🎬「フレンチ・ディスパッチ  ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」は★★

 今、巷で話題になっているウェス・アンダーソン監督作品「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」を、コロナ禍の中、観に行ってきましたが、正直、つまらなかったなあ…。

 オミクロンの感染拡大のせいなのか、真冬だというのに、映画館内は冷房が効いていて(まさか!)、脚が寒くて寒くてしょうがなく、映画もつまらないので、映画の世界に集中できず、珍しく途中退場しようかと思ったぐらいです。

 同監督のアカデミー賞4部門受賞作「グランド・ブダペスト・ホテル」(主演レイフ・ファインズ、2014年)は大変面白かったんですけどねえ。今回は、ちょっと、観念的過ぎたといいますか、突拍子もないといいますか、破天荒な映画でした。「これこそが芸術だ」と言いたい人もいるでしょうが、もし、これが「偉大なる芸術」だとしたら、国会議員でもないのに、辞めます、と私は国会で宣言しますよ。

 それでも、「ゴーストバスターズ」などのベテランのビル・マーレイ、「スリー・ビルボード」「ノマドランド」などでアカデミー主演女優のフランシス・マクドーマンド、「戦場のピアニスト」のエイドリアン・ブロディ、「トラフィック」のベニチオ・デル・トロ、そしてボンドガールのレア・セドゥら、超が付く大物俳優が出演しています。

銀座・とんかつ「不二」ミックス定食600円(20分以上待たされましたけど)

 フランス・パリ郊外の架空の街にある米国の雑誌「フレンチ・ディスパッチ」の編集記者たちの活躍を描いた作品で、アート、ファッション、若者文化、グルメなどテーマごとに話が全く違う3本のオムニバス形式になっていたことが後になって分かりました(苦笑)。映画なのに、演劇的手法で撮影されています。登場人物全員が固まったように静止し、それが、回転舞台のようにして場面が変わっていくという手法です。実に奇を衒っています。

 アクションペインティングや、1968年の学生たちのパリ蜂起などがモデルになっているようで、車からファッション、食事に至るまで60年代カルチャーを忠実に再現している感じです。アンダーソン監督は1969年生まれなので、ビートルズの現役時代も知らないはずなのに、60年代が好きなのでしょう。時折、カラーを白黒に変換したりして映像芸術の極致を目指している感じがします。

 第1話の「確固たる名作」では、ボンドガールのレア・セドゥが惜しげもなく見事な裸体を披露しています。でも、何か彫刻のようで、猥褻観も卑猥観もないのですが、必然性がないといいますか、不自然で違和感ばかり募りました。「看守役なのだから、別に脱ぐ必要もないのに」「監督に強制されたのかな?」「随分、安売りしてしまったなあ」「昔の大女優だったら考えられないのになあ…」と同情してしまったほどです。

 ※これは、あくまでも有料で観た個人の感想です(笑)。

「闘う講談師二代目松林伯円」と「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所」=インテリジェンス研究所主催第8回特別研究会

1月29日(土)は、第8回特別研究会(インテリジェンス研究所主催)をオンラインで聴講しました。ZOOMのオンラインなので、なるべく目立たないように、自画像はオフにして、音声はミュートにし、息もせず、瞬きもせず、伊賀の忍者か隠れキリシタンのように自分を消していたつもりでしたが、ある方から、(名前は口が裂けても言えませんが)、「本日の講演はいかがでしたか?」と聞かれてしまい、「ありゃま、こりゃ逃げられないわいなあ」と観念したわけです。

 観念した、というのは、正直、講演の内容が難しくて、もしくは、自分の認識力がついていけなかったからでした。何と言っても、講演の画面の切り替えが早かったり、講師のお話が聞きとれなかったりして、メモを取るのができなかった箇所がいくつもあったからでした。「とても、ブログにはまとめきれないなあ」と観念したわけです。

 と、クドクドと前書きを長く書いたのは、とにかく、逃げ切れないので、この特別研究会のことを書くことにしますが、本文が短くなると予想されるので、行数を稼ごうという魂胆があったことを告白しておきます(笑)。

 さて、報告者はお二人の特別研究員の方でした。最初は、昨年、「たたかう講談師: 二代目松林伯円の幕末・明治」(文学通信)を出版された目時美穂氏で、演題は「明治政府の国民教化政策に対する大衆芸能の対応―講談を例として」。続いて登壇されたのは、昨年「『善通寺俘虜収容所』ハンドブック : 太平洋戦争初の捕虜収容所と人々の記録」(私家版)を上梓された名倉有一氏で、演題の副題は「新資料『吉田文書』を中心として」でした。

 最初の目時氏の講演に登場した講談師二代目松林伯円という人物は、不勉強で私は全く知りませんでした。

 伯円は、明治期に、一般大衆から大物政治家に至るまで絶大なる人気を誇った講談師ということですが、私が知らないだけかもしれませんが、歴史に埋もれてしまった人物といえるでしょう。明治の講談は、木戸銭が二銭五厘(現在の250円ぐらい)と安価で庶民が気楽に楽しめる娯楽だったといいます。

 当時の講談の演題は「鼠小僧治郎吉」といった伝説物だけでなく、新聞に掲載された時事ネタや犯罪、そして自由民権運動など政治的な話までも題材にして創作されたといいます。その講談などの人気に目を付けた明治政府は、国民の道徳の涵養や天皇を中心とした国家神道を奉じる中央集権国家であることを国民に知らしめる目的で、大衆芸能を利用します。山縣有朋が伯円の大ファンで、彼に接近したといいます。

 明治政府は民権運動を弾圧するために、新聞条例や讒謗律(明治8年)、集会条例(明治13年)などを発布して監視体制を強化し、講談も少なからず影響受けたといいます。

 そのため、伯円は、講談小屋が閉鎖されたりしてはたまりませんから、山縣有朋ら大物政治家については、お客さんとして歓迎はしても、権力者側になびくことはなく、自分の考えや芸道に邁進していたのではないか、というのが目時氏の見立てでした。(伯円の政治信条は分かりませんが、と付言されましたが)

 もう一つ、今回勉強になったことは、明治政府は幕末に欧米と締結した不平等条約改正の一環として、日本を「文明国」として諸外国に認めてもらうために、新聞の普及を推進したという話です。その具体的な政策の中には、「聚覧所」と呼ばれる新聞が読める場所を設置したり、講談師に新聞を読み聞かせる「訓読会」を浅草で開催したりしたといいます。「郵便報知新聞」など当時の大新聞と呼ばれる政治色が強い新聞はインテリ向けで、漢籍の素養がある人しか読めなったからです。(現代人も、とても読めませんよ!)

 お二人目に登壇した名倉有一氏の「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所:新資料『吉田文書』を中心として」は、非常にマニアックといいますか(良い意味で)、これまで誰も成し遂げることができなかった善通寺捕虜収容所の歴史と実体をまとめた労作の話でした。

 善通寺捕虜(当時は俘虜)収容所とは、昭和17年1月14日、香川県善通寺町(現善通寺市)に太平洋戦争中に国内外を通じて初めて開設された米、英、豪州人らの捕虜収容所で、当初は355人で、終戦間近には720人いたといいます。「吉田文書」というのは、善通寺捕虜収容所に関わった陸軍の吉田茂主計中尉が残した資料のことです。

 名倉氏は、捕虜の扱いについて、日本は当初、国際法に遵守して厳格に守ってきたのですが、敗戦色が濃くなると、将校に関しては労働に従事させないという国際法を破って労働に参加させたりした実態も明らかにされていました。

 この捕虜の利用については、名倉氏は、陸軍省は主に労働力として、海軍軍令部は情報源として、情報局は、日本の立場を海外に主張するプロパガンダ(宣伝)として、陸軍参謀本部(第2部第8課恒石重嗣少佐)も、敵兵や敵国民に厭戦や反戦気分を高める宣伝として使った、などと図解で区分けされてましたが、非常に明瞭で分かりやすい説明でした。

 これらのプロパガンダは、内閣と情報局と大本営の代表が集まった「連絡協議会」で方策を決定し、実務は日本放送協会と国策通信社の同盟通信社が主に実践部隊として担ったという話でしたが、私もメディアの片隅に棲息する人間として興味があり、もっと詳しく聴きたかったでした。

 あれっ?結構長い文章になってしまいましたね。最後までお読み頂き洵に有難う御座いました。

社会保険労務士になった先輩とこれから目指す友人

 会社の「同窓会報」に目を通していたら、以前懇意にして頂いた先輩のN氏が定年後、一念発起して社会保険労務士の国家資格を取得して、現在、沖縄県那覇市で社労士事務所を開業していることを知りました。

 私は、社労士というのは全く門外漢なので、どんな仕事するのか知らなかったのですが、市民の年金相談や治療と就業との両立や顧問会社の規定見直しなどの相談に乗っているといいます。

 N氏は、もう20年近い昔ですが、私が北海道の帯広支局に赴任していた時、旭川支局長だった方で、当時、話題を呼んだ旭川動物園の小菅園長を講演会にお呼びする際に、彼に橋渡しになってもらい、お世話になったりしたのでした。

 N氏はその後、沖縄の那覇支局長にも赴任したので、そこで知り合ったと思われる不動産仲介業最大手の会長さんからの要望で那覇に事務所を開業したようです。

 社会保険労務士という国家試験はかなり難しいらしく、N氏は60歳で定年退職してから沖縄を離れて京都で受験勉強し、6回目でやっと合格したといいます。合格率7.9%といいますから、相当難関です。私は、確定申告でさえ、よく分からず、ギャアギャア騒いでいるぐらいですから、とっても無理ですね。

 そう言えば、北海道にお住まいの私の親しい友人A君も、これから社会保険労務士の試験を受けようか、どうしようかと悩んでおりました。彼も60歳定年で会社から再雇用してもらえないので、ある「信頼する人」に相談したところ、「社労士の資格を取って仕事を続けなさい」との御託宣を得たというのです。

 A君が社労士向きなのかどうか分かりませんが、何しろ、北海道に移住したのも、その「信頼する人」の御託宣で決めたといいますから、相当な入れ込みようです。

 第2の人生、社労士の試験を受けるか受けないかは彼の判断ですから、自分の信じた道を進めばそれでいいのではないか、と私は思い、そう彼には伝えておきました。どちらにせよ、陰ながら応援しています。

 「自分の信じた道を進む」というのは、実は私の筆名(ペンネーム)「信之進」のことだったのです(笑)。

「コロナ後」は、もう「コロナ以前」に戻らない?

 オミクロン株の感染拡大が止まりません。第6波の真っ最中です。

 昨日(25日)は、全国で6万2610人の感染拡大が確認され、首都東京は1万2813人といずれも過去最多を記録してしまいました。もっとも、日本の人口の3倍弱の米国では25日の1日だけで、実に100万8502人もの莫大な感染者を輩出?していますから、それに比べれば微々たるものかもしれませんが。(米国の死者は87万人近くに及び、南北戦争での死者=75万人~90万人=に匹敵してきております)

 とはいえ、私が勤務する会社の同じ階のフロアで2人も感染者が出てしまいました。でも、どうも、「コロナ慣れ」してしまったのか、大騒ぎせず、周囲は緊張感が足りないように感じています。

 会社は、第5波までは、「自宅待機」処置にするなど、「密」を避ける方策を打ち出していたのに、今回は、そんな素振りもなく、毎日、「何処そこで(社員の)感染者が出ました」と、他人事のように、事務的に、淡々と、社員に一斉メールで報告するだけです(ここ数日は、毎日です!)。

 私がよく行く、地下にある銀座のイタリア料理店でも、以前は、入店前に厳しく体温測定していたのに、本日ランチに行ったら、測ることなく「素通り」です。本当に緊張感が足りないなあ、と感じました。

東京・汐留

 さて、昨日はこのブログで「築地の電通旧本社の思い出」と題して、芥川賞作家のA氏のことを書いてしまいましたが、実は、必要に迫られて、ここ1カ月、私自身のこれまでの経歴を振り返ってみたら、色々と思い出してしまったからでした。

 30年も40年も昔のことで、時効みたいな話なので勘弁してほしいのですが、「あの頃は、今ではとても考えられないことも普通に起きていたなあ」と感じる今日この頃です(歌謡曲か!?=笑)。

 「歴史は繰り返す」とよく言われますが、40年前と今ではかなり時代が変わり、恐らく、現代人は、能動的に過去を繰り返すことはないだろうと思います。40年前の常識は、今の非常識になっていることが多い、と言えるでしょう。

 例えば、40年前でしたら、スポーツ選手は「途中で水なんか飲むな、それが常識だ」と鍛えられましたが、今では、途中で水どころか、お菓子まで食べてしまうスポーツもあります。

 何と言っても、女性の権利が少しは向上したのではないでしょうか。ウチの会社は以前から男女平等の給与でしたが、大半の企業も男女差別が少なくなったと思います。そのせいか、共働きの家庭も増え、今では専業主婦が白い目で見られたり、逆差別されたりする世の中です。

東京・汐留

 個人的な会社の仕事の話ですが、コロナ前は、霞ヶ関の官公庁や企業などが発表する資料を「バイク便」といって、オートバイを使って担当者に取りに行ってもらったものですが、コロナになってからは、官公庁も発表資料はホームページにアップするか、記者クラブ員宛メールに添付するようになりました。その結果、最近、社内ではバイク便が廃止されたというのです。(オートバイのお兄さんはどうなっちゃったのかなあ?)

 今は100年に一度のパンデミックに襲われていますから、以前の物差しでは全く通用しなくなりました。これだけは言えますが、「コロナ後」は、もう「コロナ以前」に戻ることはないでしょう。

 つまり、コロナ後も、バイク便が復活することはないでしょうし、以前のように元に戻ることはないと思います。

 仕事も遊びも、今さら、ネットがなかった時代に戻れないのと同じように。(アーミッシュのような生活をするしかありません)

 

 

築地の電通旧本社の思い出=作家A氏に呼びつけられて

 久しぶりに、築地・明石方面でランチしようと、ブラブラしていたら、築地の電通の旧本社ビルがあった一帯の4棟のビルが解体工事であることを知りました。

 電通の旧本社ビルは、建築家の丹下健三(1913~2005年)が設計を手掛け、竣工は1967年。老朽化を理由に、電通本社は、汐留に移転しましたが、その汐留のビルも、電通は、不動産大手ヒューリックなどが出資する会社に売却することを昨年、発表しておりました。(売却額は3000億円規模で、約890億円の売却益を見込んだとか)知らなかった!

 築地の旧本社ビルなど4棟のビルは、住友不動産が2014年に取得し、解体工事は大成建設によって昨春から始まっており、今夏には終了。住友不動産は計画をまだ明らかにしていませんが、大型オフィスや住居や商業施設など大規模な再開発地区になることでしょう。

築地・イタリアン料理「のら」

 丹下健三が設計したコンクリート剥き出しの旧電通本社ビルには思い出があります。1996年頃だったでしょうか。当時私は文芸担当記者でした。毎月1本は、有名作家さんにエッセイを書いてもらうことも仕事の一つでした。そのため、文芸出版のパーティーなどで作家さんを見つけると、名刺を渡して、「先生、何か書いてもらえませんでしょうか。ペラで5、6枚で構いませんから」などと立ち話をするのが常でした。

 ペラとは業界用語で、200字詰め原稿用紙のことです。

 「数打てば当たる」と名刺をばら撒いていたのですが、そのうち、電通社員ながら芥川賞を受賞したA氏から電話が掛かってきて、「電通本社に来ないか」と誘われたのです。「お、これは、エッセイでも書いてくれるんだな」と私は喜び勇んで、丹下健三設計ビルに足を運んだのでした。

 そしたら、通されたのは応接室でも何でもなく、彼の職場のデスク。彼がどこの部署だったか忘れましたが、次長クラスで、「次長なんて、石を投げれば誰にでも当たる。そこら辺にうじょうじょいるよ」と自嘲気味に話し、「何でもいいからお好きなテーマでエッセイを書いて頂けませんか」と、こちらが御願いすると、「『何でもいい』というのは一番良くない。作品を全て読み込んで、この作家には、このテーマが一番相応しい、と最初から持って来なければ駄目なんだよ」と散々、このほか、あれやこれやと30分ぐらい説教されました。

築地「のら」あさりトマトソース・スパゲッティ・ランチ 990円

 説教するぐらいだから何か書いてくれるのだろう、と期待したのですが、答えは「今は忙しいから駄目だ」の一言でお終い。一体、何のために、人を呼びつけたのか、非常に腹が立って会社に戻りました。「書く気がないなら、お前なんかより遥かに忙しい、ライバル社の3倍は働かされる、貧乏会社の記者を呼びつけるんじゃないよ!」と怒りが再燃しました。

 いや、実はその作家に対しては、長い間、腹の虫が収まりませんでした。その後、私は文芸担当を離れましたが、何年かして新しく文芸担当になった男は、文学の「ぶ」も知らないような、あまり本は読まない、世間知の低い人で、Aはその新人をうまくだまくらかして、自分が指名した銀座の高級フランス料理店での「取材の打ち合わせ」を条件に(しかも夫婦二人分)、短いエッセイを書いたのでした。

東京・中央区役所(元土佐藩中屋敷)

 その新人だった文芸記者は、5年前に若くして亡くなりました。

 著名な作家A氏も昨年、訃報に接しました。

源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞

「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集をやっと読了しました。2週間以上かかったでしょうか。でも、お蔭様で、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の御家人の名前と経歴、それに時代背景を覚えてしまいました。こんなに賢くなってどうするの?といった感じです(笑)。

 「便乗商法」というより、「便乗学法」ですね。大河ドラマがなければ、これほど北条義時に関心を持つことはなかったでしょう。1月21日付の渓流斎ブログ「承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?」でも書きましたが、北条義時は800年の武家政権の礎を築いた人であり(私の説)、日本史上では「逆賊」のイメージを払拭して、その功績をもっと見直されなければいけいないと思いました。

 そして、今は「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読んでいます。同じ鎌倉幕府を扱いながら、切り口が全く違うので、この本からも新たな知識が吹きこまれます。

 特に驚いたのは、源氏も平家も、位階はもともと六位という極めて低い下級職だったという事実です。警護や軍事を担当し、貴族の周辺に「さぶろふ」から侍と言われたり、武士と言われたりしましたが、「清和源氏」「桓武平氏」と言われるように、本来の始祖は天皇の子息でしたから、もっと位階は高いと思っていました。五位以上が貴族です。位階については、渓流斎ブログ2021年12月15日付「『従三位』と『正六位』の違いは何か?=位階(叙位)について考える」を再読されて思い出してほしいものです。21世紀の現在も叙位叙勲が続けられていますが、六位とは、小中学校の校長先生らに授与される位階です。

 それが、地方で反乱(天慶の乱、前九年の役、後三年の役など)があると、彼らは鎮守府将軍などに任命され、戦功があると、恩賞で四位まで昇任されたりしました。

 その後の出世頭は何と言っても平清盛です。保元・平治の乱を制した清盛は永暦元年(1160年)、三位の参議となり武士として初めて公卿となります。そしてその7年後はついに太政大臣という公卿のトップに立ち、一位を獲得するのです。(織田信長は正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣でした)

 平安末期の院政時代、もしくは武家の台頭から中世が開始したという説が有力ですが、それ以前の古代は、天皇の外戚を利用して権力を握った葛城氏、蘇我氏、藤原氏などのように、「女系」が為政者でした。それが、中世になって武家が政権を握ると、一転して「男系」となります。そのため、親と子や兄と弟、伯父(叔父)と甥との間で、跡目争いという血生臭い権力闘争が起きる、といったことが書かれていましたが、妙に納得してしまいました。

ジョン・スメドレー(創業1784年)のカーディガン3万4,000円

 話は変わりますが、山城の元祖は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ一人、楠木正成の千早・赤坂城だという説があります。何で、不便な高い山に城なんかを築かなければならなかったのかという理由は、鎌倉幕府の坂東武者が騎馬による攻撃を得意としていたためです。馬が登って来られないように、わざわざ山城を築いたというのです。

 承久の乱から100年余。鎌倉幕府の滅亡は、元寇による疲弊で、恩賞ももらえなかった御家人たちの不満が高まったことが理由に挙げられますが、このように鎌倉幕府が戦力的にも戦略的にも時代遅れになったこともあったのでしょうね。

三菱食品!?ローソンは三菱グループでした! 何で本文と全く関係ない写真なんだ!関係ある写真は著作権の関係で使いないためです。

 もう一つ、備忘録として書き残したいことがあります。NHKの「歴史探偵」という番組の中で、長崎のオランダ語通詞(通訳)の話が出てきましたが、彼らは当時の最先端の科学者でもあって、「引力」「遠心力」「分子」「動力」「弾力」「物質」「加速」「真空」「楕円」「惑星」「鎖国」などの翻訳語を考え、生み出した人たちだったというのです。

 これには吃驚。てっきり、福沢諭吉か西周か柳河春三か中江兆民ら幕末の語学の天才が考えたものだと思っていました。

 恐らく、恐らくですが、これら、科学用語も、「経済」「自由」などと同じように、本家本元の中国でも逆輸入されたと思われます。

 

心温まらない泣けるお話=浅井商店物語

Copyright par Shoko Hiraoka

  自宅近くに浅井商店(仮名)という、ゆうに80歳の坂は越えていると思われる老夫婦が営む、どう見ても、小奇麗とは言えない雑然と商品が並べられている、家屋も傾いたお店が住宅街の中に一軒あります。

 商品は、主に子どもの駄菓子ですが、「駄菓子屋さん」とは言い切れず、クリーニングの代理店を請け負ったり、郵便切手・葉書などもあり、雑然と並べられた物の上に置かれた古い汚い新聞紙をどければ、缶詰やラーメンやボンカレーなども見つかりそうなので、昔の田舎なら何処にでもあった「何でも屋さん」「萬屋さん」といった感じです。今は、コンビニに取って代わられ絶滅危惧種と言ってもいいでしょう。

 この店の前を通ることはあまりないのですが、週末に、散歩で通りがかったします。でも、決まってお客さんは一人もいなく、「この店、大丈夫かな」と不安になったりします。とはいえ、私としては、買うものがないので仕方ありません。

 年末になると、自宅近くの複数の電柱に、ミミズが走ったような汚い手書きの字で「年賀状あります。浅井商店」と書かれた紙が貼ってあることがあり、店の健在ぶりを確認します。が、私は、年賀葉書は、裏が干支のイラストで印刷されたものをまとめて都心で買ってしまうので、この店では買わず申し訳ない気持ちになります。汚いミミズの字を見る度に「頑張ってるのになあ…」と涙が出てきてしまいます。

 しかも、ここ1年は、店内外で、温厚そうな旦那さんの姿が見えず、もしかして、自宅療養されているのか、他界されたのかもしれません。

平岡尚子写真展「matters」(東京・エプソンスクエア丸の内)2022年1月7日(金)~1月19日(水) Copyright par Shoko Hiraoka

 そんな中、やっと浅井商店で買うものが見つかりました。往復葉書です。2月に都内で開催されるドナルド・キーンさんの御子息らの講演会(抽選70人)の申し込みが、往復葉書による応募になっていたからです。「そうか。週末に浅井商店へ往復葉書を買いに行こう」と、ある企みで出掛けて行ったのです。

 ある企みとは、細かいお金がなかったので釣銭を受け取らないことにしたのです。126円の往復葉書わずか1枚しか買わないので、大した儲けにならないはずです。1000円札や1万円札ではちょっと向こうも気が引けると思い、200円を渡し、「お釣りは結構ですからね」と言ってお店を出たのです。「いやいや、駄目ですよ、駄目ですよお」という奥さんの声を振り切って。

平岡尚子写真展「matters」(東京・エプソンスクエア丸の内)2022年1月7日(金)~1月19日(水) Copyright par Shoko Hiraoka

 そしたら、「お客さん、お客さん」と彼女としては精一杯の大声を出しながら、そして、彼女としては全速力で私を追い掛けてきたのです。ぜいぜい息を吸ったり、吐いたりしながら、彼女の皺くちゃの手には10円玉7枚と1円玉4枚がしっかり握られていました。よく彼女の顔を見ると、80歳どころか、90歳を越えているようにも思え、何だか申し訳ないことをしてしまった気がしました。

 小商いとはいえ、彼女には、商人として長年やってきた矜持があり、誠実さと正直さと律儀さに満ち溢れていたのです。しかも、「私は、1円だろうが、間違いや誤魔化しは絶対にしたくありませんからね」とでも言いたげな、半ば憤っているような感じさえ受けたのです。

 私は、「この程度のことなら大丈夫だろう」と、良かれと思ってやったのですが、さすがにこの時は、自分の行為を恥じてしまい、帰り道は感極まって涙が出て来ました。

 小商いの老夫婦のことなど歴史として語られることはないでしょうが、このような誠実で真面目な庶民こそが歴史をつくっていると言ってもいいはずです。有名な戦国大名とか明治の元勲だけが歴史をつくっているという考えは大間違いです。

承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

【追記】

・「吾妻鏡」によると、北条義時(1163~1224年、行年61歳)は「攪乱」のため急死しますが、詳細が書かれていない。後妻の伊賀の方が自分の息子の政村を次期執権にしたいがために、毒殺したのではないかという説があります。伊賀の方の兄伊賀光宗は政所執事(長官)、娘婿の一条実雅は、時の将軍九条頼経の親戚、また政村の乳母親は、有力御家人の三浦義村だったので、彼らが結束すれば、泰時を倒して執権の座を獲得することは不可能ではなかった。

・三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」。初めて口語ながら読みましたが、第12条に「争いの元である悪口は禁止。重大な悪口は流罪、軽いものでも入牢。」とあり、感心してしまいました。

地の底に堕ちたマスコミ=朝日新聞も知らない警察官

 朝日新聞の本日19日付朝刊の政治コラム「多事奏論」で、斯界では有名な高橋純子編集委員が、正月早々、自分が運転していた車が商業施設のパーキングで駐車中の車のバンパーに「軽く」ぶつけてしまい、念のため、警察を呼んだ逸話を書いております。

 駆け付けて来た20歳そこそこのお巡りさんから、名前、職業、そして勤務先を聴かれ、「朝日新聞です」と答えると、そのお巡さんから「あさひは、平仮名ですか、カタカナですか?」と聞かれた上、漢字なら「旭日のあさひ、じゃなくてですか?」と確かめられたといいます。

 高橋編集委員は「ひと昔前は朝日新聞と告げると、良くも悪くも警戒されたものだけど、ね」と皮肉ってますけど、私は椅子からズッコケ落ちるほど驚愕しましたね。

 若い人は新聞を読まなくなったと言われて長いですが、警察官まで読まなくなったとは衝撃以外他に何ものでもありません。時事通信を知らないのは分かりますが、朝日新聞を知らないとは!!

銀座「いわた」 銀座にしてはお手頃

 高橋編集委員の「ひと昔前」をお借りすると、私の経験では、その「ひと昔前」ですが、朝日新聞の人から「朝日の記事にならないニュースはニュースではない」とまで豪語されたことがあります。1993年のことですから、30年近い昔のまだインターネットが普及していない牧歌的時代です。その朝日新聞の人は傲慢さが脳と皮膚に染みついていたのでしょう。

 当時の朝日新聞の夕刊で、園山俊二さんの「ペエスケ」という四コマ漫画が連載されていました。1993年1月20日のことですが、その園山俊二さんが57歳で急逝されたということで、私は、仕事として彼の訃報を書かなくてはならなくなりました。いつ、どこで、何の病気で亡くなり、業績はどうのこうの、といったあれです。

 そこで、園山さんの御自宅に電話すると、奥様らしい方が出てきて、「その件に関しまして情報は、全て朝日新聞にお任せしているので、朝日新聞に聞いてもらえないでしょうか」と丁重なお言葉があったので、私は朝日新聞の代表電話にかけて、担当者につないでもらいました。

 こちらの会社名と名前と、趣旨を説明すると、その担当者は「あ、その件は、(朝日新聞の)夕刊に出ますからそれを見てください」と言い放ったのです。私は、怒りで一瞬、頭が真っ白になりました。その夕刊の時間帯に間に合わせたいから、こうして、取材しているのではないか! 遺族の方も「窓口」を朝日新聞に指定されたので、電話しているだけじゃないか!

 しかし、相手はけんもほろろでした。あくまでも、夕刊を見てくれ、と主張し、ウチが載せない記事はニュースに価しない、とまで傲慢ぶりをかましてきたのです。

 その後、どうなったのか、御想像にお任せします(笑)。

銀座「ライオン」グリル

 それより、何と言っても、私が言いたいのは、時代の趨勢で、マスコミを代表する天下の朝日新聞が、今では警察官にさえ知られていない、吹けば飛ぶような存在に堕ちてしまったことです。ネット時代となり、ニュースは、どこの誰なのか得たいの知れない人間まで発信していますから、氾濫しています。若い人たちは、ニュース源がどこだろうと、どうでも良いのでしょう。

 (本当にどうでも良いのですが、最近の新聞やテレビは「SNSで話題」なんていう安易な話題づくりは止めてもらいたいものだ!)

 気になったのは、先ほどの30年近い昔の朝日新聞の傲慢な中年か初老の記者です。今はもう御存命ではないかもしれませんけど、この高橋編集委員のコラムを読んだら、口から泡が出て卒倒することでしょう。

 確かめたいので、その傲岸不遜紳士さんには是非ともこちらに連絡してもらいたいものです。

また輸入米に頼るのか?五輪後不況はやって来るのか?

 南太平洋のトンガ諸島で15日に起きた大規模な火山噴火は、通信が遮断されたため、被害状況が断続的にしか入って来ませんが、8万人の方々が被災したと言われています。お見舞い申し上げます。この噴火で、予想外にも日本にも津波が押し寄せ、南米チリなどにも同じように津波が襲来したということですから、グローバルな規模で影響が広がっています。

 この噴火で心配されるのは、噴煙が成層圏にまで到達してしまったため、太陽が遮られ、夏は冷害となって作物が育たなくなるのではないか、という懸念です。

銀座・昭和通り

 これで思い出すのが、1991年6月、フィリピン・ルソン島のピナトゥボ火山の大噴火です。やはり、噴煙が成層圏に達し、数年に渡って滞留し日射量が減少して、世界各地で異常気象が発生しました。1993年の日本の記録的な冷夏もこの噴火が一因とされ、米の不作で、タイなどからの輸出米に頼らざるを得なくなり、大騒ぎになったことをよく覚えています。

 歴史の教訓から学べば、来年辺り、我が国でも冷害が押し寄せ不作になるかもしれません。同時に「穀物地帯」でもある南米や豪州などが不作になれば、食料自給率が37%(2020年度)と極端に低く、穀物は輸入に頼っている日本は大きな痛手を蒙ることでしょう。

 輸入に頼る家畜の飼料が高騰すれば、物価にも響きます。

◇ 「昭和40年不況」

 歴史の教訓として、もう一つ忘れてはいけないことは、1964年の東京五輪閉会後の大不況です。「昭和40年不況」とも「証券不況」とも言われています。64年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)、65年には山陽特殊製鋼が倒産し、山一證券の取り付け騒ぎなどがありました。私は子どもの頃でしたが、「サンウエーブの流し台 ♫♩」とラジオで盛んにコマーシャルを流していて、よく知っていたので、倒産のニュースには驚いたことをよく覚えています。

 オリンピックの後に不景気が襲ってくるのは、1976年のモントリオール五輪がよく知られ、大学生だった私もよく覚えています。当時「世界初」と謳われた開閉式屋根の巨大競技場の建設費が予算の6倍に跳ね上がり、五輪全体の赤字は約10億ドル(現在の約1兆円)に膨張し、返済するのに税金で30年も掛かったと言われています。当然、モントリオール市民は、窮屈で暗鬱な生活を強いられたわけです。

銀座「高級芋菓子しみず」

 さて、今回の2021年コロナ禍強行開催の東京五輪後はどうなることでしょうか?「今年は寅年、株式投資のチャンスです!」と踊らされている人も大勢いますが、大丈夫なんでしょうか? 歴史の教訓に学べば、今年は不況の年になることになります。でも、歴史は占いや予言ではないので、必ずそうなるという確証はありません。それに、この3年は、新型コロナ禍で、まさに前代未聞の出来事ばかりありました。歴史の教訓に学ぶとすれば、世界で約1億人の死者を出したと言われる100年前のスペイン風邪(1918~1920年)の影響も加味しなければならないことでしょう。

 私は予言者ではありませんが、これら歴史の教訓から推測すれば、新型コロナウイルスは3年目ということで、今年辺りに収束(終息ではない)するのではないかと思っています。日経平均は2万5000円に暴落するのではなく、3万2000円近く上昇し、乱高下して2万9000円ぐらいで「大納会」を迎えるのではないかと想像し、大手企業の倒産もあるのではないかと危惧しています。

 私の予想が外れることを願っていますし、当たるわけないとも思っています。自分の予想に自信があれば、とっくに経済評論家にでもなっていますよ(笑)。