35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は★★★★★

 久しぶりに映画館で映画を観て来ました。

 調べてみたら、2月11日に東京・恵比寿の日仏会館で観たアルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」以来でしたが、封切映画なら2月8日に有楽町で観た第1次大戦のAIカラー映像化した「彼らは生きていた」以来で、いずれにせよ半年ぶりでした。

 小生、皆さまご案内の通り映画好きですが、こんなにブランクが開いたのは初めてぐらいです。コロナ禍の影響で、映画館の席は間隔が開けられ普段の半分しか入れない状況でした。

 観たのは「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(ポーランドのアグニェシカ・ホランド監督作品)です。先週、たまたま新聞の広告でその存在を知り、私の”興味津々”範疇の「スパイもの」だというので飛びついたわけです。子どもの頃から、「007」シリーズ(特にショーン・コネリー)を観て育ちましたからね。

 でも、この作品は全くのフィクションではなく、主人公ガレス・ジョーンズ(1905~35)は英国ウエールズ出身の実在の人物で、スターリン政権のソ連に潜り込んでその実体をスクープしたフリーのジャーナリストでした。彼は、ロイド・ジョージ首相の外交顧問も務めたことがあり、日本にも取材で6週間滞在したことがあるらしく、最期は満洲でソ連の秘密警察の手によって暗殺されたようでした。30歳の誕生日を迎える1日前のことでした。ジョーンズ記者が、潜入したウクライナ地方の凄惨な飢餓状況を初めて西側に発表したことから、ソ連側から「要注意人物」として恨みを買っていたためでした。

 この作品には、「動物農場」などでスターリンの恐怖政治を痛烈に批判した、私も大好きな作家のジョージ・オーウェル(1903~50)が準主役として登場する一方、スターリニズムを称賛するニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティ(1884~1957)が、ジョーンズのスクープはデマだと否定したりして「悪役」として活躍します。何しろ、デュランテイは1922年から36年まで14年間も支局長としてモスクワに滞在し、その間にピュリッツァー賞も受賞した大物ジャーナリストでした。

 そのデュランテイは、モスクワから一歩も出ず、地方の飢餓や窮乏を見て見ぬふりをし、夜ごと裸になって変な麻薬パーティーを開いたりします。麻薬パーティーが事実だったかどうか知りませんが、ホランド監督の彼に対する痛烈な皮肉と批判の現れでしょう。フェイクニュースが跋扈する現代と状況はほとんど変わっていないことを再認識させられます。

 若きジョーンズ記者は無鉄砲で、ソ連の官憲から逃れて、凍てつく吹雪が荒む凍土のウクライナを彷徨います。そこでは、あちらこちらで餓死した遺体が無造作に転がり、…いやあ、これ以上書けませんが、大変衝撃的な場面も出てきます。

 今ではすっかり忘れられたジョーンズ記者を掘り起こしたホランド監督は、ポーランド出身ということもあり、征服されたソ連の無情と残忍さは骨身に染みるように親から伝えられたことでしょう。1930年代の「ウクライナ大飢饉」(実に300万人の人が餓死したと言われる)は史実として知っておりましたが、この作品で、スターリン粛清主義の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

何とも不可解な「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

 足利と鎌倉の旅行中、電車の中でずっと読んでいたのが、佐藤哲朗著「スパイ関三次郎事件 戦後最北端謀略戦」(河出書房新社、2020年4月30日初版)でした。

 この本は、2カ月前の6月13日に京都にお住まいの京洛先生からメールを頂き、その存在を知りましたが、最近になってようやく入手できたわけです。実は、「スパイ関三次郎事件」と言っても、小生にとっては初耳で全く知らず、著者もどういう人か分からず、メールを頂いただけでは、他の書物を差し置いて、万難を排してでもすぐさま読みたいという興味が湧かなかったのでした。ーというのが正直な気持ちでした。

 しかし、読み始めてみて、いきなり脳天をどつかれたような衝撃で、推理小説やサスペンスを読むよりも断然面白い。というより、読んでも読んでも、謎が深まり、何が真実なのかさっぱり分からず迷路にはまったまんま、読了してしまったのです。

 事件が起きたのは、戦後まもない昭和28年(1953年)7月29日。関三次郎(当時51歳)という北海道余市生まれで利尻島育ち。漁師をしていましたが漁船の転覆事故で行方不明となり、どうやら戦前は樺太(現サハリン)で暮らしていて戦後のどさくさで帰国せず、無国籍だった男が、北海道の宗谷岬から南へ約10キロ離れた海岸にずぶぬれになって上陸し、濡れた多額の紙幣を焚火で乾かしているところを地元民に見つかり、逮捕されたのが始まりです。

 当時は、米ソ冷戦の真っ只中。関は、ソ連のスパイなのか、それとも占領中の米軍のCIC(アメリカ合衆国陸軍防諜部隊)の工作員なのかー? 二転三転するどころか、四転も五転もして、結局、最後まで真相が分からない…。

 著者の佐藤哲朗氏は、元毎日新聞編集委員。社会部で公安や検察関係の取材が長いベテラン記者でした。1939年生まれといいますから今年で81歳。奇しくも樺太豊原(現ユジノサハリンスク)生まれの北海道育ち。中学生の時に、このスパイ関三次郎の公判を「社会科見学」(授業)の一環として傍聴した経験もある人でした。

 1972年の正月、当時、札幌で毎日新聞の司法担当記者をしていた筆者は、札幌地検の塚谷悟検事正らも出席する記者クラブとの新年会に参加します。塚谷検事正は、旭川地検次席検事時代の一番の思い出として、関三次郎という国際スパイ事件を取り上げ、「何せ、この事件には証拠というものが何一つなかった。頼りになるのは本人の供述だけ。しかも、それが法廷で二転三転。あまりの矛盾の多さに弁護側から『被告は少しおかしい』と精神鑑定請求まで出される始末だった。紆余曲折したが、関三次郎とソ連人船長の被告二人に有罪判決が出て一見落着した」と振り返ります。

 他社の記者たちは、そのまま聞き過ごしますが、佐藤記者だけは、裁判を傍聴した経験もあるこのスパイ関三次郎事件にのめり込み、翌日から社の資料室に入り浸ってこの事件を調べ始めます。

 1972年ということは今から48年も昔のことです。この本の「はじめに」よると、著者の佐藤記者が、それ以降に取材した関係者は数百人を超え、当然、関三次郎本人には延べ6回、長時間のインタビューをし、取材走行距離は延べ4万キロに及んだといいます。

 今から67年前の1953年に起きたこの事件は、当時はセンセーショナルな事件として、毎日のように大々的に報道されましたが、今ではこの事件のことを知る人は私を含めてほとんどいないのではないでしょうか。

◇問題三法が執筆継続の動機

 80歳を超えた老記者にこのような本を執筆して出版にまで漕ぎつけるような原動力になったのは、安倍政権の「数の力」によって、「特定機密保護法」(2013年12月、いわゆる「スパイ防止法」)、「安全保障関連法」(2014年7月、集団的自衛権の行使容認)、「共謀罪法」(2017年6月)の問題三法の成立があったからだ、と著者は「終章」で書きます。「スパイ防止法には、国家の『機密情報の漏洩防止』に狙いがあり、集団的自衛権行使には『戦争のできる国家体制』の確立、そして『共謀罪』法には『国民の言論封じ込め』と相互に関連があり、いずれも体制側にとって都合のいい法律であることは論を俟たない」と。

 そのために、67年も昔に起きた過去の事件を通して、現代の状況を見つめ直してほしいという著者の願望があったと思われます。

 とにかく、この本には、色々と問題を抱えた関三次郎の親族、知人、友人から司法・海上保安庁関係者、CIC関係者、ソ連巡回艇「ラズエズノイ号」関係者、それに、暴力団関係者、鹿地亘失踪事件関係者、公安関係者、元軍人、通訳らさまざまな人たちが登場し、何らかの関三次郎とのつながりや関連性があったことが分かってきます。

 数百人に及ぶ取材の末、最後に著者は、関三次郎とは、ソ連KGBと米CICのダブルエージェントだったのではないか、と推測しますが、関本人は最後までのらりくらりと記者の質問をはぐらかし、検事正だった塚谷悟も、この事件は「国家機密」だったことから、「公務員の守秘義務」を楯に最後まで真相を語ることなく亡くなったといいます。

 推理小説のように最後は謎解きで終わって爽快感があるような内容ではありませんが、半世紀にわたって真相を追い求めた著者の情熱と信念が伝わってくる良書、意欲作、歴史に残る好著だと言えます。

Photo Copyright par Duc de Matsuoqua

この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」

(8月4日のつづき)

 エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を先日読了しましたが、仕事が忙しくてなかなか書く時間が取れませんでした。本当です(笑)。

 前回も書きましたが、この本は、著者が米ハーバード大学に提出した博士号論文を基に書籍化したものです。となると、執筆したのは年齢を逆算すると著者28歳ぐらいのときです。読了して、第一の感想は「よくぞ、20代の若さでこれほどの内容をまとめ上げたものだ」と、世界的にも歴史的にも、著者の筆力というか力量というか、非凡なる才能に感服したことです。著者は日系米国人と思われますが、異国の政治状況の歴史をこれほどまで適格に分析し、「政治と暴力」をテーマを最後まで諦めることなく追跡して、読者の蒙を啓かせてくれたことに関しては、日本人の一人として感謝したいぐらいです。是非、多くの心ある人には読んで頂きたいです。

 色々と書きたいのですが、戦後のフィクサーとして活躍した笹川良一(1899~1995)と児玉誉士夫(1911~1984)の両巨頭と、安倍晋三現首相の祖父に当たる岸信介首相(当時)や大野伴睦衆院議長(同)らとの濃密関係等について、CIAの個人ファイルを参照しながら、著者はかなりの紙数を費やしていますが、ほとんど知られていることで、私も何度かこのブログに書いたことがあるので省略します。そこで、主に、私の知らなかったことを茲では敢て書いておきます。

院外団の登場

 明治末になると、帝国議会も開設され政党も力を付けてきたので、演説を暴力で妨害する壮士に代わって「院外団」なるものが形成されます。議員ではなく、暴力団組員や右翼が多かったのですが、若い野心家の学生たちも群がって来ました。その一人が、戦後、自民党副総裁も務めた大野伴睦です。当時、彼は明治大学の学生で、政友会の院外団で政治活動を始めます。これに対抗する憲政会は、院外団の中に早稲田大学の学生が付きます。東京専門学校=早稲田大学を創設した大隈重信は改進党を設立し、その流れで憲政会になるわけですからね。大学ラグビーの伝統戦、早明戦より、政治の世界でいち早く戦いの火ぶたが切られていたとは…(笑)。明治大学出身の政治家には、三木武夫、村山富市の両元首相を始め、松岡洋右、佐藤孝行、山口敏夫、萩生田光一、早稲田出身の政治家は、竹下登、森喜朗両元首相をはじめ、朝日新聞出身の河野一郎と橋本登美三郎や、三木武吉、岸田文雄ら数多。東京大学は例外ですが、極めて政治に近い大学だったんですね。

大日本国粋会と大日本正義団

 次に、大正末から二つの主要国家主義団体が活動を活発化していきます。大日本国粋会と大日本正義団です。この両者は「明らかにヤクザ集団だった」と著者は結論付けています。

 国粋会は1919年10月、政友会の内相床次竹二郎(とこなみ・たけじろう=薩摩藩士出身)とヤクザの親分との協働で結成した組織(と著者は書いています)。1930年代の初めは、全国90の支部に増え、会員総数は20万人に達したと言われます。八幡製鉄所争議、野田醤油争議など多くの労働争議の鎮圧で威力を発揮します。

 正義団は1922年1月、酒井栄蔵というヤクザの親分によって設立。32年には、全国106カ所に支部があり、東京本部が7万人、大阪本部が3万5000人いたとされます。酒井は「東洋のムッソリーニ」と呼ばれ、実際、25年にはムッソリーニと会談しています。正義団も、大阪市電や東洋モスリンなどの争議を暴力で鎮圧する役割を果たします。

 正直、私自身は、国粋会も正義団もよく知りませんでした。明治以来の右翼組織を詳細に分析した立花隆の名著「天皇と東大」にさえもあまり取り上げられていなかったからです(うろ覚えの記憶ですが)。両組織とも国家主義的イデオロギーに根付いており、労働者と左翼に対して攻撃的であるという意味でイタリア・ファシストの黒シャツ隊やドイツ・ナチスの突撃隊とよく似ていた、と著者はいいます。ただし、シチリア発祥のマフィアは、反ファシストで、ムッソリーニはシチリアでの実権を握るため、マフィアを「犯罪集団」として徹底的に弾圧したことから、マフィアと国粋会・正義団とは異質なものだという見方を著者はしています。冷酷残忍な殺人集団と言われたマフィアは実は、反体制派の反ファシストだったというのなら今までのイメージが少し変わります。

 国粋会・正義団の主力メンバーは政治家、軍人、右翼活動家のほかに建設業経営者が多かったことから、ストライキを鎮圧しますが、被差別部落解放を目的とする社会主義的傾向を持った「水平社」までも標的にします(水国事件)。組織幹部の建設業経営者が彼らを労働者として雇う立場にあり、敵対する水平社の活動家が力を持つことを恐れたからだろうという著者の分析には納得しました。

 国粋会・正義団は、今から見れば眉をひそめたくなるほどの異様な暴力集団なのですが、ロシア革命後の世相の中、共産主義革命を恐れる当時は、広く国民に受け入れられたようです。驚いたことに、台湾総督府民政長官や満鉄総裁、東京市長などを歴任し、後世からも偉人として尊崇の念で語られるあの後藤新平が、国粋会の二代目総裁になることを希望していたといいますからね。信じられません。また、国粋会は「大アジア主義」で満洲事変が起きた翌月の1931年10月には「満洲国粋会」が創設されたという記録が残っているようです。

戦後、右翼団体の復活

 話は飛んで、1945年8月の日本の敗戦により、これらの右翼団体は解散させられますが、米軍の占領が終わった1954年、関東国粋会の梅津勘兵衛と木村篤太郎元法相は協働して博徒とテキ屋をまとめて「護国団」を結成します。1959年には、この護国団と国粋会を含む10を超える右翼団体が集まって「全日本愛国者団体協議会」を結成します。その幹部の顔ぶれは、1930年に浜口雄幸首相暗殺を企て、死刑宣告されるも1940年に釈放された佐郷屋留雄、1932年の血盟団事件の首謀者井上日召、1939年に政友会の中島知久平総裁狙撃を企てた三浦義一(あの室町将軍です)、1932年の五.一五事件で重要な役割を果たした橘孝三郎(評論家立花隆=本名橘隆志の親戚)らがいたといいます。これでは、まさに戦前の復活ですね。政治風土は「時間続き」で全く変わっていないと見るべきかもしれませんが。

 1959年6月には、護国団と松葉会(戦前は博徒らを含む土建業で出発し、戦後は浅草などの闇市を仕切っていた「関根組」が起こした政治団体、現指定暴力団)を含む右翼16団体からもう一つの右翼組織である「愛国者懇談会」が結成されます。いずれの右翼組織も、翌1960年の三池炭鉱労働争議や安保闘争などで、警察と一緒になって暴力鎮圧の要として活躍するわけです。

 かなり念入りに調べ上げた著書だと思います。繰り返しになりますが、こういう歴史的事実があったのだ、と多くの心ある人には読んでもらいたいと思います。

(一部敬称略)

エイコ・マルコ・シナワ著「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」を読む

 新聞の書評で、エイコ・マルコ・シナワ著、藤田美菜子訳「悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治」(朝日選書、2020年6月25日初版)の存在を知り、早速購入してこの本を読んでいます。「その筋」の本は、どういうわけか、小生のライフワークになっていますからね(笑)。きっかけは30年も昔ですが、芸能担当の記者になり、芸能界とその筋との濃厚な関係を初めて知り、裏社会のことを知らなければ芸能界のことが分からないことに気が付き、その筋関係の本をやたらと読みまくったからでした。

 この本は、副題にある通り、芸能界ではなく、政治の世界と暴力団との密接な関係を抉りだすように描かれています。暴力というか武力で政治を動かしてきた史実は戦国時代どころか古代にまで遡り、その例は枚挙に暇がありません。この本では、その中でも幕末の1860年(桜田門外の変があった年)から昭和の1960年(安保闘争、三池争議、浅沼社会党委員長暗殺事件があった年)までの100年間に絞って、多種多様な資料と史料を駆使して分析しています。それらは、幕末の志士(彼らは今で言うテロリストでもあった)に始まり、明治の壮士(暴力で敵対する政治家の演説を妨害した)、大正・昭和の院外団(大野伴睦が有名)、そして本物のヤクザの衆院議員(吉田磯吉、保良浅之助ら)を取り上げ、日本人でさえ知らなかった負の歴史を教えてくれます。

 著者のエイコ・マルコ・シナワ氏は1975年、米加州生まれで、米ウイリアムズ大学歴史学部教授という略歴が巻末に載っていますが、著者がどうしてこれほどまでに日本の近現代史に興味を持ち、その専門家になったのか、読者が知りたいそれ以上の情報は、何処にも、ネットにも掲載されていませんでした。名前から日系米国人と推測されるのですが、故意なのか、その点については全く触れていません。幕末明治の史料も相当読み込んでいると思われ、旧漢字も読めなければならないので、かなり日本語に精通した米国人であることは確かのはずです。

 この本の原著は、2003年に著者がハーバード大学の博士号を取得した論文だといいます。最初から一般読者向けに書かれなかったせいか、堅く、読みにくい部分もありますが、外国人から見る日本史は容赦がないので、そういう見方があったのか、と新鮮な気持ちにさえさせてくれます。日本人の学者が、これまであまり真摯に取り上げて来なかった暴力団と政治との濃厚接触関係という視点も外国人の学者だからこそできたのかもしれません。

 巻末の「謝辞」では、実に多くの日米両国の偉大な専門の歴史家にお世話になったか、実名を挙げて御礼の言葉を述べています。が、最初のイントロダクションで、「徳川幕府(1600~1868年)」と出てきたのには驚かされました。1600年は関ケ原の戦いの年で、まだ、徳川家康は全国統一を果たしていたとは言えない年。家康が征夷大将軍に任官された1603年が徳川幕府の始まりと日本では教えられています。また徳川幕府が終わったのも大政奉還の年の1867年でいいんじゃないでしょうか?

 最初から少しケチを付けてしまいましたが、この本から学んだことは大いにあったと断言できます。

 特に、政友会の衆院議員だった暴力団の親分、保良浅之助(1883~1975)については勉強になりました。その前に、この本の表紙にもなっている憲政会の吉田磯吉(1867〜1936)に触れなければなりません。

 吉田は、火野葦平の「花と竜」のモデルにもなった侠客です。荒くれ男が多い遠賀川沿いの北九州若松を根城に賭博場を経営し、筑豊炭坑の石炭を大阪に運ぶ若松港の発展に寄与するなど地元の大親分として一目置かれていました。反政友会候補として政界に打って出て初当選したのが1915年、以後32年まで衆院議員を務めます。労働争議では経営者側に有利なように介入したと言われます。この本には書かれていませんでしたが、彼の葬儀にはわざわざ東京から元首相の若槻礼次郎や民政党総裁の町田忠治までもが参列したことを、猪野健治著「侠客の条件―吉田磯吉伝」 (ちくま文庫) で読んだことがあります。

 一方の保良は、憲政会の吉田磯吉に対抗するために政友会から三顧の礼を持って迎え入れられた人物(衆院議員に当選)でした。勿論、吉田と同じ侠客です。賭場を開帳するヤクザの親分でしたが、山口県下関で身を落ち着けて、魚の運搬に使う竹籠の製造業を大きくし、朝鮮にまで進出して木箱の製造を始め、終いには山口、鳥取、熊本などに製材所や建設会社、製氷会社、下関駅前には山陽百貨店を開業し、兵庫、広島、大阪には数十の劇場まで経営するほどの実業家になります。そして、裏街道では「籠寅組」を率いていたといいますから、驚いてしまいました。この本は政治の話が中心なので、書いていませんでしたが、下関の籠寅組と言えば、その筋では名門中の名門。浪曲師広沢虎造の興行を巡って、神戸の山口組と敵対し、東京浅草で、籠寅組が山口組二代目の山口登組長を襲撃して重傷を負わせた(後にこの傷が元で死亡)武闘派だったからです。

 著者は、政友会が保良をスカウトする際、長州出身の田中義一首相が直々に説得し、その際に、恐らく国家機密を明かしたのではないかと推測しています。その機密事項とは、山東出兵失敗や張作霖爆殺事件の話だと思われるとまで書いています。仮初めにも籠寅組を率いるヤクザの親分と政界トップがここまで親しげな仲だったとは、同時代の日本人はともかく、後世の日本人はすっかり忘れているか、もしくは知らないことでしょう。

銀座「岩戸」アジ丼

 ついでながら、色々と政党が出てきたので、この本に沿って乱暴に整理してみます。

 明治維新の原動力になったのが、薩長土肥の四藩。それが自由民権運動が高まる中、明治一四年の政変が起こり、権力が薩長二藩に独占されます。薩摩が海軍、長州が陸軍を仕切るわけです。野に下った土佐高知の板垣退助は自由党を結党し、肥前佐賀の大隈重信は改進党(後の進歩党)を結党します。この両者は、一時期、隈板内閣をつくり、1898年に合併して憲政党を結党するなど密月があったものの、間もなく分裂します。1900年、旧自由党に、伊藤博文、星亨らが合流して結党したのが、政友会です。一方の反政友会の流れは、1913年、桂太郎による立憲同志会が結成され、16年には中正会などと合流して憲政会(27年に民政党に改称)となるわけです。憲政会の初代総裁加藤高明は、岩崎弥太郎の女婿となったことから「三菱の大番頭」と皮肉られ、後に首相になった人です。

 昭和初期に青年将校らによって「財閥と結託した腐敗政党」と糾弾されたのが、この政友会と民政党の二大政党のことです。政友会には三井財閥、民政党には三菱財閥がバックにいたことは周知の事実だったことから、血盟団事件では三井の総帥団琢磨らがテロで暗殺されたりするのです。(つづく)

【追記】

 続編は2020年8月8日付「この本を読まないと日本の近代政治の本質が分からない=エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治』」です。

 

 

「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」はお薦めです

 4連休中は、沖縄にお住まいの上里さんから航空便でお贈り頂いた安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」(青土社、2020年3月31日初版)をずっと読んで過ごし、読了しました。

 皆さんから「お前は、いつも人様から贈られた本ばかり読んでいるのお」と批判されれば、「責任を痛感しています。真摯に反省しております」と応えるしかありません。

 上里さんからは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫  長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)や森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社)など何十冊もの心に残る良書を贈って頂き、本当に感謝申し上げます。

 さて、安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」のことです。

 これでも私はかつて、「ゾルゲ研究会」(通称、すでに解散)なる会に属したことがあるので、ゾルゲ事件の関する書籍はかなり読んでおりますから、事件には精通しているつもりでした。

 もちろん、安田徳太郎(1898~1983、享年85)についてもゾルゲ事件に連座して逮捕された諜報団の一員だということは知っておりました。しかし、正直、医者だったということぐらいで、彼がどういう人物で、何故逮捕されたのかまではよく知りませんでした。諜報団の中で、それほど目立った動きをした重要人物でもなかったし、半ば当局がこじつけて諜報団の一員に仕立て上げたような感じもあったからです。

 本書を読んで初めて、安田徳太郎という人となりが分かりました。この本の著者は、徳太郎の長男一郎(1926~2017、享年91、元横浜市立大学文理学部教授、心理学者)ですから、徳太郎本人の少年時代の日記を始め、家族親族でしか知り得ない事柄が満載されています。(著者は文章を書く専門家ではないので、前半は読みづらいというか、分かりにくい箇所がありましたが、後半はすっきり読めました)

 まず驚くべきことは、徳太郎の縁戚関係です。労働農民党代議士でただ一人治安維持法に反対して暗殺された「山宣」の愛称で慕われた山本宣治は、従兄弟に当たり、ホトトギス派の俳人として名をなした山口誓子(せいし、本名新比古=ちかひこ)はまたいとこに当たります。

 また、同じようにゾルゲ事件で逮捕された作家の高倉テル(京都帝大時代、河上肇の影響でマルキストになる)は、徳太郎の妹つうの夫、つまり、義弟に当たります。

 このほか、徳太郎の進路に影響を与えた人として小説家の近松秋江まで登場します。

 徳太郎は、明治31年、京都市生まれ。旧制府立三中から京都帝大医学部を卒業したエリートで、日本で初めてフロイトの「精神分析入門」を翻訳して紹介した人でもあります。若い頃に大逆事件などを体験し、軍国主義が高まる中、三・一五事件など治安維持法による共産党弾圧を見聞し、昭和初期には東京・青山の一等地(とはいっても、当時の青山はファッション街ではなく、麻布連隊区司令部や第一師団司令部、陸軍軍法会議などがある「軍都」でした)に内科医を開業します。特高によって拷問死した日本共産党中央委員の岩田義道や作家の小林多喜二の凄惨な遺体を検分したりしたことも、当局からマークされる遠因になります。

 徳太郎のゾルゲ事件での逮捕容疑のきっかけは、この青山の内科医にゾルゲ諜報団の中心人物宮城与徳が昭和10年1月に「肺病で喀血した」と診察に訪れたことで始まりました。

 宮城は沖縄出身の画家で、1920年に渡米、27年には米共産党日本人部に入党し、コミンテルンによる派遣で昭和7年(1932年)に日本に戻り、本部から指令されるまま、ゾルゲの下で諜報活動に従事した男でした。診察以外でも「諜報活動」のため、度々医院を訪れるようになった宮城与徳は、昭和15年の初めに「ドイツ大使館にいる私の友人が肺炎で危篤なってます。先生、例の肺炎の特効薬を下さいませんか」と頼み込んできました。徳太郎は「宮城さんの友人がナチ・ドイツ大使館にいるというのはおかしな話だ」と思いながらも薬を渡します。数日後、宮城が「おかげで、友人は全快しました」と御礼にやって来ます。これが、この本のタイトルにもなっている「ゾルゲを助けた医者」につながるわけです。

 徳太郎は昭和17(1942)年6月に逮捕され(尾崎秀実やゾルゲらが逮捕されたのは、前年昭和16年10月)、治安維持法、軍機保護法、国防保安法違反の罪名で起訴されますが、結局、治安維持法違反の一つだけで昭和18年(1943)年7月に仮釈放されます(判決は懲役2年、執行猶予5年)。この中で、面白い逸話が書かれています。

 裁判が終わって、徳太郎は平松検事に挨拶に行き、「正直言ってこの事件は何が何だかさっぱり分からないのですが、真相は何なんですか?」と尋ねます。すると、平松検事は「分かるわけない。わしらでさえ分からないのだから。コミンテルンというが、実際(ゾルゲ)はソ連赤軍第4本部の諜報機関(所属)なんだよ」と答えたといいます。

 徳太郎を逮捕し、取り調べに当たった警視庁青山署の高橋与助・特高警部は「てめえこのやろう、ふざけやがって、ゾルゲの命を助けたな。この国賊、非国民が。天皇陛下に申し訳ないと思わないのか」と怒鳴りまくり、髪の毛を引っ張ったりしましたが、コミンテルンとの関係ばかり追及したといいます。一方の司法省の検事たちは、ゾルゲの自白で、ある程度、真相を分かっていたということになります。

 実際、ゾルゲは赤軍4部から派遣されたスパイであり、コミンテルンは、徳太郎が釈放される1カ月前の1943年6月10日に解散していたわけですから。

 この本は、ゾルゲ事件に関心がない人でも、明治末に生まれた若者が、大正デモクラシーと米騒動と労働争議と昭和恐慌、軍国主義まっしぐらという日本史の中でも稀に見る激動の時代を生き抜いた様子を読み取ることができます。

 他にも、青山にあったすき焼き料亭「いろは」の創業者木村荘平(葬儀社「東京博善」=現廣済堂グループ=の創業者でもあり、女性関係が盛んで30人の子持ち。八男荘八は、画家で永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵担当、十男荘十は直木賞作家)の話など、意外と知られていない色々な逸話も描かれていますので、お薦めです。

 ちなみに、著者の安田一郎は3年前に亡くなっているので、編者として本書の出版にこぎ着けたのは一郎の次男で徳太郎の孫に当たる安田宏氏(1960〜、聖マリアンナ医科大学教授)です。

「慶喜が敵前逃亡しなければ」「孝明天皇が急死しなければ」「錦の御旗が偽造されなければ」=松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」

(7月13日のつづき)

 松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)が異色の幕末史となっているのは、これまで「薩長史観」で洗脳に近い形で教え込まれていた常識や史実が、百八十度、ひっくり返ってしまうことです。

 例えば、「松下村塾」を開き、維新の原動力となり、精神的支柱になった長州藩の吉田松陰のことです。偉人です。神格化され、明治になって本当に神になって松陰神社(東京都世田谷区)に祀られた人です。吉田松陰は安政の大獄で刑死となりましたが、文久3年に高杉晋作、伊藤俊輔(博文)らによって、毛利藩主の別邸に改葬され、明治15年になって、そこにそのまま松陰神社が建てられたのです。

 同神社の由緒では、「吉田松陰先生は、世界の中の日本の歩むべき道を自分自身が先頭となり、至誠、真心が人間を動かす世界を夢見て弟子たちと共に学び教えていきました。新しい時代の息吹が松下村塾の中に渦巻き、次の時代を背負う多くの俊才、逸材を生み出したことは、広く世界の人々が讃える所であります」などと稀に見る立派な教育者で、思想家となっております。しかし、松田氏の「斗南藩」では、彼は、黒船のペリー提督や南紀派中心人物である水野忠央(ただなか=紀州藩江戸定府家老)、老中間部詮勝(まなべ・あきかつ=越前鯖江藩主)ら要人暗殺を企てて若者を煽動したテロリストだったと書かれています。

 松田氏は「神社の創建以降、松陰の顕彰に最も熱心だったのは、山縣(有朋)だった。…軍拡にまい進した『日本陸軍』の父である。対外戦争の時代、国家が『愛国』『殉国』の権化としての松陰像を称揚していったが、まさか、暗殺、テロで政権に歯向かおうとした人を子どもに修身で教えるわけにはいかない。松陰の負の横顔は隠され、軍国主義に都合のいい側面だけを利用したのである」と書いていますが、彼が参考にした文献は、萩博物館特別学芸員・一坂太郎著「吉田松陰ー久坂玄瑞が祭り上げた『英雄』」という本でした。萩の人が、地元の英雄を批判していたのです。松田氏は「松陰のお膝元の人が刊行したので、一坂氏に有形無形の圧力がかかるようになったという」ことまで明かしています。

 ということで、この「斗南藩」を読了しましたが、やはり、敗者からの視点で描かれているとはいえ、読んでいて、腹立たしくなったりして「切歯扼腕」状態でした。歴史に「イフ」はない、とはよく言われますが、(1)「鳥羽伏見の戦いの最中、もし徳川慶喜が、大坂城からわずかな側近だけを連れて逃げ出さなかったら」(2)「もし、孝明天皇が急死しなければ」(3)「もし、岩倉具視らが『錦の御旗』を偽造しなかったら」歴史は全く違ったものになっていたことでしょう。

 (1)については、「徳川慶喜が大坂城を脱走したのは慶応4年1月6日の夜9時ごろ。随行は松平容保(会津藩主)とその実弟松平定敬(桑名藩主)、老中板倉勝清ら数人。慶喜に『一緒に来い』と命じられた容保は、庭でも散歩するのかと思い、ちり紙も持たずに従ったという」。総大将が敵前逃亡してしまえば、前線の兵士は梯子を外された格好で、これで敗戦が決まったようなものです。

 (2)の35歳の若さで崩御された孝明天皇については、著者は岩倉具視を黒幕としたヒ素による毒殺説を支持しています。孝明天皇は、会津藩に対する信任が厚く、その証拠として本書では宸翰(しんかん=天皇の直筆の文書)まで掲載しています。反幕府の公家や薩長にとって、会津シンパの孝明天皇が邪魔だったのかもしれません。

(3)の「錦の御旗」が偽造だと知らずに、「賊軍」には与したくはないと、戊辰戦争の最中、土佐藩、淀藩(初代藩主稲葉正成の妻は三大将軍家光の乳母春日局)、津藩、彦根藩…と次々と官軍、実は薩長軍に寝返ってしまいます。畏るべし。

 その後、「朝敵」「賊軍」となって孤軍奮闘とした会津藩は、最期は有名な白虎隊の悲劇などがあり壊滅し、明治になって23万石の領地を没収されます。作物も碌に育たない火山灰地の北僻陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されます。会津藩の表向きの石高は23万石ですが、幕府預け領などを合わせ、一説には67万9000石だったといいます。当然のことながら、多くの餓死者を出し、漁業や林業、そして酪農業などで活路を見出していくのです。

 いずれにせよ、「維新の英傑」と言われている西郷隆盛も大久保利通も木戸孝允も「五百円札になった」岩倉具視も本書では「善人」として描かれていません。歴史にイフがなく、敗者側からの歴史では、どうしても、「たら」「れば」の話になってしまいますが、これまで、「定説」となっていた誤謬を多くの史料・資料から訂正していることは本書の功績でしょう。

蛇足ながら、著者の松田氏が特別論説編集委員を務める東奥日報社につながる青森県初の言論機関「北斗新聞」を明治10年に創刊したのは、小川渉という斗南藩士だった人でした。

また、秋篠宮紀子妃は、会津藩士で斗南藩に移植し、大阪市長などを歴任した池上四郎の曾孫に当たるといいます。となると、将来、天皇になられる悠仁さまも、会津・斗南(藩士)の子孫になります、と著者は最後に結んでいました。

 この本を贈ってくれた畏友小島君には感謝申し上げます。

「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)を読んで

  高校時代、クラスで一番の人気者の小島君が本を贈ってくれました。松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社、2020年3月20日初版)という本です。彼は現在、青森県で医療関係の仕事に従事しています。関東出身だと思いますが、すっかり「東北人」になりきり、愛郷心も半端じゃありません。

 高校時代の彼は、休み時間になると、いつも周囲から可愛がられ、口を尖らして「やめろよ、やめろよ」と大声を出していたことから、「タコ」と綽名を付けられていました。森崎君が付けたと思います。

 そんな彼も今では大先生です。彼とは、(仕方なく始めた)フェイスブックで数十年ぶりにつながり、FBを通じて、小生のブログを彼は愛読してくれているらしく、今回も「本を差し上げます。何もブログにアップしてもらうつもりはありません。売り上げに貢献したいだけです」とのメッセージ付きで送ってくれました。彼はジャーナリストと同じように、いやそれ以上に日々のニュースや歴史に関心があるようです。青森県を代表する県紙東奥日報を応援する気持ちが大きいのです。

 彼がこの本を贈ってくれたのは、恐らく、私が2018年2月25日にこのブログで書いた「『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』は人類必読書ではないでせうか」を読んでくれたせいかもしれません。実は、私もこの本で初めて「斗南藩」の存在を知りました。

 幕末、「朝敵」「賊軍」となった会津藩は、23万石の会津の地を没収され、作物も碌に育たない北僻の陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されるのです。会津藩士で、後に陸軍大将になる柴五郎について書かれた前掲の「ある明治人の記録」の中で、

「柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、到底足りない。…馬に食べさせる雑穀など食べられるものは何でも口にした。…塩漬けにした野良犬を20日間も食べ続けたこともあった。最初は喉を通らなかったが、父親から『武士は戦場で何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長の下郎どもに笑われるぞ』と言われて我慢して口にした。住まいの小屋に畳はなく、板敷きに稾を積んで筵を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹き付ける寒風で、炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で稾に潜って寝るが、五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるか分からない状態になった。…」

 とまで書いておりました。そこまで悲惨な生活を強いられたのでした。

 藩祖保科正之(二代将軍秀忠の嫡外子で、三代将軍家光の異母弟)以来、天皇に対する尊崇の念が篤かった会津藩が、何故に「朝敵」の汚名を着せられなければならなかったのかー。そんな不条理を少しでも解明して、名誉を回復したい、といった義憤が、東北人である著者にこの本を書かかせるきっかけになったようです。藩祖保科正之は、四代将軍家綱の「将軍補佐役」として幕政の中心に就き、特に、明暦の大火で江戸市中が灰燼に帰した際、江戸城天守を再建せず、町の復興を最優先したことで名を馳せた人物でもあります。

 歴史のほとんどは「勝者」側から描かれたものです。となると、この本は、「敗者」側から描かれた歴史ということになります。そして、歴史というものは、往々にして、敗者側から描かれた方が誇張や虚栄心から離れた真実に近いものが描かれるものです。

 2年前のブログにも書きましたが、これほど会津藩が賊軍の汚名を着せられたのは、藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就き、新撰組などを誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を数多く殺害したことが遠因だと言われています。長州藩士桂小五郎はその復讐心に燃えた急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

 となると、会津藩が京都守護職に就かなければ、これほど長州からの恨みを買わなかったことになりますが、本書では、若き藩主容保が、何度もかたくなに固辞していた京都守護職を「押し付けた」のは、越前藩主で、政事総裁として幕政に参加していた松平春嶽だったことを明かしています。

 会津藩主松平容保は、もともと美濃の高須藩主松平義建の六男(庶子)でした。高須藩は、御三家尾張藩の支藩だったということもあり、容保の兄慶勝は尾張藩主、茂徳(もちなが)は高須藩主、尾張藩主、一橋家当主、弟の定敬(さだあき)は桑名藩主となり、「高須四兄弟」と呼ばれました。特に、末弟定敬は、京都所司代に任命され、京都守護職の兄・容保とともに京都の治安維持役を任されます。これが後に、薩長土肥の志士たちから「会津、桑名憎し」との怨嗟につながるのです。

 桑名藩は、徳川家康譜代の重臣で、四天王の一人と呼ばれた本多忠勝が立藩したので、徳川政権に最も近い藩の一つだと知っていましたが、幕末になって、会津と桑名にこのような関係があったとは…。色々と勉強になりました。

 幕末は、日本史の中でも人気が高く関連書も多く出版されています。しかし、殆どが勝者側の勤王の志士が主人公で、会津、桑名など時代遅れの先見の明のない無学な田舎侍扱いです。

 本書を読めば、そうでなかったことがよく分かります(つづく)。

思想検事がいた時代なら渓流斎はアウト

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

《渓流斎日乗》なる詭激(きげき)思想を孕(はら)む危険分子は、機宜(きぎ)を逸せず禍(か)を未然に防遏(ぼうあつ)するの要ありー。

 先月、満洲研究家の松岡先生とLINEでやり取りしていた際、2人の共通の知人である荻野富士夫・小樽商科大学教授(現在名誉教授)の書かれた「思想検事」(岩波新書・2000年9月20日)は、小生だけが未読だったので、私は「いつか読まなければならないと思ってます」と返事をしておきました。もう20年も昔の本です。今では古典的名著になっているのか、立花隆著「天皇と東大」の膨大な参考文献の1冊としても挙げられていました。

 20年前の本ですから、古書で探すしかありません。やっとネットで見つけたら、送料を入れたら当時の定価(660円)の2倍の値段になってしまいました。そうまでもしても、手に入れたかった本でした。(A社では最高1万2800円もの値が付いていました!)

 先程、やっと読了したところですが、明治末からアジア太平洋戦争中にかけて、検察権力が肥大化していく様子が手に取るように分かりました。昭和初期の異様な軍部の台頭と軌を一にするかのような司法省の増長ぶりです。いや、逆に言えば、軍部だけが突出していたわけではなく、司法も行政も立法も、そして庶民の隣組や自警団に至るまで一緒になって挙国一致で国体護持の戦時体制を築き挙げてきたということになります。国家総動員法や大政翼賛会など政治面だけみていてはこの時代は分かりません。最終的には司法の検事、判事が臣民を支配していたことが分かります。その最たるものが「思想検事」で「皇国史観」にも染まり、それが判断基準でした。

 検察や裁判官は神さまではありません。権力当局者は、かなり自分で匙加減ができる恣意的なものだったことが分かります。これは過去の終わった話ではなく、現代への警鐘として捉えるべきでしょう。

「黒川高検検事長事件」が起きたばかりの現代ですから、検察の歴史を知らなければなりません。

 でも、正直、この本は決して読み易い本ではありません。ある程度の歴史的時代背景や、大逆事件、森戸事件、三・一五事件、四・一六事件、小林多喜二虐殺事件、ゾルゲ事件、それに横浜事件などについての予備知識がない人は、読み進む上で難儀するかもしれません。なぜなら、この本は、それら事件の内容については詳しく触れず、司法省内の機構改革や思想検察を創設する上で中心になった小山松吉、塩野季彦、平田勲、池田克、太田耐造、井本台吉ら主要人物について多く紙数が費やされているからです。

 読み易くないというもう一つの要因は、本書で度々引用されている「思想研究資料」「思想実務家合同議事録」など戦前の司法省の公文書では、現在では全く使われないかなり難しい漢語が使われているせいなのかもしれません。しかし、慣れ親しむと、私なんか読んでいて心地良くなり、この記事に最初に書いたような「創作語」がスラスラ作れるようになりました(笑)。

 「思想検察」の萌芽とも言うべき「思想部」が司法省刑事部内にできたのは1927(昭和2)年6月のこと(池田克書記官以下4人の属官)でした。泣く子も黙る特高こと特別高等課が警視庁に設置されたのが1911(明治44)年8月ですから、16年も遅れています。それが、1937年に思想部が発展的解消して刑事局5課(共産主義、労働運動など左翼と海軍を担当)となり、38年に刑事局6課(国家主義などの右翼と類似宗教、陸軍を担当)が新設されると、検察は、裁判官にまで影響力を行使して「思想判事」として養成し、捜査権を持つ特高警察に対しては優位性を発揮しようと目論見ます。司法省対内務省警保局との戦いです。これは、まるで、陸軍と警察との大規模な対立を引き起こした「ゴーストップ事件」(1933年)を思い起こさせます。

 司法省刑事局6課が担当する類似宗教とは、今で言う新興宗教のことです。これまで、不敬罪などで大本教などを弾圧してきましたが、治安維持法を改正して、国体に反するような反戦思想などを持つ新興宗教に対しても、思想検察が堂々と踏み込むことができるようになったのです。キリスト教系の宗教団体や今の創価学会などもありましたが、ひとのみち教や灯台社なども「安寧秩序を乱す詭激思想」として関係者は起訴されました。あまり聞き慣れないひとのみち教は、今のPL教団、灯台社は、今のエホバの証人でした。

新橋の料亭「花蝶」

 先程、戦前の思想検事をつくった主要人物を挙げましたが、塩野季彦については、山本祐司著「東京地検特捜部」(角川文庫)に出てきたあの思想・公安検察の派閥のドンとして暗躍した人物です。そして最後に書いた井本台吉は戦前、思想課長などを歴任し、戦後は、検事総長にまで昇り詰めた人で、1968年の日通事件の際の「花蝶事件」の主役だった人物でしたね。

 中でも「中興の祖」というべきか、思想検察の完成者とも言うべき人物は太田耐造でしょう。彼は、刑事局6課長として1941年3月の治安維持法の大改正(条文数を7条から65条へ大幅増加)を主導した立役者でした。

 太田耐造は、20世紀最大のスパイ事件といわれるゾルゲ事件に関する膨大な資料も保存していて、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されるほど昭和史を語る上で欠かせない人物です。現在、荻野・小樽商科大学名誉教授教授も推薦している「ゾルゲ事件史料集成――太田耐造関係文書」(加藤哲郎一橋大名誉教授編集・解説)も不二出版から刊行中です。

 思想検事は戦後、GHQにより公職追放となりますが、間もなく、「公安検事」として復活します。

《渓流斎日乗》なる詭激思想を孕む危険分子は、機宜を逸せず禍を未然に防遏するの要ありー。

 扨て扨て、このブログは書き続けられるのでしょうか?

青年よ、検察庁を目指せ!

 青雲の志を抱く若者よ、検察庁を目指さないか?

 何しろ、賭博罪に当たる賭けマージャンをやっても、違法駐輪をやっても、高等検察庁の検事長になれば、逮捕されることなく、懲戒免職されることなく退職金も満額の7000万円、ばっちり貰えますからね。口入(くにゅう)と言っても分からないか、差配師、手配師、これも駄目?では、人材派遣会社なら分かる?まあ、要するに人買い人足回しあがりの政治屋と昵懇になって政界に顔を利かせれば、政府が保障してくれます。

 そりゃあ、検察庁に入るのは少し大変かもしれない。でも、東大法学部に入って、国家公務員総合職の試験に合格さえすれば何とかなります。1日16時間、いや、君だったら8時間も勉強すれば必ず合格できますよ。

 実は、勉強って、とっても楽しいものなんだよ。「実録 日本汚職史」(ちくま文庫)を書いた室伏哲郎先生もこう教えてくれます。

 三面記事を派手に賑わせる強盗、殺人、かっぱらい、あるいはつまみ食いなどという下層階級の犯罪は厳しく取り締まりを受けるが、中高所得層のホワイトカラー犯罪は厳格な摘発訴追を免れている ーいわゆる資本主義社会における階級司法の弊害である。

 でしょ?弊害じゃないんです。検察官になれば、やりたい放題なんです。賭けマージャンをしようが、違法駐輪しようが、起訴するのは貴方ですからね。どんどん、下層階級のチンピラやコソ泥は捕まえて点数を稼ぎましょう。勿論、エスタブリッシュメントの貴方は、貴方自身で不起訴にできます。

 もう一つ、楽しいお勉強。「東京地検特捜部」(角川文庫)を書いた山本祐司先生も、検察と政界の癒着を見事に暴いてくれてるではありませんか。君たちの曾祖父の世代かもしれませんが、1968年に発覚した汚職の「日通事件」のことです。

新橋の高級料亭「花蝶」

 この一連の事件の中で、「花蝶事件」というのがありました。これは、日通事件の渦中の1968年4月19日に、新橋の高級料亭「花蝶」で井本台吉・最高検検事総長と自民党の福田赳夫幹事長(後の首相)と、300万円の収賄容疑の自民党・池田正之輔衆院議員の3人が会食していた事件です。同年9月になって「赤旗」と「財界展望」が、料亭「花蝶」の領収書のコピーを添えてスクープしました。井本台吉検事総長は、池田代議士の逮捕には強硬に反対した人物でした。何か裏がありそうですが、後に「この会食は日通事件とは関係がない。検事総長に就任したときに池田氏が祝いの宴を開いてくれたので、そのお返しとして一席設けただけだ」と弁明しています。 「思想検事」だった井本検事総長と大蔵省出身の福田幹事長は、ともに群馬県出身で第一高等学校~東京帝国大学法学部の同級生という間柄でした。

 ね?こういう繋がりを歴史的事実として知ると、勉強ほど楽しいものはないでしょ?

 黒川検事長の賭けマージャンが発覚しなければ、黒川氏は7月にもトップの検事総長に上り詰め、そのお祝いに公職選挙法違反の疑いで今にも起訴されそうな自民党の河井克行・案里夫妻議員が、料亭「花蝶」で検事総長就任の祝宴を開いたら、さぞかし面白いことでしょうね。「桜」前夜祭での公職選挙法違反の疑いがある安倍晋三首相も参加するかもしれません。検事総長になった黒川氏は、もちろん、井本検事総長の顰みに倣って政治家の逮捕は強硬に反対していたことでしょう(接続法過去未来推量形)。

 あ、そうそう、退職金7000万円の話ですが、君たちが、高検検事長や検事総長になっているであろう40年後、50年後は3億円ぐらいになっているはずです。どうせ、庶民どもが汗水たらして働いて貢いだ税金ですからね。それに、退職しても、その後、天下りで引く手あまたです。ヤメ検弁護士になれば厖大なコンサルタント料金で、まだまだ荒稼ぎできます。ね?楽しく勉強しさえすればいいだけなんだもん。賭博をしたり、宝くじを当てようとしたりするより手堅いじゃない?

 青年よ、検察庁を目指せ!

【追記】

 過去に書いた記事と一部重複しています。それだけ、世の中は変わっていないし、頑なに変わらないということです。