現在再放送中のNHK「100分de名著」の「日蓮の手紙」の著者植木雅俊氏は「そもそも『浄土』という言葉は、『阿弥陀経』のサンスクリット原典にも鳩摩羅什(による漢)訳にも出てきません。もともとは『仏国土を浄化する」(浄仏国土)という意味なのです。」と自信たっぷりに書かれていたので、自分の不勉強を恥じるとともに、驚いてしまいました。
植木雅俊氏は、「法華経」と「維摩経」をサンスクリット語と漢訳語を参照して平易な現代日本語に翻訳された仏教思想研究家だけあって、学識の深さには恐れ入ります。
となると、南無阿弥陀仏を唱えて、西方の「極楽浄土」を望む浄土宗や浄土真宗などは、どうなるのかと思ってしまいます。「選択本願念仏集」を著した浄土宗の開祖法然は、これまで天皇と貴族のための鎮護国家の宗教だった仏教を、老若男女を問わず、一般庶民にまで信仰を広げた革命的功績は日本史に屹立と輝く偉人だと私自身考えていますが、「選択本願念仏集」と著書名がまさに表しているように、法然は「西方浄土」を「選択」したわけです。
そうなると、釈迦の教えの中には、東方にも「浄瑠璃浄土」があり、そこには薬師如来がいらしゃいます。浄土宗や浄土真宗といった念仏宗は、西方の阿弥陀如来だけ選択して、東方の薬師如来は重視しないのかなあ、といった素朴な疑問が浮かんできます。
念仏宗を「無間地獄」と糾弾した日蓮は、法華経を「選択」します。選択というより、他宗派を激烈に批判ししため、多くの「敵」をつくて、日蓮自身も何度も法難に遭うわけです。
植木雅俊氏によると、日蓮は、浄土と言えば、極楽浄土のような死後の別世界ではなく、我々が今生きている娑婆世界で体現できる世界を「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」と呼んだといいます。これは、「現在」の瞬間に過去も未来もはらんだ永遠の世界を意味しています。
植木氏は言います。時間は、今(現在)しか存在しません。過去といっても、過去についての「現在」の記憶であり、結局「現在」です。未来といっても、未来についての「現在」における期待や予想でしかありません。それなのに、多くの人は「今(現在)」の重みに気付かずに、過去や未来にとらわれてしまいがちです。過去につらく、忌まわしい経験をしてそれを忘れられない人は、過去に引きずられて今を生きていることになります。あるいは、今をいい加減に生きて、未来に夢想を追い求めて生きている人もいます。いずれも妄想に生きていることに変わりありません。
植木氏は、現在の生き方次第で、過去の「事実」は変えられなくても「意味」は変えられる。未来も現在の生き方次第だ、とまで言い切るのです。
これこそが、「現世利益」なのかもしれません。利益(りやく)とは、金銭的なものではなく、精神的な幸福を意味すると思います。往生してあの世の幸福を願うのではなく、現実世界に浄土世界を実現して幸福になる、という意味ではないでしょうか。
法華経の思想について、もっと詳しく知りたくなり、目下、植木雅俊氏が、サンスクリット語と漢語から現代日本語に翻訳した「法華経」(角川文庫)を読み始めたところです。サンスクリット語の原典から翻訳したところに意義があります。かつて先人たちが日本語に翻訳したものの中には、漢語からの翻訳が多く、サンスクリット語から漢語に訳された際の間違いをそのまま踏襲して日本語訳した箇所もあり、そんな誤訳も厳しく指摘しておられました。同書の「はじめに」を読んだだけでも、かなり戦闘的です(笑)。でも、解説もあり、かなり、平易に訳されているので、私でも読めます。
法華経とは、サンスクリット語で、「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」と言いますが、植木雅俊氏は、「白蓮華のように最も勝れた正しい教えの経」と翻訳されています。法華経は、釈迦が入滅後500年ほど経過した紀元1世紀末から3世紀初頭に編纂されたといいます。当時は、厳しい修行を経たほんの一部の菩薩しか悟りを啓くことができないとされ、釈迦も神格化された権威主義の小乗仏教が隆盛でした。が、そんな風潮に異議を唱える意味で、「原始仏教に帰れ」と大乗仏教が生まれ、法華経が編纂されたといいます。小乗仏教では女性は成仏できなかったのに、法華経では、老若男女、身分の差もなく平等に誰でも覚りを開く道があることを説いています。
私も目下、必要に迫られて、法華経を読んでいるので、心に染み入ります。