「個人の判断」も忖度優先なのか?=コロナのマスク着用に関する哲学的考察

 3月13日(月)から、政府方針により、マスク着用は「個人の判断」に委ねるということになりましたので、私も俄か文化人類学者になってフィールドワークを試みました(笑)。

 まず、自宅から最寄り駅までバスを使いますが、車内のマスク着用率は100%。全員マスクをしていたので拍子抜けしました。そして、最寄り駅からの通勤電車。超までいきませんが、車内は満員で、やはり、私が見える範囲で全員マスクをしておりました。

 職場は、東京・銀座なのですが、街を歩く人で、外国人観光客の3人に2人はマスクを着用せず、日本人らしき人はほぼマスク着用でした。私がすれ違った数十人の中で、3人だけがマスクをしていませんでした。マスク着用率98%といった感じです。

 昼休みに、雨の中、ランチがてら、私の縄張りである(笑)銀座、築地、新富町辺りを散策しましたが、やはり、ほとんどの人がマスク着用でした。

 厚労省の発表では、3月12日は全国で7013人がコロナに感染し、43人が死亡したといいます。ということは、コロナは終息も、収束もしたわけではないということです。専門家の中には、日本人全員がマスクを外せば、5月には感染者が倍増するといった予想をした人もおりました。

 岸田首相や小池都知事といった権力者たちが「マスクなし」で出勤したとはいっても、まさか、満員の通勤電車に揺られて来たわけでなく、運転手付きの黒塗り高級車に乗って来られたわけでしょ?

 つまりは、為政者が声高に叫んでも、一般庶民は、権力者のことを誰も信用していないということになりますかね? 庶民がコロナに罹ったとしても、「経済を回す」ことの方が優先なのでしょう。それとも、日本人は横並びで、斟酌、忖度が得意な民族なので、周囲の皆と一緒に合わせているのでしょうか?

 私自身は花粉症でもあるので、しばらくの間は、今まで通りマスクを着用するつもりです。勿論、コロナ感染者の被害者にも加害者にもなりたくありませんからね。

 明治維新になって、ちょん髷からザンギリ頭になっても、大正の頃までちょん髷を結っていた人がいたぐらいですから、ずっとマスクをし続ける人もいるかもしれません。そう言えば、昭和の40年代ぐらいまで女性で日本髪で和服の人が結構いたような記憶があります(明治生まれの祖母の洋服姿は見たことなかったなあ)。京都の舞妓さんは、今でもそうですし、お相撲さんは現代でもちょん髷じゃありませんか!(笑)

日本人は縄文人と渡来人と南方人の混血か=速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」を読了しました

 有楽町「大正軒」ロースかつ定食」1100円 久しぶりに行ったら少し値上がってた?

 8日(水)夜は、高校時代の友人の田中君の通夜に参列して来ました。会場は、浜松町からモノレールに乗り「流通センター駅」で降り、歩いて10分ぐらいの所にありました。

  彼の交友関係の広さから多くの方が参列しましたが、高校時代の友人は小生を含めて7人だったので、帰り、浜松町の何処かで飲みに行くことにしました。以前はJRの浜松町駅に隣接して世界貿易センターがあり、その地下にあった「いろはにほへと」という居酒屋によく行ったことがあったのですが、貿易センターは目下、解体工事中でした。

 仕方がないので「大門」駅の繁華街に歩いて行き、適当な店を探していたら、怪しげな客引きに捕まってしまいました。「普通の居酒屋だから大丈夫です」と言いながら、連れて行かれたのは、路地の奥で、しかも、綺麗なお姐さんの写真が並んだその筋の店が何軒も同居する雑居ビル。客引きのオジサンに「変な店なら帰るよ」と忠告してビルの3階にまで昇り、最初にメニューを見せてもらい、この値段なら、ま、いっかということで、入ることにしました。

 お店の人に色々と話を聞くと、最初は「隠れ家」的コンセプトでやってたそうですが、目立たない路地裏なので、さっぱり客が来ない。そこで、客引きを始めたらしいのですが、本当にお客が全く来ない(笑)。でも、ある程度呑んで、食べて、一人当たり4000円で済んだので、結果的に「普通の店」で安堵しました。

 しばし、田中君の思い出話で盛り上がり、8人掛けのテーブル席だったので、一人分席が空いていましたが、まるでそこに田中君が座っているような錯覚に襲われました。

 さて、話は全く変わって、速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」(文春新書)を読了してしまいました。

 この本では、色んなことを教えてもらい、渓流斎ブログ2023年3月7日付の「本当の日本人の姿が分かる=速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」」でも取り上げましたが、最後に特筆したい一つだけ書いておきます。

 それは速水氏の歴史人口学の研究成果(江戸時代の「宗門改帳」で家族や人口の在り方を調査)として、日本人は大きく三つのパターンがあることが分かったというのです。(1)東北日本型(2)中央日本型(3)西南日本型です。それによるとー。

(1)東北日本型=早く結婚するが子供の数が少ない。母親は子供を4~5人産んで、その後、家の労働力につく。親子三代以上が同居する直系家族。⇚狩猟・採集が中心のアイヌ・縄文時代人型。

(2)中央日本型=結婚年齢は遅いが子供は沢山産む。江戸など大都市に移住する。2代~3代が住む直系家族か核家族。⇚農耕、鉄器など弥生文化を伝えた渡来人型。

(3)西南日本型=結婚年齢は遅いが結婚前に子供を産むことがある。離婚も多く、次の結婚の間に子供を産むこともある。性行動に関しては比較的自由。家族の形態は、傍系の夫婦まで住む合同家族と直系家族。⇚東シナ海沿岸地域で、東南アジアと風習が一致するものが多い。

 速水氏は「日本には極論にいえば文化的独自なものはなく、外来のものを模倣し、融合させたのである。逆に、こういった模倣・融合能力こそ、日本を特徴づけるものだった、といえないだろうか」とほぼ結論付けております。

有名な銀座「AOI」のハンバーグ定食1000円。すこし辛かったかなあ…

 この辺りを読んで、私も以前読んだ篠田謙一氏著「人類の起源」を思い出しました。その読書感想文として、私は「この3000年前に到達した渡来系弥生人というのは、中国東北部(旧満洲辺り)の西遼河にいた『雑穀農耕民』(青銅器文化を持つ)が6000年前以降に朝鮮半島に進出し、遼東半島と山東半島にいた『稲作農耕民』が3300年前に朝鮮半島に流入し、在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合して新たに出来た地域集団だといいます。」(2022年12月27日付渓流斎日乗「現代日本人のルーツは3000年前の渡来系弥生人にあり」)と書きました。

 これらを敷衍すると、人類学的に、日本人とは、最初に日本列島に定住したアイヌや琉球系を含む縄文人と中国、朝鮮からの渡来人と東南アジア系と恐らくポリネシア系の南方人の混血と言ってよいのではないでしょうか。

 

《渓流斎日乗》は俳句なのか!?=ChatGPTはいまいちです…

 例の先日、初挑戦した「チャットGPT」に本日、再度挑戦してみました。

私:「渓流斎日乗」とは何ですか?

ChatGPT(以下C):「渓流斎日乗」とは、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村が著した俳諧の随筆集の一つです。蕪村が生涯をかけて書き溜めたとされる約1,500の俳諧と、その解説や評論が収録されています。

「渓流斎」は蕪村の号であり、「日乗」とは「日々の修行を積み重ねること」という意味があります。蕪村が俳諧を通じて求めたのは、日々のありふれた風景や出来事の中にある美しさや哀愁などの情感を表現することであり、その思想やスタイルがこの書物に反映されています。

「渓流斎日乗」は、俳諧の教科書としてだけでなく、日本の文化や風俗、美意識を知るうえでも貴重な書物として、現代でも多くの人々に読まれ続けています。

私:渓流斎は蕪村の雅号ではありません。間違っていませんか?

C:おっしゃる通りで、私の回答に誤りがありました。訂正してお詫び申し上げます。

「渓流斎日乗」とは、与謝蕪村が生涯を通じて愛用した別荘の名前であり、蕪村がその別荘で執筆した随筆集に「渓流斎日乗」という題名をつけたことから、このように呼ばれるようになりました。蕪村の号は、実は「蕪村」以外にも「舎人」や「松陰」といくつかありますが、「渓流斎」は、蕪村が晩年に用いた号の一つです。

訂正していただき、ありがとうございました。

私:渓流斎日乗は、蕪村の別荘の名前でもありません。現代人が書いているブログです。貴方は何も知らないんですね?

C:申し訳ありませんが、私の前回の回答にも誤りがありました。ご指摘いただき、心よりお詫び申し上げます。

「渓流斎日乗」は、与謝蕪村の随筆集の名称であり、蕪村が生涯を通じて愛用した別荘の名称ではありません。また、現代人が書いたブログとしても知られていません。私が勘違いしていたことをお詫びいたします。

与謝蕪村は、江戸時代中期に活躍した俳人であり、俳諧の分野で多大な功績を残しました。蕪村は、日本の俳諧の歴史に大きな影響を与えた人物の一人であり、現在でも多くの人々に愛されています。

私:もういいです。それも間違いです。それなら、渓流斎日乗の主宰者の高田信之介とは何者ですか?

C:申し訳ありませんでした。私の回答が正確でなかったことを再度お詫び申し上げます。

高田信之介は、現代において「渓流斎日乗」という名前で活動している方の一人で、俳句や随筆を中心に執筆活動を行っています。高田信之介は、「渓流斎日乗」の主宰者として、同名のウェブサイトを運営しており、そこで自身の作品を発表しています。

ただし、与謝蕪村の著作である「渓流斎日乗」とは、全く別のものであることにご注意ください。

私:あのですね。渓流斎日乗は俳句はやってません。短詩型の創作は苦手だと主宰者は申しております。貴方はよく間違えますね?

C:おっしゃる通りで、私の前回の回答に誤りがありました。再度、訂正してお詫び申し上げます。

「渓流斎日乗」の主宰者である高田信之介氏は、俳句を中心とした文芸活動を行っており、「渓流斎日乗」においても俳句を発表されているわけではありません。また、高田信之介氏は自身のウェブサイトにおいて、短詩型は苦手とされていることを明言されています。

再度、ご指摘いただき、ありがとうございます。今後はより正確な情報を提供できるように努めてまいります。

私:こりゃ駄目だ。間違いだらけなので、もう結構です。

C:申し訳ありませんでした。私の回答が不正確であったことでご迷惑をおかけし、心よりお詫び申し上げます。今後はより正確な情報を提供できるように努めますので、何か質問がございましたら、いつでもお知らせください。

 いやいや、もう質問しないでしょう。

本当の日本人の姿が分かる=速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」

 今読んでいる速水融著「歴史人口学で見た日本 増補版」(文春新書、2022年5月20日初版)は、久しぶりに、ページを繰って読み通してしまうのが惜しいほど面白い本です。

 「歴史人口学」なるものを日本で初めて確立した慶応大学教授による「一代記」とともに、そもそも歴史人口学とは何なのか、その史料集めから分析方法まで手取り足取り惜しげもなく披露し、それらによって得られる「日本人の歴史」を活写してくれます。

 日本の歴史と言えば、信長、秀吉、家康といった偉人が登場して、彼らの家系図や姻戚・家臣関係から、戦績、城下町づくり、政策などを研究するのが「歴史学」の最たるもののように見なされ、我々も歴史上の有名な人物の生涯を学んできました。その一方、歴史人口学となると、有名人や偉人は出て来ません。無名の庶民です。その代わり、江戸時代の日本の人口はどれくらいだったのか?(速水氏の専門は日本経済史ですが、使う史料が江戸時代の「宗門改帳」だったため)江戸時代の平均寿命は何歳ぐらいだったのか?平均何歳ぐらいで結婚し、子どもはどれくらいいたのか?幼い子どもの死亡率はどれくらいだったのか?長子相続制だったため、次男三男らは江戸や大坂、名古屋などの大都市に奉公に出たが、何年ぐらい年季を務めて、地元に帰って来たのか?-等々まで調べ上げてしまったのです。

 この手法は、速水氏が慶応大学在職中(恐らく、助教授時代33歳の時)の1963年に欧州留学の機会を得て、そこで、フランス人のルイ・アンリという学者が書いた歴史人口学の入門書等と初めて出合い、アンリは、信者が洗礼する際などに教会が代々記録してきた「教区簿冊」を使って、その土地の一組の夫婦の結婚、出産、子どもたちの成長、死亡時の年齢まで押さえて、平均寿命や出産率などを分析していることを知り、帰国後、この手法は日本では「宗門改帳」を使えば、同じようなことが出来るのではないか、ということを発見したことなどが書かれています。

 私が速水融(はやみ・あきら、1929~2019年)の名前を初めて知ったのは、確か30年ぐらい昔に司馬遼太郎のエッセーを読んだ時でした。何の本か忘れましたが(笑)、そこには、江戸時代の武士階級の人口は全体の7%だった、ということが書かれ、その註釈に、 歴史人口学者の速水融氏の文献を引用したことが書かれていました。そこで初めて、歴史人口学と速水融の名前をセットで覚えました。そして、先日、エマニュエル・トッドの大著、 堀茂樹訳の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)の上下巻本を読んだ際、この本の中でも速水融氏の文献が引用され、しかも、トッド氏というあの大家が尊敬を込めて引用していたので、いつか速水融氏の何かの著作を読まなければいけないなあ、と思っていたのでした。そしたら、ちょうどうまい具合にこの本が見つかったのです。

 何度も言いますが、これが面白い。実に面白い。特に偉人変人?を中心にした人物史観に飽き飽きした人にとってはとても新鮮で、目から鱗が落ちるほどです。

 ですから、あまりこの本の内容について書くことすら憚れますが、目下150ページまで読んで、興味深かった点を少し挙げますとー。

・歴史人口学の基礎史料となる欧州の「教区簿冊」と日本の「宗門改帳」を比較すると、「教区簿冊」では、洗礼(出生)、結婚、埋葬(死)といったイベントは分かるが、教区の人口が何人とか男女比まで分からない。一方の日本の宗門改帳は、世帯単位で作成されているので、出生、結婚、死亡は勿論、村の人口やどこへ移動したのかまで分かる。ただし、宗門改帳は全国バラバラで統一性がないので、全国としての研究はやりにくい。

・速水氏は享保年間の日本の人口を3000万人+αと推測した。八代将軍吉宗が全国の国別人口調査を実施し、2600万人という数字を出したが、(仏革命期のフランスの人口は2800万人と推測されている)しかし、この数字は、ある藩で8歳以下や15歳以下が含まれていなかったり、そもそも最初から武士階級がカウントされていなかったりしていた。そこで、速水氏は約500万人を追加して、3000万人ちょっとという数字を弾き出した。

・速水氏の「都市アリ地獄説」=江戸は人口100万という世界的にも大都市だったにも関わらず、周辺地域も含めて人口減が見られた。それは、大都市が健康的なところではなく、独身者も多くて出生率が低く、特に長屋など住環境も悪く、火災も多く、疫病が流行ると高い死亡率となる。これは、農村から健康な血を入れないと人口が維持できないということを意味する。欧州でも同じ現象があり、それは「都市墓場説」と命名されている。

・江戸やその周辺、大坂・京都の近畿地方は経済が発達し、人口も増えていくと思われがちだが、実はそうではない。江戸時代に人口が増えたのは北陸や西日本など大都市がなかった所だった。人口が増えた西日本には長州藩や薩摩藩があった。その地域が明治維新の主導力になったのは、人口増大による圧力があったからかもしれない。関東や近畿には人口圧力がない。人口圧力だけが世の中を動かすとは限らないが、明治維新を説明する一つの理由になると思う。西南日本のように、大都市がなく、出稼ぎに行く場所がない所では、人口が増えても生かす場所がない。それらが不満になって明治維新というところまで来たのではないか?

・美濃地方の宗門改帳を分析した結果、結婚した者の平均初婚年齢は、男は28歳、女は20.5歳だった。結婚継続期間はわずか1年というのが一番多く、全体の7%。銀婚式(25年)は2.3%で、金婚式(50年)はほんの0.5%。これは死亡時期が早いこともあるが、わりと離婚率が高かったことになる。結婚して1~3年で離婚のケースが一番多かった。

 へ~、江戸時代は意外にも離婚が多かったんですね。(これ以上のコメントは差し控えさせて頂きます。)そして、男の初婚平均年齢が28歳だったとは、現代とそう変わらないのでは? 信長にしろ、家康にしろ、戦国武将は政略結婚とはいえ、10代ですからね。江戸期の庶民は、少し遅い気がしました。

職業で人相が表れるというお話=4年ぶりの高校同窓会に参加しました

 4日(土)は、4年ぶりに高校の同窓会が高田馬場の「梵天」で開かれ、私も参加して来ました。御年79歳になられる目良先生を始め、参加者は全部で14人。クラスは48人おりましたから、3分の1にも満たなかったのですが、全員、高校時代の悪ガキに戻って楽しく歓談することが出来ました。

 コロナの影響で、4年ぶり開催ということで、まず初めに、その間に亡くなってしまった神林君と田中君の冥福をお祈りして、皆で黙祷を捧げました。同窓会というと、どうも参加者の顔ぶれが決まってしまっておりますが、今回初めて参加する人もいました。卒業してもう半世紀近く経ち、その間一度も会ったことがなかったので、「あんた誰?」という感じでした。街ですれ違っても、全く分からないことでしょう(笑)。

 初参加は水口君で、永年、小学校の教師を務めていたようです。校長先生になれたようですが、最終的にはなりたくなくて、登用試験を受けなかったそうです。一方、某有名学園の校長先生になった金澤君は、大変な苦労をしてしまったようで、任期途中で辞任したそうです。「生徒相手の授業は楽しかったのに、校長になると大人の教師の管理が仕事。ストレスだらけで血圧が190にも上がってしまったよ」と溜息をついておりました。

何だろう?気球かなあ?

 もう一人、教師になったのは美大を出て母校の美術・技術教師になった細川君。彼も大変苦労したようですが、母校は半世紀前とはすっかり様変わりしたことを話していました。我々の頃は、東大に1人入れるかどうかの「滑り止め校」でしたが、今では東大に50人以上入学する全国でも有数の超進学校になったことで色々と問題課題も増えていったということでした。昔の母校は、都立の滑り止めだったのが、今では逆に日比谷や戸山などかつての都立名門高校を蹴って入学する時代になったといいますから隔世の感があります。(もっとも、中高一貫校になってしまい、高校入試はなくなりましたが)

 思うに、人間とは職業でその人相が表れてしまうものです。教師になった彼らは、まさに「教師面」になってしまっておりました。

 京都の禅寺に有名な格言?がありますよね。ー「妙心寺の算盤面」「建仁時の学問面」「南禅寺の武家面」「東福寺の伽藍面」「相国寺の声明面」です。解説は不要でしょう。とにかく、人間は職業でそれに似た面構えになってしまうということです。

 経済評論家の岡本君は、怪しげな相場師の人相。高校時代に「タコ」と綽名された小島君は、医療関係の仕事をしてますが、今でも普通の人の発言とは超越していて宇宙人の風貌。(小島君は、このブログを読んでくれているようで、「ランチの写真、いつも載せて、値段まで書いているけど、たまにはもっと高いやつ喰えよ」と言われてしまいました!)薬局店を経営する薬剤師の平田君は、商人(あきんど)の面構え。今回、幹事長を務めてくれた加藤君は、修行僧。そういう私はブンヤなので、さぞかしスパイ面といったところでしょうか(笑)。

 二次会にも参加しましたが、座った隣席に近い人しか話が出来なかったので、全員には取材?できませんでしたけど、皆、辛うじて人生の荒波を乗り越えて生き延びていて、嬉しく思いました。皆、歳も歳なので、あと何回、同窓会を開催出来るか分かりませんが、今後もなるべく参加したいと思っています。

 あ、忘れるところでしたが、帰りは、またまた飲み過ぎで前後不覚になってしまい、危ないところでした。我ながら懲りないなあ~。

つい、昨日写されたもののよう=佐藤洋一、衣川太一 著「占領期カラー写真を読む」

 私は「ポイント貴公子」なので(ポイント乞食ではありませんよ!)、三省堂書店のポイントが少し溜まったので、何か新書を買うことにしました。でも、三省堂はちょっと不便でして、他の書店、例えば、紀伊國屋書店なんかは、いつでも何ポイントからでも使えるのに、三省堂は100ポイント(以上)単位でしか使えないのです。

 御存知なかったでしょう? 最近、本屋さんなんかに足を運ばれていないんじゃないんですか? 私は、街の本屋さんがなくなってしまっては困るので、なるべくリアルの書店に行くようにしております。だって、「エンゲル係数(お酒も含む)」以外でお金を使うとしたら旅行するか、もう本を買うか、洋服を買うかぐらいしかないからです。競馬もパチンコもしませんし…。

 昨日は、高校の同級生田中英夫君の訃報に接しました。4日に同窓会を開いて久しぶりに皆で顔を合わせようという時期だったので、衝撃が走りました。同級生ですから同い年です。人生100年時代、世間的にはまだまだ早い方ですが、誰でも、いつ何時、死神が襲ってくるか分かりません。それなら、生きているうちが華ですから、お金なんか貯め込んだりせず、日本経済に貢献し、好きなものを買って楽しく過ごした方が健康にいいですよね?

新富町「はたり」日替わり定食1000円

 さて、新書と書きましたが、古書に対する新しい本という意味で最初に書いたのですが、結局購入したのは新書でした(笑)。佐藤洋一、衣川太一 著「占領期カラー写真を読む」(岩波新書、2023年2月21日初版)という本で、1週間前に買ったので、先ほど電車の中で読了しました。

 コダックや富士フイルムなどカラー写真やスライドの歴史の詳細にも触れ、正直、かなりマニアックな、ある意味では難解な学術書でしたが、占領期のカラー写真は初見のものばかりでしたので、興味深く拝読しました。著者は二人なので、どのように本文を分担されていたのか分かりませんが、写真については、2009年頃から、ネットオークションで手に入れることが多くなったことが書かれていました。写真投稿サイト flickr やネットオークション eBay などです。オークションにかけられる写真は、ほとんど撮影した本人が亡くなった後、遺族によるものが多いので、撮影された年月日や場所など基礎情報に欠けるものが多く、さながら歴史探偵のように苦労して調査しておられました。しかも、売る側が高く売ろうとして「バラ売り」したりするので、ますます出所判明に困難を来すことも書かれていました。

 6年7カ月間、マッカーサー将軍率いるGHQという名の米軍による日本占領期(1945年9月2日~52年4月28日)は今から70年以上昔ですから、若い人の中には「えっ?日本って、占領されてたの?」という人もいるかもしれません。それ以上に、「えっ?マジ?日本はアメリカと戦争してたの?マジ、マジ?」と驚く若者もいるかもしれません。学校での歴史の授業は明治時代辺りまでが精一杯で、近現代史を学ばないせいなのでしょう。でも、こうしてカラー写真で見ると、つい最近のように見えます。いくらAIが発達して、白黒写真をカラー化出来ても、ほんまもんの「色」には及ばないことでしょう。

新富町

 今や旧統一教会との関係問題ですっかりミソを付けて信頼を失ってしまった細田博之・衆院議長は、若き通産省官僚の頃、米国に留学し、下宿先のスティール夫妻が占領下の日本で撮影したカラースライドをたまたま見たことがきっかけで、「毎日グラフ別冊 ニッポンの40年前」(1985年)の出版などに繋がったことも書かれていました。細田氏は「あと10年は待てない。なぜなら多くの撮影者はこの世を去り、写真は散逸してしまうから」との思いから、毎日新聞社と連携し、スティール氏が中心になって全米から1万枚もの占領期のカラー写真を集めたといいます。

 エリートの細田氏にそんな功績があったとは全く知りませんでした。

名著なればのズッシリとした感動=レヴィ=ストロース著、川田順造訳「悲しき熱帯」

 レヴィ=ストロース(1908~2009年)著、川田順造訳「悲しき熱帯Ⅱ」(中公クラシックス)をやっと読了することが出来ました。マルセル・プルーストのような文章は、非常に難解で、かなり読み解くのに苦労しましたが、やはり、名著と言われるだけに、読了することが出来てズシリと重い達成感があり、感無量になりました。

 最後まで読んでいたら、本当に最終巻末に「年表」や「関連地図」(大貫良夫氏作成)まで掲載されていたので、「ありゃまあ、知らなかった」と驚いてしまいました。最初から地図があることを知っていたら、参照しながら読めたのに、と思ったのです。確かに、カタカナの固有名詞が出て来ると、最初は、これが地名なのか、ヒトの名前なのか、植物なのか、戸惑うことが多かったからです。そんなら、今度は地図を見ながら再読しますか?(笑)

新富町・割烹「中むら」小アジフライ定食 銀座では絶滅した、雰囲気のある小料理屋。銀座より価格は100円ほど安くリーズナブル。女将さんも感じが良い、常連さんが多い店でした。

 「悲しき熱帯」の大長編の中で、一つだけ印象深かったことを挙げろ、と言われますと、私は迷うことなく、ナンビクワラ族の訪問記を挙げますね。この部族に関しては、以前にもチラッとこのブログに書きましたが、とにかく、アマゾン奥地の未開人の中で最も貧しい部族だったからです。(著者は、ナンビクワラ族のことを「石器時代」なんて書いております。)

 「悲しき熱帯Ⅱ」の161ページにはこんな記述がみられます。

 ハンモックは、熱帯アメリカのインディオの発明によるものだ。が、そのハンモックも、それ以外の休息や睡眠に使う道具も一切持っていないということは、ナンビクワラ族の貧しさを端的に表している。彼らは地面に裸で寝るのである。乾季の夜は寒く、彼らは互いに体を寄せあったり、焚火に近寄ったりして暖をとる。

 この前の141~142ページには、ナンビクワラ族の生活様態が描かれています。

  ナンビクワラ族の1年は、はっきりとして二つの時期に分けられている。10月から3月までの雨の多い季節は、集団は各々、小川の流れを見下ろす小さな高地の上に居住する。先住民は、そこに木の枝や椰子の葉でざっとした小屋を建てる。(中略)乾季の初めに村は放棄され、各集団は幾つかの遊動的な群れになって散って行く。7カ月の間、これらの群れは獲物を求めてサバンナを渡り歩くのである。獲物といっても多くは小動物で、蛆虫、蜘蛛、イナゴ、齧歯動物、蛇、トカゲなどである。このほか、木の実や草の実、根、野性の蜂蜜など、いわば彼らを飢え死にから守ってくれるあらゆるものを探し歩く。

 うーむ、凄いなあ、凄まじい生活ですね。蛆虫まで御馳走?になるなんて、最も生活レベルが低い人類であることは間違いないことでしょう。とても、生き残れるとは思えません。彼らはその後どうなったのか? と思ったら、日本人の文化人類学者がしっかりと、フォローされているようですね。巻末に参考文献として列挙されていました。

 一つは、著名な文化人類学者の今福龍太氏の論考「時の地峡をわたって」(レヴィ=ストロース著「サンパウロのサウダージ」(みすず書房)の今福氏による翻訳版に所収)です。今福氏が2000年3月にサンパウロ大学に招聘されたことを機会に、60年余り前にレヴィ=ストロースが住み、写真を撮った地点を丹念に再訪して鋭利な考察を行ったものです。

 もう一つは、この「悲しき熱帯」を翻訳した川田順造氏の著書「『悲しき熱帯』の記憶」(中公文庫)です。レヴィ=ストロースのブラジル体験から50年後(1984年)に、ナンビクワラをはじめ、ブラジル各地を訪れて感じ、考えたことを起点に「悲しき熱帯」の現在を考察したものです。

 いずれも、私自身未読なので内容は分かりませんが、こうして、世界中の文化人類学者がレヴィ=ストロースに大いなる影響を受けたことが分かります。レヴィ=ストロースのもう一つの代表作「野生の思考」(みすず書房)も私自身、未読ですので、いつか挑戦してみたいと思っております。

な、何と、東スポ餃子とは!=ぐあんばれ、東京スポーツ新聞!

 前から書こうと思って忘れていたことを本日書かさせて頂きます。質量とも、つまり、売上部数も内容も、エンターテインメント紙ナンバーワンだったあの東京スポーツ新聞が、ネット社会の弊害を受けて、部数が低迷してしまい、ついに数年前から社員の大幅リストラに踏み切りました。

 日本新聞協会によると、スポーツ紙の発行部数は、2000年の時点で、630万7162部もあったのですが、2022年は215万1716部と3分の1近くも落ち込んでしまいましたからね。

 若い人は紙の新聞を買わなくなってしまいましたし、もう「企業努力」ではこの流れを食い止めることは出来ません。朝日新聞や読売新聞など大手一般紙は、もはや都心の超一等地にある旧社屋の跡地にビルを建てて、本業よりも不動産業の方が収益があるという噂があるほどです。

 東京スポーツは残念ながら、不動産業で副業出来るほどの土地持ちではないようなので、そこで、思い切って始めた副業が、何と餃子販売だったというのです。この経緯については、昨年11月に出版された岡田五知信著「起死回生 東スポ餃子の奇跡」(MdNコーポレーション)に詳しい。宣伝文句に曰く…

 スポーツ紙が危機的状況に晒される中、大手一般紙傘下とは無縁の東スポが生き残りを賭けて起死回生の大勝負に打って出た。これまでの新聞業態とは縁もゆかりもなかった食品業界に、餃子、唐揚げ、ポテトチップスで事業参入を図ったのだ。その裏にあったのは、大リストラを経て学んだ血まみれの教訓だった。これ以上、社員を犠牲にしたくない。社員を守るため、会社を存続させるために一人の幹部社員が腹を括って動き出した…。

 東スポブランドの食品の売上は、今や年間1億円に拡大しているといいます。

銀座

 私も東スポの記者とは何人もお付き合いしたことがあります。東京スポーツは、明治に創刊された大衆紙「やまと新聞」の流れを汲み、あの児玉誉士夫氏がオーナーとして戦後の1960年に創刊され、プロレスや芸能スポーツ、スキャンダル、はたまた河童から人面魚に至るまで「飛ばしの東スポ」の異名を持ったことは皆さん御案内の通りです。

 本来、新聞記事は最終的に本人に確認し、そのことを業界用語で「ウラを取る」と言いますが、東スポの場合、社是として?「ウラは取らない」と聞いたこともあります(笑)。

 しかし、私の経験では、東スポ(と系列の大阪スポーツ新聞)の記者ほど真面目で大人しい人間が多く、記事とのギャップに驚いたほどです。それに、記者会見など公式な場での発言は紙面では書けないので、記者会見では出なかった「本音」を聴くために、さらに、夜討ち朝駆けで取材しなければならず、要するに他社と比べて2倍も3倍も働いていました。

 もう一つ、東スポは夕刊紙なので、時差を利用して早くから日本人が活躍するゴルフなど海外でのスポーツ報道に力を入れていました。ゴルフの全米オープンやマスターズなど格式がある大会でも、「東京スポーツ新聞社様」とネームプレートと入りの豪華な記者席が用意されているという話も聞いたことがあります。それは、米国の主催者が、Tokyo Sports News なら日本を代表するクオリティーペーパーだと誤解したためだ、というオチがありますが(笑)。

 でも、時代の趨勢ですね。ネット上では、東スポとは比べ物にならないもっと過激で、ウラを取らないフェイクニュースや関係者しか知らないスキャンダルに溢れていますから、太刀打ちできません。それに輪をかけて、駅やプラットフォームでのキオスクがほとんど消えてしまい、サラリーマンの「通勤の行き帰りに新聞」という習慣も絶滅してしまいました。