戦前のIBMの謎と阿保信子さんに関する情報募集

5月26日に参加した諜報研究会。第1部は、北の丸公園周辺の防諜研究所跡や近衛歩兵連隊などの跡地などを巡る「見学ツアー」でしたが、第2部は講演会でした。

講演の一つ、「戦前・戦中のIBMをめぐる日米のインテリジェンス攻防戦」は、NPO法人インテリジェンス研究所の山本武利理事長によるもので、大変興味深いお話を聴くことができました。

1911年に米ニューヨーク州で創業されたIBMは、コンピューターの世界嚆矢といいますか、ナンバーワンといいますか、知らない人は誰もいないくらい有名です。

しかし、もともとはどういう会社で、諜報機関と関係があったのか、なかったのか、謎めいたところがいっぱいあります。まず、ネットで検索しても出てこない話です。ネット上には、ほとんど会社による「公式見解」しか書かれていないからです。何しろ、2002年には、あの悪名高い世界4大会計事務所の一つプライスウォーターハウスクーパース(PwC)のコンサルティング部門を買収したぐらいですから、ますます謎めいています。

今やIBMは世界170カ国以上に拠点がありますが、山本理事長によると、IBMが日本に進出したのは昭和12年(1937年)のことです。何と、支那事変(日中戦争)が始まった年ではありませんか。IBMという社名ではなく、IBM全額出資の「日本ワットソン統計会社」として、本社を横浜市山下町に登記されます。何か、怪しい…

しかも、日本支社代表取締役(1937~40)は米国人ではなく、ベルギー人のGuy de  la Chevalerie シュバルリー。この人、その後、1944年にニューヨーク駐在のベルギー領事も務めたといいます。山本理事長の話では、この人、あまり顔かたちが分からない遠目の写真はありますが、社長なのにアップの写真はないそうです。これまた怪しい…。

「日本アイ・ビー・エム50年史」では、シュバルリーは、欧州IBM支社から派遣され、初来日で、日本語が不自由だったと書かれているのに、山本理事長がワシントンで発掘したOSS(CIAの前身)資料によると、彼は、1931~35年、東京駐在ベルギー大使の秘書で、満洲、モンゴルを訪問したことがあり、フランス語と英語と日本語を話す、とまで書かれているのです。

山本理事長は、一橋大と早稲田大学の名誉教授という学者ですから、「彼が日本滞在中に米国の情報機関と接触したかどうか分からず、恐らくスパイではなかっただろう」と学術的に冷静に分析しておりますが、IBM、つまり日本ワットソン統計会社の顧客には中島飛行機や立川飛行機、三菱重工業などの軍需産業もいたことから、機密情報を把握していたことは確かでした。恐らく、彼はニューヨーク滞在中、米情報機関からの要請で、情報を伝えたのではないかと推測しておりました。

最後に山本理事長は「諜報員といえば、ゾルゲのようにジャーナリストに身を隠して活動を行う者が多いと思われがちですが、技術者や産業分野の方で多く活動していたのではないか」と推測していました。

確かに、スパイですから、余程のことがない限り、身元は最後まで分かりませんからね。大変興味深い話でした。

講演が終わって、普段でしたら、顔を合わせたくない人もいたりして、あまり積極的に参加することはないのですが、今回は特別な理由があって、懇親会にも参加しました。

話は今年1月に遡ります。この《渓流斎日乗》を読んだある読者の方から私にメールがあったのです。東北地方にお住まいのMさんという方です。

…2017年10月1日の「関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関」を拝読いたしました。
私の叔母は軍属として、ハルビン特務機関情報部教育隊に所属していたようです。ハルビン特務機関長は、土居明夫特務機関長(秋草特務機関長の前任)でした。叔母は、21歳でハルビンで殉職したのだと思っています。(勲八等瑞宝章の叙勲となっていたので殉職と思いました。)死亡年月日は、昭和19年9月20日、身分は陸軍軍属(雇員)です。
叔母の名前は、阿保 信子(あぼ・のぶこ)で、私はその甥に当たります。父は満鉄に勤めていて、終戦で中国での強制労働後、復員してます。叔母は、私の父の影響で満洲にいき、ハルビン特務機関に採用されています。

ハルビンでの葬儀には、陸軍大臣、教育総監、参謀総長、関東軍司令官、ハルビン特務機関長の立札があります。(当時の葬儀写真あります。)
推測では、教育総監の立札から、情報部教育隊(471部隊)に所属し、日ソ開戦にそなえての諜報活動、宣撫活動において、殉職したのではと思っています。(通知された、死亡状況は戦病死、死亡場所はハルビン第1陸軍病院と記載)

当時の状況を詳しく知りたいと思って、あらゆる方面に問い合わせいたしましたが不明とのことでした。なにかヒントになることは、ありませんでしょうか。
よろしくお願いいたします。…

私のブログは玉石混交(笑)で、色んな話題を追っていますが、よくこのような超真面目なお問い合わせが寄せられるのです。

この件については、私の力ではなどうしようもないので、私の知る限りの専門家に問い合わせてみることにしました。

まず、諜報関係から731石井細菌部隊に至るまで尋常ではないくらい精通されている比較政治学・現代史が専門の加藤哲郎一橋大学名誉教授に聞いてみましたが、手掛かりがなかったようでした。

ハルビンといえば、哈爾濱学院ですから、哈爾濱学院同窓会の事務局長を務めている宮さんに問い合わせてみたところ、「471部隊、ハルビン特務機関でも検索して調べましたが、どれも阿保信子さんという該当者はいませんでした。正規の学院生には女性はいません。特修科、専攻科に女性がいたのか不明です。」などといった丁寧な回答を寄せて頂きました。

1月下旬。最後に残った専門家が、NPO法人インテリジェンス研究所の山本武利理事長です。山本先生は非常に真摯な方で、丁寧に答えてくださいました。

 「私の持っている関東軍情報部の名簿は昭和20年6月頃のものです。Mさまの叔母さまは昭和19年に亡くられていますので、残念ながら名簿では見出せませんでした。471部隊は重要な機関で、私の本にも頻出しますが、実態はよくつかめません。叔母さまの情報を教えていただければ、私も助かりますし、叔母さまの今後の探求の手がかりになります。よろしくMさまにお伝えください」と直ぐお返事がありました。

 そこで、Mさんも交えて小生と山本先生と3人でお会いしようということになり、機会を作ったのですが、2回ほど流れてしまい、やっと今回の講演会の後の懇親会でお会いすることになったのでした。

 ところが当日。Mさんが見つからず、受付の人に「Mさんという人は来てましたか?」と聞いたところ、「懇親会は欠席してお帰りになったようです」というので、仕方ないので、山本先生にご挨拶して帰宅しようとしたら、当のMさんが山本先生の傍にいるではありませんか。拍子抜けしてしまいました。

 Mさんは、大変几帳面な方で、御自分の足で厚労省や公文書館などに行って名簿を取り寄せたり、先日公開されたばかりの731石井細菌部隊の名簿の閲覧を希望して今長い順番を待っているところです、などいった話をされてました。

持参された写真も見せてもらいましたが、確かにハルビンで行われた叔母さまの葬儀では、陸軍大臣や教育総監らからの花輪も掲示され、単なる21歳の女性軍属ではなく、何か特務機関で重要な使命を帯びた方だったようにも見受けられました。

この拙文を読まれた方で、阿保信子さんについて何か少しでも御存知の方がいらっしゃったら、コメントして頂ければ幸甚です。

諜報研究会の見学ツアー 「九段下〜北の丸公園」

江戸城 清水門

5月26日(土)は、NPO法人インテリジェンス研究所が主催する見学ツアーに参加してきました。

前回、高田馬場の戸山公園近辺にある石井731細菌部隊関連の史跡を辿ったツアーでしたが、今回は、九段下の北の丸公園近辺にある近衛歩兵連隊など昭和史だけでなく、江戸、明治時代関連の史跡も沢山見ることができました。

軍人会館

午前10時50分、麹町警察署九段下交番前集合。老若男女、30人ぐらいが参加しました。

まずは、すぐ隣の九段会館へ。1934年2月に、軍人会館として建立されました。総工費272万円だったとか。

昭和11年の「2.26事件」の際に、戒厳令司令部(中将香椎浩平・司令官)にもなりました。

2011年の東日本大震災で天井壁が落下して、お亡くなりになった方もいらして、今も耐震改修中です。

防諜研究所跡

極秘のスパイを養成する陸軍中野学校は、軍人会館近くの愛国婦人会本部裏に「防諜研究所」として設立されました。(勿論、防諜研究所跡の碑はなし)

清水門と牛ヶ淵

目の前は江戸城の内堀の牛ヶ淵。隣は、九段精華高等女学校(空襲で消滅。戦後もGHQの許可下りず、復校ならず)。

「愛国婦人会」と「九段精華学校」の碑はありました。

大隈重信候 雉子橋邸跡

防諜研究所跡前の道路を隔てたところにある大隈重信の屋敷跡。

ここに住んでいた頃は、大蔵卿だったようです。(後で関連話が出てきます)

憲兵司令部・東京憲兵隊跡

大隈重信の屋敷跡の北隣は、現在、合同庁舎になってますが、かつて、泣く子も黙る憲兵さんの司令部があったところでした。現在は、合同庁舎に東京地検と関東公安調査局が入居していたので、思わず苦笑してしまいました。

日本は誠に伝統を重んじる国です。《渓流斎日乗》も検閲しているのかしら?

憲兵司令部は、昭和10年に大手門前からこの地に移転してきましたが、ここは、元は、フランス大使館の敷地跡だったとか。

吉田茂像

憲兵司令部跡から、清水門(これは必見!国の重要文化財)を通過、というか、坂道階段を登って、北の丸公園へ。

何故かしら、最近、公明党さえ責任問題を追及し始めた麻生財務相の母方祖父の吉田茂の銅像へ。

吉田茂は戦中、東条首相に歯向かったことから、戦後は英雄扱いでしたが、実はそうでもなかったという大宅壮一の文章を引用して、主催者は説明してくれました。

近衛歩兵第二連隊跡

近衛歩兵第一連隊跡

近衛兵は、勿論、天皇陛下を御守りする最後の砦のような兵ですから、宮城(皇居)から目と鼻の先のこの北の丸に設置され、全国から最も優秀な人材が選ばれました。

明治に設置され、先の敗戦で消滅しましたが、この近くに近衛砲兵大隊もありました。明治11年(1878年)に竹橋事件が起きた所です。

昭和時代の「5・15事件」や「2・26事件」など青年将校らによる反乱はよく知られておりますが、竹橋事件についてはあまり知られてないので、少しブリタニカ大百科事典を引用させて頂きます。

【竹橋事件】明治初年の陸軍兵士の反乱事件。 1878年8月 23日竹橋 (現東京都千代田区北の丸公園) 在営の近衛砲兵隊二百数十人が,西南戦争恩賞遅延を理由に決起し,隊長,士官を殺害。大蔵卿大隈重信邸を襲撃し,仮皇居 (現在の迎賓館赤坂離宮) 門前で天皇に直訴しようとしたが,同日東京鎮台兵の手で鎮圧された。陸軍裁判所は,同年 10月 15日に死刑 53人,準流刑 118人,その他の刑を宣告。死刑はただちに執行された。この事件をきっかけとして政府は「軍人訓誡」「軍人勅諭」を発布し,軍律強化に努めた。(引用終わり)

ほら、先程の大蔵卿大隈重信邸まで出てきたではありませんか!死刑53人とは只事ではありませんね。

しかも、舞台になったのが、宮城と目と鼻の先の近衛砲兵大隊ですから、山縣有朋ら明治新政府は焦ったでしょう。死刑の数の多さは見せしめの意味もあったんでしょう。

江戸幕府を倒してまだ10年しか経ってませんからね。

しかし、鎮圧に成功した新政府は、この後、「明治十四年の政変」などを経て、薩長への権力集中を確立し、藩閥政治を成就していくわけですね。

昭和天皇御野立所(おのだてしょ)碑

最後にお導き頂いたのが、昭和天皇御野立所。昭和天皇が昭和5年、関東大震災後の帝都復興の様子を視察された所だというのですが、何でこちらをご紹介して頂いたのか、よく分かりませんでした。

いや、そんなこと言ってはいけませんね(笑)。これらツアーは、資料まで配布してくださり、無料だったのですから。

ガイドして頂いた正田先生、山本先生有難う御座いました。

【追記】ちなみに、北の丸公園は、都心のオアシスです。緑豊かで目の保養になる中、一人ベンチでお昼のおにぎりを食べましたが、最高でした!

また、さすがに、九段下、飯田橋近辺は、歴史の宝庫でした。榎本武揚が始めた北辰社牧場(牛乳を販売)跡や、肥前藩士だった佐野常民が創設した日本赤十字社跡、徳川幕府が創設した蕃書調書(明治になり帝国大学に発展)などもありました。もっと探索したくなりました。

「台湾歴史ドキュメント」

昨晩、皆さまご存知の「ガルーダ博士」こと山本さんから、「もし関心がありましたら、『台北の歴史ドキュメント』を見てください。滅多に見られない光景が見られます」とメールがありました。

「何だろう?」と思いつつ、見てみました。

「台湾歴史ドキュメント」 ←こちら

「台湾が生まれ故郷」という新元久さんという方が、子ども時代に通った台北の小学校などの当時の写真や米軍による空襲などCGを交えて再現したドキュメンタリーでした。

新元さんご本人が登場する場面は日本語なので分かりますが、彼の友人という台湾人の方は中国語なので、ほとんど理解できませんでしたが、何となく雰囲気が分かります。

台湾の地元テレビ局が制作して放送したのでしょうか。動画はかなり、プロ級です。

何で、山本さんが、このようなメールを送って来られたのかと思ったら、山本さんのご尊父さまが台湾総督府に勤務していて、山本さんは台湾生まれの台湾育ちだったというのです。

そして、昭和19年5月31日、米軍B-24による台北空爆を疎開先で見たそうです。(その時、台北の台湾総督府で働くご尊父は、戦火の中、大変な思いだったようです)

山本さん一家は敗戦後の大変な引き揚げも経験しました。

山本さんとはもう何十年も昔に面識を得ましたが、こういった話は初耳でした。

今の若い人の中には、台湾がかつての日本の領土だったことを知らない人がいると聞きます。もちろん、日清戦争後の賠償として分捕った領地だとか、植民地主義とかいう批判がありますが、地元のインフラ整備をしたり、病院や学校を建てたりして、貢献した面もあります。

台湾は親日家が多いと聞きますし、実際、私も一度だけですが、台北に観光旅行に行ったとき、地元の人から、日本人だということで随分親切にされたことを忘れません。年配の人には日本語が通じました。

植民地主義のあくどい搾取ばかりしていたら、親日家は生まれないのではないかと密かに思っています。

台湾総督府といえば、児玉源太郎や後藤新平らが活躍したことで知られ、また、台湾は、ゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実(ほつみ)が子ども時代を過ごした所でした。報知新聞社の記者だった秀実の父秀真(ほつま)が後藤新平の招きで、台湾日日新聞社漢文部主筆として赴任したことから、岐阜県生まれの秀実は台湾で育ち、台北第一中学校に進学しています。

片岡みい子さんのお導きで素晴らしい方とお会いしました

昨晩は濃厚な時間を過ごすことができました。

いや、誤解しないでください(笑)。昨晩は、わざわざカナダから帰国したその筋の日本人男性と銀座のフレンチレストランで会食し、実りのある話をお伺いし、有意義な時間を過ごすことができたというお話です。

その筋といっても、裏社会の人ではありません。れっきとした表社会の紳士です。今は引退されておられますが、現役時代は、ファッション関係とフード・コーディネーター等の仕事をされていたようです。

仮名として、杉下さんとしておきます。奇遇といいますが、偶然といいますか、必然といいますか、回りくどいので、単刀直入で言いますと、この《渓流斎日乗》を通して知り合った方でした。

このサイトで、昨年(2017年)2月7日に、おつなセミナーの仲間だった翻訳家で画家だった片岡みい子さんが亡くなったことや、その後のお別れ会のことなど実名で書かさせて頂きましたが、カナダ在住の杉下さんが、たまたま検索して見つけてそれらを読まれ、先月4月14日にわざわざ、メールで感想を投稿してくださったのです。(個人的な内容なので、投稿は公表しませんでした)

それによると、杉下さんは、片岡さんの夫で仕事のパートナーだった故正垣さんと、東京の中高一貫のエリート学園の同級生で親友だったといいます。勿論、片岡さんとは生前何度もお会いしたことがあるといいます。

なにぶん、杉下さんは現在、カナダにお住まいのため、何度かメールを交換させて頂きました。こちらが10行ぐらい送ると、100行ぐらいで返信が来るといった感じでした。どういう話の展開だったのか、力道山が刺された赤坂の「ニュー・ラテン・クオーター」や芝公園の中華料理店「留園」(汪兆銘政権を擁立した影佐機関を支援した盛一族が亡命して創業)、それにビートルズを呼んだ興行師として名を馳せたキョードー・トウキョウ創立者の永島達司さんらについて異様に詳しいというより、かなりインサイダー情報をお持ちの方で、一体、この方、どちらの組関係の方なのかと戦々恐々としてしまったわけです。

こちらも、10年近く探訪記者として、その方面だけを取材していたため、かなりの構図を普通の方より理解し、ある程度の知識はありましたが、それ以上の情報通です。

種明かしをすると、杉下さんのご尊父は、東京・赤坂などで大型のナイトクラブ数軒を経営する顔役だったというのです。杉下さんもご幼少の頃から、芸能・スポーツ関係者から政財界の大物を身近に接してきたわけです。

で、5月に久しぶりに帰国されるというので、懇談する機会をつくってくださったのです。

お会いすると驚きました。てっきり、肩で風を切って歩くような映画に出てきそうな怖い方を想像していたら、物腰も柔らかく、言葉遣いも大変丁寧な真の紳士だったのです。何と言っても、お酒は一滴も呑めないか、呑まないというんですからね。

2時間半にわたって、みっちりお話を伺ったり、こちらから一方的にしゃべったりして、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

もう半世紀近い昔の話とはいえ、色々差し障りがあるといけませんので、昨晩の会談の内容を詳しく書けないのが残念ですが、どんな方が登場したかと言いますとー。

大行社と日本青年社、ホテル・ニュー・ジャパンの横井英樹さん、ベニハナのロッキー青木さん、ポール・アンカとナツキ(後のデヴィ夫人)、サミー・デービス・ジュニア、東声会の町井さん、東日貿易の久保さん、高倉健さん、児玉さん、岸信介さん、宝塚と岡村吾一さん、田中清玄さん、銀座の福田さん、菅官房長官と藤木組といった方々、そして、3億円事件とロッキード事件の真相です。ご興味がある方は、最後に参考文献を何冊か挙げておきます。

一番驚いたのは、トランプ米大統領が、はるか昔、若き青年実業家の頃、ある若い日本人に対して行った陰徳の話でした。その日本人は、杉下さんの従兄弟に当たる人だというのです。この詳しい話もここでは書けませんので、悪しからず。(苦笑)

最後に杉下さんが強調したことは、2020年の東京五輪の選手村の食事でした。1964年の東京五輪では、杉下氏のご尊父が親しかった元日活ホテル総料理長の馬場久氏が陣頭指揮を取って、世界最高級の食事を提供したらしいのですが、今度の20年五輪は、かなりレベルが落ちる料理関係者が落札したか、しそうなんだそうです。「日本の調理業界はかなり心配してます。小池都知事にはしっかり判断してもらいたい」と杉下さんは仰ってました。

帰り、東京中のショップで探したというドイツ製のワイン「聖母=歳暮」まで手土産に頂いてしまいました。仮名ですが、杉下さん、その節は大変お世話になりました。いつか、カナダに行くようなことがあれば宜しくお願い申し上げます。コラ!(笑)。

【研究者のための参考文献】

・ロバート・ホワイティング著「東京アンダーグラウンド」(角川書店)

・山本信太郎著「東京アンダーナイト“夜の昭和史”ニューラテンクォーター・ストーリー」(廣済堂出版)

・山本信太郎著「昭和が愛したニューラテンクォーター ナイトクラブ・オーナーが築いた戦後ショービジネス」(DU BOOKS)

・城内康伸著「猛牛(ファンソ)と呼ばれた男―『東声会』町井久之の戦後史」(新潮社)

・野地 秩嘉 ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 」(幻冬舎文庫)

・大須賀瑞夫インタビュー「田中清玄自伝」(筑摩書房)

・木村勝美山口組若頭暗殺事件―利権をめぐるウラ社会の暗闘劇」 (文庫ぎんが堂)

・後藤忠政著「憚りながら」(宝島社)

・山平重樹著「実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界」(双葉社)

「終わらなかった人」映画化 贋作「東京物語り」

大学は出たけれど、定年になって大学に入り直す男を描く壮大な家族劇「終わらなかった人」(「日の入り」連載の外館牧子原作のベストセラー小説が原作)が、巨匠小田安二郎のメガホンで、活動写真が撮られたそうですね。主演は、猫ひろしと黒樹瞳。華族出身の入江たか子が友情出演。6月から有楽町の邦画座を始め、全国一番館でロードショウ公開です。

築地・中村家のランチ弁当850円(京都「宮武」の日替御膳880円に対抗しました)

花の都、東京では、銀座の柳も春風に揺られている今日この頃です。

巷の弐番館ではニュース映画がかかってます。

「満洲某重大事件」のニュースの後、「車は作らない」柳瀬元秘書官が「記憶にございません」と能面のように表情一つ変えない答弁で、能吏ぶりを発揮。「私はあなたと違うんです」福田元事務次官は「全体的に見れば私はやってません。だから血税が原資の5000万円の退職金は返しません」と、高らかに宣言しています。

扨て、銀座の柳通り。

ナウいアヴェックが、モボ、モガスタイルで、ミルクホールで逢引を重ねてます。ジルバを踊って、リキュルをあおり、すっかりいい気分。でも、当時はセブンイレブンがなかった!

ソフト帽を被った彼の名前は白澤明。近くの交詢社内にある時事新報の記者。十五代目羽左衛門に似たハンサムな顔立ち。真っ赤な口紅の彼女の名前は原田節子。今はときめくエレベーターガール。今売り出し中の女優原節子似の美人さんだ。

「なあ、節ちゃん。今度の休みはキネマに行かないか。小田安二郎の『終わらなかった人』がかかるんだよ」

「へえ、題名だけだと、つまんなそうね」

「新朝社の『日の入り』に連載された小説が原作なんだよ。大学は出たけれど、定年になった田代宗助が主人公…」

「何か、余計、つまんなそう。いっそ、小田急で逃げましょか」

「節ちゃん、それじゃまるで、『東京行進曲』じゃないか」

「まあ、明さんもよく流行り唄をご存知のこと。それより、今、霞ヶ関で流行っている『接吻はらはら』とかいう遊び、どんなのか、教えてくださらない?『万朝報』のゴシップ欄に出ていたわ」

「だめだめ、子どもがそんなことに興味を持っちゃだめ。美人薄命だよ」

「なあに、それ!? チョベリバ」

「チョベリバ?」

「卍まんじ」

「節ちゃん、余計、分かんないよ」

「えへへへ、明さんも、天保生まれだから、水滸伝しか知らないんでしょ」

「あに言ってるんだか…」

赤塚公園のニリンソウ自生地

若い二人には明日がある。熱血指導マスターの掛け声で、二人は、銀座・交詢社通りの人を押し分け、搔き分け、夕陽に向かって走っていくのでした。

おしまい

ギブソン破綻と大陸新報と記者の劣化

私は、少年の頃、ギター小僧でしたから、フェンダーやマーチン、ギブソンと聞くと、襟を正したくなります。

当時でも20万円、30万円は軽くしましたから、とても手に届くはずがなく、憧れの的でした。

ですから、昨日(米時間5月1日)、「ギブソンが破綻した」というニュースを聞いた時は本当に驚き、悲しくなりました。「ギブソンが危ない」という憶測記事が数週間前に流れていたので、覚悟はしておりましたが、やはり、寂しい。米裁判所に連邦破産法11条(日本の民事再生法)の適用を申請したらしく、負債は最大5億ドル(550億円)だとか。

5月2日付朝日新聞夕刊の記事によると、ギブソン破綻の原因は、ギターをあまり使わない「ヒップホップ」が人気を集める一方、ロック音楽が低迷し、エレキギター市場も縮小傾向が続いていたからなんだそうです。そのせいで、ギブソンは、日本のティアックなど音響メーカーを買収して多角経営を図ったのですが、それも裏目に出たようです。(再建後は、ギター製造に専念するらしい)

ギブソンは1894年創業といいますから、ロックなんてありません。もともとは、カントリーやジャズ、ブルースギターを中心に始めたのでしょうが、記事を書いたのは若い記者のせいか、一言も触れていません。ギブソンを愛用したギタリストとして、「ルシール」と名前を付けて愛用したB・Bキングは当然出て来なければならないし、何と言っても、レスポールギターの生みの親である名ギタリストのレス・ポールは最重要人物です。恐らく、若い記者は知らなかったのではないでしょうか。

批判ついでに、同じ朝日新聞夕刊の社会面に「戦時下の上海  幻の雑誌」「井伏・壷井ら有名作家ずらり」といった見出しで、太平洋戦争末期に上海で発行され、これまで「幻の雑誌」とされてきた日本語の雑誌が北京などで見つかり、その内容が明らかになった、と報じてます。

北京の図書館で見つかった雑誌は、月刊「大陸」で、これまで日本の公共図書館では所在が確認できなかったといいます。そこには井伏鱒二や壷井栄ら有名作家らも寄稿していたといいます。それはそれでいいのですが、この雑誌「大陸」について、「日本軍などの支援で創設された新聞社『大陸新報社』が1944年に上海で創刊した」としか書いておりません。

大陸新報社=朝日新聞ですよ!ブラックジョークかと思いました。山本武利さんの「朝日新聞の中国侵略」(文藝春秋)を読んでいないんでしょうかね?大陸新報は、朝日新聞が昭和14年に、帝国陸軍とグルになって、大陸利権を漁る方便として創刊した新聞なのです。侵略の急先鋒みたいなもんです。その事実をひた隠しにしているとしたら、随分と悪意がありますね。

もし、その事実を知らないで若い記者が書いたとしたら、不勉強というか、記者の質が劣化したと言わざるを得ません。

大陸新報と朝日新聞との関係を知っていて、わざと書かなかったとしたら、これはまた酷い話です。原稿を見たデスク、整理部か編成部か知りませんが、校正と見出しを付ける部署も含めて、「証拠隠滅」と言われてもしょうがないでしょう。

「新聞社崩壊」(新潮新書)を書いた畑尾一知さんが心配した通り、このままでは、記者とデスクの劣化で本当に新聞社は崩壊してしまうかもしれませんよ。

カツカレーの起源に異説あり 「歴史の余白」から

浅見雅男著「歴史の余白」(文春新書)を読んでいたら、先日4月29日付の《渓流斎日乗》で御紹介した和田芳恵著「ひとつの文壇史」(新潮社)の中のエピソードが登場していたので、吃驚してしまいました。

著者の浅見氏は、手広く色んな古今東西の書籍を逍遥しているんだなあ、と感心してしまった次第。このエピソードとは、和田芳恵が新潮社の大衆文芸誌「日の出」の編集部にいて、かかってきた電話に「北条です」というので、てっきり、北条秀司の奥さんかと思ったら、何と「東条」の聞き違いで、東条英機の勝子夫人。用件は、北原白秋に揮毫してほしい、というものだったが、当時、東条は陸軍大臣で、夫人も少し上から目線だった、といったこぼれ話です。

著者の浅見氏は文章がうまいし、かなり調べ尽くしている感じです。「ある」ことは、文献を引用すればいいのですが、「ない」ことを証明するには、あらゆる文献を読み尽くさなければ、「なかった」と断定できません。ただし、「ある」と本人が日記の中で断定していても、それは実は「嘘」も多い。このように、歴史的事実を事実として認定する作業は、かなり難しいと告白しております。

繰り返しになりますが、「歴史の余白」では、面白い逸話で満載です。井伏鱒二が若い頃、森鴎外の「渋江抽斎」で、匿名でいちゃもんを付けていたとは知りませんでしたね。「十六代将軍」徳川家達(いえさと)は、長らく貴族院議長を務め、70年以上も家督を嗣子家定に譲らなかったことも、不勉強で知りませんでした。西郷隆盛の実弟西郷従道の逸話も読み応え十分。

築地「スイス」の千葉さんのカツカレー 880円

きりがないので、最後に「カツカレー」の起源を。一説では、プロ野球読売巨人軍の名選手だった千葉茂が戦後、東京・銀座の「グリル スイス」で考案したものだと言われ、私も信じてきました。銀座の「スイス」では今でも「千葉さんのカツカレー」という名前で売り出してます。

今日、昼休みに行ったら、ゴールデンウイークだというのに、銀座店は閉まっていたので、この日乗を書くためだけに、わざわざ、築地の「スイス」にまで行って、「千葉さんのカツカレー」を食べてきました。(スイス築地店は、かつては、銀座店のカレーをつくる作業場だったそうです。そう、女将さんが教えてくれました)

でも、千葉茂といっても、今のナウいヤングは誰も知らないでしょうね。あのミスター長嶋が付けていた背番号「3」をその前に付けていた名二塁手です。長嶋茂雄の現役時代を知るのはもう50歳以上ですからね。千葉茂を知るわけがありません。1950年代初めに川上哲治、青田昇らとともに、巨人軍の第2期黄金時代を築いた人ですので、実は私も彼の現役時代は知りませんけど。(野球評論家時代は知ってます)

いずれにせよ、まだまだ、食糧事情が十分ではなかった時代に、スポーツ選手のためにカレーの上にとんかつを載せた栄養満点のカツカレーを、千葉茂が考案したというのが定説だったのです。

それがこの浅見氏の本によると、既に戦前に平沼亮三という人が、自宅(とはいってもテニスコートや宿泊所などもあり、敷地3000坪)で、今のカツカレーと全く同じ料理が「スポーツライス」という名前で振る舞われていたというのです。

平沼は明治12年(1879年)生まれで、生家は横浜の大地主。幼稚舎から慶応で学び、大学では野球部のサードで4番。卒業後も柔道、剣道など26種類のスポーツをこなし、神奈川県議会議員、横浜市会議員、貴族院多額納税者議員などを歴任。このほか、日本陸上競技連盟などの会長も務め、1932年のロサンゼルス五輪、36年のあのヒットラーのベルリン五輪の日本選手団長を務めた華麗なる経歴の持ち主なのです。

この平沼の孫の一人が俳優の石坂浩二だというので少し驚いてしまいました。

やはり、カツカレーは平沼が、戦前に「考案」したということなんでしょうね。

「猫都の国宝展」と目黒雅叙園の裏話

ゴールデンウイークは人出が多いので、出掛けるのはあまり好きではありませんけど、不可抗力により、東京・目黒のホテル雅叙園内の「百段階段」で開催中の「猫都の国宝展」を観に行ってきました。

猫にまつわる置物やら絵画やらをあの東京都指定有形文化財の「百段階段」の座敷に222点も展示されていて、結構、見応えありました。

入場券は、当日1500円というので、ちょっと高い気がして、庶民らしく、事前に新橋辺りで前売り券を準備しておきました(笑)。

そんな話をしたところ、物知り博士の京洛先生は「雅叙園ですか。。。松尾国三さんですね」と、思わせぶりな発言をしてケムに巻くのでした。

明治維新後、大名屋敷、別邸を摂取されて空き地となった目黒一帯は、内務省衛生局の初代局長などを務めた医学者の長与専斎が広大の敷地を所有していたと言われます。専斎の長男称吉は医師(妻は後藤象二郎の娘)、二男程三は実業家(日本輸出絹連合会組長)、三男又郎は病理学者で東京帝大総長、四男岩永裕吉は同盟通信社(戦後、時事通信社などに)初代社長、五男長与善郎は、あの著名な白樺派の作家です。

この中の岩永家に養子に行った四男裕吉は、同盟通信社が国策で電報通信社(戦後、電通に)と合併させられて設立される前に、自ら聯合通信社を設立した際に、その設立資金を捻出するために、所有地を目黒雅叙園に売却したと言われます。その相手が細川力蔵で、雅叙園は、昭和6年に日本初の総合結婚式場として開業します。(中華料理の円形テーブルは、細川の考案と言われてます)

力蔵亡き後、細川一族による経営が行われてきましたが、 戦後の昭和23年にその経営権を握って雅叙園観光を設立したのが、京洛先生が仰っていた松尾国三でした。(その後、複雑な経緯で、今では米国のファンドが経営権を取得し、所蔵する重要文化財級の絵画、彫刻、天井画などは散逸したようですが、全略。)

松尾国三は、旅芸人一座の歌舞伎役者から、一念発起して、芸能プロモーターとなり、大阪の新歌舞伎座などの劇場経営、横浜ドリームランドなどのレジャー施設の経営者(日本ドリーム観光取締役社長)にまで出世した波乱万丈の人物です。晩年は、大元のオーナーだった大阪の千日デパートの火災で、責任を問われました。

私はこの人について、演劇人に与えられる「松尾芸能賞」の創設者としか知りませんでしたが、陰では「昭和の興行師」「芸能界の黒い太陽」と言われていたらしいですね。興行の世界ですから、裏社会との繋がりやら、そりゃ色々とあったことでしょう。

と書いたところ、これを読んだ京洛先生から「雅叙園は、住友銀行の磯田会長が、愛嬢可愛さで、”天下の詐欺師”伊藤寿永光と、あの許永中に巨額融資をした舞台になったところですよ。迂生は、松尾国三夫人の松尾ハズエさんが存命中に、雅叙園の一室で取材をしたことがありました」との補足説明がありました。

なるほど、そういうことでしたか。。。

※もし、この記事にご興味を持たれましたら、関連記事の「目黒と岩永裕吉」(2016年5月7日)も併せてお読みください。

「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

昨日21日(土)は、東京・御茶ノ水の明大リバティータワーで行われた講演会を聴きに行きました。

「偽りの烙印」などの著書があるゾルゲ事件研究の第一人者の渡部富哉氏が88歳のご高齢になられ、これが「最後の講演会」ということでしたので、渡部氏には大変お世話になったり、こちらもお世話をしたり(笑)した仲でしたので、会場で会いたくない人がいるので気が進まない面もありましたが、足を運んだわけです。

私は読んでませんが、「ゾルゲ研究の第一人者の最後の講演」は、朝日新聞(恐らく都内版)に掲載されたらしく、それを読んだ人が、「大変だ」とプレミア価値を持ったのか分かりませんが、驚くほど大勢の人が押し寄せて、受付も長蛇の列で長い間待たされました。

概算ですが、500人以上は詰め掛けたのではないでしょうか。資料代1000円でした。

プレミアで来られた方の中には、ゾルゲ事件についてあまり詳しいことを知らない人もいたようで、何だか分からないピンボケの質問をする自信満々の唐変木な老人もおりました。

あまりにも多くの人が押し寄せたので、気を良くした渡部さんは「これを最後にしようかと思いましたが、話しきれないので、もう1回やります」と宣言するので、こちらも拍子抜けしてしまいました。

とても88歳とは思えない矍鑠ぶりで、志ん朝のようなべらんめえ調の話術は相変わらずで、落語を聴いているようで、会場から笑いを誘ってました。

肝心の講演会は「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」で、日本共産党中央委員会顧問などを務めた松本三益(1904〜98年、享年94)が、当局(特高)のスパイだった、という説を特高資料や当時の関係者の証言録を引用してかなり説得力がありました。

渡部氏によると、松本三益は、日本共産党入党を1931年10月(「赤旗」など日本共産党の公式見解)としておりますが、真実は、既に1928年に入党しており、これなども当局によるスパイ松本三益隠しの一つだった、などといいます。

ただ、表題の「解明されたゾルゲ事件の端緒」に関しては、全く要領を得ず、納得できるような論は展開されなかった、と私なんかは聴きました。

ゾルゲ国際諜報団の中心人物の一人、宮城与徳(沖縄県名護出身。渡米し、画家に。米国共産党に入党。コミンテルンの指令で日本に戻り、ゾルゲ・グループに合流。逮捕され獄中死。享年40)は、日本に潜入した際、最初に接触したのが、沖縄師範学校時代の同級生だった喜屋武保昌(きやむ・やすまさ、東大新人会に参加し、官憲からマークされた。私立巣鴨高商教授。宮城与徳が描いた喜屋武保昌とその息子と娘の肖像画は記念館に展示されている)で、この喜屋武から「農業部門に詳しい専門家」として松本三益を紹介された。松本は、宮城与徳に高倉テル(1891〜1986、京大英文科卒、作家、教育赤化事件などで検挙。脱獄を企て、その脱獄に便宜を与えた疑いで三木清が逮捕された。戦後、日本共産党に入党し、国会議員)、安田徳太郎(1898〜1983、医師、社会運動家。京大医学部卒。東京・青山に医院を開業し、宮城与徳に、通院していた軍関係者の情報を提供したとして検挙)、久津見房子(1890〜1980、社会運動家。3・15事件で検挙、ゾルゲ事件に連座し、懲役8年の判決。敗戦で4年で釈放)らを紹介した。…などという話は渡部氏は事細かく説明してましたが、松本三益が、いかにしてゾルゲ事件の端緒を開いたのか、説明なしでした。

そこで、講演会の二次会を欠席し、自宅に帰って、古賀牧人編著「『ゾルゲ・尾崎』事典」(アピアランス工房、2003年9月3日初版。加藤哲郎一橋大教授のお薦めで、当時4200円なのに、2012年に古本で4949円で購入)を参照したら「真栄田(松本)三益密告説」など色々書いてあり、これを読んでやっと要点が掴めました。

高倉テルが安田徳太郎に語ったところによると、真栄田(松本)三益は、満州の事件(恐らく、合作社・満鉄調査部事件)で昭和16年に検挙されたが、助けてもらうために、警視庁がまだ知らなかった宮城与徳の諜報活動を密告して、当局と取引したというのです。

「伊藤律端緒説」という誤った説を広めたため、渡部氏が蛇蝎の如く嫌っていた尾崎秀樹(1928〜1999、文芸評論家、尾崎秀実の異母弟)も「越境者たち」の中で、「事実だとすれば、組織発覚の端緒は、これまでいわれていた伊藤律ー北林トモー宮城与徳といった線ではなく、真栄田三益ー宮城与徳ということになる」とはっきり書いてありますね。

私自身、日本ペンクラブ会長も務めた尾崎秀樹さんとは、かつて取材などで親しくさせて頂いたこともあり、渡部氏が批判するほど、そんな頑なで悪い人には思えず、もし彼がもう少し長生きされていたら、「伊藤律端緒説」を取り下げて、渡部氏と和解していたんじゃないかと思っております。

友が皆 我より偉く見ゆる日よ

墨俣一夜城

最近、年のせいか、かつての知人、友人が知らないうちに、ど偉く(ドエリャーと読みます)なっていて驚くことがあります。

私の場合、高校の同級生の木本君が、天下の高島屋百貨店の社長さんになっていたと聞いたときは、腰を抜かしました。

そんな時、

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

という歌が、教養があるもんですから(笑)、つい、ふと、頭に浮かんできました。

石川啄木(1886~1912)のあまりにも有名な短歌です。

色んな解釈があるようですが、啄木さんは空想ではなく、実際にあった、感じたことを描いたことでしょう。となると、この「友」とは一体誰なのか、昔、気になって調べたことがありました。

その一人が及川古志郎(1883~1958)でした。

銀座「わのわ」 しょうが焼き定食850円

当時は、近現代史や昭和史をそれほど勉強していなかったので、あまりピンと来なかったのですが、海軍大将、海軍大臣にまで上り詰めた軍人です。

啄木の旧制盛岡中学時代の3年先輩に当たります。戦史に欠かせない大変な人です。(啄木は1886年2月の早生まれで、盛岡中には1898年入学、及川は1883年2月の早生まれ)

及川は軍人ですが、もともと文学少年で、多くの短歌や長詩を文芸誌に投稿し、同期の金田一京助(1882~1971)や野村長一(1882~1963)らと文学サロンめいたことをやっていて、啄木も参加していたようです。

金田一京助は、有名なアイヌ語研究などで知られる言語学者で、啄木はかなり迷惑をかけていたようです。京助の子息で同じく言語学者の金田一春彦は、思い出エッセイの中で、「啄木はよく借金を踏み倒すので、父は啄木のことを『石川五右衛門の子孫じゃないかな』と冗談で言っていた」といったようなことを書いてましたね。

野村長一は、「銭形平次」で知られる作家野村胡堂のことです。盛岡中から第一高等学校~東京帝大を卒業し、報知新聞の政治記者になりました。

彼ら以外に啄木の同期に満州事変を起こした板垣征四郎(1885~1948)がおります。啄木は明治45年に26歳の若さで病死してますから、同級生だったなんて想像もつきませんでしたね。陸軍大将に登りつめた板垣征四郎は戦後、A級戦犯として逮捕され、東京裁判により処刑されてます。享年63。

また、4年先輩には、海軍大将で首相まで務めた米内光政(1880~1948)がおりました。米内は盛岡南部藩士の子息です。

南部藩は、戊辰戦争の「負け組」で、明治革命政権の下では冷や飯を食わされた側でしたが、中にはこうして実力と能力と努力で登りつめた人がいたわけです。

とはいえ、盛岡中(現盛岡第一高校)卒業生の中で、最も知られている有名な人物は詩人・童話作家の宮沢賢治(1896~1933)かもしれませんね。

賢治は、啄木の11年後輩に当たります。久しぶりに彼の作品を読みたくなりました。