晩年の彼女はムーン島の田舎の自宅を引き払って、コペンハーゲンに出てきましたが、芸術的創作に行き詰ってしまったようです。

もっと複雑な原因があったでしょうが、想像を絶する理由だったのでしょう。しかし、彼女の死がとても残念でなりません。

シュス・トムセンさん(1939・4-2000・7)は、現在、コペンハーゲンの共同墓地で眠っているそうです。

シュスさんの魂よ、安らかに…

アジア美術最新事情

長年の友人である美術雑誌「月刊ギャラリー」の編集長である本多隆彦氏と久しぶりに会い、新宿の「北海道」という居酒屋で痛飲しました。金曜の夜ということで、立錐の余地もないほど満員で、テーブルの隣は、フィリピン系の30代初めの女性と60歳くらいの中小企業の社長さんタイプの男性のカップル。ここに辿り着くまでに街ですれ違った若い女の子で、胸の谷間を露にしたビキニで闊歩していたのには驚きましたね。新宿は相変わらずカオス状態です。

本多編集長から面白い話を聞きました。彼は、東京、ソウル、北京、上海、台北を結んだ東アジアの美術市場を結んだ美術情報誌を発行し、中国、韓国を飛び回っていますが、それぞれの「お国柄」が表れていて面白いというのです。

やはり、パワーがあるのが中国だそうです。オークションが盛んで、日本では、代表的なシンワ・オークションが年間売り上げ70億円規模なのに、北京のあるオークションは既に300億円を超えているそうです。

美術市場は、当然、その国の経済事情を反映しています。日本ではあのバブル期が最盛期でした。大昭和製紙名誉会長の斉藤了英氏がゴッホの「ガシェ博士の肖像」を125億円で落札して、世界中をアッと言わせました。この記録は、1枚の絵に対する価格としてはいまだに破られていないのではないでしょう。

要するに日本の場合、バブル紳士は、既に評価の定まった印象派などの名画に金をつぎこんで、日本の若い芸術家に目もくれなかったのです。

これに対して、現在の中国人のお金持ちたちはどんな絵に投資するかというと、ファン・リジュンといった自国の若い芸術家なのです。リジュンは数年前までは1枚数十万円だったのが、今では1億円近いというのです。韓国でも事情は同じです。経済新興国と注目されているインドでも、自国の若い芸術家の作品を買い集めています。

中国の場合、美術の教科書はロシアのものを使っているので、日本人なら誰でも知っている「印象派」などの作品を知らないというというのも背景にあるそうですが、それにしても、「西欧追随型」の日本とはえらい違いです。

日本の場合、20世紀末のバブル期に、19世紀のパリ、20世紀前半のニューヨークに続いて、芸術の都、美術市場の中心地になるチャンスだったのですが、逃してしまいました。パトロンたちが自国の芸術家を育てなかったからです。125億円もあれば、一体何人の若い日本人の芸術家をデビューさせることが出来たことでしょう。今頃、その日本人の画家は「世界の巨匠」として君臨していたはずです。

つまり、美術と経済的繁栄は密接に結びついています。19世紀から20世紀初頭にかけてのパリのパトロンたちは「印象派」を育て、世界的マーケットして買い支えました。第二次大戦で戦勝国となり、世界一の大国となったアメリカは、ジャスパー・ジョーンズやアンディ・ウォホールのような漫画のようなつまらない軽いものに芸術的価値を与えて、世界に通用するマーケットを作りました。

日本は駄目でしたが、中国、韓国、インドは違います。自国の芸術家を育てたおかげで、サザビーズやクリスティーズもマーケットに参加せざるを得なくなりました。

はっきり言って、日本画は世界では全く通用しません。これは、芸術的価値がないという意味ではありません。もっと下衆い話です。世界中の金持ちたちの食指が動かないということです。

それに、日本人の金持ちたちには、絵を買うようなセンスも慣習もないようです。第一、いい絵を買ったりしたら、世間の僻みややっかみに遭うことを怖れて、作品を隠してしまいますからね。それに、歴史的、美術的に評価の定まった有名な絵画しか買おうとしません。若い芸術家を育てようという勇気も気概もありません。

それが、中国や韓国との大きな違いかもしれませんね。

ヤブカンゾウ

私がよく行く散歩コースに「ヤブカンゾウ」の花が咲いていました。実はここに看板が立っていて、「花は7月上旬から20日までが見ごろ」と書いてあって、いつか花を見たいと、何年も前から思っていたのでした。

思い出して久しぶりに行ったところ、もう花は終盤で、散りかけていました。それでも、一番元気が良さそうな花を携帯で撮ってきました。

看板の説明によると、ヤブカンゾウは別名「忘れ草」といい、中国の故事で、この花を見ると憂いを忘れるという言い伝えがあるそうです。

日本にも伝えられ、奈良時代、大伴旅人・家持親子がこの花を題材に「万葉集」に和歌を残しているそうです。

どんな和歌か、ご存知の方、おせーてくださいね。

「日光キスゲ」も同じ仲間だそうです。

いっチェアー

小樽

帯広の岩間定子さんからいい話を聞きました。

彼女は、帯広市内で福祉介護用品の企画や卸の仕事をしている人なのですが、昨年、彼女の発案で「いっチェアー」という、室内歩行器兼椅子を開発しました。高齢者や障害者が、家の中で移動する時に使う大変心の籠もった製品です。ある時は歩行器となり、ある時は椅子となり、ある時はちょっとしたものを運ぶワゴンになるという便利な代物です。

ちょうど1年前に「作品」は完成し、全国発売したのですが、この椅子を作った帯広市内の木工製作会社と、利益配分の面などで、ちょっとしたトラブルになってしまいました。1台3万8千円でしたが、製作会社の方は結局「採算が合わない」ということで降りてしまったのです。「作品」は注文制なので、全国からあった注文は宙に浮いた格好になってしまいました。

それから1年。彼女は一念発起して、札幌に製作会社を見つけて、この5月に「改良版」の製品を完成させたのです。野球のバットにも使われる北海道産のタモ材を使いましたが、製作コストの関係で、販売価格が昨年の倍近い1台7万3500円になってしまったのです。

それでも、昨年注文のあった人に連絡を取ったところ、沖縄と岡山などから5台も注文があったというのです。

実は私は、この件については、ちょっと関係しております。昨年、記事として取り上げていたのです。注文のあった人も私が書いた記事を読んでくださったらしく、その地元紙の切抜きを大事に取っておいてくださったそうです。

先日、岩間さんが新製品のカタログを送ってくれたので、その後の様子を電話で聞いたところ、上記の話をしてくれたのです。

でも、そのカタログを見て、何で「いっチェアー」というのか初めて知りました。「椅子チェアー」の訛ったものかと思っていたのですが「どこでもいっちゃえ~」で「いっチェアー」と名付けたそうです。

なあんだ。

でも、久しぶりに涙が出るようないい話を聞きました。

モーツァルトの奥方

写真の左の女性が、今年生誕250年を迎えたモーツァルトの奥さん、コンスタンツェだそうです。

驚きました。

AFP通信が全世界に配信したもので、写真は1840年10月に撮影されたもので、コンスタンツェは当時78歳。この2年後の1842年に他界したそうです。

コンスタンツェは、夫のアマデウス・ヴォルフガンクが1791年に35歳の若さで死去した後、デンマークの外交官と再婚し、写真の右隣のスイス人の作曲家のマックス・ケラーの自宅(ドイツ南部のアルトエッティング)を度々訪れていたそうです。

それにしても、写真で見ると、随分身近に感じてしまいますね。

コンスタンツェは、若い時から病気がちでしょっちゅうバーデンバーデンまで湯治に出かけ、悪妻ということで後世に伝えられていましたが、当時としては長生きした方でしょう。29歳で寡婦になったとはいえ、再婚していたことまでは知りませんでした。確か、モーツァルトとの間の子供はすべて夭折したはずです。

生誕250年祭の商業主義に踊らされているようで、嫌だったのですが、またモーツァルトをガンガン聴きたくなりました。

「世田谷一家殺人事件」

今話題の『世田谷一家殺人事件 侵入者の告白』(草思社)を読みました。2000年12月30日に東京で起きた一家惨殺事件でいまだに犯人が捕まっていないあの衝撃的な事件の「真犯人」を突き止めたという内容です。

当初は、物証が多く、指紋もたくさん残されていたので、ホシはすぐに挙げられる簡単な事件だと思われていたのに、なぜ今になっても解決できないのでしょうか?

著者の齊藤寅氏は週刊誌の記者からフリーに転じたジャーナリストで、警視庁にも大阪府警にも刑事の友人を持ち、アンダーグラウンドの顔役とも付き合いがあり、普通の人では知りえない情報をジャッカルのような執拗さで追っています。

齊藤氏は、犯人は、アジア系の犯罪組織の一員で、韓国人のHが主犯格で、あと中国人のYとGがからんでいるとイニシャルで書いています。彼が苦労して入手した犯人の顔写真は、警察当局にも渡り、警察はソウルにまでいって確認しています。しかし、新聞では報道されず、犯人はどこかでぬくぬくと生きて、素知らぬ顔で街中を闊歩しているようです。

犯罪グループは、主に韓国人、中国人、ベトナム人、カンボジア人などで、2001年12月に起きた大阪曽根崎の風俗嬢殺人事件も、2002年1月に起きた大分恩人殺人事件にも関わっているというのです。

彼らは、金に困っているアジアからの若い留学生を次々とスカウトし、殺人事件の詳細を聞かせて、組織から抜け出せないようにして、組織を拡大させているようです。彼らは失うものがなく、とにかく日本で稼げるだけ稼いで故郷に錦を飾ることが目的ですから、罪悪感が全くありません。罪の呵責に苛まれなければ何をしでかすかわかりません。

彼らはインターネット等で、どこの家に金があるかといった情報を交換して、目星をつけると家族構成から日常の生活パターンや、周辺の状況などを何度も「ロケハン」して調べつくすようです。

著者は警察関係に幅広い情報網を持っていながら、警察組織に対する批判は辛辣です。要するに、セクショナリズムに陥って、「管轄外」に関しての事件や情報には知っていても、知らないふりをするか、かかわらないようにしているというのです。だから、著者のような、フリーの人間が全国を飛び回って、複雑にからんだ情報をジグゾーパズルを組み立てるようにして、問題提起しているのです。

世田谷一家殺人事件で亡くなった宮澤みきおさんは私と同い年でした。同書によると、彼の両親が住む実家、ということは彼が小さい頃住んだ所は、私が今住む所と目と鼻の先のようです。

個人的に何か不思議な縁を感じます。早く犯人が捕まってほしいです。宮澤さん一家のご冥福をお祈りします。

藤原新也著『渋谷』

 写真家・作家の藤原新也さんが、出版社を通じて「渋谷」(東京書籍)という本を送ってきてくれました。

 子供が自宅に放火して親を殺したりする凄惨な事件が、最近続いていますが、藤原さんは、もう四半世紀以上も昔から、このような不可解な家族の事件の背後に潜む人間の性(さが)を冷徹な目で見つめてきました。金属バット殺人事件を扱った「東京漂流」、母親の子供に対する異様なまでの過保護が及ぼす実態をえぐった「乳の海」などがその代表でしょう。

 

 「渋谷」は、二人の少女と一人の元少女と母親をめぐる3編の物語です。面白おかしくするためにわざと大袈裟にドラマ仕立てにした短編小説のようにみえましたが、すべて実話のようです。

 

 この中の「君の眼の中の色彩」では、少女時代に援助交際をしていた元少女サヤカが登場します。父親は優秀な大学教授で、米国でも生活し、本人の成績も良かった。母親との関係も中学まで良好で何ひとつ不自由のない家庭に育った。それなのに、なぜ?―。

 

 何と、元少女は「お金でもない。性的欲望でもない。…寂しかったからかもしれない」と答えているのです。

 

 彼女は、ある老人から包丁を突きつけられて性的関係を強要される体験をし、その後遺症からか色彩感覚が欠如する機能障害に陥ります。そんな彼女が、ハワイのホノルル・マラソンに挑戦し、見事完走し、劇的にも色彩感覚を取り戻す…といった話です。

 

 まさしく、フィクションのドラマのようですね。

 

 驚くべきことは、還暦を過ぎた藤原さんの異様な記憶力です。まあ、本書を書くために、元少女をイタリアレストランに連れて行って話を聴いているわけですから、テープレコーダーぐらいは持っていったことでしょう。少女を追って、ファッションマッサージにまで入店して、少女に話だけ聞いて、何もしない彼を、あまり格好良いとは思いませんでしたが…。

 

 藤原さんは「あとがきにかえて」の中で、最近の事件について、感想めいたことを書いています。

 「昨今家族の事件が起こると、いち早く槍玉に挙げられるのが母親という存在である。…父親の存在感が家庭内で薄まるにつれ、母は父母の役割を担う全能な存在でなければならなくなった」

 

 藤原さんの造語である「母性禍」が、子供たちにとって、目に見えない抑圧として働き、抑止力がきかない子供たちに衝動的な犯罪に走らせていることを喝破しているのです。

 

 カタルシスがないので、溜息しか出ません。