高野山の修旅=如是我聞(上)ー経済的基盤

一生に一度は、死ぬ前に必ず訪れてみたい地が高野山でした。空海(774~835年)が弘仁8年(817年)に開いた総本山です。(その前年の816年に嵯峨天皇より高野の地を賜った)

 今回は偏見を持ちたくなかったので、なるべく予備知識を得ないで、白紙の状態で行ってみることにしました。高野山は秘境なので、個人で行くには手間と時間が掛かってしまうので、某旅行会社のパックツアーに単独で潜り込むことにしました。(個人ではなかなか行けない所に特別に?連れて行ってもらったので、これは正解でした)

 事前に勉強しなかったとはいえ、俗世間に染まってウン十年、俗説やら伝説やらフェイクニュースなどが頭に詰まってますから、なかなか素直になれません(苦笑)。それに、私自身は、初詣に行って、クリスマス・ケーキを食べ、葬式は仏式という典型的な現代日本人で、真言宗の信徒ではありません。真言宗は、密教(秘密仏教)ですから、他宗派の人間からは伺い知れないことばかりで、どうも、護摩焚きにしろ、空海上人が手に持つ三鈷杵など武器のように見えて、どんな用途があるのか知らず、何か恐ろしそうです。

 特に、真言宗でよく使われる梵字が「よく読めない!!」(笑)

丹生都比売神社

でも、今回は目から鱗が出る話ばかり見聞することができました。

 意外にも、真言宗は、どんな宗派に対しても寛大で、例えば、戦国武将らの墓や供養塔がずらりと並んでいる「奥の院」は、信徒でなくて、他宗派でも、そしてキリスト教徒でも敷地を買うことができるのだそうです。(座布団大の大きさで70万円、最低その4倍の面積が販売可能だとか)

 また、「南無大師遍照金剛(なむだいし へんじょう こんごう)」と唱えるだけで、他宗派の人間でも、空海弘法大師さまのご慈悲に縋りつくことができ、苦難から救いの道に導いてくれるというのです。

 有難い話です。

 ということで、今まで書いてきたことも、これから書くことも、参加したツアーの添乗員さんやガイドさんや講話などをしてくださった高野山の僧侶らから聞いた話をまとめたものです。まさしく如是我聞です。

 聞いただけの話ですから、漢字が分からなかったり、年代があやふやだったり、矛盾したりして、また色々調べ直したりしなければなりませんでしたから、相当時間も掛かりました。(例えば、年齢も満年齢にしたりしました。)用語統一のために、文献は主に、お寺のパンフと現地で買った「高野山ガイドブック」(ウイング出版部、540円)を参考にしました。

 このブログの中で、固有名詞や数字の明らかな間違い等がありましたら、ご遠慮なく、コメントして頂ければ幸甚です。すぐ訂正します(笑)。ただし、聞いた話も諸説ある中の一説かもしれませんし、私が聞き間違ったか、史実として正しくない話かもしれないこともお断りしておきます。いや、そんな大した話は書けませんけどね(笑)。

丹生都比売神社

 ツアーは7月11日(木)から13日(土)までの2泊3日でした。お蔭様で、3日間で高野山を満喫することができました。ギリギリ、オフシーズンだったせいか、人も閑散としていて、さすがに聖地ですから、斎戒沐浴と森林浴で心が洗われました。本当に、娑婆世界の周囲の白眼視を乗り越え、振り切って、思い切って行ってよかったでした。

 高野山は、平成16年(2004年)、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されました。また、平成27年(2015年)には高野山開創1200年を迎えました。(本来なら開創1200年は、2017年だと思いますが)

 初日の11日(木)、最初に訪れたのが、その世界文化遺産にも登録されている高野山の麓にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)でした。正直、事前勉強をしていなかったので、この神社のことは知りませんでした。ですから、何で、この神社を最初に参拝するのか意味が分かりませんでした。

 しかし、それは、とんでもない浅はかで、高野山、そして空海にとって、なくてはならないとても重要な神社だったのでした。

 その理由は、勿体ぶってますが、最後に書きます(笑)。丹生都比売のことは覚えておいてください。

大門

 高野山は標高約900メートル。ですから、下界よりも気温が2~3度低い感じでした。夏でも涼しい。冬は雪も降り、猛烈に寒いらしいですね。

 高野山は東西6キロ、南北3キロの広さに現在117の寺がある寺町です。このうち、52寺が宿坊といって民宿のような宿泊所になっています。

 江戸時代は、1000以上の寺があったそうです。寺の庇護者は各藩の大名です。明治になって、大名が没落し、廃仏毀釈などもあり、寺は10分の1ぐらいに減少したのでしょう。そして、庇護者がいなくなった後は、寺は宿坊として「経営」を支えざるを得なくなったと思われます。

 大門は、高野山の西の入り口で、昔は「女人禁制」でしたから、この門から先は女性は入れなかったわけです。

 大門の左右に設置されている金剛力士像は、奈良の東大寺に次ぎ、日本では2番目の大きさだそうです。

 驚くことに、この大門は、日本古来の建築方式で、礎石の上に柱が乗っているだけだとか。湿気を防ぐためらしいです。乗っているだけなので、強風が吹くと数ミリ程度、動くそうです。

 大門を背にして麓を眺めると、運良く、遠くに淡路島が見えました。

 高野山は和歌山県ですが、淡路島が見えるとは本当に驚きです。

 二晩お世話になった宿坊「天徳院」の隣は、高野山大学でした。真言宗の僧侶になるには、この大学が最高峰ということになるのでしょう。

天徳院

 宿坊「天徳院」の入り口の門です。立派です。注連縄がありますよね。これは、実はとても珍しいことなのです。寺院なのに、神社みたいな注連縄はおかしい、という意味ではありません。

 高野山が創建された弘仁8年(817年)の頃は、仏教が伝来(538年)して300年近く経過し、寺院と神社との融合、つまり「神仏習合」は当たり前だったのです。寺院に注連縄があることは珍しくありません。これは、明治の廃仏毀釈まで続きました。

 それでも、高野山は、ある事情で注連縄が珍しく、それに代わるものが考案されたということです。その具体的なお話は後の回に致します。

天徳院 庭園

 天徳院は、元和8年(1622年)に加賀前田藩三代目当主利常の夫人天徳院の菩提のために創建されました。

 天徳院は、二代将軍徳川秀忠の次女で、外様大名だった前田家が、徳川家との縁戚を結ぶために、3歳で嫁として迎えましたが、わずか24年で生涯を閉じました。天徳とは、「徳川を天として崇める」という意味が込められている、と若い当代住職が教えてくれました。

 庭園は、かの有名な小堀遠州の作庭だということで、立派なものでした。天徳院は、最大110人が宿泊できる広大な宿坊ですが、我々が泊まった時は、ツアーに一人で参加した昔若かった男女5人(他のツアー複数参加者25人の宿坊は「福智院」)と、どこかの夫婦(1泊)だけでしてから、それはそれは広々としてました。

 こんな素敵な庭が目の前で眺められて、「VIP待遇」と喜んでいたところ、この庭の池に主のように何百年も棲みつく、石川五右衛門も吃驚するような大きな蝦蟇が、一晩中、「ゲー、ゲー、ゲー、ゲー」と、どでかい声で鳴き通すので、夜はあまり眠れませんでした。

初日から、高野山のどこかの寺院の住職さん、稲葉さんと仰ってましたが、彼の案内による「壇上伽藍ナイトツアー」が催されました。夜7時前出発でしたが、御覧の通り、まだ明るいのです。

 高野山の総本山金剛峯寺の通路には、桶が並んでいますが、翌日行われる「内談義」に備えているそうでした。昔は、この桶は、馬用の盥だったようです。あと、高野山は、何度も何度も、火災(落雷によるものと、蝋燭の不始末など)に遭ったため、防火水槽ようとしても使われたようです。

 金剛峯寺については、二日目に再度取り上げます。

 いよいよ、伽藍に到着です。空海が「曼陀羅」を具象的に配置したと言われ、高野山の修行道場の中心地です。えっ?金剛峯寺が総本山の中心じゃなかった?はい、金剛峯寺は、高野山全体の寺院の総合寺務所であり、真言宗の宗務所でもあるのです。詳細は、2日目の話に書きます。

 上の写真の手前が東塔、遠くに見える朱色の塔が、今や高野山のシンボルになっている根本大塔(こんぽんだいとう)です。

 根本大塔については、三日目のお話の時に、また書きますが、内部は金剛界曼荼羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手を輪のようにする胎蔵界大日如来です。

 上の写真の右が朱色の根本大塔、左が「金堂(こんどう)」です。空海が伽藍の造営に当たり、最初に建立したもので、当初は「講堂」と呼ばれていました。

 しばしば火災に遭い、現在の建物は、昭和7年(1932年)の再建。

金堂の近くにあるのが、御影堂(みえどう)です。空海の弟子真如親王 (高岳親王=平城天皇第三皇子、薬子の変で廃太子となり出家) の筆と言われる「大師御影」が奉安されていることから、最も重要なお堂で、高野山の寺院の住職による輪番で、ここでは1年365日欠かさず、お経が挙げられています。

 隣の金堂が火災に遭った際、火の粉が飛んで延焼を防ぐために、当時は柱などに味噌を塗ったそうです。

現在は、周囲に水を張り巡らせ、周囲の地中に消火ホースまで用意されています。それだけ重要だということです。

西塔

 上の「西塔」は、「根本大塔」と対をなすものです。根本大塔の内部が、金剛界曼荼羅を表すなら、この西塔の内部は、胎蔵曼陀羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手は印を結んだ金剛界大日如来です。

 不思議です。案内役の稲葉さんは、「逆ですね」と仰ってましたが、その理由は明確ではないのか、説明されませんでした。

御社(山王院本殿)

 「御社」と書いて「みやしろ」と読みます。

 ここで、初日にしていきなりハイライトというか、大団円というべきか、私が日頃から疑問に思っていたことを解決してくれるお話を、案内役の稲葉僧侶が教授してくれました。

 それは経済的基盤です。空海は大学を中退して厳しい修行を経て、20歳で出家します。その後、延暦23年(804年)、唐の国に私費留学します。この時、同時に国費留学したのが、後に天台宗を伝える最澄でした。

 当時30歳だった空海はまだ無名の若者でしたが、唐の都長安では、密教の権威だった恵果和尚(けいか・かしょう)に師事し、1000人に及ぶ弟子の中で空海の成績は首席という稀にみる天賦の才能を認められて、20年の留学期間をわずか2年で終えて帰国します。帰りには、写経した膨大な量の経典や、数珠や三鈷杵など多量の仏具などを日本に持って帰ります。

 でも、単なる私費留学生だった無名の若者に、そんな経典や仏具を買う財力があったのでしょうか? 

その答えを解明してくれるのは、この御社(みやしろ)です。空海が伽藍開創に当たり、最初に鎮守神社として建立したものです。

 ここには、丹生都比売(にうつひめ)と高野明神が祀られています。丹生都比売は、このブログの前半に出てきた丹生都比売神社の祭神でした。一説には天照大御神の妹といわれています。

 問題は、高野明神です。案内役の稲葉僧侶によると、最近の研究成果によると、この高野明神のことが分かり、本名が丹生(にう)という金属精製技術を持った中国からの渡来人だったというのです。

 そして、どうやら、今ある丹生都比売神社辺りで金が採掘できたらしく、丹生氏は、空海のパトロンになって、空海が唐に私費留学する際に、そこで採れた金塊を与えたのではないか、というのです。

 これで、空海の経済的基盤が分かりました。以前、寺社仏閣研究家の松長氏から、高野山にしろ、身延山にしろ、宗教家が、人里離れた山奥に総本山を建立するのは、そこは金山だったり、銀山だったり、何らかの鉱物資源があることを霊力で見抜いていたからではないか、という説を唱えていましたが、見事、合致したわけです。

 伝説では、空海が高野山を発見したのは、白と黒の二匹の紀州犬に導かれて到達したとか、長安から投げた三鈷杵が、高野山の伽藍の松(後に「三鈷の松」と呼ばれ現存)に引っ掛かったから、といったものがありますが、実際は、全国を渡り歩いているうちに有力なパトロンである丹生氏に会うことができたから、というのが、史実として有力だと思われます。