大久保さん、ごめんなさい=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」を読了

 11月11日付渓流斎ブログ「明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著『大久保利通 《知》を結ぶ指導者』」の続きです。やっと読了できました。同書は、「出典・註釈」を入れて520ページ以上の大作でしたので、所用にも追われ、読むのに結構時間が掛かりました。とはいえ、難解な書物ではありません。不勉強な私は「大久保利通とはそんな人物だったのか!誤解していた」と何度も何度も感心しながら読みました。

 よく知られている大久保利通(1830~78年、47歳没)という歴史上の人物の評伝だとはいえ、読後感は胸が詰まる思いです。暗殺現場は凄惨そのものです。茲では書くのは憚れますが、暗殺された大久保の遺体の致命傷が事細かく記述されています。うーん、やはり、とても書くことが出来ません。それでも、暗殺者の島田一郎(元加賀藩士、事件後、大逆罪で斬首)ら6人の不平士族は、当時でさえ英雄視されていたのです。暗殺されたのは明治11年5月14日、麹町紀尾井町です。私も訪れたことがありますが、現在の清水谷公園に「大久保利通哀悼碑」があります。その前年に、西南戦争が終結し、大久保の盟友西郷隆盛は自決しています。これで、不平武士たちは、内乱を起こすのではなく、「悪政を糺す」ことを金科玉条として「要人暗殺」に方針を切り替えます。

 当の大久保は、暗殺される当日、早朝(何と6時!)に、麹町の自宅(現ベルギー大使館)で、福島県令(今の知事)の山吉盛典と会談しています。当時の大久保は、自ら率先してつくった内務省の大臣に当たる内務卿で、山吉とは福島県安積疏水事業に関する打ち合わせなどをしていたのです。この事業とは、明治になって職を失った士族や華族らのための公共事業で、いわゆる雇用対策事業です。不平武士らは、これら雇用創出の公共事業のことを知らず、大久保のことを誤解していたことになります。

歌舞伎座(東銀座)※本文とは関係ありません

 内務省と言えば、後世の人間にとって、戦時中の内務省警保局の特高のイメージが強過ぎます。特高は、作家小林多喜二を築地警察署内でリンチ撲殺した身の毛がよだつ恐ろしいイメージです。その恐ろしいイメージが、内務省をつくった「独裁者」大久保利通に重なってしまった弊害がありました。しかし、実は、大久保が内務省を創設した第一の目的が、治安維持ではなく、「殖産興業」だったことが本書を読んで初めて知りました。大久保は、「岩倉使節団」として欧米列強を視察して来ましたから、欧米列強の植民地にならないためにも、国内産業を奨励して国力を高めることを痛感していたのです。一言で言えば、「富国」ですが、意外なことに、大久保にとって、その後の「強兵」の思想は二の次です。何しろ、大久保は、明治4年に起きた台湾に漂着した宮古島島民54人もが殺害された事件が起きた時も、台湾出兵には消極的でした。またまた意外にも大久保は、平和主義者で外交で問題を解決しようという立場で、実際、自ら北京に渡って交渉しているのです。

 大久保は、明治10年に第1回内国勧業博覧会を先頭に立って開催しますが、あくまでも国内の産業の振興と発展と奨励が目的で、海外からの出品を拒否したほどなのです。また、大久保は、これまた意外にも農本主義者でもありました。

 何で当時の人も、そうして後世の人間も、大久保利通とは所詮、盟友を排除してのし上がった権謀術策に長けた冷酷非情な独裁者だというイメージが定着してしまったのでしょうか? 同時代人の岩倉具視でさえ、大久保のことを「才なし、史記なし、只確乎と動かぬが長所なり」と評したことから、大久保利通には思想も学才もない印象が持たれた要因になったようです。こんなんでは、大久保は二度も殺されたようなものです。

歌舞伎座(東銀座)

 しかし、大久保には岸田首相よりも「聞く耳」を持ち、知識を吸収し、著者の言葉を借りれば、「知と知を結び付け、人と人を結び付ける」才能があり、それらはとてもつもなく非凡な才能だったと言えます。「志半ば」で倒れた大久保利通ですが、維新の英傑の中で最重要人物だったということを本書で認識しました。また、この本では触れられていませんでしたが、大久保は公共事業に私費を投じるなど、多額の借金を残して亡くなったと言われます。大久保の後継者となった次の世代の、汚職事件にまみれた井上馨や、「椿山荘」「無鄰菴」など豪壮な別荘を構えた山縣有朋らと比べるとえらい違いです。

 泉下の大久保利通さんには「ごめんなさい。誤解していました」と謝りたいほどです。いつか、東京・青山霊園に墓参したいと思いました。

明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」

  このブログでも何度か取り上げました「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、1430円)を読んでいたら、もっと幕末史や明治の新制度のことを勉強したくなりました。そしたら、ちょうどお手頃の本が見つかりました。瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書、2022年7月25日初版、2420円)です。

 歴史上の人物としての大久保利通は、個人的に、どちらかと言えば、あまり好きになれない人物でした。いや、大嫌いな人物でした。主君の島津久光を裏切るやら、何と言っても、大親友であった盟友西郷隆盛を結果的に追い詰めて死に至らしめた張本人です。変節漢、裏切り者、冷徹、冷酷無比、独裁者といった言葉は、常に彼に付きまとっていた修辞でした。

 しかし、そういった定説を根本的に覆したのが、本書だったのです。この本のキャッチコピー曰く、「独裁と排除の仮面の裏には、人の才を見出し、それを繋ぎ、地方からの国づくりを目指した素顔があった」です。私も新聞各紙が取り上げた書評を読むうちに、「あれっ?自分の考え方は間違っていたのかもしれない」と思い直し、正直、ちょっと高い本だな、と思いつつ、いわば罪滅ぼしのつもりで購入したのでした。

 それで、どうだったのか、と言いますと、すっかり見直しました(笑)。「大久保利通とは、こんな人だったのかあ」と自分の不勉強を恥じました。勿論、この本は、大久保利通を主人公にした物語なので、彼が敵対した徳川慶喜や幕臣たちに対する評価が異様に低く、少しは割り引いて読まなければなりません。でも、著者は、残された大久保日記や書簡などを丁寧に渉猟し、なるべく、ほんの少しですが、距離を置いて客観的に人物像を造形した努力の跡が見られます。

 そんなお堅い話は抜きにしても、幕末明治に関心がある人なら誰でも、十分、面白く拝読できます。薩長土肥の雄藩が如何にして明治維新という大業を成し遂げることができたのか。新政府は、どうやって、征韓論や佐賀の乱、西南の役などの国難を乗り切って、如何にして政治制度を築き上げていったのかー。全てこの本に書かれています。まだ、3分の1近く残っていますが、その途中で、この本が、「第76回毎日出版文化賞」を(11月3日に)受賞したことを知りました。確かに賞に値する良書なので、選考委員の皆さんの千里眼には感心しました。

東銀座

 私が不勉強を恥じた一番大きな点は、てっきり、大久保利通は唯我独尊の独裁者かと思っていたことです。実は、彼は気配り、心配りがある人で、事前の根回しをし、うまくいかないと心を痛めたり、(手紙の中で)落涙したり、辞表を提出したりする人間的側面があったことです。勿論、根回しというのは、政治的駆け引きであり、目的のためには手段を選ばない冷徹さがありますが、それは合理主義でもあり、嫌らしい権謀家の大久保らしいと言えば、大久保らしいのです。

 根回しのカウンターパートナーは、主に、同郷の薩摩藩なら島津久光と西郷隆盛、長州藩なら木戸孝允、そして、宮中工作なら岩倉具視といった具合です。それに大久保は、分け隔てなく、優秀な人材なら、福沢諭吉、西周といった幕臣まで重職に採用しようとしたりしました。

 その政治の目的とは何だったのか? と聞かれると、即座に単純にお答えすることはできませんが、少なくとも大久保を代表する明治の為政者にとっては、私利私欲を廃して公に尽くすことが第一義だったようです。それは、五箇条の御誓文の最初の「広ク会議ヲ興シ,万機公論ニ決スヘシ。」にも表れています。

 明治政府首脳たちは、王政復古の大号令を経て、天皇中心の君主国家をつくろうとしたことは間違いないのですが、特に大久保は、「君民共治」(後にいう立憲君主制)の政体を目指していたことです。独裁的な天皇君主制ではなかったのです。明治4年に参議に就任するに当たり、有名な「定大目的」(政権の大目的)を提出しますが、この中ではっきりと、天皇親政と言えども、決して独裁とならず、御誓文にあるように公論に則ったものでなければならない、と主張しているのです。しかも、華族や士族といった差別なき世を創りだす、とまで宣言しているのです。大久保がこんな革新的な人だったとは。。。

 私にとって、意外だったことは、あの岩倉具視でさえもが、幕末の慶応元年(1865年)6月に執筆した政治意見書「叢裡鳴虫」の中で、「国政の大綱は、天皇一人が決してよいものではない。幕府が専断してよいものではない。君臣が相共に討議して、その結果を天皇が裁決すべきものなのである」と力説していたことです。公家でありながら、天皇独裁を暗に否定しているのです。大久保も影響を受けていたのでしょう。

東銀座

 また、維新三傑の一人、長州藩の木戸孝允も同年、旧知の対馬藩士への書簡の中で、自分は長州の人でも日本の人でもない。(そういったものから離れて、)日本という国の現状を天の高みから見てみようと語っているのです。この話は、維新後の木戸が、版籍奉還と廃藩置県という新政府最大の「一大難事業」を一刻も早く断行するべきだという急進派で、時間を掛けてゆっくりと改革するべきたと主張する大久保としばしば対立したという話につながるわけです。

 私は大久保の方がもっと急進的な過激派だったと誤解していました。

 いずれにせよ、国家の根本となる政治制度を構築するには、理想だけでは済まされず、明治の元勲たちは確固とした思想があり、中でも特別に、大久保利通には広い視野を持った、他人の意見には耳を傾ける(西郷隆盛以上に)「知」の人だったことが、この本を読んで初めて知りました。

(つづく)

ゾルゲは今でも生きている?=「尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会」に参加して来ました

 11月7日(月)は、戦前の上海と東京で大掛かりな諜報活動を行ったソ連軍参謀本部情報総局(GRU)所属の大物スパイ、リヒアルト・ゾルゲとその協力者の元朝日新聞記者で近衛内閣嘱託だった尾崎秀実が国防保安法違反などで処刑されて78周年の日でした。この日に合わせて、「尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会」が東京・霞ヶ関の愛知大学東京霞ヶ関オフィスで開催されるというので、仕事をサボタージュする顰蹙を買いながらも、参加してきました。

尾崎=ゾルゲ研究会設立第1回研究会での名越健郎氏

 なぜ、参加したのかと言いますと、10月に刊行されたゾルゲ研究家のアンドレイ・フェシュン・モスクワ国立大学准教授編の「ゾルゲ・ファイル 赤軍情報本部機密文書 1941~45年」(みすず書房、7040円)を翻訳した名越健郎拓殖大学教授が、小生の大学と会社の先輩に当たる周知の人だったからです。

 それに、小生は、かつて元朝日新聞記者の白井久也氏と社会運動研究家の渡部富哉氏が創設したゾルゲ研究会の「日露歴史研究センター」(現在解散)の幹事会員として活動し、途中で不愉快なトラブルがあって辞めましたが、ゾルゲ事件に関する書籍は50冊は読破し、ある程度の基礎知識があったからでした。

 「尾崎=ゾルゲ研究会」は、前述の日露歴史研究センターの解散を受け、私もお世話になった加藤哲郎一橋大・早大名誉教授が代表、鈴木規夫愛知大学教授が事務局長を務めて新たに発足したものです。加藤氏は今年に入って大病を患い、入退院を繰り返しておられたので、大層心配しましたが、今回、一応元気そうなお姿で登壇されたので少し安心しました。

 最近の日本でのゾルゲ事件研究者は年々減少傾向にあり、「何故、今更、ゾルゲ事件なの?」という人が多いのですが、ロシアでは反比例するかのように、最近は異様なゾルゲ・ブームで、国内で数十冊の本が刊行されたり、ゾルゲを主人公にしたドラマが放送されたり、モスクワ市内にゾルゲ駅が出来たり、ロシア国内でゾルゲ通りや、50個以上ものゾルゲの銅像が建てられたりしたというのです。

 先述したフェシュン・モスクワ国立大学准教授編の「ゾルゲ・ファイル」も、フェシュン氏が、GRUがやっと公開した1930~45年に掛けてのゾルゲの650通の電報などを「新発見」として出版したものです(今回、名越氏らが邦訳したのは1941~45年分のみで、1930~40年分は未邦訳。皆さんのお力で本が売れたら未邦訳分は改めて出版されるようです)。日本でも、ゾルゲ事件の捜査に関わった司法省の思想検事太田耐造の「ゾルゲ事件史料集成 太田耐造関係文書」(加藤哲郎編・不二出版)が出版されるなど、本来なら新たなゾルゲ研究が日本でもブームになってもおかしくない状況なのです。

久しぶりに新橋「末げん」へ。かま定食1200円 、明治42年創業。原敬、六代目菊五郎、三島由紀夫らがこよなく愛した味と店

 さて、会場には、日露歴史研究センターの事務局長だった川田博史氏や理事だった今年御年92歳の渡部富哉氏(頗るお元気!)、それにインテリジェンス研究所理事長の山本武利氏まで参加されていたので、まるで同窓会のような雰囲気でした。

 ZOOMを使ったオンラインで、先述の「ゾルゲ・ファイル」の編著者で、モスクワ在住のフェシュン氏まで参加し(本来は東洋学者で、仏教思想が専門。日本語がペラペラでした)、大変実りの多い第1回研究会だったと思います。内容については、このブログでは書き切れないので、私が注目した2点だけこのブログに書きたいと思います。

 ◇ゾルゲ以外に東京でスパイがわんさか

 一つは、翻訳した名越氏によると、「ゾルゲ・ファイル」で今回初めて明らかになった新事実のトップが、東京にはゾルゲ諜報団以外に、ソ連による非合法のスパイが5人もいたというのです。コードネームだけ分かっていて、イスパリン、イバ、イリアダ、イーラ、マロンの5人です。いずれも正体不明で恐らく、誰にも気づかれず、成果を挙げて、各々、母国に帰国したと思われます。このうち、イリアダはドイツ大使館にいた女性だといいます。この他、ユダヤ系米国人カルメン(26歳、女性)も雇っていたというので驚きです。まあ、これこそが正真正銘のスパイなんでしょう。ゾルゲ事件のように、正体が解明されてしまったスパイ事件の方が、歴史上に非常に稀なのです。

 ところで、スターリンは猜疑心が非常に強く、周囲の誰も信用せず、粛清を繰り返していたと言われていましたが、何故、ゾルゲの貴重な超機密情報まで信じなかったのか、私自身、よく分からなかったのですが、今回、話を聞いて、考えられることは、スターリンは、ゾルゲ以外にこれだけのスパイを東京に放っていたので、ゾルゲ一人だけを信用する必要がなかったからかもしれません。

 もう一つ、スターリンがゾルゲを信用しなかった理由が、ゾルゲがコミンテルン(国際共産主義運動)の一員だったので、スターリンは、ゾルゲのことを権力闘争で敵対したトロツキー派とみなしたのではないかという名越氏らの説明には十分納得し、長年の疑問が氷解するようでした。スターリンは「一国社会主義」であり、「世界社会主義革命」のトロツキー派とは相容れないわけです。

 ゾルゲがソ連国内で名誉回復をしたのはフルシチョフ首相時代の1964年で、フルシチョフはスターリン批判をした反スターリン派だったということも整合性がつきます。そして、現在のロシア・プーチン大統領も「高校生の頃、ゾルゲのようなスパイになりたかった」(2020年10月7日の68歳の誕生日、タス通信)と発言したことがあり、大祖国戦争を勝ち抜いた英雄としてゾルゲを利用して国粋的な覇権主義を煽り、それが今のロシア国内でのゾルゲ・ブームにつながったのではないでしょうか。

 何と言っても、今年2月のロシアによるウクライナ侵攻です。いつまでたっても休戦しないのは、厄介なスパイ・ゾルゲの亡霊が今でも生きているような感じがします。

意外に知らなかった史実=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

 「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、2022年9月21日発売、1430円)を読了しました。

 残念ながら、ちょっと誤植が多い本でしたが、執筆・監修がよくテレビに出演されている著名な河合敦先生ということですから、版を重ねれば修正されると思われます。何しろ、百科事典のような情報量が満載の本ですから、書斎の手近に置いて、時たま参照したいと思うのです。

 昨日も自宅からちょっと離れた紀伊國屋書店に自転車で行ったところ、この本が山積みになって売られていたので、巷では結構、評判を呼んでいることでしょう。是非とも、もう一度、校正・修正してほしいものです。

 この本を渓流斎ブログで取り上げるのは三度目です。(2022年11月1日付「維新後、お殿様たちはどうなったの?」、11月4日付「江戸三百藩のはじめとおわり」)。そろそろ、ネタも尽きかけましたが(笑)、最後に感想めいた終わり方にしたいと思います。つまり、意外に知らなかった史実がこの本から読み取ることが出来たのです。

 まず、大名とは何ぞや?ということですが、簡単に言えば、1万石以上の城主のことです。分家筋の支藩には、お城がなく、陣屋だけのところもありますが、それでも、石高は1万石以上が相場です。では、その大名は誰がなれるのか?と言えば、江戸三百藩で一番多いのは、当然のことながら、徳川家の血筋でしょう。江戸と御三家(尾張、紀州、水戸)は徳川家なのですぐ分かりますが、家康が徳川と名乗る前は、松平元康でしたから、松平家の藩もかなりあります。

 一番有名なのが、越前福井藩で、家康の次男結城秀康が松平に改姓して越前に移封されました。幕末には、四賢侯の一人、松平春嶽(慶永)を輩出します。次に有名な藩主は、最後まで新政府軍と戦った会津藩の松平容保でしょう。容保はもともと高須四兄弟の一人で、尾張藩の支藩高須藩(松平尾張家)から養子として入った藩主です。会津藩は、二代将軍徳川秀忠の庶子である保科正之が、三代将軍家光によって配されたもので、代々松平保科家が継いでいました。

 この他、松平家が藩主になっているのは、山形県の上山藩、福島県の守山藩(水戸藩の支藩)、茨城県の常陸府中藩(水戸支藩)、群馬県の前橋藩(越前支藩)、高崎藩(大河内家)、小幡藩(家康の女婿奥平家)、千葉県の多古藩(久松家)、埼玉県の忍藩(奥平家)、川越藩(松井家)、愛知県の三河吉田家(大河内家)、岐阜県の岩村藩(大給家)、長野県の松本藩(戸田家)、上田藩(藤井家)、三重県の桑名藩(久松家、幕末は高須四兄弟の一人で、会津藩の松平容保の実弟定敬が藩主に)、兵庫県の尼崎藩(桜井家)、愛媛県の伊予松山藩(久松家)と今治藩(同)、西条藩(紀伊支藩)、岡山県の津山藩(越前松平家)、島根県の広瀬藩(越前松平家)、大分県の杵築藩(能見家)など多数あります。

 山形藩、茨城県の結城藩、千葉県の鶴牧藩、和歌山県の新宮藩など水野家の藩主大名が多い。この水野家というのは、家康の生母於大の方の実家で、家康の従兄弟に当たる水野家の武将が大名に封じられていたわけでした。

 こうして、家康の縁戚関係と「徳川四天王」など家臣団の有力者から大名が選ばれていた場合が多かったことが分かります。

 本能寺の変で織田信長と嫡男の信忠が討ち死にしたため、織田家の大名はいないと思っていましたら、おっとどっこい、失礼ながら、しぶとく生き残っていました。山形県の天童藩は、信長の次男信勝の家系、奈良県の芝村藩は、信長の弟有楽斎(長益)の家系、兵庫県の柏原藩は、信長の弟信包の家系が立藩して繋がっています。

 それに比べて、秀吉の豊臣家は、大坂の陣で滅亡させられてしまい、(淀君と秀頼は自害)、江戸になって大名は一人もいません、と思っていたら、秀吉の妻である北政所の兄木下家定が、関ケ原の戦いで東軍で武功を立て、大分県の日出藩を立藩し、幕末まで木下家が藩主として続ていました。木下家の19代当主木下崇俊氏は学習院時代、明仁上皇さまと御学友で、演劇部に所属し、オノ・ヨーコと演劇仲間だったそうです。1934年生まれで、惜しくも今年(2022年)亡くなられたようです。

 長州藩の毛利家は、鎌倉幕府初代政所別当の大江広元を祖とし、薩摩藩の島津家は、鎌倉幕府の御家人島津忠久を祖とすることはよく知られていますが、長崎県の五島藩は、平清盛の異母弟平家盛が祖、宮崎県の高鍋藩は平安時代から筑前国秋月を領した名族秋月氏が祖だということは知る人ぞ知る史実でしょう。

 最後に、私は北海道の帯広に赴任したことがありますので、同じ十勝の池田町というのは大変馴染みがある町です。戦後、葡萄を栽培してワインを町の名産にし、池田町のワイン城は有名になりました。ポップスのドリカムのボーカル吉田美和さんの出身地としても知られています。その池田町は、維新後、北海道開拓に力を入れて「池田農場」を開いた旧鳥取藩の当主・池田仲博や「池田牧場」を開いた鳥取藩の支藩である鹿野藩の池田家から付けられたようです。知らなかったので、へーと思ってしまいました。また、釧路市にも鳥取町がありましたが、これも、明治17~18年に旧鳥取藩士が移住したことから付けられました。これは知っておりました(笑)。

【追記】

 もう知らない方も多いかもしれませんけど、映画「ゴジラ」やドラマ「渡る世間は鬼ばかり」などに出演された女優の河内桃子(こうち・ももこ、1932~98年、病気のため66歳没)は、三河吉田藩主の大河内松平家の末裔だったんですね。清楚な美人で、やはり、どこか気品と華がある女優さんでした。彼女の御主人のテレビプロデューサー久松定隆氏は、今治藩主の久松松平家の末裔ということで、お似合いの夫婦だったことになります。

維新後、お殿様たちはどうなったの?=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

  ネット通販のお蔭で、街中の本屋さんが次々と消えていく現況は、本当に残念で物悲しいものです。「犬も歩けば棒に当たる」ではありませんが、書店に行けば、思ってもみなかった「お宝」に書棚で巡り合うことができるからです。

 今回のめっけもんの「お宝」は、「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、2022年9月21日発売、1430円)という本(ムック)です。誠に大変失礼ながら、全く聞いたことがない出版社で、恐らく、新聞などに広告を打つ余裕があるような会社とは思えません(本当に失礼)。もし、私が書店に足を運ばなければ、この本の存在すら知らなかったことになります。そして、もし売れ残れば、廃棄処分されていたのかもしれません。

 そう思うと、本に巡り合うことも運と縁ですね(大袈裟な!)

 「目次」のような表紙ですが、この表紙を見ただけで、この本の内容が少し分かります。当たり前の話ながら、明治維新と廃藩置県という「革命」によって、かつての大名は、失業します(特に、佐幕派は財産を没収されますが、新政府に協力した藩主は、持参金を貰ったり、領地を払い下げられたりしたので、「文無し」になったわけではありません。それに維新後、知事になったり、爵位を得て貴族院議員になったりしました)。つまり、お家が断絶したわけではなく(勿論、嗣子がなく直系が断絶した家も結構あります)、明治になっても、大正になっても、昭和になっても、そして平成、令和の時代になっても続いているわけです。(徳川宗家も来年1月1日に代替わりし、82歳と高齢の第18代恒孝=つねなり=氏に代わって、57歳の家広氏が第19代当主を継ぎます。)

 幕末史にせよ、歴史の教科書では、誰それが活躍して何をした、はい、それで終わりですが、生身の人間は、そんな書かれた歴史を乗り越えて、今でも続いているわけです。

 この本では大名家の子孫がその後どうなったのか、を扱っていて、江戸時代、全国「三百藩」とも言われた大名の子孫が維新後、どうなったのか、百科事典のようにほぼ全藩、網羅されているので、私なんか即、購入しました。特に、各藩の江戸の上屋敷、中屋敷、下屋敷の推定現在地まで掲載されていたので、お買い得だと思いました。

◇悲喜こもごものお殿様

 さて、彼ら、お殿様の末裔はどうなったのか? ここでは、全ては書き切れないので、かいつまんでほんの少しだけご紹介します。この本ではあまり紙数が費やされていませんでしたが、現在、誰でも知っている一番有名な「お殿様」と言えば、熊本県知事から内閣総理大臣にまで昇り詰めた細川護熙氏ではないでしょうか。戦国大名の細川藤孝・忠興の直系の子孫で肥後熊本藩主細川家の第18代当主に当たります。

 でも、細川氏は最も恵まれたお殿様の末裔かもしれません。加賀百万石の前田藩の末裔当主、前田利為(としなり)は陸軍士官学校(17期生で、東条英機とは同期)に進み、近衛師団大隊長、陸大校長などを歴任し、昭和17年、ボルネオ守備司令官となりますが、惜しいことに飛行機事故で亡くなります。(死後、大将に昇格)

 お殿様の子孫なら、戦争になれば「優遇」されるのかと思っていたら、昭和になるとその威光は届かなくなったようです。最後の将軍徳川慶喜の孫に当たる徳川慶光さんは、東京帝大卒業後、宮内省図書寮に勤務していましたが、昭和15年には「一兵卒」である二等兵として入隊したのを皮切りに、計3度も二等兵として召集されたというのです。中国戦線では赤痢とマラリアに罹り生死を彷徨ったといいます。戦後、華族制度の廃止で財産を失い、高校の漢文講師、東洋製罐研究所など職を転々としたようです(1993年、東京・町田市で80歳で没)。

 また、北海道・松前藩の第16代当主正広も、子爵のまま陸軍二等兵として召集され、ニューギニアで戦死しています。とはいえ、明治になって軍人になったお殿様の末裔は多いですが、大体、陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、幹部になっています。

 この他、徳島14代藩主の蜂須賀茂韶(もちあき)は英オックスフォード大学に留学し、フランス特命全権公使などに、佐賀藩最後の藩主鍋島直大(なおひろ)は、駐イタリア全権公使に、その後任のイタリア公使が広島藩主の浅野長勲(ながこと)、岸和田藩主の岡部長職(ながもと)は、英ケンブリッジ大学などに留学し、英全権公使などを務めるなど外交官になったお殿様もいます。(ちなみに、岸和田藩主・岡部長職の三男長挙=ながたか=は、朝日新聞創業者の村山龍平の娘婿となり、朝日新聞の二代目社主・社長になっています)

銀座「魚金」 今だけ大特価 握りとおでんとシラスワカメ、お味噌汁付きで何と800円。今だけでっせ

 全く個人的ながら、私の先祖は久留米藩21万石の藩士だったので、藩主有馬家がどうなったか気になっていましたが、4ページの特集を組んでくれております。表紙のタイトルが「情け有馬の『博愛』貴族と『叛逆』文士~父子三代に渡る相克劇」です。

 有馬藩最後の藩主は第13代の有馬頼咸(よりしげ)ですが、その孫の第15代頼寧(よりやす)は、東京帝国大学助教授になったり、水平社運動など社会運動にも身を捧げたりします。第一次近衞文麿内閣で農林大臣や大政翼賛会の事務局長などを務め、競馬の「有馬記念」は、この有馬頼寧から付けられたものです。ただ、伯爵になった第14代の父頼萬(よりつむ)の貴族趣味に反発し、女性スキャンダルも多かったようです。また、昭和初期の軍部勢力を抑え込むことが出来ず、あの笹川良一さんからは「頼寧は『よりやす』ではなく『頼りねえ』と読むんだよ」と陰口を叩かれたらしいです。

 この有馬頼寧の子息が直木賞作家の有馬頼義(よりちか)です。二・二六事件では暗殺された斎藤実内相の隣家に住んでいたことから(頼義の実姉が、斎藤実の養子に嫁いでいた)、この歴史的大事件の現場に遭遇します。二・二六事件関係の本も出版しています。満洲での兵役で下士官からリンチを受けた体験を書いたのが「貴三郎一代記」で、「兵隊やくざ」のタイトルで、勝新太郎、田村高広主演で映画化されました。ただし、晩年は薬物依存症になり自殺未遂を起こし、家族と離れて、入院した病院の看護師と暮らすなど、父親譲りの女性スキャンダルも多く、無頼派作家として名を残しました。

 この頼義の長男が1959年生まれの頼央(よりなか)氏です。父親を反面教師として育ったせいか、有馬家ゆかりの水天宮(東京・日本橋蠣殻町)の宮司になっております。「安産の神様」で知られる水天宮は、久留米の総本宮が、文政元年(1818年)、9代藩主有馬頼徳によって江戸上屋敷(芝赤羽根橋)によって分霊され、江戸庶民にも開放されたことから、「情けありまの水天宮」と言われたそうです。明治になって、現在地に移転します。

 水天宮の宮司の有馬頼央氏は、久留米藩の第17代当主に当たります。私の祖先は久留米藩士だったとはいえ、御船手役の下級武士だったため、そう易々と藩主様にお目見え出来る身分ではなかったと思われます。となると、世が世なら、土下座してお会いしなければならない方です。そう言えば、私の小学校時代の旧い友人の北原さんも御先祖様は久留米藩士でしたが、ウチとは格が違い、小姓の身分(主君の雑務、警備を担当)だったと言いますから、毎日、藩主の側に仕え、俸禄石高も高かったことでしょう。

 世が世なら、北原さんとも気安くお会いすることはできなかったことでしょうね(笑)。

「陸軍第四師団と関西財界人平生釟三郎」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティー」=第46回諜報研究会

10月15日(土)にオンラインで開催された第46回諜報研究会に参加しました。

 諸般の事情が御座いまして、諜報研究会のことをブログに書くのは、本当に久しぶりです。言い訳がましいのですが、茲では書けない理由の他に、自分自身のCPUの処理能力が格段に劣化して、講演者の話されるスピードの速さもあり、メモが全く追い付かず、それに輪を掛けて理解力も低下しているため、正直、とても字にすることが出来なかったのでした。

 早い話が、レベルが高過ぎて、ついていけなかったのです。

 しかし、今回は、研究会の屋台骨を支えている事務局長が登壇されたこともあり、「諸般の事情」を乗り越え、万難を排して、特別に書くことに致しました。

 最初の報告者は、中央大学国際情報学部講師で、インテリジェンス研究所事務局長の正田浩由氏です。タイトルは「陸軍第四師団と関西財界人平生釟三郎」です。

 平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)といえば、個人的に、直ぐに甲南学園の創立者で、教育者のイメージが強かった人でした。「個人的」というのは、神戸にある甲南大学が、東京駅に隣接する高層ビル内に「ネットワークキャンパス」なるものを設置し、ここで、社会人向けにセミナーを開催しており、私も何度か参加したことがあったからです。そのキャンパスというか、教室の入口付近に大きなパネルが何枚か展示されていて、そこに、甲南学園創立者の平生の大きな全身写真があったのでした。そこで、私は初めて平生釟三郎なる人物のことを知り、「教育者」としての印象が脳裏に刻まれたのでした。

 その平生釟三郎(1866~1945)は、報告者の正田氏によると、関西財界人で「日本財界の巨頭」、もともとは軍縮論者だったのが、大阪の陸軍第四師団(師団長は阿倍信行から寺内寿一)との交流で、取り込まれる形で親軍派に転向し、最後は「東条内閣の財界での最大の支柱」になった人だというのです。(その間、広田弘毅内閣の文部大臣、北支那方面軍経済最高顧問、大日本産業報国会会長などを歴任)

 時代的背景として、1930年ロンドン海軍軍縮会議で全権だった若槻礼次郎(元首相)が帰国した際、民衆に熱狂的に歓迎され、軍縮ムードが高まっていたところに、統帥権干犯問題や浜口雄幸首相襲撃事件などがあり、翌31年に満洲事変が起きると、当時、最も影響力があったメディアだった新聞も急に軍縮から軍国主義礼賛に方向転換した経緯があります。

 平生が、第四師団参謀長の後宮淳(うしろく・じゅん=後に陸軍大将)らと接触するうちに、短期間で自分自身の考えを変えた要因の一つとして、既成政党の腐敗があったのではないかと正田氏は分析していました。当時の政友会と民政党という二大政党が、党利党略で政権奪取のためには手段を選ばず、政争に明け暮れていたことに平生は嫌気がさし、次第に軍部に同調していったのではないかというのです。

 私自身は専門家ではないので、単なる受けおりの知識ではありますが、戦前の政党と言えば、明治以来、政友会=三井、憲政会(民政党)=三菱(首相になった憲政会の加藤高明は岩崎弥太郎の女婿で、「三菱の大番頭」と揶揄された)といった具合で財閥との結びつきが強かった印象があります。だからこそ、血盟団事件で団琢磨・三井総帥ら財界人まで襲撃されたのでしょう。政治家を操る背後に財界人がいる、と大衆まで見抜いていたのです。

 となると、平生釟三郎の場合、東京高商(現一橋大)を出た後、三菱系の東京海上の常務にまでなった人ですから、かつては民政党に肩入れしていたことがあったのか? また、東京海上を退社後、1937年から41年まで日本製鉄の会長と社長を務めていましたが、いつ、関西財界人になったのか、よく分かりませんでした。質問すれば良かったのですが、頭が混乱し、あまりにも初歩的過ぎる疑問でしたので、質問すら出来ませんでしたが…(苦笑)。

 次に登壇されたのが、日大危機管理学部教授の小谷賢氏。タイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティー」でした。

 既に、小谷氏が8月に上梓した「日本インテリジェンス史」(中公新書)を読んで、自分なりに「予習」をしていたので、話の内容はかなりよく分かりました。テレビに出演される方だけあって、プレゼンが簡潔で巧く、分かりやすかったことは確かでした。

 ただし、この本について、渓流斎ブログで取り上げた際に、誤植を指摘したり、スパイ防止法や特定秘密保護法の制定推進派のデメリットとあやうさなども批判したりしたため、もし本人が読んだら気分を害するだろうなあ、とヒヤヒヤでした(苦笑)。

 そのため、質問も出来なかったのですが、小谷氏は最後の方で、「やはり、戦前の憲兵や特高はやり過ぎだったと思う。自民党の後藤田正晴氏が政界引退後に、町村信孝氏が日本のインテリジェンス改革に熱心だったのは、父親の町村金五が内務官僚で、厳しく取り締まり過ぎた罪滅ぼしみたいな側面が少しあったからではないか」などといった趣旨の発言をされたので、本で読んだ著者の印象がガラリと変わり、ブログではちょっと書き過ぎたかなあ、と私も少し反省しました。

 講演の内容の結論的な話は、戦前の陸海軍、外務省、内務省による縦割りの情報運用が戦後も引き継がれ、警察(内閣調査室)、公安調査庁(法務省)、外務省、防衛省という縦割りの省庁ごとの運用が続き、今でも、国家レベルではなく、省庁レベルでのインテリジェンス運用にとどまっているといったことでした。

 その点に関して、講演後に参加者から質問がありましたが、小谷氏は「戦前は、『国体護持』と言っておきながら、全然違う。天皇に情報を上げていない。戦後も自分たちの省庁や組織のために働いてはいるが、国(全体)のためにやっていない。教育の問題もあるかもしれませんが」などと答えていました。

 確かに国家存亡の危機に見舞われた時に、インテリジェンスは重大で、大きく作用します。それなのに、官僚が自分自身の出世のために、主権者である国民に対してではなく、自分の組織の上司の顔色だけを窺っているようでは、どうしようもありませんよね。

 せっかく、日本は、英国でさえ持っていない世界に誇れるスペックの高い自前の人工衛星を保持しているといわれてますから、情報を有効活用しなければ税金の無駄遣いです。結局、日本のインテリジェンスの将来は、政治家だけでなく、現場の官僚のマインドにも掛かっているという状況がよく分かりました。

 私も仕事で、霞ケ関の人たちとやり取りしていますが、彼らは機密情報でも軍事情報でも何でもない、単なる、例えば伝統工芸の大臣表彰者に関するマスコミにとっての必要情報(発表日時や表彰者の出身都道府県など)を「前例がない」との理由なのか、出し惜しみするのです。明らかに上から目線で、こちらから何度も何度も電話を掛けさせて、「官尊民卑」丸出しです。

 ですから、全員ではありませんが、エリート官僚さまは、民間である国民のことなど一切考えず、自分の出世と自分の省庁のことしか考えていない、そして、秘密でも何でもない情報までも出し惜しみすることを肌身を持って感じております。

 本日はこれが言いたくてブログを書きましたが、結局、書くのに5時間以上も掛かりました。タイパ(時間効率)が悪いよなあ〜!!

【追記】2022.10.17

 ・このブログを読まれた報告者の正田浩由先生から早速、「回答」がありました。(一部補充) 

 「平生釟三郎を関西財界人とする理由についてですが、彼は確かに東京海上にいたのですが、主に大阪と神戸の支店を任されまして、そこで甲南学園を作ったりなどして関西に根を張りました。伊藤忠の伊藤忠兵衛や阪急の小林一三らとも親しくしていたようです。それから仰る通り、平生は民政党の政策に共鳴していたようで、一部紹介いたしましたが、金解禁なども評価していました。」

以上。

・戦前の二大政党に関しては、過去に書いた渓流斎ブログもご参照ください。

2019年7月6日付「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」

2020年8月4日付「エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト―近代日本の暴力政治』を読む」

何度も戦場になったウクライナの悲劇=山崎雅弘著「第二次世界大戦秘史」を読んで

 もう半年近く、山崎雅弘著「第二次世界大戦秘史」(朝日新聞出版)を少しずつ読んでいます。正直、一気にバーと読めないのです。書かれている内容があまりにも重すぎて前に進めなくなったりするからです。戦死者やシベリア流刑者らの数字だけはボンボン出て来ますが、そんな数字でも、れっきとした生身の人間で、理不尽な死に方をされた人ばかりですから、彼らの怨嗟と怨霊が見え隠れして、やり切れなくなります。

 副題に「周辺国から解く独ソ英仏の知られざる暗躍」とあります。我々は、第二次世界大戦について、歴史の教科書に載ってはいても、授業はそこまで進まず終わってしまいます。となると、自分で勉強するしかありません。それでも、大抵の第二次世界大戦史は、独、ソ、英、仏、米が中心で主役の書き方になっていて、彼らによって苦しめられたポーランド(犠牲者520万人)やチェコ、ハンガリーやフィンランドやノルウエー、バルト三国などについて詳述された歴史書は多くはありません。その点、この本は、画期的な本として学ぶべきことが沢山あります。

 初版は2022年2月28日になっていますから、著者は、当然のことながら、同年2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻については知らずに出版しました。それでも、まるで「予言」するかのように、本書ではウクライナの悲劇の歴史にも触れています。

  私自身の個人的な大胆な感想ではありますが、ヨーロッパは地続きですから、欧州諸国は、絶えず戦争をして領地を獲得し、戦争の度に国境が変わってきた歴史だったと言えます。弱肉強食で強力な国家しか生き残れないという歴史です。21世紀にもなって、何でロシアがウクライナに侵攻したのか理解できませんでしたが、プーチン大統領は、過去の歴史の顰に倣っただけで、彼は、戦争で勝てばいくらでも領地は分捕ることが出来て、国境なんかすぐ変更できると思っているのではないでしょうか。

 ウクライナは、大雑把に言えば、12世紀から14世紀にかけて栄えたキエフ公国に遡ることができます。ウクライナは20世紀になってソ連邦に組み込まれ、ロシアとの結びつきだけが強いイメージがありますが、一時は、後から出来たモスクワ公国より勢力が大きかった時期もありました。それが弱体化して、外国勢力に組み込まれます。14~15世紀は、リトアニア大公国の領土となります。リトアニアといえば、ソ連邦に組み込まれたバルト三国の一つで、小国のイメージがありましたが、その当時は、同じカトリック教徒が多いポーランド王国と結びついて領土拡大し、今のベラルーシやロシア西部まで勢力圏に含んでいたといいます。

五島列島 Copyright par Tamano Y

 リトアニアで驚いていたら、第二次世界大戦中は、一時期、ウクライナ南部はルーマニアの領土になっていたこともあったのです。ナチス・ドイツと結びついたルーマニア軍は1941年7月1日にウクライナ領などに侵攻し、10月にはオデーサ(オデッサ)が陥落。ルーマニア政府はヒトラーの承認を得て、オデーサをアントネスク市に改名するのです。親ナチ派のイオン・アントネスク大将の名前から取ったものです。ルーマニアは、同市を含むウクライナ南西一帯を「トランスニストリア」と称して自国領に編入します。

 1941年6月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連への軍事侵攻を開始します(バルバロッサ作戦)。この時、ソ連領であるウクライナも戦場になりました。キーウ(キエフ)もハルキウ(ハリコフ)も被害を受けます。語弊を恐れずに言えば、ウクライナが戦場になったのは、ロシア軍による侵攻という今に始まったわけではなかったんですね。先の大戦でも、中世でも多くの血が流されていたということです。

 ウクライナは肥沃な穀倉地帯ですから、敵国としては戦略として欠かせない領土だったのでしょう。

 繰り返すようですが、欧州は陸続きで、色んな民族が群雄割拠していますから、戦争によって、領土を拡大し、国境を変更していくことは特別ではなく、日常茶飯事だったことがこの本を読んで分かりました。

 歴史は学ばなければいけませんね。

「自己肯定感が上がる人と付き合う」べきです

「歴史道」(朝日新聞出版)の最新号、第22巻「第二次世界大戦の真実」特集を読んでいます。

 第二次世界大戦は、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで開始された、と歴史の教科書で習います。しかし、どうもそれだけでは「真実」は解明されないようです。

 同誌を読んでいると、この独軍がポーランド侵攻する1週間前の8月23日に締結された「独ソ不可侵条約」が戦争の元だということが分かってきます。これは、ドイツとソ連が結託して、ポーランドを分割しようという秘密条約だったからです。案の定、ソ連は、ドイツ侵攻の約2週間後の9月17日にポーランドに侵攻し、ドイツと協定した分割線までハゲタカのように獲物を食い尽くしています。(独ソ不可侵条約は1941年6月22日にドイツが一方的に破棄し、独ソ戦が開始されます。)

 ということは、第二次世界大戦を始めた張本人はドイツのヒトラー一人だけというのは、大間違いで、ソ連のスターリンも一枚絡んでいた、というのが史実になります。日本では戦後民主主義教育によって、ソ連や社会主義が美化されて理想の国家のような幻想を抱かされた時期がありましたが、シベリア抑留の例を見ても、ソ連・ロシアはとんでもない国だと認識するべきだというのが普通の日本人の感覚です。21世紀になって、ロシアはウクライナに侵攻し、相も変らぬ蛮行を行ったので、すっかり「理想国家」の化けの皮が剥げてしまいましたから、今やロシアを擁護・美化する日本人は少なくなったと言えます。

北海道十勝 Copyright par Tamano Y

 世界史上、最大最悪のヒールを一人挙げろ、と言われれば、恐らく多くの人はナチスのヒトラーを挙げることでしょう。この本でも多くのことがヒトラーのことでページが割かれています。でも、自分自身が年を取ってみると、意外にもヒトラーは随分若かったことに気付き、驚かされます。1945年5月のベルリン陥落でヒトラーが自決したのは56歳。まだ、56歳と言いたいぐらい若かったんですね。何しろ、1933年1月、ヒトラーが首相の指名を受けたのは43歳の時でした。日本の岸田文雄首相が総理大臣に指名されたのが64歳ですから、如何に若いか分かります。ヒトラー絶頂期のベルリン五輪が開催された1936年8月の時点で、まだ47歳だったんですか…。レニ・リーフェンシュタールが残した映像を見ても60歳ぐらいに見えます。

 そう言えば、第二次世界大戦の米国の英雄ルーズベルト大統領はかなり高齢に見えましたが、病死したのは63歳だったんですね。日本を見ると、自決した近衛文麿は54歳、処刑された山下奉文は60歳、東条英機さえ63歳の「若さ」でした。

 高齢者になって見ると、こんな若者が戦争を指導してきたのか、という驚きの感慨です。

北海道 白髪の滝 Copyright par Tamano Y

 何が言いたいのかと言いますと、善悪の話は置いといて、子どもの頃にお爺さんに見えた歴史上の人物の年齢を超えると、どうも無力感というか自己嫌悪と自己否定に襲われてしまうのです。中原中也のように「お前は一体何をしてきたのだ」という思いに駆られてしまうのです。

 そんな時、新聞(日経 8月23日付朝刊)を読んでいたら、加藤俊徳著「脳の名医が教えるすごい自己肯定感」(クロスメディア・パブリッシング、1628円)という本の広告が目に飛び込んで来ました。この広告を読むと、「自尊感情」を高める脳の習慣として、

・1日「ほめ言葉」でしめる

・「朝散歩」を毎日する

・自己肯定感が上がる人と付き合う

 …などということが書かれていました。

 あれっ?この広告を読んだだけで、この本全部を読んでしまった気になってしまいました(笑)。そう言えば、私は、ほんの1人か2人ですが、私のことを否定するような人でも付き合ってきました。いけない、いけない。駄目ですねえ。しっかり、そんな交友関係は清算して、これからは「自己肯定感が上がる人と付き合う」べきですね(笑)。

 これは私だけではなく、皆さんにも同じことが言えるんじゃないでしょうか?

戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

銀座、ちょっと気になるスポット(6)=新橋停車場跡と幻の凱旋門

 銀座、と銘打ちながら、またまた銀座からちょっと離れた新橋のスポットです。でも、私の銀座にある会社から歩いていける距離にありますからいいじゃないですか(笑)。

旧新橋停車場 開業150年

 明治5年に開業した新橋停車場跡です。昔はこんな立派な「復元建物」はなかったのですが、2003年に、こんな豪勢な駅舎が「復活」しました。

 明治にこの新橋停車場が開業したお蔭で、銀座への表玄関となり、横浜居留の外国人たちも次々と「文明開化」のシンボル・銀座に繰り出したということですから、ここも「気になる銀座のスポット」として十分通用することでしょう。

 不勉強な私は、40歳ぐらいまで日本最初の鉄道駅である新橋駅は、今のJR新橋駅だとばかり思っていたのですが、明治の新橋駅はそこから東へ650メートル程離れた、地名で言うと汐留にありました。今の汐留は、日本テレビや電通や共同通信などのマスコミの豪奢な高層ビルが林立しています。(電通本社ビルは3000億円で不動産会社に売却されたようですが)

新橋停車場 開業150年

 今年は、ちょうど鉄道開業150年ということで、この駅舎の跡に出来た「旧新橋停車場」内の「鉄道歴史展示室」で企画展が開催されています。主催は東日本鉄道文化財団ですから、JR東日本関連の建造物だったということが分かりました。

新橋停車場 開業150年

 何と言っても、驚くべきことは、日本最初の鉄道である新橋~横浜間(約29キロ)が開通したのは明治5年9月という事実です。明治維新からたった5年しか経っていないじゃありませんか! 欧米列強からの植民地化がよっぽど脅威だったのか、日本は「文明開化」「富国強兵」「脱亜入欧」をスローガンに、次々と西洋文明を取り入れます。

 この幕末~維新を経て、明治の時代に生きた人たちは余程バイタリティーがあったのか、「失われた30年」の現代人とは異質にさえ感じてしまいます。

 さて、この旧新橋停車場を今回、気になるスポットに選んだのは、またまたですが、「歴史人」9月号「連合艦隊の真実」特集を読んでいたからです。

 この中で、日露戦争で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎が、ロシアとの日本海海戦で大勝利を収め、帰国した際、恐らく、鉄道で横浜からこの新橋停車場に降り立ちます。

 その新橋停車場広場の前に、間口は58尺(約18メートル)、奥行きは26尺(約8メートル)、軒の高さ42尺(約13メートル)。地面から最頂部までの高さは60尺(約18メートル)の「戦役記念陸海軍歓迎凱旋門」が建てられ、東郷大将以下軍人が戦勝パレードをし、大群衆が詰めかけたというのです。

「歴史人」9月号 「連合艦隊の真実」特集の東郷平八郎司令長官 下写真が新橋の凱旋門

 旧新橋停車場は、実は何度も行っていたので、それほど「気になるスポット」ではなかったのですが(笑)、この新橋停車場広場前にあった凱旋門がどこにあったのか、確かめたくて行ってみたのです。何か「記念碑」でもないかどうか、広場があった辺りを探したのですが、見つかりませんでした。停車場内の「鉄道歴史展示室」の受付にいた50歳ぐらいの男性にも聞きましたが、「凱旋門? 分かりませんねえ。知りません。広場の前は、昔は川が流れていたんじゃないでしょうか」と仰るのです。

 江戸切絵図で確かめてみたら、新橋停車場の前の広場の先は、川ではなく、江戸城のお堀がありました。明治になっても堀にはそのまま水が流れていたのでしょう。

 残念ながら、凱旋門跡の記念碑は見つかりませんでしたが、その代わりに、立派な「芝地区旧町名由来」の案内板がありました。

 それによると、江戸城のお堀は、明治には汐留川と呼ばれていたようです。凱旋門のことが何も書かれていないことが残念です。

 凱旋門は新橋だけではなく、日比谷や上野や浅草や麻布といった東京市内のほか、千葉県木更津などにも建てられたようですが、それぞれ史跡として記念碑があるのかどうか、少なくとも私は知りません。

 そう言えば、秋葉原の万世橋停車場前には、日露戦争で殉死した広瀬武夫中佐(「杉野は何処~♪」のあの旅順口攻防の広瀬中佐)の銅像がありましたが、GHQの命令により撤去されたようです。

 新橋の凱旋門も、もし残っていたとしたら、パリの凱旋門のように日本の「観光資源」になっていたのかもしれません。

 でも、凱旋門を残そうものなら、日本の軍国主義復活を危惧するマッカーサーが許しはしなかった、ということだったのでしょう。そう、勘繰りたくなりました。