「武田三代 栄華と滅亡の真相」=「歴史人」12月号

 もう「歴史人」12月号の武田信玄生誕500年特別企画「武田三代 栄華と滅亡の真相」特集を読んでいて2週間ぐらい経ちます。別に難しい本ではないのですが、記憶力が衰えていて、「武田二十四将」をやっと覚えたかと思ったら、今度は「武田氏家臣団76将」が出てきて、「わーー」となってしまったのです。

 それだけこの本には、武田信虎・信玄・勝頼3代を中心とした家臣団や合戦、武田氏をめぐる女性たち、上杉謙信、今川義元、北条氏康、徳川家康らライバル武将たちなどほぼ全員が網羅されているので、覚えきれないくらい情報量が満載です。

 となると、この本の要旨を整理して書くことなどとても無理なので、印象に残ったことだけ、サラッと触れてお茶を濁すことに致します。

 まずは、武田家臣団として「四天王」と呼ばれた内藤昌豊山県昌景高坂昌信馬場信房の4人を抑えておけば宜しいでしょう。武田信虎・信玄・勝頼の3代は、今の甲府の「躑躅ケ崎館」を根城にし、その北の海津城(後の松代城)に高坂昌信 、東の箕輪城に内藤昌豊、南の江尻城に山県昌景、西の深志城(のちの松本城)に馬場信房を配置していました。

  四天王のうち、内藤昌豊、山県昌景、馬場信房の3人もが、勝頼が織田・徳川連合軍によって大敗した長篠の戦いで戦死しています。海津城で上杉謙信の進軍に備えていた高坂昌信は長篠の戦いに参陣しませんでしたが、上杉氏と武田氏との和睦交渉中に病没します。高坂昌信は、武田氏の軍法「甲陽軍鑑」を口述筆記させた人としても知られています。

 私は井上靖の小説「風林火山」などを読んで、山本勘助は武田信玄の軍師として有名だと思っていたのですが、「甲陽軍鑑」では、勘助が信玄の片腕として合戦を指揮した事実は確認できず、築城の名人ではあっても、足軽大将だったという解釈でした。(試験の時のヤマカンというのは、この山本勘助から取ったという説あり)

 武田二十四将の一人で筆頭家老だった板垣信方の子孫に幕末明治の板垣退助がいたという事実には驚かされました。信方は1548年、村上義清との上田原の合戦(長野県上田市)で討死しますが、その孫の正信が遠江・掛川城主の山内一豊に召し抱えられます。一豊は関ケ原の戦いで東軍のために奮闘したので、土佐20万石に移封され、信方も1000石与えられ、そのまま子孫は土佐の山内家に仕えていたのです。

 武田家は長篠の戦いで大敗した武田勝頼で滅亡したのかと思っていましたが、勝頼は信玄の四男(母は諏訪御料人)で、次男龍宝(信親=母は正室三条夫人で、清華家三条公頼の娘。その妹は何と本願寺の顕如に嫁いでいた!)系は「武田宗家」を名乗り、現在17代目英信と続いています。また、七男信清(母は根津御寮人)系は上杉家の庇護を受け、「米沢武田家」として続いているといいます。

 親族衆の穴山梅雪、譜代家臣小山田信茂らの離反で、勝頼が自害に追い込まれて遺臣となった武田軍団は、本能寺の変後、武田旧領獲得を狙う徳川家康によって召し抱えられます。彼らは上杉景勝、北条氏政らとの天正壬午の戦いで活躍し、江戸時代にも生き残ります。

 武田信玄の次女で穴山梅雪(所領安堵された信長への挨拶で家康とともに安土城に行き、堺で遊覧中に本能寺の変が起き、帰国途中で一揆に惨殺される)の正室だった見性院は、家康から500石を与えられ、二代将軍秀忠の庶子幸松丸を養育します。幸松丸は信州高遠藩の保科家の養子となって保科正之となり、初代会津藩主となります。

 この見性院の墓が、さいたま市緑区東浦和の天台宗清泰寺にあるとはこれまた驚きでした。あの武田信玄の娘が東浦和に眠っていたとは! それは、見性院が家康から大牧村(この緑区東浦和)に領地を与えられていたからでした。もう、歴史を知らないタモリのように「だ埼玉」なんて馬鹿にできませんよ!

 

「御年寄」は「老中」と並ぶ政権トップだった=江戸時代の大奥

 衆院選が10月19日に公示されました。1051人が立候補しましたが、女性の比率は17.7%と2割も届きません。2018年に男女の候補者数を均等にするよう政党に促す「政治分野における男女共同参画推進法」が施行された後の初の衆院選だというのに、17年の前回(17.8%)からも下がりました。

 やっぱり、日本は「男社会」なんでしょうかね?

 しかし、現実は、社会の最小単位であるほとんどの家庭では、奥さんが旦那を尻に敷いている場合が多いことでしょう(笑)。

 歴史を見ても、推古天皇持統天皇を始め、女性天皇は歴代十代いらっしゃいます。鎌倉の北条政子、室町の日野富子といった政権のほぼトップにいた女性もいました。

 でも、江戸時代以降は、完璧に男社会になった、と私なんか思っていたのですが、「大奥」の制度ができ、結構、裏で女性が権力を握っていたことをこのほど知りました。

東銀座「森田座跡」(江戸・木挽町芝居町通り)

 最近、音沙汰がなく、何処かに御隠れになってしまった釈正道老師からもう文句を言われないので済むので敢えて書きますが、「歴史人」(ABCアーク)は面白いですね(笑)。10月号で「徳川将軍15代と大奥」を特集していますが、知らなかったことばかりで、本当に勉強になりました。つまり、15代の歴代将軍の業績ばかり追っていたのでは江戸時代は分からないということでした。(以下、管見以外、ほとんどが「歴史人」からの引用です)

 江戸幕府というのは、徳川将軍が一人で全て支配していた独裁国家ではありません。初代家康や「生類憐みの令」を発した五代綱吉のような例外もありますが、ほとんどの将軍は、複数の老中ら幕閣が決めたことを追認する形の方が多かったのです。ということは政権トップは老中ということになります。(大老は臨時に老中の上に置かれた最高職)

 その「男社会」の老中に匹敵するのが大奥の「御年寄」(おとしより)という身分でした。(この上に公家出身の正室=御台所を支える京都から入った「上臈=じょうろう=御年寄」もいた)。御年寄は、1000人の女たち(他に300人の男役人)が働く大奥全体を差配し、将軍の御台所に最も近い存在で、政権運営にも影響を与えました。「口利き」のため、大名や御用商人らからの付け届けも多かったと言われます。史上最も有名な御年寄は、三代将軍家光の乳母も務めた春日局(明智光秀の腹心斎藤利三の娘)でしょう。

 大奥というと、ハーレムのような感じで、将軍なら何でも好き勝手にできると思っていましたが、かなり厳格な規則の上で運営されており、将軍様といえども、いつでも自由奔放に大奥に出入りできず、事前に「予約」しなければいけませんでした。何と言っても、「世継ぎ誕生」という絶対的使命を果たさなければならない将軍にとっては、大奥はお勤めであり、仕事場、職場に近かったのかもしれません。しかも、寝間では、側室が将軍にじきじき頼み事をしないように、少し離れて両脇に御伽坊主(女性)と御中臈が反対向きに添い寝し、聞き耳を立て、翌日、御年寄に報告していたといいます。ナンタルチヤ。

 在位50年、側室16人、子供も50人以上もいた十一代将軍家斉は別格として、将軍は、トップの御年寄に次ぐ「御中臈」(おちゅうろう)8人の中から「側室」を選びます。将軍様の「お手付き」にならない溢れた御中臈は「お清(きよ)の方」と陰口を叩かれ、お手付きになった御中臈も「汚(けが)れた方」とまで呼ばれたといいますからかなり陰湿です。しかも、懐妊したりすると、やっかみからワザと着物の裾を踏んで転ばして流産させるイジメもあったそうです。「ひょっえーー!」です。

 側室候補が8人しかいないということは、かなり激しい女同士の競争社会であり、大奥のほとんどの奥女中は、御台所(正室)らの身の回りの世話をする仕事をしていたわけです。他に御三家などからの女使いを接遇する「御客会釈」(おきゃくあしらい)という御中臈と並ぶ重職もありました。異例ながら、風呂焚きをしている下女が将軍のお眼鏡にかかるという特例もありましたが、奥女中には給金が出るので実家に仕送りしたり、途中で里帰りして良縁に恵まれたりする者もいました。(三代家光の側室で後の五代綱吉の生母となった桂昌院=お玉=は八百屋の娘とも言われ、「玉の輿」の語源になったという説があるが、異説もあり)

江戸・木挽町「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 徳川将軍の正妻である御台所ともなると、五摂家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)か宮家(世襲親王家)か天皇家の姫君から選ばれました。十四代家茂の正室和宮は、孝明天皇の異母妹でしたし、有名な十三代家定の正室篤姫は薩摩島津家の一門の娘として生まれましたが、藩主島津斉彬の養女、さらに、関白近衛忠煕の養女として徳川家に輿入れしました。

 ただ正室が世継ぎを生んだのは、歴代将軍の中でも二代将軍秀忠のお江(浅井長政と織田信長の妹お市の方の娘)だけだったのです(三代将軍家光)。あとは、側室か、子供に恵まれず、御三家か御三卿から将軍職を選出しているのです。現代人から見るのとは違って、徳川家にとって、大奥制度は切羽詰まった、絶対必要条件だったことでしょう。

 話は少し飛びますが、秀忠の五女和子(東福門院)は後水尾天皇の女御として入内し、後の明正天皇(女帝)を産んで中宮に立てられています。徳川家も古代の葛城氏(仁徳天皇など)、蘇我氏(用明天皇など)、藤原氏のように天皇家と外戚関係を結んでいたわけです。

江戸・木挽町芝居町通り「山村座」跡(銀座東武ホテル)

 大奥に入るには「試験」めいたものがありました。御家人、旗本の娘だけでなく、農民、町民の娘でも奥女中らのコネがあれば願書を提出して「吟味」(御年寄の面接試験。文字と裁縫の腕を見る)、1カ月以上の「身元調べ」を経てやっと採用されることがあります。身分社会ですから、将軍に拝することができる「御目見得」になり、側室候補の「御中臈」になるには複数の段階があります。旗本の娘の中にはいきなり「御中臈」になった人もいたようですが、農民、町民の娘は、一番下の下女とも呼ばれた「御末」(おすえ)、もしくは「御半下」(おはした)が出発点です。風呂や食事の水汲みなど力仕事が多かったといいます。

 このように、大奥はかなりストレスが多い職場だったので、「絵島・生島事件」のようなスキャンダルが起きました。

 (写真は、絵島・生島事件の舞台になった歌舞伎の山村座跡=江戸・木挽町芝居町、現・銀座6丁目=を中心に掲載しました)

飛鳥山散策記=渋沢栄一の「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました

 東京都北区王子の飛鳥山に急ごしらえした「青天を衝け 大河ドラマ館」に行って来ました(コロナ禍でネット予約が必要ですが、平日はもう空いていて当日券が買えると思います)。どういうわけか、ここ数年、浜松市の「おんな城主 直虎」や岐阜城の麓の「麒麟がくる」(明智光秀)などNHKの大河ドラマ館に行っており、微力ながら国営放送の営業に貢献しております。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 渋沢栄一の生涯を辿る「青年を衝け」も面白く拝見しているので、結構身近にある飛鳥山に出掛けてみたわけです。

 そしたら、「あれー?こんだけえー?」てな感じで、とても狭くて直ぐ見終わってしまいました。正直、「直虎」や「麒麟」と比べると見劣りがしました。

「青天を衝け 大河ドラマ館」(東京都北区飛鳥山)

 ドラマ館は、即席で建てたものではなく、「北区飛鳥山博物館」の2階を「間借り」していたので、狭いはずでした。入場券800円で、1階の歴史博物館も観ることができたので、元が取れた感じでしたが(笑)。

 あまり貶しては怒られるので、感心したことを1点挙げます。その写真は撮れませんでしたが、幕末に万国博覧会が開催されたパリのロケシーンの「メイキング映像」です。コロナ禍もあって、何と、日本の俳優陣たちはパリに行ってなかったんですね!(バラしてしもうた)パリと日本で別々に撮って、コンピューターか何かで合成していたのです。あの徳川昭武さんも、直接、ナポレオン三世に謁見していなかったのです。そう考えると、俳優さんたちの「演技」には感心してしまったわけです。

「飛鳥山の碑」 碑銘を撰したのは成島錦江(成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=)幕末の奥儒者成島柳北はその八代目。

 さて、わざわざ、飛鳥山に足を運んだのは、もう一つ目的がありました。皆さん御存知の通り、私は「天地間無用の人」成島柳北のファンなのですが、その五代前の先祖に当たる成島錦江 (成島家三代目道筑信遍=のぶゆき=) が碑銘を撰した「飛鳥山の碑」を見に行くことでした。どちらかと言えば、こちらの方が主目的でした。

「飛鳥山碑」碑文は成島錦江(元文二年)1737年

 前田愛著「成島柳北」(朝日新聞社、1976年)によると、この「飛鳥山碑」は元文2年(1737年)に建てられたものですから、もう判読が難しいのですが、上の写真の通り、東京都教育委員会が平成23年(2011年)に「解説」の看板を建ててくれております。

 飛鳥山は「桜の名所」として有名で、浮世絵などでも描かれていますが、これは八代将軍徳川吉宗が一般庶民にも開放して始まったものでした。吉宗の在位は、享保元年(1716年)から延享2年(1745)ですから、ちょうど、この石碑も、将軍吉宗在位中に建てられたことになります。

Asukayama no HI

 碑の日本語の解説を読んでもよく分からない方は、上の写真の英語の方が分かりやすいかもしれません。

 先程の前田愛著「成島柳北」によると、成島錦江は、荻生徂徠の門に学び、元文2年(1737年)に御同朋格奥勤に抜擢されて将軍吉宗の侍講を務めたといいます。奥儒者ということで、英語では、a confucian vassal of the shogunate となっています。錦江は道筑の雅号ですが、荻生徂徠の蘐園学派独特の命名法で、鳴鳳卿とも称しました。姓の鳴(なる)は、成島から転じたものです。昔の人はおつなもんです。

 錦江は享保16年(1731年)の冬、浅草御厩河岸の賜邸の一隅に「芙蓉楼」という書室をつくり、将軍吉宗から下賜された十三経二十一史など千数百巻の書物を収めました。将軍吉宗も相当な勉強家だったんですね。芙蓉とは、富士山のことですが、楼上から富士の山容を望見することができたからだといいます。

ちなみに、成島錦江は八代将軍吉宗の侍講でしたが、幕末の成島柳北は、十三代家定と十四代家茂の侍講を務めました。しかし、幕府風刺の漢詩文を書いたため解任されました。明治になって、幕臣出身ということで新政府には出仕せず、操觚之士となり朝野新聞社長も務めました。

飛鳥山の歴史

 この上の写真の「飛鳥山の歴史」には書かれていませんが、この地には、「日本資本主義の父」渋沢栄一が建てた邸宅跡「曖依村荘」と書庫「青淵文庫」、洋風茶室「晩香廬」などがあります。

 だから、ここにNHKが 「青天を衝け 大河ドラマ館」 を臨時につくったわけですから、この碑に渋沢栄一の名前が一言も出て来ないのは不思議でした。

「大江戸の華」展のために欧米から甲冑が里帰り=江戸東京博物館

 月刊誌「歴史人」の読者プレゼントで、東京・両国の「江戸東京博物館」の入場券が当選してしまったので、昨日の日曜日に行って来ました。

 日曜日なので、混雑を覚悟しましたが、緊急事態宣言下で、早めの午前中に出掛けたせいか、結構空いていました。あまり期待していなかったのに、とても良かった。江戸東京博物館に行ったのは久しぶりでしたが、すっかりファンになってしまいました。

色々威胴丸具足(1613/贈) 英王立武具博物館蔵 

 特別展「大江戸の華」は、チラシでも取り上げられていましたが、やはり、欧米に渡り、この展覧会のために一時里帰りした武具が最高でした。

 上の写真の鎧、兜は、徳川家康・秀忠が1613年頃に、大英帝国との親善のために、国王ジェームズ1世に贈られたものです。もう400年も昔なのに、全然古びていないのが感動的です。恐らく、一度も着用されていない「装飾」用かもしれませんが、それにしても、凄い。(大事に扱って頂き、英国人さん有難う)特別展では他に、刀剣も展示されていましたが、私は圧倒的にこれら鎧兜を食い入るように観ました。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 こちらは、紀伊徳川家伝来の具足でしたが、現在は米ミネアポリス美術館所蔵になっています。「エセル・モリソン・ヴァン・ダーリップ基金」との説明がありますから、恐らく、明治に売りに出されていたものを購入したのでしょう。基金ですから、当時も相当高価だったことでしょう。まあ、武具は、戦国武将、大名の財力と権力を見せつける面もあったことでしょうね。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 この武具の兜をよく見ると、載っかっているのは、何と、カマキリじゃありませんか!

 いくらカマキリは強いといっても(特に雌が怖い!)、昆虫ですからね。江戸時代ですから、元和偃武(げんなえんぶ)となり、もう戦場で戦うというより、恰好良さや装飾性を追求したからだと思われます。

日本橋(江戸東京博物館)

 特別展「大江戸の華」は、30分ほどで見て回ってしまったので、6階の常設展示室に足を運ぶことにしました。

 そしたら、面白いったらありゃしない。江戸時代から明治、大正、昭和、平成の江戸と東京の風俗、文化、歴史が立体的に展示されていて、すっかり、ハマってしまいました。

 大変広いスペースだったので、全部観るのに2時間以上かかってしまいました。

江戸の寿司屋台(江戸東京博物館)

 この寿司の屋台は、江戸時代をそのまま再現したようですが、寿司の大きさにびっくり仰天です。写真じゃ分かりませんが、現在の1貫の1・5倍か2倍近い大きさです。これでは、寿司ではなく、「おむすび」ですよ(笑)。5貫も食べればお腹いっぱいになりそうです。

江戸の本屋さん(江戸東京博物館)

 こういう所に踏み込むとタイムスリップした感じがします。

 江戸時代なんて、本当につい最近だと感じます。

「助六由縁江戸桜」の助六(江戸東京博物館)

 江戸東京博物館は、リピーターになりそうですね。外国人観光客を一番に連れて行きたい所です。

 でも、このブログでは一言では説明できませんし、あまりにもジャンルが広いのでご紹介できません。

「助六由縁江戸桜」の揚巻(左)と意休(江戸東京博物館)

 最近あまり行ってませんが、歌舞伎が好きなので、中村座の芝居小屋の模型には感服しました。客席は、枡形の中に4~5人が入るようになっていて、今でも江戸時代の雰囲気を色濃く残す四国のこんぴら歌舞伎の金丸座(香川県琴平町)を思い出しました。

明治・銀座4丁目の朝野新聞(江戸東京博物館)

江戸東京博物館は、幕末を経て、明治、大正、昭和、平成までの「東京」が展示されています。(勿論、関東大震災や、米軍による東京大空襲といった災害も)

 成島柳北が社長と主筆を務めた朝野新聞社の実物大に近い大きさの模型を見た時は、感涙しました。現在、銀座4丁目の交差点にあるセイコー服部時計店の所には、明治の文明開化の時期にはこんな建物があったのです。

 感動せざるを得ませんよ。

 私は勉強家ですから(笑)、以前にこの博物館を訪れた時よりも、遥かに知識が増えているので、一を見ると十のことが理解できるようになりました。やはり、「知識は力なり」です。

本当は凄かった田沼意次

 以前にも書きましたが、皇居から銀座を通って、築地に向かう道路を「みゆき通り」と言います。明治帝が、当時築地にあった海軍兵学校を視察するため、お通りになったので「御幸通り」と付けられました。

 銀座から築地に向かう際、途中で大きな道路に突き当たります。昭和通りです。関東大震災で壊滅的な被害を受けた帝都東京を復興する一環として当時の後藤新平東京市長の鶴の一声で整備されました。一説では、道路の下には大震災の瓦礫や〇〇などが埋められたと言われています。

 いやはや、本日はそんな話ではありませんでした。

 本日は、銀座から築地に向かって昭和通りを渡ったところに、目下建設されている高層ビルの話をしたいのです。

 もう2年以上工事を続けていますが、やっと外装が出来て、現在は内部工事をやっているところです。かなりのノッポビルですが、ホテルのようです。上の写真でお分かりのように、「頂上」に「GRAND BACH」と書かれています。日本語にすると「グランド・バッハ」ホテルということになるのでしょうか。

 実は、私自身、毎日のように、出勤で、この「グランド・バッハ」ホテル前を通るのですが、ここを通るたびに、苦笑せざるを得ません。今や、バッハと言えば、あの大作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハのことではなく、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長のことを誰でも思い浮かべるからです。そして、バッハ会長と言えば、今や、「ぼったくり男爵」の異名の方が、有名になってしまっております。

ホテル・グランド・バッハ

◇「賄賂」と「ぼったくり」のハーモニー

 私が苦笑せざるを得ないのは、このグランド・バッハの敷地は、江戸時代、あの賄賂政治で名高い老中田沼意次の屋敷跡だったからです。「賄賂」と「ぼったくり」という妙な符合の一致に、苦笑せざるを得ないじゃありませんか。

 田沼意次と言えば、悪徳政治家の代名詞みたいなもので、もう悪玉の大親分のように歴史の教科書で習いますが、最近では、随分、見直されているようです。そもそも、田沼意次が悪の権化に仕立てられたのは、彼の失脚後に寛政の改革を進めた松平定信らを中心とした反田沼派の保守層による儒教的批判に基づいた評価だといいます。つまり、田沼に限らず、慣例として、大方が賄賂によって政治が動いていたということです。まあ、その度合いが、田沼意次は飛び抜けていたということなのでしょう。幕末の井伊直弼大老は有名ですが、井伊家は田沼意次への賄賂で大老職を買ったと言われています。田沼の父意行(もとゆき)は紀州藩の足軽から旗本に取り立てられた人物で、小姓だった田沼意次自身も出世のために、大奥や奥女中らにもかなり賄賂を贈っていたようです。

 今、再評価されている田沼意次の政策の特長は、幕府の財政危機を再建するために、緊縮財政策を見直して、重商主義を採用したところにあります。教科書の復習になりますが、問屋、株仲間の育成を強化したり,さらに貨幣の増鋳、長崎での貿易奨励、下総印旛沼の開拓などです。

 それまで、幕府は農民ばかりに年貢を納めさせて「税」を収奪していましたが、田沼意次が株仲間を育成させることによって、初めて、商工業者からも「税」を取ることを生み出したといいます。これまで、商人は税を払っていなかったんですね。これは幕府にとって大変な功績であり、日本史上、画期的なことでした。封建主義から資本主義への萌芽が見られたと言ってもいいかもしれません。

ホテル・グランド・バッハ 前にある東京都中央区教育委員会の碑

 で、この辺りは、田沼意次の時代は「木挽町」(こびきちょう=江戸城普請の際、大工らを住まわせた)という地名でした。田沼が老中として改革の先頭に立っていた時の田沼邸は、神田の上屋敷にありましたが、この木挽町の田沼屋敷は、下屋敷で、天明6年(1786年)、彼が68歳で失脚した以降に住んだ、というか、蟄居したところでした。

 悪評高い田沼時代ですが、実は、文化の華が開いた時期でもありました。前野良沢、杉田玄白らによって「解体新書」が翻訳されたり、エレキテルの平賀源内が活躍したりしました。田沼自身も、絵師を手厚く保護し、この木挽町の屋敷の一角に狩野派の屋敷を建て、画塾を開かせたのです。江戸奥絵師狩野派は四家ありますが、最も栄えたのはこの「木挽町狩野家」で、明治になっても、近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しています。(東京都中央区教育委員会)

菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。宇多上皇から譲位された醍醐天皇も内心穏やかではなかったはずです。菅原道真が宇多上皇に進言して、道真の娘婿に当たる斉世親王を皇太子にし、そのうち、醍醐天皇自身の地位が危ぶまれると思ったのかもしれません。

 つまり、「醍醐天皇と藤原時平」対「宇多上皇と菅原道真と斉世親王」との権力闘争という構図です。

後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「藤原時平=悪人」「菅原道真=善人、学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。

藤原道長=傲慢、悪人説は間違い?

 先日NHK-BSで放送された「英雄たちの選択」の「藤原道長 平安最強の権力者の実像」は、これまでの通説、俗説、定説を引っ繰り返すようで実に面白かったです。

 道長と言えば、三人の娘(彰子=しょうし、あきこ、妍子=けんし、よしこ、威子=いし、たけこ)を三代の天皇(一条、三条、後一条)にわたって后として送り込み(一家三后)、「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」と歌って、天皇の外戚として権勢を振るった最高権力者というのが定説ですが、感情の起伏が激しくても、結構、神経症で寝込んだりするなど人間味があって、強運の持ち主だったことが分かりました。

 古代史の権威の倉本一宏氏も「道長は多面性を持った人物で、繊細でありながら豪放、寛容でありながら残忍、生真面目でありながらいい加減」と分析しておりましたが、意外にも、とても人間らしくて共感してしまいました。

 何しろ、藤原兼家の五男として生まれたので、最初から陣定(じんのさだめ=左大臣から参議に至る約20人で政策決定する)の要職に付ける立場ではなかったのに、兄の道隆、道兼が相次いで亡くなったことから、一条天皇の母后だった姉の詮子の推挙で「内覧」という重職に抜擢されます。これが、出世階段を昇るきっかけとなり、道長は、最後まで姉詮子に対する感謝の念を忘れませんでした。

 有名な「この世をばわが世とぞ思う 望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、娘威子が後一条天皇の中宮に決まった祝宴の席で詠まれたもので、権力の絶頂期とはいえ、何という傲岸不遜で、これ以上ないほど不忠とも言えます。

 しかし、この歌を書き留めたのは、道長のライバルの藤原実資(さねすけ)で(「小右記」)、道長自身は、「御堂関白日記」(国宝)に「歌を詠んだ」としか書いていないといいます(ちなみに、道長は一度も関白の職に就いていないので、題は後から付けられたもの)。道長に詳しい倉本氏によると、歌が祝賀会の二次会で詠まれたらしく、(飲み過ぎていて)本人も覚えていなかったかもしれないというのです。

 これは面白い史実ですね。

 倉本氏も、この「望月の歌」によって、藤原道長=悪人、不忠、傲慢説が広まり、これによって、残念ながら、平安貴族そのものが悪で、この後勃興する武士の方が立派だというのが日本史の通説になったのではないかと指摘しておりました。確かに、そうかもしれませんね。(当然のことながら、倉本氏は、戦国武将より平安貴族贔屓です)

 その一方で、もう少し注目しなければならないことは、教養人だった道長の文化に対する貢献です。これまで、藤原家の間で権力闘争が激しく、政権が安定していませんでしたが、道長が絶対的権力を握ることによって、国内も安定して国風文化の華が開くのです。道長は、一条天皇の后におくった彰子には、教育係の女官として、和泉式部(和歌)、赤染衛門(歌人、歴史)、そして紫式部(物語)といった後世に名を残す超一流人を付けるほどです。

 道長の最大の政争相手だった藤原伊周の姉妹の定子も一条天皇の女御(后)でしたが、その定子の女官が「枕草子」の清少納言で、紫式部と清少納言の仲が悪かったというのは頷けますね。また、一条天皇は、「源氏物語」のファンで、続きを読みたいがために、作品が手元にある彰子のもとに足繁く通ったという逸話には納得してしまいました。文化の力、畏るべしです。

 話は一挙に江戸時代に飛びますが(笑)、五代将軍徳川綱吉は、三代将軍家光の四男として生まれ、全く将軍職の芽がないので舘林藩主となります。しかし、四代家綱に後継ぎがいなかったため、予期しなかった将軍になってしまいます。綱吉には「生類憐みの令」を発した悪い将軍という後付けのネガティブなイメージがあります(内分泌異常で、身長が124センチしかなかったらしい)。この綱吉の時代に元禄文化が華開くというのは、何となく、傲慢な悪い印象がありながら、国風文化を開いた道長との共通点を連想してしまったわけです。

 元禄文化の代表人物には、美術工芸に尾形光琳・乾山、菱川師宣、文学に井原西鶴や松尾芭蕉、近松門左衛門らがいます。この時代に、こんな凄い文化人が集中して活躍していたとは、何とも不思議です。

乱読のすすぬ=家康は日本史上最高の偉人?

 ここしばらく、(とは言っても2日ほど)どうもブログが書けない状態でした。気の向くまま、興味の赴くまま、乱読していたので、頭がごった煮状態になっていたのです。本に登場する人物は、いつの間にか身近な親しい友人となり、時間と空間を超えてしまっていたのです。

 例えば、越前三国から継体天皇を擁立して磐井の乱(528年)を平定した物部麁鹿火(もののべの あらかい)や白村江の戦(663年)の司令官狭井檳榔(さいの あじまさ)、安曇比羅夫(あずみの ひらふ)らが私の頭の中で右往左往しています。でも、彼らの方が、コロナ禍で最近滅多に会えない現代の友人たちより近しく感じでしまうのです。古代人は、檳榔(あじまさ)とか比羅夫(ひらふ)とか、名前が格好良くていいじゃないですか(笑)。

 重症ですね。

 とはいえ、誰しもが、いずれ、三途の川を渡って彼岸の世界に逝くわけです。遥か遠い昔に亡くなった歴史上の人物と、今を生きている現代人と区別することもないんじゃないかと私なんか思ってしまいます。

 だって、現代人はメールを送っても「既読スルー」して返信もしない輩ばっかじゃありませんか。O君、H君、K君よ。これでは、古代人と会話していた方がよっぽど精神衛生上、健康に良い。

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 歴史が面白いのは、遺跡や古文書などの「新発見」が出てきて、新しい解釈が生まれることだけでなく、自分自身も歳を取ると歴史観が全く変わっていくことです。私なんか、戦国武将といえば、若い頃は、「太く短く生きた」その潔さから圧倒的に織田信長の大ファンで、小賢しい策士の秀吉や「たぬき親父」の家康は、とても好きになれませんでした。が、今は断然、徳川家康に軍配を上げます。調べれば調べるほど、こんな凄い日本の歴史上の人物はいない、と確信しています。

 家康ほど頭脳明晰の人もいないと思います。何しろ、全国、300藩と言われる大名から京都所司代などに至るまで重職者は全員覚えて差配して配置させ、彼らの政所や家臣などの人間関係、係累は全て頭に入っているんですからね。凡夫の私は100人でさえ顔と名前と係累が一致しません(苦笑)。

 最近、感心したのは、家康の腹心で「徳川四天王」と言われた武将たちは関ケ原の合戦以降、驚くほど優遇されていなかったことです。四天王筆頭の酒井忠次は関ケ原の前に亡くなり、家督は嫡男家次に譲られましたが、徳川秀忠に従い、関ケ原の本戦に参戦しなかったせいか、高崎5万石に移封。猛将本多忠勝は、上総国大多喜に10万石(関ケ原後は、伊勢国桑名10万石)、三河以来の武功派の榊原康正も上野国舘林10万石、新参ながら側近に大抜擢の井伊直政は上野国箕輪12万石(関ケ原後は近江国佐和山18万石)ですからね。命を懸けて最前線で戦ってきたというのに、加賀100万石、薩摩90万石といった外様大名と比べると、いかにも見劣りします。(勿論、家康は身内には甘く、関ヶ原の後、家康の次男の結城秀康を下総結城10万石から越前北庄=かつての柴田勝家の領地=68万石に加増移封します)

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 これは、ある程度、意図的で、家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍になって江戸幕府を開いてからは武闘派は遠ざけ、代わって本多正信、正純親子(後に失脚)や大久保忠隣といった文治派に近い行政官僚を重用し、天台宗の南光房天海大僧正や臨済宗南禅寺の金地院崇伝ら僧侶をブレーンとして登用したりします。僧侶といっても、毛利の安国寺恵瓊(えけい)のような軍師ではなく、行政官、外交官、立法官のような知性派です。

 天海上人は、風水を採用して江戸城の鬼門(北東)に寛永寺、裏鬼門の方角(南西)に増上寺を置き、八方に目白、目黒、目赤、目青、目黄不動尊などの寺院を建立させた人だと言われます。家康の日光東照宮も造営。家康、秀忠、家光の三代に仕え、108歳の長寿を全うしました。

 崇伝は、諸宗寺院法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度などを起草したと言われ、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。

 家康自身も「もう武装闘争は終わった」とばかりに、天下普請の城づくりだけでなく、上水や治水、日比谷干拓など「元和偃武」を見越して平和になった江戸百万都市の街づくりに着手しますから、とてつもなく先見の明がある大将軍だと言えます。

 乱読していると、頭が混乱しますが、現代だけでなく過去にも同時に生きている感じで、人生二倍楽しめます。

(実は今、戦後GHQに日本人の魂を売っって諜報機関をつくった有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎といった旧帝国陸軍最高幹部のことで頭がいっぱいなので、こんな文章を書いていても頭が全く整理されていません。)

 

坂下門と桜田門めぐり=江戸城址散策はひとまずこれまで

江戸城 坂下門

 ここ数日、何か、すっかり江戸城づいてしまい、今回は、締めを飾る「ここだけは見逃せない」という所に絞って行って参りました。

 昼休みを利用したので、会社から歩いて行ける距離ではありますが、時間の節約のため、今回は、JRと地下鉄を利用しました。

 「ここだけは見逃せない」というのは、坂下門です。幕末史関係の雑誌を読んでいて、年表を見ていたら、「坂下門外の変」が出てきました。「あれっ?何だっけ?」と昔覚えた記憶の糸を辿っても思い出せません。しかも、京都の事件と誤解していました。何か、「禁門の変」とごっちゃになってしまっていたようです(苦笑)。

「坂下門外の変」の説明がない?

 言うまでもなく、「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)、公武合体論を推進し、和宮降嫁を実現させた老中安藤信正が、尊王攘夷派の水戸浪士らに襲撃された事件です。

 片や、「禁門の変」は、元治元年(1864年)、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州藩が勢力奪還を図って入京し、薩摩・会津・桑名の藩兵に敗れた事件で、蛤御門(はまぐりごもん)の変とも言います。(この事件と池田屋事件で被害を蒙った長州藩=特に桂小五郎=の怨念が、戊辰戦争での会津に対する復讐と殲滅につながったと思われます)

 江戸城では、坂下門外の変が起きる2年前の安政7年(1860年)に、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が起き、こちらの方があまりにも有名で、多くの小説や映画やドラマになったりしたので、まず日本人で知らない人はいません。

 それに比べて、「坂下門外の変」を知っている人は、あまり映画にもドラマにもなっていないので、少ないですね。となると、老中安藤信正もそれほど知る人は多くない…。彼は、陸奥国磐城平藩主でした。現在の福島県いわき市です。安藤信正は、登城途中の坂下門外で浪士に襲撃されて背中に傷を負うものの一命を取り留めました。しかし、老中職を罷免されて隠居、謹慎を命じられます。それでも、戊辰戦争では、奥州越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦います。結局、敗北、降伏し、蟄居を命じられましたが、最後まで、徳川譜代大名としての意地を見せたのではないでしょうか。

江戸城 坂下門

 今の坂下門は、宮内庁の通用門になっているらしく、警備が厳重であまり近くには立ち寄れませんでした。私の風体が怪しく見えるのか、皇宮警察官と思われる人から睨まれてしまいました。

 私はただ、「嗚呼、ここで、わずか150年前に、襲撃事件があった現場だったのだなあ」という感慨に浸りたかっただけなんですけどね。

江戸城 桜田門

 勿論、坂下門の後、有名な桜田門にも足を運びました。

 桜田門には何度も行ったことがありますが、途中で、二重橋があったので、「なあんだ、坂下門と桜田門はこんな近くだったのかあ」と驚きました。歩いて10分かそこらです。

 この桜田門は、上の看板の説明にある通り、正式には「外桜田門」と言っていたそうですね。

 「桜田門外の変」で暗殺された大老井伊直弼の彦根藩上屋敷は、この桜田門からほんの目と鼻の先だったといいます。上屋敷の場所も確かめたかったのですが、時間がなくて残念。

桜田門 この近くで井伊直弼は襲撃されたのか?

 それより、マスコミ業界では常識ですが、現代では、「桜田門」といえば、警視庁の隠語となっています。

 勿論、この桜田門の近くに警視庁の庁舎があるからです。

二重橋、伏見櫓…江戸城跡めぐり

 中公ムック「歴史と人物」創刊記念プレゼントに応募したところ、上の写真の通り、「オリジナルA4クリアファイル」が当選しました。

 今年1月末締め切りだったので、すっかり忘れていました(笑)。買った雑誌を見返したら、クリアファイルは、「W賞」で当選者は300人でした。本当は「B賞」の「トートバックと中公新書5冊」狙いでしたが、それでも、「W賞」に当たったのですから、凄い。良しとしなければなりませんね。ついている!

 まあ、原価10円か20円ぐらいのファイルに見えましたが(失礼!)、会社の後輩から「メルカリで売れば、500円でも売れるんじゃないですか」と言うのです。そっかー。でも私は、メルカリなんかやってないし、あまり、好きではないので、このクリアファイルは、その後輩にあげてしまいました。彼から、テレビで放送された「大戦国史」をDVDに録画したものをもらってしまいましたから、その御礼です(笑)。

二重橋

 さて、昨日の昼休みは、またまた江戸城にまで足を延ばし、いわゆる一つの「二重橋」まで行って来ました。1時間の昼休みではそこまでが限度でした。

 何と言っても江戸城は広い!細かく史跡を全てを隅々回れば数日掛かるでしょう。

 今は皇居ですから、普段は「宮殿」にまで一般人は入れませんが、個人的には2017年18年に、元ナロードニキで今や優しい右翼の友人栗林氏と一緒に2年連続、お正月の「一般参賀」に参列し、禁断の皇居内に入ったことがあります。

 2018年は、平成最後ということで、参列した日は、最多の12万6720人が参賀したということでしたから、人、人、そのまた人で身動きが取れない状態でした。(1時間半ほど並びましたが、勿論、無料です)

 でも、昨日はコロナ禍で緊急事態宣言が発令され、平日の昼間ということもあり、皇居外苑は人が少なく、ガラガラでした。

 いやはや、目的は皇居参賀ではなく、江戸城址巡りでした。

 看板には「江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌が創築し。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。…」とあっさりした書き方ですが、本当は凄い所なんですけどね(だから、特別史跡か!)。

 上の写真は、伊達政宗の仙台藩上屋敷にほど近いところにある日比谷濠の石垣です。まだ素人なので間違っているかもしれませんが、この石垣は「打込接の亀甲積」に見えます。この辺りに、今は、皇居外苑管理事務所が建っていますが、江戸時代は陸奥泉藩(福島県いわき市)の上屋敷でした。

 何で分かるかと言うと、「大江戸今昔めぐり」というアプリがあるからです。これは、現代地図と古地図を一瞬にして転換できる優れものです。このアプリは、渓流斎ブログのサイトの立ち上げやサーバーなどでお世話になっている松長哲聖氏から紹介されたもので、彼も寺社仏閣に関して協力しているようです。「七福神めぐり」や「江戸歌舞伎ゆかりの地めぐり」などもあり、結構楽しく遊べる(?)アプリです。

 この二重橋は、普段は入れませんが、「一般参賀」の時に渡ることができます。

 向こうに見えるのが伏見櫓です。

 詳しくは上の説明文をお読みください。

 現在、皇居の宮殿がある所は、先ほどの「大江戸今昔めぐり」によると、「西御丸」「西御丸大奥」だったんですね。

 私も以前、何度か訪れている本丸と天守台、二の丸、三の丸などがある江戸城址は、現在、「皇居東御苑」として整備され一般公開されています。(目下、コロナ禍で休園中のようですが)

 ちなみに、天皇陛下がお住まいになる吹上御所がある所は、江戸城時代は(変な表現)、「吹上御庭」と呼ばれ、馬場や梅林や森林もあったようです。普段は一般人は誰も入れませんから、そこは、今でも、古代中世・近世から手つかずの自然が残っているそうです。

 私自身は、二重橋よりも、手前の石垣の方に興味があります(笑)。

 上部は、打込積の亀甲積に見えますが、下の方は布積というんでしょうか?お濠には忍者が潜伏していたのかしら?石垣は、関東大震災でも崩れなかったんでしょうか?

 いやはや、まだまだ勉強が足りません。