失われた時を求めて=見つかった?高悠司

国立国会図書館

 久しぶりに東京・永田町の国会図書館に行って来ました。病気をする前に行ったきりでしたから、もう5年ぶりぐらいです。当時、ゾルゲ事件関係の人(ドイツ通信社に勤務してゾルゲと面識があった石島栄ら)や当時の新聞などを閲覧のために足繁く通ったものでした。

 今回、足を運んだのは、自分のルーツ探しの一環です。私の大叔父に当たる「高悠司」という人が、東京・新宿にあった軽劇団「ムーラン・ルージュ新宿座」で、戦前、劇団座付き脚本家だったらしく、本当に実在していたのかどうか、確かめたかったのです。

 高悠司の名前は、30年ほど前に、亡くなった一馬叔父から初めて聞きましたが、資料がなく確かめようがありませんでした。正直、本当かどうかも疑わしいものでした。

表紙絵は松野一夫画伯

 それが、最近、ネット検索したら、やっと「高悠司」の名前が出てきて、昭和8年(1933年)5月に東京・大阪朝日新聞社から発行された「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」に関係者の略歴が出ていることが分かったのです。今回は、その雑誌を閲覧しようと思ったのです。

 最初は、雑誌ですから、「大宅壮一文庫」なら置いてあるかなと思い、ネット検索したらヒットしなかったので、一か八か、国会図書館に直行してみました。 

 何しろ5年ぶりでしたから、パスワードを忘れたり、利用の仕方も忘れてしまいましたが、「探し物」は、新館のコンピュータですぐ見つかりました。何しろ86年も昔の雑誌ですから、実物は手に取ることができず、館内のイントラネットのパソコン画面のみの閲覧でしたが、申請したら、コピーもしてくれました。カラーが36円、白黒が15円でした。

 国会図書館内では、一人で何やらブツブツ言っている人や、若い係の人に傲岸不遜な態度を取る中年女性など、ちょっと変わった人がおりましたが、税金で運営されているわけですから、多くの国民が利用するべきですね。

「 レヴュウ號」目次

 7月26日に発売され、同日付の産経新聞に全面広告を打っていた「月刊 Hanada」9月号には「朝日新聞は反社会的組織」という特大な活字が躍り、本文は読んでませんが、これではまるで朝日新聞社が半グレか、反社集団のようにみえ、驚いてしまいました。右翼国粋主義者の方々なら大喜びするような見出しですが、戦前の朝日新聞は、こうして、政治とは無関係な娯楽の芸能雑誌も幅広く発行していたんですね。

 とはいえ、この雑誌が発行された昭和8年という年には、あの松岡洋石代表が席を立って退場した「国際連盟脱退」がありましたし、海の向こうのドイツでは、ヒトラーが首相に就任した年でもありました。前年の昭和7年には、血盟団事件や5・15事件が起こっており、日本がヒタヒタと戦争に向かっている時代でした。

 そんな時代なのに、いやそういう時代だからこそ、大衆は娯楽を求めたのでしょう。このような雑誌が発売されるぐらいですから。

 目次を見ると、当時の人気歌劇団がほとんど網羅されています。阪急の小林一三が創設した「宝塚少女歌劇」は当然ながら、それに対抗した「松竹少女歌劇」も取り上げています。当時はまだ、SKDの愛称で呼ばれなかったみたいですが、既に、ターキーこと水ノ江滝子は大スターだったようで、3ページの「二色版」で登場しています。

 残念ながら、ここに登場する当時有名だった女優、俳優さんは、エノケン以外私はほとんど知りません。(先日亡くなった明日待子はこの年デビューでまだ掲載されるほど有名ではなかったみたいです)むしろ、城戸四郎や菊田一夫といった裏方さんの方なら知っています。

 面白いのは、中身の写真集です。(「グラビュア版」と書いてます=笑)「悩ましき楽屋レヴュウ」と題して、「エロ女優の色消し」とか「ヅラの時間」などが活写されています。それにしても、天下の朝日に似合わず、大胆で露骨な表現だこと!

 43ページからの「劇評」には、川端康成やサトウハチロー、吉行エイスケら当時一流の作家・詩人も登場しています。

レヴュウ関係者名簿

 巻末は、「レヴュウ俳優名簿」「レヴュウ関係者名簿」となっており、私のお目当ての「高悠司」は最後の54ページに掲載されていました。

 高悠司(高田茂樹)(1)佐賀縣濱崎町二四三(2)明治四十三年十一月三日(3)ムーラン・ルージュ(4)文藝部プリント(6)徳山海軍燃料廠製圖課に勤め上京後劇團黒船座に働く(7)四谷區新宿二丁目十四番地香取方

 やったー!!!ついに大叔父を発見しました。

 一馬叔父からもらった戸籍の写しでは、大叔父(祖父の弟)の名前は、「高田茂期」なので、ミスプリか、わざと間違えたのか分かりませんが、出身地と生年月日は同じです。(4)の文藝プリントとは何でしょう?同じムーラン・ルージュの伊馬鵜平(太宰治の親友)はただ文藝部とだけしか書かれていません。(5)は最終学歴なのですが、大叔父は、旧制唐津中学(現唐津西高校)を中退しているので、わざと申告しなかったのでしょうか。

 (6)は前歴でしょうが、徳山海軍燃料廠の製図課に勤めていたことも、劇団黒船座とかいう劇団に所属していたことも今回「新発見」です。 確か、大叔父は、旧制中学を中退してから佐賀新聞社に勤めていた、と一馬叔父から聞いていたのですが、その後、「職を転々としていた」一部が分かりました。

 (7)の香取さんって誰なんでしょうか?単なる大家さんなのか、知人なのか?新宿2丁目も何か怪しい感じがしますが(笑)、ムーラン・ルージュまで歩いて行ける距離です。想像力を巧みにすると面白いことばかりです。

いずれにせよ、この雑誌に掲載されている当時あったレビュー劇団として、他に「ヤパン・モカル」「河合ダンス」「プペ・ダンサント」「ピエル・ブリヤント」などがあったようですが、詳細は不明(どなたか、御教授を!)。「ムーラン・ルージュ」の関係者として6人だけの略歴が掲載されています。そのうちの一人として、天下の朝日新聞社によって大叔父高悠司が選ばれているということは驚くとともに、嬉しい限りです。

繰り返しになりますが、大叔父高悠司こと高田茂期は、ムーラン・ルージュを辞めて、満洲国の奉天市(現瀋陽市)で、阿片取締役官の職を得て大陸に渡り、その後、徴兵されて、昭和19年10月にレイテ島で戦死した、と聞いています。33年11カ月の生涯でした。

遺族の子息たちはブラジルに渡り、その一人はサンパウロの邦字新聞社に勤めていたらしいですが、詳細は分かりません。

この記事を読まれた方で、高悠司について他に何かご存知の方がいらっしゃっいましたら、コメントして頂けると大変嬉しいです。ここまで読んで下さり感謝致します。

元祖アイドル明日待子さんの訃報に接して

 本日、戦前から戦後にかけて「元祖アイドル」と言われた女優明日待子(あした・まつこ、本名須貝とし子、1920~2019年)さんの訃報に接しました。享年99。

 何よりも、まだご健在だったことに驚き、叶わぬことでしょうが、もしその事実を知っていたなら、生前にお話を伺いたかったなあ、と思いました。

 私が彼女の名前を初めて聞いたのは、30年ほど前です。戦前から戦後にかけて新宿にあった大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」(1931~51年)の看板女優だったという話を佐賀の一馬叔父(父親の弟)から聞いたことでした。最初聞いた時は、随分変わった分かりやすい芸名だなあ、ということぐらいで、それ以上はどんな女優だったのか知る由もありませんでした。

 当時、一馬叔父さんは自分の九州の高田家のルーツ探しに非常に熱心で、戸籍やら曾祖父が残した書き物などを元に系図を作ったりして、コピーも送ってくれました。その中で、叔父の叔父に当たる高田茂期(私から見て祖父の弟に当たる大叔父)が、昭和7~8年に、このムーランルージュで座付き脚本家として活動したことがあり、ペンネームとして「高悠司」という名前を使っていたという話を聞いたのです。

 しかし、当時は今ほどネットに情報が溢れていたわけではなく、知る由もなく、「高悠司」という人がいたかどうかも不明でした。当時、私は演劇担当の記者をしていたため、その折に知遇を得た演劇評論家の向井爽也氏(古い民家の絵を描く著名な向井潤吉画伯の長男で元TBSのディレクター)に、高悠司について伺ってみると「聞いたことないなあ」と一言。その代わり、ムーランルージュ関係の本を1冊紹介してもらいました。その本のタイトルは忘れましたが(笑)、勿論、高悠司の名前などありませんでした。

WT National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua  明日待子さんの写真が著作権の関係で使えないので、リンク先でご参照ください。

 それが、最近、ネットで検索したところ、高悠司の名前が2件ヒットしたのです。1件は、大恥を晒しますが、私が2006年5月28日の《渓流斎日乗》に書いた記事(笑)。もう1件は、1933年に東京朝日新聞社から発行された「レヴュウ號」映画と演芸・臨時増刊(54ページ、50銭・26x38センチ判)の索引の中に出てきたのです。名前だけですが、有馬是馬 、春日芳子といった俳優のほかに、関係者(座付き作家?)として伊馬鵜平(太宰治の親友としても有名)、斉藤豊吉らとともに高悠司の名前が並んでいたのです。

 嗚呼、今は亡き叔父の言っていたことは本当だったんだ!実在していたんだ!と感激しました。いつか、この雑誌を国会図書館が何処かで閲覧させてもらおうかと思いました。

 さて、ウイキペディアの「ムーランルージュ新宿座」によると、明日待子さんは、上に出てきた俳優の有馬是馬に発掘されて1933年に入団、とあります。昭和7(1932)~同8(1933)年頃に在籍した大叔父高悠司と接点があったかもしれません。明日待子さんが存命と知っていたら、その辺りを聞いてみたかったのです。(一馬叔父の記憶では、高悠司は当時、湘南地方で起きた事件を題材に脚本を書いたところヒットして、二カ月のロングランになったらしい。また、彼はヴァイオリンも演奏したらしいですが、真相は不明です)

 明日待子さんは、デビューすると瞬く間に人気アイドルとなり、カルピスや花王石鹸、ライオン歯磨きなどの宣伝ポスターに引っ張りだこ。原節子、李香蘭と並ぶ「元祖アイドル」と言われる所以です。

 ムーランルージュには、座付き作家として、吉行淳之介のご尊父吉行エイスケや龍胆寺雄ら、俳優歌手には、左卜全、益田喜頓、由利徹らも関わっていたんですね。戦後生まれの私は勿論知りませんが、ボードビル風の軽喜劇もやっていたことでしょう。

◇ルーツ探し

 大叔父高悠司こと高田茂期の消息については不明な部分が多いのですが、旧制佐賀県立唐津中学(現唐津東高校)を中退し、佐賀新聞社に勤務。その後、兄である私の祖父正喜(横浜で音楽教師をやっていた)を頼って上京し、職を転々とした挙句にムーランルージュで脚本家の職を得たようです。そして、何かのツテがあったのか、そのムーランルージュも辞めて満洲に渡り、奉天市(現瀋陽市)で阿片取締役官の職に就き、その後、徴兵され、昭和19年10月のフィリピン・レイテ島戦役(フィリピンで俘虜となり、レイテ島に収容された大岡昇平の「レイテ戦記」に詳しい)で戦死したと聞いています。享年33。

 長らく自分の「ルーツ探し」はサボって来ましたが、また復活したいと思っています。

「政友会の三井、民政党の三菱」-財閥の政党支配

やっと、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書、2018年3月10日再版)を読了しました。

 先日、「昭和恐慌と経済政策」(中村隆英著)などに出てきた「帝人事件」などを話を友人の木本君に話したら、「この本にも『帝人事件』のことが出てきたよ。読んでみたら」と、貸してくれたのでした。

 中村教授の本が経済の側面から昭和初期をアプローチしているのに対して、筒井教授の本は、日露戦争終結直後の「日比谷焼き打ち事件」に始まり、昭和初期の「統帥権干犯問題」「天皇機関説事件」など、政治的、社会的事件を扱ったものです。

 筒井教授の著書は、タイトルの「ポピュリズム」にある通り、大衆の群集心理とそれを煽るマスメディアとの関係を描いていますが、ちょっと大衆デモと新聞報道との因果関係を強調し過ぎている嫌いがあります。

 大衆は、インテリ階級が考えているほど無知蒙昧でもなく、案外したたかに計算しており、新聞は、学者が思っているほど堅忍不抜ではなく、また、確固とした主張もなく時流に流され、自分たちの影響力を認識していないケースが多いからです。

 前半では、1905年の日比谷焼き打ち事件、1914年のシーメンス事件にからむ山本内閣倒閣運動、1918年の普選要求と米騒動など、今から100年ぐらい前の事件が登場しますが、100年経っても、世相はあまり変わらないなあと思ってしまいました。

 米国ではトランプ大統領が当選して、移民国家なのに、早速、本人は移民排撃政策を掲げましたが、移民排斥は今に始まったわけではなく、1924年5月15日には、「排日移民法案」が上下両院で可決されています。よく働く日系人たちは、「移民先では脅威と感じられた」からだそうです。この歴史的事実は、今の現代日本人はほとんど知りませんが、当時の反日運動の中で、プールでは「日本人泳ぐべからず」との看板が掛けられたのでした。(日本はその後、1930年代の上海租界で、同じような看板を立てました)

 カリフォルニア州の日系移民排斥の立て看板には「JAPS DONT LEAVE THE SUN SHINE ON YOU HERE   KEEP MOVING」と書かれました。「鬼畜日本人よ ここではお前たちに太陽の恵みを与えてやるものか とっとと出ていけ」とでも訳されることでしょう。つい最近、わずか95年前の出来事です。

 これに対して、日本では同年5月に米大使館前で抗議の切腹自殺が行われたり、東京と大阪の主要新聞社19社が米国に反省を求める共同宣言を発表したり、翌6月には帝国ホテルに60人が乱入して、「米国製品のボイコット」「米人入国の禁止」などを要求したビラを散布したりしました。これも、そのわずか95年後の現在、どこかの国で日本製品のボイコットが叫ばれたりして、何となく、既視感を味わってしまいました。

 さて、1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満洲事変が勃発します。それまで、一貫して「反軍部」と「軍縮」を主張していた朝日新聞が、大旋回して社論を180度変更します。これまで陸軍批判の急先鋒だった(大阪朝日新聞主筆の)高原操は、10月1日の大阪朝日新聞紙上で「満洲に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」とすっかり「転向」します。

 この背景には、著者は、朝日の不買運動があったことを挙げています。「満洲事変後、『朝日』に対する不買運動は奈良、神奈川県、香川県善通寺などで拡大、『3万、5万と減っていった』という。これに対して、『大阪毎日』は拡張していった。朝日の下村海南副社長は『新聞経営の立場を考えてほしい』と発言し、10月中旬の重役会で『満洲事変支持』が決定した」といいます。会社ですから、ビジネスを重視したわけです。

 こうして、大新聞は「軍神物語」を書きたてて、1945年8月15日の終戦まで、イケイケドンドンと大衆を煽り立てたわけですね。

◇反対党の家の消火はしません

 この本では、昭和初期の二大政党だった政友会のバックには三井が、民政党のバックには三菱がついており、財閥が政党を支配していたことが書かれています。こんな調子です。

 大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 なるほど、こんな極端のことが起きていたんですね。これを読んで、クーデターを起こした青年将校や右翼団体員たちが、財閥とともに、政党政治を批判していたことがやっと分かりました。

あと、細かいことですが、この本では、満洲事変の前に起きた1931年8月に公表された有名な中村大尉事件のことにも触れていますが、最後まで中村大尉で押し通して、名前が書かれていません。(実際は、中村震太郎大尉)この他にも、何カ所か、名前の姓だけしか表記されていないところがありました。

また、高原操のように、氏名だけしか書かれておらず、相当の知識人や研究者ならすぐ大阪朝日新聞社の主筆と分かるかもしれませんが、大抵の読者はピンと来ません。せっかく一般向けの教養書として書かれたのなら、もう少し簡単な説明や一言が欲しい気がしました。

「昭和恐慌と経済政策」

 ここ半年ほど、1929年のニューヨーク株式大暴落に端を発する大恐慌について、興味を持ち、その関連本としては名著と言われる秋元英一(当時千葉大学教授)著「世界大恐慌」(講談社メチエ、初版1999年3月10日)を読破したのですが、今一つ、理解不足でした。ケインズやニューディール政策などが登場し、字面を読むことはできるのですが、知識としてストンと腑に落ちることができなかったのでした。

 そこで、同書に参考文献として挙げられていた(当然ながら名著の)中村隆英(当時)東洋英和女学院教授の「昭和恐慌と経済政策」(講談社学術文庫、初版1994年6月10日初版、底本は、1967年、日本経済新聞社刊「経済政策の運命」)を読んだところ、日本に特化した大正から昭和初期の話でしたが、すっきりと「経済史」として整理されていて、歴史的流れをつかむことができました。

 この本の主人公は、「金解禁」を実行した民政党の浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相です。私のような金融政策音痴の人間が言うのは大変烏滸がましいのですが、何で、世界恐慌最中の昭和5(1930)年1月に、井上蔵相は金解禁を実施したのか、という疑問でした。結局、この金本位制復帰のお蔭で、緊縮財政から銀行倒産など昭和恐慌が激しさを増し、同年11月に浜口首相の狙撃事件(翌年8月死去)が起こり、昭和6(1931)年12月に、政変によって政権についた政友会の犬養毅内閣の高橋是清蔵相によって、金輸出再禁止されたものの、井上準之助は翌7年9月に血盟団の団員によって暗殺されてしまいます。(19世紀以来、金本位制を牽引してきた本場英国は1931年9月21日に金本位制を停止。ポンド大英帝国の没落が始まります)

 考えてみれば、今、上述した浜口雄幸首相、井上準之助蔵相、犬養毅首相(5・15事件で)、高橋是清蔵相(2・26事件で)は全員、テロ襲撃に遭って暗殺されているんですよね。当時の政治家は生命を懸けていたことが分かります。

 しかし、果たして、暗殺した側の右翼国家主義の宗教団体にしろ、軍部の青年将校たちにしろ、知識人ではあっても、当時の国際経済や金本位制などの金融問題、複雑な為替管理操作や公債の発行などといった財政政策などを少しでも勉強したことがあったのだろうか、と疑問に思いました。

 恐らく、彼らは、不況や東北地方の冷害で、娘を身売りしなければならなかった惨状を見聞したり、三井などの財閥が、金輸出再禁止によって円の暴落になるのではないかという思惑でドル買いに走り、大儲けしたことを新聞で読んで義憤に駆られたりしただけで、複雑な経済問題を熱心に勉強していなかったのではないか、と思いました。

 つまり、表面的な政治問題や社会事件だけ見ていただけでは歴史は分からないのです。人間の下部構造である経済をしっかり押さえていなければ、深く理解できないと思ったのです。

 そういう意味で、こういった「経済史」関連本を読むことに大変な意義深さと価値を見いだしました。

 以下は、重複することが多々ありますが、備忘録としてメモ書きします。

・為替レートの維持が困難になった大正13(1923)年3月、東洋経済新報は、新平価解禁を主張した。…円の金価値を1割程度切り下げて解禁を行うべきだというのである。新平価によれば国内経済に打撃を与えないで金解禁を行うことができるというのである。…東洋経済の石橋湛山、高橋亀吉に小汀利得(おばま・としえ、中外商業新報記者)、山崎靖純(時事新報で金解禁反対を唱えたが追い出されて、読売新聞に移籍)を加えたいわゆる新平価解禁四人組の経済ジャーナリストだけが終始新平価解禁を唱えるのである。(50~51ページ)

・大正15(1926)年、大蔵大臣に就任した片岡直温は、金解禁を決意したが、銀行の内容の悪さを知って驚いた。…2億7000万円余の震災手形のうち、実に9200万円余が鈴木商店関係の手形であり、それに次ぐものが久原房之介関係の手形であった。また、震災手形を所有する銀行は、台湾銀行が1億円、朝鮮銀行1500万円をはじめ特殊銀行が1億2200万円、その他普通銀行が約8500万円だった。(56~57ページ)

・日本が立ち遅れていた金本位復帰(金輸出解禁)を決意したのは、昭和4(1929年)7月、浜口民政党内閣が成立し、井上準之助が蔵相に迎えれたときからである。井上蔵相は、旧平価による金解禁後の国際競争の激化に備えて、財政支出を削減し、金利を引き上げ、国民に消費節約を訴えるなど、強烈な引き締め政策を実行した。このため、日本経済は29年秋から急激な景気後退に見舞われた。米国に始まる不況の波及はその直後のことである。昭和恐慌は、金本位復帰のための引き締め政策と、海外の恐慌という二重の原因によってもたらされたのであった。(219ページ)

・井上の悲劇は、…古典的な経済理論が現実から乖離しようとしているのにも関わらず、教科書通りの経済政策を強行しようとした点にあった。…井上の政策が破綻した何よりの原因は、全世界的な金本位制度が行き詰まりに直面している事実を正しく認識しなかったことである。…これに対して、高橋是清は、金本位制の意味をそれほど重くみていなかった。むしろ高橋にとっては産業の発展の重要性あるいは国民の所得水準の維持、向上という目標が強く意識され、金融や財政はそのために協力するべきだという強い考えを持っていた。…高橋は、ケインズの投資乗数理論を思わせるような波及効果をある程度実践したといってもいい。(201~205ページ)

 こうして、健全財政の守り神とされていた蔵相高橋是清は、軍事予算を削減するなどして軍部から反感と恨みを買い、結局、2・26事件で暗殺されるわけです。 

 嗚呼、何か、小難しいことばかり書いてしまいました。これでまた読者も離れてしまうなあ…(苦笑)。

佐倉城址を訪ねて

 日本城郭協会が千葉県で唯一「日本の100名城」に選定している下総の佐倉城に行ってきました。

 東京の日暮里駅から京成線の特急で50分で佐倉駅に着きます。特急料金がなく乗車券だけで660円。大抵、終点・成田空港駅行ですから、大きなボストンバックを横に抱えた外国人観光客を見かけました。私は、いつも成田空港に行くときは、京成スカイライナーに乗っていたのですが、この特急なら少し時間が掛かっても、安く行けたんですね。

 さて、佐倉城址ですが、京成佐倉駅から歩いて18分ぐらいの距離でした。平城ですから、ほとんど高低差が少なく、楽に行けて、初心者向きでした。

 今は、このように佐倉城址公園になっています。

  石垣はなく、土塁ですし、空堀が多いので、 何も知らない、あまりお城に興味がない人が来て、看板も見なければ、単なる公園と思ってしまうかもしれません。

 でも、公園内にはこうして、城址の史跡の看板を掲げてくれて、観光客にとても分かりやすく説明してくれます。

 上の写真の看板では、明治の廃仏毀釈で、寺院が消滅したことが書かれています。

 佐倉市のホームページには、「明治維新後、城址には陸軍歩兵第二連隊(後に第五十七連隊=通称・佐倉連隊)が置かれたために櫓や門などはそのほとんどが取り壊され、昭和20年の終戦まで軍隊が置かれていました。」と書かれています。

 明治時代に写された城の天守や櫓などの古い写真が残されていますが、今は影も形も全くありません。米軍による空襲でなくなったのかと思っていたら、どうやら、この説明によると、明治人自らの手によって破壊されていたんですね。

 確かに、城なんぞは、富国強兵を推進する明治政府にとっては、前近代的な過去の遺物かもしれませんが、それにしても、それにしても。。。。です。

おや?幕末に日本を開国に導いた老中堀田正睦(ほった・まさよし)ではありませんか。

実は、ここ佐倉藩の藩主だったんですね。佐倉藩は、徳川家とつながりが深い親藩でした。

 老中堀田正睦の日米通商条約の交渉相手、タウンゼント・ハリス米国総領事(初代駐日公使)の像も、堀田公の横に建っておりました。

三の門跡。。。

二の門跡、だんだん本丸に近づいて来ました。

と思ったら、二の丸御殿跡。ここに藩主がお住まいになっていたそうです。

遠慮して、本丸は、将軍がおなりになった時に泊まるからだそうです。

栗原先生の地元、日光にお参りする途中の宇都宮城も、藩主は二の丸御殿に住み、本丸は、将軍様用にあけていたので、親藩はそういうケースが多かったのでしょう。

一の門跡に来ました。

三の門、二の門、一の門と、それぞれ写真のように、立派な門があったのに、今はない、ということは、取り壊されてしまったんですね。嗚呼。。。

今では広い公園になった草原を横切って、ようやく、本丸跡に辿りつきました。感無量です。小雨のせいか、ほとんど人がいませんでした。

随分新しい「史跡看板」だなあ、と思ったら、2年前の「平成29年建立」と、裏に書かれていました。

大抵の城址には、戦国武将やお城の来歴が書かれていますが、佐倉市にはそのような看板がなく、城建物の物理的な説明だけでした。

 そこで、また佐倉市のホームページを引用します。(少し表記を改めています)

佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532~1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしま・もとたね)が鹿島台に築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611年)から元和2年(1616年)までの間に築造された平山城です。

 土井利勝公は、このあと茨城県の古河に移封され、初代古河藩主になりました。実は、先だって、古河城址訪れた際に、土井利勝公のことを知ったので、今回、どうしても佐倉城址を見たかったのでした。

北に印旛沼、西と南に鹿島川と高崎川が流れる低地に西向きに突き出した標高30メートル前後の台地先端に位置します。佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配して、城下町としました。

 以後、江戸の東を守る要として、有力譜代大名が城主となり、歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就きました。なかでも、幕末期の藩主・堀田正睦は、日本を開国に導いた開明的な老中として有名です。

 なるほど、そういうことでしたね。

佐倉丼 1230円

お腹が空いたので、この城址公園の隣接地に昭和58年に開館した国立歴史民俗博物館にあるレストランでランチを取ることにしました。

 佐倉名物ということで、佐倉丼なるものを食しました。観光客だからいいでしょう?(笑)。

 この国立歴史民俗博物館は、初めて訪れました。

古代の第1展示室から、現代の第6展示室まであり、広い、広い。見応え十分でした。入場料600円は安いですね。

パンフレットには「ゆっくりひとまわりで1時間半~2時間」と書かれていましたが、まさか、まさか、説明文を読みながら、ゆっくり回ると3時間~4時間はかかる量でしたよ。

 外は大雨で、良い雨宿りになりましたが、私は2時間半かかり、疲れてぐったりしてしまいました。

 恐らく、全国で一番、展示量が多い歴史博物館でしょう。考えてみれば「国立博物館」でしたね。でも、「複製」がちょっと多い感じでした。とはいえ、素人には区別がつきませんから、百科事典を読んでいる感じで、大変な歴史の勉強になります。

 機会があれば、是非訪れることをお薦め致します。

中江丑吉著「中国古代政治思想」は難解でした

 「日本も近く大戦争を惹起し、そして結局は満州はおろか、台湾、朝鮮までもモギ取られる日が必ずくる。日本は有史以来の艱難の底に沈むだろう。こっちはそのときこそ筆をもって国に報いるつもりだ。だが、ドイツも日本もけっして全く無だというのではない。ともに『アンティ・テーゼ』であり『ニヒト・ザイン』としての役割を持っているんだ。だから、戦後の新しい秩序も従来のデモクラシイそのままではありえない。必ず アウフヘーベン(止揚)された新しいデモクラシイが現れるはずだ。……」

  これは昭和16年(1941年)8月15日、中江丑吉が、弟子筋に当たる当時第一高等学校の学生だった阪谷芳直(1920~2001 、日銀、アジア開銀等に勤務する傍ら、中江丑吉の評伝を刊行)に対して、北京滞在最後の日に語ったとされる箴言です。その年の12月8日が、真珠湾攻撃の日ですから、まだ太平洋戦争は始まっていません。(1937年から泥沼の日中戦争は始まってますが) ということは、まさに、予言が当たってしまったわけです。

 今ではすっかり忘れられた中江丑吉(なかえ・うしきち、1889~1942)は市井の中国古代学研究家です。戦時中に北京に30年間も滞在して、中国の古典を始め、カント、ヘーゲル、マルクスなどの哲学を原書ドイツ語で精読し、世界史的視野で、日中戦争の帰趨などを論考した人でした。

 中江丑吉は、ルソーの翻訳などで知られる明治の思想家中江兆民の長男として生まれました。1913年に東京帝大法科大学政治学科を卒業後の翌年、袁世凱の憲法制定顧問となった法学者有賀長雄 (1860~1921)の助手として北京へ渡ります。1919年の五・四運動の動乱の最中、 面識のある中国高官の曹汝霖、章宗祥 (日本滞在時に中江兆民に世話になった)を救ったことから、逆に彼らの支援を受けて北京に30年も滞在し、独学で中国古代学研究に打ち込みます。

1941年、肺結核のため帰国し、福岡の九州帝国大学病院で翌42年 8 月死去。享年52。

「中国古代政治思想」(岩波書店)

  中江丑吉は、死を前にして「あれこれ万感交錯せるも結局何にもならず。無名より無名に没入する外なし」といったメモを残します。没後の1950年になって、やっと論考は「中国古代政治思想」(岩波書店)としてまとめられ、出版されます。

 となると、この 中江丑吉の遺作「中国古代政治思想」 を読まなければなりませんね。

 読んでみました。しかし、。。。。浅学菲才な身としては難解過ぎて、理解できませんでした。情けないですが、降参です。自らの恥を晒しますが、読解力に足るに十分な教養を持ち合わせていませんでした。人工知能(AI)の大家・新井紀子先生に怒られますね。

  自分の菲才を棚に上げて言及するのも猛々しいのですが、明治生まれの教養人の学識の深さに圧倒されました。逆に、こういう人だからこそ、未来を予知できたのでしょう。こういう日本人は将来も現れるのでしょうか?

 「我も」と思う方は、是非ともこの本を読んでみてください。

「創価学会 秘史」を読んで

 大分にお住まいの野依先生の強いお薦めで、高橋篤史著「創価学会 秘史」(講談社、2018年2月27日初版)を読了しました。秘史ですからね、凄い本で、著者はかなり詳細に取材、情報収集、分析されており、知らないことばかりで読み応えがありました。

 著者の高橋氏は、現在の創価学会でさえ、そして信者に対してでさえ公開していない教団の資料である創刊当時の「聖教新聞」と「大白蓮華」の縮刷版を何と、かつて創価学会が「邪宗」と断定し、徹底的な攻撃を仕掛けた宗教団体、立正佼成会の附属図書館から発見し(12ページ)、長い間秘蔵されていた学会の戦前の活動が詳細に分かる1930年代半ばに出された最初の機関紙「新教」(後に「教育改造」と改題)と太平洋戦争突入前後に刊行された「価値創造」のコピーなどを独自のルートで辛うじて入手して、この本を書き上げたといいます。

 と、ここまで書いたところで、この本を薦めてくださった野依先生から電話があり、「面白かったですね」と感想を述べたところ、野依先生は「あまりブログに書かない方がいいですよ」と忠告されてしまいました。

 残念ですね(苦笑)。ご興味のある方はお読みください。でも、これで書き終わってしまうと、ブーイングが聞こえてきそうなので、ちょとメモ書きしておきます。

 ・創価学会の前身である「創価教育学会」を創設し、初代会長となった牧口常三郎(幼名・渡辺長七)は、明治4年(1871年)、現在の新潟県柏崎市生まれで、北海道師範学校附属小の訓導や東京・白金小校長などを歴任した。昭和5年(1930年)11月18日、「創価教育学体系」を上梓。1944年7月、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕され、同年11月18日、巣鴨拘置所で獄死。

・二代目会長の戸田城聖は明治33年(1900年)、現在の石川県加賀市生まれで牧口とは29歳違い、親子ほど年が離れていた。本業は、受験補修塾・時習学館(東京府大崎町、現東京都品川区)や出版社、金融業などを営む実業家だった。

・昭和8年(1933年)、長野県で「赤化」した小学校教員(世界恐慌の影響で就職難から京都帝大卒もいた)が大量に検挙される「二・四事件」が発生。創価教育会は、出獄後の転向した彼らの受け入れ先となった。思想犯を取り締まる内務省警保局が協力したフシがあった。しかし、その後、ほとんどが脱会。内務省もその後一転して、学会を弾圧することになる。(50ページ~)

・創価教育の思想は満洲にも及んだ。その拠点支部が国士舘が母体となる満洲鏡泊学園だった(学園はその後、武装勢力による急襲で悲劇的な末路を辿る)。国士舘は、福岡県出身で早稲田大学専門部在学中だった柴田徳次郎が大正2年(1913年)に結成した社会教化団体、大民団が母体となり、同郷の玄洋社の頭目、頭山満を顧問に迎えて17年に私塾国士舘を創立、その後、渋沢栄一らの支援も得て、専門学校として認可された。(131ページ~)

・人気作家だった直木三十五は1932年1月8日の読売新聞紙上で、突然、「ファシズム宣言」なる文章を発表。「左翼に対し、ここに闘争を開始する。…12月31日までは、ファシストだ。矢でも、金でも、持って来い」(145ページ)

・1952年4月27日、狸祭り事件が起きる。(248ページ~)

深谷城~渋沢栄一記念館への旅

 先ごろ、鹿島茂著「渋沢栄一」全2巻の大作を読んだ影響で、渋沢栄一の生まれ故郷を見たくなり、一躍「1万円札採用」で再度ブームになっている埼玉県深谷市にまで足を延ばしに行って来ました。

 この日、JR東海道線で人身事故があり、高崎線にも影響があり、当初の予定よりも深谷駅に着くのが遅れました。午前11時過ぎでした。

 観光案内所で聞いたところ、「渋沢栄一記念館」へのバスは、10時55分に行ってしまったばかりで、次のバスは2時間後の12時50分だというのです。「えー、2時間に1本しか出ていないんですか?」と聞いたところ、「(運転手が)お昼休みなんで、すみません」と謝られてしまいました。

 「いえいえ、謝られてもあなたのせいではありませんから…」と、こちらが却って恐縮してしまいました。

 あと2時間もあるので、駅近くにある深谷城址に先に行くことにしました。

 その前に駅周辺を散策。深谷駅の駅舎は、このように東京駅舎のように立派なレンガ造りです。東京駅と同じ辰野金吾博士の設計なのでしょうか。いや、違いました。今は簡単に調べられます。JR東日本建築設計事務所が東京駅をモチーフにして設計し、1996年7月に完成された、とありました。

 渋沢栄一は、日本初のレンガ工場をつくった人ですから、レンガ造りは、それにちなんだことでしょう。

 上写真にバス2台止まってますが、後方の小さいマイクロバスが、渋沢栄一記念館にまで行く「くるりん」ちゃんです。12人乗りです。深谷駅から記念館まで約30分。途中のバス停留所は市役所やスーパーやコンビニなどで、まさに市民の足になってます。

一日乗車券が200円。一日何回でも乗れるそうですが、私は往復の2回で十分でした(笑)。

 深谷駅北口前にある渋沢栄一像です。銅像は他に市内に何箇所もあります。

 まさに郷土が生んだ偉人です。

 駅から歩いて約10数分。城跡らしき風格が見えてきました。

 深谷城址公園です。

 深谷城は中世の平城ですから、このような石垣と塀だったわけではありません。

 深谷城は、戦国時代の深谷上杉氏の居城でした。

 深谷上杉氏は、関東管領の山内上杉憲顕が14世紀後半に六男憲英をこの地に派遣したことに始まり、約230年間、深谷を拠点とした氏族です。当初、初代憲英から四代憲信までは国済寺に庁鼻和(こばなわ)城 を構えておりましたが、五代房憲が深谷城を築き、その後九代氏憲までここを居城としました。

 今はこうして公園になっていて、市民の憩いの場になってます。

 深谷城の本丸は、今は深谷小学校の敷地内にあります。

 物騒な世の中になってしまい、昔なら簡単に部外者でも小学校の敷地に入れましたが、今は門扉が閉まり、不可能です。

 諦めかけたら、敷地の垣根の隙間から、本丸跡の石碑が見えました。少し望遠にして写真に収めることができました。

 ちなみに深谷城は、中世の城ですから渋沢栄一の時代は既に廃城となっており、江戸時代は岡部藩です。でも、この岡部城も維新後、廃城となり、今は跡形もないようです。しかも、天守はなく、陣屋だったようなので、今回はパスしました。

 バス発車時刻までまだ時間があるので、駅近くの老舗蕎麦「立花」で、きのこせいろ(700円)を食しました。美味い。名物深谷ネギもしっかり入ってました。女将さんがとても感じがよく、「またいらしてくださいね」と言われ、その気になってしまいました。

「くるりん」ちゃんに乗って、駅から30分。ついに渋沢栄一記念館に到着しました。建物はかなり立派です。

 有難いことに入場無料でした。(館内は撮影禁止でした)

 展示品に関しては、正直、東京・王子飛鳥山にある「渋沢史料館」の方が豊富で、充実していた感じでした。

 でも、この中で、渋沢栄一自身が書いた「孝経」( 中国の経書の一つ。曽子の門人が孔子の言動を記す )の写しが見事な達筆で、「字は体を表わす」と言いますか、渋沢栄一の律儀な性格がものの見事に表れている感じでした。

 また、渋沢栄一が幕末に、徳川昭武の渡仏団の一員としてフランスに滞在した際、その世話係が銀行家のブリュリ・エラールで、渋沢は彼の「サン・シモン主義」に大変影響受けたことが例の鹿島氏の著書に何度も出てきましたが、本には顔写真がありませんでした。

 この記念館では、ブリュリ・エラールの肖像写真が展示されていて初めて拝見することができました。銀行員だというので、もう少しヤワな感じかと思っていたら、髭もじゃで、かなり精悍な顔つきでした。

 記念館から渋沢栄一生誕の地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かいました。

 清水川沿いは青淵公園になっており、上の写真のように「渋沢栄一の言葉」が立てかけられています。

 着きました。本当は、青淵公園から回ると「裏口」に到着したのですが、表玄関にまで回ってきました。平成29年には天皇皇后両陛下(当時)がこの地を訪れ、邸内では写真パネルが飾られてました。

 農家とはとても思えない。武士のような立派な門構えです。

 門をくぐると、このように、渋沢栄一像が出迎えてくれます。

  敷地は1000坪と広大です。蔵が四つもありました。ここに来て、渋沢家は豪農だったことを肌身で感じました。

 「中の家」を正面から見たところです。明治に再建された家ですが、江戸時代はこの2階で養蚕と藍玉づくりが行われていたそうです。

 いずれにせよ、大変失礼ながら、こんな辺鄙な不便なところから、「日本の資本主義の父」となる偉人を輩出したとは信じられませんでした。

 また、失礼ながら、今でも買い物にも不自由なところです。若き渋沢栄一の学問の師であった従兄の尾高惇忠(後に官営富岡製糸場の初代工場長)の家までここから歩くと30分ぐらい掛かります。

 昔の人は本当に偉かった。

渋沢栄一と土方歳三と彰義隊と日経と一橋大学と…

 鹿島茂著「渋沢栄一Ⅱ 論語篇」をやっと読了しました。Ⅰの「算盤篇」と合わせて、原稿用紙1700枚。長い。2巻通読するのに9日間かかりました。

 17年間にわたって雑誌に長期連載されたものを単行本にまとめたものらしいので、内容や引用に重複する部分が結構あり、もう少し短くできたのではないかと思いましたが、それだけ、渋沢栄一という人間が超人で巨人だった表れではないかとも思いました。

「Ⅱ 論語篇」は、明治になって渋沢が500以上の会社を設立したり、協力したりする奮闘記です。同時に、日清・日露戦争、第1次世界大戦という激動期でしたから、欧米との軋轢を解消するために、財界を中心に親善視察団を派遣したり、国内では教育施設の創立に尽力したりして、渋沢を通して、日本の近現代史が語られています。

 現在の米中貿易戦争にしろ、日米貿易摩擦にしろ、覇権争いという意味で世界は、渋沢の時代とほとんど変わっていないことが分かります。

 渋沢栄一(1840~1931、享年91)は、江戸時代の天保生まれで、幕末、明治、大正、昭和と生き抜きましたから、同時代の証言者にもなっています。幕末に一橋慶喜に仕えたため、京都では新撰組の近藤勇や土方歳三らと実際に会っていて、彼らの人物像を四男秀雄にも語っている辺りは非常に面白かったです。(渋沢が、薩摩に内通した幕府御書院番士大沢源次郎を捕縛した際、土方から「とかく理論の立つ人は勇気がなく、勇気がある人は理論を無視しがちだか、君は若いのに両方いける」と褒められた逸話を語っています)

 渋沢栄一が徳川昭武の随行団の一員としてパリに滞在中、一緒に慶喜に仕官した栄一の従兄である渋沢喜作は日本に残りますが、新参としては異例の出世を遂げて、慶喜の奥祐筆に抜擢されます。鳥羽伏見の戦いでは、軍目付役として出陣し、慶喜が江戸に逃げ帰ってからは、江戸で再起を誓い、彰義隊を結成するのです。最後まで上野で官軍に抵抗した彰義隊をつくったのが、渋沢栄一の従兄だったとは!しかし、喜作は内部分裂の結果、彰義隊を飛び出して、新たに振武軍を結成します。それが、官軍に知られて追撃され、武州田無の本拠地から飯能に逃れ、結局、喜作は、榎本武揚らとともに箱館にまで転戦するのです。箱館は土方歳三が戦死した地でしたが、喜作は生還し、明治には実業家になりますが、山っ気のある人で、投機に失敗して、栄一がかなり尻拭いしたらしいですね。

 著者は「牛乳・リボンから帝国劇場・東京會舘に至るまで」と書いてますが、渋沢栄一は生涯に500以上の会社を立ち上げています。意外と知られていないのがマスコミで、今の日本経済新聞(中外物価新報)も毎日新聞(東京日日新聞)もNHK(日本放送協会)も、共同通信・時事通信(国際通信)も、渋沢が設立したり、協力したり、資本参加したりしているのです。

 教育面では、今の一橋大学(東京商法講習所)、二松学舎大学、国学院大学(皇典講究所)、東京女学館大学、日本女子大学、東京経済大学(大倉商業学校)などの設立に関わっています。

 同書では多くの参考文献が登場してましたが、この中で、最後の将軍徳川慶喜が晩年になってやっと回顧談に応じた歴史的資料でもある「昔夢会筆記」(平凡社の東洋文庫)や、渋沢栄一の多くの愛人関係を暴いて「萬朝報」に連載されていたものをまとめた「弊風一斑 畜妾の実例」(社会思想社の現代教養文庫)辺りは読んでみたいと思いました。

 

警察予備隊一期生と日米貿易摩擦と津田左右吉

 昨日は、東京・早稲田大学で開催された第27回諜報研究会の講演会に参加してきました。例によって、今回も盛りだくさんの内容で、大変勉強になりましたが、ある理由で、その内容について詳細に触れることは避けることにします。

 私が近現代史について本格的に勉強し始めたのは、帯広から東京に戻った13年前の2006年からですが、最初のきっかけは、ゾルゲ事件を中心に研究している日露歴史研究センターの勉強会に参加してからでした。勉強会で聞いたり、同会が主催する講演会などについて、既に公開されたことであり、ネット検索すれば出てくる話なので、その都度、ブログに書いておりましたが、この勉強会に誘ってくれた方から、「君が勝手にブログに書くのは迷惑だ。怪文書だ。いくら削除したとしてもマダガスカル辺りのサーバーに保存されているから復活できる」と大胆に批判されたため、その勉強会を辞めざるを得なくなりました。

 彼の怨念が祟ったのか、私は病を得て、諸般の事情で、それらの記事は消滅してしまったので、彼の喜ぶ姿が目に浮かびます。でも、記事がマダガスカルのサーバーにあると主張するなら、そこから復活してもらいたいものです。いや、そんな些末なことはどうでもいいのです(苦笑)。

 ゾルゲ事件でした。ゾルゲや尾崎秀実らが逮捕され、その後処刑された理由は、「治安維持法」「国防保安法」「軍機保護法」などに違反したからでした。戦前の法律でしたが、昨日の諜報研究会の発表内容について、もし、私がこのブログで詳細に書けば、間違いなく、それらの法律に違反すると確信したのでした。書くと逮捕されるから怖い、というわけではなく、何となく利敵行為になるのではないかと嫌な気分になってしまったのです。

 話は飛びますが、今、霞が関官僚様らの人事異動や叙位叙勲などの人事情報を全国の新聞社などに配信する仕事をしております。霞が関官僚となると、当然、防衛省も入ります。その際、北部方面だの、東部方面だの全国の部署の所在地の住所を確認しなければなりません。今はネット社会ですから、それはネットでも検索できます。意外にも防衛省は、ネットでかなり情報公開していて、驚くべきことに、武器弾薬貯蔵所の在り処というか、その住所までご丁寧に公開しているのです。敵が見たら欣喜雀躍です。

 これらは、戦前だったら、間違いなく軍機保護法違反でしょう。戦前に、北大生だった宮沢弘幸さんとレーン夫妻が軍機保護法違反で逮捕されましたが、宮沢さんは、誰でも読める新聞に書いてあったことで、ほとんどの人が既成事実として熟知していたことを英語教師のレーン先生に雑談で話しただけのことでしたから、機密でも何でもないことです。それでも有罪となり収監されました。(宮沢さんは、拷問と収監がたたって戦後間もなく死去)

◇警察予備隊第一期生

 諜報研究会に戻ります。最初の講演者は、朝鮮戦争の最中に、日本の再軍備化のためにGHQの命令で創設された警察予備隊(後の自衛隊)の第一期生だった佐藤守男氏でした。今年87歳です。主に、第一線でソ連・ロシアの情報収集・翻訳・分析に従事していた方でしたが、最初に書いた通り、内容については触れません。ご興味のある方は、佐藤氏は、退官後、北大で博士号まで取得し、「情報戦争の教訓」(芙蓉書房出版)などを出版されているのでそれをお読みください。

 佐藤氏の講演中、その本が回覧されて来ました。私が、後方の次の人に回そうとしたら、その白髪の老人は、急に怒り出して、「他の奴に回せ」と言わんばかりに、傲慢にも人さし指で他の人を指すので、仕方なく、右後方の人に回しましたが、その間、どういうわけか、暴走老人はずっと私を睨みつけてくるのです。頭がおかしい裕福で暇な似非インテリかもしれませんが、その暴走老人は講演会が終わった後の懇親会にも出るようだったので、私は懇親会はパスすることにしました。いずれにせよ、もうこの会に出たくなくなるほど非常に不愉快でした。

 続く講演者は、元NEC技術部長の杉山尚志氏による「日米半導体摩擦と超LSI共同研究所物語」でした。日本は1980年代まで半導体分野で世界のトップでしたが、90年代に日米貿易摩擦となり、米国によるスーパー301条(関税25%)発令と外国製半導体輸入を20%にしろという米国からの要求に応え(結局35%)、それゆえ没落して今は見る影もなくなったことを明らかにしておりました。「日本は安全保障を米国に依存しているため、米国の命令を受け入れざるを得なかった。これに対して、今の米中貿易戦争は、中国が独自の安保体制を持っているから、一方的な摩擦ではなく、貿易戦争にまで発展した」という同氏の分析には納得しました。

 最後は早大准教授の塩野加織氏による「本文生成プロセスから見た占領期検閲ー岩波新書の検閲事例を中心に」でした。タイトルがあまりにも大学の紀要論文風で、一般人には分かりにくいですが(失礼)、一番面白かったでした。

 塩野氏は、GHQ占領下の1945年9月から49年10月までの検閲制度の対象、組織、方法、処分などを詳細に取り上げ、GHQのG2(参謀第2部)傘下の情報を収集分析して直接検閲を担当するCIS(民間諜報局)だけでなく、日本人に民主主義を浸透させる目的で宣撫、洗脳するCIE(民間情報教育局)などとも連携していたことを明らかにしておりました。なるほどなあ、と思いました。

◇津田左右吉は転向したのか?

 また、岩波新書の津田左右吉著「支那思想と日本」(1938年初版)が1948年2月に再版された際、著者の津田博士は、GHQが指摘した検閲箇所以外にも、自ら率先して数カ所、削除したり書き換えたりしている過程を明らかにしておりました。論旨が180度転換しているのです。転向といっても言いかもしれません。

 1938年といえば、その前年に支那事変(日中戦争)が勃発したという時局で、「暴支膺懲」のスローガンが大日本帝国臣民に行き渡っておりました。その時代を知らない戦後世代が批判するのも烏滸がましいですが、「支那思想と日本」の初版は、あまりにも日本の思想の優位性を強調して、日本こそが東洋思想の代表で、中国が劣ることを訴える表現には驚きました。 津田左右吉は、古事記・日本書紀などが専門の大学者で、戦前は記紀を批判的に解釈したため、蓑田胸喜ら極右思想家に弾劾された経歴があるので、もっと違うイメージを持っていました。何しろ、津田博士は戦後、文化勲章まで受章していますからね。

それが、1948年の再版では、GHQによる検閲と脅迫めいた言動による影響なのか、すっかり中国批判が消えるように書き換えていたのです。

 占領期の検閲については、もっと勉強したいと思いました。