77回目の終戦記念日に思ふ

 いつも渓流斎ブログを御愛読賜り、誠に有難う御座います。最近、驚くべきことに1日のアクセス数が「3000」台を達成することが多くなっております。普段は1日「300」とか多くても「500」ですので、「どないしたんやあ?」といった心境になります。

 よくよく調べたところ、今年1月17日に配信した「比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=『鎌倉殿の13人』」のアクセスが異様に多いことが分かりました。ということは、NHKの大河ドラマを御覧になっている方が、たまたま暇つぶしに検索したら、私のブログが出てきたということなのでしょう。まあ、「通りすがり」ということで、この異様なアクセス数も一過性だということが分かりました(笑)。

銀座「マトリキッチン」デザート

 昨日は8月15日。77回目の終戦記念日でした。戦後生まれが今や8割を超えるといいますから、ますます戦争体験者が減り、防衛費増強が叫ばれる中、今後の日本はどうなってしまうのか心配です。終戦記念日の昭和20年8月15日から77年経ち待ちましたが、昭和20年から見ると、77年前はちょうど明治維新の年、明治元年(1868年)なんですね。欧米列強に追いつけ追い越せという「富国強兵」策で、日本は、日清、日露、第一次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争と戦争に明け暮れていました。

 この明治から昭和にかけての先人たちについて、後世の安全地帯にいる私が一方的に批判するつもりはありません。むしろ、あの19世紀から20世紀にかけての帝国主義、植民地主義で世界がしのぎを削っている中、日本が植民地化されないための苦肉の策の軍国主義はある程度、致し方なかったと思っています。当時最も尊敬された人物は軍人さんでしたからね。

 ただ、あの時代は「人権」思想がなかったのが問題です。東北の飢饉で娘が身売りされていたのは人身売買であり、いまだに奴隷制度が残存していたことになります。維新で、封建時代を打破できたと思ったら、明治以降は公侯伯子男の爵位のある身分社会が温存され、陸士・海兵を出たエリートだけが優遇される階級社会でしたので、一兵卒などは虫けら同然の扱いです。兵站(ロジスティックス)の概念すらなく、飲食物は「現地調達」にして補給がないので、戦死者の大半は餓死でした。ランチサンドにチョコレートまで付く恵まれた米兵とはえらい違いです。(インパール作戦の司令官牟田口廉也も、それに続くビルマ戦線の司令官木村兵太郎も、「あとは宜しく」と自分たちだけが飛行機に乗って戦場と白骨街道から脱出、いや逃亡しています。併せて16万5000人の戦死者を出したというのに)

 8月15日に終戦にはなりましたが、軍隊は即日解散されたわけではありません。9月2日に米戦艦ミズリー号降伏文書の調印でやっと全面的に武装解除されたと言えます。私の父は大学受験に失敗したため、17歳で志願して帝国陸軍の一兵卒になり、19歳になる2日前の18歳で終戦を迎えましたが、炊事当番だっため、1週間ほど上官の食事を作るために残された、と聞いたことがあります。戦争が終わっても特権階級から奴隷のように使役されたわけです。

新橋「奈良県物産館」 柿の葉寿司ランチ1200円

 大東亜共栄圏の高邁な理念と思想だけは、GHQと東京裁判が断罪するほど酷くはなかったのですが、統治する日本人のエートスが「強い者にはこびへつらい、弱者には虎の威を借りて傲岸不遜に振舞う」では、盟主としての資格は全くありません。迷惑を掛けたアジアの人々に対して反省だけでは足りないと思っています。(現地の人たちは、欧米列強から解放を謳いながら暴力で支配する日本よりもましだと欧米を選んだのです)

 日米開戦からわずか半年で、日本はミッドウェーで大敗し、それからは玉砕に次ぐ玉砕で、挙句の果てには鬼畜と見下していた外国人から歴史上初めて占領・支配される始末です。(開戦時、米国のGNPは日本の12倍もあったという無謀な戦争)日本史上最悪の時代でしたが、日本人は痛い目に遭わなければ分からない民族です。もし、連戦連勝だったら、今でも戦争を続けていたことでしょう。それは、ウクライナに侵攻したロシアを見れば分かります。

◇旅行キャンセルし、夏休み返上

 さて、目下、お盆休みとなり、私も今頃、日蓮宗の総本山身延山にお参りに行っていたところでした。しかし、コロナの第7波の感染が拡大して、感染者数も高止まりし、おまけに、先月7月は個人的に病気をして1週間も会社を休んでしまったことから、旅行はキャンセルしてしまいました。身延山のキャンセルは2年連続2度目です。

 ということで、夏休みは返上して、しっかり、出勤しております。

新橋「奈良県物産館」 かき氷950円

 あ、そう言えば、先日、このブログを読んでくださる都内にお住まいのNさんからは「もう一人の自分をつくられることが必要ではないですか」との助言も頂いたことを書きました。どうしようか、ずっと考えていたのですが、もう一人の自分は、何も日本人にすることに拘る必要はない。一層のこと、フランス人にしようということで、名前も考えました(笑)。

 François Hautchamp ( フランソワ・オウシャン)です。

 フランソワは、アッシジの聖フランチェスコに由来するらしいですが、フランス人にはよくある名前です。国王や、ラブレー(作家)、ミッテラン、オランド(大統領)もフランソワです。オウシャンは私の造語で、Hautは高い、champ は田んぼという意味です。オウシャンは、マルセル・デュシャンみたいでいいじゃないですか(笑)。

 もう一人の自分、フランソワ・オウシャンはバカロレア試験を控えた1970年代のリセの学生という設定です。これから、サルトル、カミュに加え、ポール・ヴァレリーやレヴィストロース、メルロー・ポンティー、アンリ・ベルクソン、ミシェル・フーコーらを読破しなければ、試験にすら臨めないといった状況です。

 パスカルを例に出さなくとも、人生はどうせ暇つぶしです。好きなことをすれば良いのですが、個人的に、今さら、「呑む、打つ、買う」にのめり込む年齢(とし)ではあるまいし、です。

 1970年代のフランス人の学生フランソワ・オウシャンがもう一人の自分…いいんじゃないでしょうか?!

 

周恩来と日本=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」

 牧久氏の最新作「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館、2022年8月1日初版、3300円)をやっと読了しました。

 後半も涙なしでは読めませんでした。前回のこのブログで、この本の主人公は清朝最後の皇帝で満洲国最初の皇帝だった溥儀だ、と書きましたが、もう一人、溥儀の実弟で日本人嵯峨侯爵の娘・浩(ひろ)と結婚した皇弟溥傑も忘れてはいけません。同格の主人公ではないか、と思いました。

 溥儀と溥傑は、日本と中国の懸け橋になることを望みながら、運命に翻弄され、日中戦争と太平洋戦争、そしてソ連軍侵攻、捕虜収容所生活、さらには文化革命での紅衛兵による突き上げという世界史上、例に見ない過酷な体験をします。王朝が崩壊すると、たとえ皇帝だったとはいっても、単なる下層庶民になだれ堕ち、地獄の人生が待ち受けていることが詳細に描かれています。

 まさに、筆舌に尽くしがたい体験です。どれもこれも、清朝の王家である愛新覚羅家に生まれてしまったという運命によるものでした。

 溥傑・浩夫妻の長女慧生(えいせい)は、実に不可解で驚愕の「天城山心中事件」(昭和32年12月)で亡くなります。行年19歳。父親の溥傑はいまだに中国の撫順戦犯管理所に収容されたまま。溥傑が、妻の浩と次女嫮生(こせい)に16年ぶりに中国で再会できたのは、それから4年後の昭和36年5月のことでした。

 いまだに日中間で国交のない時代に、家族の再会に尽力したのが周恩来首相でした。周総理はその後、元皇帝ということで病院をたらい回しにされていた溥儀の入院手続きまで面倒みたりします。

 周恩来は、若き日に日本に留学した経験があります。第一高等学校(現東大)と東京高等師範学校(現筑波大)の受験には失敗しますが、明治大学などで学び、マルクス主義などを知ったのも、日本の河上肇の著作を通してだったといいます。著者も書いている通り、周恩来は親日派とまで言えなかったかもしれませんが、知日派だったことは確かでした。でも、溥傑の日本人妻の浩さんのことを大変気に掛けたりしていたので、「日本びいき」だったかもしれません。

 私はこの本を読んで、中国人周恩来を見直すとともに、尊敬の念すら抱きました。毛沢東は大躍進運動と文化大革命で2000万人とも3000万人ともいわれる人民を殺害したと言われますから、とても比べようがありません。(周恩来は、文革の際、劉少奇粛清で毛沢東に協力したりしてますが)

 若き周恩来が日本留学時代によく通ったと言われる東京・神保町の上海料理店「漢陽楼」(1911年開業)にまた行きたくなりました。

 また、この牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館)は、出来るだけ多くの人に読んでもらい、中国寄りでも日本寄りでもなく、中立的な歴史を知ってもらいたいと思いました。

銀座、ちょっと気になるスポット(5)=国旗掲揚塔

 銀座という華やかなショッピング、飲食街の一角にどういうわけか、国旗掲揚塔があります。

銀座国旗掲揚塔

 銀座4丁目の三越百貨店から東銀座の歌舞伎座に向かう途中にありますが、目立たないのでほとんどの人は気が付かないで通り過ぎてしまうと思います。

 私も今年1月に「発見」しましたが、それまで、全く気が付きませんでした。

 現在も使われていると思いますが、個人的にまだ国旗が掲揚されている場面は見たことはありません。

銀座国旗掲揚塔奉賛会

 この塔を建てたのは「銀座國旗掲揚塔奉賛会」と、土台にプレートがありました。

皇太子殿下御降誕記念 京橋旭少年団 昭和9年5月

 漢字の旧字体から見て、戦前に建てられたと思われましたが、その通りでした。

 昭和9年5月に「皇太子殿下御降誕記念」として京橋旭少年団が建立したようです。

 皇太子殿下とは、現在の明仁上皇陛下のことで、昭和8年12月23日生まれですから、その5カ月後に建てられたことが分かります。

「京橋旭少年団員」 団長:会津半治

 京橋旭少年団の団員については、会津半治団長以下の名簿がずらりと記載したプレートもありました。ざっと70人近い人の名前が刻まれています。相談役や顧問の方もいるので、全員が少年ではないのかもしれません。

 京橋~は、銀座は昭和18年まで東京市京橋区だったので、そう命名されたのでしょう。

 国旗掲揚塔はここだけかと思いましたら、都内に結構多いことが分かりました。日本橋室町などには「皇太子殿下御成婚記念碑・国旗掲揚塔」があります。この皇太子殿下とはやはり、現在の明仁上皇陛下のことで、昭和34年4月10日、美智子さまとのご結婚を祝して、各地に国旗掲揚塔が建てられていました。

 他に代々木などにも国旗掲揚塔がありますが、これは昭和39年の東京オリンピック開催を記念して建てられたものです。正確に数えておりませんが、都内に結構あります。昨年(2021年)の二度目の東京五輪は盛り下がりましたから、国旗掲揚塔の建立はなかったのでは?

 おっ!「皇太子殿下御降誕記念・国旗掲揚塔」は他にもありました。渋谷区千駄ヶ谷、板橋区成増…。恐らく昭和9年に建立されたことでしょう。好事家でしたら、全て調べて本まで出すことでしょうけど、私はそこまで体力も気力もありましぇん。

8月9日はソ連侵攻の日=牧久著「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」

 8月9日は今年77回目の長崎原爆忌ですが、忘れてはいけないのは、ソ連軍が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して満洲(現中国東北部)に侵攻した日でもあることです。

 関東軍の精鋭部隊が南方に転戦したため、「もぬけの殻」になった満洲に、独ソ戦に勝利して勢いに乗るソ連軍兵約150万人、戦車等約5500台、戦闘機約3500機が怒涛のようになだれ込み、日本人は民間人を中心に約8万人が死亡し、シベリア抑留や「中国残留孤児」の悲劇も生みました。

 ソ連が日ソ中立条約を破棄して侵攻したのは、昭和20年2月4日、米ルーズベルト大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン首相の間で行われたヤルタ会談での密約によるものでしたが、国際条約を平気で反故して侵攻する様は、現在のロシア軍によるウクライナ侵攻を見るようです。77年経っても、少しもロシア人気質が変わっていないようにみえます。会談が行われたヤルタは、ロシアが2014年に併合したクリミア半島にあるというのも何か皮肉か、偶然の一致にさえ思えてきます。

 今、ちょうど、献本して頂いたジャーナリスト牧久氏の最新作「転生 満州国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館、2022年8月1日初版、3300円)を読んでいるところです。著者牧氏にとって、「不屈の春雷 十河信二とその時代」「満蒙開拓 夢はるかなり」(ウエッジ)に続く「満洲物語」第三弾です。日本経済新聞社の副社長等を歴任された牧氏は1941年生まれですから、今年81歳。著者の筆は全く衰えず、個人的感想ながら、いまだに書き下ろしで新作を何冊も書き続ける同氏に対し、尊敬するとともに、腰を抜かすほど驚いてしまいました。

 「転生」は、巻末の年表等も入れて493ページという大作です。すぐ読めるかと思ったら、もう読み始めて10日も経っています。それだけ内容が濃いといいますか、牧氏らしい目利きの膨大な文献調査と関連証言等から引き出す的確な推論には説得力があり、読んでいて圧倒されます。

 一言で言えば、中国が言うところの「傀儡政権」満洲帝国の興亡を描いた大河ドラマです。主人公を一人挙げるとすれば、清朝のラストエンペラー(宣統帝)であり、満洲国の初代皇帝(康徳帝)に就いた愛新覚羅 溥儀ということになります。

 私もこれまで満洲国関連の書籍は結構読んできたつもりですが、溥儀が主人公の本は少なかったでした。そのせいか、中国が断定するような満洲が傀儡政権だったというのは、少し割り引いて考えなければならず、むしろ、溥儀が、日本を利用して、積極的に滅亡した清朝の復辟(ふくへき=退位した君主がまた君位につくこと)を目指していたことをこの本で初めて知ることになりました。

 何と言っても、私が一番驚いたことは、昭和10年4月に初めて来日して昭和天皇やその母である貞明皇太后らに拝謁した溥儀皇帝が、すっかり天皇制に心酔してしまい、昭和天皇の困惑にも関わらず、天照大神を満洲国の「元神」とし、帝国内に建国神廟を建立したことです。(「回鑾=かいらん=訓民詔書」)私はてっきり、関東軍の脅迫と圧力によって満洲国内に多くの日本の神社が創建されていたと思っていたのですが、史実はむしろ逆で、皇帝溥儀が率先垂範して積極的に取り入れていたのです。在留邦人でさえ、驚いたり、天照大神が異民族に祀られるのは筋違いと考えたりする者もいたというのですから。

 皇帝溥儀は、東京裁判で証人として呼ばれた際、関東軍によって脅迫されて仕方なく皇帝に即位し、単なる操り人形で何の権限もなかった、といった趣旨の証言を、ソ連の筋書き通りに繰り返しましたが、史実は、結構な部分で、清朝復活を願う溥儀が、日本を利用して自分の意志を反映させていたことがこの本を読むとよく分かります。

 この本を読む前の今年5月に、私はたまたま平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)を読んでいたので、同じ「満洲もの」では少し切り口が違うなあ、と感じました。「グランドホテル」は、満洲国(1932~45年)で活躍した人物の評伝と相関図に多く紙数を費やし、例えば、「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」とか「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」といったように、言わば週刊誌的な見出しが並びます。著者の平山氏は、文藝春秋の「文学界」の編集長も務めた経験があるということなので、「グランドホテル」は出版社系ジャーナリズムと言えるかもしれません。

 一方のこの「転生」は、著者牧氏が日経社会部記者出身ということで新聞社系ジャーナリズムと言えるかもしれません。歴史学者のように、時系列に淡々と筆致を抑えて叙述し、余計な形容詞は省き、武藤富男は何度も登場しますが、「満洲国のゲッベルス」といった修飾語は出てきません。ただ、筆致が抑えられているとはいえ、内容は通化事件をはじめ、戦争の悲劇の話ですから、涙なしには読めません。

 著者の牧氏がこの本を書くきっかけになったのが、千葉市稲毛の自宅近くに、溥儀の実弟で日本の陸軍士官学校に留学した愛新覚羅溥傑と「政略結婚」した侯爵嵯峨実勝(さねとう)の長女浩が新婚時代を過ごした「ゆかりの家」があり、よく訪れ、「激しく移り変わる歴史の荒波の中で、その愛を生涯貫き通した二人の人生ドラマを書き残したいと思った」からだといいます。

 溥傑と浩との結婚や二人の娘の慧生(えいせい)、嫮生(こせい)の哀しい物語については、山崎朋子著「アジア女性交流史」(岩波書店)や本岡典子著「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生」(中央公論新社)などを通して私自身も知っておりましたが、改めてその凄惨な波乱万丈の生涯を読んで、自分たちの意志が反映されないまま、歴史に翻弄された被害者のような気がしました。

 確かに、著者の牧氏が仰る通り、彼らの人生は、書き残して後世に伝えるべきドラマであり、本書も多くの人に読み継がれなければならないと思いました。

ウクライナ戦争は長期戦か?=ロシアの大義とは?

 2月24日に始まったウクライナ戦争は「長期戦」となるというのが目下、世界の専門家の一致した見解のようです。フランスの歴史学者エマニュエル・トッド氏のように、「第3次世界大戦」と呼ぶ人も現れました。

 ロシアとウクライナの二国間の戦争ではなく、武器を貸与している欧米諸国と、ロシアを支援する中国も含まれているからだといいます。

 何と言っても、侵略戦争を起こしたロシアのプーチン大統領による民間人殺戮などの戦争責任が問われることが先決ではありますが、米国際政治学者ジョン・ミアシャイマー氏のように「ウクライナ戦争を起こした責任はアメリカにある!」と主張する人もいます。同氏は、ウクライナ戦争をロシアと米国の代理戦争とみなし、米国はウクライナの被害をそれほど重視しておらず、むしろ、ロシアの大義の方が米国より上回るので、この戦争はロシアの勝利で終わると予測しています。

 ミアシャイマー氏(74)は、米空軍元将校で、現在、シカゴ大学教授ですが、敵国の肩を持つ発言と捉えられかねないのに、敢えて冷静に、現代史と国際情勢から分析した勇気のある発言だと言えるでしょう。米国も、湾岸戦争では、ロシアがウクライナでしているのと同じように、イラクの都市を徹底的に破壊し、太平洋戦争では、日本の都市を爆撃して、無辜の民間人を虐殺したというのです。(米国の元軍人が、日本への無差別爆撃のことを触れるとは驚きです。そんな人がいるとは!)

 そう言えば、ドローンによる撮影で、ウクライナの都市で破壊された建造物が毎日のように、テレビで映し出されますが、湾岸戦争では、ドローンもなく、イラクも国力がないので破壊された戦地はそれほど国際社会に公開されませんでした。

 ウクライナ戦争が始まって、アフリカ諸国からそれほどロシアに対する非難や批判が巻き起こらないのは不思議でした。よく考えてみれば、アフリカ諸国は18世紀から20世紀にかけて、特に英国、フランス、イタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガルなどの植民地となり、徹底的に搾取され、奴隷のように抑圧された歴史があったわけです。それなのに、ロシアは「大国」だったはずなのに、英仏等と比べるほどの植民地はありません。そのせいで、ロシアに対するアレルギーが少ないのかもしれません。

 アフリカ諸国としては、欧州列強に対して、「お前たちが過去にやったことを思い出してみろ。ロシアを非難する資格があるのか?」とでも言いたいのでしょうか。

 私は、国際法を無視して戦争犯罪をし続けるロシアを非難する側に立ちます。それでも、原因をプーチン大統領の狂気とだけ決めつけて思考停止するつもりはありません。ロシアの大義を知ったとしても、非難の度合いは変わりませんが、知ることは需要だと思っています。

 ロシア史研究の第一人者塩川伸明東大名誉教授によると、スラブ系でウクライナ正教徒の多いウクライナは一時期、カトリック教徒が多いポーランドに支配され、単一の行政区域が存在しなかったといいます。それなのに、ソ連時代に「ウクライナ共和国」が誕生したため、今のロシアの指導部には、ウクライナとはソ連が人為的に作ったという認識があるといいます。(毎日新聞6月3日付夕刊)

 つまり、ウクライナが出来たのは、ロシアのお蔭だというわけです。それなのに、NATOの東方拡大か何か知らないが、ウクライナは、西側にすり寄って、親分のロシアに歯向かとは何事だというのが、ロシアの大義なのでしょう。

 ヨーロッパの歴史は、地続きですから、戦争に明け暮れ、国境も複雑です。「21世紀にもなって、何で戦争?」と私は思いましたが、「欧州の火薬庫」とは、バルカン半島だけでなく、至る所にあるということなのでしょう。

「ソ連侵攻の真実」を学びましょう=「歴史人」6月号

  今春は、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上下と「ホモ・デウス」上下、平山周吉著「満洲国グランドホテル」など超大作を読むのに掛かりっきりだっため、他の本や雑誌があまり読めず、積読状態になっています(笑)。

 例えば、雑誌の「歴史人」(ABCアーク)、「歴史道」(朝日新聞出版)なんかもう4~5冊も未読です(苦笑)。でも、考えてみれば、世界の文明国の中で、日本ほど、これだけ歴史雑誌が毎月のように定期的に出版されている国はないのでは? 日本人は真面目なんでしょうね。何歳になっても、歴史から教訓を学ぼうとしています。

 それに、悪い意味ではなく、「歴史修正」が進んでいて、私が、もう半世紀昔の高校生の頃に学んだ「歴史」とは随分変化しています。例えば、当時、645年は「大化の改新」としか習いませんでしたが、今では「乙巳の変」となり、鎌倉幕府成立も「1192年」(いいくに)だったのが、1185年(いいはこ)が定説になりそうです。歴史の教科書から「聖徳太子」や「坂本龍馬」の名前が消える? ということも話題になりました。歴史学習も、パソコンのソフトと同じように「更新」しなければならないということなのでしょう。

 そこで、本日は、「歴史人」6月号の「沖縄戦とソ連侵攻の真実」特集を取り上げることに致します。私自身、前半の「沖縄戦」についてはある程度知っておりましたが、後半の「ソ連侵攻の真実」については、不勉強で知らないことが多かったでした。

 雑誌ですから、タイムリーにも今、進行中のロシアによるウクライナ侵攻も取り上げております。井上寿一学習院大教授の記事などを引用しますと、1997年、ロシア・ウクライナ友好協力条約が成立し、ウクライナの領土保全・国境不可侵などをうたったというのに、ロシアは2014年にクリミア半島を併合し、今年2月24日にはウクライナ全土の侵略を開始し、民間人を大虐殺するなど戦争犯罪を犯しています。

 つまり、ロシアという国は国際条約や国際法を破っても、不法者や犯罪者意識がサラサラなく、ならず者国家だということです。条約の一方的破棄と侵略は、この国のまさに「お家芸」であり、「伝統」だとも言えます。プーチンは、尊敬するスターリンの顰に倣ったとも言われますが、そのスターリンがしたことは、1945年8月9日、日ソ中立条約(41年4月に締結され、少なくとも46年4月までは有効だった)を一方的に破棄し、まずは満洲国に侵攻し、対日参戦したことでした(ヤルタ会談での密約)。

「歴史人」6月号 「沖縄戦とソ連侵攻の真実」

 満洲に侵攻したソ連軍は150万兵とも言われ、この特集号で初めて、その侵攻する師団がどのルートで制圧していったかなどの詳細が分かりました。対する日本の関東軍は70万兵とは言われていましたが、既にその前年から、グアム、沖縄、フィリピンなどに精鋭部隊は根こそぎ取られ、「張り子の虎」に過ぎなかったといいます。

 終戦時155万人の日本人が満洲、関東州にいましたが、そのうち死亡者は17万6000人、その半分近い7万8500人が開拓団の犠牲者だと言われています。また、ソ連軍は約60万人の日本人をシベリアに抑留し、劣悪な環境と十分ではない食事の収容所や強制労働で5万~10万人が死亡したといいます。シベリア抑留は日本人だけかと思いきや、ハンガリー人50万人、ドイツ人は何と240万人も強制奴隷労働で使役したといいます。

 スターリンの悪行はこれだけではありません。8月11日から樺太侵攻を開始します。南樺太は、日露戦争で薄氷の勝利を収めた日本が1905年のポーツマス条約によって割譲された日本領土でした。ソ連軍は、兵力に劣る日本を圧倒し、17日、王子製紙と炭坑で栄えた樺太最大の恵須取(えすとる=人口4万人)を制圧、25日には南端の大泊に進駐し、樺太全島の占領を完了します。その後、疎開する民間人を乗せた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3船が、北海道留萌沖で、ソ連軍潜水艦によって撃沈され、1700人以上の民間人が犠牲になります。これで、ロシアによる民間人虐殺はウクライナで始まったわけではなく、お家芸だったことが分かります。

 ちなみに、樺太の後に、ソ連軍によって占拠される国後、択捉、歯舞、色丹の「北方四島」は、幕末の1855年、日露和親条約で取り決められた日本領土でした(樺太は日露両国雑居地とした)。また、その後、明治になった1875年には、択捉島の隣りの得撫島(うるっぷとう)からカムチャッカ半島に近接する占守島(しゅむしゅとう)までの21島のことを「千島列島」と称し、ロシアは樺太を、日本は千島列島を交換して領有する条約が締結されました。(千島・樺太交換条約)

 スターリンの目論見は、樺太と千島列島の占領だけではありませんでした。北海道の釧路と留萌を結ぶラインの北半分を占拠するつもりだったのです。もし、それが実現していたら、日本も朝鮮半島やベルリンの二の舞になっていたところでした。

 それを阻止したのが、日本の最北端のカムチャッカ半島との国境近い占守島での激戦でした。占守島(しゅむしゅとう)とはいっても、私の世代では知らない人がほとんどです。が、私の親の世代は知っていました。ソ連軍が占守島に侵攻したのは、何と「終戦」が終わった8月18日でした。司馬遼太郎の戦車学校時代の上官だった池田末男連隊長(陸軍大佐)らの戦死もありましたが、第91師団歩兵第73旅団など日本軍守備隊は、札幌にいる第5方面軍司令官樋口季一郎中将の指揮で、死力を尽くして防衛して時間を稼ぎ、ソ連軍が足止めを食らっている隙に、米軍が北海道に進駐し、スターリンの北海道分割という野望は挫かれます。

 8月21日に休戦協定が締結されますが、占守島での日本軍の死傷者600~1000人に対して、ソ連軍は1500~4000人だったと言われます。

 北の大地では、8月15日は終戦でも何でもありませんでした。

 今ではこの史実を知る人は少ないのではないでしょうか?

 

エリート群像と名もなき庶民の声=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、やっと平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読了できました。565ページの大作ですから、2週間以上掛かりました。登場人物は、巻末の索引だけでも、ざっと950人。まさに、大河ドラマです。

 満洲と言えば、最初に出て来るのは、東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満洲国総務長官)、岸信介(満洲国総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)、鮎川義介(日産コンツェルン⇒満洲重工業総裁)の「ニキ三スケ」です。それに加えて、何と言っても「大杉栄殺害事件」の首謀者から満映理事長にまで転身した甘粕正彦(昭和19年1月、甘粕は、芸文協会の邦楽部長藤山一雄に対して、「藤山さん、あれは私ではないよ」と呟くように言った。=41ページ)と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」です。(この名称は、著者が「勝手に命名した」と「あとがき」に書いております。)

 とはいっても、この7人のうちに章を立てて取り上げられているのは、星野直樹と松岡洋右の二人だけです。勿論、残りの5人と満洲事変を起こした板垣征四郎と石原莞爾は、陰に陽に頻繁に「脇役」として登場し、完全に主役を食っている感じです。そんな彼らについては多くの紙数が費やされていましたが、731細菌部隊の石井四郎や満洲国通信社の阿片王・里見甫、作家の長谷川濬、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明らはほとんど出てきませんでした。(著者は「あとがき」で、取り上げたかったが、残念ながら出来なかった人物として、「もう一人の男装の麗人」望月美那子、「満洲イデオローグ」評論家の橘樸=たちばな・しらき=、「満蒙開拓の父」加藤完治らも挙げています。)

 その代わりに多く取り上げられていたのが、小林秀雄や長与善郎、八木義徳、榛葉英治、島木赤彦といった文学者と「満洲の廊下トンビ」小坂正則(報知新聞新京支社長⇒満映嘱託など)、石橋湛山(東洋経済)、石山賢吉(ダイヤモンド社)、「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬(奉天通信局長)、「女優木暮美千代の夫」和田日出吉(時事新報⇒中外商業新報⇒満洲新聞社長。坂口安吾が振られた美人作家矢田津世子とも付き合っていた艶福家)といったジャーナリストたちです。彼らは、満洲関連の多くの文献を残しているせいかもしれません。

 著者も「あとがき」に書いているように、この本が主眼にした時代は「ニキ三スケ」の時代で、初期の満州事変や末期のソ連軍侵攻の悲劇にはそれほど触れられていません。従って、登場する中心人物は、「白紙に地図を書くように」これまでにない新しい国家をつくろうとする野心と理想に燃えたエリートたちで、筆者も「満洲国は関東軍と日系官僚が作った国家であったから、近代日本の二つの秀才集団である軍人と官僚は欠かせなかった」と振り返っています。軍人では、植田謙吉(関東軍司令官)、小磯国昭(関東軍参謀長)、岩畔豪雄(関東軍参謀)、官僚では、古海忠之(大蔵省⇒総務庁次長)、大達茂雄(内務省⇒国務院総務庁長)、「満洲国のゲッベルス」武藤富男(司法省⇒総務庁弘報処長)、「満洲の阿片行政の総元締め」難波経一(大蔵省⇒専売公署副署長)らに焦点が当てられ、意外な人物相関図や面白い逸話が披露されています。

 一つ一つご紹介できないので、是非、手に取ってお読み頂けれたらと存じます。好評なら、今度は「もう一人の男装の麗人」望月美那子や「満洲イデオローグ」評論家の橘樸らを取り上げた「続編」が出るかもしれません。

東京・銀座「わのわ」お刺身定食1000円

 ただ、本書に登場する人物は、ほとんど陸士―陸大を出た超エリート軍人か、東京帝大を出て高等文官試験に合格した超エリート官僚ばかりです。皆、新しい国をつくろうと燃えた人たちでしたが、その下には何百万、何千万人という漢人、満人、蒙人、鮮人(当時の名称)ら虐げられた人がいたことも忘れてはいけません。

 巻末年表を見ると、歴史的に、漢人が「化外の地」(中華文明が及んでいない野蛮な土地)として相手にもしていなかった満洲の地を最初に侵略したのはロシアで、1900年のことでした。満州に東清鉄道を敷設し、ハルビンなどの都市を建設していきます。それが、1904~5年の日露戦争での大日本帝国の勝利で、日本の満洲での権益が拡大していきます。

 昭和初期、金融恐慌などに襲われた日本にとって、満洲は理想の希望に溢れた開拓地で、「生命線」でもありました。一攫千金を狙った香具師もいたでしょうが、職や開拓地を求めて大陸に渡った日本人も多くいます。先日、名古屋で14年ぶりに会った旧友K君と話をしていて、一番驚き、一番印象に残った話は、私も面識のあったK君の御尊父が、16歳で満洲に渡り、満鉄に就職したことがあったという事実でした。16歳の少年でしたから、この本に出て来るような東京帝大出のエリートとは違って、「使い走り」程度の仕事しかさせてもらわなかったことでしょう。

 それでも、そこで、かなり、日本人による現地人に対する謂れのない暴行や差別や搾取を見過ぎて来たというのです。「それで、すっかり親父はミザントロープ(人間嫌い)になって日本に帰ってきた」と言うのです。

 K君の親父さんは、本に登場するような、つまり、字になるような有名人ではありませんでした。が、私自身は、身近な、よく知った人だったので、活字では分からない「真実」を目の当たりにした感じがしました。お蔭で、聞いたその日は、そのことが頭から離れず、ずっと、頭の中で反芻していました。

【参考】

 付 「傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

 「細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

(つづき) 

 やはり、予想通り、平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)にハマって、寝食を忘れるほど読んでおります。昭和時代の初めに中国東北部に13年半存在した今や幻の満洲国を舞台にした大河ドラマです。索引に登場する人物だけでも、953人に上ります。この中で、一番登場回数が多いのが、「満洲国をつくった」石原莞爾で56回、続いて、元大蔵官僚で、満洲国の行政トップである総務長官を務めた星野直樹(「ニキサンスケ」の一人、A級戦犯で終身刑となるも、1953年に釈放)の46回、そして昭和天皇の32回が続いています。

 私は、この本の初版を購入したのですが、発行は「2022年4月20日」になっておりました。それなのに、もう4月30日付の毎日新聞朝刊の書評で、この本が取り上げられています。前例のない異様な速さです。評者は、立花隆氏亡き後、今や天下無敵の「読書人」鹿島茂氏です。結構、辛口な方かと思いきや、この本に関してはかなりのべた褒めなのです。特に、「『ニキサンスケ』といった大物の下で、あるいは後継者として働いた実務官僚たちに焦点を当て、彼らの残した私的資料を解読することで満洲国の別のイメージを鮮明に蘇らせたこと」などを、この本の「功績」とし特筆しています。

 鹿島氏の書評をお読みになれば、誰でもこの本を読みたくなると思います。

 とにかく、約80年前の話が中心ですが、「人間的な、あまりにも人間的な」話のオンパレードです。「ずる賢い」という人間の本質など今と全く同じで変わりません。明があれば闇はあるし、多くの悪党がいれば、ほんの少しの善人もいます。ただ、今まで、満洲に関して、食わず嫌いで、毛嫌いして、植民地の先兵で、中国人を搾取した傀儡政権に過ぎなかったという負のイメージだけで凝り固まった人でも、この本を読めば、随分、印象が変わるのではないかと思います。

 私自身の「歴史観」は、この本の第33回に登場する哈爾濱学院出身で、シベリアに11年間も抑留されたロシア文学者の内村剛介氏の考え方に近いです。彼は昭和58年の雑誌「文藝春秋」誌上で激論を交わします。例えば、満鉄調査部事件で逮捕されたことがある評論家の石堂清倫氏の「満洲は日本の強権的な帝国主義だった」という意見に対して、内村氏は「日本人がすべて悪いという満洲史観には同意できません。昨日は勝者満鉄・関東軍に寄食し、今日は勝者連合軍にとりついて敗者日本を叩くというお利口さんぶりを私は見飽きました。そして心からそれを軽蔑する」と、日本人の変わり身の早さに呆れ果てています。

 そして、「明治11年(1878年)まで満洲におったのは清朝が認めない逃亡者の集団だった。満鉄が南満で治安を回復維持した後に、山東省と直隷省から中国人がどっと入って来る。それで中国人が増えるんであって、それ以前の段階でいうならあそこはノーマンズ・ランド(無主の地)。…あえて言うなら、満洲人と蒙古人と朝鮮人だけが満洲ネーティブとしてナショナルな権利を持っていると思います。(昭和以降はノーマンズ・ランドとは言えなくなったが)、ロシア人も漢民族も日本人も満洲への侵入者であるという点では同位に立つ」と持論を展開します。

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 また、同じ雑誌の同じ激論会で、14歳で吉林で敗戦を迎えた作家の澤地久枝氏が、満洲は「歴史の歪みの原点」で、「日本がよその国に行ってそこに傀儡国家を作ったということだけは否定できない」と糾弾すると、内村氏は「否定できますよ。第一、ソ連も満洲国に領事館を置いて事実上承認してるから、満洲国はソ連にとって傀儡国家ではない」とあっさりと反駁してみせます。そして、「それじゃ、澤地さんに聞きたいけど、歴史というものに決まった道があるのですか? 日本敗戦の事実から逆算して歴史はこうあるべきだという考え、それがあなたの中に初めからあるんじゃないですか?」と根本的な疑問を呈してみせます。

 長い孫引きになってしまいましたが、石堂氏や澤地氏の言っていることは、非の打ち所がないほどの正論です。でも、当時は、そして今でも少数派である内村剛介の反骨精神は、その洞察力の深さで彼らに上回り、実に痛快です。東京裁判で「事後法」による罰則が問題視されたように、人間というものは、後から何でも「後付け」して正当化しようとする動物だからです。内村氏は、その本質を見抜いてみせたのです。

 この本では、鹿島氏が指摘されているように、有名な大物の下で支えた多くの「無名」実務官僚らが登場します。「甘粕の義弟」星子敏雄や型破りの「大蔵官僚」の難波経一、満洲国教育司長などを務め、戦後、池田勇人首相のブレーンになり、世間で忘れられた頃に沢木耕太郎によって発掘された田村敏雄らです。私もよく知らなかったので、「嗚呼、この人とあの人は、そういうつながりがあったのか」と人物相関図が初めて分かりました。 

 難点を言えば、著者独特のクセのある書き方で、引用かっこの後に、初めてそれらしき人物の名前がやっと出てくることがあるので、途中で主語が誰なのか、この人は誰のことなのか分からなくなってくることがあります。が、それは多分私の読解力不足のせいなのかもしれません。

 著者は、マニアックなほど細部に拘って、百科事典のような満洲人脈図を描いております。細かいですが、女優原節子(本名会田昌江)の長兄会田武雄は、東京外語でフランス語を専攻し、弁護士になって満洲の奉天(現瀋陽市)に住んでいましたが、シベリアで戦病死されていたこともこの本で初めて知りました。こういった細部情報は、ネットで検索しても出てきません。ほとんど著者の平山氏が、国会図書館や神保町の古書店で集めた資料を基に書いているからです。そういう意味でも、この本は確かに足で書いた労作です。

傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、ようやく平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読み始めております。索引を入れて565ページの超大作。百科事典に見紛うばかりのボリュームです。

 この本の存在を知らしめて頂いたのは、満洲研究家の松岡將氏です。実は、本として出版される前に、ネット上で全編公開されていることを松岡氏から御教授を受けました(現在、閉鎖)。そこで、私も画面では読みにくいので、印刷して机に積読していたのですが、他に読む本が沢山あって、そちらになかなか手が回りませんでした。ついに書籍として発売されるということでしたので、コピーで読んでいたんではブログには書けない気がして購入することにしたのです。

 最初に「あとがき」から読んだら、松岡將さんが登場されていたので吃驚。ウェブ連載中にたびたび間違いを指摘されたそうで(笑)、著者からの感謝の言葉がありました。松岡氏は索引にも登場し、彼の著書「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」等も引用されています。

 「あとがき」にも書かれていましたが、著者の平山周吉氏の高校時代(麻布学園)の恩師だった栗坪良樹氏(文芸評論家、元青山女子短大学長)が、松岡將氏の母方の従弟に当たるという御縁もあります。著者プロフィールで、平山氏は、「雑文家」と称し、本名も職歴も詳しく明かしていないので、「世界的に影響力のある」このブログでも詳しくは書けませんが(笑)、某一流出版社の文芸誌の編集長などを歴任されたそうで、「週刊ポスト」で書評も担当されています。

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 振り返ってみれば、私の「満洲」についての関心は、松岡氏からの影響もありますが、知れば知るほど、関係者や有名人がボロボロ出てくる驚きがあり、大きな森か沼にはまってしまったような感じなのです。

 「ニキサンスケ」の東条英機、星野直樹、岸信介、松岡洋右、鮎川義介を筆頭に、吉田茂、大平正芳、椎名悦三郎、何と言っても「主義者殺し」から満映理事長に転身した甘粕正彦と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」、731細菌部隊の石井四郎、満洲国通信社の阿片王・里見甫、「新幹線の父」十河信二、作家の長谷川濬、檀一雄、澤地久枝、評論家の石堂清倫、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明、李香蘭、木暮美千代、歌手の加藤登紀子、指揮者の小澤征爾、岩波ホールの支配人だった高野悦子…と本当にキリがないほど出て来るわ、出て来るわ。

 もう出尽くしたんじゃないか、思っていた頃に、この「満洲国グランドホテル」に出合い、吃驚したと同時に感服しました。これでも、私もかなり満洲関係の本を読んできましたが、知らなかったことが多く、著者は本当に、よく調べ尽くしております。目次から拾ってみますと、「小林秀雄を満洲に呼んだ男・岡田益吉」「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」「ダイヤモンド社の石山賢吉社長」「関東軍の岩畔豪雄参謀、陸軍大尉の分際で会社を65を設立す」「誇り高き『少年大陸浪人』内村剛介」…、このほか、笠智衆や原節子らも章が改められています。

躑躅

 キリがないので、最小限のご紹介に留めますが、小林秀雄を満洲に呼んだ岡田益吉とは、読売新聞~東京日日新聞の陸軍担当記者から、満洲国官吏に転じ、協和会弘報科長などを務めた人。東日記者時代は、永田鉄山参謀本部第二部長から、国際連盟脱退の決意を聞き、大スクープ。満洲時代は、「張作霖事件」の首謀者河本大作と昵懇となり、「張作霖の場合民間浪人を使ったので、機密が民政党の中野正剛らに漏れ、議会の問題になったので、今度(柳条湖事件)は現役軍人だけでやった。本庄繁軍司令官は翌年の3月、河本が本庄に告白するまで知らなかった」ことまで引き出します。

 「満洲の廊下トンビ」小坂正則とは、岡山県立第一商業を出た後、渡満し、満洲では、秘密警察的存在だった警務司偵輯室員と報知新聞記者などの二足の草鞋を履き、同郷の土肥原賢二大佐(奉天特務機関長)や星野直樹・総務庁長(間もなく総務長官と改称)ら実力者の懐に飛び込み、その「廊下トンビ」の情報収集力が買われ、諜報員と記者の職を辞しても、複数の嘱託として「月収3000円」を得ていたという人物です。

 まあ、人間的な、あまりにも人間的な話です。とにかく、この本を読みさえすれば、複雑な満洲人脈の相関図がよく分かります。(この話は多分、つづく)

失望しても絶望はしない!=86年ぶりに新関脇優勝した若隆景と毛利元就3兄弟

 3月末は毎年忙しいです。

 3月末といえば年度末です。そう、大量の人事異動の季節でもあります。となると、私は、これでも、まだ仕事をしているので、霞ヶ関の人事異動情報が殺到して、とても忙しくなり、ブログなんか書いている暇がありません(笑)。

 おまけにお花見の季節です。ウイル・スミスに平手打ちされても、桜見だけは欠かせません。

 とはいえ、このブログは私の「安否確認」サイトにもなっているので、暫く間が空くと皆様に御心配をお掛けすることになりますので、本日はお茶を濁すことに致します。

 何と言っても、2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻で、すっかり人生観、世界観が変わってしまいました。皆さんも同じでしょう。プーチンの戦争は、19世紀的、帝国主義的、領土拡大主義です。人間なんて、誇大妄想だらけで、これっぽちも進歩していません。

 並行してユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」の両書を読んでいましたから、余計にその思いを強くしました。自由も平等も人権も平和も神も宗教も、現生人類が考えた妄想か虚構、もしくは共同主観的ということになります。(ハラリ氏は「ホモ・デウス」の中で、「聖書」でさえ、「多くの虚構と神話と誤りに満ちた書物」=上巻215ページ=とまで言って糾弾しています。)

MInuma-tanbo 2022

 ところで、日曜日、大相撲の千秋楽で三つ巴になった優勝争いは、新関脇の若隆景が、大激戦を制して初優勝を遂げました。新関脇の優勝は、1場所11日制だった1936年5月場所のあの双葉山以来86年ぶりだということで、歴史的瞬間に立ち合ったような気分になりました。大袈裟ですけど、1936年といえば、「2.26事件」があった年ですからね。

 福島県出身の若隆景(27)は、祖父が元小結・若葉山。双葉山に弟子入り入門を許されて角界入りした力士でしたから何か縁を感じます。父が元幕下の若信夫。その息子たち、兄弟3人が、そろって角界入りを果たしました。長兄は幕下の若隆元(30)、次兄は前頭9枚目の若元春(28)、若隆景は三男になります。三世代かけて、そのDNAが受け継がれて、やっと幕内優勝を遂げたということになります。

 この3兄弟の四股名は、毛利元就の3兄弟から取ったといいます。つまり、あの「三本の矢」で有名な毛利隆元、吉川元春、小早川隆景です。戦国時代ファンとしてはたまらない、と言いますか、覚えやすいですね(笑)。

 ただ、小早川隆景の養子になった小早川秀秋(豊臣秀吉の正室ねねの甥)は、1600年の関ヶ原の戦いで、東軍の徳川家康方に寝返って、「裏切者」の汚名を歴史に残してしまいました。でも、大相撲とは全く関係ない話ですから、せめて若隆景はこれから大関、横綱と昇進して大活躍してもらいたいものです。

MInuma-tanbo 2022

 以上のことは相撲ファンにとっては常識の話でしたが、敢えて書くことにしました。知らない人は知らないでしょうから(笑)。

MInuma-tanbo2022

◇ブログを書くという恥ずべき行為

 実は、私は、ここ数日、ブログを書いて、世間の皆様に公にするような行為が浅ましいと、思うようになっておりました。

 しかし、侵略主義というパンドラの箱を開けてしまったプーチンの蛮行のおかげで、北の若大将がミサイルを狂ったように撃ち始め、大陸の皇帝は、数年以内に南の小さな島を侵略しようと目論んでいるようです。いずれも、「ロシアがやったんだから、我々がやってもいいじゃないか」といった論理で。

 そんな「プーチン後の世界」となり、刹那的でも人生を謳歌するしかない、と思い直しするようになりました。いつ何時、何が起きるか、これから先、分かったためしがありません。相撲でも観戦して、沢山の本を読んで、ブログでも書いて、ピアノでも弾いて、大いに人生を楽しむしかないじゃありませんか。

 人間に対して失望しても、絶望してはいけないというのが私のスタンスです。たとえ、人間は妄想の中で生きている動物だとしても、生きている限り、希望はあるはずですから。