仏教に救いはない? 一神教と多神教の違いは?

 何か、誰かから追い立てられているような感じがしますが、パスカルの「パンセ」(中公文庫)を読破し、橋爪大三郎+大澤真幸「ゆかいな仏教」(三笠書房)を読了し、今、同じ二人による対談「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)を読んでいるところです。

 乾いた土が勢いよく水を吸収するように、私の乾いた脳に知識のシャワーを浴びせられているような気分で、お蔭さまで平常心を取り戻しつつあります。

 それでは、これまで平常心ではなかったのか、と聞かれますと、その通りです。ここ数カ月、生きている畏れと不安と虚無感に襲われていて落ち着けませんでした。ただし、軽症で、夜も眠れないほど、といった重症ではありませんが、毎日、張り合いがないといいますか、砂を噛むような味気ないといった感傷と言えば当たらずとも遠からずです。

 仏教の基本思想である「因果応報」を持ち出して、原因について考えてみると何個か複数思い当たるフシがありました。その一つに、友人知人にメールを出しても返信が来ない、といった子供染みたものがありました。「何か悪いことでもしたのか?」「向こうは自分など何とも思わず、メール自体が迷惑だと思っているのかしら?」などと余計な勘繰りばかり先立ってしまい、心を不安定にさせていたのです。

 でも、時間が経てば少しずつ解決されていきます。例えば、昨日の渓流斎ブログで書きましたが、このブログのサイトの技術面で大変お世話になっていた松長哲聖氏に何度も連絡を取っても繋がらず、反応もなく、落ち込んでいたら、何と、彼は既に7月に亡くなっていたことを知ることになったわけです。語弊を恐れずに言えば、これで何か区切りが付いた気がしたのでした。

 悲しくも若くして亡くなった松長氏ですが、逆に、生き残った我々に勇気を与えてくれました。例えば、「メメン・トモリ(いつか死ぬことを忘れるな)」、そして、明石家さんまさんが口癖のように言う「生きているだけで丸儲け」…。「せっかく生命があるのだから、もっと一生懸命に生きてください」と叱咤激励されている感じがしたのです。

 不安と畏れに駆られていた時に手に取ったのが、先述したパスカルの「パンセ」と橋爪大三郎+大澤真幸の対談「ゆかいな仏教」と「ふしぎなキリスト教」でしたが、心の癒しになったことは確かです。こんな精神的なお薬はありませんでした。特に、後者の「ゆかいな仏教」と「ふしぎなキリスト教」の二冊から学び取ったことは、結局、「人生とは心の持ちよう次第」だということです。

ロンドンではなく東銀座

 「ゆかいな仏教」の中で、「仏教に『救い』という考え方がない」という橋爪氏の発言には本当に吃驚しました。そもそも、仏教という宗教は、釈迦が覚りを開いたということを(言葉で言い表せないが)信じ、衆生も努力次第で、本人がいつか仏陀になれる、ということを信じること。だから、仏陀になった釈迦も、他者を覚らせる(救済)ことは出来ない、と説明されれば、少し分かった気がします。(原始仏教では、出家者はビジネスをしてはいけない。お金を触ってもいけないので在家の布施によってしか生き延びるしかない。また、本来、仏教は葬式を営まなかった。仏教は、アンチ・カースト制から始まったというのは納得。)

 そもそも、人生とは自分の思い通りにはいかない⇒人生は苦である⇒しかし、人生はなるようにしかならないだけ⇒甘い期待や幻想を抱かずにあるがままに受け入れる⇒全てがプラスになる⇒苦は実体がないので、苦は苦だと思わなければよい、といった「思考法」=「心の持ちよう」が、たとえ「仏教に救いはない」と言われても、私自身には救いになりました。

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 「ふしぎなキリスト教」では、「ユダヤ教とキリスト教はほとんど同じで、イエス・キリストがいるかいないかの違い」とか「ユダヤ教には原罪という考え方はない」「罪とは『唯一神ヤハウェに背く』こと」「原罪とは、しょっちゅう罪を犯すしかない人間は、その存在そのもが間違っているという考え方⇒キリストによる贖罪」「サタンとは本来、『反対者』『妨害者』という意味で、中世キリスト教でおどろおどろしく描かれた悪魔ではない」といった私自身が認識不足だったことが、明解に説明されて、妙に心に残りました。

 また、一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)と多神教の宗教の違いで、こうも考え方が違うのか、といった好例がありました。

 人生には理不尽なことが起きる。何故、自分の家族だけが重い病や障害や事故に襲われるのか?何故、自分の努力が報われないのだろうか? 世の中、悪がはびこり、裏切り、寝返り、詐欺、迫害が続く…。仏教や神道のような多神教だったら、それは運が悪かったとか、悪い神様のせいだと考えれば済むことがある。しかし、一神教の場合、そういうわけにはいかない。全ての出来事は神の意思によって起こるからだ。そこで、「祈り」という神との不断の対話が繰り返されることになる。

 嗚呼、そういうことだったんですか。…これで少し、違いが分かったような気になりました。

 そこで、究極的には、宗教の信者や信徒や門徒になるということは開祖の奇跡を信じることができるかどうかの違いだと思いました。キリスト教なら、イエスの復活や最後の審判などです。仏教なら、陰徳を積めば極楽に行けるといったような因果律を信じることができるかどうか、といった問題です。私の場合、いずれも懐疑的ですから、キリスト教徒にも仏教徒にもなれないでしょう(苦笑)。ですから、宗教に救いを求めようとしたこと自体が間違っていたのかもしれません。

 それでも、私は寺社仏閣や教会にはお参りします。人生とは心の持ちよう次第です。私自身、「メメント・モリ」「生きているだけで丸儲け」だけでも信じられるからです。