水野家と久松家が松平氏の縁戚になったのは?=NHK大河ドラマ「どうする家康」で江戸時代ブームか

 NHK大河ドラマ「どうする家康」が先週から始まりましたが、初回(1月8日)の視聴率が関東で15.4%と歴代2番目の低さだったことが昨日、ビデオリサーチの発表から分かりました。超人気グループ「嵐」の松本潤さんを主役の徳川家康に抜擢して満を持したはずなのに、どうしたものか。何度も大河ドラマで取り上げられている家康に飽きられたのか、そもそも大河ドラマが国民的番組にならなくなったのか、よく分かりませんが、もしかしたら、「テレビ離れ」が原因なのかもしれません。

 スマホゲームやらネットフリックスやら、他に楽しめることが世の中には沢山あふれていますからね。

 私は古い人間ですから、「どうする家康」は見ています。前回の「鎌倉殿の13人」では、あるべき合戦シーンがなく、メロドラマかホームドラマに堕していたことが興醒めでしたが、今回は結構、合戦シーンもあり、これはもしや? と思いました。そしたら、大河ドラマの通であるA君が「ありゃ酷い。馬なんかCGですよ。全部、同じ動きをして同じ動作を繰り返しているだけ。ネットの書き込みでも大騒ぎです」と言うではありませんか。

 私はネットの書き込みは読まない主義なので、読みませんでしたが、そんな大騒ぎするくらいなら結構見ているんじゃないか、と思った次第です(笑)。

 もうここ半世紀以上も、日本は大河ドラマを中心に世の中が回っておりました。経済波及効果を狙って、地方の公共団体や観光協会は地元や郷土の偉人や名士を主役に取り上げてもらおうと必死です。テレビ番組も他局なのに、クイズ番組にせよ、旅行番組にせよ、関連ものばかり放送されます。出版界も今年は徳川家康関連本のオンパレードになるはずです。

 私も「同じアホなら踊らにゃ損、損」とばかりに、便乗商法に乗って、まずは「歴史道」(朝日新聞出版)25号「真説! 徳川家康伝」特集を購入しました。「家康特集」雑誌は複数出ておりましたが、この本に決めたのは理由があります。一応、家康に関してはある程度、私自身、知り尽くしております。生意気ですねえ(笑)。しかし、家康の家臣団に関する知識は不足していました。家臣団について知っているのは、「徳川四天王」と「徳川二十将」ぐらいです。そしたら、この「歴史道」には付録として「徳川家臣団 最強ランキング」が付いていたのです。こりゃあ、買うしかありませんね(笑)。

 家臣団について、本多忠勝井伊直政といった超有名人は置いといて、この本で初めて知ったのは石川数正のことでした。私は、彼のことを最初に知ったのは、国宝松本城を築城した大名としてですが、もともと、家康の家臣どころか筆頭家老の重臣で、西三河の旗頭を務めた人であることは後で知りました。(東三河の旗頭は、家康より14歳年長の徳川四天王の酒井忠次)それが、彼は、ひょんなことで家康を裏切って、豊臣秀吉方に出奔してしまうのです。何故、出奔したのか、確実な理由はいまだに分かっていないようですが、今回、この本で初めて知ったことは、石川数正の母は、家康の生母・於大の方の妹と書かれていたのです。ということは、石川数正は、家康の従兄弟になります。親戚の身内ですから、重臣になれるはずです。

 話は飛びますが、江戸時代になると、例えば、家康の次男結城秀康は越前68万石に移封され、越前松平氏の祖になります。越前松平氏は、越前だけでなく、出雲の松江藩や岡山の津山藩、上野の前橋藩など大名藩主として勢力を拡大しますので、家康の子孫が藩を治める「徳川家」の分権政治みたいに見えてきます。

 でも、これは、家康が関ケ原の戦いや大坂の陣など合戦を経て、政権基盤をしっかりと確立したから出来たことでした。勃興期と言いますか、草創期は、逆に身内こそ権力を脅かす危険な要因だったというので、なるほど、と思ってしまいました。

 それはどういう意味かと言いますと、家康の御先祖様は、上野国(群馬県)新田郡世良田荘得川(徳川)郷一円を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされていますが、恐らく後付けでしょう。遡って、ほぼ確実に歴史として分かっているのは、三河国松平郷(豊田市松平町)の土豪から国衆に発展した松平氏の三代目信光辺りです。この人、何と男女合わせて48人もの子供がいたそうです。その子供たちのうち、有力者が、竹谷(たけのや)、安城、形原(かたのはら)、大草、五井、能見などの分家を作り、この中で、家康に繋がる安城(安祥)が「松平宗家」となります。そのまた子孫にも、深溝(ふこうず)、大給(おぎゅう)、桜井、鵜殿などに分封され「十八松平」と呼ばれる分派が生まれていきます。彼らは、血を分けた兄弟親戚同士なのに、権力闘争で、一族間の争いが絶えなかったといいます。家康があまりにも近い近親を重用しなかったのは、このように親戚同士争った祖先の例を小さい頃に教えられていたからかもしれません。

 いずれにせよ、「宗家」である安城松平氏の二代目長親は、北条早雲と一戦を交えています。家康の祖父に当たる四代目清康は、安城松平氏の中興の祖みたいな人で、本拠地を安城(安祥)城から岡崎城に移します。清康は家臣による謀反で暗殺され、家康の父広忠も24歳で病死したとされますが、家臣に暗殺されたという説もあります。

 こうして、家康は生まれる前から、外敵だけでなく、身内との権力闘争の渦に巻き込まれていたわけです。

 また、話は飛んで、先ほど、越前松平氏のことについて触れました。「江戸三百藩」と言われる藩主は、外様以外は、家康の股肱の家臣だった三河武士との異名を持つ本多や酒井、大久保や榊原、井伊(彼だけは遠州)といった子孫の譜代大名と親藩の松平氏、もしくは徳川氏です。親藩の中には、久松家とか水野家などがありましたが、家康の親戚筋ということは分かっていても、私自身はあまりよく知りませんでした。

 このような複雑な姻戚関係を解くカギとなる人物をこの本で見つけました。家康の生母・於大の方でした。於大の方は、尾張の国衆で緒川城の城主・水野忠政の娘でした。それで、水野家は縁戚になったわけです。水野忠政の死後、於大の方の兄に当たる信元が水野家を継ぎますが、信元は今川家から織田家に寝返ってしまったため、於大の方は松平広忠(家康の父)から離縁されます。その於大の方が再嫁したのが、知多郡の阿古居城の城主久松俊勝でした。桶狭間の戦いの後、家康は、久松俊勝と於大の方の間の3人の息子に松平姓を与えて家臣とします。なるほど、そういうことで、水野家と久松家が松平氏の親戚となり、幕末まで続くわけですか。(於大の方は、離縁後も竹千代=松平元康=徳川家康との交流を続け、竹千代が今川家の人質になった際は、於大の方の母、つまり、祖母の源応尼(於富の方=水野忠政の妻)が幼い竹千代のための庵室を用意して世話をしたといいます。)

 歴史は知れば知るほど理解が深まります。