🎥「キネマの神様」は★★★★★

 菅義偉首相は今月末でお辞めになるようですね。昨日、急に爆弾発言されて周囲を驚かせました。小生も、このブログの8月10日付で退陣勧告したせいなのかしら?ーんなわけないですね(笑)。…でも、「新型コロナ感染防止に専念するため」という理由で自民党総裁選に出馬しない、という弁明もおかしなものです。コロナ対策は、首相という職掌があればこそ出来る専権事項なんですから。やはり、総裁選の前に衆議院を解散することなく人事改革(二階幹事長更迭)するなどの奇策が奏功せず、結局、自分の放った手裏剣がブーメランのように自分に返ってきて自滅したということなのでしょう。

 さて、当初は観るつもりがなかった山田洋次監督作品「キネマの神様」を観て来ました。8月6日に封切で、もう公開1カ月近く経ち、自宅近くの映画館の上映時間が遅すぎたりしたので、川口市にまで行って観てきました。この映画館は久しぶりで、案内では「JR川口駅から歩8分」と書かれていましたが、大型モールの3階にあり、道にも迷ったので、15分以上掛かりました。

 何で観る気になったのかといいますと、ウマズイめんくい村の赤羽村長が、この映画を随分褒めていたからでした。「切ないがいい余韻が残る」と…。そういうもんですかねえ?

 最初、私が観る気がしなかったのは、山田洋次監督の助監督時代の話で、映画黄金時代の懐古趣味みたいなものだと誤解していたからでした。それに、新型コロナで亡くなった志村けんの代役が沢田研二というのはどう考えても変。かつて同じ芸能プロダクションだったナベプロが裏で動いていたのかなあと詮索したくなったからでした。(素人さんには関係ない話=笑)

 で、結論を先に言いますと、やられました。矛盾だらけで、作り物だということは十分承知しておきながら、涙腺が弱いもので、涙が出てきてしょうがありませんでした。

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 最初は何ともなかったのに、舞台になった撮影所近くの食堂「ふな喜」で働く若き日のヒロイン淑子(永野芽郁)の母親(和服姿で縁なし眼鏡)が出てきた時、「あれっ?」と胸を締め付けられてしまったのです。演じていた女優は広岡由里子ですが、どう見ても松竹映画の小津安二郎監督がよく使っていた杉村春子(1906~97年)にそっくり。もしくは、松竹・蒲田撮影所の大看板女優だった栗島すみ子(1902~87年)に雰囲気が似ていたからでした。

 杉村春子は「文学座」の大御所看板女優ながら、映画にも多く出演し、小津監督の代表作「東京物語」「晩春」「麦秋」などに出ており、私の好きな成瀬巳喜男監督の「流れる」にも出ています。栗島すみ子は、往年の大女優で1937年には既に引退しましたが、成瀬監督の説得で、杉村春子も出演した「流れる」(1956年)に出演し、19年ぶりにスクリーンに復活した女優でした。私はこの「流れる」が脳裏にあったので、ヒロイン淑子の母親が登場した時に、杉村春子か栗島すみ子ではないかと思ったわけです。

 これは、恐らく山田監督の演出ではないかと思われます。「キネマの神様」に登場する銀幕女優桂園子(北川景子)は、どう見ても原節子を思わせます。また、具体的には登場しませんが、「小田監督」というのは「小津監督」がモデルなのでしょう。この映画は、松竹キネマ合名社の設立と蒲田撮影所が開所した1920年から100年ということで、「松竹映画100周年記念作品」を銘打っておりますから、明らかに、過去の監督や俳優たちへのオマージュとして捧げられた映画だったことが分かります。

 それを思うと、荒唐無稽なストーリーはともかく(原作者の原田マハさん、すみません)、過去と現代を行き来するこの映画を観ながら、これまでの映画人たちの「活動写真」に命を懸けた情熱が伝わり、涙が止まらなくなってしまったのです。

 志村けんの代役を務めた沢田研二(73)は、見事に「ダメ親父」を演じきったと思います。昔のアイドルですから、本来なら躊躇するはずですが、志村けんの「東村山音頭」まで唄うぐらい徹底していました。

 赤羽村長さんじゃありませんが、切ないですが、心地良い余韻が残る映画でした。

9月2日は「敗戦記念日」

 今日、9月2日が何の日なのか? すぐに答えられる人はそれほど多くないと思います。学校であまり教えませんからね。

 「敗戦記念日」、もしくは「降伏記念日」なのです。

降伏調印書 日本全権代表の重光葵と梅津美治郎の連合国軍のマッカーサーらの署名が見られる(複製=江戸東京博物館)

 1945年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦「ミズーリ」号の甲板で、日本と連合国との間で降伏調印式が行われたのです。日本国代表は重光葵(しげみつ・まもる)外相、日本軍代表は梅津美治郎参謀総長。連合国代表は勿論、米国のダクラス・マッカーサー元帥です。

 8月15日を「終戦記念日」と呼ぶのは欺瞞ではないか? 「敗戦記念日」と呼ぶべきではないか、と言う人もおりますが、私は、8月15日はポツダム宣言を受諾した日で、戦争が終わった日でもあるので、終戦記念日で良いと思います。

 その代わり、9月2日は、正式に降伏調印した日であり、国際法上でも「敗戦記念日」となります。しかし、国際的に見ても、世界史的に見ても、何処の国が自国の敗戦を「記念日」なんかにするものでしょうか。しかしながら、せめて、「敗戦の日」か「降伏の日」として末代に伝える義務があると思います。

日本の降伏を伝える「サン・ガゼット」紙(江戸東京博物館)

 この降伏調印式の場面は、NHKの「映像の世紀」などでよく取り上げられたので、私も現場に立ち合ったような感覚になれました。外相の重光葵(58)は、甲板のデッキに上る際、杖をつきながら、コツコツと義足で歩く音が響いていました。重光外相は、その13年前の昭和7年、駐華公使として上海市内の公園で天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀式に参列した際、朝鮮の独立運動家に爆弾を投げつけられ、右脚切断の重傷を負ったのでした。その後、重光は公式の場では、重さ10キロの義足を付けていたといわれます。

 私は、もう30年以上も昔ですが、仕事で大分県の杵築というところに行ったことがあります。古い城下町で、いまだに江戸時代の雰囲気を色濃く残している街でした。そこに、どういうわけか、古い民家が一般公開されていて、屋内では重光葵の写真が飾られていました。ーそこは重光葵の実家で、幼少年期を過ごした所でした。重光の父直愿(なおまさ)は、豊後杵築藩(譜代、松平家、3万5000石)の藩士でした。その次男として明治20年に生まれた葵は、旧制杵築中学から五高(熊本)、東京帝大と進み、外交官となります。戦後はA級戦犯となり、東京裁判では禁錮7年の判決を受けますが、2年で仮釈放となり政界に復帰。鳩山一郎内閣の外相として、国連加盟や日ソ国交回復に向けて尽力します。

◇マッカーサー暗殺計画

 さて、降伏調印式が行われた戦艦ミズーリ号の甲板上は、幹部クラスが整列して並んでいましたが、砲台の上の方では若い水兵たちが高みの見物するような感じで、中には薄らと笑顔を浮かべて眺めていた姿には驚かされました。敗者と勝者のえらい違いです。

 実際、この日(1945年9月2日)から、サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日までの約7年間、GHQという名の実質上は米軍による日本占領が始まるわけです。

 (今、斎藤充功著「中野学校全史」(論創社)を読んでいますが、戦後すぐに、中野学校出身の残党組がマッカーサー暗殺計画を立案していたことが書かれていました。表にも裏でも出ない史実で、口が重い中野学校出身者から根気よく取材して証言を得たもので、著者の努力には頭が下がります。)

 電車の中でスマホゲームに熱中している若い人や中年の人でも、日本がかつて占領されていた歴史的事実をあまりにも知らな過ぎるので、今日は敢えて書きました。

アフガニスタンに取り残された残留邦人のことを思う

 ここ1カ月近く、タリバン政権が復活し、自爆テロなど「大混乱」という報道が相次いでいたアフガニスタンから、米軍が8月末に完全撤収しました。

 1975年4月のベトナム戦争終結の際、南ベトナムのサイゴン(現ホーチミン)の米大使館から慌てふためいてヘリコプターで「逃走」する大使館員らの映像が思い起こされます。(今や、1975年生まれの大学教授の皆様が第一線で活躍されている時代ですから、このシーンを脳裏に刻んでいる方は少ないと思いますが…。)

 このベトナムとアフガニスタンに共通することは、あの世界の超大国である米国が負けたという事実です。日本のメディアで、はっきりと「敗北」と、かっこ付きながら見出しに掲げて書いたのは、日本経済新聞だけでした。他の新聞を読んでも、「撤収した」だの「撤退した」だの「幕引き」だのと書かれているだけで、さっぱり意味が分かりません。

 経済紙である日経は、ベトナム戦争とアフガン戦争を比較して表にしてくれています。ベトナム(1965~75年)では、10年間で約100兆円の戦費を投じ、米兵だけで約5万8000人の戦死者。この他、軍民合わせて約335万人の犠牲者。アフガン(2001~21年)は、20年間で250兆円の戦費で、米兵の死者数は2500人。この他、約16万5000人と多大な犠牲者を生みました。

長期間、オリパラのボランティアを務めた実兄が、抽選でこのスイス製の腕時計が当選したとか。10年後に「何でも鑑定団」に出したら、幾らになるかなあ~(笑)。

 私は知らなかったのですが、アフガニスタンは「帝国の墓場」と呼ばれているそうですね。まず、大英帝国が19世紀から20世紀初めにかけて、3次にわたるアフガン戦争を仕掛けて、逆に敗北(と書く歴史家は少ないようですが)。名探偵シャーロック・ホームズが初対面のワトソン医師に対して、アフガン戦争の帰還者だね、と見抜く場面がありましたが、原作者のコナン・ドイル(1859~1930年)が、敏感にジャーナリスティックな題材を取り入れていたわけです。

 1979年にはソ連によるアフガニスタン侵攻(~1989年)がありました。お蔭で、翌80年のモスクワ五輪は、日本を含む西側諸国によるボイコットがありました。結局、泥沼化して、ソ連の戦死者は1万5000人を出して撤退しました。(撤退ではなく、敗北?)

 そして、今回の米国というわけで、欧米列強の3連敗ということになりますか。

銀座「魚金」マグロ寿司ランチ1000円

 それにしても、アフガニスタンからの退避を希望している日本人や協力者のアフガン人を救出するために、日本政府は8月26日になってやっと、自衛隊の輸送機を派遣しましたが、27日に救出できたのが、わずか日本人1人(共同通信の通信員)だけだったというのは、どうも解せませんね。

 首都カブールが大混乱し、帰国したくても、空港にまでたどり着けない人が多かったようです。特に、アフガン人はタリバン政権によって足止めされましたが、日本人の場合、8月15日に早々とカブールの在アフガニスタン日本大使館が閉鎖されたことが致命傷になりました。外務省はHPで「トルコのイスタンブールに臨時事務所を設置して当座の業務を継続しています」と誇らしげに宣言していますが、現地でビザを獲得できなかった多くの残留邦人も多かったことでしょう。(空港で日本の大使館員が待機していたという未確認情報もありますが)英国やフランスの大使が自国民の最後の一人のビザを発給するまで、カブールに居残っていたのとはえらい違いです。

 日本の伝統なのか悪弊なのか、どうも、先の大戦での満洲や朝鮮半島などでの「棄民」を思い起こさせます。