凄過ぎる木下グループ=PCR検査までやるとは

  東京・新橋駅前に来店型の「新型コロナPCR検査センター」が12月4日から開業したことをニュースで知りました。完全予約制(ウエブなど)で、店舗で唾液を採取(所要時間3分前後)し、翌日には結果が本人に通知されるそうです。検査価格は2900円(税別)。それは良いとして、驚いたことに、この「新型コロナ検査センター」という会社は、木下グループの一員だということです。

 木下グループは、木下工務店を中心にした建設会社グループだと思いきや、映画「関ケ原」などの製作や、ハリウッド映画「ミッドウエイ」など海外映画の配給をやっているキノフィルムズ、東京や福岡にある映画館キノシネマ、俳優の小林稔侍、光石研、オダギリジョーらが所属する芸能プロダクションの鈍牛倶楽部、それにラジオのインターFMの100%株主といった芸能、報道関係、それに木下スケートアカデミーや水谷隼、張本智和ら卓球選手のスポンサーなどスポーツ関係の会社を運営しています。

 そこまでは、私も何となく知っておりました。仕事で調べたことがあったからです。でも、この木下グループが医療、福祉、教育関係にまで「進出」していたとは知りませんでしたね。木下グループのホームページを見ると、「木下の介護」「木下の保育」「木下福祉アカデミー」「木下未来学園」…何でもござれです。「新型コロナ検査センター」はグループ100%子会社で、グループ内の医療法人和光会が監修しているとのこと。意外でしたね。知らなかった人も多いと思います。

 建設会社から芸能、病院まで、どこか節操がないほど広範囲にカバーしている木下グループは凄過ぎますね。これだけ節操がないことで思い出すのは、このブログでどういうわけかアクセス数が多い、2017年2月23日に書いた「凄過ぎる滋慶学園」ぐらいです。

Luca Two-year old birthday

 つい、「節操がない」などと言ってしまいましたが、建設会社として出発して、芸能も医療も福祉も必要だったから、段々、拡大していったのかもしれません。

 木下グループは、株式を上場していないせいか、「会社概要」情報は「四季報」にも掲載されておらず、ネットでも正式に公開していないみたいですが、非公認のネット情報によると、現在のグループCEO木下直哉氏(1965年生まれ、福岡県出身)が2004年 に1000億円の債務超過に陥っていた木下工務店を買収して代表取締役に就任されたようです。木下氏は、同姓ながら木下工務店の創業者と関係がないようですが、キノフィルムズなど拡大戦略はこの人の経営手腕によるものだったんですね。かなりのやり手です。

 ラジオのインターFMを聴くと、盛んに「木下抗菌サービス」などのCMを流しています。メディアを広告媒体として相乗効果を狙っているのでしょう。

 コロナ禍の中、日本では縦割り行政の弊害でPCR検査が遅々として進んでいません。その間隙を縫って、営利事業としてPCR検査までやってしまうとは、木下グループ、凄過ぎる。

 12月5日午前11時の時点で、木下グループのPCR検査の予約サーバーが込み合っていて繋がらず。「12月8日まで予約は埋まっているので、9日以降のご予約を受け付けます」との告知がありました。

スウイング感に痺れました=エラ・フィッツジェラルド「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」

 久しぶりに、本当に久しぶりにCDレコードを買いました。

 20世紀最高の女性ジャズ・ヴォーカリストの一人と言われるエラ・フィッツジェラルド(1917~96)の「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」(ユニバーサル)です。

 「最高の一人」という言い方も変なのですが、「女王は、ビリー・ホリデイだ」「いや、サラ・ヴォーンでしょう」という人がいるからです。あとは好みの問題でしょう。

 このアルバムは、音楽プロデューサーで、「ヴァーヴ」などのジャズレーベルを創設したノーマン・グランツ(1918~2001)がプライベート・コレクションとして保管していた未公開ライヴ・テープをCD化したものです。テープは最近になって発見されたそうです。これは1962年にベルリンで録音されたライヴ音源で、私も先日、FMラジオで初めて聴いて、すっかり魅せられてしまい、久しぶりにレコード店に足を運んだわけです。

 エラのベルリン・ライヴといえば、1960年に録音された有名な「マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン」があり、これはグラミー賞受賞した名盤です。

 でも、はっきり言って、同じベルリン・ライヴでも、私自身は、こっちの62年録音の「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」の方が好きですね。

  スウイング(ノリ)感が全然違います。特に、60年盤でタイトルにもなって有名になった「マック・ザ・ナイフ」は、62年盤では脂の乗り切ったといいますか、少女のような可憐さとベテランの熟練さを合わせ持ったようなヴォーカルです。途中で、乗りに乗ってサッチモ(ルイ・アームストロング)の真似もしています。調べてみたら、この時彼女は45歳だったんですね。

山野楽器の入り口は狭くなりました

 60年盤はギターも入ってますが、62年盤は、ポール・スミスのピアノ、ウィルフレッド・ミドルブルックスのベース、スタン・リーヴィーのドラムスのトリオ。わずか3人なのに、オーケストラのような厚みのある音色を奏でるのです。特に、エラのお気に入りのスミスのピアノは、ピカ一ですね。音楽理論に詳しくないのですが、ジャズ・ヴォーカルのピアノ演奏は、クラシックともロックとも違い、独特というか、異様です。不協和音に近い独特の度数の兼ね合いで、さすがプロ、よくぞ、音程を外さないで唄えるものでした。勿論、この微妙な不協音が、聴く者に心地良い緊張感も与えてくれます。

 1962年といえば、ちょうどビートルズがデビューした年です。エラの「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」には「ハレルヤ・アイ・ラブ・ヒム・ソー」も収録されていました。この曲は、1957年のレイ・チャールズのヒット曲ですが、デビュー前のビートルズがドイツのハンブルクで演奏していた曲だったので、「おー、あの曲だあ」と思ってしまいました。

 今はネットで情報が沢山入ってきます。調べてみると、エラの生涯も子どもの頃に孤児院に入れられたり、早く親を亡くしたり、幸せな環境で生育したとはいえませんでした。二度の離婚経験もありました。孤児などという境遇はフランス・シャンソンの女王エディット・ピアフに似ていますね。ジョン・レノンも子どもの頃に両親に「捨てられた」というトラウマが大人になってもなくなりませんでした。歴史に残る大スターに共通しているので、子どもの頃の不幸は、スーパースターになる条件にさえ思えてきてしまいました。

 このCDを買ったのは、東京・銀座の山野楽器です。半年ぐらい、ビルを改装していましたが、新装開店したこの店に入って吃驚です。2階を中心に、大手携帯電話会社のショップが入居し、CDレコードは4階に追いやられていました。

 しかも、演歌もロックもクラシックもジャズも同じフロアです。以前は、地下にDVDがあり、1階はJ-POPSや演歌、2階は確か(笑)クラシック、3階は確か(笑)ジャズと別れていたのに、凄い縮小ぶりです。

携帯電話ショップになってしまった山野楽器

 つまりは、皆、CDを買わなくなっちゃったということなんでしょうね。今、ネットでユーチューブもあれば、スポッティファイもあり、わざわざお金を出さなくてもタダで音楽は見たり聴いたりできちゃいますからね。

 それに、少子高齢化でピアノを始め、楽器を買う家庭も少なくなってしまったのかもしれません。

 小生は14年前に、この山野楽器で思い切って、目の玉が飛び出るほど高いフォークギター「マーチンD-28」を買ったことがあります。このギターは、ビートルズのプロモーションビデオの「ハローグッドバイ」でジョン・レノンが弾き、映画「レット・イット・ビー」の中では、ポール・マッカートニーがこのマーチンで「トゥ・オブ・アス」を唄っていました。

 山野楽器のギターショップも縮小されたでしょうが、何か哀しくて、そこまで行けませんでした。

年を経て趣味趣向も変わる

新橋演舞場

  「ブログは毎日書き続けなければ駄目ですよ」との先哲の教えに従って、話題がなくても、できるだけ書き続けるようにしています。

 苦痛と言えば苦痛なのですが、もう40年以上もジャーナリズムの世界にいて、毎日のように記事を書き続けて来たので、普通の人より書き慣れているといいますか、いわば「職業病」とも言えるでしょう。職業の延長線でブログを書いているようなものですから、刀根先生をはじめ、何で他の人は毎日続かないんだろうとさせ思ってしまいます(笑)。

 ところで、最近、ものの見方といいますか、自分の考え方が年を経るうちに変わってきていることに気が付いております。

 一番変わったと思うのは「転向者」に対する見方、考え方でしょう。昔なら、そんな節操のない裏切者は許しがたかったのに、今では全く逆に、転向せずに自己の思想を守旧した人の方が、どこか空恐ろしさを感じてしまいます。だって、人間は趣味趣向も考え方も日々変化するものでしょう。生物学的に言っても、細胞だって毎日のように入れ替わっているし、歯だって悪くなるし、髪の毛も抜けたりします。自分の考えを絶対曲げない人は、確かに格好良いかもしれませんが、そこは大人の力学で妥協しなければならない時もあるし、その方が万事うまくいくこともあります。

 戦前は、「国賊」扱いだった足利尊氏や「謀反人」の典型だった明智光秀も、戦後は随分歴史的解釈も変わり、名誉も回復されたではありませんか。

銀座 木挽町で …うーん、分かりやすい。アナログ万歳!

 趣味趣向といえば、私自身は音楽が大好きで、学生の頃は毎日、16時間も聴いていたものですが、今ではほとんど聴かなくなりました。今は1日30分も聴いているかどうか…。

 若い頃は「音楽こそがすべて」でした。ちょうどソニーのウォークマンが新発売され、電車の中でも歩きながらでも、本当に一日中、音楽を聴いていた感じでした。

  それが年を取ったせいなのか、ゆっくり腰を落ち着けて音楽が聴けなくなってしまったのです。というか、勉強しながら、本を読みながら、家事をしながら、といった「ながら」で音楽が聴けなくなったのが一番大きいのです。勉強しながら、では、その勉強のことだけで頭がいっぱいで、音楽が少しも脳に染み込んでくれないのです。つまり、昔だったら、人とおしゃべりしながら、本を読みながら、音楽を聴いてもしっかり把握できたのに、年を取ってからは、一つのことしか頭に入らなくなってしまったのです。音楽を聴くなら、そのことだけ集中して一心不乱に聴けば、脳みそに入ってくれるのですが、他のことをしていると他の方に気を取られて音楽が入ってこなくなってしまったのです。

 いまはまだ、読みたい本も、読まなければならないと思っている本もたくさんあるので、音楽を聴くだけに時間を割くのが惜しい気がしているのです。つまり、あんなに好きだった音楽が自分の人生の優先事項 priority ではランクが落ちたということになります。

 そして、唐突ながら、最近、酒量がめっきり減りました。昔は大酒飲みだったんですが、別に飲まなくても平気な顔をすることができるようになりました。自分自身の健康に気を遣っているかもしれませんが、どうしても呑みたいという気もあまり起きなくなりました。単に年を取ったせいなのかもしれませんが…(笑)。

 まだあります。美術の趣味が全く変わってしまったことです。若い頃は、泰西名画一辺倒で、ゴッホの「ひまわり」とか、とにかく脂ぎった油絵が大好きだったのに、今では、わびさび、枯淡な水墨画、もしくは長谷川等伯、狩野派、琳派などの日本美術の方が遥かに好きになりました。展覧会に行くとしたら、西洋美術よりも日本美術や仏像展を優先したくなります。

 なあんだ、やはり、単に、抹香臭くなって、年を取っただけかもしれませんね(笑)。

 

三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観

 ◇三島割腹自決の衝撃

 11月25日は作家三島由紀夫が陸上自衛隊の市谷駐屯地で割腹自決した日で、今年はちょうど半世紀です。ということは、現在53歳ぐらいか、それ以上の方でないと、この事件を実体験した感想は書けないと思います。

 あの衝撃は今でも忘れられません。私は東京都下の中学生でした。当時、自分でもよく分からないのですが、剣道部に所属していて、この事件の第一報を知ったのは、剣道部の顧問の杉本教頭先生からでした。帰りがけの我々に学校の校庭で彼はこう言いました。「本日、日本で一番偉い方が亡くなりました」。

 日本で一番偉いのかどうなのか。当時、三島の作品を碌に読んでいなかったくせに、妙に反発心が湧き起きたことを覚えています。名前を知っていた三島作品は「潮騒」「永すぎた春」「金閣寺」など映画化された作品ばかり。ということは、まだ読んでおらず、小説は「仮面の告白」を既に読んでいたかどうか、記憶は曖昧です。

 三島主演の映画「憂国」(1966年)は見ていなくとも、切腹シーンで話題騒然となったことは覚えています。それが、実際、三島自身がミニチュア軍隊のような「楯の会」を結成して、メンバーとともに市谷駐屯地を襲撃して、本当に割腹してしまうのですから、興味よりも恐ろしさの方が先だったことを覚えています。当時は全共闘運動が盛んで、世間では左翼勢力の天下のような雰囲気だったせいか、極右の三島は恐ろしい人だ、憲法が改正され、徴兵制が敷かれ、戦争が始まる、といった恐怖心の方が強かったのでした。(私の少年時代は、親世代の戦争の記憶はまだ生々しく、私自身も徴兵制は復活すると思い込んでいました)

 翌日だったか、クラスの誰かが、朝日新聞の前日の夕刊を持ってきました。総監室で割腹自決した三島と三島を介錯した後自決した森田必勝の二人の首が並んだ写真が一面に大きく掲載されていました。この写真は、カメラマンが敷居の上から当てずっぽうにシャッターだけを押して隠し撮りしたら写っていたらしいのですが、個人的には「どうしてこんな写真を載せるんだろう」という気持ちが強かったでした。

◇50年後を予言した三島由紀夫

 まだ、中学生でしたから、政治も文学も思想も哲学も難し過ぎて関心すらなし。ビートルズやレッドツェッペリンに夢中でした。そのせいか、三島のクーデターまがいの行動には、滑稽と言えば生意気過ぎますが、正直、痛々しさを感じました。バルコニーで演説中は野次が飛び、三島本人も自衛隊員が同調して一緒に決起してくれることを期待していなかったようですし。

 半世紀を過ぎ、三島が生きた45歳をとうに過ぎた今の私は、三島が命を懸けて書いた「檄」文はある程度理解できます。それ以上に、檄文はまるで「予言の書」ではないかと思うようになりました。三島が憂いたように、「自衛隊はアメリカの傭兵」のような存在のままで、今でも莫大な資金でイージス艦など大量の米国製武器を買わされて続けています。日本国民の税金で。

 三島の死後、経済優先の弱肉強食の金融市場主義が蔓延って貧富の格差が拡大し、電車の中で化粧をしても恥とも思わない、三島が予言したような魂の抜けたような日本人ばかりになってしまいました。

 私は高校から大学にかけて、三島の主要作品は読破して、その煌めくような華麗な文体に眩暈し、日本文学史上最高の知性を持った文章家ではないかとさえ思ったことがあります。三島が自決する前夜に「最後の晩餐」をした東京・新橋の「末げん」に食事に行ったり、三島の遺児が成長して開店していた銀座の「宝石店」を探して見に行ったり、三島が夜な夜な通い詰めた新宿のバー「どん底」に飲みに行ったりし、結構、ミーハーなこともやったりしました。

それなのに、最後までアンビバレントの気持ちはなくなりませんでした。純真だった中学生の頃の反発心と、長じて文体に魅了された敬服心という相反する気持ちです。

◇ジャーナリズムの真骨頂

 今は、仮面を被った三島由紀夫よりも、幼少期病弱で祖母に溺愛された本名の平岡公威の方が興味があります。また、農商務官僚で、三島の死後も長命を保った実父平岡梓の方が興味があります。さらに、内務官僚で汚職の嫌疑で樺太長官の職を追われた三島の祖父平岡定太郎の方がもっと興味があります。

 三島のボディビルで鍛えた筋肉隆々で自身満々の姿は、己の弱さを隠すための方便だったのではないかと愚察しています。文学として、三島より、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治の方に私自身が惹かれるのは、後者は、三島のように「弱さ」を隠すことなく、人間の「弱さ」を作品の中で正直に吐露してくれたからだと思います。

 三島没後50年ということで、新聞、テレビ、雑誌等で散々取り上げられ、未だに熱烈な信奉者が多いことも分かりました。でも、11月25日を過ぎれば、取り上げられる機会は減ることでしょう。

 それこそがジャーナリズムの真骨頂です。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」

 満洲研究家だと思っていた松岡將氏が、いつのまにか美術評論家になっていました。

 今年7月に「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景ー美の殿堂へのいざない」(同時代社)を発行したばかりの松岡氏が、今度は、その「参百景」の補遺版に当たる「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像ー美の殿堂へのいざない・補遺」(同)を10月20日に初版刊行されたのです。1年に2冊も出版されるとはそのバイタリティーには脱帽です。松岡氏の略歴は巻末に誕生日まで詳細されておりますが、昭和10年生まれということは、今年85歳。頭が下がるばかりです。解説がうまく的確にまとめられています。

 7月の前著「参百景」では、ワシントンの在米日本大使館勤務時代を中心に何年も何年もナショナル・ギャラリーに通い詰めて、同館の新米学芸員以上の作品に対する知識をご披露されておりましたが、新著の「三十六肖像」も大変読み応え十分で、鑑賞し甲斐があります。

 これでも、小生は大学の卒論にクロード・モネを中心にした「印象派」を選び、記者になってからは文化部の美術担当になったこともあり、全国、全世界の主要美術館も巡り歩き、美術の知識はかなりあると自負しておりましたが、「三十六肖像」の画家の半分近くも知らなくて、自分の不勉強を恥じるばかりです。思えば、自分が詳しかったのは、泰西美術の中でも、バルビゾン派以降の写実派や印象派やキュービズムやバウハウスなど近現代ばかり。それもフランス中心の知識でした。ドイツ・ルネサンスもロシア・アヴァンギャルドもあまり知らないし、英国系は、ターナーかミレイかウィリアム・モリスぐらいです。

 例えば、本書では、ギルバート・スチュアート(1755~1828)とトマス・サリー(1783~1872)という米国人なら誰もが知っている画家が登場しています。何で知られているかと言いますと、二人とも肖像画が得意でスチュアートの描いジョージ・ワシントン初代米大統領は1ドル紙幣に、サリーの描いたアンドリュー・ジャクソン第7代大統領は20ドル紙幣に採用されているからだといいます。正直、私は知りませんでした。

 本書前半にイタリア・ルネッサンスのエルコレ・デ・ロベルティ(1455/56~1496)の「ジネブラ・ベンティヴォーリョ」の肖像画(1474/77)も取り上げられています。

 私自身、この絵も画家も知りませんでしたが、解説を読むと、ロベルティは、40歳余で早逝したため、残された作品が少ないが、後の批評家からレオナルド(・ダビンチ)と比肩するほど高い評価を受けている、とまで書かれています。

 取り上げられた画家の中には、意外とペストや肺結核で亡くなっている方が多いのですが、作品はこうして残り、芸術は永遠だなあ、と感じます

 色々と勉強になりました。

 私自身は、フランスびいきのせいか、ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748~1825)の「フランス皇帝ナポレオン:テュイルリー宮殿の書斎にて」(1812)のあまりにも細密でその精巧さに、改めて驚かされました。ナポレオンが目の前に立って、まるで生きているような感じです。
 勿論、写真が綺麗なせいかもしれません。撮影した松岡氏の玄人はだしの腕前です。もしかして、ライティングにもしっかりと気を配り、カメラが当時の最高機種だったかもしれませんが(笑)。

 私も意地が悪いですが、本文中、ジャクソン大統領を第八代としたり(実際は第7代)、セザンヌのところで、1861年のところを1961年としたり、明らかな間違いを見つけてしまいました。恐らく、この本は売れると思いますので、第2刷の際に訂正されることでしょう。

【追記】

 FBからの読者であるK氏からのメッセージで、ワシントンの一連のスミソニアン博物館群の入場は無料だということを御教授頂きました。ワシントン・ナショナル・ギャラリーもその中に含まれるので無料です。K氏は、ワシントン出張の際、スミソニアン博物館に行けなくても、ワシントン・ナショナル・ギャラリーだけは行くようにしたそうです。

 また、私は知りませんでしたが、この一群の中にフリーア美術館があり、(ということは無料公開)、俵屋宗達の「松島図屏風」を所蔵しているそうです。明治に米実業家の手を経て海外に渡ったものですが、日本に残っていれば、勿論、国宝になった作品です。見たいなあ。

🎬「スパイの妻」は★★

 ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した話題作「スパイの妻」(黒沢清監督作品)を大いに期待して観に行ってきました。

 劇場に着いたら、超満員の観客が列を作ってました。私は事前にネットでチケットを購入していたので安心していましたが、なかなか入り口に辿り着きません。

 「えらい人気だなあ」と思ったら、この作品ではなく、今、子どもから大人まで大人気のアニメ?「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の観客でした。この映画館だけで、この作品を週末は1日15~20回ぐらい上映しているらしく、三密状態で押し合いへし合いでした。

 私は全く興味がないので、漫画なのかアニメなのかよく分かりませんけど、恐らく今年一番の観客動員数を記録することでしょう。

 私の目当ての「スパイの妻」は、7割ぐらいの観客入りといったところでした。

 最初に書いた通り、大いに期待して観たのですが、ガッカリでした。「サスペンス」と称していますので、あまり詳しく内容には触れられませんけど、サスペンスにしては、驚くほど緊迫感はありませんでした。

 「回路」「トウキョウソナタ」などで知られる黒沢清監督も今年65歳となり、もう巨匠です。東大総長も務め、立教大学時代、黒沢監督の師匠に当たる有名映画評論家が、この作品を大絶賛する映画評を新聞に書いてましたが、それほど傑作とは思えませんでした。

 「何でかなあ」と自問してみましたが、はっきりした回答は出てきません。恐らく、もう少し、細部に拘ったドキュメンタリータッチの作品を期待していたのかもしれません。太平洋戦争前夜という緊迫した時代を背景に、神戸の商社社長である主人公福原優作(高橋一生)が、満洲(現中国東北部)に商用で出張した折に、国家機密の情報を知り得てしまうという話で、この映画を観る前、「一体何の話なのか」と思っていたら、結局、「何だ、その話でしたか」という意外性がなかったことで失望したのかもしれません。(その国家機密は、ハルビン郊外の話ですが、映画では新京は出てきてもハルビンのハの字も出てきませんでした。あ、あくまでも映画でしたね)

 この映画は、「スパイの妻」聡子役の蒼井優を中心に描かれた作品ということになるでしょうが、あまりにも彼女の顔のアップシーンが多い気がしました。(だから何だという話ですが)

 出てくる軍人役の俳優が一人も軍人に見えないし,軍隊行進の姿も全くなってない。登場人物の誰一人にも感情移入できなかったのが、最大の難点だったかもしれません。

 研究し尽くされていたのは、当時のファッションだったかもしれません。これは、うまく再現していましたが、当時の人はもっと帽子を被っていたと思いました。

 28歳の若さで戦病死した山中貞雄監督の「河内山宗俊」(1936年)を福原夫妻が映画館で観るシーンが出てきましが、これは旧き大先輩に対するオマージュだったのでしょう。しかし、映画の舞台は主に1940年の神戸。「人情紙風船」などで知られる山中貞雄監督は、1938年に亡くなっていますから、福原夫妻は超大金持ちなのに、弐番館の名画座で観たのかしら?

 昭和初期の細部にこだわる、と言いますか、うるさい人間がこの映画を観ると、難癖をつけたくなってしまいました。あまり詳しくない人にとっては、どうでも良い話でした。

特別展「桃山 天下人の100年」と上野「ぽん多」のカツレツ

 嗚呼、上野駅

 台風14号の影響で大雨が降る中、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「桃山 天下人の100年」を見に行って来ました。圧巻、感服、圧倒されました。普段は滅多に買わない図録(3000円)まで買ってしまいました。

 室町末から安土桃山、江戸初期にかけては、日本の美術史の中でもその時代は頂点を極めたと言っても過言ではないでしょう。狩野永徳、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達…国宝級が勢ぞろいです。彼らの先駆者の雪舟と後継者の尾形光琳、最近では伊藤若冲あたりを加えれば、もうほぼ完璧に近いでしょう。もしかして、逆に言えば、この奇跡的な時代に、日本人の美意識が完成したと言っても良いかもしれません。

 台風なのに出掛けたのは、この展覧会は、コロナ禍でオンラインによる日時指定の切符しか手に入らなかったからでした。しかも2400円もしました。(お蔭で、普段より空いていましたが、不注意にぶつかって来る人が何人もいて、一人も謝らない。日本人らしいなあ、と思いました。海外では、少しかすっただけでも、絶対、Excuse me とか Pardon ぐらい言いますからね)

 上野は久しぶりでした。2月に「出雲と大和」展(東博)を見に行って以来でしょうから8カ月ぶりです。そしたら、写真にある通り、嗚呼、上野駅はすっかり変わっておりました。東京文化会館や動物園、東博などがある公園口前の車道がなくなり、もう横断歩道を渡ることなく、そのまま駅から降りたら歩けるようになったのです。(そう言えば、東京・銀座の地下鉄の地下街を久しぶりに歩いたら、すっかり化粧直しされ、明るくなり、新しい店舗も入るようになりました)

 さて、肝心の「桃山」展ですが、絵画、襖絵から、武具甲冑、刀剣、茶道具、陶器、小袖に至るまで、信長、秀吉、家康に代表される天下人が愛用した品までもが見られるのです。また、御用絵師に描かせた肖像画などもあります。(会場には御用絵師の狩野家や土佐家の系図もありました)

 テレビの「なんでも鑑定団」の見過ぎかもしれませんが、1点何千万円も何億円も何十億円もしそうな「お宝」ばかりです。やはり、戦国武将ですから生命が掛かっています。命を削って得た「戦利品」です。これこそが、ハイリスク、ハイリターンの極致だと言えますね。

 この展覧会で特筆すべき作品を1点だけ挙げろ、と言われれば、私は本阿弥光悦・筆、俵屋宗達・絵による「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(京都国立博物館蔵)を挙げます。何十羽もの鶴が地上から空に飛び立つ連続写真のような絵を俵屋宗達が描き、その上に、本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書いた巻物です。特に、「風神雷神図屛風」で有名な俵屋宗達は、生年没年不詳の謎の絵師で、たまたま彼を取り上げたテレビ番組を見ていたら、この作品が取り上げれられ、「いつか見たいものだ」と思っておりました。

 展覧会の鑑賞は90分までと、お上から子ども扱いされて、制限時間まで決められていました。私はギリギリ、85分粘ってやめましたが、もう一度見たかった作品もありました。展覧会は後期に作品を入れ替えするので、もしかして、もう一回行くかもしれません(笑)。

 会場を出て、この後、行ったのが上野の「三大とんかつ屋」の一つと言われる「ぽん多」でした。とんかつ屋御三家の一つ、「双葉」(川島雄三監督作品「喜劇 とんかつ一代」モデルになった=閉店)と「蓬莱屋」(小津安二郎監督がこよなく愛した店)には行ったことがありますが、「ぽん多」はどうも敷居が高く、店の前に行ったことがありますが、入るのは今日が初めてでした。

 これまた、テレビで「ぽん多」の主人に焦点を当てた番組を見てしまったため、「いつか是非」と思っていたのです。明治38年創業。「カツレツ」の元祖という有名店だということで、ランチでも1~2時間待たされると、ネットでありましたが、この日は台風のせいか、13時過ぎに入ったら運良く空いていて、すぐ座れました。

 ちょっと値が張ることは知ってましたが、ビール小瓶(550円)とカツレツ(2970円)とご飯と赤味噌汁とお漬物(550円)を注文しました。消費税を入れると、お会計は4400円でした。

 主人が腱鞘炎になるほど叩いて柔らかくしたお肉は、とても上品なお味でしたが、個人的ながら、目黒の「とんき」で食したロースかつ定食(2100円)の方が衝撃的にうまかったでした。比較してはいけなかったかもしれませんが、どなたかをお連れして再訪したいのは「とんき」の方ですね。

 そう言えば、夏目漱石も大好物だったという「空也最中」の御主人もよく行かれるという銀座のとんかつ屋「とん喜」のランチのひれかつ定食(950円)は安くて旨いです。先週も行きましたが、私はこの店にはもう30年以上前から通っています。ランチなので、これまたテレビ番組に出ていた店の御主人は全く小生のことを覚えていませんが。

 結局、「とんかつ屋談義」みたいになってしまいましたが、「ぽん多」のことを特別に称賛しないのは、やっぱり敷居が高いせいかな、と我ながら反省しています。

祝ジョン・レノン誕生日 if he was still alive80歳

 今日10月9日は、元ビートルズのジョン・レノンの誕生日です。生きていたら80歳。暗殺されたのが40歳の時でしたから、没後40年という節目の年になります。

 ということは、現在、45歳以上ぐらいじゃなければ、ジョン・レノンの現役時代を知らないということになりますか。えっ?教科書に載っていたから知っている? 英リヴァプールはジョン・レノン空港だから知っている? そうですか、そうですか。もう彼はすっかり歴史上の人物になりましたね。

 このブログに何度もジョン・レノンのことを書くのは、私の人生で最も影響を受けた人物の一人だからです。ミュージシャンとしてだけなく、英政府からMBE勲章を受けながら返還したり、反戦運動家(ジョン・シンクレアら)や黒人の人権運動家(アンジェラ・デイビスら)を支援したりして米CIAからマークされるほどの活動家だったからです。

 当時私は中学生か高校生だったので、お蔭で「お上にたてつく」ことを覚えてしまい、長じてもその習慣が身に着いてしまいました。ジョン・レノンを知らなければ、上司に反抗することなく、長い物に巻かれて今頃大出世して、世界を動かすインフルエンサーになっていたかもしれません(笑)。

 結局、左遷ばかりされて、インフルエンサーになれず、この40年間はインフルエンザに罹ってばかりいました(笑)。

 40年というのは、あっという間でしたね。ジョン・レノンが暗殺されたとき、40歳というのはかなりのおじさんにみえましたが、今では人生の半分以下でまだまだ若い。青年に近いと言ってもいいぐらいです。

 思えば、ジョンがビートルズとして活動したのは満21歳から28歳まで(1962年10月5日にデビュー、69年8月の「アビイ・ロード」のレコーディングまで)のたったの7年間ほどでした。早熟の天才だったと言えるでしょう。彼のつくった曲で好きな曲はあまりにも沢山ありますが、「ラバーソウル」の「ガール」と「ホワイトアルバム」の「ハッピネス・イズ・ウオームガン」と「イマジン」の「ギミー・サム・トゥルース」と「ダブルファンタジー」の「ウーマン」は外せないと思っています。

 ジョン・レノンが生まれたのは1940年ですから第2次世界大戦の真っ只中でした。セカンド・ネームのウィンストンは、チャーチル首相から取られたことが有名ですが、小野洋子と結婚した際、ジョン・オノ・レノンに改名したことも有名です。幼い時に、船員だった父親アルフレッドから離れて伯母のミミ夫婦に育てられ、産みの母親ジュリアは内縁関係の2人の男性との間に3人の娘をもうけ、ジョンが17歳の時に交通事故死するなど家庭的に恵まれなかったトラウマが結局、曲づくりや彼のその後の人生に反映されていました。

 巷では商魂たくましく、ジョン・レノン生誕80周年記念 ニューベストアルバム「ギミ・サム・トゥルース.」(ユニバーサ)が今日から発売されたようですね。CD2枚とブルーレイ付きのデラックス版で9350円ですか…。私ですか? いえ、もう買いませんよ。彼のCDはもう既に全て持っていますし、DVDも何枚かありますからね。

 ジョン以外のポール・マッカートニーやジョージ・ハリスンやリンゴ・スターは日本公演で見たことがありますが(リンゴだけは記者会見で同席したことがあります)、ジョンは早いうちに亡くなってしまったので、「会う」ことができず、本当に残念無念でした。

 ですから、1966年のビートルズの来日コンサートを見たという林さんや、70年代後半にジョンとヨーコを東京のホテル・オークラの近くの路地で歩いているところをすれ違ったという栗原さんには、何を差し置いても密かに尊敬しています。

1940年代のジャズ・ヴォーカルが気になる

学生時代は、音楽が趣味で、1日16時間ぐらい聴いても飽きませんでした。

聴いていたのは、主にロックで、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリン、クイーン、ディープ・パープル、クラプトン、イーグルスといった王道のほか、1950年代のプレスリーなどの初期ロックンロール、60年代のマージービート、70年代のプログレ、グラムロックなどです。

思い起こせば、子どもの頃は歌謡曲、10代~20代はロック、30代はモーツァルトなどクラシックばかり、40代はジャズやボサノヴァ、シャンソン、それ以降は玉石混交といった感じで色んなジャンルの音楽を聴いてきました。

 そして今は、ほとんど聴かなくなりました。(あらま)サウンド・オブ・サイレンスです。特にうるさいロックは年のせいか付いていけなくなりました(苦笑)。せめてブルーズです。BBキングはやはり素晴らしい。でも、若い頃は、高齢者が聴くものだと敬遠していたジャズなら、年を取ったせいか琴線に触れます。

 ということで、今は少しジャズにはまっています。そのジャズの中でもヴォーカルです。40代にジャズを聴いていた頃は、ビル・エヴァンスに始まり、パーカー、コルトレーン、マイルス、コールマン、フリューベック、ペッパー、ブレーキー、ウエス…といわゆるジャケット買いで色々聴きまくりました。フリージャズとなるとついていけなくなりましたが、ヴォーカルは、フイッツジェラルドやヘレン・メリル、ビリー・ホリデーぐらいしか聴いていませんでした。(昨年はジュリー・ロンドンに熱を入れましたが)

 今回、はまったジャズは、1930~40年代ジャズです。きっかけは、成瀬巳喜男や小津安二郎らの戦前の映画を観ていたら、結構、BGMや効果音としてジャズが使われていたことです(敵性音楽になる前)。また、先日観た「ミッドウェイ」は1942年を再現した戦争映画でしたが、作品の中で、当時流行のジャズが使われていました。そして、毎週日曜日の朝に、ゴンチチの司会進行でNHK-FMで放送されている「世界の快適音楽セレクション」をよく聴くのですが、その中で「えっ?この曲いい。でも、何の曲かなあ?」と思った時、大抵は、私が生まれる前の戦前の1930~40年代に流行ったジャズだったりしたからでした。

 この中で特に、気に入ったのが、女性1人、男性3人のコーラスグループThe Pied Pipersパイド・パイパーズ(The Night We Called It A Dayなど)でした。全盛期は、戦時中から戦後にかけての1940年代です。トミー・ドーシー楽団の専属コーラスグループとして活躍しました。

 トミー・ドーシー(1905~56)は、ジャズ・トロンボーン、トランペット奏者で、楽団のリーダーでもあり、若きフランク・シナトラがこの楽団に所属して飛躍したことは有名です。が、勿論、私はパイド・パイパーズもドーシー楽団も今回初めて知りました。

 パイド・パイパーズの紅一点、ジョー・スタッフォードは独立して、1952年、ソロとして「ユー・ビロング・トゥ・ミー」をヒットさせ、米国と英国のチャートで首位になり、全英シングルチャートでは女性アーティストによる初の第一位のレコードになりました。

 この「ユー・ビロング・トゥ・ミー」は、日本でも大ヒットして、江利チエミや新倉美子らがカバーしています。新倉美子(1933~)は、何と新国劇の看板俳優・辰巳柳太郎の長女で、ティーブ釜萢(かまやつひろしの父親)が設立した「日本ジャズ学校」でジャズを学び、歌手、映画女優として活躍しましたが、1957年に結婚を機に芸能界を引退してしまいます。私はまだ物心がつく前でしたから、道理で知らなかったはずです。今ではユーチューブなどで、彼女の唄う姿が見られますが、「こんな人がいたのか」と驚くほど清楚な美人で、大変魅惑的で、英語の発音もほぼ完ぺきです。(彼女の写真や動画も著作権があると思われ、このブログに引用できないのが残念です)

 パイド・パイパーズをスッポティファイで聴いているうちに、ジョニー・マーサー(1909~76)唄う「accentuate the positive」という曲を知りました。戦時中の1944年公開映画「Here comes the waves」のためにマーサー自身が書いた曲だそうで、スタンダードになっています。マーサーは作詞、作曲もする歌手で、キャピタル・レコードの共同設立者ということでジャズ界の大御所です。多くのミュージシャンがカバーしている名曲Come Rain or Come Shineなども作詞しています(作曲はハロルド・アーレン)。恥ずかしながら、最近知ったのですが…。

 あのポール・マッカートニーが1975年にマーサーと共作しようと提案しましたが、時既に遅く、マーサーは病床についていて辞退したそうです。ポールはその後、先程の「accentuate the positive」をダイアナ・クラールのピアノなどをバックに唄いましたが、その姿がユーチューブでも観られます。ビートルズ「ホワイトアルバム」に収録されている「ハニー・パイ」などを作詞作曲しているポールは、アマチュア・ジャズマンだった父親の影響で結構、1930~40年代のジャズもかなり聴いていて、曲作りに影響を受けていたのです。

 今ではもう1日16時間も音楽を聴く気力も体力もないですが、たまにはゆっくりとジャズ・ヴォーカルに浸ってみたいと思う今日このごろです(わー、陳腐な終わり方!)

 映画「ミッドウェイ」は★★☆

 「インデペンデンス・デイ」などのスペクタクル映画で知られるローランド・エメリッヒ監督の「ミッドウェイ 日本の運命を変えた3日間」を観て来ました。

 エメリッヒ監督は1955年生まれのドイツ人ということですが、何でこの時期に、太平洋戦争の「勝負の分かれ目」となった「ミッドウェイ海戦」を作品化しようとしたのか、よく分かりませんでしたが、パンフレットによると、20年間もリサーチの時間をかけて、この戦争を映像化したかったようでした。「多くの命が失われる戦争には勝者はなく敗者しかいない。だからこそ二度と起きてはならない戦いを描いたこの映画を日米の海兵たちに捧げる内容にしたかった」

 とはいえ、米ハリウッド映画という勝者側から描いた作品にしか観えないのは、私が敗者側の日本人だからかもしれません。ウェス・トゥークの脚本、つまり、ストーリーが、お涙頂戴の「家族愛に基づくアメリカ人の愛国心」対傲慢な「領土拡張の野心に燃える日本の軍人」という構図になっているからです。

製作プロダクションとフィルム・プロダクションに米国だけでなく、中国、香港、カナダが入っているのも何となく違和感がありました。これらの国側から、脚本について何らかの「意見」を具申したと思われるからです。

 しかしながら、エメリッヒ監督が歴史を捻じ曲げたわけではなく、監督得意のスペクタクルは、まさに戦争に打ってつけ(?)で、戦闘シーンは非常にリアリティがあり、まさに戦場にいるような感覚にさせられました。

 真珠湾を奇襲攻撃した卑怯で悪いジャップをやっつけるのですから、若い米国人が観れば感動ものでしょう。よくぞ「再現」したものです。

 山本五十六・連合艦隊司令長官(戦艦大和)に豊川悦司、南雲忠一・第一航空艦隊司令官(空母赤城)に國村隼、山口多聞・第二航空戦隊司令官(空母飛龍)に浅野忠信を配し、それぞれ立派な演技でしたが、海兵隊員役の若い日系人か日本人のエキストラ俳優に全く緊張感が見られなかったのは残念でした。

 映画の最後の方では、この戦場で功績を挙げた戦士たちが、何とか十字章をもらったとか、山本五十六大将の乗った飛行機が撃墜されたとかいった、よくある「説明調」の場面が続きました。もちろん、命を懸けて大前線で戦った兵士の功績の賜物でしょうが、やはり、ミッドウェイ海戦の影の主役は、太平洋艦隊情報主任参謀のレイトン大佐(パトリック・ウイルソン)だったことがこの映画でよく分かりました。レイトンは駐在武官として日本に滞在し、日本語もできる日本通であり、この映画では、日中戦争が始まった1937年に、レイトンと山本五十六が会って話をする場面から始まることも印象的でした。

 山本五十六はハーバード大学留学、米駐在武官経験もある米国通で、アメリカの国力については知り過ぎていたはずだったのに…。

 結局、勝負の分かれ目は、日本の暗号を解析して読み取った米軍の情報収集能力にあったとも言えます。恐らく、大日本帝国軍は、ここまで敵に暗号情報が漏れていたことを知らなかったと思われます。いや、恐らくではありませんね。全く知らなかったのですね。そうでなければ、山本五十六大将の搭乗機が撃墜されるわけがありませんから。

 日本は国力や物資だけでなく、情報戦争で負けていたことが否が応でも見せつけられました。