徳川家臣団の変遷が面白い=「歴史道」25号「真説! 徳川家康伝」特集

 1922年創刊と日本で一番古い週刊誌で、101年の歴史を持つ「週刊朝日」(朝日新聞出版)が今年5月末で休刊になる、という超メガトン級のニュースが飛び込んで来ました。時代の趨勢を感じます。100年以上も歴史あるメディアが事実上廃刊になるのです。ピーク時は、150万部に達していたそうですが、昨年12月の平均は7万4千部程度。将来の部数と広告収入の減少を見込んだことが休刊の表向きの理由ですが、同社は週刊誌は他に「AERA」も発売しており、2誌同時発刊は経営的に厳しいと判断したようです。まあ、一番の理由は若い人が紙媒体を読まなくなり、ネット情報に依存するようになったからなのでしょう。

 私は古い世代なので、やはり紙媒体が一番です。残念としか言いようがありませんが、何を言っても始まらないでしょう。

 でも、その週刊朝日ムックとして隔月刊で発行されている「歴史道」は続けてほしいなあ、と思っております。1月発売の第25号は「真説! 徳川家康伝」特集で、あからさまなNHK大河ドラマ「どうする家康」とのタイアップ記事もありましたが、雑誌存続のためには仕方がないということで御同情申し上げます。

 ムックなので、写真や図解が豊富というのが特徴ですが、テレビに出たがりの、特に見たくもない、勝ち誇ったような学者様のアップした顔写真を何枚も掲載するのはそれほど必要なものか、と苦言だけは呈しておきます。その学者様の洞察力と業績は尊敬しますけど、まさかアイドル雑誌?これも売るために仕方ないのかなあ?

 先日、やっと読了しましたが、徳川家康というまさに日本史上燦然と輝く「日本一の英傑」の生涯がこの本で分かります。人には功罪がありますが、戦国時代の最終勝者で、その後、260年間もの太平の世を築き挙げた家康の手腕は、やはり、罪より功の方が遥かに上回っていると認めざるを得ません。3歳での実母との別離、幼少時代の人質生活、そして16歳(1558年の鱸氏攻め)から合戦に次ぐ合戦で、最晩年の大坂の陣(死の1年前)を入れれば、戦争に明け暮れた波乱万丈の一生と言えるでしょう。

 渓流斎ブログ2023年1月11日付「水野家と久松家が松平氏の縁戚になったのは?=NHK大河ドラマ『どうする家康』で江戸時代ブームか」でも書きましたが、この本を買ったのは、付録として「徳川家臣団 最強ランキング」が付いていたからでした。つまり、私には徳川家臣団の知識が不足しておりました。260年続く幕藩体制を築いた家康ですが、家康一人の力で天下を獲ったわけではありません。優秀で有力な家臣団がいたからこそ成就できたのです。その家臣団のほとんどが、幕末まで続く藩主(大名)になっているので、そのルーツを知りたかったこともあります。1月11日付のブログでも書きましたが、上総鶴巻藩主などの水野家は家康の実母於大の方の実家であり、下総関宿藩主などになった久松家は、その於大の方が離縁後に嫁いだ先でしたね。

 家臣団の中で、徳川四天王が一番、人口に膾炙しておりますが、それ以外に、この本では詳述されていませんでしたが、「徳川十六神将」とか「徳川二十四将」「徳川二十八神将」とかあるようです。特に二十八神将となると、後世になってつくられたものなので、人物名の誤記などもあるというので、よほどの通の人でなければ覚える必要はないかもしれませんが、この本の付録「徳川家臣団 最強ランキング」では「三河統一時代」と「五カ国領有時代」「関東入国時」と時代別に家臣団の変遷が詳述されています。例えば、三河統一時代の「三奉行」が高力清長、本多重次、天野康景だったことが分かります。私も含めて、知る人ぞ知る武将なので、彼らがその後、どうなったのか、子孫が幕末まで生き残って何処かの藩主になっていたのか調べたりすると本当にキリがありません。

銀座「マトリキッチン」

 そこで、有名どころとして、徳川四天王の筆頭、酒井忠次を今回取り上げますが、この人は、家康より15歳年長で家康の義理の叔父に当たる人でした。(酒井忠次の正妻碓井姫は家康の父広忠の妹。酒井氏は、鎌倉幕府の公文所初代別当大江広元の末裔とも言われている。また、酒井氏は松平氏と同族の兄弟(同祖)で、三河の国衆の中で酒井氏の方が有力だった時もあった。家康時代の酒井氏は、忠尚家、忠次家、正親家の3家から成る)。左衛門尉(さえもんのじょう)酒井忠次は、特に天正3年(1575年)の長篠の戦では、武田軍の背後に回る奇策を演じて、織田・徳川連合軍の勝利に導きました。いくら信長、家康といった目上の人に対してでも物怖じせず、率直に物を申す人柄で、酒井家の代々の藩主の家風として伝えられています。酒井忠次の孫に当たる忠勝から庄内藩主として幕末まで十二代続きます。あくまでも徳川家の臣下として誠意を尽くした庄内藩は、幕末の戊辰戦争でも最後まで善戦したため、過酷な処分が予想されましたが、比較的軽い処分で済みました。それは西郷隆盛の配慮だったことを後で知った旧庄内藩士によって明治初期に「西郷南洲翁遺訓」がまとめられた、という話につながります。

 歴史とは、現代との「つながり」ですから、そのルーツを知れば知るほど興味が増していきますね。

ゾルゲと尾崎は何故、異国ソ連のために諜報活動をしたのか?=フェシュン編「ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書」

(2023年1月12日付渓流斎ブログ「動かぬ証拠、生々しい真実」の続き)

 アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書」(みすず書房)を読了しました。内容は圧巻でしたが、最後は、あっけない尻切れトンボのような感じでゾルゲによる機密暗号文書(1941年10月4日付)は「201」で終わっています。ゾルゲ本人もまさか1941年10月18日に自分が逮捕されるとは思ってもみなかったことでしょう。

 本書は、ソ連の「赤軍参謀本部情報本部」(以前は「赤軍第4本部」と翻訳されていました)から派遣された大物スパイ、リヒアルト・ゾルゲが1930年から45年にかけて上海と東京から送電した暗号文書や手紙、それにゾルゲを監視する在京ソ連大使館軍情報部による報告文書など、機密指定を解除されて、フェシュン氏がロシアで編集出版した約650点のうち、1941~45年分の218点が訳出されています。ゾルゲによる歴史に残る二大スクープとして、「独ソ戦の開戦予告」と「御前会議での日本軍の南進決定」がありますが、それらは41年のものであり、33年から8年以上にも及ぶゾルゲの日本滞在での集大成とも言うべき極秘文書がこの本で読めるわけです。

 この本を訳出した名越健郎・拓殖大特任教授が前文「ゾルゲ事件に新事実」を書き、編著者のフェシュン・モスクワ国立大東洋学部准教授が巻末で解説「『ゾル事件』の謎に終止符」を書かれていますが、これだけ読んだだけでも、ゾルゲ事件の概要と背景がかなり詳しく分かり、私なんかまず出る幕はありません。

 そう言えば、註釈などに書かれていましたが、無線技士のマックス・クラウゼンは滞日最後の方になると、自身が副業として設立した複写機会社が軌道に乗り、また共産主義にも嫌気がさし、ゾルゲの高慢な態度にも不満を持つようになり、せっかくゾルゲが苦心して集めた情報記事を暗号化して送電しなかったり、やったとしてもほんの1部だったりしています。ゾルゲ自身は最後まで気が付かなかったらしいですが、捜査員が踏み込んだ隠れ家には原文が残されていて、クラウゼンのサボタージュが分かったというくだりは大変興味深い話でした。

 しかし、フェシュン氏の著書で、ゾルゲ事件のほぼ全容が解明されて、謎がなくなったとは言っても、そして、確かにゾルゲの機密文書という「成果」が掲載されたとは言っても、通読すると、私自身どうも理解できないことばかり浮上して困ってしまいました。そこで、自問自答形式をー。

【疑問】何故、ゾルゲ情報は、スターリンらクレムリン首脳部で信頼されなかったのか?

【推測】恐らく、ゾルゲがドイツ人(国籍)だったからだと思われる。二重スパイとして疑われるはずだ。しかも、ゾルゲは、コミンテルン(国際共産党)に所属したことがあり、コミンテルン派のトロツキーを追放(暗殺)したスターリンにとっては、本来ならゾルゲも粛清の対象だったはず。

【疑問】ドイツ人のゾルゲが、なぜ祖国ドイツではなく、ソ連のために諜報活動したのか? 

【推測】ゾルゲの父はドイツ人鉱山技師だったが、母親がロシア人だったせいかもしれない。国際共産主義のイデオロギーに心酔したため、国家は関係なかったかもしれない。それでも、独ソ戦が勃発した際、二律背反に陥らなかったのかどうか?…秘密文書だけではゾルゲの心理まで分からないが、隠れ蓑としてナチス党員になったのに、反ヒトラーだったので、快哉を叫んだかもしれない。

【疑問】近衛内閣参与だった尾崎秀実が、何故、御前会議での内容など日本の国家機密をゾルゲに漏らしたのか?

【推測】フェシュン氏の解説によると、尾崎の主要な政治目的は、戦争回避、日中戦争の局地化と解決、ソ連との講和、太平洋での戦争阻止だったという。尾崎が日本の「裏切り者」になったのは、日本が自ら宣言した使命を果たさなかったこともあろう、とフェシュン氏もいささか尾崎に同情している。と、同時に、「尾崎は奈良でゾルゲに協力を頼まれる前から、生粋のソ連諜報網のエージェントだった」とも書いている。つまり、共産主義に傾倒していた尾崎が、大阪朝日新聞の上海特派員時代から、著名な作家でコミンテルン活動家でもあったアグネス・スメドレーと関係を持ち、帰国後も北京で逢瀬を続けていた。尾崎がゾルゲと親しくなったのは上海だったが、ゾルゲと会わなくても、ソ連諜報機関員として活動していたことになる。尾崎は、ゾルゲもコミンテルンの一員だと思い込み、実は、ソ連軍参謀本部から派遣されたスパイだったことは最後まで知らなかったようだ。自分の機密情報が直接、クレムリン首脳部に届き、戦略や政策に多大な影響を与えるとまで考えていたかどうか分からないが、恐らく薄々感じていたはずだ。ただし、諜報組織ゆえ、ソ連の内務人民委員部(NKVD)と赤軍参謀本部情報本部と在京ソ連大使館軍情報部の違いまでは知らなかったことだろう。尾崎がソ連に機密を齎したことで、結果的に日本の国家が転覆(滅亡)することまで想像できなかったかもしれないが、尾崎に多大な責任があったことは確かだ。

 ◇◇◇

 さて、ロシアがウクライナへの侵略戦争を開始してもう1年が経とうとしていますが、目に見えない諜報活動は、ロシアのお家芸ですから、メディアで報道されなくてもかなり頻繁に、かつ重厚に行われていることが容易に想像されます。諜報員は東京でも暗躍しているかもしれません。

動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」

 昨日は帰宅して、大切な手帳をなくしたことに気が付きました。鞄の中にもポケットの中にもありません。でも、すぐに、会社に置き忘れたのではないかと予測できたのでそれほど焦りませんでした。翌日の朝(ということは今日)、会社に着いて、机の引き出しを開けたら、案の定、手帳が出て来ました。一安心です。

 とはいっても、会社員になって40年以上経ちますが、大事な手帳を置き忘れたことは今回が初めてです。冥界の閻魔大王様が、ニコニコしながら、こちらに手招きしている姿が頭にちらつきます。

 さて、今、通勤電車の中で、アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」(みすず書房、2022年10月17日初版)をやっと読み始めました。7040円という大変、大変高価な本なのですが、ゾルゲや近現代史研究者だけでなく、一般市民の方でも必読書ではないかと思いながら、熟読玩味しております。実に面白い。

 この本については、既に2022年11月8日付の渓流斎ブログ「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」でも取り上げておりますので、ご参照して頂ければ幸いです。

 これでも、私自身は、ゾルゲ事件に関連する書籍はかなり読み込んできた人間の一人だと思っております。10年程昔、この渓流斎ブログでもほぼ毎日のようにゾルゲ事件について取り上げて書いていた時期がありましたが、その大半の過去記事は、小生の病気による手違いで消滅してしまいました。

 そんな私がこの本を「面白い」とか「必読書」などと太鼓判を押すのは、ゾルゲ事件の核心的資料だからです。何と言っても、在東京のスパイ・ゾルゲがモスクワの赤軍参謀本部情報本部に送った暗号文の「生原稿」が読めるのです。ゾルゲ事件といえば、日本の当局が容疑者を訊問した調書が掲載された「現代史資料 ゾルゲ事件」1~4(みすず書房)が必読書の定番ではありますが、この本は、事件の核心につながる粋を集めた、いわばゾルゲ国際諜報団の「果実」みたいなものだからです。まさに「動かぬ証拠」です。よくぞこんな機密文書が残っていて、あのロシア当局がよくぞ公開したものです。恐らく、ゾルゲを神格化したいプーチン大統領の思惑によるものでしょう。

 収録された暗号文には実に生々しいことが報告されています。特に、「お金が足りず、早く送金せよ」といったゾルゲの悲痛な叫びが何度も登場します。それに対して、モスクワ当局は「予算を切り詰めろ」とか「価値のない情報に金は払うな」「出来高払いでよい」といった冷たい態度で、まるで現在の何処かの国の多国籍企業の本社と海外駐在員とのやり取りのようです。

 先ほど、「一般市民の方でも必読書」と書きましたが、ゾルゲ事件に関する書籍をほとんど読んだことがない人でも読みやすいと思うからです。何故なら、註釈がしっかりしているからです。例えば、ゾルゲが宛名先として指名し、暗号文書の中では、「赤軍参謀本部情報本部長」もしくは「G」となっている人物については、「註釈21」で「フィリップ・ゴリコフ(1900~80年) ソ連軍元帥。野戦部隊司令官などを経て、40年7月から41年10月まで、赤軍参謀本部情報本部長を務めた(軍参謀次長を兼務)。…」と詳細されているので、初心者の人でもついていけると思います。

 また、巻頭には、登場人物として、「ゾルゲ機関」「赤軍参謀本部情報本部」「クレムリン指導部」などの項目別に、顔写真と名前と生没年、肩書等が掲載されているので一目瞭然です。私も、先述した赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフや、暗号解読者のラクチノフらの顔をこの本で初めて見ました。特にロシア人の名前は日本人には馴染みが薄く、ドストエフスキーの小説を読んでいても誰が誰だか分からなくなります。巻頭に登場人物を持って来るなんて、まるでロシア小説の日本語翻訳本みたいですね(笑)。

◇軍機保護法違反なのでは?

 でも、これは、創作ではなく、史実です。「へー、こんなことまでゾルゲはモスクワに報告していたのか!」と驚きの連続です。例えば、1941年2月1日付で送った電報(本書では「文書19」47ページ)ではこんなことまで書いています。

 …労働者1万人を擁する太田(群馬県)の中島飛行機工場は、海軍の軍用機単発戦闘機を製造している。格納式のフラップ付全金属製の戦闘機「九七式」が月間30機製造されている。速度360キロ。陸軍用の九七式軽戦闘機は月産40機。…

 ひょっええーです。ゾルゲは新聞記者(独フランクフルター・ツァイウィトゥング紙特派員。ただし正社員ではなかった)とはいえ、どうしてこんな軍事機密情報を仕入れることが出来たのでしょうか? こんな情報は、漏洩なんかすれば、間違いなく軍機保護法、国防保安法などに引っかかるはずです。情報元は書かれていませんが、この情報は恐らく、元朝日新聞記者で内閣嘱託だった尾崎秀実か、沖縄出身の米国共産党員・宮城与徳とその友人・小代好信(陸軍除隊後、軍事情報を収集)からもたらされたものと思われます。

 余談ですが、2021年5月8日付の渓流斎ブログ「中世の石垣が見どころでした=日本百名城『金山城跡』ー亡くなった親友を偲ぶ傷心旅行」で書きました通り、群馬県太田市の金山城跡を訪れた時に、中島飛行機の創業者である中島知久平の銅像があったことを思い出しました。中島飛行機は、有名な戦闘機「隼」なども製造していたということですが、ゾルゲ諜報団の情報収集力には魂げるほかありません。

 この他、オットーこと尾崎秀実は、日本軍の師団配置と師団長の名前までスクープしてゾルゲに渡していますが(文書34)、読んでいて、まさに日本の機密情報がソ連側に最初から筒抜けだったことが分かります。畏るべし。

◇みんな若い!

 そして、何と言っても、驚かされたのは、登場人物の年齢の若さです。1941年の時点で、ゾルゲは46歳、尾崎秀実40歳、宮城与徳は38歳。ソ連側も、スターリンは63歳ですが、受け手の赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフは、元帥とはいえまだ41歳、ゴリコフの後任のパンフィーロフは40歳、暗号解読専門家のラクチノフなんか33歳です。ドイツのリッベントロップ外相は48歳、オット駐日独大使は52歳、そしてヒトラーでさえ52歳だったのです。

 こっちが年を取ったせいですが、こうした若い彼らに地球上のほとんどの国民の生命と運命が委ねられていたと思うと、本当にゾッとします。

 私は、20年ほど前からゾル事件関連の文献を読み始め、当初は、尾崎秀実は国際平和を心から願う高邁な精神の持ち主で英雄だと思っておりましたが、最近では、やはり、「売国奴」のそしりを受けても仕方がない人物だと思うようになりました。こうして、軍事機密をゾルゲに伝え、月額250円(当時の大卒の初任給は70~80円)もの謝礼を受けていたことも本書に出て来ます。「情報を金で売った」と言われても、彼は抗弁できないでしょう。しかも、尾崎は、ゾルゲがドイツ人で、ドイツ紙の記者であることは知っていても、ソ連の赤軍参謀本部のスパイとまでは知らなかったという説が濃厚ですが、尾崎は、ゾルゲがソ連にも通じているかもしれないと、薄々感じていた、と私は思っています。しかし、彼はその疑念をゾルゲに確かめなかった。ですから、尾崎にも責任があった、と思います。そう書いてしまっては、思想検察側に寝返ったことになりますが、この本の「生原稿」を読むと余計に、尾崎秀実=売国奴説に傾いてしまいました。

 まあ、こうコロコロと見解が変わってしまっては、とても学者さんにはなりませんね(苦笑)。

水野家と久松家が松平氏の縁戚になったのは?=NHK大河ドラマ「どうする家康」で江戸時代ブームか

 NHK大河ドラマ「どうする家康」が先週から始まりましたが、初回(1月8日)の視聴率が関東で15.4%と歴代2番目の低さだったことが昨日、ビデオリサーチの発表から分かりました。超人気グループ「嵐」の松本潤さんを主役の徳川家康に抜擢して満を持したはずなのに、どうしたものか。何度も大河ドラマで取り上げられている家康に飽きられたのか、そもそも大河ドラマが国民的番組にならなくなったのか、よく分かりませんが、もしかしたら、「テレビ離れ」が原因なのかもしれません。

 スマホゲームやらネットフリックスやら、他に楽しめることが世の中には沢山あふれていますからね。

 私は古い人間ですから、「どうする家康」は見ています。前回の「鎌倉殿の13人」では、あるべき合戦シーンがなく、メロドラマかホームドラマに堕していたことが興醒めでしたが、今回は結構、合戦シーンもあり、これはもしや? と思いました。そしたら、大河ドラマの通であるA君が「ありゃ酷い。馬なんかCGですよ。全部、同じ動きをして同じ動作を繰り返しているだけ。ネットの書き込みでも大騒ぎです」と言うではありませんか。

 私はネットの書き込みは読まない主義なので、読みませんでしたが、そんな大騒ぎするくらいなら結構見ているんじゃないか、と思った次第です(笑)。

 もうここ半世紀以上も、日本は大河ドラマを中心に世の中が回っておりました。経済波及効果を狙って、地方の公共団体や観光協会は地元や郷土の偉人や名士を主役に取り上げてもらおうと必死です。テレビ番組も他局なのに、クイズ番組にせよ、旅行番組にせよ、関連ものばかり放送されます。出版界も今年は徳川家康関連本のオンパレードになるはずです。

 私も「同じアホなら踊らにゃ損、損」とばかりに、便乗商法に乗って、まずは「歴史道」(朝日新聞出版)25号「真説! 徳川家康伝」特集を購入しました。「家康特集」雑誌は複数出ておりましたが、この本に決めたのは理由があります。一応、家康に関してはある程度、私自身、知り尽くしております。生意気ですねえ(笑)。しかし、家康の家臣団に関する知識は不足していました。家臣団について知っているのは、「徳川四天王」と「徳川二十将」ぐらいです。そしたら、この「歴史道」には付録として「徳川家臣団 最強ランキング」が付いていたのです。こりゃあ、買うしかありませんね(笑)。

 家臣団について、本多忠勝井伊直政といった超有名人は置いといて、この本で初めて知ったのは石川数正のことでした。私は、彼のことを最初に知ったのは、国宝松本城を築城した大名としてですが、もともと、家康の家臣どころか筆頭家老の重臣で、西三河の旗頭を務めた人であることは後で知りました。(東三河の旗頭は、家康より14歳年長の徳川四天王の酒井忠次)それが、彼は、ひょんなことで家康を裏切って、豊臣秀吉方に出奔してしまうのです。何故、出奔したのか、確実な理由はいまだに分かっていないようですが、今回、この本で初めて知ったことは、石川数正の母は、家康の生母・於大の方の妹と書かれていたのです。ということは、石川数正は、家康の従兄弟になります。親戚の身内ですから、重臣になれるはずです。

 話は飛びますが、江戸時代になると、例えば、家康の次男結城秀康は越前68万石に移封され、越前松平氏の祖になります。越前松平氏は、越前だけでなく、出雲の松江藩や岡山の津山藩、上野の前橋藩など大名藩主として勢力を拡大しますので、家康の子孫が藩を治める「徳川家」の分権政治みたいに見えてきます。

 でも、これは、家康が関ケ原の戦いや大坂の陣など合戦を経て、政権基盤をしっかりと確立したから出来たことでした。勃興期と言いますか、草創期は、逆に身内こそ権力を脅かす危険な要因だったというので、なるほど、と思ってしまいました。

 それはどういう意味かと言いますと、家康の御先祖様は、上野国(群馬県)新田郡世良田荘得川(徳川)郷一円を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされていますが、恐らく後付けでしょう。遡って、ほぼ確実に歴史として分かっているのは、三河国松平郷(豊田市松平町)の土豪から国衆に発展した松平氏の三代目信光辺りです。この人、何と男女合わせて48人もの子供がいたそうです。その子供たちのうち、有力者が、竹谷(たけのや)、安城、形原(かたのはら)、大草、五井、能見などの分家を作り、この中で、家康に繋がる安城(安祥)が「松平宗家」となります。そのまた子孫にも、深溝(ふこうず)、大給(おぎゅう)、桜井、鵜殿などに分封され「十八松平」と呼ばれる分派が生まれていきます。彼らは、血を分けた兄弟親戚同士なのに、権力闘争で、一族間の争いが絶えなかったといいます。家康があまりにも近い近親を重用しなかったのは、このように親戚同士争った祖先の例を小さい頃に教えられていたからかもしれません。

 いずれにせよ、「宗家」である安城松平氏の二代目長親は、北条早雲と一戦を交えています。家康の祖父に当たる四代目清康は、安城松平氏の中興の祖みたいな人で、本拠地を安城(安祥)城から岡崎城に移します。清康は家臣による謀反で暗殺され、家康の父広忠も24歳で病死したとされますが、家臣に暗殺されたという説もあります。

 こうして、家康は生まれる前から、外敵だけでなく、身内との権力闘争の渦に巻き込まれていたわけです。

 また、話は飛んで、先ほど、越前松平氏のことについて触れました。「江戸三百藩」と言われる藩主は、外様以外は、家康の股肱の家臣だった三河武士との異名を持つ本多や酒井、大久保や榊原、井伊(彼だけは遠州)といった子孫の譜代大名と親藩の松平氏、もしくは徳川氏です。親藩の中には、久松家とか水野家などがありましたが、家康の親戚筋ということは分かっていても、私自身はあまりよく知りませんでした。

 このような複雑な姻戚関係を解くカギとなる人物をこの本で見つけました。家康の生母・於大の方でした。於大の方は、尾張の国衆で緒川城の城主・水野忠政の娘でした。それで、水野家は縁戚になったわけです。水野忠政の死後、於大の方の兄に当たる信元が水野家を継ぎますが、信元は今川家から織田家に寝返ってしまったため、於大の方は松平広忠(家康の父)から離縁されます。その於大の方が再嫁したのが、知多郡の阿古居城の城主久松俊勝でした。桶狭間の戦いの後、家康は、久松俊勝と於大の方の間の3人の息子に松平姓を与えて家臣とします。なるほど、そういうことで、水野家と久松家が松平氏の親戚となり、幕末まで続くわけですか。(於大の方は、離縁後も竹千代=松平元康=徳川家康との交流を続け、竹千代が今川家の人質になった際は、於大の方の母、つまり、祖母の源応尼(於富の方=水野忠政の妻)が幼い竹千代のための庵室を用意して世話をしたといいます。)

 歴史は知れば知るほど理解が深まります。

私たちは「バカ」だから繁栄できた?=更科功著「禁断の進化史」

 その表紙といい,、本のタイトルといい、書店の店頭で初めて見かけた時、とても手に取ってみる気がしませんでしたが、どうも、昨年から「人類学」もしくは「進化論」にハマってしまい、見過ごすことができなくなってしまいました。

 更科功著「禁断の進化史」(NHK出版新書、2022年12月10日初版、1023円)という本です。表紙には「私たちは『バカ』だから繁栄できた?」という挑発的な惹句が踊り、少し興醒めしてしまいましたが…。

 実は、この本は既に読了して数日経っておりますが、どうもうまく敷衍できません。正直、前半は人類の進化の歴史が、動物の側面からだけでなく、植物や気候変動にまで遠因を突き止めて、類書には全くそんな話は出てこなかったので、興奮するほど面白く、先に読み進むのが勿体ないくらいでした。でも、後半になると、急に、「意識」の問題がクローズアップされ、デカルトの哲学から始まり、かつて、生きたまま土葬されて生き返った人の話、植物人間状態になった人の意識はあるのかどうかーといった話を最新の脳科学や「統合情報理論」に基づいて分析したりして、少しは理解は出来ても、ちょっと付いていけなくなってしまいました。

 失礼ながら、このような正統なアカデミズムから少し飛躍したような論理展開は、著者の略歴を拝読させて頂いて、少し分かったような気がしました。著者は1961年、東京生まれで、東大の教養学部をご卒業されて、どこかの民間企業に入社されてます。その後、東大大学院に戻って、理学博士号を取得して研究者の道に変更しますが、現在奉職されている大学は、著者の専門の分子古生物学が学生にとっては専門外の美術大学ということですから、これまた大変失礼ながら「異端」な感じがしました。私が使う異端には決してネガティブな意味が強いわけではなく、むしろ新鮮で、正統なアカデミズムにはない強烈な個性を感じますが。

 とはいっても、著者は正統な学者さんですから、私の100倍ぐらい、あらゆる文献に目を通しているようです。引用文献も「ネイチャー」などの世界的科学雑誌が多く、この本でも最新情報が反映されいるので読み応え十分です。単に私だけがバカで知らなかっただけでしたが、著者には「進化論はいかに進化したか」(新潮選書)、「絶滅の人類史」(NHK出版新書)など多数の著書があり、その筋の権威でした!ということは、私が感じた「異端」は間違っていたかもしれませんね(苦笑)。

蕎麦「松屋」 天ぷらかき揚げそば 1300円

 人類学は、21世紀になって化石人類のゲノム解析が急激に進んで、日進月歩のように書き換えられていることは、このブログでも何度もご紹介して来ました。ですから、著者も、現在は〇〇が定説になっていても、その後の新発見で塗り替えられるかもしれない、ということを断っております。そのことを前提に、更科氏と彼が引用した学説によるとー。

◇人類は700万年前に誕生した

・ヒトとチンパンジーは約700万年前に分岐したと考えられる。今のところ、人類最古の化石は700万年前のアフリカのサヘラントロプス・チャデンシスとされている。サヘラントロプスは直立二足歩行のほかに、犬歯が小さいのが特徴。(類人猿なら犬歯が大きく、牙として使う)

・霊長類が樹上で生活するようになったのは、ライオンやハイエナ、ヒョウといった捕食者から逃れるためだった。

・霊長類は、昆虫食から果実食になる過程で、果実を見つけやすいように、眼が2色型(赤、紫のオプシン)から3色型(赤、紫、緑オプシン)に進化した。植物も、動物に果実が食べられて、広い範囲に種子が散布(繁殖)されるように進化した。

・果実は、どこに実る木があって、いつ成熟するのかを予測し、空間的、時間的に記憶しなければならないので、霊長類の脳が発達した可能性が高い。基本的に果実には毒はなく糖が含まれ栄養価も高い(脳の発達に良い?)

・約260万年前以降、人類は肉食の割合が多く占めるようになり、チンパンジーはほとんど植物食のままだったことから、肉食が人類の知能を発展させたのではないかと考えられる。この肉食だけでなく、人類はを使うことによって、調理で寄生虫などを殺し、消化を助け、栄養素を取り入れ、捕食者からも逃れる術を得たのではないか。

◇意識は自然淘汰の邪魔

・意識がある方が、自然淘汰に不利になることがしばしばある。自己を保存するためにはかえって意識は邪魔になる。長い目で見れば、自己保存と自己犠牲を使い分ける個体が進化して、常に自己犠牲する個体や、常に自己保存する個体は進化しないはずだ。たまたま、生存して繁殖するようになった構造が生物なのだ。もしかしたら、意識は、生物に進化の言うことを聞かなくさせる禁断の実だったのだろうか。

◇氷期を脱した1万年前に農耕が始まった

・地球は約10万年周期で、寒冷な「氷期」と温暖な「間氷期」を繰り返し、一番最近の氷期は1万数千年前に終わった。(と同時に人類が農耕を始めるようになった)安定した気候でなければ、農業を維持し発展することは難しいし、農業を維持し、生活に余裕ができなければ、好奇心や発明も起こりにくい。ということは我々ヒトが文明を築き、驚異的な種となったのは、単に、気候が安定化した1万数年前まで生き残ったからという可能性がある。

・絶滅したネアンデルタール人の方が現生人類よりも脳の容量も大きく、意識のレベル高い可能性があるかもしれない。意識があることは、必ずしも適応的ではない。つまり、ネアンデルタール人の意識レベルが高ければ高いほど生き延びる可能性が難しくなった可能性がある。意識レベルが高いほど、脳は多くのエネルギーを使い、生き残るために必要な血も涙もない行動を躊躇ったりするかもしれない。一方、私たちヒトの方が意識レベルが低ければ、生き延びやすかったかもしれない。

 なるほど、ここから、この本の編集者は、「私たちは『バカ』だから繁栄できた?」というコピーを生み出したのか…。

【追記】2023.1.9

 1月8日にNHKで放送された「超・進化論(3) 『すべては微生物から始まった〜見えないスーパーパワー〜』」は異様に面白かったでした。ヒトがチンパンジーから分岐したのが700万年前、現生人類ホモ・サピエンスが誕生したのが30万年前という話どころじゃないのです。人類の祖先は20億年前「アーキア」(古細菌)だというのです!

 まず、おさらいしますと、宇宙が誕生したのが138億年前地球が誕生したのが46億年前。そして、生命が誕生したのが38億年前と言われています。その最初の生物は、細菌などの微生物です。最初は、二酸化炭素を酸素に変える「光合成細菌」が繁栄し、次に「好気性細菌」がこの酸素を取り入れて活発化します。人類の祖先であるアーキアは、この好気性細菌を取り入れることによって生き延び、やがて、細胞をつくっていったというのです。取り入れた好気性細菌はミトコンドリアとして我々生命の細胞に今でも残っています。

 腸内細菌に100兆個もあるらしく、我々は微生物で出来ているということになります。ですから、中にはがん細胞を殺す細菌もあることから、やたらと細菌を殺す(=殺菌)ことは考えものだというお話でした。子どもさん用の番組でしたが、なかなか興味深い番組でした。

幕藩体制の完成は4代将軍家綱からか=「歴史人」1月号「江戸500藩 変遷事典」

 (昨日のつづき)

 年末年始は、勿論、私は生真面目ですから(笑)、勉学にも勤しんでおりました。主に、エマニュエル・トッド氏の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)など上下巻の分厚い本に時間を取られて読めなかった「歴史道」「歴史人」「週刊文春」などの雑誌でしたけど(笑)。

 ということで、本日はまたまた月刊誌「歴史人」を取り上げます。昨年12月に発売された1月号「江戸500藩 変遷事典」特集号です。「事典」と銘打っているぐらいですから、情報量が多いったらありゃしない。なかなか、読めませんでしたが、1月4日にやっと読了できました。

 「歴史人」にしては珍しく、誤字脱字が少ないなあ、と思っていたら、細かい字で書かれた「500藩完全データ」の中にありました、ありました。宇都宮藩(71ページ)の主な藩主が「戸田市」(本当は戸田氏)となっていたり、久居藩(84ページ)で「津藩主藤堂高次の次男高通」とするべきところを、「津藩主藤堂高次の次男高が、通」と意味不明の文章になったりしていてズッコケました。

 それでも、偉そうなことばかり言ってはおられません。不勉強な私ですから、知らなかったことばかり書かれておりました。

 まず、江戸時代、「藩」と言わなかったそうですね。大名の所領は、その姓名を冠して「〇〇家領」とか「〇〇領分」と呼ばれ、支配組織も「〇〇家中」というのが通例だったそうです。幕末になって、毛利家家臣たちが、自分たちを「長州藩」と呼ぶようになったのが最初という学説があるようです。

 もう一つ、大老とか老中といった幕閣の超エリート幹部になれる藩主は、譜代大名だけで、外様は勿論、親藩大名も原則的に対象外だったこともこの本で知りました。しかも、老中になれるのも、3万石程度の譜代大名で、10万石クラスになるとあまり登用されないというのです。エリートコースは、まず奏者番(儀礼の際、将軍と大名の取次役)を振り出しに、寺社奉行を兼任し、無事務め上げると、大坂城代や京都所司代に進み、瑕疵がなければ、江戸に戻って老中になれたようです。他に若年寄から老中になるケースも。

 この本には書かれていませんでしたが、天保年間に老中首座になった下総古河藩の藩主だった土井利位(としつら、1789~1848年)も上述した絵に描いたような出世コースを歩んでいました。つまり、奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中のコースです。大坂城代時代に大塩平八郎の乱が起き、利位は、古河藩家老の鷹見泉石(渡辺崋山が描いた肖像画=国宝=で有名で儒学者でもあった)に乱の鎮圧を命じています。ただし、古河藩は譜代大名で、他に何人かの老中を輩出しておりますが、最大時の石高は16万石もありました。土井利位藩主の時代でも8万石あったので、異例の抜擢だったのかもしれません。

 さて、「江戸500藩」とか「江戸300藩」とか言われますが、一体、どれくらの藩があったのでしょうか? 歴史家の河合敦氏によると、江戸幕府成立期は185家で、それが元禄期に234家に増え、幕末期に266家、廃藩置県が行われた明治4年は、283家あったといいます。一方、歴史家の安藤優一郎氏によると、幕末期は275家で、内訳は国持大名と国持並大名が20家、城持大名(城主)が128家、城持並と無城大名(陣屋)が127家となっています。

築地「とん㐂」アジフライ定食1300円 昔の大名もこんな御馳走を食べられなかったでしょうが、混んでいて30分も待たされましたよ

 私は、大の城好きなのですが、全国に300人近くいた大名でも、お城が持てる大名はその半分しかいなかったことが分かりました。そうでなくとも、「一国一城令」で廃城にさせられたケースも多いですからね。陣屋どまりです。そして、正確な数字は出ていませんでしたが、1万石以上が大名と呼ばれて領地を拝領しますが、江戸300藩の大名の大半は1万石、2万石クラスの外様ばかりでした。10万石以上なんて全体から見えればほんのわずかです。ところが、私のご先祖様が俸禄した久留米藩(有馬氏)は21万石で、何とベスト20位になっていたので、誇らしくなってしまいました。幕末275藩のうち、20万石以上が20藩しかなかったとしたら、わずか7%。93%が20万石以下の藩だったということになります。

◇知恵伊豆こと松平信綱の活躍

 これまた、この本には出て来ませんでしたが、徳川家康から4代将軍家綱までの50年間で、231もの藩が改易(お取り潰し)になったようです。中でも、広島藩49万8000石の福島正則の改易が最も有名ですね。福島正則は関ケ原で東軍についたとはいえ、もともと豊臣秀吉の子飼いの重臣でしたから、警戒されたのでしょう。お蔭で、40万人もの浪人が街中に溢れ、家綱時代に由井正雪の乱が起きる原因となりました。由井正雪は、楠木正成の末裔を自称する楠木流の兵法学者でした。この乱を鎮圧したのが、「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱でした。老中松平信綱は、島原の乱を平定した総大将として有名ですが、由井正雪の乱にまで関わっていたことは最近知りました。松平信綱は忍藩3万石の大名から、島原の乱平定の功績で、川越藩6万石の藩主になり老中首座にもなった人です。私の東京の実家近くにある埼玉県新座市の平林寺に葬られており、私も何度も訪れましたが、信綱は生前、川越街道を整備したり、野火止用水を掘削したりした藩主として私も小学生の時、郷土史として習ったことがあるので、大変馴染み深い人です。

 話を元に戻しますと、由井正雪の乱後、4代将軍家綱率いる幕府は「武断政治」から「文治政治」に改め、改易も減っていったといいます。大坂の陣での勝利による「元和偃武」を経て、幕藩体制が完成したからでしょう。武士が刀を脇に置いて、行政官になっていったのです。

「日本は消滅する?」=仏経済学者ジャック・アタリ氏ーこいつは春から縁起が悪い

 本日は1月5日ですが、今年初めてのブログ更新ですので、皆様、明けましておめでとうございます。本年も宜しく御願い申し上げます。

 5日ぶりの更新ですが、どういうわけか、その間も、かなりのアクセス数があったようで、本当に感謝申し上げます。有難う御座いました。

氷川神社

 更新しなかったのは、特段のことがなかったからでした(笑)。お正月は、私がアジト(塒)にしている関東地方は快晴に恵まれ、自宅からも雪が積もった富士山を拝むことができました。その半面、大雪に見舞われた奥羽越列藩同盟を始め、日本海側の皆様には申し訳ない気持ちでした。

 例年通り、1月1日は実家に行っておせち料理を御馳走になり、2日は自宅に子孫が参上して幣家が振舞い、3日は近くの神社へ初詣に行くというお決まりの「三が日」のパターンを遂行することが出来ました。酒量はめっきり減りましたが、今年は奮発して高価な「越乃寒梅」を呑んじゃいましたよ(笑)。何と言っても人類にとって、一番の幸せとは、家族団欒で一緒に飲食を共にすること以外、他にありませんからね。ウクライナではいまだに戦争が続き、コロナもほとんど収束していないという現実の中、本当に申し訳ないほど安逸に過ごすことができました。

 さて、今年も年賀状をたくさん頂きましたが、最全盛期と比べると4分の1近くに減少しました。少子高齢化(笑)の傾向は数年前からですが、このままいけば、あと数年で50枚を切るんじゃないかと思っています。私は、頂いた年賀状は必ず返事を出しますが、こちらが出しても向こうから返事が来なかった場合、翌年からはやめるという方針を取っているからです。それに、他界されてしまわれる方も増えてきました。

 今年の賀状のハイライトは、少しご無沙汰してしまった友人のA君が、昨年の夏に新型コロナに感染してしまい、1週間、ホテルに監禁されてしまったというお報せでした。全く知らなかったので、申し訳なく思い、メールしたら、咳とのどの痛みと発熱がかなり酷かったらしく、出所後(本人談)も、2週間以上も喉の違和感が続いたとの返信が来ました。今は回復したそうですが、彼ももう若くはないので、大事に至らずによかったと思い、安心しましたが。

中山神社

 2日に遊びに来てくれた子孫のうち、娘婿の一人は米国人なので、色んなことを尋ねることが私の愉しみになっています。私の英語は、実は杉田敏先生の「現代ビジネス英語」仕込みで、ネタ元は全て杉田先生によるものです。でも、これが本当に難しい。杉田先生はもともとジャーナリストでしたから、今でもニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、ガーディアンなど主要紙は全て目に通して、ビニュエットに反映されていますが、あまりにも最先端の単語やイディオムを使うので、英語が母国語の娘婿さんでさえ、知らない言葉があるのです。今回も、彼に Do you get sloshed ? と使ってみました。

 そしたら、何それ? 意味分かんない、と言うのです。これも、勿論、杉田先生仕込みです(笑)。米国人のアシスタントのヘザーさんは「私の辞書では、1946年以降アメリカでも使われるようになった」と解説していたので通じると思ったのです。

 「酔っ払った?」という意味だよ、と言うと、彼は「いやあ、知らない。聞いたことない。イギリス英語じゃないですか」とスマホでチェックし始め、「やはりイギリス英語だ」と勝ち誇ったように、私に「Britishi English」の画面を見せるのです。「酔っ払った」という意味の俗語で米国で一番使われるのは、hammered らしいのですが、これはあまり辞書に載っていないので「へー」と思ってしまいました。泥酔すると、ハンマーで殴られたほど前後不覚になるということかもしれません。

 もう一つ、米国の下院議長を務めた民主党のナンシー・ペロシ(Nancy Patricia Pelosi )さんについて、「ペロシなんて誰も言いませんよ。プロシですよ。プロシと発音します」と彼から聞いたことを以前、このブログに書きましたが、今回は第2次世界大戦時の米国大統領ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)の発音について、彼に聞いてみました。「え?まさか。ローズベルトですよ。ルーズベルトなんて言う人、誰もいませんよ。まさか」と言うのです。

 新聞社は、中国人や韓国人らについて「現地語読み」を採用するようになりましたから、欧米人や地名も現地語読みを優先するなり、改正するなりした方が良いと思います。歴史の教科書も同じようにルーズベルト大統領ではなく、ローズベルト大統領とするべきだと私は思います。

中山神社

 年末年始は結構、テレビも見ました。とは言っても、専ら、某国営放送が放送した教養番組です。「松本清張と帝銀事件」「徳川JAPANサミット」「混迷の世紀」「欲望の資本主義」「新・幕末史」などですが、これら全て取り上げてはキリがないので一つだけにします。NHKスペシャル「混迷の世紀」の中でのフランスの経済学者ジャック・アタリ氏の発言です。彼は言います。人類は4000年間、戦争をし続けてきましたが、一番の原因は飢餓によるものです。フランス革命でさえパンを求めて民衆が立ち上がりました。今戦争が続いているウクライナとロシアは、全世界の小麦の30%、肥料は40%以上輸出用に生産していました。しかし、食糧危機になると15億人が影響を受けることでしょう。

 そこで、NHKの解説委員長が尋ねます。「日本の食料自給率は38%しかありません。大丈夫ですか?」 するとアタリ氏は「日本はもっと農業を魅力的にするべきです。農家が高齢化してほぼ絶望的です。社会的にも収益的にも農業を改善するべきです。さもないと日本人は昆虫と雑草を食べるようになりますよ」と断言するのです。解説委員長は、目を丸くして再び尋ねます。「そんなこと出来ますかねえ?」 アタリ氏は苦笑をかみ殺すようにしてこう言い放ちます。「単純な話です。そうしなければ(食料危機になれば)死にますよ。日本は消滅するだけです」

 フランスは意外にも農業大国で、現在、フランスの食料自給率は、何と125%。出生率(2020年)も1.83人(日本は1.34人)ですから、世界的食糧危機になっても、フランスは消滅することはないでしょう。それが、アタリさんの発言の自信の裏付けになっているわけです。

【お断り】

 ジャック・アタリ氏と解説委員長の発言は、精密・正確ではありません。少し補足したりしております。

ファミレスでロボットに遭遇=2022年の大晦日、鎌倉時代よさようなら

12月31日、大晦日です。嗚呼、今年2022年も間もなく終わってしまいます。いつものことながら、何で月日の流れがこんな早いのか、哀しくなるほど感嘆してしまうばかりです。

 昨晩は、珍しく、夕飯は一人で自宅近くのファミレス中華「バーミヤン」に行って来ました。そしたら、生まれて初めての経験でしたが、「ネコちゃん」と呼ばれるロボットが注文した食べ物を席のテーブルまで運んでくれるので、思わず興奮して、お店の人に「写真撮ってもいいですか?」と聞いてしまいました。

 私が子どもの頃、1960年代ですが、「宇宙家族ロビンソン」という米国のSFテレビドラマがありました。細かいストーリーは忘れてしまいましたが(笑)、そこでは、ロビンソン家族がロボットと一緒に、何やら楽しそうに暮らしているのです。(という記憶でしたが、どうやら人口問題解決のため宇宙移民を余儀なくされたロビンソン一家が様々な困難を克服していく物語のようです。CBSのドラマで、日本では1966年から68年にかけてTBS系で放送)

 とにかく、そのドラマではロボットが登場して家族の一員になっていたので、将来、日本もそんな時代になっていくのかなあ、と夢想したものでした。あれから、60年近くの月日が流れ、ロボットは家族の一員にはなっていなくても、こうして、活躍するようになると、子どもの時に夢想していた「未来」がやって来たことになり、感慨深くなってしまったわけです。

 さて、年末ですから、大掃除していたら、お風呂の換気扇をスイッチを入れたまま、掃除してしまい、もう少しで指が取れてしまうような惨事に巻き込まれそうになりました。最近、物忘れも多くなり、どうかしています。こうして、何事もなく無事で済んだのも、神さま、仏さま、御先祖さまのお蔭だと、仏壇の前で念入りに拝みました。

 お掃除と買い物以外は、いつものことながら、大体、本や雑誌ばかり読んでおりましたが、テレビはNHKスペシャル「未解決事件 File.09 松本清張と帝銀事件」 第1部 松本清張と「小説 帝銀事件」(12月29日)と第2部 「74年目の“真相”」(12月30日)はなかなか面白かったでしたね。(そのうち、再放送されるでしょう)第1部はドラマで、大沢たかおが松本清張そっくりのメイクをして好演していました。

 第2部は、未解決事件「帝銀事件」のドキュメンタリーで、平沢貞通死刑囚が犯人ではなく冤罪で、真犯人は、中国ハルビン郊外で人体実験をしたあの石井四郎細菌部隊(731部隊)にもいた憲兵軍曹のAが、登戸研究所で開発した遅効性毒物「青酸ニトリール」を使ったのではないかと示唆していました。何故、このことがはっきりと断定できず、真相が闇に葬られたのかというと、GHQが、ソ連を差し置いて人体実験のデータが欲しいばかりに、石井隊長と裏取引して免罪とし、捜査警察に対しては、軍関係者への捜査を中止するよう圧力をかけたからでした。当然、警察もマスコミに報道しないよう情報を密閉し、生贄として人相が似ていた平沢死刑囚を犯人として祭り上げたのではないかというのが番組制作者が推測した結論でした。松本清張もGHQによる圧力をつかんでいながら、最後まで核心的な証言が得られず、はっきり字にすることが出来ませんでした。平沢死刑囚の亡き後も、弁護団は冤罪として再審要求しているということで、事件発生から74年経って、こうして再び注目されるようになったわけです。

 最近、人類学関係の本ばかり読んでいたので、雑誌に目を通すことができませんでしたが、昨日はやっと「歴史道」24号の「鎌倉幕府の滅亡」特集を読了しました。

 源頼朝から始まる武家政権は、三代将軍実朝暗殺や有力御家人粛清と承久の乱で北条氏が執権として最高権力者として確立し、新田義貞による攻撃で14代執権北条高時で滅亡しますが、鎌倉幕府はわずか150年しかもたなかったんですね。(1185~1333年)

 現代人は「人生100年時代」なんて謳歌していますから、150年なんてあっという間ですよ。途中で二度にわたる「怖ろしい」元寇があり、鎌倉仏教や文学・美術が栄えたりして、鎌倉時代はまさに波乱万丈の時代でしたが、考えてみれば、それほど長く続かなかったわけです。

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のおかげで、この1年は、どっぷりと鎌倉関係の本や雑誌を読み、鎌倉関係の特集をするテレビ番組を見て、私自身も、まるで鎌倉時代を生きてきたような感覚でしたが、2022年が終わるのと同時に鎌倉時代が滅亡したような気分になってしまいました。

 皆様には、この1年間、御愛読を感謝致します。良いお年をお迎えください。

ユダヤ民族は何故、優秀なのか=寺島実郎著「ダビデの星を見つめて 体験的ユダヤ・ネットワーク論」を読んで

 寺島実郎著「ダビデの星を見つめて 体験的ユダヤ・ネットワーク論」(NHK出版、2022年12月20日初版)を読了しました。著者による「ユニオンジャックの矢 大英帝国のネットワーク戦略」「大中華圏 ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る」に続く3部作の完結編ということですが、私自身はこの本だけしか読んでおりません。

 本書は世界に張り巡らされたユダヤ人のネットワークが描かれています。しかし、世に蔓延る「ユダヤ陰謀論」とは全く一線を画し、至極真っ当な体験論になっております。(何故、体験論なのかについては後述します。)

 ユダヤ人の人口は世界で約1510万人(イスラエルに約620万人、米国に約550万人で、この2カ国で77%を占め、残りはEU域内に72万人、英国に38万人=2020年統計)で、世界人口(約78億人)の0.2%に過ぎない少数民族が、歴史的に何度も迫害を受けながら、なぜこれほど多くの偉人を輩出し、世界的ネットワークを広げて、人類として欠かせない偉業を成し遂げてきたのか、著者の体験を基に描かれています。

 結論を先に書けば、ひときわ優秀なユダヤ民族が最も重視するのは高等教育だということでした。また、世界各地で離散と抑圧の中を生き抜くために、決して単純かつ簡単に他人に与することなく「個」としての強さを確立して、その個を結んでネットワークを形成しているからだと言います。だから、ユダヤ的価値とは「高付加価値主義」と「国際主義」ということになります。そして、ユダヤ民族にとって、紀元前6世紀の「バビロンの捕囚」も、約2000年前のローマ帝国によるディアスポラ(離散)もつい昨日の出来事として忘れない「記憶の民」であると言います。

 バビロンの捕囚で、ユダヤ人を解放したのは、アケメネス朝ペルシャの王キロス2世だったことから、ユダヤ王国の末裔であるイスラエルは、現在も、潜在意識的にはペルシャの末裔であるイランに対して好意的だという話は、まさに「記憶の民」の真骨頂と言えるかもしれません。

東京・銀座

 さて、何故、この本が「体験的ユダヤ・ネットワーク論」なのかー。著者の寺島氏(1947~)は、よく知られているように、もともと三井物産の商社マンです。彼が入社した1970年代、同社は社運を懸けてイラン・ジャパン石油化学(IJPC)プロジェクトに取り組んでいました。しかし、それが1979年のイラン革命などの影響で失敗します。倒産寸前状態にまで追い込まれた三井物産は1981年、寺島氏を今後のイラン情勢に関する情報収集するよう米国に派遣します。そこで寺島氏が会った専門家の5人のうち3人もがユダヤ人で「イスラム原理主義革命がイランで起こることは5年も前から論文に書いていた」という専門家もいたといいます。そこで、寺島氏は多くの人からのアドバイスにより、その翌年、ほとんどコネもないのにイスラエルのテルアビブ大学のシロア研究所(現ダヤン研究所)に飛び込んでアプローチします。そこで、寺島氏が一番驚いたことは、「三井はなぜイランで失敗したのか」という127ページにわたる報告書まであり、同氏の周囲にいた物産幹部の固有名詞まで次々と出てきたというのです。彼らの桁外れの情報収集力はここにも表れています。これが、寺島氏のユダヤ研究のきっかけになったようです。

◇本に書かれなかったこと

 と、ここまで書いておきながら、本書に書かれていたことー例えば、アインシュタインやマルクスやフロイトといった著名人や、ロシア革命のレーニンやトロツキー、それに今のウクライナのゼレンスキー大統領はユダヤ人だとか、欧州で一大金融王国を築いたロスチャイルド家の話やポグロム、ホロコーストなどーは、ほとんど私も他の書物(広瀬隆著「赤い楯」など)で得た知識から知っていることばかりでした。

 それよりも、生意気ですが、何故、私でも知っていることがこの本に書かれないのか、の方が不思議でした。特に、著者の寺島氏は三井物産の商社マンとして米国に10年も滞在していたというのに、何故、ユダヤ系のロックフェラーやモルガン家のことについて全く触れていないのか気になりました。

 また、私自身がユダヤ民族について関心を持ったきっかけは芸術家に多かったので、作曲家のメンデルスゾーンやマーラー、演奏家のルービンシュタインやホロヴィッツ、アシュケナージ、ギドン・クレーメル、映画のスピルバーグやハリソン・フォード、ポピュラーのボブ・ディラン(ノーベル文学賞受賞者)、サイモンとガーファンクル、ニール・ヤング、ビリー・ジョエル、画家のモジリアーニやシャガール、または哲学者のスピノザやウイットゲンシュタインらについて彼らがユダヤ系であることを熟知していたのですが、本書ではその趣旨が違うせいか全く出てきませんでした。

 ただ、この本で驚いたことは、著者がエルサレムのイエス・キリストが処刑されたゴルゴタの丘跡に建てられた聖墳墓教会を実際に訪れ、その教会内の分断統治図に気付き、その9割がギリシャ正教会などの東方教会で、ローマ・カトリック教会はその残りのわずか1割しかなかったという事実でした。著者も、東方教会のロシア正教のことを知らなければ、プーチンによるウクライナ侵攻の背景が説明つかない、などと力説しておりましたが、その通りだと思いました。

 最後に、何故、世界人口のわずか0.2%に過ぎないユダヤ民族が優秀で頭脳明晰なのか?ー私見によれば、彼らは子どもの頃からユダヤ教の律法であるタルムードを意味が分からなくても脳に詰め込まれるからではないか、と思っております。「門前の小僧習わぬ経を読む」みたいなものです。エマニュエル・トッド(彼もユダヤ系)も「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」の中で書いておりましたが、幼児から10代にかけての読書習慣がその人間の知性を形成するといいますから、脳科学的にも証明されるはずです。

 そして、付言しておきたいことは、私自身は、600万人を超えるホロコーストによる被害から、今では逆にパレスチナ人を迫害する側に回ってしまったユダヤ人には残念な思いがありますが、ユダヤ人に対する偏見はなく、ましてやユダヤ陰謀論には全く賛同しません。(そう言えば、30年も前に東京のイスラエル大使館に取材しに行ったことがありますが、ロシア大使館以上のそのあまりにも厳重な警戒態勢を見て、逆に気の毒になってしまいました。)

 むしろ、映画や音楽や美術に関する限り、そしてユダヤ人であるユヴァル・ノア・ハラリ氏(彼はユダヤ原理主義については否定的な発言をしていますが)の書く「サピエンス全史」が世界的ベストセラーになるなど、ユダヤ文化は世界中の人々から愛されているわけですから、陰謀論が成り立つわけありません。私は文化国粋主義者ですから、そんな陰謀論に取り組む暇があったら、日本人はもっともっと勉強して頑張ってほしいと思っています。

現代日本人のルーツは3000年前の渡来系弥生人にあり=篠田謙一著「人類の起源」

 篠田謙一著「人類の起源」(中公新書)をやっと読了できました。正直、ちょっと専門的過ぎる箇所があり、そして、言い過ぎかもしれませんが、著者は科学者で文章を書くことが専門ではないので、分かりづらいところもありましたが、内容は圧巻です。圧倒されました。

 この本は、まさしく、後期印象派の画家ポール・ゴーギャンが描いた「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を明らかにしてくれます。

 著者は、終章に書いていますが、教科書では「四大文明」など古代文明の発展が語られますが、そこまでに至る人類の道のりは書かれていません。著者の篠田氏は言います。

 こうした教科書的記述に欠けているのは、「世界中に展開したホモ・サピエンスは、遺伝的にほとんどといっていいほど均一集団である」という視点と、「全ての文化は同じ起源から生まれたものであり、文明の姿の違いや歴史的経緯、そして人々の選択の結果である」

 これらは、21世紀になって急速に活用されるようになった次世代シークエンサーと呼ばれる機器による古代ゲノムの解析に基づいた知見で、本書では、その人類の進化史と、20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスの世界拡散と集団の成立について詳細されています。

 そこから導き出された著者の見解は、(日本人とか中国人とかユダヤ人といった)民族は数千年の歴史しかなく、現生人類の長い歴史から見るとほんのわずか。将来的には民族と遺伝子との間に対応関係が見られない方向に変化していくことから、民族はますます生物学的な実態を失っていく、というものでした。そして、黒人も白人も黄色人種も同じホモ・サピエンスがアフリカから生まれて、7万年前から本格的に世界に拡散したことから、(著者はそこまで書いてはおりませんが)「人類、みな兄弟」ということになります。

 本書は「出アフリカ」の人類が、欧州、ユーラシア、アジア、北南アメリカ大陸へと拡散していく様子を事細かく描いていますが、読者の皆さんが最も関心がある日本人のことだけを書いておきましょう。

銀座「華味鳥」

 本書によると、日本列島に最初に現生人類が進入したのは、4万年前の後期旧石器時代だといいます。その後、長い間、狩猟採集の縄文時代が続きますが、3000年前に「渡来系弥生人」が日本列島に到達します。彼らは稲作と鉄器(青銅器)文化を伝えて、それが現代日本人につながります。(縄文人のゲノムは今では北海道や東北、沖縄、南九州しか色濃く残っていないので、現代日本人のほとんどのルーツが弥生人ということになります。) 

 この3000年前に到達した渡来系弥生人というのは、中国東北部(旧満洲辺り)の西遼河にいた「雑穀農耕民」(青銅器文化を持つ)が6000年前以降に朝鮮半島に進出し、遼東半島と山東半島にいた「稲作農耕民」が3300年前に朝鮮半島に流入し、在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合して新たに出来た地域集団だといいます。

 北方オホーツク文化の集団や、南方ポリネシア系の集団からの日本列島流入もあったことでしょうが、古代人類化石のゲノム解析からは、現代日本人のルーツの大半は、渡来系弥生人ということになります。(しかも、沖縄でさえ、台湾やフィリピンなど南方のゲノムとの共通点が少ないといいます。)

 となると、現代につながる日本人の歴史は3000年で、もとをただせば朝鮮半島からの渡来人であり、さかのぼれば、中国大陸人であり、もっとさかのぼれば、7万年前にアフリカから出てきて拡散したホモ・サピエンスということになります。

 ただ、化石人類のゲノム解析は始まったばかりなので、これからも日進月歩の勢いで新説が提唱されることでしょう、と著者の篠田氏は仰っております。ということは、古い学説は書き換えられるということですから、今後も怠けずに勉強していくほかありませんね。