「帝国陸軍の恥」と「電気化学工業の父」=ノンフィクション作家斎藤充功氏と懇談

 参りました。スマホの通信が不調でアプリが繋がらなくなり、ブログの更新もうまくできなくなりました。困ったもんですが、様子見するしかないようです。やっぱ、安い携帯通信事業者じゃ、「安かろう悪かろう」になってしまうんですかね?(後でスマホを「再起動」したら、繋がるようになりました!)

 17日(金)は、またまたノンフィクション作家の斎藤充功氏からのお招きで、都内某所で忘年会のような飲み会に参加しました。滅多にないことですが、この日は仕事で遅くなってしまい、約束の時間に間に合わず、申し訳ないですが、20分程遅れてしまいました。

 そしたら、約束した居酒屋に向かおうとしたら、斎藤氏から電話が掛かってきて、「その店は客あしらいが悪いのでもう出て来ましたよ。今、外で煙草を吸ってます。他の店にしましょう」と仰るではありませんか。結局、次に行った店も、注文しても、若いお兄さんが「ちょっと待ってください。順番でやってますから!」と怒ったような大声を出すし、斎藤氏が灰皿をお願いしても忘れて持ってこないし、またまた客あしらいの悪い、感じの悪い店でした。「都内某所」と書いたのは、その店がある街の名誉のために敢えて伏せておきまする(笑)。

 前回10月28日付渓流斎ブログ「久しぶりの痛飲=S氏の御先祖様は幕臣旗本だった」にも書きましたが、斎藤氏の大正生まれの御尊父は、陸軍大学卒のエリート軍人、明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒の海軍大佐、江戸幕末生まれの曽祖父は、六百石扶持の馬廻役の直参旗本だったいう血筋の良さですが、御本人は国立大学を中退して、ヤクザな?フリーランスの操觚之士となった方です。「文藝春秋」や「新潮45」(休刊)などの名物ライターとなり、今年は600ページを越す「中野学校全史」(論創者)や「ルポ老人受刑者」(中央公論新社)などを出版するなど、これまで出した本は50冊以上で、80歳となった現在でも現役として活動されている、まあ化け物みたいな方です(笑)。

 斎藤氏は、若い編集者からは「スーパー爺さん」と陰口を叩かれているらしいのですが、その人並み外れたバイタリティーは、何処から来るのか不思議です。「わたしは100歳まで現役を続けるつもりです」と豪語する斎藤氏に対して、私も思わず、「その原動力は何処から来るのですか?」と尋ねてみました。 

 すると、一言、「好奇心です」と仰るではありませんか。

 私なんか、もうこの年で、楽(ラク)して儲けようとしている詐欺師ばかりがのさばる社会の矛盾には白けてしまい、もうあまり気力も好奇心もなくなってきましたが、いつまでも青年のような好奇心を失わない斎藤氏はやはり只者ではありませんでした。

 斎藤氏の最近の「お仕事」としては、現在、千葉県市川市にある「国立国際医療研究センター国府台病院」は、実は、戦前は精神疾患を発症した皇軍将兵を収容し治療していた「国府台衛戍病院」(昭和から「国府台陸軍病院」)だったにも関わらず、「帝国陸軍の恥」として「歴史」から抹殺され、現在ではセンター病院に勤めている人でさえほとんど知らない実態をルポにまとめておられました。

 斎藤茂吉の子息で「モタさん」の愛称でも知られる精神科医の斎藤茂太も、若い頃にこの国府台陸軍病院に勤務していたそうです。

 「わたしは埋もれた歴史を掘り起こすことが好きなんですね。語弊があるかもしれませんけど、資料がなければ歴史が書けない学者とは違うんですよ」と酒の勢いもあってか、斎藤氏は絶好調でした。

◇「政商」野口遵とは?

 もう一つ、現在、取材と執筆を並行して行っているのが、野口遵(のぐち・したがう=1873~1944年)という化学者の評伝だといいます。私自身は不勉強で、この野口さんのことを全く知りませんでしたが、とてつもない人物でした。金沢の前田藩士の子息として生まれ、東京帝大電気工学科を出た技師でしたが、シーメンス入社後、独立して日本で初めてカーバイド製造事業を始め、それが現在のチッソ(旧・日本窒素肥料)や旭化成、積水化学、信越化学などの礎になっているというのです。ま、これら超一流企業の創業者と言っていいでしょう。

 野口は、「政商」として植民地時代の朝鮮にも進出して、大規模な水力発電所を幾つも建設し、「朝鮮半島の事業王」とも「電気化学工業の父」とも呼ばれ、巨万の富を築いた人だったと言われます。

 確かに、私が知らなかっただけかもしれませんが、歴史に埋もれた人物を発掘して現代に蘇らせる仕事は斎藤氏の真骨頂とも言えます。本が完成したら私も読みたいと思いました。

 同時に、こんな凄い先生なのに、あしらいの悪いお店のお兄ちゃんはどうにかならんものか、と思いましたよ。世の中、そんなもんですかねえ…。