昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」

 森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書、2022年2月28日初版)を読んでいます。出たばっかりの新刊ですが、「『懐かしの昭和』を食べ歩く](PHP新書、2008年)や「東京人」などに掲載された一部のお店を再取材して所収したものもありました。

 著者の森まゆみさんにはもう30年近い昔、彼女が「谷根千」の編集長として脚光を浴びていた頃に、会社の新年企画でインタビューしたことがあります。千駄木にある千代紙の「いせ辰」など彼女のお気に入りのお店を一緒に回った思い出があります。でも、こんな有名な作家になられるとは思いませんでした。「鴎外の坂」「彰義隊遺聞」(新潮社)など次々と力作を発表され、最近では「聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(亜紀書房)も出されています。(主人公の林聖子さんは、太宰治の「メリイクリスマス」のモデルになった少女で、新宿で文壇バーのマダムをやっていた人です。私も一度訪れたことがあり、「風紋」の同人誌のようなものを頂いたことがありました。先週2月23日、93歳で亡くなりました)

 森さんは、何でこんな筆力があるかと思いましたら、早稲田大学政経学部の藤原保信ゼミ出身だったんですね。「名伯楽」の藤原ゼミからは、奥武則、姜尚中、斎藤純一、原武史、佐藤正志といった今第一線で活躍する多くの学者を輩出しています。

上野・天ぷら「天寿々」

 さて、「昭和・東京・食べある記」ですが、ムフフフ、この中で取り上げられているお店は、結構、私自身も行っております。甘味は負けますが、居酒屋でしたら森氏以上に行っていると思います。王子の居酒屋「山田屋」には週2回も行っていた時期もありましたが、ボトルキープしていた焼酎を紛失されたのに全く責任を取らないので、行かなくなりました。十条の有名店「斎藤酒場」は、作家の中島らもがこよなく愛して、大阪からわざわざ泊りがけで通ったというお店ですから、その辺りの逸話にも触れてほしかったと生意気ながら思ってしまいました(笑)。

 森氏得意の歴史から、森鴎外も通った上野の蕎麦店「蓮玉庵」や夏目漱石も贔屓にした神田の洋食店「松栄亭」が登場するかと思いましたが、取り上げられていませんでした。その代わり、上野の「藪そば」、天ぷら「天寿々」、浅草の「駒形どぜう」、神保町の喫茶店「さぼうる」「ラドリオ」「ミロンガ」、渋谷の台湾料理「麗郷」、新宿の居酒屋「地林坊」、銀座のインド料理「ナイルレストラン」…といった昭和の香りがする、いわば手堅いお店が選ばれています。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」マルガリータ・ランチ13200円

 森氏は「聞き書き」が得意ですから、お店の御主人らにしっかり取材しています。特に、印象深かったのは、上野の洋食店「黒船亭」の三代目の須賀光一会長の話です。初代の須賀惣吉が明治35年(1902年)に栃木から東京に出てきて、色んな商売をした上で、上野に「鳥鍋」という料亭を始めたのが原点だそうです。初代惣吉は教育熱心で、11人の子どものうち男の子には家庭教師を付け、何人かは東京大学に進学したといいます。

上野・中華「東天紅」

 三代目須賀光一会長の父利雄(二代目)も東大の美学科を出て、大正6年(1917年)に「カフェ菊屋」を始め、当時としてはモダンな輸入酒やハヤシライスやオードブルを出していたそうです。昭和12年(1937年)には初代惣吉と二代目利雄は池之端に本格中華「雨月荘」を始めます。昭和19年に三島由紀夫が出版記念会を開いたのもこの「雨月荘」だったそうです。後に、この中華店は懇意にしていた小泉さんという人に譲り、今は「東天紅」になっているというのです。

 えーー、この東天紅は、私も学生時代、一日だけですが、ウエイターのアルバイトをしたことがありました(笑)。

 須賀一族は、このほか、日本料理「世界」や天ぷら「山下」や洋品店など色んな店を展開しますが、戦災などにも遭い、戦後、昭和44年に二代目利雄は、婦人用品店を兼ねた「レストランキクヤ」を始めます。この店にはジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻もみえ、写真が残っています。

 昭和61年(1986年)、その店を洋食「黒船亭」に代えたのが、この三代目の光一会長でした。残念ながら、私自身は、この店に行くといつも満員で、何人も行列をなして並んでいたので一度も入ったことがありません。この話を聞けば、いつか行くしかありません。

 ジョン・レノンも行った店ですし、こんな歴史のある店なら、30分ぐらい待ってもいいかもしれません。朧げな記憶ですが、確か戦前の「カフェ菊屋」時代、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実も、通っていたと思います。彼はかなりのグルメでしたから、結構、銀座、浅草など東京の高級料理店をはしごしているのです。

 【追記】

「黒船亭」のHPを見たら、現在は、4代目の須賀利光氏が店主になっておられました。

A four of fish に新たな解釈!=ビートルズ「ペニー・レイン」の歌詞

 時間が経つのがあまりにも速すぎます。60歳の1年は、20歳の頃の1年の3倍速く幾何学級数的に過ぎ去っていくと聞いてはいましたが、3倍どころか、30倍速く経過する気がします。

 昨日は2月26日。「キング・カズ」の誕生日かもしれませんが、やはり「2・26事件」の日でしょう。昭和11年(1936年)の事件ですから、もうあれから86年も経ったのです。先日、過去に放送された「NHK特集」の「2・26事件」を再放送していましたが、これが、何と1979年に放送されたものでした。今から43年前に放送されたものです。1979年の43年前は1936年ですから、ちょうど中間点になるのです。

 私からすれば、1979年は結構最近ですが、1936年は生まれていないので遠い歴史の彼方の出来事だと思っていましたが、なあんだ、つい最近と言えば最近だったのです。その通り、1979年の時点では、事件当時の生き残りの方が多くいらして証言されていました。反乱青年将校を説得した上官の奥さんとかでしたが、一番驚いたのは、東京裁判でA級戦犯となった鈴木貞一(陸軍中将・企画院総裁、1888~1989年)が当時健在で、山下奉文らと一緒に反乱軍鎮圧のための策を練ったり、説得したりしたことを証言していました。彼は100歳の長寿を全うしたので、当時91歳。千葉県成田市に隠遁していましたが、とても矍鑠していて肉声まで聴けたことで大いに感動してしまいました。

銀座・ドイツ料理店「ローマイヤー」本日のランチ(鱈のムニエル)珈琲付1100円

 さて、渓流斎ブログ2022年2月25日付「『ペニー・レイン』のA four of fishの意味が分かった!=ポール・マッカートニー『The Lyrics : 1956 to the Present』」で書いた通り、一件落着かと思っていたら、「英語博士」の刀根先生から、新たな解釈のご提案がありました。

 「ペニー・レイン」の a four of は、4人のグループのことでしょう。fish は『新入り』とか『その場に不馴れな者』『餌食』。そういう女の子たちが頻繁にやって来る。『4人』は無論ビートルズの面々に対応しての4人。fishがfish and chips を表しているというより、chipsの代わりにpies を置いている言葉遊び。言うまでもなくジョン・レノンのひらめきでしょう。in summer はどうなんでしょう。開放的で放埒だった女の子(4人が一組の)や自分等4人のその頃の姿、振る舞い…そこに力点があるような…自分はそんなふうに受けとめています。

 fish and chips がどこまでも安直な食べ物であったように、その頃の自分たち4人と女の子たち(の交渉)=fish and finger pies が一種安直であったように思えます。

 ひょっええー、全く想像もしなかった解釈でした。finger pies がリヴァプールのスラングで、「女の子とのペッティング」を意味するとしたら、十分にあり得ます。

 ただ一つ、難点があるのは、この曲がポールの子ども時代の回想だったとすると、まだ4人のグループは出来ていなかったことです。ジョンとジョージは幼馴染ですが、リンゴとはセミプロになった1960年ぐらいからの知り合いですから。

 恐らく、fish and finger pies は食べ物であることは確かでしょうが、歌詞ですから、二重の意味が込められていることでしょう。となると、four が「4人」なのか、それとも「4ペンス分」なのか解釈が別れます。前回書きましたが、4ペンス=17円ではあまりにも安過ぎるので、「4人分」と解釈する可能性も否定できません。

 ポールさん、どっちが本当か教えてください。

もう一つの赤穂浪士の物語=日暮高則著「板谷峠の死闘」

 皆様御存知の日暮高則氏の新著「板谷峠の死闘」(コスミック・時代文庫、2022年2月25日初版)を読了しました。本日は2・26事件の26日ですから早いでしょう?(笑)

 著者にとって、これが「時代小説デビュー作」ということらしいです。御本人からご連絡があったのは2月19日のこと。早速、ネット通販で注文したら21日に届き、翌日から読み始めましたから、3~4日掛かったことになります。「あとがき」も入れて327ページ。かなり長編の小説でした。

 副題に「赤穂浪士異聞」とある通り、もう一つの赤穂浪士の物語です。でも、「忠臣蔵」の大石内蔵助らは脇役で、この物語の主人公は大野九郎兵衛という播州赤穂藩の末席家老(禄高650石)です。本名大野知房という実在の人物で、忠臣蔵ファンにはお馴染みの「不忠臣」の代表格ですが、生没年不詳で、その生涯はそれほどはっきりせず、伝承だけは多く残している人物です。

築地「蜂の子」Bランチ 950円

 私自身はよく知らない人物だったので、途中で、「筆者後記」を先に読んだら、おぼろげながら大野九郎兵衛の人物像が分かり、筆者が何故、この人物を主人公に物語を書きたかったのか初めて分かりました。

 内容については、史実を基にしたミステリーのような推理小説のような、話がどう展開するのか分からない話で、ここで書いてしまってはタネ明かしになってしまうので触れません。ただ、タイトルの板谷(いたや)峠のことだけは説明しておきましょう。これは、福島と出羽の国境にある峠のことで、ここには大野九郎兵衛の供養碑が建てられているようです。筆者は、伝承を基に想像をたくましくして、この峠で、討ち入りに紛れて隧道から逃げ切った吉良上野介一行が、吉良の子息の上杉綱憲が藩主を務める米沢藩に逃れる途中で、後詰めの別動隊として任された大野九郎兵衛らと死闘を展開するという話を創作しました。あれっ?結構、内容を書いてしまいましたが、話はそれだけではありませんからね(苦笑)。

 他に登場する有名な堀部安兵衛はともかく、田中貞四郎、灰方藤兵衛、小野寺十内といった人物も、実在人物のようです。筆者は「忠臣蔵ファン」を自称するだけあって、多くの関連書を渉猟し、本当によく調べ尽くしております。病気療養中ながら、これだけの長編を仕立て上げた著者の筆力には感服いたしました。

埼玉県越生市 太田道真退隠地

 ただ、気になったのは「筆者後記」に掲載された板谷峠の現場写真がいずれもピンボケで、どうしちゃったのかな?と心配になりました。また、真面目な著者は、あまり宇野鴻一郎や川上宗薫さんらを読んだことがないせいなのか、その筋の描写がうまくないので、醒めて、むしろ恥ずかしくなってしまいます(笑)。無理して、エンタメにするつもりもなかった気がしました。

 もう一つ、「能楽」と出てきますが、能楽は明治以降の言葉で、江戸時代は、能とか猿楽とか言っていたようです。能楽ではなく、「謡曲」でもよかった気がしました。

 いずれにせよ、この小説が、多くの人の目に触れて、何かの文学賞を獲得して頂ければ、御同慶の至りで御座います。御意。

「ペニー・レイン」のA four of fishの意味が分かった!=ポール・マッカートニー「The Lyrics : 1956 to the Present」

 2月24日早朝、ついにロシア軍によるウクライナ侵略が始まってしまいました。

 あれだけ、銀座のロシア料理店のロシア人の女将さんに「戦争はしないようにプーチン大統領に伝えてください」と念を押したのに、ルビコン川を渡ってしまいました。

 プーチンは、最近、歴史書を読み漁っていたといいますから、自分がカエサルになったつもりなんでしょうか。まさに、意図的、計画的で、まず新ロシア派が実効支配するウクライナ東部ドネツク州とルガンスク州の南部「独立」を承認し、ミンスク合意を一方的に破棄。これは、先の大戦で日ソ中立条約を一方的に破棄して満洲(現中国東北部)に侵攻したソ連軍の手口に習っています。

 何よりも、プーチン大統領は、戦争とも侵攻とも呼ばず、あくまでも自存自衛のためのやむを得ない処置で、領土的野心はなく、ウクライナの「非軍事化」「無力化」が目的だと主張しています。

 事態は分刻みで変化しており、チェルノブイリ原発をロシア軍が占拠したという未確認情報まで流れ、予断を許されません。

 ブラジルのモウラン副大統領は24日、ウクライナ侵攻を、ヒトラーのやり方と同じだと非難しましたが、プーチン氏は、中国以外の全世界から非難される歴史に残る悪者になってしまいました。

 さて、本日書きたかったことは、ビートルズの「ペニー・レイン」の歌詞のことです。

 ポール・マッカートニー初の自叙伝とも言える新刊「The Lyrics : 1956 to the Present」(Penguin Books Ltd.)を私は「衝動買い」で買ってしまったのです。今年6月に80歳になるポールは人類史上最も成功した有名な音楽家だと思いますが、これまで自叙伝の執筆に関しては頑なに断ってきたといいます。

 その代わりに出版されたのがこの本で、1951年生まれのアイルランドの詩人でピュリッツァー賞も受賞しているポール・マルドゥーンを相手に、ビートルズ、ウィングス、ソロを含めた現在に至るまで作曲した154曲に関しての思い出と自分の人生を彼は語っています。通販で購入したこの本は、送料込みで何と1万3071円もしました。国際郵便の直輸入で3週間近く掛かり、上下2巻のハードカバー本で、これまた何と960ページもありました。

 この本を衝動買いしたのは、何と言っても、「ペニー・レイン」の歌詞のことが一番気になっていたからでした。実は、この曲に関しては、渓流斎ブログ2021年2月11日付で書いた「ビートルズ『ペニー・レイン』にはエッチな歌詞も?」で取り上げたことがあります。

 お手数ですが、リンクを貼った上の記事をもう一度読んでほしいのですが、はい、読まれましたね? ということで次に進みます(笑)。

 私が最も不可解だった歌詞「Full of fish and finger pies」は、この本では「A four of fish and finger pies」となっていました。作曲者のポールの本ですから、こちらが正解なのでしょう。となると、A four of fish とはやはり、「4ペンス分のフィシュ&チップス」という意味なのでしょうね。残念ながら、この箇所について、ポールは一言も触れていません。

 日本人として分からないのは、four という複数なのに、何故、a という単数の不定冠詞が付くのかということです。マニアのサイトの中には、A four pennyworth of fish (4ペンス分のフィシュ&チップス」と説明する人もいます。これなら、He is a four-year-old boy. と同じような使い方だったのかな、と外国人でも想像できます。

 さて、「4ペンス分のフィシュ&チップス」とは日本円で幾らぐらいか気になりました。この曲が発表された1967年時点での英国の物価はよく分かりませんが(笑)、為替レートなら分かります。

 当時はまだ固定相場制で、1ポンド=1008円でした。そして、1971年2月15日以前は、1ポンド=20シリング=240ペンス(ペニーの複数)でした。ということは、1ペニー=1008円÷240=4.2円となります。ということは、4ペンスなら16.8円。当時、フィシュ&チップスがそんな安く買えたんでしょうか?

 ちなみに、現在1ポンド=154円ぐらいです。目下、英国ではフィシュ&チップスは、安い屋台売りから高級レストランまでピンからキリまであり、大体400円~3000円といった感じらしいです。となると、いくら1967年でも17円は安過ぎます。

 恐らく、ポールは子ども時代の思い出を唄っているので、4ペンスは1950年代の値段なのでしょう。そして、子供用に小量の4ペンス分のフィシュ&チップスが売られていたのでしょう。私が子どもの頃の1960年代、駄菓子屋さんでデッカイ飴玉が5円で買えましたからね。

 この本でポールが「ペニー・レイン」の歌詞の中で触れていることは、「Penny Lane is in my ears and in my eyes」の箇所です。in my eyes は今でも目に浮かぶ、といった感じですが、in my ears というのは、当時、ポールはこのペニー・レイン(という名の通り)にあった聖バーナバス教会の少年合唱団に参加していて、当時歌った讃美歌などを思い出すといった意味だったのです。

◇英霊記念日

 もう一つ、A pretty nurse is selling poppies from a tray の箇所。「可愛らしい看護師がお盆に載せたポピー(ケシ)の花を売っている」といった意味です。このポピーがpoppiesではなく、アメリカ人はpuppies(子犬) だと勘違いしている、とポールは発言しています。そして、このpoppies とは生花ではなく、paper poppies and badgesのことで、紙で出来たポピー、つまり造花だと説明しています。英国では11月11日は、rememebarance day(英霊記念日)と呼ばれ、第1次、第2次世界大戦で戦死した兵士を慰霊する日です。(1918年11月11日、第1次世界大戦終結を記念して英国王ジョージ5世によって定められた。)

 この日は、英国ではヒナゲシの造花のバッジを胸に付ける風習があるのです。看護師さんがペニー・レインのバス停の待合所近くでその造花バッジを売っているのをポールが子どもの頃見ていたので懐かしい思い出として振り返っていたのです。恐らく、日本の赤い羽根運動みたいで、売上は慈善団体に寄付されていると思われます。

 なあるほど。そうでしたかあ。実に奥が深い!

勝ち馬に乗って武力だけが頼みの世界=細川重男著「頼朝の武士団」を読了して

  細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を読了しました。

 当初、一昨日の渓流斎ブログ「鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?」に【追記】として添え書きしようかと思ったのですが、少し長くなってしまうかもしれませんので、章を改めることに致しました。

 この本の前半の3分の2ほどは、2012年に洋泉社歴史新書yの1冊として刊行され、絶版となっていたのを改めて、朝日新書として後半3分の1ほどを書き加えて9年ぶりに再発行したものでした。前回も書きましたが、前半はちょっと人を喰ったような書き方でしたが、後半は、そういった筆致は改められて結構真っ当に学術的に書かれています。版元が変わるとこうも違うのでしょうか?

 前半は、源頼朝の生い立ちから薨去まで。書き加えられた後半は、頼朝薨去から承久の乱を経て伊賀氏の変の結末に至るまで描かれ、著者の言うところの頼朝の武士団の「完全版」となっています。前半も後半と同じようにあまり羽目を外さずに記述されていれば、これから800年は読み継がれる名著になっていたでしょうから、惜しまれます。

 それでも、非常に面白く、勉強になりました。

 私は学生時代に「平家物語」は、途中で挫折してしまったのですが、一番印象深かったのは、熊谷直実の逸話です。一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ち取りますが、息子ほどの年齢の若武者の命を奪ったことで無常観を感じて、出家する動機となり、法然上人に弟子入りする話はあまりにも有名です。この話はその後、能や人形浄瑠璃、歌舞伎でも題材として取り上げられました。

 私は、この熊谷直実の軍団は数千規模の大きなものだと思っていたのですが、熊谷氏は直実と子息直実と家臣(旗差し)のたった3人しかいなかったんですね。「平家物語」巻九「一二之懸」にあるらしいのですが、忘れておりました(笑)。

 何と言っても、頼朝の御家人のトップ3といえば、相模の三浦氏(義澄、義村)、下総の千葉氏(常胤)、下野の小山氏(政光)だといいます。総勢2万騎と日本一の軍団を誇った上総広常は、頼朝が脅威を感じて、恩人だったはずなのに、結局、梶原景時に暗殺させています。(当時は、文字通り、多くの家臣も「鞍替え」して裏切ったりして、皆、疑心暗鬼で、親分・子分との間の抗争は激しかったことでしょう。)

 このビッグ3の三浦、千葉、小山、それに足利、新田、比企などは現在でも残っている地名ですが、どうやらこれらの苗字は、所領、つまり地名から来ているようです。でも、鶏が先か、卵が先か、どちらか分かりませんが、恐らく、地名から苗字になったということなのでしょう。他に、渋谷重国、江戸重長、葛西清重、海老名秀貞、河越重頼ら地名のような東国武将が登場しますが、こちらも所領名と関係がありそうです。

鎌倉 畠山重忠邸跡

◇源氏政権は平氏がつくった?

 この本の巻末の系図は大いに参考になりました。よく見ると、鎌倉幕府を成立させて源氏再興に貢献した北条氏も、三浦氏も、鎌倉党の梶原氏も、秩父党の畠山氏も、上総氏も千葉氏も、ほとんど皆、桓武平氏の流れを汲んでいるのです。

 あれっ?という感じです。天下を取った平清盛は、桓武平氏の中の「伊勢平氏」という一分派で、この分派が権力を独占したため、他の分派が反旗を翻したように見えます。前回にも書きましたが、源氏と平家との間の策略的な婚姻関係があり、源氏だろうが、平氏だろうが、各々お家のために、勝ち馬に乗ることが先決だったのでしょう。こういうことは現代人もやってますよね?(爆笑)。

 よく、鎌倉時代は、暗殺と粛清が横行し、言葉が通じない野蛮な世界というレッテルが貼られますが、当時は憲法もなく、法律も形骸化された、いわば無法地帯で、武力だけが頼みの世界でしたから、本能の赴くまま、太く短く生きるしかなかったのかもしれません。

 著者も書いている通り、頼朝の挙兵に参加した坂東武士たちは、一か八かの大博打に賭けたというのは、真実でしょう。

鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?= 細川重男著「頼朝の武士団」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法に洗脳されて、「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読破しましたが、どうしても、これだけでは少し物足りなかったので、細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を購入し、読んでみました。

 著者の細川氏は、立正大学で博士号を取得され、現在、國學院大學で非常勤講師をされている方だと略歴に書かれていますが、随分、人を食ったような書き方をされています。御本人はウケを狙って、劇画チックに書かれているようですが、一応、学術書気分で読み始めた読者からみれば、滑りますね(笑)。鎌倉時代の話なのに、例証としてマフィアやキャバクラ嬢やAKB48などが登場したり、大胆にも「今様(当時のポップス)」「白拍子(アイドル歌手)」などと解説?されたりしておられます。

 勿論、それらは一部の話で、「猶子(ゆうし=財産相続権の無い養子。子供待遇)」「衆徒(しゅと=いわゆる僧兵だが、僧兵は江戸時代の言葉)」などと極めて真面目に説明はされていますが…。

 何で、1962年生まれの著者は、こんな斜に構えたような書き方しかできないのか? この本の224ページに著者はわざわざこんなことを書かれております。

 卒業した大学を「弱小私大」「三流大学」と嘲笑われ、研究者として実力とは無関係に、卒業した大学を理由に、「一流大学」とやらを出たヤツらから見下され、ハラワタが千切れそうなほど悔しい思いを、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、…して来た私には(以下略)

 どうやら、私のように、著者は性格が捻くれてしまったようですが、それは読者にとって預かり知らぬことで、特に、知らなくてもよかったこと。ブログならともかく、せっかく素晴らしい著作なのにその評価を酷く、酷く、酷く、酷く、酷く、…貶めてしまった結果になってしまいました。

東銀座「大海」とり天カレー950円

と、多少、文句を書き連ねてしまいましたが、非常に勉強になる本でした。恐らく、「鎌倉殿の13人」の脚本を書かれている三谷幸喜さんが最も参考にした本だと思われるからです。内容は、鎌倉時代の正史と言われる「吾妻鏡」を時系列にほぼ正確に追って記述しております。

 ですから、私が「歴史人」と「歴史道」でせっかく覚えた鎌倉殿の13人の一人、安達盛長は本当は小野田盛長だったことや、二階堂行政も中原親能も藤原姓を名乗ったりしていたことなどをこの本で知りました。

 何と言っても、巻末に「系図」が付いているので、人物関係がすっきりと分かります。当時は、高貴の身分の子どもは実の親ではなく、乳母(めのと)によって養育され、乳母の子供たちは乳母子(めのとこ)とか乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、成長すると最も信頼する家臣になることが分かりました。(源頼朝には比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母の4人の乳母がいた。例えば、小野田盛長と比企能員は、頼朝とは比企尼つながり、八田知家、小山政光らとは寒河尼つながり、など)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 この本を購入したのは、頼朝の家臣団や御家人のことをもっと知りたかったからでした。生き残った彼らは、後の室町、戦国、江戸時代(いや、現代)まで活躍するからです。

 源頼朝は、清和天皇の流れを汲む「清和源氏」の一派である「河内源氏」の系統であることはよく知られています。それ以外はほとんど滅んでしまいますが、摂津源氏の流れから美濃源氏が生まれ、そこから室町時代の守護になる土岐氏が出てきます。河内源氏から常陸の佐竹氏(江戸時代に出羽・久保田藩に移封され、現在、秋田県知事を輩出!)、それに甲斐源氏である武田氏(勿論、戦国時代の武田信玄が有名)が出てきます。

浄土宗 東光山英勝寺

 以前、私が昨年、鎌倉を取材旅行した際、太田道灌ゆかりの英勝寺がもともと源義朝(頼朝の父で、平治の乱で敗退し家臣によって殺害される)の屋敷跡だったことを知り驚いたことを書きました。

 頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、父祖の地だったからでしたが、それはいつ頃だったのか、この本に回答がありました。河内源氏の祖は平忠常の乱を平定した源頼信ですが、その嫡男の頼義(前九年の役を平定)が、その義父に当たる平直方から鎌倉の領地を拝領したというのです。(頼朝にとって頼義は四代前の祖先に当たる)

 平直方は桓武平氏です。源平合戦になる前は、結構、源氏と平家の姻戚関係は濃厚だったんですね。何と言っても、北条時政も北条義時もこの平直方の子孫なのです。時政は平直方の曾孫と結構近い。

 石橋山の合戦で頼朝軍を敗退させた大庭景親は、伊勢平氏の「東国ノ御後見」でしたが、景親の兄の大庭景義は源義朝の家臣で保元・平治の乱にも参戦し、そのまま頼朝の家臣として仕えてますから、親子、兄弟の間で、源氏と平氏と別れて戦った例が数多あったことでしょう。

 石橋山の合戦で敗れて安房に敗走した頼朝に対して、2万騎もの兵を引き連れて参戦した上総広常は、後に頼朝の命で梶原景時によって暗殺され、その梶原景時も北条義時らによって滅亡され、この他、頼朝の御家人だった和田義盛も、畠山重忠も、比企能員も、三浦義村の嫡男泰村もほとんど粛清されていきます。スターリンも真っ青です。

 何と言っても、河内源氏も三代将軍実朝の暗殺で滅んでしまうわけですから、いやはや、著者が引用するマフィアも吃驚です。平氏滅亡の殊勲者である源義経も、兄の頼朝の命で殺害されたわけですし、鎌倉幕府は、暗殺とテロと暴力と陰謀が蔓延った世界だったというのは大袈裟ではないかもしれません。

団塊の世代が起こした凄惨な歴史=連合赤軍「あさま山荘事件」から50年

 2月19日は、連合赤軍による「あさま山荘事件」発生から50年ということで、新聞各紙が特集してくれています。

 もう半世紀も経つので、同時代人として生きた人はもう少ないと思います。私自身は、事件関係者とは何の接点もありませんでしたが、「最後の世代」として目撃し、人生最大の衝撃的な事件の一つでした。勿論、テレビの生中継には釘付けでした。

  事件に参加して逮捕された最年少者に、私と同世代の16歳の少年がいたことが衝撃に拍車が掛かりました。一連の連合赤軍内部の集団リンチ事件は、14人もの若者が殺害された驚愕的で悲惨なものでしたが、赤軍派の指導者森恒夫(大阪市立大出身、拘置所で自殺。行年28歳)と革命左派の委員長永田洋子(共立薬科大・現慶大薬学部出身、拘置所で病死、行年65歳)は、逮捕当時ともに26歳で、戦中生まれ。いわゆる団塊の世代(1947~49年生まれ)より一つ、二つ上で、団塊世代を統率する立場にいました。「団塊世代の後はぺんぺん草も生えない」と言われた次の世代である我々の世代は、「白け世代」(大学紛争が挫折したため)とも言われましたが、ギリギリ、全学連を中心にして盛り上がった政治闘争に参加できた世代でもありました。

 要するに「他人事」ではなかったのです。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」

 ちょうど、高度経済成長が終わりかけて停滞期に入り、その一方で、公害問題が騒がれ、社会的弱者が虐げられ、ベトナムではいまだに戦争が続き、社会的矛盾を革新する運動が盛り上がっていたという時代背景がありました。でも、これら一連の連合赤軍事件のお蔭で、左翼的革命運動は下火となり、当然ながら共感していた多くの市民も離れていきました。

 皮肉なことに、学生運動の最後の世代(1950年代生まれ)が、その四半世紀後にオウム真理教事件を起こすのですから、次元や思想背景が全く違うとはいえ、真面目なエリートのインテリ階級が社会を変革しようとして起こした事件という意味では共通したものがあります。

 ただ、オウム事件の場合、教祖の空中遊泳のトリック写真に騙されて入信したインテリたちのその洞察力と想像力と思慮のなさと世間知らずのお坊ちゃん、お嬢ちゃんぶりには漫才のような滑稽味がありました。

 一方の連合赤軍事件の当事者たちには、少なくとも社会の矛盾と正面から向き合うひた向きさがありました。理想に燃える純粋さがありました。とはいえ、彼らは恐らく、マルクスはおろか、ジョン・ロックもアダム・スミスもケインズもルソーも読んだことがなかったでしょう。インテリとはいえ、組織となると、教条主義的に人を支配しようとする本能が打ち勝って、あのような凄惨な事件を起こしたのでしょう。

 「山岳ベース」という世間から閉ざされた密室の中で、皮相な正義感に加えて、集団真理と同調圧力が蔓延し、「総括」の名の下で、戦慄的な集団リンチ殺人という連鎖が黙認されました。

銀座・宝珠稲荷神社

 連合赤軍兵士の生き残りとして、懲役20年の刑に服役して出所した後、後世への証言者として謝罪と反省の日々を送る植垣康博氏(1949年生まれ)は、2月16日付の毎日新聞のインタビューの中で、ドイツなどは、組織の下部の者が指導部に間違っていることを「おかしい」と言えるほどメンバーの個人が自立していたのに、日本の場合は、個人でものは考えられなかった、と振り返っています。まさに、催眠術にかかったように洗脳されてしまったのでしょう。先の大戦中の一兵卒と同じです。

 そんな「個」がなく、指導者には絶対服従で、集団真理に左右され、同調圧力peer pressureに屈しやすい日本人のエートス(心因性)は、オウム真理教事件でも遺憾なく発揮され、現在のさまざまな社会的な事件でも反映されています。

銀座・宝珠稲荷神社

 連合赤軍事件から半世紀が経って「歴史」となり、当時生まれていなかった大学教授の研究対象になりましたが、恐らく、何であんな事件が起きたのか解明できないことでしょう。だから、あの時代の空気を吸っていた者の一人として、今回、当時体験した「皮膚感覚」をブログに書いてみたかったのです。

 今振り返れば、団塊の世代は、あまりにも人が多過ぎて生存競争が激しかったことが遠因になったと思います。人は、何も群れることはないということです。人間、所詮、孤独な生き物です。「一匹狼」でも何ら恥じることはない。堂々と胸を張って生きていいということです。

【追記】2022年2月20日

 ビートルズに「レボルーション」という曲があります。1968年にシングル盤「ヘイ・ジュード」のB面として発表されました。当時は「68年世代」と言われるほど世界的に学生運動が盛り上がった年でした。この「革命」という曲を作ったのは恐らくジョン・レノンで、彼は「君たちは革命を起こしたいんだね。俺たちは皆、世の中を変えたいからね。でも、それが破壊工作なら、僕は抜けるよ。当てにしないでくれ」と言ってます。しかも、「とにかく、毛沢東の写真を持ち歩いているようでは、誰ともうまくやっていけないよ」とまで唄っているのです。

 毛沢東は「大躍進」と「文化大革命」という権力闘争の末、5000万人もの人民を虐殺したとも言われていますが、ジョン・レノンはそこまで、その事実を当時は知らなかったと思います。

 それにしても、ジョン・レノンには先見の明があり、天才だったんですね。

ロシアも欧米も妥協して戦争回避するべきだ=ウクライナ問題

 もうここ1カ月以上も、ウクライナ情勢が懸念されています。

 ロシアがウクライナに侵攻すれば、第3次世界大戦が勃発するのではないか、と言う評論家もいるぐらいです。

 我々、日本人は米国支配下の「西側」諸国に属しているせいなのか、メディアの翻訳報道によって、悪いのはロシア人だと一方的に信じ込まされています。私自身も、先の大戦で、日ソ中立条約を一方的に破棄して60万人もの日本人をシベリアに抑留し、いまだに北方領土を返還しないロシアは好きになれませんから、その通りだと思っていました。でも、実体はそんな単純なものではないようです。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【前菜】コンソメロワイヤルのパイ包み焼き 春野菜のベニエを添えて

 「ロシア=悪」「西側=正義」の図式を考え直すきっかけとなったのは、先日、行きつけの東京・銀座のロシア料理店に行った時、そこのロシア人の女将さんに話を聞いたからでした。その店は御主人が日本人で調理と会計を担当し、そのロシア人の奥さんは料理を運んだり給仕をしたりしています。人気店なのでいつもお客さんがいっぱいで、二人とも息つく間もなく、てんてこ舞いです。

 ですから、あまり話しかけるのも気が引けていたのですが、今回はウクライナ問題のことをどうしても知りたかったので、帰りの会計の際に、御主人に聞いてみたのです。

 「奥さんはウクライナ人ですか?」

 「いや、ロシア人ですよ」

 「今、大変ですね」

 「本来、ロシア人もウクライナ人もほとんど一緒ですから、戦争になるわけないんですけどねえ」と御主人。

 そこで、私はロシア人の奥さんに向かって、半ばジョークで、

 「戦争しないでくださいよ。プーチンさんに伝えてください」と忠告してみました。

 すると、奥さんは流暢な日本語で、

 「戦争したいのはアメリカ。ロシアは戦争なんかしたくありませんよ」と反論するではありませんか。

 なるほど、普通のロシア人の「庶民感覚」を教えてもらった気がしました。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【メインディッシュ】あぶくま三元豚のロティ 福島県産あんぽ柿とクリームチーズのクルートをのせて

 ロシア側からすると、悪いのは米国ということになります。ウクライナのコメディアン出身のゼレンスキー政権が、ロシアを仮想敵国とする北大西洋条約機構(NATO)に加盟しようとしたのがきっかけです。これでは裏庭に敵が土足で踏み込んできたことに他ならなくなります。もっと言えば、首筋に匕首(あいくち)を突き付けられた感じか? プーチン政権も「仕方なく」、ウクライナとの国境付近に15万人規模の軍部隊を集結させ、米欧にNATO不拡大を要求せざるを得なくなった、というのが、ロシア側の主張になります。

 情勢を冷静に見れば、ウクライは、親ロシア武装勢力が支配する東とウクライナ民族意識が強い西側と分裂している状態です。2014年にウクライナのクリミア半島がロシアにあっさりと併合されたのも、ロシア系住民か、シンパが多かったからでしょう。 

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【デザート】“ムッシュ ポール・ボキューズ”のクレーム・ブリュレ

 要するに、今回の問題は、人口約4500万人のウクライナが、天然ガスなどの資源も含めた経済的基盤と軍事的支援を欧米にするか、ロシアにするか、選択の問題だと言えるでしょう。覇権主義の問題です。でも、ウクライナはどちらかを選ぶことなく、曖昧な玉蟲色的な選択にすることはできないでしょうか。

 戦争はいつの時代も「正義のため」「自衛のため」「自存のため」為政者によって始まります。ロシア人も米国人も「戦争はしたくない」というのが庶民感覚なら、為政者は平和的な外交で決着を付けるべきです。

 戦争になれば多くの人が犠牲になります。いくらロシア嫌いの日本人でも、ドストエフスキーやトルストイ、それにチャイコフスキーを愛してやみません。それは、世界でも類を見ないほどです。将来のドストエフスキーにでもなれたかもしれないロシアやウクライナの若者が戦争によって犠牲になってしまっては居たたまれません。

 為政者の皆さんには、戦争だけは回避してもらいたい。

 激震の1990年代の放送界を振り返る=隈元信一著「探訪 ローカル番組の作り手たち」を読みながら

 隈元信一著「探訪 ローカル番組の作り手たち」(はる書房、2022年2月11日初版)を読んでおります。

 全国放送のキー局ではなく、地域に密着した地方のラジオ、テレビの番組を制作するプロデューサーやディレクター、アナウンサーらを訪ね歩いてインタビューしたルポで、日本民間放送連盟が発行する隔月刊誌「民放」に連載していたのを加筆修正したものです。

 書店向け?のパンフレットを見ると、著者は、北海道から沖縄まで全国津々浦々の53の放送局などを訪ねて、まさに足で稼いで書いた労作と言えます。原稿料は高額とは思えず、取材費は相当本人が「持ち出し」たことでしょう(笑)。

 著者の隈元さんは、元朝日新聞論説委員で、長年、放送行政や番組等の取材に携わってきた方です。新聞社在職中から退職後も母校の東大や青学大などの大学で講師として教壇に立ち、後進を指導してきました。

 その隈元さんとはもう30年以上昔の1990年、東京・渋谷のNHKの11階にあった放送記者クラブ「ラジオ・テレビ記者会」で私も御一緒し、裏社会のように(笑)しのぎを削ったものでした。というより、私の方が何も知らない新参者だったので一方的にイロハを教えてもらったものでした。

 当時のNHKは、「シマゲジ」と呼ばれた政治部宏池会担当だった島桂次さん(故人)が会長で、民放が反発するほど商業化路線を進め、そのいわゆる独裁的采配が色々と週刊誌ネタになるほどで、私も本当に孤軍奮闘で「夜討ち朝駆け」で取材したものでした。

 NHKという大所帯の公共放送は、予算が国会で承認されなければならないので、人事権まで有力国会議員に握られています。NHKの許認可省庁は当時郵政省でしたから、いわゆる「郵政族」と呼ばれる国会議員が幅を利かしていました。島会長は、放送衛星打ち上げにまつわり、国会での虚偽答弁問題が起こり、会長の地位が危ぶまれた時に、当時「郵政のドン」と言われた野中広務氏(故人=後の官房長官、自民党幹事長)を議員宿舎まで私も夜討ちしたものでした。

 忍者のような奇妙な動きをするよく太った日経記者の裏を掻い潜って、担当記者が少ない零細企業同士である(失礼!)毎日新聞の浜田記者とタッグを組んで野中氏を急襲したのですが、意外にもあっさりと部屋の中に入れてくれて、色々と話をしてくれたものでした。

 それでも、隈元さんら、人数が潤沢な朝日チームは一歩も二歩も他社をリードし、次期会長候補までつかんでおりました。何と言っても、島会長の国会虚偽発言疑惑は、朝日新聞のスクープでしたから。

 本の内容から少し外れてしまいましたが、NHK記者クラブでの御縁でその後も、隈元さんを始め、当時の記者たちとの付き合いは40年近く経っても続いています。この本の巻末で、「あとがきにかえて」と題して、「隈元出版基金呼びかけ人」でTBSディレクターだった石井彰氏が「放送記者三羽ガラス」として隈元さんのほかに、読売新聞の鈴木嘉一氏、毎日新聞の荻野祥三氏の名前を挙げておられますが、肝心な御一人を忘れていますねえ。その人は「扇の要」のような仕掛け人でしたが、実は放送事業者として情報収集する裏の顔を持ち、表に出たがらない黒幕記者だったので敢えて名前は秘すことにします(笑)。

 とにかく、当時のNHK記者クラブは梁山泊のような溜まり場でした。もう鬼籍に入られましたが、日経から立命館大教授に転身した松田浩さんや、ザッキーことサンケイスポーツの尾崎さん、東京新聞の村上さん、産経の岩切さんと安藤さん、報知の稲垣さんら「雲の上の存在」だった大御所と、スポニチの島倉記者、日刊の新村記者、東タイの安河内記者ら奇跡的にも本当に優秀でユニークな記者揃いでした。

 私は会社の人事上の一方的都合で、放送記者会にはわずか1年半しかいませんでしたが、先程の恐ろしい黒幕さんが、情報交換会とも言うべきセミナー会合を毎月1回は、東京・渋谷のおつな寿司で開催してくれたので、彼らとの交流はその後も続いたわけです。

◇361人からの募金

 さて、この本の「まえがき」や「あとがき」にも触れられているように、著者の隈元さんは、昨年夏に病気が見つかり、今もそのリハビリの真っ最中です。高額の治療費が掛かっていることから、あとがきを書かれた石井氏らが「隈元出版基金呼びかけ人」となり、SNSなどを通して出版のための募金を呼び掛けたところ、何と、昨年末の時点で361人もの人からの応募があったといいます。信じられないくらい凄い数です。こんなに多くの人から愛されているのは、隈元さんの人徳でしょう。

 私が放送担当記者だった30数年前、BSだけでなく、CSなどマルチ放送が始まり、「ニューメディア」と呼ばれていました。私も黒幕さんのお導きで取材先を紹介してもらい、(その中には東急電鉄現社長の渡辺功氏までおります)連載企画記事を書いたことがありますが、激動の時代でした。そんな中、地方局は、キー局からの番組配信を受けるだけで制作すら出来ない「炭焼き小屋」になってしまうという理論が流行しました。

 しかし、おっとどっこい。この本に登場する人たちのように地元に立脚した地方でしか出来ない質の高い番組を制作する人たちがいて、炭焼き小屋になるどころか、地元の視聴者からの熱烈な支援も得ているのです。特に、日本は「災害王国」ですから、災害放送する臨時ラジオ放送局がどれだけ役立ったことか。

 一方、NHKの凋落は惨憺たるものです。失礼ながら、NHKのニュースは、見るに値しないほどつまらない。全国一斉中継なのに「東京23区大雪警報」(結果的に外れた)を長々とやったり、汚職と疑惑だらけの五輪放送を垂れ流したりして倫理観すら疑われます。

 その点、30年前の島桂次会長には先見の明がありました。英BBC、米CNNに追いつけ追い越せとばかりに、グローバル・ニューズ・ネットワーク(GNN)構想を打ち出しましたが、途中で失脚してしまいました。結果的に急進的過ぎたことが難点でした。が、島会長の右腕と言われた、NHKの広報室長だった小野善邦氏(故人)が書いた「本気で巨大メディアを変えようとした男―異色NHK会長『シマゲジ」」(現代書館、2009年5月)を読んで、初めて島会長の目指した真意が分かり、結果的に「島降ろし」のお先棒を担いだことになった我々も反省したものでした。

 隈元さんは、驚異的なリハビリの末、回復に向かっていると聞きます。次の著作は是非、あの大手商社も絡んだ1990年代の放送界の激動史を書いてもらいたいものです。

【追記】当日

本文中に「忍者のような奇妙な動きをするよく太った日経記者の裏を掻い潜って」と書いたところ、早速、熱心な愛読者の方からメールが来ました。

 「その太った日経記者は、クイズ王の西村氏でしょうか?」

 クイズ王の西村? クイズ番組は見ないので知らなかったのですが、検索してみたら、元日経記者のクイズ王として西村顕治氏が出てきました。そして画像が出てきたので見てみたら、どうも彼らしい。彼は1965年生まれということで、1990年は25歳。当時、20代の若手に見えたので可能性は十分。確か政治部記者らしかったので、直接の接点はあまりありませんでしたが、体格が良くても忍者のように足が速く、敏捷性がありました。我々が議員宿舎前に着くと、サッと柱の陰に身を隠しておりましたが、如何せん、体格が良いので、柱からはみ出て丸見えでした。

 そんな懐かしいことを30年以上ぶりに思い出しました。

政界の黒幕と義仲寺との接点とは?=「裏社会の顔役」(大洋図書)を読んで

 この雑誌、タイトルもおどろおどろしいですし、買うのも憚られるものですが、迷うことなく買ってしまいました。「手元不如意」ではなく、地元の健康キャンペーンに応募したら1000円の図書券が当たり、「何にしようか」と書店に行ったら、すぐにこの雑誌が目に入ったからでした。

 ちょうど1000円でした。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 内容は、この雑誌の表紙に書いてある通りです。

・日本を動かしたヤクザ 山口組最強軍団柳川組「柳川次郎」、伝説のヤクザ ボンノこと「菅谷政雄」

・愚連隊が夜の街を制した●万年東一●加納貢●安藤昇●花形敬

・黒幕が国家を操った●児玉誉士夫●笹川良一●頭山満●四元義隆●田中清玄●西山広喜●三浦義一

・一人一殺「井上日召」と血盟団事件

・米国に悪魔の頭脳を売った731部隊長 石井四郎中将

 などです。

 驚いたことに、この中の「満洲帝国を闇で支配『阿片王』里見甫」の章を書いているのが、皆様御存知の80歳のノンフィクション作家斎藤充功氏でした。頑張っておられますね。

 また、「日本を動かした10人の黒幕」で頭山満などを執筆した田中健之氏は、どうやら玄洋社初代社長平岡浩太郎の曾孫に当たる方のようです。

 正直言いますと、この本に登場している「黒幕」の皆様は、私にとってほとんど「旧知の間柄」(笑)で、あまり「新事実」はありませんでしたし、2020年1月21日付の渓流斎ブログ「日本の闇を牛耳った昭和の怪物120人=児玉誉士夫、笹川良一、小佐野賢治、田中角栄ら」で取り上げた別冊宝島編集部編「昭和の怪物 日本の闇を牛耳った120人の生きざま」(宝島社、2019年12月25日初版)の方が、どちらかと言えば、うまくまとまっていたと思います。この雑誌は、全体的な感想ですが、黒幕の人たちを少し持ち上げ過ぎていると思いました。

 とはいえ、歴史は、学者さんが得意な「正史」だけ学んでいては物事の本質を理解することはできません。「稗史」とか「外史」とか言われる読み物にも目を通し、勝者ではなく、敗者から見た歴史や失敗談の方が、結構、日常生活や人生において役立つものです。

 敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)のG2(参謀第2部)に食い込み、吉田茂から佐藤栄作に至るまで影響力を行使し、日本橋室町の三井ビルに事務所を構えていたことから「室町将軍」と恐れられたフィクサー三浦義一は、「55年体制」と後に言われた保守合同の際に巨額の資金を提供したといいます。

 その三浦義一のお墓に、かつて京洛先生に誘われてお参りしたことがあります。滋賀県大津市にある義仲寺です。名前の通り、木曽義仲の菩提寺です。戦後、荒廃していたこの寺を「日本浪漫派」の保田與重郎とともに再興したのが、この三浦義一だったからでした。本当に狭い境内に、木曾義仲と三浦義一と保田与重郎のほかに松尾芭蕉のお墓までありました。

 何と言っても、私自身、最近、鎌倉幕府の歴史に関してのめり込んで、関連書を読んでいるので、「そう言えばそうだった」と思い出したわけです。木曾義仲は一時、京都まで攻めあがって平氏を追放して「臨時政府」までつくりますが、後白河法皇らと反目し、法皇から「義仲追討」の院宣まで発布されます。これを受けた源頼朝は範頼・義経を京都に派遣し、木曾義仲は粟津の戦いで敗れて討ち死にします。その首は京都の六条河原で晒されましたが、巴御前が引き取って、この大津の地に葬ったといわれます。

 そんな、戦後になって、誰も見向きもしなくなって荒廃してしまった義仲寺を保田與重郎や三浦義一がなぜ再興しようとしたのか詳しくは存じ上げませんけど、彼らの歴史観といいますか、男気は立派だったと思います。