日本はスパイ天国? =小谷賢著「日本インテリジェンス史」

 ちょっと必要に迫られて、小谷賢著「日本インテリジェンス史」(中公新書)を読了しました。正直、あまりスラスラ読める本ではなく、2週間ぐらい掛かりました。今年8月25日初版発行となっていますので、今年7月に暗殺された安倍元首相は、「安倍晋三(1954~2022)」と早くも歴史上の人物となっています。

 ちょっと偏狭な見方をしますと、この本は、長年の縦割り行政の弊害から各省庁(警察庁、外務省、防衛省、内閣府など)で共有して来なかった機密情報の一括収集機関として、2013年からその翌年にかけて国家安全保障会議(NSC)とその事務局の国家安全保障局(NSS)を設置させ、特定秘密保護法を成立させたそれまでの道のりと功績を讃えるような趣旨になっていると思います。紆余曲折の末、最後にまとめたその最大の功労者は安倍元首相であり、外事警察官僚出身で2011年から8年近く内閣情報官を務めた北村滋氏(1956~)となるようです。

 私は、タイトルの「日本インテリジェンス史」から、もっと戦前の、陸軍と海軍との対立や軍部と外務省との覇権争いなどの歴史が事細かく描かれているかと思いましたら、内容は戦後が中心でした。もっとも、著者によると、戦前は情報や機密や諜報、防諜などと言われていたことが、広い意味を含めて「インテリジェンス」という言葉に置き換えられて市民権を得たのは、2006年に「インテリジェンス 武器なき戦争」(佐藤優と手嶋龍一との初の対談本)が23万部のベストセラーになってから、ということですから、「インテリジェンス史」が21世紀の話が中心になるのは当然かもしれませんが。

 現在、日本は秘密保護法やスパイ防止法等が整備されましたが、それまでの日本は「スパイ天国」と揶揄されていたといいます。特に、1954年、駐日ソ連二等書記官を表向き装いながら、内実はソ連内務人民委員部(NKVD、後のKGB)所属の諜報員だったラストボロフ事件が有名ですが、それ以降も、やりたい放題で、日本の機密情報がソ連側に筒抜けだったのでした。

 ラストボロフ事件は、戦後間もないこともあり、シベリア抑留から日本帰国を引き換えにソ連に協力を強制された「誓約引揚者」を多く使って16人の工作員が仕立てられました。彼らは外務省職員や元軍人や大手新聞社のモスクワ支局長だったりした人です。(50ページで、警視庁が同事件で逮捕した庄司宏の肩書が「通産省通産局市場第一課課員」となってますが、「外務省国際協力局第一課課員」の間違いではないかと思われます)

 ラストボロフ事件以降にも、ソ連がらみに限っただけでも、1969年のセドフ事件、71年のコノノフ事件、74年のクブリッキー事件、76年のマチューヒン事件、同年のゴットリーブ事件、それに80年のコズロフ・宮永事件などあったようです。個人的には全く同時代で起きた事件だったというのに、寡聞にもよく知りませんでした。不明を恥じます。

 しかし、これだけ多発するとスパイ防止法や特定秘密保護法の制定を多くの市民が待ち望み、成立すれば、諸手を挙げて大賛成するのが当然と思いきや、何度も世論の反対等があって、法の成立まで戦後70年以上も掛かったのは、やはり、一部で警戒心が強かったからではないでしょうか。その原因の一つは、戦前の治安維持法を思い起こさせ、為政者の恣意的判断で、ナンボでも冤罪を生み出せそうだからです。

 この本では、筆者はあくまでも推進派であり、ゼロではありませんが、あまり批判的見解は見当たりません。それは、恐らく、筆者が、御自分の体験として本文とあとがきに書いてある通り、2005年に、PHP総研の提言書「日本のインテリジェンス体制―変革へのロードマップ」作成者の一人に選ばれたインナーサークルの人だったせいかもしれません。

 蛇足ながら、92ページに「実際に本法(軍機保護法)が適用されたのは41年のゾルゲ事件ぐらいであり」と書かれていますが、軍機保護法といえば、42年の「宮沢レーン事件」を少し取り上げてほしかったです。当時、北海道帝国大学工学部の学生だった宮沢弘幸が大学の英語教師で親しくしていたレーン夫妻に軍事機密を漏らし、夫妻もその機密を在日米大使館に伝えたとされる事件で、実際は、宮沢の道東旅行の土産話程度で、軍機とされた根室第一飛行場の存在も、市販の地図に掲載されていたという冤罪でした。(夫妻は、北海道で服役した後、米国へ強制送還。宮沢氏は拷問を受け、戦後釈放されたものの、27歳で病死。)

 こういう例を知っているせいなのか、秘密保護法やスパイ防止法等が制定され、NSCが設置されても、ジョージ・オーウェルの「1984」のビッグブラザーによる監視社会が強化されそうで、個人的には諸手を挙げて賛成できず、素直に喜べないのです。

 勿論、今の国際関係の危機、身近な例で言えば、ミサイルを飛ばし続ける北朝鮮や台湾の問題がある以上、法律制定は必要不可欠かもしれません。が、日本人は異様に真面目な民族なので、極端に走りがちになってしまうことを危惧してしまうわけです。