今年の12月8日は、昭和16年(1941年)の「真珠湾攻撃」から80年ということで、新聞、テレビ等では大きく特集記事が組まれたり、特集番組が放送されました。私も、結構、見たり読んだりしました。
この中で、特に印象に残ったことは、「特殊潜航艇」と呼ばれる小型潜水艦で真珠湾攻撃に参加して戦死した9人が「軍神・特攻隊九将士」として崇められて大きく報道された一方、一人だけ生き残った戦士がいて、その人は長らく記録から抹殺されていた史実でした。この人は、酒巻和男・元海軍少尉(1918~99)で、日本人捕虜第一号でもありました。(今年、愛媛県佐多岬半島に彼ら10人の慰霊碑が建てられ、酒巻さんもやっと戦友の仲間入りをすることができました)
当時は「生きて虜囚の辱を受けず」という1941年1月8日に東条英機陸相によって布達された「戦陣訓」によって、軍人は敵の捕虜になってはいけなく、死を強要していました。捕虜になれば、本人だけではなく、家族にも被害が及ぶ危険があったため、酒巻さんも自決を望みましたが、日露戦争で捕虜になった経験を持つハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師から説得され、逆に後から収容されてきた日本人捕虜に対して、生き抜くことを説得するようになります。
戦後に帰国した酒巻さんは、その後、トヨタ自動車に入社し、ブラジルの現地法人の社長になるまで活躍したようです。
この酒巻氏については、今年は大手紙やNHKにまで取り上げられただけでなく、既に、ウィキペディアにまで登録されていたので驚きました。
もう一つは、12月8日付の朝日新聞に出ていた「『12月8日開戦』の意味」特集の中の地理学者・歴史研究家の高嶋伸欣氏のインタビュー記事です。これまでマレー半島に赴いて100回以上も調査した高嶋氏は「日本では真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が始まったという認識が一般的ですが、それは違います。海軍の真珠湾攻撃よりも1時間5分早く、陸軍がマレー半島の英領コタバルに上陸し、英軍と戦っています」と力説しています。
はい、そのことは、勉強家の?私も存じ上げておりました。
しかし、高嶋氏の「日本軍はコタバルより少し北にあるマレー半島東岸のタイのシンゴラにも上陸しています。しかし、その前年に日本はタイの中立尊重を保障した日タイ友好和親条約を締結しています。にもかかわらず、一方的に独立国のタイに奇襲上陸したのです」と発言しています。
これは不勉強の私は、全く知りませんでした。恥じ入るばかりです。調べてみたら、確かに、1年前の1940年6月12日に外相官邸で有田八郎外相とセナ・タイ国在京公使との間で 日タイ友好和親条約 が締結されています。
そして、高嶋氏は「ソ連軍の旧満洲への侵攻は日ソ中立条約違反だと言われますが、日本はそれと同じことをタイに行っているのです」と続けるのです。
確かに、これまで我々日本人は、ヤルタ密約で一方的に条約を破棄して満洲(中国東北部)に侵攻した極悪非道のソ連スターリン政権を批判続けてきましたが、日本も同じアジア民族に対して酷いことをやったことを認めざるを得ません。自虐史観批判者や歴史修正主義者たちが何を言っても、です。