藩は公称にあらず、改易逃れの支藩づくり、信濃町の由来=「江戸五百藩」の実態を知る

この「江戸五百藩」(中央公論新社)は、驚くべきほど情報と知識が満載されていて、非常に勉強になりました。

 特に私自身が不明を恥じたことは、江戸時代、藩は国と呼ばれていて、藩が公称として使われ始めたのは、明治時代に入ってからだということでした。明治元年(1868年)、明治新政府が旧幕僚に府と県を置き、旧大名領を藩と呼んだといいます。ですから、作家浅田次郎氏によると、例えば、南部盛岡藩ではなく、盛岡南部家とするのが正解なんだそうです。(それでも、この本では通説通り、藩とか藩主とかいう名称を使ってますが)

 色んな史実や逸話がこの本には書かれていますので、何かに絞って書かなければなりませんが、筆の赴くまま進めていきたいと思います(笑)。

 そうですね。現代人は幕末史に関心が深いので、幕末の話から始めましょう。幕末の改革派の有力大名として、例えば、宇和島藩の伊達宗城とか福井藩の松平春嶽らが出てきます。宇和島は愛媛県なのに、何で、仙台の伊達家がお殿さまなんだろう?北陸の福井が、何で徳川親藩で、松平家のお殿さまなんだろう?と私なんか疑問に思ったものでした。それは、藩の成り立ちを見ればすぐ分かるのです。

 宇和島藩は、仙台の伊達政宗が大坂冬の陣で功を上げ、その庶子秀宗が、藤堂高虎が築いた宇和島城に入城して立藩し、途中で廃藩になるものの、幕末まで伊達家が続いたわけです。

 福井藩は、徳川家康の次男結城秀康が立藩し、二代目忠直から松平姓に改め、越前松平家が幕末まで藩主を務めるわけです。江戸時代は、後嗣(嫡男)がいないと、藩はすぐ改易(お取りつぶし)になるため、有力藩はその対策として分藩や支藩をつくるようになります。特に、福井藩はその数が多かったといいます。途中で代わったりしますが、松江藩(松江城は国宝ですね)、岡山の津山藩(幕末に箕作阮甫、津田真道ら一流学者を輩出)、新潟の糸魚川藩と高田藩、兵庫の明石藩などがあります。随分、広い範囲に渡るので驚くほどです。他に香川の高松藩は御三家水戸藩の分家、井伊彦根藩の支藩として新潟県長岡市の与板藩などがあります。

 こうして、有力大名の子息の後嗣がいなくなった藩に「派遣」されることが多くありましたが、最も有名なのは、「高須四兄弟」でしょう。美濃(岐阜県)の高須藩は、御三家尾張藩の支藩ですから親藩です。幕末の十代松平義建(よしたつ)の四人の息子が、一橋徳川家、尾張藩、桑名藩、会津藩の当主になります。この中で最も有名な人は会津藩主の松平容保(かたもり=幕末に京都守護職を任じられ、新選組を指揮下に)でしょう。この時、岐阜県から福島県へ大勢のお伴を連れて引っ越ししたと考えがちですが、実際は江戸の高須藩邸から会津藩邸に移っただけの話だったといいます(大石学東京学芸大学名誉教授)。

 幕末の動乱で、何故、御三家の尾張藩や、徳川四天王の一人井伊直政直系の彦根藩が早々と佐幕派から脱退して討幕派に傾いたのか不思議でしたが、尾張藩の場合、八代将軍の跡目争いで「格下」と思っていた紀州藩の吉宗に取られてしまったという江戸中央政府に対する「怨念」があったようですね。彦根藩の場合、安政の大獄を断行した井伊直弼のお蔭で、藩士が処刑されたり、京都守護職を罷免されたり、減封までされたため、幕府を見限ったのでしょう。

 江戸幕府は、「元和偃武」以降、天下太平の平和な時代が260年間続いたように思われがちですが、どこの藩でも財政は逼迫し、後嗣を巡ってお家騒動が何度も勃発したり、百姓一揆が頻発したり、権力争いで改易された藩も多くあります。その中で、以前、栗原先生のお導きで行った宇都宮城にまつわる城主本多正純の改易・流罪の話を取り上げます。本多正純は、もともと豊臣秀吉の重臣だった福島正則を密略によって改易させ、その功で小山藩3万3000石から宇都宮藩15万5000石に出世します。しかし、正純は元和8年(1622年)、宇都宮城で釣り天井を落として二代将軍秀忠を殺害しようとした罪で改易され、出羽横手に配流され不遇のうちに亡くなりました。

 この事件の背後に、前の宇都宮藩主・奥平忠昌の祖母加納殿がいました。彼女は、家康の娘で秀忠の異母姉に当たり、その娘は大久保忠隣(ただちか=有名な大久保彦左衛門の甥)の子・忠常に嫁いでいました。大久保忠隣は、三河以来の家康の重臣でしたが、同じライバルの本多正信の密訴により、小田原藩主の座を改易されていたのです。本多正信の嫡男が正純で、大久保家と本多家との間で確執があったと言われています。加納殿は、正純を陥れることで、大久保家の復讐を遂げたということになります。

 もっと書きたいことがありますが、後は一つだけ(笑)。いずれの藩も、江戸には上屋敷、中屋敷、下屋敷があると思っていましたが、家康と秀忠の時代は、屋敷は一つしかなかった、ということをこの本で知りました。これら屋敷跡は、紀尾井町(紀伊、尾張、井伊)など今でも地名になっていますが、知らなかったのは、新宿区の信濃町でした。これは、山城国淀藩の藩主永井信濃守尚政の下屋敷があったからなんだそうですね。もともと信濃殿町と言われていたようです。信州信濃とは関係なかったとは…色々と勉強になりました。(ちなみに、私が以前読んだ本によると、大岡越前守とか永井信濃守といった名称は、領地に関係なく、江戸城がある武蔵守以外なら大体、その石高次第で幕府に認められたようです。勿論、賄賂もからんでるでしょうが)