映画「ギルティ」は★★★

 こんな映画、初めて観た、ってな感じです。

 全く言葉が分からなくて、見当もつかないと思ったら、デンマーク映画でした。キャッチフレーズは「犯人は、音の中に、潜んでいる」。そして「事件解決のカギは電話の声だけ。88分、試されるのはあなたの<想像力>」てな具合です。監督はスウェーデン出身のグスタフ・モーラー。2018年、サンダンス国際映画祭観客賞を獲ったようです。

 誘拐事件を解決するサスペンス映画なので、内容はお伝えできませんが、舞台はたった一つ。コペンハーゲンにある警察の緊急通報指令室です。セリフがある主要登場人物は、中年のハンサムなおじさんたった一人だけ。勿論、他にも数人登場しますが、セリフは一言か二言だけなのです。主人公アスガー(ヤコブ・セーダーグレン=この人もスウェーデン出身、デンマーク育ち)は、ある事件をきっかけに第一線の現場から離れ、しがないオペレーターに従事している警察官という設定ですが、やたらと彼のアップの素顔がスクリーンいっぱいに広がります。

 そんな全く単純な場面だけなのに、キャッチフレーズに書かれている通り、88分間もグイグイ観客を引き込みます。まるで、演劇の舞台のように、何が現場で実際に起きたのかは、観客の想像力に任せています。

 こういうのって、ボディーブロー映画というんでしょうか。あとで、効いてくるんですよね。終わっても「何で、アスガーは単独行動をして、内部でチームワークをとらないのか?」とか、「結局、事件の真相は何だったのか?」などと色んな疑問が湧きましたが、誰かが教えてくれるものでもありません。

 答えは、観客の想像力にあるのかもしれません。

 勝手に吟味しますか(笑)。

「私は、マリア・カラス」は★★★★

 映画「私は、マリア・カラス」(トム・ヴォルフ監督)を観てきました。彼女が出演した過去の公演フィルムや本人のテレビ・インタビューなどを繋げて編集したドキュメンタリー映画でしたが、見終わって、哀しい気持ちになりました。

 マリア・カラス(1923~77)は、説明するまでもなくオペラ歌手で、「世紀のディーバ」「20世紀最高のソプラノ歌手」などと称賛される一方、「気位が高い」「気分屋ですぐ公演をキャンセルする」などの悪評もあり、毀誉褒貶の多い人だった気がします。

 私の親の世代なので、彼女の現役時代は、ちょうど私が子どもの頃から大学生の頃だったので、海運王オナシスとのスキャンダルなども極東に住む異国の子どもの耳に入っておりました。でも、まだ53歳の若さでパリで急死したことは、私は大学生だったのに、フォローしていなくて、あまり覚えていないんですよね。

莫大な富と揺るぎのない名声を獲得しても、あっけないものです。いずれにせよ、若い頃はオペラ鑑賞など高くて観に行けるわけがなく、レコードも高くて手に届きませんでした。つまり、マリア・カラスの名声だけは聞こえてきても、私にとっては雲の上のそのまた上の存在で、たまに、NHK-FMラジオで、彼女のアリアを聴くぐらいでした。

 でも、この映画を観て、初めて彼女の苦悩が分かりました。ドタキャンも、心因性にせよ、身体性にしろ、体調不良でまともに声が出なくなったことが原因だったらしく、事情を知らない音楽記者や評論家らの非難や激しいバッシングに彼女はどんなに心に傷を負って、耐えてきただろうかと同情してしまいました。

 人間ですから当然かもしれませんが、若い頃から中年、壮年になるにつれて、まるで別人のように彼女の人相がどんどん変わっていくのには驚かされました。晩年になり、高音域がだんだん出にくくなって、発声練習に時間を掛けなくてはならなくなった焦りみたいなものまで顔に表れていました。

 彼女は確かに天才でしたが、この映画を観ると、芸術家というものは何と不幸なんだろう、と思ってしまいました。こうして、彼女の暗い面ばかり見てしまいましたが、「トスカ」の「歌に生き、恋に生き」にせよ、「ジャンニ・スキッキ」の「私のお父さん」にせよ、映像を見ただけでも彼女の最盛期の歌声はまさに比類なきもので、その巧さは空前絶後という感じがしました。それだけが唯一の救いといえば、救いでした。

「ボヘミアン・ラプソディ」は★★★★★

 久し振りに映画を観てきました。伝説のバンド、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」(ブライアン・シンガー監督作品)です。

当初は全く観るつもりはなかったのですが、あまりにも話題が先行したため、つい、観ざるを得なくなってしまったのです。それに、やっと昨日、仕事納めで解放され、気晴らしに映画でも観ようかと思ったら、ほとんどお子ちゃま向けで、他に観るのがなかったからでした(苦笑)。

 なぜ、クイーンの映画を最初観るつもりはなかったのかと言いますと、その理由の第一が、クイーンは、1970年代、私が学生の頃に全盛期だったため、新譜が出る度にLPレコード(CDさえなかった)を買い集めて熱中したからでした。1974年頃に、ラジオで「キラー・クイーン」を初めて聴いて、「何て、洗練された面白い曲なんだ」と感動してすっかりファンになってしまいました。この曲は、彼らの3枚目のアルバム「シアー・ハート・アタック」に入ってましたから、それ以降の新譜を発売の度に買っていたのですが、その前の彼らの2枚目のアルバム「クイーンⅡ」は、大学の同級生の熱烈なファンの女の子から借りたことを思い出しました。(その後、CDを買い揃えましたが)

 さすがに、バンドでコピーするのはとてもレベルが高すぎて、あのフレディ・マーキュリーの美声は誰にも真似できるものではなかったでしたね。

だから、ドキュメンタリーならともかく、どんなそっくりさんが演じようが、作り物の映画は観る気がしなかったのです。フレディがバイセクシュアルで、最期にエイズで45歳の若さで亡くなってしまう「物語」は、同時代人として共有してきましたし、当時の私は、クイーンに関しては音楽誌や評伝なども読んでましたから、自分の知らない物珍しい話などないと思ったからでした。それは、ブライアン・メイのギターは手作りのカスタムメイドだといった類の話ですが、随分傲岸不遜でしたね(苦笑)。

富士山 Copyright par Duc de Matsuoqua

 しかし、観た途端、すっかり40数年前の昔の若い頃に戻ってしまい、鳥肌が立って、年甲斐もなく感涙してしまいました。映画では、フレディ・マーキュリーを中心に回ってましたが、フレディ役のエジプト系米国人俳優ラミ・マレックがなかなか健闘し、魂が入ってましたね。もう、そっくりさんとは言わせないとばかりの迫真の演技で、フレディ本人にさえ見えてきてしまいました。

スペイン・バルセロナ・サグラダファミリア教会

大変失礼致しました。クイーンを全く知らない若い世代が競って観ているというのは、やはり、時代を超えた共通の何かがあり、映画作品としても完成度が高かったということなんでしょうね。

でも、最後まで見てて、辛くなってしまいましたね。フレディは、若い頃から容姿で「パキスタン野郎」と差別され、何と孤独で不幸だったんだ、と単純に思ってしまいました。それが、スーパースターになってしまった代償だとすれば、あまりにも厳しくて切ない話です。

家に帰って、手元にあったクイーンのアルバムを久しぶりに聴きまくりました。最近は、落ち着いたベートーベンの弦楽四重奏曲ばかり聴いていたので、ロックはもう重くて聴けなくなっていたのですが、映画を観たせいで、激しいリズムとビートが心の奥深くに染み渡ってしまいました。

映画「華氏119」は★★

一昨日11月3日(祝日)に鎌倉に行ったら、川崎駅の工事で東海道線の東京~横浜間が不通でしたが、今度は4日(日)に自宅近くの映画館に自転車で行ったら、私に何ら断りもなく(笑)、国際的なロードレース開催とやらで、道が塞がれ、迂回せざるを得なくなり、普段なら20分ぐらいのところが40分も掛かり、危うく上演時間に遅れるところでした。

マイケル・ムーア監督作品「華氏119」をどうしても見たかったのです。事前にただで見た新聞社の論説委員や編集委員さんらが書く文章を読んでも評判が良く、何しろ、11月6日の米中間選挙の投票前に影響を与えようという野心がいっぱいの映画らしかったのです。でも、観終わって、いや、途中から、何か、気持ちが荒むような、いやあな印象を受けてしまいました。

気になった一つは、ムーア監督が描く、そして最後まで強調するヒラリー候補の民主党=リベラル、自由主義、善で、トランプ大統領の共和党=保守、銃規制反対、大企業優先による多額の寄付、悪、という単純な図式です。

そんなに、共和党のトランプ氏がとんでもない独裁者の悪党で(ヒトラーになぞらえて、そういう描き方をしてましたが)、ムーア監督が応援する民主党が善でバラ色の社会を築いてくれる政党だというのでしょうか。

確かに、トランプ氏にはスキャンダルが多く、自分の実の娘同伴でテレビに出演して性的な話題をしたりして、不快を超えた嘔吐感しか残らないような唾棄すべき人物かもしれませんが、民主党のヒラリー候補だって、講演会で65万ドルもの超大金を提示されたりする特権階級で、貧困層の痛みも悩みも分からないのです。

民主党大統領候補として「社会主義者」のサンダース氏が、投票数ではヒラリー候補を上回ったというのに、最終的にはどういうわけか、民主党はヒラリー氏を候補に選ぶような不可解な政党でした。

第一、民主党というのは、リベラルでも善でも、平和主義者でも何でもなく、日本人としては、市民を無差別大虐殺したカーティス・ルメイ将軍による東京など日本の各都市大空襲にゴーサインをしたのは民主党のルーズベルト大統領であり、何と言っても、広島と長崎への原爆投下を最終承認したのも民主党のトルーマン大統領だったことをよく覚えているのです。

このドキュメンタリー映画で、かなりの時間を割いて「報道」しているのは、ムーア監督の出身地元であるミシガン州フリントで起きた水質汚染問題でした。

ここで、2010年にミシガン州知事に当選した、トランプ氏とは古くからの友人であるスナイダー氏を槍玉に挙げています。ムーア監督の描き方によると、スナイダー知事は、自己の金儲けのために、民営の水道水を開設したところ、その水に鉛が含まれており、多くの子どもや住民に被害が及んだというのです。被害者の多くは、黒人が多くすむ貧困層の住宅街です。日本の水俣病かイタイイタイ病みたいなものです。それなのに、スナイダー知事は大企業のGMに対しては、汚染されていない綺麗な水を配給したりするのです。

大問題となり、当時の民主党のオバマ大統領が「慰問」にフリントまでやって来ますが、水道水の安全宣言をするために、コップの水を飲むふりをして、ただ口を付けただけのパフォーマンスをしただけだったので、逆に地元民の反感と失望をかってしまいます。

途中で観ていて嫌になってしまったのは、このようなレベルの米国の政治システムが、世界中に、特に日本にも多大な影響を与えながら、投票権のない部外者は、黙って見ているしかないという歯がゆさだったかもしれません。

「アンダー・ザ・シルバーレイク」は★★

久しぶりに劇場に足を運んで映画を見てきました。最近、ほんの少し嫌なことがありまして、現実逃避したかったからです(笑)。

それにしても、最近は、一食抜いてでも、是が非でも観てみたいという映画がない!ない、と断定すれば、製作者にあまりにも失礼なので、少ない!と言っておきます。

第一、ただで観ている映画評論家はグルですからね。つまらない映画でも「最高!」だの「面白い!」だのといった陳腐な言葉を並べて、見事、宣伝マンの役割を果たします。あまり、貶せば次に仕事が来なくなるからでしょう。

でも私は騙されました。「今年ベストの声続々」「カンヌも騒然となった”新感覚サスペンス”」の宣伝文句に惹かれて「アンダー・ザ・シルバーレイク」(デヴィット・ロバート・ミッチェル監督最新作)を観てきましたが、支離滅裂。最初に、とっても懐かしアソシエイションズの「ネバー・マイ・ラブ」(1967年)が掛かって、大いに期待されたのですが、はっきり言いますが、駄作でした。

まさに、ロサンゼルス郊外のハリウッドが舞台のハリウッド映画。天下のハリウッド映画も随分劣化したものです。

ミッチェル監督は、何を表現したかったのか。ヒッチコックや無声映画女優ジャネット・ゲイナーらの墓が出てきたり、マリリン・モンローの主演映画「女房は生きていた」を模したシーンが出てきたり、往年の黄金時代のハリウッド映画に対するオマージュが随所に盛り込まれ、それは分かりますがね。ホラーサスペンスと称しても、日本人の感覚からすれば、ちょっと頂けない残虐な暴力や殺人場面が多過ぎです。それに、暗号解読と言っても、子ども騙しのパズルのようなダサいからくりなので呆れてしまいました。

登場する若い男も女も、気ままに本能のまんま生きている感じで、退廃的。ハリウッド・セレブたちのパーティー場面が多く出てきて、「現代風俗を活写した」とでも言いたいのでしょうが、まさに、エログロナンセンスのオンパレードでした。

主人公のサムは、映画か音楽業界での成功を夢見て田舎から出てきた青年で、家賃が払えないという設定ながら、高級車を持っているというのも変。マザコンの母親がしょっちゅう電話を掛けてくるので、家賃代を借りればいいのに、払えず追い出される寸前と話が進んでいきます。住んでいるアパートもプール付きですからね。

暗号解読の末、新興宗教のカルト集団のアジトに行き着きますが、その教祖らしい男が「生きているだけで、心配事が多過ぎる」と言いながら、3人の若い女と一緒に集団自殺するのも、作り物の映画と知りつつ、何か、最後まで歯がゆくなるほど、イライラしてしまいました。

これは、あくまでも個人の感想ですが、この映画を観た後、小津安二郎監督の「東京物語」をまた観たくなってしまいました。もう何十回も観てますが、あんな「時代風俗」を活写した名作はないからです。原節子は、戦死した次男の妻紀子役でした。尾道から出てきた年老いた両親を親身になって世話をするのは、実の息子や娘ではなくて、この血の繋がっていない戦争未亡人でした。

戦死した次男は出てきません。この映画は1953年公開ですが、まだまだ、戦争の傷跡が残っている時代で、どこの家庭でも、親戚や親、兄弟の中で、一人か二人は戦死しているという共通の体験がありました。だから、説明しなくても、笠智衆と東山千栄子が演じた年老いた両親の気持ちが分かったのでしょう。

「アンダー・ザ・シルバーレイク」は確かに現代という風俗を活写してましたが、駄作に終わったのは、時代そのものが劣化したせいのような気もしてきました。

「青年の樹」のモデルの藤木氏

これでも私は昔、映画に出演したことがあります。長身痩躯で美男子でしたからねえ(笑)。

でも、出演と言っても端役、いや、これも言い過ぎで、台詞もない単なるエキストラを学生時代にアルバイトで何本かやっただけでした。

その中に「青年の樹」という作品がありました。1977年公開の東宝映画(西村潔監督)で、主演は、三浦友和と檀ふみ。後から知ったのですが、原作は石原慎太郎の同名の小説(1959~60年、「週刊明星」連載)で、既に60年に石原裕次郎と北原三枝のコンビで日活で映画化されており、これが二度目でした。

横浜の港を舞台にした作品で、ヤクザ和久組の跡取りとして生まれた主人公が東京の大学に入学し、「苦闘の末、二代目となる青春怒号篇」ということですが、もう40年以上も昔なので、内容はすっかり忘れてしまっております(笑)。学生役でしたから、衣装も私服で、そのまんまでした。

撮影現場は、立教大学だったかなあという程度の記憶ですが、主役の三浦友和さんが学食で食事する場面で、彼が箸を口元に持って行くと「カット」。食べようとすると「カット」。それをアップで撮ったり、少し離れて撮ったり、右から撮ったり、左から撮ったり、そのたんびに、「カット」の連続。「えっ?これで演技できるの?」という感じでした。

溝口健二監督らが映画のことをよく「シャシン」と言ってましたが、本当に映像ではなく、写真を撮っている感じでした。そう言えば、昔は映画のことを活動写真と言ってましたからね。「あー、こうして映画が撮影されているのかあ」と思うのと同時に、「俳優って、あまり面白くないなあ」と生意気に思ってしまい、それ以来、俳優志望をやめてしまいました(笑)。

檀ふみさんは、憧れの女優で、私も大ファンの檀一雄先生のお嬢様ですからね。サインをもらいたかったのですが、彼女は勉強家でいつもロケバスの中で本ばかり読んでいて近づけない雰囲気でした。

気張った私は、単なる主役の背景になる学生なので、目立ってはいけないのに、カメラを見てしまったりして、「おい!そこの! エキストラなんだから、目立っちゃ駄目なんだよ。何やってんだよ!」と助監督に大声で怒られたことを覚えています。それで、エキストラも嫌になって、アルバイトもやめた気がします。

さて、この石原慎太郎著「青年の樹」にはモデルがいました。横浜港運協会会長で、藤木企業会長・横浜エフエム社長の藤木幸夫氏です。少し、毀誉褒貶のある方で、陰では全国的に有名な「横浜のドン」と呼ばれ、地元政財界を仕切っているという噂の持ち主です。これもまた、噂の領域を出ませんが、菅官房長官のパトロンとも言われ、横浜市がカジノを誘致した場合、一番の顔役になる人とも言われています。

その彼の半自叙伝「ミナトのせがれ」(神奈川新聞社、2004年8月18日初版)を読むように、と名古屋にお住まいの篠田先生が貸してくれました。その本の帯に石原慎太郎氏が「私はかつて、若き日の著者をモデルに『青年の樹』を書いたことがある…」と推薦文を書いていたので、自分も上述したことを思い出したわけです。

藤木氏は、早稲田大学政経学部卒のインテリながら、父親の藤木幸太郎が一代で築き上げた港湾荷役業会社を継いだ二代目です。腕力だけが頼りのかつての荷役業者には「酒と女とバクチ」にはまるヤクザな荒くれ者が多かったのです。それを父親は、自分の腕力と交渉力と良き先輩に恵まれ、カタギだけを育てたことで、全国船内荷役協会の会長まで昇り詰めます。同協会副会長が神戸の田岡一雄甲陽運輸社長だったことから、「田岡のおじさん」とは公私にわたる家族ぐるみの付き合いで、そこから世間の誤解も招いたります。

藤木氏は、中国に何度も何度も渡り、大連港の荷役業務を整備して中国政府から表彰されたり、横浜オランダの名誉領事に選ばれたりする逸話は読み応えがありました。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」は★★★★

気温37度、体感温度45度。これでは何もする気が起きませんねえ。本を読んでも頭に入らず。外に出かけるなんぞはもってもの他。

ところが、急に、映画を見たくなってしまい、猛暑の中、自転車で近くの映画館に走ってました(笑)。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(ルーシー・ウォーカー監督、ヴィム・ヴェンダーズ製作総指揮)です。

18年前に日本でも公開されて大ヒットした映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のいわば続編です。1940~50年代に活躍しながら、当時はすっかり忘れ去られた70~90歳代の老ミュージシャンにスポットライトを当てた作品でしたから、今では、ほとんど他界してしまいました。

「第一弾」の日本公開は2000年1月15日になっていますが、私も恐らくその年の1月に劇場で観たと思います。心の奥底から感動してしまい、CDは勿論買い求め、すっかりはまってしまい、その年の夏休みにキューバに旅行に行ってしまったほどです。キューバ大使館までビザを申請に行ったことを覚えています。当時は、ヘミングウエイにもはまていましたから、音楽と文学散歩でした。

でも、行ってみたら、街中は、物乞いの少年と売春婦が溢れ、アフリカ系の市民に対する差別は相変わらずで、キューバという社会主義体制に失望した覚えがありますが、今日は映画の話なのでこれ以上触れません。。。

CDジャケット写真は、スタジオに入るイブライム・フェレールでした

コンパイ・セグンド(G,Vo、1907~2003、95歳)、イブライム・フェレール(Vo、1927~2005、78歳)、ルベーン・ゴンサーレス(P、1919~2003、84歳)、オマーラ・ポルトゥオンド(Vo、1930~)、マヌエル・”グアヒーロ”・ミラバール(Tr 1933~)、エリアーデス・オチョーア(G・Vo、1946~)ら懐かしい名前がたくさん出てきて、目頭をあつくしてしまいました。

あの葉巻をいつもくわえて、90歳を超えても旺盛だったコンパイ・セグンドはもう亡くなって15年も経つんですね。「黄金の声の持ち主」と言われたイブライム・フェレールは、1990年代には既に引退していて、靴磨きで生計の足しにしていたことが語られていました。

古いキューバ音楽に魅せられた米ミュージシャンのライ・クーダーが「失われた音楽を求めて」キューバを旅する物語が、発端でした。キューバ側で、コーディネーター役だったのが、バンドマスターだったファン・デ・マルコス・ゴンザレス(1954~)で、彼が当時を回想する形で、この映画は進行します。

この映画は「アディオス」ですから、老ミュージシャンが次々と亡くなり埋葬されるシーンも出てきます。

けど、若い頃のフィルムも残っていて、オマーラ・ポルトゥオンドが女性4人グループの一人として溌剌と歌って踊り、若きイブライム・フェレールとも共演していたので、感慨深かったですね。

音楽は素晴らしい。夏は特にキューバ音楽を聴きたくなります。

「万引き家族」は★★★★★

今日はついにネットで買ったパソコン(米デル製 6万6980円の15%引きで5万5233円+税4418円=5万9651円)が自宅に届き、色々と設定してみましたが、NTTコミュニケーションズのWIFIが良くなかったのか、うまく繫がらず、結局失敗。半日も無駄にしてしまいました。

凄いフラストレーション。時間がもったいなくてイライラしてしまいました。

それはともかく、午前中、是枝裕和監督の映画「万引き家族」を観に行ってきました。この作品がカンヌ映画祭のパルムドールを受賞していなければ、わざわざ観に行くことはなかったと思います。けど、観てよかった。うまく騙されました。(この先、少し内容に触れますから、これからご覧になる方は、ここでやめておいた方がいいと思います。さようなら)

映画は大抵、美男美女が出てきて、色んな災難やイジメや嫌がらせなどに遭いながら、それらを努力やら周囲からの助けやら超能力やらで克服して、あとはめでたし、めでたしのパターンが多く、観る者もそんなお約束事を安心して観るのがお決まりでした。

しかし、この映画に関しては、真逆です。美男美女が出て来ないどころか(失礼!)、主役は「犯罪者」なんですからね。

罪状は、万引き、誘拐容疑、年金詐欺などですが、舞台が、グローバリズムやフィンテックなどの世界の最前線から取り残された東京下町で、題材も極めて日本的な話。こういう作品が国際映画祭で最高賞を受賞するということは、話がドメスティックであれば、ドメスティックなほど、人種や国籍や性別を超えた実に人間的な共感と普遍的な感動を得るものだと思いました。

主役の治役のリリー・フランキーは、素顔はインテリの作家・芸術家なのですが、風采は失礼ながら、パチンコや競輪競馬三昧で、いかにもコップ酒が似合う日雇い労働者風。演技をしなくても、見事に役をこなしてました。

その妻信代役の安藤サクラは、初めて主役作品を観ましたが、決して美人ではないのに、実に魅力的で、親(俳優の奥田瑛二と安藤和津)の血を受け継いでいるのか、抜群に演技がうまい。つまり、ドキュメンタリーを撮っていると観る者を錯覚させるほど、自然で、演技をしているように思わせないのです。

特に、警察署の取り調べで、「貴女は、(誘拐してきた)じゅり(佐々木みゆ)ちゃんに何と呼ばせていたの?」と婦警(池脇千鶴)に聴かれて、「何と言ってましたかねえ…」と言いつつ、自然と涙が何度も何度も溢れる場面は秀逸でした。そこの近辺だけでももう一度観たいぐらいでした。

人物構造図がちょっと複雑で、最後に種明かしされます。おばあちゃん初枝役の樹木希林は、まあ別格ですが、信代の妹の亜紀役の松岡茉優、そして、息子の祥太役の城桧吏もカンヌで大喝采されたぐらいですから、やはり、演技が上手く、違和感なく映画の世界に溶け込んでおりました。

原案、脚本なども手掛けた是枝監督は、台詞を極端に切り詰めて、役者に背中で演技をさせるような過酷な演技指導をしたのではないかと思わせました。

また、小津安二郎に影響を受けたのか、彼のどの作品でもそうですが、食べるシーンが異様に多い。所詮、人間なんて、食べて、交わって、寝て、家族が支え合って、笑っていられればこれ以上の幸せはないと言いたげでした。

久し振りにイイ映画を観させてもらいました。

【追記】

昨晩、ふと、是枝監督がこの映画で一番言いたかったことはこんなんではないかと想像しました。

主人公の「万引き家族」は、確かに社会から抹殺されるべき悪人ですが、それなりに、それぞれが小さな幸せを感じながら健気に生きています。一方、女児が誘拐された夫婦は、実は自分の子どもを虐待し、「こんな子を産まなければよかった」と子どもの前では邪見にしていたのに、マスコミの前では、しっかりとスーツを着込んで可哀そうな実直な被害者を演じていました。こんな「偽善家族」と「万引き家族」を対比して、是枝監督は、人間の本当の幸福とは何かを訴えたかったのではないか、と思ったわけです。

「狐狼の血 」は★★★★★

本来なら、岩波ホールでかかっている真面目な「マルクスとエンゲルス」を観るつもりでしたが、金曜日の各紙夕刊(ご存知、金曜日夕刊は、映画批評を各紙特集しております)を読んでいたら、東映のヤクザ映画「狐狼の血」が全面広告までして、かなりお金(製作、宣伝費)を掛けていることが分かり、意外にも私の信頼する著作家も推薦し、そう言えば、銀座の地下街でも、かなり大きなポスターを貼って広告しているなあ、と目立ち、どういうわけか催眠術にでもかかったかのようになり、気が付いたらネットで予約していました(苦笑)。

翌日になって「何で、『仁義なき戦い』のオマージュみたいな映画を予約してしまったんだろう」と後悔してしまいましたが、仕方なく観ることにしたわけです。

そしたら、最初から最後まで、騙されっぱなし。つまり、映画という虚構の世界にドップリ浸かってしまい、最後は、ポロリと涙まで出てくるではありませんか。作り物と分かっていながら、最後までうまく乗せられ、騙されました。

何しろ、原作は柚月裕子さんの同名作で、日本推理作家協会賞を受賞しているらしいですね。この美人作家さんは、心底「任義なき戦い」の大ファンなんだそうで、本当に、この作品へのオマージュとして書かれたようです。舞台は広島の呉市(映画では架空の呉原市)で、暴対法が施行する前の昭和63年(1988年)の話になっているようです。ちょうど30年前です。

30年前ともなると、もう一世代前の昔の話で、こうして映画になると、歴史になってしまった感じでした。黒電話や、当時の「最新型」の自動車も登場して懐かしい限り。(今の若い人は黒電話など知りませんから、受話器も番号の回し方も分からないそうですね)

内容を書くとネタバレになるので、あまり触れないようにしますが、予告編でちらっと見た役所広司が、服装といい、物言いといい、てっきりヤクザの親分役かと思ったら、マル暴担当の刑事大上(おおがみ)役。役所は、善人役より悪役がハマる俳優ですが、最後にどんでん返しがあります。

この役所広司の「相棒」として付き添う新米の若い刑事日岡役が、松坂桃李。何で、こんなヤワな俳優を採用したのか、観る前は、違和感を覚えてましたが、まさに、彼の「成長物語」であり、適役、ハマり役。白石和彌監督の手腕には感服しました。

意外な人も出ていて、後で確かめてみたら驚きもありました。倶利伽羅モンモンのいかにも悪そうな加古村組の「真珠男」は誰かと思ったら、お笑いに近い北海道の演劇集団で大泉洋の仲間である音尾琢真、失踪した金融業の男の妹で、大上刑事と昵懇になる潤子役は、MEGUMI、薬局のアルバイト薬剤師桃子役は、阿部純子だったんですね。

私は、悪い癖で、主役よりも脇役の演技に注目してしまいます(笑)。

考えてみれば、主役の松坂桃李は、1988年生まれですから、この時代を知らないわけです。全くのフィクションの世界を、ゼロから実に多くの人間が関わって共同作業で作る映像芸術の醍醐味を味わった感じでした。

ただし、グロテスクな場面が多いので、よゐこの皆さんにはお薦めしません。ストレスの溜まってる人なら解消になるかもしれませんが、私は観てよかったので、相当ストレスが溜まってるんですね(笑)。

「ペンタゴン・ペーパーズ」は★★★★★

実は、あまり触手が動かなかったのですが、統合幕僚参謀本部からの指令で、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を先ほど観てきました。

だって、監督がスピルバーグ、主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。あまりにも役者が揃いすぎて、手垢がつき過ぎている。そりゃ、ハリウッド映画ファンなら大喜びでしょうけど、極東の映画巧者にとってはむしろマイナス要因ですからね(笑)。

それに、私の世代にとっては、この事件は、教科書に載るような歴史物語ではなく、生々しい過去の出来事。「感動してたまるか」と上から目線で見始めたら、いきなり、ベトナム戦争の前線の場面から始まり、多くの若い米国人兵士が次々と生命を奪われていく。。。「あれ、もしかしたら凄い映画なのかもしれない」と思ったら、気が付いたら、すっかり映画の中の住人になっていました。最後まで観客を飽きさせなかったリズ・ハンナの脚本の力が大きかったのかもしれませんが。

くどいようですが、私の世代まで、ギリギリ、ワシントン・ポストの女性社主キャサリン・グラハムの名前や、最高機密文書を暴露したエルズバーグという名前、それに、メディアとニクソン政権との確執などを同時進行で見てきた世代でしたので、「ストーリー」は分かってました。

個人的ながら、「ペンタゴン・ペーパーズ」を大スクープしたニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者とは、後年、彼が「輝ける嘘」(集英社)上下2巻を1992年9月に日本で翻訳出版した時、その発売前の8月に来日した際、インタビューしたことがありました。この映画の中で、何度も何度もニール・シーハンの名前が出る度に(意図したことなのか、名前だけで本人役は登場しませんでしたが)あの時の感動を思い出したほどです。

映画では、時の政府権力者と新聞社の社主との癒着に近い親密な関係を事細かく描いてます。ワシントン・ポストのグラハム女史と国防長官のマクナマラが、ホームパーティーに呼び合うなどあそこまで親密な仲だったとは知りませんでしたね。

デイビッド・ハルバースタムの名著「ベスト・アンド・ブライテスト」の中では、当時、フォードの社長だったマクナマラが、ケネディ大統領によって「最も優秀で賢い人間」の1人として国防長官に抜擢された有様が描かれていました。

それが、先日読んだ宇沢弘文氏の著作で、マクナマラは、太平洋戦争で日本空襲爆撃の際、どうやったら最も効率良く死者を産み出すことができるかという「キル・レシオ(殺戮比率)」を考案した人間で、ベトナム戦争でも応用した人物だったと知って、彼に対する見方も大分変わりました。

あ、映画の話でした。とにかく、1970年代の米国の新聞社の内部が非常によく描かれていました。当時は鉛活字ですから、今はなき植字工さんも健在です。原稿を包の中に入れて、ダストシュートのように社内を飛ばすやり方も、見ていて懐かしかったですね。私が勤めていた会社にも昔、ありましたからね(笑)。

1971年、つまり今から47年前の出来事ですから、脚本執筆に当たり、当時を知っている存命中の関係者に可能な限り取材して反映させた、といった趣旨の話がプロダクションノートに書かれていました。

映画に出てくる車やファッションは、70年代を再現していて、それらしく見せておりますが、当時を知っている私から言わせれば、外見は70年代でも、中身はやはり21世紀の若者、もしくは俳優にしか見えない。こういうのが作りもの映画の限界なんだろうなあと、理屈っぽく考えてしまいましたよ(笑)。