孔子を心もとない人物として描く「老子・列子」を読む

高野山 親王院 

中国古典シリーズ「中国の思想」の中の「老子・列子」(徳間書店)を読んでいます。

「老子」は老聃(ろうたん)の説を記した書物ですが、この老聃という人物については不明なことが多いようです。楚の国の出身で、本名は李耳、字は伯陽、おくり名が聃。周の守蔵室の役人を務め、道と徳の説を5000余言の文章に残して、周の国を去り、その最期は誰にも分らず、160歳まで生きたとも200歳まで生きたとも言われています。(司馬遷「史記」)

 老聃は孔子に教えを授けたことでも有名であることから、道家が儒家に対して優越性を示すために、老子とは、「荘子」を書いた荘周による創作人物ではないかという説もあるそうです。

 後から弟子たちが付け足したという説もありますが、色々差し引いても、後世の人間としては学ぶべきことが多いのは確かです。

 老子の思想を一言で言えば、物事に対して、意気込むことなく「無為自然」に任せよ、ということになるでしょう。これは、隠遁者的思想ではなく、常に内省し、冷徹な批判精神を持てということです。

 ざっと読んでみますと、人の道や道徳を説く言葉が多く、ほとんどエピソードがなく、どちらかと言えば堅苦しい書物でした。驚いたことには、日本では神様のように崇められている孔子を、学に秀でているわけでもなく、心もとない人物として描いていることでした。(「列子」にも「物を知らない孔子」の話がある)

 文化大革命の際に、「批林批孔」のスローガンがあったように、中国では儒教や孔子が日本ほど(例えば、渋沢栄一のように)神格化されていないのではないかと思いました。

 解説によると、老子の孫弟子に当たると言われる列子は、文化大革命を発動した毛沢東が大変評価した思想家らしいので、それで、毛沢東が孔子を批判する理由が少し分かった気がしました。

 「列子」は「老子」と比べて堅苦しいところはなく、逸話が満載されて読みやすいです。「杞憂」の語源になった話もこの「列子」に出てきます。