失望しても絶望はしない!=86年ぶりに新関脇優勝した若隆景と毛利元就3兄弟

 3月末は毎年忙しいです。

 3月末といえば年度末です。そう、大量の人事異動の季節でもあります。となると、私は、これでも、まだ仕事をしているので、霞ヶ関の人事異動情報が殺到して、とても忙しくなり、ブログなんか書いている暇がありません(笑)。

 おまけにお花見の季節です。ウイル・スミスに平手打ちされても、桜見だけは欠かせません。

 とはいえ、このブログは私の「安否確認」サイトにもなっているので、暫く間が空くと皆様に御心配をお掛けすることになりますので、本日はお茶を濁すことに致します。

 何と言っても、2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻で、すっかり人生観、世界観が変わってしまいました。皆さんも同じでしょう。プーチンの戦争は、19世紀的、帝国主義的、領土拡大主義です。人間なんて、誇大妄想だらけで、これっぽちも進歩していません。

 並行してユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」の両書を読んでいましたから、余計にその思いを強くしました。自由も平等も人権も平和も神も宗教も、現生人類が考えた妄想か虚構、もしくは共同主観的ということになります。(ハラリ氏は「ホモ・デウス」の中で、「聖書」でさえ、「多くの虚構と神話と誤りに満ちた書物」=上巻215ページ=とまで言って糾弾しています。)

MInuma-tanbo 2022

 ところで、日曜日、大相撲の千秋楽で三つ巴になった優勝争いは、新関脇の若隆景が、大激戦を制して初優勝を遂げました。新関脇の優勝は、1場所11日制だった1936年5月場所のあの双葉山以来86年ぶりだということで、歴史的瞬間に立ち合ったような気分になりました。大袈裟ですけど、1936年といえば、「2.26事件」があった年ですからね。

 福島県出身の若隆景(27)は、祖父が元小結・若葉山。双葉山に弟子入り入門を許されて角界入りした力士でしたから何か縁を感じます。父が元幕下の若信夫。その息子たち、兄弟3人が、そろって角界入りを果たしました。長兄は幕下の若隆元(30)、次兄は前頭9枚目の若元春(28)、若隆景は三男になります。三世代かけて、そのDNAが受け継がれて、やっと幕内優勝を遂げたということになります。

 この3兄弟の四股名は、毛利元就の3兄弟から取ったといいます。つまり、あの「三本の矢」で有名な毛利隆元、吉川元春、小早川隆景です。戦国時代ファンとしてはたまらない、と言いますか、覚えやすいですね(笑)。

 ただ、小早川隆景の養子になった小早川秀秋(豊臣秀吉の正室ねねの甥)は、1600年の関ヶ原の戦いで、東軍の徳川家康方に寝返って、「裏切者」の汚名を歴史に残してしまいました。でも、大相撲とは全く関係ない話ですから、せめて若隆景はこれから大関、横綱と昇進して大活躍してもらいたいものです。

MInuma-tanbo 2022

 以上のことは相撲ファンにとっては常識の話でしたが、敢えて書くことにしました。知らない人は知らないでしょうから(笑)。

MInuma-tanbo2022

◇ブログを書くという恥ずべき行為

 実は、私は、ここ数日、ブログを書いて、世間の皆様に公にするような行為が浅ましいと、思うようになっておりました。

 しかし、侵略主義というパンドラの箱を開けてしまったプーチンの蛮行のおかげで、北の若大将がミサイルを狂ったように撃ち始め、大陸の皇帝は、数年以内に南の小さな島を侵略しようと目論んでいるようです。いずれも、「ロシアがやったんだから、我々がやってもいいじゃないか」といった論理で。

 そんな「プーチン後の世界」となり、刹那的でも人生を謳歌するしかない、と思い直しするようになりました。いつ何時、何が起きるか、これから先、分かったためしがありません。相撲でも観戦して、沢山の本を読んで、ブログでも書いて、ピアノでも弾いて、大いに人生を楽しむしかないじゃありませんか。

 人間に対して失望しても、絶望してはいけないというのが私のスタンスです。たとえ、人間は妄想の中で生きている動物だとしても、生きている限り、希望はあるはずですから。

恵雅堂出版の中古本に100万円超の値が=「悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉」

 3月17日付の渓流斎ブログ「チャイコフスキーはもともとチャイカさんだったとは」を書いたところ、この記事にも登場する恵雅堂出版のM氏から早速、ではなくて、1週間近く経った忘れた頃にメールを頂きました(笑)。

 同出版社が運営する東京・高田馬場のロシア料理店「チャイカ」は、ロシアによるウクライナ侵攻にも関わらず、嫌がらせを受けることなく、頑張って順調に営業成績を伸ばしている、とのことでした。これで一安心しました。

ハルビン学院 Copyright par Keigado-syuppan

 3月17日と同じことを書きますが、このお店は、恵雅堂出版を創業した麻田平蔵氏が、満洲(現中国東北部)ハルビンにあったロシア語専門の大学校「哈爾濱学院」出身ということで、学生時代に現地で食べたロシア料理が忘れられず、日本でもその味を再現しようと、1972年に開店したと聞いています。

この恵雅堂出版というのは、知る人ぞ知る出版社で、私も御縁のある出版社でした。ーということは何度もこのブログに書いたことがあるのですが、恐らく、私自身の手違いでそれらの記事は消滅してしまったと思われますので、くどいようですが、同じようなことをもう一度書きます。

 私と恵雅堂出版との御縁は、同社から上梓された陶山幾朗編著「内村剛介ロングインタビュー ―生き急ぎ、感じせくー 私の二十世紀 」(2008年7月1日初版)の感想文をこの渓流斎ブログに書いたことがきっかけでした。

 と思ったら、実はそれを遡る遥か昔から御縁があったのです。同社は1950年に恵雅堂として創業されました(確か、社名は創業者の麻田平蔵氏の奥さんとお嬢さんのお名前から取った)。今でこそ、多くのロシア関係の書籍を出版しておりますが、最初は写真家淵上白陽(1889~1960年)の写真集の出版と東京都内の学校の卒業アルバムを手掛けることから始められたようです(現在も)。というので、その話を聞いて、自宅の奥に眠っていた、もう40年近い昔の私の東京郊外の小学校と中学校の卒業アルバムを見てみたら、何と恵雅堂出版の製作だったのです(クレジットあり)。しかも、中学卒業アルバムの巻末には当時に起きた「世界の出来事」が付いており、そのニュース写真は時事通信社のものを使っていたのです。

 他にもこの出版社と私は色々なつながりがありましたが、長くなるので割愛します(笑)。でも、その度に、私は「不思議な御縁で繋がっているものだなあ」と思ったものです。

 昔話を割愛したのは、今回書きたかったことがあったからです。この恵雅堂出版から出版された「悲しみの収穫」という本が、何と、今や、ネット通販の中古市場で85万円以上の値が付いているというのです。検索してみたら、151万5151円の高額の値を付けた出品者もいました(3月23日現在)。

 この本は、副題に「ウクライナ大飢饉」とあるように、1932~33年、人工的にウクライナで発生させた飢饉によって400万人以上が死亡したといわれる「ホロドモール」のことが書かれているようです。

 この本の編集にも携わった恵雅堂出版のM氏によると、この本は2007年4月に、本体価格5000円で発行されたといいます。しかし、2013年には品切れとなり、重版も未定ということから、「希少価値」となり、今の「ウクライナ戦争」のご時世になって価格が急騰したとみられます。

 日本人の知的好奇心の旺盛さには称賛されるべきものがありますが、ちょっと価格が異常ですね。それに、版元の恵雅堂出版は既に手元から離れたわけですから、いくら中古市場で値が上がろうと、同社には一銭も入りませんからね。

 売上の一部がウクライナ支援の義援金に回ることを願うばかりです。

我々は飢餓と疫病と戦争を首尾よく抑え込めなかった=ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」

 ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上下巻(河出書房新社)をやっと読了しましたが、すぐさま、同じ著者の「ホモ・デウス」上巻(河出書房新社)を読み始めています。この本は未読でしたので、あまりにも「サピエンス全史」が面白かったので、途中で、本屋さんに駆け足で買いに行ったのでした。

 何しろ、ハラリ氏は若くして、歴史書から哲学書、経済学書、宗教書、最新科学書に至るまで浩瀚の古今東西の書籍を読破し、それら全てが頭にインプットされていますから、歴史的法則まで導き出し、予知能力まであるのではないかと思わされたのです。となると、彼の著作は全て読まなければいけないじゃないですか…。

 しかし、慌ててこの「ホモ・デウス」を読み始めると、「あれっ?」と思ってしまいました。この本の初版は2018年9月30日です。(そして、私が先日買った本は2018年10月10日発行での第10刷でした。)となると、著者が執筆した時点で、まだ全世界で新型コロナ(COVID‑19)のパンデミックが始まっていませんし、ロシア・プーチン大統領によるウクライナ戦争(2022年2月24日)も開始されていません。

 それらを割り引いて考えなければならないのですが、(そして、何よりも「事後法」で裁いた東京裁判の判事のような真似はしたくないのですが)、この本の数ページ読むと、こんな文章が出てきます。

 この数十年というもの、私たちは飢餓と疫病と戦争を首尾よく抑え込んできた。もちろん、この三つの問題がすっかり解決されたわけではないものの、理解も制御も不可能な自然な脅威ではなくなり、対処可能な課題に変わった。私たちはもう、これら三つから救ってくるように神や聖人に祈る必要はなくなった。飢饉や疫病や戦争を防ぐにはどうするべきかを、私たちは十分承知しており、たいていうまく防ぐことができる。(10ページ)

 あららら、これでは駄目ですね。著者に予知能力はなかった、と言わざるを得なくなります。まさに、今、ウクライナ南東部のマリウポリでは既に3000人以上が亡くなり、30万人以上といわれる避難市民が、食物も水もない薄暗い地下で飢餓に苦しみ、しかも、いまだにオミクロンのコロナは猛威を振るっています。早く戦争が終わるように、神に祈るしかありません。

 つまり、飢餓と疫病と戦争がハラリ氏が主張するほど、「理解も制御も不可能な自然な脅威ではない」ということを、もはや言えなくなってしまったのです。プーチン大統領の個人的な誇大妄想によるものだ、と説明してくれない限り、まずこの戦争は理解不可能です。21世紀になっても人類は相も変わらず同じ過ちを繰り返すとしか言うしかありません。

 とはいえ、私は、この本を閉じて読むのをやめたわけではありません。本文中で列挙されている「歴史的事実」が現代を生きる我々の教訓になるからです。著者のハラリ氏はこんな数字を列挙します。

・フランスでは、1692年から94年にかけて、全人口の15%に当たる約280万人が餓死した。それを尻目に、太陽王ルイ14世はベルサイユ宮殿で愛妾たちと戯れていた。

・1918年のスペイン風邪の世界的大流行で5000万人から1億人が亡くなったが、14~18年の第一次世界大戦での死者、負傷者、行方不明者の合計は4000万人だった。

・1967年にはまだ天然痘に1500万人が感染し、200万人が亡くなっていたが、2014年には、天然痘に感染した人も亡くなった人も皆無になった。

・2010年に肥満とその関連病で約300万人が亡くなったのに対して、テロリストによって殺害された人は世界で7697人で、そのほとんどが開発途上国の人だった。欧米人にとってアルカイダより、コカ・コーラの方がはるかに深刻な脅威なのだ。

・2012年、世界で約5600万人が亡くなり、そのうち人間の暴力が原因の死者は62万人だった(戦争による死者が12万人、犯罪の犠牲者が50万人)。一方、自殺者は80万人、糖尿病で亡くなった人は150万を数えた。今や砂糖の方が火薬より危険というわけだ。

 この最後の「今や」とは、著者のハラリ氏がこの本を執筆していた2017年か18年現在ということです。ウクライナ戦争を目撃している2022年3月の我々現代人は、いくら数字や統計を見せつけられても、「砂糖の方が火薬より危険だ」と言われてもピンとこないでしょう。

 「ホモ・デウス」の話はこれぐらいにして、最後に「サピエンス全史」を読了した感想文を追加しておきます。この本では、「いやに日本のことが出てくるなあ」と思ったら、「訳者あとがき」を読むと、訳者の柴田裕之氏がわざわざ、著者のハラリ氏に問い合わせて、日本関連のことを付け足してもらっていたんですね。

 だから、今から7万年前にアフリカ大陸を旅立った現生人類(ホモ・サピエンス)が日本列島に到達したのは、今から(わずか!)3万5000年前だったとか、インドや中国などアジアの大半は欧米の植民地になったというのに、日本がそうならなかったのは、日本が欧米列強のテクノロジーを積極的に取り入れて、産業革命を成し遂げたことを特記したりしていたんですね。

 この本は非常に面白い本でしたが、最後は結局、哲学的な幸福論になっている感じでした。

 ハラリ氏は「純粋に科学的視点から言えば、人生にはまったく何の意味がない。…現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や国民主義的意義、資本主義的意義も、それに人権も自由も平等思想もまた妄想だ」と身も蓋もない絶望的な事実を突きつけておきながら、「苦しみの真の根源は、束の間の感情を果てしなく、空しく求め続けることだ。…真の幸福とは私たちの内なる感情とは無関係なので、内なる感情の追求をやめることだ」とブッダの教えまで引用して、読者を解脱の方向に導いてくれているかのようにも読めます。

 再読したくなる本でした。

 

「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開」=第41回諜報研究会を傍聴して

 3月19日(土)、第41回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)にオンラインで参加しました。テーマが「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開―現在のロシア・ウクライナ侵略の背景分析の手がかりとして」ということで、大いに期待したのですが、こちらの機器のせいなのか、時折、画面が何度もフリーズして音声が聞き取れなかったり、チャットで質問しても届かなかったのか、無視、いや、見落としされたりして、途中で投げやりになって内容に集中できなくなり、ブログに書くのもやめようかなあ、と思ったぐらいでした(苦笑)。

 ZOOM会議はこれまで何度か参加したことがありますが、フリーズしたのは初めてです。まあ、気を取り直して感想文を書いてみたいと思います。

 お二人のロシア専門家が登壇されました。最初は、名越健郎拓殖大学教授で、タイトルは、「1941年のリヒャルト・ゾルゲ」でした。名越氏は、小生の大学と会社の先輩で、大学教授に華麗なる転身をされた方ですので、大変よく存じ上げております。…ので、御立派になられた。「でかしゃった、でかしゃった」(「伽羅先代萩」)といった気分です…。現在進行中のウクライナ戦争のおかげで、今やテレビや週刊誌に引っ張りだこです。モスクワ特派員としてならした方なので、他のコメンテーターと比べてかなり説得力ある分析をされています。

 ゾルゲ事件に関しては、私自身も、15年以上どっぷりつかって、50冊近くは関連書を読破したと思います(でも、恐らく500冊ぐらいは出ているのでほんのわずかです)。この渓流斎ブログにもゾルゲに関してはかなり書きなぐりました。が、残念なことに、それらのブログ記事は私自身の手違いでほぼ消滅してしまいました。ちょうど、元朝日新聞モスクワ支局長の白井久也氏と社会運動資料センター代表の渡部富哉氏が創設し、私もその幹事会に参加していたゾルゲ研究会の「日露歴史研究センター」も解散してしまい、最近では関心も薄れてきました。(決定的な理由は、ゾルゲ事件に関して、当初と考え方が変わったためです。)

 それが、名越教授によると、日本での関心低下に反比例するようにロシアではゾルゲの人気が高まっているというのです。本日のブログ記事の表紙写真にある通り、モスクワ北西にゾルゲ(という名称が付いた)駅(左上)ができたり、ウラジオストックにもゾルゲ像(右下)が建立されたりしたというのです。

 また、今や、バイデン米大統領から「人殺しの悪党」呼ばわりされているロシアのプーチン大統領は、2年前のタス通信とのインタビューで「高校生の時、ゾルゲみたいなスパイになりたかった」と告白しており、ロシア国内では愛国主義教育の一環としてゾルゲが大祖国戦争を救った英雄として教えられているようです。

 ロシア国内では、GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)公文書館や国防省中央公文書館などが情報公開したおかげで、ここ数年、ゾルゲ関係で新発見があり、多くの書籍が出版されています。その中の1冊、アンドレイ・フェシュン(NHKモスクワ支局の元助手で、名越氏も面識がある方だといいます!)編著「ゾルゲ事件資料集 1930~45」(電報、手紙、モスクワの指示など650本の文書公開)の中の1941年分を名越教授は目下翻訳中で、年内にもみすず書房から出版される予定だといいます(私の聞き間違えかもしれませんが)。ゾルゲは独紙特派員を装いながら、実は、赤軍のGRUから派遣されたスパイで、東京に8年滞在しましたが、ゾルゲの2大スクープといわれる「独ソ開戦予告」と「日本の南進に関する電報」は1941年のことで、名越教授が「それ以前は助走期間のようだった」と仰ったことには納得します。

 フェシュン氏の本の中で面白かったことは、「ゾルゲの会計報告」です。1940年11月の支出が4180円で、尾崎秀実に200円、宮城與徳に420円、川合貞吉に90円支払っていたといいます。当時の大学卒業初任給が70円といいますから、200円なら今の60万円ぐらいのようです。情報提供料で月額60万円は凄い(笑)。これで、尾崎は上野の「カフェ菊屋」(現「黒船亭」)など高級料理店に行けてたんですね(笑)。もっとも、モスクワ当局は、41年1月に「情報の質が低いので2000円に削減する」と通告してきたので、ゾルゲは「月3200円が必要」と反発したそうです。

 もう一つ、GRUはゾルゲ機関以外に5人の非合法工作員を東京に送り込んでおり、そのうちの一人、イリアダは在日独大使館で働く女性で、ウクライナ西部のリヴォフ(現在、戦争難民で溢れている)でスパイにスカウトされ、日本の上流階級にも溶け込んでいたといいます。

 在日独大使館のオットー大使と昵懇だったゾルゲとイリアダとは面識があったでしょうが、当然ながら、スパイ同士横の繋がりは御法度で、お互いに諜報員だとは知らなかったと思われます。GRUとは「犬猿の仲」だったロシアの保安機関NKVD(内務人民委員部)も非合法の工作員を送り込んでおり、その一人でコードネーム「エコノミスト」で知られる人物は、天羽英二外務次官ではないかという説がありますが、天羽は1930年、モスクワ赴任中、ハニートラップに掛かり、スパイを強要されたいう理由には、思わず、「あまりにも人間的な!」と思ってしまいました。

 続いて、登壇されたのは、富田武成蹊大学名誉教授で、テーマは「日ソ戦争におけるソ連の情報(諜報・防諜)活動」でした。

 大変勉強になるお話でしたが、読めないロシア語が沢山出て来た上、最初に書いた通り、ちょっといじけてしまったのと、加齢による疲れで、内容が頭に入って来なくなってしまい、申し訳ないことをしたものです。(オンラインは嫌いです)

 とにかく、ソ連・ロシアの組織はすぐ名称を変えてしまうので、あまりにも複雑で難し過ぎます。諜報機関なら、KGBならあまりにも有名で、それに統一してくれれば分かりやすいのですが、ソ連が崩壊してロシアになった今は、FSB(ロシア連邦保安庁 )というようです。と思ったら、FSBは防諜の方で、対外諜報はSVR(ロシア対外情報庁)なんですね。

 いずれにせよ、ゾルゲが活動したソ連時代、ゾルゲは赤軍情報機関のGRUに所属していました。赤軍情報機関の防諜本部の方はスメルシ(スパイに死を)と呼ばれ、満洲(現中国東北部)に工作員を送り込んで、早いうちから「戦犯リスト」を作成していたようです。(だから、8月9日にソ連が満洲に侵攻した際、スムーズに日本兵を捕獲してシベリアに送り込むことができたのです)。日本は当時、「対ソ静謐」政策(日ソ中立条約を結んだ同盟国として、諜報活動も何もしない弱腰外交。ヤルタ会談等の存在も知らず、大戦末期は近衛元首相を派遣して和平工作までソ連にお願いしようとしたオメデタさぶり!)を取っていましたから、その狡猾さは雲泥の差で、既に情報戦では、日本はソ連に大敗北していたわけです。

 富田氏によると、ソ連の諜報・防諜機関はほかに、警察組織も兼ねる内務省系の内務人民委員会(NKVD)と1943年までコミンテルンの国際連絡部OMC、それに現在でも「公然の秘密」として存在する大公使館の駐在武官がいるといいます。

 KGBから党書記長、大統領に昇り詰めたアンドロポフ、プーチンの存在があるように、ソ連・ロシアは諜報機関の幹部が国家の最高責任者になるわけで、いかにソ連・ロシアは「情報戦」を重視しているかがよく分かりました。

【追記】

 ありゃまー、吃驚仰天。

 これを書いた後、主催のインテリジェンス研究所のS事務局長からメールがあり、小生がチャットで質問していたこと、それを司会者の方が見落としていたことを覚えてくださっていて、わざわざ、名越教授に直接問い合わせて頂きました。

 小生の質問は「ゾルゲが二重スパイだったという信憑性はどれくらいありますか」といったものでした。

 これに対して、名越教授から個人宛にお答え頂きました。どうも有難う御座いました。

 それにしても、何かあるとすぐに捻くれてしまう(笑)私の性格を見抜いたS事務局長、先見の明があり、恐るべし!

 

非生産的活動の象徴ピラミッドこそ後世に利益を齎したのでは?=スミス「国富論」とハラリ「サピエンス全史」

 読みかけのアダム・スミスの「国富論」を中断して、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(河出書房新社)を読んでおりますが、下巻の134ページ辺りから、このアダム・スミスの「国富論」が出てきて、「おー」と思ってしまいました(笑)。

 何と言っても、解説が分かりやすい! 「国富論」は超難解で、どちらかと言えば、つまらない本だと思っていたのですが(失礼!)、それは我々現代人が、当たり前(アプリオリ)だと思っていることが、実は、スミスの時代では非常に画期的で革命的思想だということをハラリ氏が解説してくれて、目から鱗が落ちたのです。

 スミスが「国富論」の中で主張した最も画期的なものは、「自分の利益を増やしたいという人間の利己的衝動が(国家)全体の豊かさの基本になる」といったものです。これは、資本主義社会の思想にまみれた現代人にとっては至極当たり前の話です。しかし、スミスの時代の近世以前の古代の王も中世の貴族もそんな考え方をしたことがなかった、と言うのです。

 まず、中世まで「経済成長」という思想が信じられなかった。古代の王も中世の貴族も、明日も、将来も行方知らずで、全体のパイは限られているので、他国に攻め入って分捕ることしか考えられない。そして、戦利品や余剰収穫物で得た利益をどうするかというと、ピラミッドを建築したり、豪勢な晩餐会を開いたり、大聖堂や大邸宅を建てたり、馬上試合を行ったりして、「非生産的活動」ばかりに従事していた。つまり、領地の生産性を高めたり、小麦の収穫を高める品種を改良したり、新しい市場を開拓したりして、利益を再投資しようとする人はほとんどいなかったというのです。

 それが、大航海時代や植民地獲得時代を経たスミスの近世の時代になると、利益を再投資して、全体のパイを広げて裕福になろうという思想が生まれる。(そう、アダム・スミスによって!)しかも、借金をして将来に返還する「信用」(クレジット)という思想も広く伝播したおかげで、起業や事業拡大ができるようになり、中世では考えられないような「経済成長」が近世に起きた。

 現代のような資本主義が度を過ぎて発展した時代ともなると、現代の王侯貴族に相当する今の資本家たちは、絶えず、株価や原油の先物価格等に目を配って、利益を再投資することしか考えない。非生産的活動に費やす割合は極めて低い、というわけです。

 そうですね。確かに、現代のCEOは絶えず、株主の顔色を伺いながら、M&A(合併・買収)など常に再投資に勤しんでいかなければなりません。非生産的活動といえば、50億円支払って宇宙ロケットに乗って宇宙旅行することしか思いつかない…。(しかも、それは個人の愉しみで終わり、後世に何も残らない。)

 勿論、ハラリ氏はそこまで書いてはいませんが、確かにそうだなあ、と頷けることばかりです。「サピエンス全史」は、人類学書であり、歴史書であり、科学の本であり、経済学書としても読めます。しかも、分かりやすく書かれているので、大変良い本に巡り合ったことを感謝したくなります。

築地「蜂の子」Cランチ(オムライス)1050円

 ただ、私自身はただでは転ばない(笑)ので、ハラリ氏の論考を全面的に盲信しながらこの本を読んでいるわけではありません。これは著者の意図ではないと思いますが、古代の王や中世の貴族らが非生産的活動しか従事してこなかったことについて、著者の書き方が少し批判的に感じたのです。

 しかし、彼らの非生産的活動の象徴であるエジプトのピラミッドやパリやミラノやケルンやバルセロナなどの大聖堂は、現代では「観光資源」となり、世界中の観光客(異教徒でも!)を呼び寄せて、後世の人に莫大な利益を齎しているではありませんか。

 とはいえ、もうアダム・スミスの「国富論」はつまらない、なんて言えません(苦笑)。それどころか、ニュートンの「プリンキピア」やダーウィンの「種の起源」も読まなくてはいけませんね。

チャイコフスキーはもともとチャイカさんだったとは

 東京都内のロシア料理店が、今回のプーチン大統領による蛮行で嫌がらせを受けている、というニュースに接しましたが、銀座の私がよく行く「マトリキッチン」の御主人は「大丈夫です。むしろ(お客さんが)増えたぐらいです」と仰っていました。

 でも、ニュースになるぐらいですから、何処かのロシア料理店が被害を受けているのでしょうね。私が東京都内で一番美味しいロシア料理店だと思っている高田馬場の「チャイカ」は、最近行っていないので、大丈夫かなあ、と心配しています。

 このお店は、恵雅堂出版創業(1950年)者の麻田平蔵氏が、満洲(現中国東北部)の哈爾濱学院第24期生ということで、学生時代にハルビンで食べたロシア料理が忘れられず、日本でもその味を再現しようと、1972年に開店したと聞いています。

 この渓流斎ブログで、恵雅堂出版から上梓された陶山幾朗編著「内村剛介ロングインタビュー―生き急ぎ、感じせくー私の二十世紀 」(2008年7月1日初版)の感想文を書いたことが御縁となり、同出版社のM氏と麻田社長と面識を得ることができまして、M氏らのお導きで何度か「チャイカ」で食事したことがあります。

 このことは何度もこのブログに書いたのですが、小生のミステイクで、2008年8月から2015年10月までの7年間のブログ記事が消滅してしまったので残っていません。同時に、もうあれから14年も経ってしまいましたから、ロシア文学者・評論家の内村剛介氏も、この本を編集された文芸評論家の陶山幾朗氏も、そして恵雅堂出版の麻田平蔵社長も鬼籍に入られてしまいました。

 「チャイカ」の話でした。何度もここで食事していたのに、つい最近まで、その意味を知りませんでした。駄目ですねえ(苦笑)。「かもめ」でした。アントン・チエーホフの名作「かもめ」から取ったのでしょうか。

 つい最近、知ったことは、チャイカというのはウクライナ人の苗字で多いそうです。あの有名な大作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーも、もともとチャイカさんというお名前でしたが、彼の祖父の代にロシア風にチャイコフスキーと改名したというのです。知らなかったなあ。

 チャイコフスキーの祖先はウクライナに領地を持つコサック出身のチャイカさんだったということですから、今の惨状を見たら、大いに嘆き、「悲愴」(交響曲第六番)を超えるような名曲を作曲するかもしれません。

 ちなみに、コサックとは、軍事共同体員のことですから、チャイコフスキーの家系は軍人が多く、父は軍の中佐で鉱山技師、祖父は軍医の助手、曽祖父は初代ロシア皇帝ピョートル大帝の下で活躍した軍人だったようです。

 それにしても、プーチンさん、貴方の好きなチャイコフスキーもきっと怒っていますよ!

プーチンの敗退を「予言」=「サピエンス全史」のハラリ氏ー英ガーディアン紙で

 相変わらず、ユヴァル・ノア・ハラリ Yuval Noah Harari 著「サピエンス全史」(河出書房新社)を読んでいます。今は、下巻の75ページ辺りです。

 彼の著作は、これ以外では、まだ「21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考」しか読んでいませんし、彼が主張することは全て正しい、とまでは思っていません。が、恐ろしいほどよく当たっています。未来への予知力があるのではないか、と思ってしまうほどです。

 彼は、人類歴史学者ですから、あらゆる万巻の関連書籍を読破していて、しかも、それら全てが頭の中にインプットされているようですから、人類が起こした過去の出来事や所作が分かっているだけではなく、これからの人類が仕出かす所業まで推測ができるようなのです。まるで、そこには(歴史的)法則があるかのように思えるので、「当たらずといいえども遠からず」と言った方が正しいかもしれませんが。

 彼は1976年生まれのイスラエル人ですが、頭脳明晰で大変優秀なユダヤ人の優越性を説くわけではなく、時にはユダヤ教を批判したり、イスラム教や仏教に対しても寛容な態度を示したりして(「21 Lessons」)、要するに学者としての中立性を担保しているところが私自身の彼に対する信頼度を高めています。

 となると、現在進行中のロシアによるウクライナ侵攻について、彼がどんな見解を持っているのか気になりました。

ミモザ

 2月28日付と、ほんの少し古いですが、彼が英有力紙「ガーディアン」に寄稿した記事が見つかりました。ロシア軍が侵攻してまだ4日も経っていない時に書かれたものです。タイトルは「なぜ、既にプーチンはこの戦争に負けたのか」Why Vladimir Putin has already lost this war と、かなり過激です。戦争が始まって3日しか経っていないのに、プーチンの敗退を「予言」しているからです。

 ハラリ氏は言います。「プーチンのロシア軍は全ての戦場で勝利を収めるかもしれない。しかし、戦争で勝利を収めることはない。…他国を征服できたとしても、占領し続けることは難しいー。この教訓は、米国がイラクで、ソ連がアフガニスタンで学んだことだ。…ロシア軍の攻撃でウクライナ人の死者が出る度に、ウクライナ人の侵略者に対する憎しみが深まっていく。この憎悪は心の奥底に刻まれ、何世代にも渡る抵抗運動につながっていく」と。

 そして、「残念なことだが、この戦争は長期戦になるかもしれない。色んな形を取りながら、何年も続くかもしれない。…とはいえ、ウクライナの人々は、新たにロシア帝国の傘下で生きることは望んでいない。このメッセージがクレムリン宮殿の厚い壁を貫いて届くにはどれくらいの時間がかかるのだろうか」と結んでいます。(私訳、意訳も含む)

アヤメ?

 昨日は、ロシア国営の「第1チャンネル」午後9時の看板ニュース番組「ブレーミャ」で、キャスターの後ろで、命懸けで、手書きの「反戦」ポスターを掲げた女性職員がいたことが世界中のニュースになりました。「ロシア軍に対する虚偽のニュースを流した」として禁錮15年の刑になりかねない行為だっため、大変勇気ある行動だったと思います。今、平和な日本ですが、NHKの職員がここまで時の政権に対して反旗を翻す人はいないでしょう。

 でも、先ほどの記事(ロシアによるウクライナ侵攻4日目)の中で、ハラリ氏は「ロシア市民の中で、あえてこの無意味な戦争に反対を表明する人もあり得る」Russian citizens can dare to demonstrate their opposition to this senseless war.と予言している箇所を見つけ、「あ、やっぱり、彼は予知能力がある人だなあ」と驚いてしまったわけです。

 【参考】

 The Guadian : “Why Vladimir Putin has already lost this war”

在日ウクライナ大使館に寄付しました

 これは書くべきかどうか迷ったのですが、先日、戦禍のウクライナ国民のために寄付しました。毎日、ロシアによる卑劣な空爆と攻撃で生命を落とし、隣国へ逃避しなければならないウクライナの人々が気の毒でたまらなくなったからです。

 とはいえ、三木谷さんのように自分のポケットマネーから10億円も寄付するわけにはいきません。無名の庶民ですから、そんな甲斐性がありません(残念ながら)。ほんのわずかな金額です。でも、大海の一滴かもしれませんが、「気持ち」として、寄付することにしたのです。

 さて、何処に寄付したらいいのか?

 最初、名のある国際機関にしようかと思いました。しかし、こういう国際機関に限って、一部幹部連中が甘い汁を吸って、私なんか見たこともないような年俸を獲得しているといいますから、私のわずかな寄付金でも奴らの懐に入ったらたまりません。他に民間団体も寄付活動をしていますが、悪いですが、どこまで明瞭会計で真摯に取り組んで頂けるのか、信用に値する根拠がありません。

 ということで、結局、在日ウクライナ大使館にすることにしました。ここなら、確実に母国に送金してくれることでしょう。同大使館は銀行口座番号を公表しております。

 要するに「気持ち」の問題です。もし日本が他国から侵略されたら、ウクライナの人から支援があるかもしれない、なんて卑しい根性はさらさらありませんからね。

 でも、正直、日本人はこのような寄付行為が苦手です。一番の理由は、組織や団体が信じられないからだと思います。逆に、信じる方がおかしいでしょう?

 ただ、ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」によると、現生人類は、7万年前から3万年前にかけて、「虚構」「社会的構成概念」「想像上の現実」を共有することによって「認知革命」が起き、生物界の頂点に君臨することができるようになったといいます。ハラリ氏はこう言います。

 百万長者の大半はお金や有限責任会社の存在を信じ、人権擁護運動家の大多数が人権の存在を本当に信じている。…人権も、すべて私たちの豊かな想像力の産物に過ぎないのだが。

 これは皮肉でも何でもなく、真実ですね。

 人類は、独裁政権を信じているから、独裁者を産んで、勝手し放題させているとも言えます。

 「プーチン大統領、貴方は間違っている。これ以上の殺戮行為はやめなさい」と、もしこの世に神が存在するなら、説諭してもらいたい。嗚呼、しかし、神も人類の豊かな想像力の産物に過ぎないとしたら…。身も蓋もない話になってしまいましたが、生きている限り、希望を棄てるわけにはいきません。

ウクライナの国旗かと思ったら…。駐車場のマークでした Higashi-Kurume City

【追記】2022年3月15日(火)

 希望的観測ですが、遅かれ早かれ、いずれプーチン政権は崩壊することでしょう。

 そんな政治的問題以上に、一番懸念されるのは、ロシアによる非人道的爆撃で、ウクライナ人の生命だけだなく、文化財まで喪失してしまうことです。黒海北部に当たるこの地は、紀元前8世紀から前3世紀にかけてスキタイ文化が花開いた所で、多くの遺跡物が博物館等で収蔵されています。

 これらは、ウクライナだけでなく、まさに世界の人類の遺産です。これらが損傷してしまっては取り返しがつきません。

 ロシア人が、アフガニスタンのタリバンが石仏を破壊したような同じ行為を断行とするとしたら、人類としてとても許せません。

生き延びるための楽観主義のすすめ=北条早雲、藤堂高虎にみる

 ロシアによるウクライナ軍事進攻は2週間以上経ってもいまだに続いています。平気で民間のアパートや病院、保育園などにもミサイルを撃ち込み、子どもや女性ら多くの社会的弱者が犠牲になっています。チェルノブイリ原発などまで占拠しています。狂気の沙汰です。

 まさに、民間人への殺戮であり、戦争犯罪です。それなのに、たった一人の誇大妄想の犯罪者を誰も止められません。 2022年2月24日を期して世界は一変しました。無力感に苛まれ、悲観的になってしまう人も多いと思います。

 そんな時こそ、逆に、あまり落ち込まない方がいいですね。

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 今の時代より遥かに生きるのが厳しく苛酷だった戦国時代に思いを馳せると、意外にも楽観主義者の方が長生きしています。その代表が北条早雲(1432~1519年)と藤堂高虎(1556~1630年)です。早雲は数えで88歳、高虎は75歳まで生きました。「人生50年」と言われた時代です。しかも、戦闘有事の乱世の時代です。当時としては、相当長生きだったことでしょう。

 小田原城主北条早雲は、後北条氏五代100年の礎を築いた人です。戦国時代で最初に下剋上で這いあがった武将とも言われます。謎の多い人物で、88歳ではなく、60代で亡くなったという説もあります。本人は生前、北条早雲と名乗ったことがなく、伊勢宗瑞、もしくは伊勢新九郎の署名が残っています。

 伊勢氏は室町幕府の足利将軍の申次衆(仲介役)を務める家柄で、早雲(と、します)も1483年、52歳で第九代将軍足利義尚(よしひさ)の申次衆を務めます。それが、守護の今川氏の後継者争いが起きたことから、急遽、遠江に下り、姉の北川殿(夫は八代今川義忠)が産んだ龍王丸(後の九代今川氏親、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の父)を擁立し、暫定的に守護職に就いていた小鹿範満(のりみつ=今川義忠の従兄弟)を討ち取ります。小鹿範満の背後にいた扇ガ谷上杉家の家宰太田道灌が暗殺されていなくなった隙をついたといわれます。そっかあー、北条早雲と太田道灌は同時代人だったんですね。

 この功績で早雲は1487年、56歳にして興国寺城(静岡県沼津市)の城主となります。これから権謀術数を弄して、まずは93年(62歳)に堀越公方を追放して伊豆を支配し、95年には64歳にして、ついに小田原城主となります。そして、仕上げは1516年、85歳にして相模を平定して、平安末期から続く有力大名である三浦氏を追放するのです。

 早雲はまさに大器晩成だったんですね。長寿の秘訣は、修善寺温泉などでの温泉療法と朝4時に起き、夜8時には寝る規則正しい生活。そして粗食(梅干しを好んだ)のようです。歴史家の加来耕三氏は、早雲の来歴を見て、「何事も気楽に考え、ストレスを溜めない。健康に留意し、重々しく考えず、切羽詰まらない生き方が良かったのではないか」と評しておりました。

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 もう一人の藤堂高虎も実に楽観主義者です。「築城の名人」として、宇和島城、今治城、伊賀上野城、津城(32万石)など20の城を手掛けたと言われるので、城好きの私としては、大ファンです。(是非とも行ってみたい!)

 しかし、高虎は、「世渡り上手」だの「薄情者」だのといった悪評に付きまとわされていました。主君を何度も何度も代えたからでした。でも、よく見ると、それは致し方なかった面があります。最初の主君浅井長政は織田信長に滅ぼされますし、300石の家臣として召し抱えてくれた羽柴秀長(秀吉の弟で、天下統一の立役者)は病死してしまいます。秀吉の家臣になりますが、関ヶ原の戦いでは東軍につきます。これは裏切り行為かもしまれませんが、徳川家康に懸けたということなのでしょう。(ただし、幕末の藤堂家は、恩顧ある徳川家を見限って、薩長主体の官軍に寝返り、「さすが高虎の子孫」と揶揄されたそうな)

 この功績で、藤堂高虎が家康から江戸に与えられた最初の屋敷の地名は、伊賀上野にちなんで上野と付けられたという説が有力です。つまり、東京・上野の本家本元は三重県の伊賀上野市ということになります。

 藤堂高虎は、近江の小土豪の次男として生まれましたから、家督は相続できず、自分の力で這いあがっていかなければなりません。嫌な仕事でも腐らず、最初は無給でも手柄を立てながらのし上がっていかなければなりません。高虎が築城の名人になれたのも、底辺から城づくりの基礎を学んでいったからだといいます。信長の安土城の築城にも参加し、この時、石垣づくりでは定評の石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)との交流を深め、今後の城づくりには欠かせなくなりました。これも、嫌な仕事でも前向きに受け入れていったお蔭だったようです。

 これまた、歴史家の加来耕三氏は「藤堂高虎は、190センチ、113キロという体格に恵まれ、明るい性格でした。良い方へ良い方へと楽天的に考える。そうすることによって、物事が良い方向に向かう。高虎は、苦手なことをこなせば、自分の『伸びしろ』になると考えていたのではないか」と想像していました。

 北条早雲と藤堂高虎という歴史に残る人物の共通点は、やはり、楽観主義にあったようです。

※BS11「偉人・素顔の履歴書」の「第19回  主君を7度も変えて出世した戦国武将・藤堂高虎 編」と「第20回  戦国大名の先駆け・北条早雲 編」を参照しました。

※諸説ありますが、藤堂高虎の主君は、7人ではなく、「「浅井長政⇒阿閉貞征(あつじ・さだひろ=長政重臣)⇒磯野員昌(かずまさ=長政重臣)⇒織田信澄(信長の甥)⇒羽柴秀長(秀吉の弟)⇒秀保(秀長婿養子)⇒豊臣秀吉⇒秀頼⇒徳川家康⇒秀忠⇒家光」の11人が有力です。

政商の正体を知りたくなって=武田晴人著「財閥の時代」を読んでます

 一昨日の渓流斎ブログでは、「今、10冊以上の本を並行して読んでいます。」と、偉そうにぶちかましてみました。一番古いのが、もう数カ月かけてチビチビと読み進めているアダム・スミスの「国富論」上下巻(高哲男訳、講談社学術文庫)です。そして、一番新しいのが一昨日取り上げたユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」上下巻(河出書房新社)です。その間に途中で摘まみ読みしている本が8冊ほどあるのですが、若くもないのに、よくもそんなことが出来るものかと思われることでしょう。

 その通りです。

 聖徳太子じゃありませんからね(苦笑)。途中で何のことが書かれていたか忘れ、目もシバシバでぼやけて、腰も肩も痛い。まさに、「少年老い易く学成り難し」です。でも、何を読んでも、辛い人生経験のお蔭で若い頃に分からなかったことが理解できるようになりました。

築地・海鮮料理「千里浜」

 特に40歳を過ぎた中年の頃から、会社員の私自身は、不遇の部署ばかりに塩漬けにされ、冷や飯ばかり食べさせられてきたので、虐げられた人々の苦悩がよく分かります(苦笑)。当時は悲憤慷慨して、ルサンチマンの塊になってしまいましたが、過ぎてしまえば、塩漬けも冷や飯も、なかなか「おつな味」だったと振り返ることができます。途中で何度もおさらばしたくなりましたが、「命あっての物種」です。何よりも、私を陥れた最低な人間たちは、気の毒にも、ことごとく早く亡くなりました。

 私の若い頃は、それはそれは純真でしたから、「転向」だの「裏切り」だのがとても許せませんでした。それだけでなく、「心変わり」も「日和見主義」も「勝馬に乗る」行為も許せませんでした。でも、沢山の本を読み、歴史上の人物を具に見ていけば、誰もが明日の行方を知ることができず、右往左往しながら、人を裏切ったり、出し抜いたり、洞ヶ峠を決め込んだりして生き残っていきます。

 もうこうなれば、「心変わり」も「日和見主義」も「優柔不断」も、現生人類(ホモ・サピエンス)の性(さが)だとしか言いようがありませんね。

 今はたった一人の戦争好きの暴君が世界中を引っ掻き回している時代です。

 若い頃から、人間とはそういうものなんだということを達観していれば、入院することもなく、あんなに苦悩まみれにならなかったものを、と今では後悔しています。

 本日は、武田晴人著「財閥の時代」(角川ソフィア文庫、2020年3月25日初版)を取り上げます。摘まみ読みしている本群の中の一冊です。この本は、国際経済ジャーナリストの友人から勧められましたが、長年疑問に思っていたことが少し氷解しました。

 長年の疑問とは、昭和初期に「5・15事件」や「2・26事件」などを起こした青年将校たちが、何故、あれほどまで財閥を敵視していたのか、ということでした。血盟団事件では、三井合名会社理事長の団琢磨(元福岡藩士、米MIT卒。日本工業倶楽部初代理事長、作曲家団伊玖磨の祖父)が暗殺されています。昭和初期は立憲政友会と立憲民政党の二大政党制で、政友会は三井と民政党は三菱と密接に結びついていたことはよく知られています。

 昭和4年(1929年)からの世界大恐慌の余波と東北地方での飢饉、政治家の腐敗という時代背景があり、一連の事件をきっかけに政党政治の終焉を迎え、軍事独裁国家に邁進する起因にもなりました。

 この本では、財閥の成り立ちについて、幕末(江戸時代)から筆を起こしてくれています。「政商」といえば、今ではTさんやMさんらのように、政官にべったりくっついていち早く情報をつかんで抜け駆けして甘い汁を吸う、狡猾で薄汚いイメージが強いのですが、もともとはそんな悪いイメージはありませんでした。むしろ、明治新政府は、欧米列強の植民地にならないように、「富国強兵」「殖産興業」政策を進め、そのためにも政商が必要で、逆に育成しようとさえしたというのです。

 明治の初め、人口の7~8割は農村に住み、農業に従事していました。鉱山開発や鉄道など工業がほとんどなく、基本的には、政府が農民から年貢・地租を取り、この税金を原資に近代化のための施策を行うことによって民間にお金が流れていくという、著者が造語した「年貢経済」システムでした。(P31)

 当時はほとんど年貢で苦しんでいる人ばかりなので、預金する余力はなく、都市にいる職人たちは「宵越しの金は持たない」気風なので、銀行に用がありません。結局、税金(地租)は商人たちが無利子で預かることができる土壌があったわけです。

 これがまさに「殖産興業」につながるわけですね。

築地・海鮮料理「千里浜」鯖塩焼き定食850円

 政商には、三井、鴻池、住友、小野組、島田組といった江戸時代以来の豪商と三菱(土佐の岩崎弥太郎)、古河(近江の古河市兵衛=小野組の丁稚奉公からの叩き上げ)、安田(富山の善次郎)、大倉(新発田の喜八郎)、浅野(総一郎)といった明治に入って勃興する新興財閥があります。現在残っている財閥もあれば、途中で淘汰された財閥もあります。

 淘汰された財閥の典型は、討幕派に援助してのし上がった小野組と島田組ですが、明治7年(1874年)、政府が清国との開戦に備えた軍事費調達で、官公預金の抵当を全額に増額したために破産に追い込まれます。その一方で、三井は三野村利左衛門が大蔵卿の大隈重信と掛け合って難局を切り抜けます。三井だけ助かった理由については諸説あるようです。

 元薩摩藩士で後に大阪商法会議所会頭まで務めた五代友厚は、染料業の失敗(この時、政府から借り受けた準備金約69万円の返納率はわずか8%!)と北海道開拓使払い下げ事件などで事業が頓挫し、五代家の事業は現在ほとんど残っていないといいます。 

勝鬨橋 隅田川

 この他にも、住友を救った番頭の広瀬宰平や、毛利家から莫大な借金をし続けた藤田組の話など、色んな話が出てきますが、話を簡略するために、私が一番驚いたことを書きます。この渓流斎ブログでは何度も取り上げておりますが、1881年に「明治14年の政変」が起きて、大隈重信が失脚します。(三菱財閥と縁が深かった大隈はその後、東京専門学校=早稲田大学を作ったり、立憲改進党を作ったりします。改進党は、憲政会となり、昭和初期の民政党の源流ですから、民政党と三菱との縁が続いたということなのでしょう。一方の三井は、伊藤博文らがつくった政友会とくっつくようになりますが、初期はどこの財閥も維新政府とべったりの関係です。)

 大隈失脚後の中枢政権を担ったのが、伊藤博文と井上馨です。その下で大蔵卿を務めた松方正義は日本銀行を設立し、この日本銀行だけを紙幣発行銀行とするのです。これは、西南戦争などで過剰に発行された政府紙幣や国立銀行券を回収し、紙幣価値を安定させようという目論見があったからでした。

 国立銀行の「国立」とは名ばかりで、全国に153行つくられましたが、例えば第一国立銀行は、三井と、小野組が出資して設立し、渋沢栄一が頭取を務めたように、れっきとした民間銀行です。それまで銀行券を発行する特権があったのに、その特権が剥奪されては倒産する国立銀行が多かったわけです。

 歴史は、政治上の人間の動きだけを見ていては何も分からないことを実感しました。経済的基盤や資金源、お金の流れといったことも重要です。ということで、私が今並行して読んでいる本群は、必然的に経済や社会科学関係の本も多くなったわけです。