成瀬巳喜男監督の手腕に脱帽=1930年代の「まごころ」と「鶴八鶴次郎」

 私生活で色々と心配事が続いて悩みが尽きません。こういう状況だと何をやってもつまらないものですね。物欲がなく、悪所に行かず、賭け事はせず、宝くじも買わず、煙草も吸わず、最近、あまり酒も呑まず、好きな音楽も聴かず、只管、四角四面、謹厳実直に振舞っているので、ますます生きているのが苦しいのです(笑)。本を読んだり、映画を観たりしてますが、実は心底から楽しめません。-まあ、こんな繰り言を書いてしまいましたが、こうして、つまらないブログを書いても旧知の人や見知らぬ人からコメント等を頂いたりすると嬉しくなり、「ま、書き続けていきますか…」という気持ちにさせてくれます。

 今日も書くことは、またまた成瀬巳喜男監督の戦前の1930年代の作品です。前回、成瀬巳喜男監督のファンクラブの方々が立ち上げた精巧なサイトをご紹介しましたが、その中で、1930年代作品のベストワンに挙げていた「まごころ」を初めて観てみました。1939年(昭和14年)、東宝東京の作品です。1939年はノモンハン事件が起きた年です。ゾルゲ事件の国際諜報団の一人、ブーケリッチがアヴァス通信(現AFP通信)記者としてこのノモンハンを取材しています。また、1939年は第2次世界大戦が始まった年でもあり、世界中で軍部が台頭し、きな臭い時代です。撮影当時は、そんな時代背景がありました。

 原作は、「青い山脈」で知られる石坂洋次郎で、同名の小説は同じ1939年に発表されていますから、凄い速さです。石坂は当時からベストセラー作家だったのでしょう。それにしても同じ年に映画化するなんて、映画監督も原作に飢えていたんですね(笑)。成瀬作品の中で、「まごころ」はあまり知られていませんが、1930年代のベストワンになるぐらいですから、確かに本当に良い作品でした。

 日本では既に、1937年から支那事変(日中戦争)が始まっており、映画は、何処か地方の駅舎の前の広場で(甲府駅らしい)、「大日本愛国婦人会」の白いタスキを掛けた主婦たちが大勢集まって、何か打ち合わせをしている場面から始まります。「大日本愛国婦人会」といっても、今では誰一人も関心を持つ人はいませんが、かつて、この団体に異様に興味を持っていた方がおり、色々と教えてもらったことがあったので、私なんか注視してしまいました。

 「銃後の守り」とも言うべき婦人会は、ざっくり言って3団体あり、第1がこの「愛国婦人会」(1901年設立)で内務省・厚生省系で、最盛期は約312万人。華族の参加も多かったようです。第2が「大日本連合婦人会」(1931年設立)で文部省の音頭取り。第3の「大日本国防婦人会」(1932年発足)は、陸軍省、海軍省の肝いりで、最盛期は905万人以上も参加しました。この3団体は1942年に国家総力戦体制ということで、「大日本婦人会」の一つに統合され、終戦まで続きます。

 映画の話から少し外れた感じですが、とにかく、この大日本愛国婦人会のリーダーが浅田夫人(村瀬幸子)で、その娘の小学校高学年らしき信子(悦ちゃん)が学期が終わり、成績が10番に落ち、代わって、信子の親友の長谷山富子(加藤照子)が1番になったという話から物語は展開します。

 子どもが主役なので、子供映画のようですが、なかなか奥が深い(二人とも演技がうまい)。浅田夫人の夫は銀行役員の敬吉(高田稔)ですが、どうやら、将来、婿養子になる条件で、学生時代に学費を払ってもらっていたらしい。夫婦関係は醒めています。

 ところが、敬吉には若い頃に好きな相手がいて、それが今は富子の母親の蔦子(入江たか子)。二人は当然、結婚できず、蔦子はある男に嫁ぎましたが、飲んだくれの甲斐性なしで、早くに亡くなり、蔦子は針仕事で家計を支え、富子を育てています。

 富子と信子は親友なので、夏休みに、川で遊んでいるうちに、信子が足を怪我してしまいます。そんな偶然の機会に蔦子と敬吉が久しぶりに再会し、噂を聞いた浅田夫人は嫉妬で怒り狂います。しかし、すぐ誤解は解け、ちょうど召集令状が敬吉のもとにも来ていて、最後は、敬吉の出征場面で終わります(恐らく中国大陸へ)…と大体の荒筋を書いてしまいましたが、80年以上昔の映画だからいいでしょう、と勝手な解釈で、悪びれた様子は見せません(笑)。ご興味のある方は御覧になってください。

 蔦子役の入江たか子(1911~95)は、前回も書きましたが華族出身の美人女優で当時の大スター。敬吉役の高田稔(1899~1977)も、当時の二枚目スターだったらしく、確かに凛々しくて、惚れ惚れするぐらい格好良い俳優です。この人、戦後になっても長らく俳優生活を続けていて、テレビの「ウルトラQ」や「ウルトラマン」まで出ていたんですね。全く知りませんでした。

 もう一つ、第3位の「鶴八鶴次郎」(東宝東京、1938年)も観ましたが、これも大傑作。長谷川一夫と山田五十鈴の二大スターの共演ですが、二人とも実に若いこと。長谷川一夫は、勝新太郎にそっくりですし、山田五十鈴は年配になってしか知らなかったので、こんな品のある美人さんだったとは…(失敬)。原作は川口松太郎の同名小説(1934年)で、第1回直木賞受賞作品なので、私も原作は読んでいましたが、こんな話だったけ?と自分の記憶力のなさにがっかりしてしまいました(笑)。

 番頭の佐平役の藤原釜足もいい味出してましたが、やはり、二大スターの魅力を存分に引き出した成瀬監督の手腕には感服しました。

映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」は★★★★★

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 ロン・ハワード監督作品「パヴァロッティ 太陽のテノール」を観て来ました。「ダ・ヴィンチコード」や「インフェルノ」などでメガホンを取ったロン・ハワード監督には「外れ」がないですからね。音楽映画は、4年前にビートルズのツアー・ドキュメンタリーも編集してますし、何と言っても、彼が監督になる前、俳優として「アメリカン・グラフィティ」(1973年、ジョージ・ルーカス監督)に出演している時から私は観てるので親しみを感じます。この作品は、タイトルを聞いただけで、予告編も観ないでいきなり観て来ました。

 「世界三大テナー」の一人、ルチアーノ・パヴァロッティ(1935~2007)ほど世界中に知られたオペラ歌手はいないでしょう。「パスタを3人前ペロリと平らげた」といったような舞台外の日々の行動まで報道され、私生活もパパラッチに追い掛け回されていましたが、意外と彼の生い立ちやどういう教育を受けて歌手になったのか、家庭生活はどうだったのか、知られていませんでした。

 熱狂的なファンなら知っていたでしょうが、それほど興味がない私は、この映画を観るまで、彼は少し体格の良いイタリア人(笑)だということだけは知っていましたが、それ以外はこの映画で初めて知りました。彼の父親はパン焼き職人ながらアマチュアのテノール歌手で、ルチアーノは、小学校の教師になりながら、夢を諦めず、プロのテノール歌手(1961年)になった人でした。「キング・オブ・ハイC」と呼ばれる類まれなる天性の才能がありましたが、それらも人知れぬ隠れた努力の賜物だったようです。映画の中で、あるテノール歌手も言ってましたが、テノールの音域は普通に話す声とは違った不自然な声で、それを如何に自然に聴こえるようにするかが、プロの手腕で、彼の天才も相当な努力の上に花開いたものに違いないというのです。

 映画は彼の舞台映像とインタビューのドキュメンタリー形式で、最初の妻アドゥア・ベローニと3人の娘、36歳も離れた二番目の妻ニコレッタ・マントヴァーニらも登場し、プライベートな家庭生活を語っていましたが、やはり、色々と大変だったんだなあと同情するばかり。

 「悪名高い」評判の悪いプロモーターが彼を取り巻き、「異業種」のU2のボノらロックスターとの共演や、何十万人も集める野外コンサート、そして、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスとともに「三大テノール」としての世界的「売り込み」が、悉く成功していきます。失礼ながら、プロモーターたちはあまりにも貪欲そうで、人相が悪いので笑ってしまいました。それに、「ジョニー・カールソン・ショー」などの米人気テレビ番組や「TIME」誌の表紙を飾るなど、彼の人気も商業主義の権化であるマスコミの後押しが大きかったことでしょう。

 この映画では出てきませんでしたが、パヴァロッティは、完璧を求めるばかりに、何度も公演をキャンセルして、「キャンセルの王様」とまで言われ、シカゴのあるオペラ座では支配人から終身出入り禁止になったこともあったそうです。外見とは違い、かなり神経質で、傷つきやすい性格だったようです。

 悲しい時でもいつも笑顔を絶やさなかったパヴァロッティでしたが、それはエンタテインナーとして表向きにつくられたプロ魂に過ぎなかったこともこの映画で観て取れました。英ダイアナ妃らとともに慈善活動に精力を費やしたりしたのは、子どもの頃の戦争体験が大きかったから、というナレーションには少し納得しましたが、彼自身、大成功を遂げたとはいえ、幸福だったのか、不幸だったのか、観ていて分からなくなってしまいました。

 映像を通してでしたが、確かに鳥肌が立つほど、彼の歌声は心と腹の底に響き、素晴らし過ぎて、また、DVDを取り寄せてでも彼が出演したオペラが観たくなりました。私自身、1999年1月9日、東京ドームで行われたズービン・メーター指揮「三大テノール  ニューイヤー・コンサート」を観ているはずなのですが、その時、人の多さばかりが印象に残り、主役たちは豆粒にしか見えず、案外すぐ終わってしまい、その内容はほとんど覚えていないのです。

 1999年は特に忙しい年で、音楽担当記者として数多くの公演を観ていたのですが、変わり者の私ですから、「三大テノール」のあまりにもつくられた商業主義にうんざりしていたのかもしれません。(それほど凄かったのです)

 でも、こうして、13年前に71歳で亡くなったパヴァロッティという歴史的人物を映像を通して観ると、類まれな天才と同時代を生き、同じ空気を吸っていたんだという実感を味わうことができ、生きる勇気をもらった気がしました。

成瀬巳喜男で観る日本の戦前1930年代

 どういうわけか、最近、成瀬巳喜男にハマってます。溝口健二(1898~1956)、小津安二郎(1903~63)、黒澤明(1910~98)と並ぶ日本の名匠成瀬巳喜男監督(1905~69)のことです。

 とは言っても、それほど多くの彼の作品を観たわけではありません。世代が違うので、劇場でもテレビでも1本も観たことはありません。随分昔にレンタルビデオで、名作と言われる「浮雲」(1955年、林芙美子原作、高峰秀子、森雅之主演)を見て感動し、大傑作だなあと思いつつも、あまりビデオ屋に行くことはなくなり、成瀬作品に接する機会も減っていました。

それが、今ではユーチューブで簡単に観られるので、少しハマってしまったのです。特に、私自身、近現代史、昭和史、戦前に興味があるので、作品そのものよりも、ロケで使われた当時の様子が映し出されるとちょっと興奮してしまいます。1930年代の作品などは、こうして90年経っても見られるなんて本当に奇跡だと思っています。

 戦後生まれの私は、戦前は全く異次元の世界だと思っていました。戦前は大政翼賛会の超国家主義で、軍国主義と暗殺テロが蔓延り、隣組の窮屈な監視社会だと思っていましたから、これらの作品を観ると映画というフィクションの世界だとはいえ、普通の庶民が恋愛をしたり三角関係に悩んだり、仕事で失敗したり、家庭内でいざこざがあったりして、今と何ら変わらない共通点を見つけて驚いたりしています。

 成瀬監督は、当時の時代の最先端を切り取って観衆に提示したことで後世でも鑑賞に堪える作品になったのではないでしょうか。例えば、出世作となった、まだサイレント映画の「腰弁頑張れ」(1931年)では、主人公である保険外交員岡部(山口勇)がサラリーマンの悲哀を見事に演じています。満州事変の起きた昭和6年にあんな猛烈な保険セールスマンがいたとは驚きでしたが、時代は変わっていなかったんですね。当時はサラリーマンという言葉がなかったのか、「腰弁」という最先端の流行語を使っているところがいいですね。

 また、1930年代はまだ「敵性音楽」にはなっていなかったでしょうが、米国のジャズが最新流行として盛んに使われていました。昭和初期の永井荷風や太宰治らの小説に登場する銀座のミルクホールとかダンスホールなども出てきて感激してしまいます。

 成瀬監督の最初のトーキー映画は、1935年(昭和10年)の「乙女ごころ三人姉妹」(川端康成原作)です。浅草が舞台で、浅草寺や六区の繁華街(エノケン一座の興行の幟も)、隅田川などが出てきますが、米軍の空襲による破壊される前の原風景がフィルムに収められ感慨深いものがあります。モボやモガ以外の人は、和服が多く、この時代の女性はまだ日本髪を結っていて、江戸情緒が残っていたことが分かります。

 居酒屋で三味線を弾き語る「門付け」で生計を立てている次女お染(堤真佐子)と三女でレビューダンサーでモダンガールの千枝子(梅園龍子)と、男(滝沢修)と駆け落ちをした長女おれん(細川ちか子)の三人姉妹の人生模様が描かれています。日本の新劇界(築地小劇場~劇団民藝)の「神様」滝沢修(1906~2000)は、私自身、彼の初老になってからの姿しか知りませんでしたが、「こんな若かったのかあ」と吃驚仰天しました。ちなみに、滝沢の妻文子は、外交官古谷重綱の娘で、文芸評論家の古谷綱武、ジャーナリストの古谷綱正の妹だということで、これまた吃驚。ジャーナリストの古谷剛正(1912~89)は、TBSの「ニュースコープ」のキャスターを務めていたので、40代以降の人なら覚えているかもしれません。

 成瀬監督のトーキー作品第2弾が「女優と詩人」(1935年)です。人気舞台女優千絵子役が、成瀬監督の最初の妻になった千葉早智子、「髪結いの亭主」のような風采の上がらない詩人月風(げっぷう)役が宇留木浩。この人、本名が横田豊秋(1903~36)で、監督から映画スターになった稀有な人なんだそうです。この映画出演の翌年に狭心症のため33歳の若さで亡くなってしまいます。また、先に挙げた「乙女ごころ三人姉妹」の長女おれん役の細川ちか子が横田豊秋の実の妹だといいますから、驚き。「皆つながってるんだなあ」と思いました。(でも、華やかな芸能界でもこうしてほとんど忘れ去られてしまいます)

 1937年公開の「女人哀愁」は、当時の大スター女優入江たか子(華族である子爵東坊城家出身でしたね!)主演。嫁ぎ先での冷たい仕打ちに苦悩し、ついに「女の自立」を宣言する広子役ですが、当時の家長主義、封建主義、しかも女性の参政権のない時代で、随分先進的で画期的な映画だったことだと思わせます。

 同年の「雪崩」は大佛次郎原作ですが、随分暗い、そしてつまらない映画だこと(失礼!)。主人公日下五郎(佐伯秀男)は新婚の妻路子(霧立のぼる)がありながら、元の恋人弥生(江戸川蘭子)が忘れず、優柔不断な態度を取り、最後は心中まで図ろうとするストーリー。日中戦争に突入しようとする時代でも、上流階級は別荘を持ち、裕福で優雅な生活を送っていた様子も描かれます。個人的には、この映画で、日本の国宝第1号に指定されながら米軍の空爆で破壊消滅した在りし日の名古屋城や、戦災に遭う前の戦前の東京・銀座の繁華街も映っていて感激してしまいました。

 1930年代の映画を観ていて、出演していたエキストラを含め、飲んだり唄ったり、笑ったり泣いたりしていたこの時代の大人たちが、この後の支那事変(日中戦争)や大東亜戦争(太平洋戦争)を戦って死んでいったのかと思うと、後世の人間として胸が詰まる思いがしました。

 これ以外の作品も観ましたし、これからも観て行こうと思いますがこの辺で。。。なお、このブログを書くに当たり、「日本映画の名匠成瀬巳喜男のファンページ」を大いに参照させて頂き、引用もさせて頂きました。御礼申し上げます。

35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は★★★★★

 久しぶりに映画館で映画を観て来ました。

 調べてみたら、2月11日に東京・恵比寿の日仏会館で観たアルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」以来でしたが、封切映画なら2月8日に有楽町で観た第1次大戦のAIカラー映像化した「彼らは生きていた」以来で、いずれにせよ半年ぶりでした。

 小生、皆さまご案内の通り映画好きですが、こんなにブランクが開いたのは初めてぐらいです。コロナ禍の影響で、映画館の席は間隔が開けられ普段の半分しか入れない状況でした。

 観たのは「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(ポーランドのアグニェシカ・ホランド監督作品)です。先週、たまたま新聞の広告でその存在を知り、私の”興味津々”範疇の「スパイもの」だというので飛びついたわけです。子どもの頃から、「007」シリーズ(特にショーン・コネリー)を観て育ちましたからね。

 でも、この作品は全くのフィクションではなく、主人公ガレス・ジョーンズ(1905~35)は英国ウエールズ出身の実在の人物で、スターリン政権のソ連に潜り込んでその実体をスクープしたフリーのジャーナリストでした。彼は、ロイド・ジョージ首相の外交顧問も務めたことがあり、日本にも取材で6週間滞在したことがあるらしく、最期は満洲でソ連の秘密警察の手によって暗殺されたようでした。30歳の誕生日を迎える1日前のことでした。ジョーンズ記者が、潜入したウクライナ地方の凄惨な飢餓状況を初めて西側に発表したことから、ソ連側から「要注意人物」として恨みを買っていたためでした。

 この作品には、「動物農場」などでスターリンの恐怖政治を痛烈に批判した、私も大好きな作家のジョージ・オーウェル(1903~50)が準主役として登場する一方、スターリニズムを称賛するニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティ(1884~1957)が、ジョーンズのスクープはデマだと否定したりして「悪役」として活躍します。何しろ、デュランテイは1922年から36年まで14年間も支局長としてモスクワに滞在し、その間にピュリッツァー賞も受賞した大物ジャーナリストでした。

 そのデュランテイは、モスクワから一歩も出ず、地方の飢餓や窮乏を見て見ぬふりをし、夜ごと裸になって変な麻薬パーティーを開いたりします。麻薬パーティーが事実だったかどうか知りませんが、ホランド監督の彼に対する痛烈な皮肉と批判の現れでしょう。フェイクニュースが跋扈する現代と状況はほとんど変わっていないことを再認識させられます。

 若きジョーンズ記者は無鉄砲で、ソ連の官憲から逃れて、凍てつく吹雪が荒む凍土のウクライナを彷徨います。そこでは、あちらこちらで餓死した遺体が無造作に転がり、…いやあ、これ以上書けませんが、大変衝撃的な場面も出てきます。

 今ではすっかり忘れられたジョーンズ記者を掘り起こしたホランド監督は、ポーランド出身ということもあり、征服されたソ連の無情と残忍さは骨身に染みるように親から伝えられたことでしょう。1930年代の「ウクライナ大飢饉」(実に300万人の人が餓死したと言われる)は史実として知っておりましたが、この作品で、スターリン粛清主義の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

松岡將写真・文「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(同時代社)

 「有言実行の人」です。

 まさかこんなに早く企画が実現するとは思ってもみませんでした。

 私のブログが本になりました。いや、間違いました。言葉足らずでした。屡々、私のブログに掲載させて頂いている写真(WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua)が本になりました、というのが正確です。

 7月7日に同時代社から刊行される「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(4800円+税)という美術書のことです。

 写真と文は、近現代史・満洲研究家の松岡將氏です。1970年代初頭といいますから、もう今から半世紀近い昔。30歳代後半の農水省のエリート官僚だった松岡氏は在ワシントン日本国大使館勤務を命じられました。丸4年間の滞米生活を送った折、まさに公私ともに通い詰めた所がワシントン・ナショナル・ギャラリーでした。自宅から車でわずか20分という近距離だったこともあり、週末のプライベートの時だけでなく、日米農産物貿易交渉に関わる日本の国会議員や政府関係者、米国の上下両院議員、米農務省高官らとの接遇場所や空いた時間に案内するなど訪問回数は、幾何学級数的(多いという意味です)。ついでに撮った写真も何百枚、何千枚だったようです。詳しくは分かりませんが、そのカメラ装備も、ライカのようなプロ仕様だったと思われます。欧米の美術館のほとんどでは写真撮影は問題はないのですが、フラッシュ撮影は禁止でしょう。恐らくプロカメラマンのように照明まで配備できなかったかもしれませんが、驚くほど画像が鮮明で、画素数もかなり高感度です。

 実は、この有り余るほどのギャラリーの写真を松岡氏は最初、持て余していたようです。彼は、有難いことに、このブログの愛読者でして、私が適当に選んだ写真とブログの記事とのあまりにもの乖離(つまり合っていないこと)を嘆かわしく思われたらしく、ある日、「この写真をブログに御自由に使ってください」と、小生に添付メールで送ってくださったのです。

 そのうち、「ギャラリーの写真をまとめた本をいつか出したい」という話を伺ったのが、1年半ほど前でしたか。それが、「ある出版社に企画を持ちかけています」と聞いたのが、昨年の今ごろ。「著作権は大丈夫かなあ」と心配しつつ、その後、コロナ禍もあり、「企画の実現は随分先のこと」とこちらで勝手に思っていたところ、予告もなく、この本が「贈呈」として送られてきたのです。もう吃驚です。

 表紙の写真は、レオナルド・ダビンチ作「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」(1474~78)です。ダビンチの作品が欧州の美術館以外で所蔵されているのは、ここしかないそうです。この名作は、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの創設者アンドリュー・メロンの長女エルサ・メロン・ブルースAilsa Mellon Bruce (1901~1969)が1967年に購入したといいます。長い美術史から見れば、つい最近のことではありませんか。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、世界の有名美術館の中でもごく新しい美術館で、実業家・銀行家で米財務長官などを歴任したアンドリュー・メロン(カーネギー・メロン大学に名を遺す)が1931年に個人でエルミタージュ美術館などから取得した収集品を米国民に寄贈する形で、当時のルーズベルト大統領と米議会の同意で1937年にワシントンDCの地で着工し、1941年に開館した美術館だったのです。近現代史、昭和史のど真ん中じゃありませんか。

 松岡氏はさすが近現代史研究家ですから、「あとがき」の中で、1931(昭和6)年は満洲事変が勃発した年、1937(昭和12)年は支那事変(日中戦争)が開始した年、ギャラリー開館2カ月前の1941(昭和16)年1月は、陸相東条英機大将が「生キテ虜囚ノ辱メヲ受クルナカレ」とする「戦陣訓」を全軍に示達した、などと書いておられます。

 そして、「ナショナル・ギャラリーは全長238メートル、戦艦大和は全長256メートルで、大きさはほぼ同じだった」などと過去の御自身の著作からも引用しています。日本が軍国主義に邁進している時に、米国は着々と文化を育成していたのです。

 本書では、肝心の美術作品については13世紀末の宗教画辺りから、ルネサンスを経て、近世、近代の写実主義、印象派辺りまで網羅しています。ダビンチ、ラファエロ、レンブラント、モネ、ゴッホら巨匠の名前は、表紙写真の帯に出ている通りです。

オランダの聖ルチア伝説のマスター「天上の聖母マリア」(1485/1500年)WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私はかなりの面倒臭がり屋ですから、松岡氏からお借りした写真をブログに掲載する際、わざと(笑)キャプションを掲載しませんでしたが、この本ではしっかりと、作品名、年代、作者まで明記されていますので、長年、渓流斎ブログを見て「この写真の作品は何だっけ?」と悩んでおられた方々は、一気に解消されます。(松岡氏は、特別に思い入れのある作品については、個人的なコメントを添えています。例えば、上の写真の「天上の聖母マリア」については「ワシントン駐在となる数年前に母を失ったばかりの私の心を、仏画にも似て癒してくれるものだった」などと…)

 かつては王侯貴族ぐらいしかこのような美術作品に触れることができなかった時代と比べれば現代人は本当に恵まれています。しかも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、米国民のために設立された美術館なのに、「文化は人類共通の財産」として、異邦人(しかも設立当時は敵性国人!)にも自由に開放しているところが本当に素晴らしい。松岡氏もあとがきで、「(写真を)このまま自分一人のものとしておくのは、いかにも勿体ない。出来れば何とかこれを多くの人々と共有することができないか、と思うようになった」ことが、出版の動機だったことを明かしています。

 この「世界初」の書評(?)を読まれて御興味を持たれた方は、是非手に取って御覧になって頂ければ私も嬉しいです。

鎌倉のジタン館で「加藤力之輔展 時の足跡」

Daisuke Kato et Angela Cuadra ミクストメディア

 かけた情けは水に流せ

 受けた恩は石に刻め

 2年前のスペイン旅行で、ピカソの「ゲルニカ」を見る際に奥方様に大変お世話になり、昨年は京都での「送り火」で再会した加藤力之輔画伯が鎌倉で個展を開催されているということで、ちょっと足を延ばしてきました。

昨年は、加藤画伯の御子息Daisuke氏と御令室のAngelaさん、それに可愛い盛りの腕白のお孫さんたちにもお会いしましたが、二代にわたる芸術一家でDaisuke氏とAngelaさんの作品も展示されていました。

新型コロナで甚大な被害を受けたスペイン・マドリード在住の加藤画伯の奥方と御子息夫妻、お孫さんたちは、どうにか息災で元気にしているということで、少し安心しました。

東京では2日、ついにコロナ感染者が100人を越えました。

そこで、観光地鎌倉の人混みを避けて、平日に有休を取って伺ったのですが、交際範囲が広い加藤画伯のことですから、結構、訪れる方がいらっしゃいました。

ジタン館は、画廊のオーナーの御尊父が、自宅を改造して画廊に仕立てたようですが、戦前は若い無名画家のパトロンでもあり、仲が良かった藤田嗣治の若い頃の全く見たことがない後年の画風とは全然違う作品も所蔵されておりました。それを内緒で見せてもらいました(笑)。

この画廊は、鈴木清順監督なら涎を垂らしてでもロケに使いたいような雰囲気があります。私も何年かぶりに訪れたのですが、方向音痴で地図を読めない男ですから、ちょっと迷ってしまいました(笑)。

加藤力之輔展は、7月6日(月)まで開催中です。

そう言えば、帰り際、小生が「これから鎌倉近辺の寺社仏閣巡りをするつもりです」と話したところ、加藤画伯は「2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公北条義時が建てた覚園寺(かくおんじ)に行かれると良いですよ。あそこはまだあまりよく知られていませんが、素晴らしいお寺ですよ。鎌倉駅からバスが出てます」などと色々と教えてくれました。

 加藤画伯は地元鎌倉出身なので色々と詳しいのです。生憎、この日は別の寺社仏閣に行く予定をしていたので今回は覚園寺には行きませんでした。でも、再来年にブームになる前に一度訪れたいなあ、と思ってます。

英語は普遍的、中国語は宇宙的、日本語は言霊的

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、中部北陸地方にお住まいのT氏と久しぶりに長電話しました。T氏は、学生時代の畏友ですが、十数年か、数十年か、音信不通になった時期があり、小生があらゆる手段を講じて捜索して数年前にやっとメールでの交際が再開した人です。

 彼は、突然、一方的に電話番号もアドレスも変えてしまったので、連絡の取りようがありませんでした。そのような仕打ちに対しての失望感と、自分が悪事を働いたのではないかという加害妄想と自己嫌悪と人間不信などについて、今日は書くつもりはありません。今日は、「空白期間」に彼がどんな生活を送って何を考えていたのか、長電話でほんの少し垣間見ることができたことを綴ってみたいと思います。

 T氏は、数年前まで、何年間か、恐らく10年近く、中国大陸に渡って、大学の日本語講師(教授待遇)をやっていたようです。日本で知り合った中国人の教授からスカウトされたといいます。彼は、私と同じ大学でフランス語を勉強していて、中国語はズブの素人でしたが、私生活で色々とあり、心機一転、ゼロからのやり直しのスタートということで決意したそうです。

 彼の中国語は、今でこそ中国人から「貴方は中国人かと思っていた」と言われるほど、完璧にマスターしましたが、最初は全くチンプンカンプンで、意味が分かってもさっぱり真意がつかめなかったといいます。それが、中国に渡って1年ぐらいして、街の商店街を一人で歩いていると、店の人から、日本語に直訳すると「おまえは何が欲しいんだ」と声を掛けられたそうです。その時、彼は「サービス業に従事する人間が客に対して、何という物の言い方をするんだ」とムッとしたそうです。「日本なら、いらっしゃいませ、が普通だろう」。

 しかし、中国語という言語そのものがそういう特質を持っていることに、後で、ハッと気が付き、それがきっかけで中国語の表現や語用が霧が晴れるようにすっかり分かったというのです。もちろん、中国語にも「いらっしゃいませ」に相当する表現法はありますが、客に対して「お前さんには何が必要だ」などと店員が普通に言うのは、日本では考えられません。しかし、そういう表現の仕方は、中国ではぶっきらぼうでも尊大でもなく、普通の言い回しで、「お前は何が欲しいんだ」という中国語が、日本語の「いらっしゃいませ」と同じ意味だということに彼は気づいたわけです。

 考えてみれば、日本語ほど、上下関係に厳しく、丁寧語、敬語などは外国人には習得が最も困難でしょう。しかも、ストレートな表現が少なく、言外の象徴的なニュアンスが含まれたりします。外国人には「惻隠の情」とか「情状酌量」とか「忖度」などという言葉はさっぱり分からないでしょう。

 例えば、彼は先生ですが、学生から「先生の授業には実に感心した」といった文面を送って来る者がいたそうです。それに対して、彼は「日本語では、先生に対して、『感心した』という表現は使わないし、使ってはいけない」と丁寧に説明するそうです。また、食事の席で、学生から、直訳すると「先生、この食事はうまいだろ」などとストレートに聞いてくるそうです。日本なら、先生に対して、そんな即物的なものの言い方はしない、せめて「いかがですか?」と遠回しに表現する、と彼は言います。

 そこで、彼が悟ったのは、中国語とはコスミック、つまり「宇宙的な言語」だということでした。これには多少説明がいりますが、とにかく、人間を超えた、寛容性すら超えた言語、何でも飲み込んでしまう蟒蛇(うわばみ)のような言語なのだ、という程度でご理解して頂き、次に進みます。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、英語にしろフランス語やドイツ語にしろ、欧米の言語はユニバーサル(普遍)だと彼は言います。英語は記号に過ぎないというのです。もっと言えば、方便に過ぎないのです。これに対して、日本語は「言霊」であり、言語に生命が込められているといいます。軽く説明しましょう。

 福沢諭吉が幕末に文久遣欧使節の一員として英国の議会を視察した時、昼間は取っ組み合いの喧嘩をしかねいほどの勢いで議論をしていた議員たちが、夜になって使節団との懇親会に参加すると、昼間の敵同士が、まるで旧友のように心の底から和気藹々となって会話を楽しんでいる様子を見て衝撃を受けたことが、「福翁自伝」に書かれています。

 それで、T氏が悟ったのが、英語は記号に過ぎないということでした。英語圏ではディベートが盛んですが、とにかく、相手を言い負かすことが言語の本質となります。となると、ディベートでは、AとBの相手が代わってもいいのです。英語という言語が方便に過ぎないのなら、いつでも I love you.などと軽く、簡単に言えるのです。日本語では、そういつも簡単に「愛しています」などと軽く言えませんよね。日本語ではそれを言ってしまったら、命をかけてでもあなたを守り、財産の全てを引き渡す覚悟でもなければ言えないわけです(笑)。

 欧州語が「記号」に過ぎず、相手を言い負かす言語なのは何故かというと、T氏の考えでは、古代ギリシャに遡り、ギリシャでは土地が少なかったので、土地に関する訴訟が異様に多かったからだそうです。そのお蔭で、訴訟相手に勝つために色んなレトリックなども使って、表現法や語用が発達したため、そのようになったのではないか、というのです。

 なるほど、一理ありますね。フランスには「明晰ではないものはフランス語ではない」という有名な格言があります。つまり、相手に付け入るスキを与えてはいけない、ということになりますね。だから接続法半過去のような日本人には到底理解できない文法を生み出すのです。日本語のような曖昧性がないのです。言語が相手をやり込める手段だとしたら。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、日本語で曖昧な、遠回しな表現が多いということは、もし、直接的な言辞を使うと、「それを言っちゃあ、おしめえよ」と寅さんのようになってしまうことになるからです。

 ところで、幕末には、尊王攘夷派と開国派と分かれて、激しい殺し合いがありました。その中でも、西洋の文化を逸早く学んだ開明的な洋学者だった佐久間象山や大村益次郎らは次々と暗殺されます。洋学者の直接的な言葉が攘夷派を刺激したのでしょう。適塾などで学び欧米文明を吸収していた福沢諭吉も、自分の生命が狙われていることを察知して、騒動が収まるまで地元の中津藩に密かに隠れ住んだりします。

 それだけ、日本語は、実存的で、肉体的な言語で、魂が込められており、「武士に二言はなし」ではありませんが、それだけ言葉には命を懸けた重みがあるというわけです。そのため、中国語や欧米語のように軽く言えない言葉が日本語には実に多い、とT氏は言うのです。

 繰り返しますと、英語は、何でも軽く言える記号のような言語で普遍的、中国語は、寛容性を超えあらゆるものを飲み込む宇宙的、そして、日本語は命を張った言語で言霊的、ということになります。その流れで、現在の言語学は、文法論より、語用論の方が盛んなんだそうです。

 以上、T氏の説ですが、それを聞いて私も非常に感銘し、昨晩は久しぶりに味わった知的興奮であまり眠れませんでした。

文学とは実学である

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

新型コロナウイルス感染拡大の経済対策として、日本の国家政府は、国民1人に10万円と1世帯にマスク2枚を支給してくれるそうです。まだ届いてませんが、有難いことです。

 でも、素直に喜んでいいものやら。マスク2枚で466億円、国民1人10万円で12兆6000億円もかかるそうです。誰が立て替えてくれるのかと思ったら、新聞には「国費」と書いてましたから、結局、税金なんですね。まさか、大黒様の打ち出の小槌で、パッと現金が魔法のように現れてくれるものでもなし。

 何か、お腹の空いたタコが自分の脚を食べて、どうにか生き延びようとしているように見えます。

 うまい! これが文学です。何か、言葉に表せないモヤモヤしている感情を何とか、文字化するのが文学だとしたら、ここ数十年、厄介ものにされている大学の文学部とやらも、こういった緊急事態に何かと役に立つというものです。

 というのも、昨晩聴いたラジオで、作家の高橋源一郎さんが、現代詩作家の荒川洋治の随筆を朗読し、その中で、「文学とは実学だ。文学は、法律や医学や経済学と同じように、実社会に役立つものだ」といった趣旨のことを、孫引きの曾孫引きではありますが、強調していたからでした。(「ながら」でラジオを聴いていたので、荒川氏の本のタイトルを失念。荒川氏は何と、芸術院会員だったんですね!どうも失礼致しました)

 確かに、ここ数年、私自身も、文学の中でも小説やフィクションは、別に読まなくても良い、世の中に直接役立たないものだという思考に偏っておりました。そのため、ここ数年は、ノンフィクションか歴史書か経済書関係の本ばかり読んで来ました。

 しかし、疫病が世界中に蔓延し、アルベール・カミュの「ペスト」などの小説(結局、カミュが創作したフィクションですよ!)が改めて注目されている昨今を冷静に見つめてみると、文学の効用を見直したくなります。

Camus “La Peste”

 今、世界中で感染拡大を防止するために、経済封鎖するか、人の生命を優先するか、の究極的な二者択一を迫られています。変な言い方ですが、今、緊急事態の世の中で、実学として役に立っているのは経済学と医学ということになります。

 とはいえ、医学も経済学も万能ではありません。医学には医療過誤や副作用や、今騒がれている医療崩壊もあります。経済学も、ソ連型計画経済は歴史的にみても失敗に終わり、資本主義は、1%の富裕層に富が集中するシステム化に陥っています。

 その点、文学の弊害や副作用は、それほど劇薬ではないので、大したものではない一方、個人の生き方を変えたり、見直したりする力があります。下世話な言い方をすれば、小説を読んでもお金にはなりませんが、ヒトとしての生きる素養と指針を学ぶことができる、ということではないでしょうか。ボディーブローのようにジワジワと効いて、読んだ人の血や肉になるということです。

 昨晩はそんなことを考えていました。

ウクレレ・トリオ「まかまか」と加藤力之輔画伯の個展

WST Nationak Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua 

 外出自粛で、皆さんもストレスが溜まっていることと、拝察致します。ということで、本日は、趣向を変えまして、このブログなどで大変お世話になっている先輩・芸術家の皆様の「作品」をアップすることにしました。

 まずは、満洲関連でお世話になっている宮さんが参加しているウクレレ・トリオ「まかまか」。その演奏セッションを音声ファイルで送ってくださいました。

 小生、ズブのIT音痴であるため、ブログに画像と動画を貼っつけることは、どうにかこうにかできるようになりましたが、「音声」となると初めてです。(そうでないかもしれませんが=笑)

 さんざん苦労して一日がかりで、やっとアップできたようですので、皆さまもお聴きください。

「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」

 ウクレレ・トリオ「まかまか」は、がまちゃん(リーダー 編曲)と、かずえさんのリードにバックコード演奏の宮さんの3人。極秘情報ですが、平均年齢は後期高齢者年齢をはるかに超えていると噂されています。
 お聴きになればお分かり通りの、曲はイーグルスの 「ホテルカリフォルニア」。「なかなかやるじゃん」と私は、称賛の返信を送っておきました。

 宮さんは、PDFでこの編曲の楽譜も送ってくださいましたが、残念ながら、何度挑戦してもうまくアップできず。画像でも音声でもないPDFは、どうブログに貼っつけたらいいのか…うまくいきませんでした。宮さん、悪しからず。

 もう一人は、京都の泉涌寺にお住まいの加藤力之輔画伯です。一昨年のスペイン旅行の際には画伯の奥方様には、ピカソの「ゲルニカ」を鑑賞する時など、お世話になりました。スペインでは予想外にも感染者と死者が拡大して大変心配していたのですが、奥方様も、昨夏お会いした画伯と同業者である御子息とスペイン人の奥さんとお子さんたちもお元気なようで安心しました。

 加藤画伯は、最近、京都市の同時代ギャラリーで個展を開催されたということで、その「展示風景」を送ってくださいました。

YouTubeのブログへのアップの仕方は、最近覚えたので、今回も大丈夫のようです(と、思われます)。

 音楽コンサートや歌舞伎を始めとした演劇公演もほとんど全てが中止に追い込まれ、芸術家の皆様も厳しい生活に追い込まれていると思います。

 アーティストだけでなく、何ともお困りなのは、裏方さんと言われる大道具、小道具、音声、照明さんらのスタッフだと思います。

 政府の対応の遅さには、虚脱感を味わいますが、何とかこの難局を乗り切ってもらいたいものです。明けない夜はない、ということで。

【追記】

 ウクレレ・トリオ「まかまか」の「ホテルカリフォルニア」の楽譜がPDFなので、ブログに貼れない、と書いたところ、宮さんが、わざわざPDFをJPGファイルに変換して送ってくださいました。これなら画像と同じですので、ブログにアップできました。