藤堂高虎はとてつもない築城名人

国宝姫路城

昨晩、お城関係の本を読んでいたら、三重県の津城は、正式には安濃津城ということを初めて知り、自分の不勉強を恥じるとともに、本当に驚いてしまいました。

 以前、沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」を読んでいたら、中世になって差別をされた人々が浄土宗系の仏教に縋り、多くの寺院が建てられるようになったという話が出てきました。その中で、三重県の津市のことも出てきたので、たまたま、津市出身で、浄土系の名門中学校を出ている学生時代の友人がいるので、メールで聞いてみたところ、「私が育った安濃津(あのつ)あたりは、差別された人たちが多く住んでいて、私が通った小学校は、全国でも同和教育のモデル校として表彰されたこともあります。中学は浄土真宗の学校でした」といった答えが返ってきました。

 いきなり、初めて聞く「安濃津」という地名が出てきましたが、特に調べることはなく、津市の郊外にある地名なのかなあ、と思っていたら、どうやら、津城が安濃津城(津市丸之内)と呼ばれるぐらいですから、津市の中央部もかつては安濃津と呼ばれていたのかもしれません。

 となると、古代に征服されて、差別された人たちは、中世になって浄土系の宗教に救いを求めるようになり、その領地には寺院が建てられ、戦国時代になって、城郭が建てられたという仮説が成り立つのではないかと思ったわけです。よく知られている史実として、蓮如の建てた石山本願寺の跡地に大坂城がつくられ、このほか、 加賀前田藩の金沢城は、それ以前は、加賀一向一揆の拠点だった浄土真宗の尾山御坊という寺院だったといいます。

  私の晩年の趣味は、どういうわけか、いつの間にか、お城と寺社仏閣巡りになりましたが、城郭と寺社とは、水と油(戦闘と慰霊)で全く関係がないと考えていたら、意外にも密接な関係があったのですね。本当に驚きました。

 日本の歴史や文学、美術を知るには、仏教思想が欠かせませんが、当然ながら、寺社仏閣や城巡りの際にも、仏教思想はこうして役に立つわけです。

唐沢山城(伝藤原秀郷の築城、日本の100名城)

 先程の安濃津城は、浅はかにも、藤堂高虎の築城かと思っていたら、永禄年間(1558~70年)に、伊勢の有力国人・長野一族の細野藤光が築城したものでした。しかし、織田信長が伊勢を征服し、その弟の信包が城主となります。関ケ原の戦いの後になって、藤堂高虎が入城し、全面改修し、城下町も整え、明治維新まで藤堂家が続きます。

 藤堂高虎は、築城の名人と言われ、調べば調べるほど、とてつもない偉人だったことが分かります。伊勢の人ではなく、もともと、近江の甲良荘(滋賀県犬上郡)出身で、甲良大工という築城集団がいたようです。藤堂高虎もその影響で、伊予の今治城(海城)と宇和島城(重要文化財)、それに伊勢の安濃津城と伊賀上野城などを作り、江戸城、大坂城、二条城、丹波亀山城などを改修、篠山城、名古屋城などの縄張りを任されています。徳川家康も一目置いて、江戸の屋敷は、寛永寺そばの上野の領地を与えます。上野は、勿論、伊賀上野から取って付けられた地名です。

 明智光秀もいいですが、藤堂高虎も大河ドラマの主人公にしてほしいものです。

🎬「決算! 忠臣蔵」は★★

 宣伝につられて、映画「決算! 忠臣蔵」を観てきました。宣伝のチラシでは、監督の中村義洋の名前が少し小さいことから、この作品は監督で売り出しているんじゃなくて、俳優で売ろうという趣旨が見え隠れします。(映画の宣伝費は、製作費と同じぐらい掛ける、と著名な映画プロデューサーから聞いたことがあります。)

 主演の大石内蔵助役が、堤真一。準主役の勘定方・矢頭長助役が岡村隆史。内蔵助の妻りく役は竹内結子、浅野内匠頭の妻瑶泉院役は石原さとみ。堤は真田広之の元付き人でアクションスター出身の俳優。岡村は、お笑いコンビ、ナインティナインのボケ役で、吉本興業所属。吉本は製作協力に名を連ねていることから、吉本のタレントが総出演という感じ。元参院議員西川きよし、桂文珍の大物までも…。

 仇討ち劇に、お笑いの人たちとは、何か違和感。

もっとも、仇討ちの剣劇場面はほとんどなく、吉良さんも登場せず、お話のほとんどが、銭カネの話。当時の1文=30円、1両=12万円と換算し、蕎麦の相場が16文だったことから、今の480円。討ち入りのためには、宿代、飯代、武具、槍、刀代などで、合計1億円近くかかる詳細内訳は、大変面白かったのですが、やはり、演ってる人たちがお笑いさんだと、違和感が…。

まるで、昭和時代の文士劇か、学芸会のようだった、と書くとこのブログも炎上するでしょうね。映画館までわざわざ足を運んで、きちんとお金を払って観た単なる一個人の感想ということで、勘弁してください。今、ブログに批判的なことを書くと殺される時代ですから、こちらも命懸けです。

 ただし、この映画の原作になった山本博文著「『忠臣蔵』の決算書」(新潮新書)は、しっかりしているようです。武士の中でも、番方(武官)と役方(文官)との間の反目が映画でもよく描かれていました。

唐沢山城址は「国指定史跡」でした

 11月2日(土)は、「山歩き同好会」の皆様のお導きで、栃木県佐野市にある唐沢山城に行って来ました。晴天に恵まれて、美味しい空気をいっぱい吸ってきました。

JR宇都宮線の久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えて館林駅へ。そこで東武佐野線に乗り換えて、集合場所の田沼駅に到着。そこから自然歩道「松風のみち」を通って山頂を目指すというまさに急勾配の山登りコース。中世の城ですから仕方ありませんね。

かつて蔵屋敷があった所にレストハウスが建ち、蔵屋敷のくい違い虎口付近に碑が建つ

 最初から文句を言うようですが、城址を管理し、コースを整備するのは佐野市の教育委員会か、観光課なのか分かりませんが、散策者向けの道標が少なくて大変、不親切でした。

道筋がサッパリ分からないのです。

歩道や階段はきちんと整備されてはいるのですが、立て看板は「ハイキングコース」だの「初心者コース」だのほぼどうでも良いような案内ばかり。肝腎要の「唐沢山城本丸まで0.9キロ」とか「⇨堀米駅方面 あと2.5キロ」といった看板がサッパリ見当たらず、ハイカーにとっては基本的で、しかも重要な情報が把握できないのです。

佐野市が大々的に宣伝していていた最近発掘した「隼人屋敷」も随分探しましたが、結局、何処にあるのか分からず仕舞いで、時間を無駄にしただけでした。

 リーダーさんも、2万5000分の1の地図と方位磁石を睨めっこして、道に迷わないようにするのが大変な様子でした。

史蹟「唐沢山城」は、高さ240メートルの山頂にあると書かれていますが、下界から登ると、狭くて急坂の獣道(けものみち)を踏み分け、踏み分けてやっと辿りつく感じで、数字以上にきついものがありました。

 こんな山道を登山することなく、車で、かつて蔵屋敷があり、現在はレストハウスのある駐車場まで簡単に来られるので、車の人はこのキツさは分からないでしょうが。

 人間ですから、生きていくには「水」が欠かせません。でも、唐沢山城は、大いに水に恵まれておりました。この「大炊の井」では、現在でもこんこんと水が湧き出てくる、とあり、今は鯉が優雅に泳いでおりました。

避来矢権現

伝説では、唐沢山城は、平将門の乱を鎮圧、平定(940年)した藤原秀郷(藤原北家魚名の子孫か)が平安中期に建てたと言われていますが、確かな文献はなく、平安時代の末に佐野庄を統治した佐野氏が築いたというのが定説です。

 1454年の享徳の乱では、古河公方足利氏と関東管領上杉氏との対立で、ここ唐沢山城も、戦乱に巻き込まれたようです。

 戦国時代は、北からは越後の上杉謙信、南からは小田原の北条氏が攻めてきて、度々、どちらかの支配下に入りました。

 大炊の井の近くにある「避来矢権現(ひらいしごんげん)」は、文字通り、飛んで来る矢を避けることができるよう神さまを祀っています。

西の城と帯曲輪(おびぐるわ=使者の間)の間にある「四つ目堀」には、案内板にあるように、橋が架かっていましたが、いざ、合戦となると橋は引き払うことができるようにしていました。

三の丸では、賓客の応接間があったようですね。

二の丸 神楽殿

二の丸にある神楽殿。いつ頃の復元か分かりませんが、ここで、神楽が踊られたということなのでしょう。

二の丸跡です。奥御殿直番の詰所があったということです。

本丸 唐沢山神社

やっと、本丸が見えてきました。

天正13年(1585年)に、佐野宗綱が討死すると、北条氏忠が婿入りして唐沢山城主となります。が、 天正18年(1590年)、 小田原合戦で北条氏が滅亡すると、秀吉と親交があり、宗綱の叔父とされる天徳寺宝衍(ほうえん)が城を奪還して、佐野房綱として佐野家に復帰します。

唐沢山城址には、明治16年に藤原秀郷を祀る唐沢山神社が創建されました

 文禄元年(1592年)、佐野房綱は、秀吉の家臣富田知信の子息信種を養子として城主に迎え、信種は、秀吉から「吉」の一文字を授かって、信吉と改名します。

本丸 高石垣

 上の写真のような見事な本丸の高石垣は、この佐野信吉の時代に築かれたと言われています。

見応えあります。

どうだあ!8メートルを超す高石垣

 高石垣の高さは8メートルを超え、唐沢山城は、豊臣方として、対徳川軍との最前線となります。

神社本殿

 しかし、佐野信吉は、秀吉の死後、家康に従い、関ケ原の戦いの後の慶長7年(1602年)に、下界の現在、佐野市街にある佐野城に移城し、唐沢山城は廃城となります。(慶長5年、もしくは12年移城もあり)

 その佐野城も慶長19年(1614年)、佐野信吉が所領没収処分となり、信州松本の小笠原秀政の下へお預けの身となり、廃城となってしまいます。

唐沢山はその後、彦根藩や幕府直轄地などの御留山(おとめやま)として管理され、手つかずの自然が残されます。

 明治16年(1883年)には、藤原秀郷を祀る唐沢山神社が創建されます。

鏡岩

唐沢山城は、山城ですから晴れた日の展望は抜群です。さいたま新都心や東京・新宿の高層ビルもオペラグラスがあればはっきり見えます。

上の写真は、上杉謙信軍を悩ましたと言われる鏡岩からの展望です。蛇のようにくねって見える白い線は、秋山川で、先日の台風19号で氾濫し、佐野市街に被害をもたらしました。地元の人は「川が切れた」と言ってました。

 以上、山城散策を終えて、帰りの堀米駅まで、通りが激しい県道横の歩道をテクテク歩きましたが、これまた案内板がほとんどなく、駅まで辿り着くのに苦労しました。

 東武佐野線田沼駅も堀米駅も、誰もいない無人駅で、1時間に1本か2本ぐらいしか通ってません。地元の人たちはほとんど車なのでしょう。駅のベンチで待っていた地元のおばちゃんが話しかけてきて「あんりま、わざわざ遠くから唐沢山城まで来やんしたか。あたしなんか、1回行ったっきり。佐野厄除け大師も宣伝しているから、遠くから多くの人がみえるけど、地元の人間はほとんど行きませんよ」と言うので、佐野の人たちは、あまり郷土愛がないなあ、と疑ってしまいました(笑)。

 唐沢山城址は、「国指定史跡」として認定されていますから、感動しまっせ。皆さまにもお薦めです。機会があれば、どうぞ。そう言えば、レストハウスで、デカい音でカラオケをやっていたと思ったら、近くで見たら、サックスの生演奏で、セミプロの歌手が昭和のムード歌謡を唄ってました。石原裕次郎の映画を思わせる場末のキャバレーの世界でした(笑)。

私は、今度は、この近くの佐野城址や、徳川四天王の一人榊原康政が初代藩主を務めた舘林城址にいつか行ってみたいと思っております。

 それでは、また。

新宿駅は尾張犬山藩成瀬家の下屋敷だった=「古地図で歩く江戸・東京」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 「特別展 サムライ」を観に行った江戸東京博物館のミュージアムショップで、面白そうな本を見つけたので買ってきました。

 「江戸楽」編集部著「古地図で歩く江戸・東京」(メイツ出版)です。まさに、江戸時代の古地図と現代の地図が比較して見開きで掲載され、お勧め散歩コースまでついているのです。

 でも、私自身、江戸城も、八丁堀も、浅草も、ほとんど一度は散策したところが多く、既に教養と雑学知識も増えてしまっていますから、それほど新発見はありませんでした。

 というのは、ちょっと傲慢なので、この本を通して私自身が初めて知ったことを書き連ねていくことにしましょう。

 ●巣鴨にある「とげぬき地蔵」として知られる高岩寺。もともとは、慶長元年(1596年)に湯島に創建され、約60年後に下谷屏風坂(上野の現在、岩倉高校があるところ)に移転して、それから明治24年(1891年)、巣鴨に移っていったというのです。(この本にはそこまで詳しく書かれていませんでしたので、補足しておきました)

 江戸時代は、火事が多かったでしたから、寺院の移転も結構多くあったということでしょう。高岩寺は正式名称は曹洞宗萬頂山高岩寺です。曹洞宗だったんですね。

●現在、新宿御苑がある広大な敷地は、信州高遠藩の内藤家の下屋敷があったことはよく知られておりますが、さて、現在、新宿駅があるところは、江戸時代は何だったでしょうか?-何と、国宝になっている犬山城の城主尾張犬山藩成瀬家の下屋敷があったというのです。成瀬家は、組下の鉄砲隊・根来組を内藤新宿に配備していたそうです。

●「青山」の地名は、徳川家康から宅地を与えられた老中青山忠成が、美濃郡上藩の下屋敷を構えたことからそう呼ばれるようになったことは御存知だと思いますが、神保町は、御存知でしたか?-神保長治という旗本が住んでいたことから付けられたんですね。明治以降は多くの学校だけでなく、感染症患者を受け入れる神保院が建てられたそうです。

●市ヶ谷の防衛省の敷地は、御三家、尾張徳川藩の上屋敷だったんですね。邸内には「楽々園」と呼ばれる広大な庭園があったそうです。

以上

謹慎中の武士が町人と僧侶と一緒にどんちゃん騒ぎ=かつての身分史観は間違っていた?

 (昨日からの続き)和歌山県 丹生都比売神社

 座禅に相当する 真言宗の瞑想は「阿字観」といいまして、梵字の「阿」の字に向かって、雑念を振り払って、心を空にして瞑想します。

 梵字は古代インドで誕生し、仏教とともにアジアに広まります。空海が日本に伝えたともいわれています。お墓の卒塔婆などでも使われていますが、現代は、インドや中国では廃れてしまい、主に日本だけしか使われていないというのです。これは知りませんでしたね。仏教自体が本家インドで、そして中国でも衰退してしまいましたから、梵字も同じ運命を辿ったのでしょう。

 「空海」(新潮社)を書いた高村薫さんによると、高野山は内紛で、空海入定後、わずか80年で無人になって荒廃してしまったというんですね。真言宗がその後、日本全土に普及するのは、難解な真言密教を通してではなく、空海を「弘法大師」としていわゆる偶像化して平易な現世利益を広めた多くの無名の「高野聖」の活躍があったといいます。

  空海に、弘法大師の諡号(しごう)がおくられたのは、天台宗の開祖最澄や円仁らと比べてもかなり遅く、実に死後87年目のことで、著者の高村さんは「意外なことに、空海の名声は比較的早い時期に一時下火になってしまったと考える」とまで書いていることを改めて追記しておきます。

 さて、今、大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社、2019年4月25日初版)を読んでいます。なかなか面白い。「江戸時代は士農工商のガチガチの身分制度だった」というこれまでの歴史観が引っくり返ります(笑)。

 絵日記の作者は、幕末の忍(おし)藩(今の埼玉県行田市)の下級武士だった尾崎石城(本名隼之助、他に襄山、華頂などの号も)。熊本県立大学の大岡名誉教授が分かりやすく解説してくれています。

 忍藩は江戸から北に15里(約60キロ)離れた人口約1万5000人の城下町です。忍城には、いつぞや私も栗原さんと一緒に行ったことがありますが、石田三成の水攻めにも屈しなかった堅城です。忍藩は、江戸時代になって、松平信綱や阿倍忠秋ら多くの老中を輩出したことから、「老中の藩」とも言われ、幕政の要になった親藩でもありました。

 尾崎石城は、天保12年(1841年)、庄内藩の江戸詰め武士だった浅井勝右衛門の子として生まれ、18歳の弘化3年(1846年)に忍藩の尾崎家の養子に入っています。庄内藩と忍藩とは縁もゆかりもなさそうですが、江戸時代はこういう「養子縁組」は当たり前のように行われていたんでしょうね。

 この石城さん、理由は詳らかではありませんが、度々、藩から咎めを受けて「蟄居」処分を受けます。最初は、23歳の嘉永4年(1851年)です。

 あれっ?大岡敏昭名誉教授の解説では、生まれた年が合いませんね。1846年の時点で18歳、1851年の時点で23歳が満年齢だとしたら、石城は1828年生まれ、つまり、 天保12年(1841年)ではなく、文政11年生まれでなければおかしいのですが。。。

 ま、堅いことは抜きにして、とにかく、石城さんは、何度も蟄居処分を受けますが、その度に自邸から抜け出して友人の家に行ったり、料亭「大利楼」などに行ったり、馴染みの和尚さんがいる寺院に行って酒を飲んだりしているのです。

 しかも、身分の差を越えて、武士と町人と僧侶が一緒になってどんちゃん騒ぎしているんですからね。その様子を、江戸の絵師福田永斎の門人として修行し絵ごころがある石城さんが、見事に挿絵として活写しているのです。本の表紙にもあるようにほのぼのとした雰囲気の絵です。

 絵日記は、二度目の咎めによる強制隠居の時の文久元年(1861年)6月から翌年4月まで書かれています。石城さんの生まれが文政11年(1828年)だとすると、33歳頃となります。蟄居ながら、独身という自由な身であることから、頻繁に寺院や友人宅を訪ねて、酒盛りする姿が描かれています。

◇大酒呑みの僧侶

 驚くほどのことではないでしょうが、ここに登場する僧侶は大酒呑みばかりで、料亭にも足繁く通ってます。大岡名誉教授の解説でも、「大蔵寺の宣孝和尚=酒好き、女好きで愉快な人物」「龍源寺の猷道和尚=この和尚も酒好き、女好き」と解説するほどです。(酒のことを「般若湯」、馬肉を「桜」、イノシシ肉を「牡丹」、シカ肉「紅葉」と誤魔化して、僧侶たちは、今で言うジビエ料理を楽しみ、しっかり肉食妻帯していたわけですから、「聖職者」とは程遠い感じです。人間的な、あまりにも人間的なです。)

 忍藩は、海のない藩なのに、蜆や鰯や鮪、鯔など石城さんはしっかり海産物を食べています。恐らく、お江戸日本橋の魚河岸から川による水上交通で運ばれて来たのでしょうね。

 石城さんの生活費はどう工面していたかと言いますと、妹邦子夫婦と同居し、邦子の夫である進は、石城の養子になり、石城さん蟄居中は、進が忍城に登城していました。また、石城は絵を描くので、掛け軸や行灯などの絵を頼まれ、近所の子どもたちには「手習い」を教えていたようです。呑み代が足りないと、帯を質に入れたりします。

 ◇武士の身分とは

 長くなるのでこの辺にして、この本の中に出てくる「武士の身分」についてだけは書いておきます。

【知行(土地)取り】家中(かちゅう)、侍、士分

・上級武士(300石~数千石)=家老、奉行、御勘定頭

・中級武士(50石~200石台)=番頭、寄合衆、御目付、御用人、御馬廻

【扶持取り】徒(かち)、給人(きゅうにん)、足軽、中間 / 小人、同心

・下級武士(二人扶持~二十人扶持)=元方改役、御鉄砲、御小姓、表坊主

※十人扶持の場合、1年に食べる10人分の米が支給される。一人一日五合として、年に一石八斗、10人分で十八石。また、切米(きりまい)という現米を年俸として支給されることもある。例えば、五石二人扶持とは、年に切米五石と、二人扶持(三石六斗)の計八石六斗の米が支給される。

 時は幕末。尾崎石城は、どうやら水戸の過激思想にかぶれて藩政批判したことから蟄居の身となったのではないか、と大岡名誉教授は推測しています。忍藩は幕政の要の親藩ですから、重罪です。尾崎家は当初、200石の御馬廻役でしたが、蟄居で知行を取り上げられ、石城は中級武士から下級武士に降格されたようです。それでも、絵日記には全くと言っていいくらい悲壮感がありません。

 それに、三度目の咎めの理由だけは分かっており、「謹慎中の隠居の身でありながら、勝手に出歩き、しかも町人町に家を借りたりして実にけしからん。寺への出入りも禁止する」というもの。大いに笑ってしまいました。

佐倉城址を訪ねて

 日本城郭協会が千葉県で唯一「日本の100名城」に選定している下総の佐倉城に行ってきました。

 東京の日暮里駅から京成線の特急で50分で佐倉駅に着きます。特急料金がなく乗車券だけで660円。大抵、終点・成田空港駅行ですから、大きなボストンバックを横に抱えた外国人観光客を見かけました。私は、いつも成田空港に行くときは、京成スカイライナーに乗っていたのですが、この特急なら少し時間が掛かっても、安く行けたんですね。

 さて、佐倉城址ですが、京成佐倉駅から歩いて18分ぐらいの距離でした。平城ですから、ほとんど高低差が少なく、楽に行けて、初心者向きでした。

 今は、このように佐倉城址公園になっています。

  石垣はなく、土塁ですし、空堀が多いので、 何も知らない、あまりお城に興味がない人が来て、看板も見なければ、単なる公園と思ってしまうかもしれません。

 でも、公園内にはこうして、城址の史跡の看板を掲げてくれて、観光客にとても分かりやすく説明してくれます。

 上の写真の看板では、明治の廃仏毀釈で、寺院が消滅したことが書かれています。

 佐倉市のホームページには、「明治維新後、城址には陸軍歩兵第二連隊(後に第五十七連隊=通称・佐倉連隊)が置かれたために櫓や門などはそのほとんどが取り壊され、昭和20年の終戦まで軍隊が置かれていました。」と書かれています。

 明治時代に写された城の天守や櫓などの古い写真が残されていますが、今は影も形も全くありません。米軍による空襲でなくなったのかと思っていたら、どうやら、この説明によると、明治人自らの手によって破壊されていたんですね。

 確かに、城なんぞは、富国強兵を推進する明治政府にとっては、前近代的な過去の遺物かもしれませんが、それにしても、それにしても。。。。です。

おや?幕末に日本を開国に導いた老中堀田正睦(ほった・まさよし)ではありませんか。

実は、ここ佐倉藩の藩主だったんですね。佐倉藩は、徳川家とつながりが深い親藩でした。

 老中堀田正睦の日米通商条約の交渉相手、タウンゼント・ハリス米国総領事(初代駐日公使)の像も、堀田公の横に建っておりました。

三の門跡。。。

二の門跡、だんだん本丸に近づいて来ました。

と思ったら、二の丸御殿跡。ここに藩主がお住まいになっていたそうです。

遠慮して、本丸は、将軍がおなりになった時に泊まるからだそうです。

栗原先生の地元、日光にお参りする途中の宇都宮城も、藩主は二の丸御殿に住み、本丸は、将軍様用にあけていたので、親藩はそういうケースが多かったのでしょう。

一の門跡に来ました。

三の門、二の門、一の門と、それぞれ写真のように、立派な門があったのに、今はない、ということは、取り壊されてしまったんですね。嗚呼。。。

今では広い公園になった草原を横切って、ようやく、本丸跡に辿りつきました。感無量です。小雨のせいか、ほとんど人がいませんでした。

随分新しい「史跡看板」だなあ、と思ったら、2年前の「平成29年建立」と、裏に書かれていました。

大抵の城址には、戦国武将やお城の来歴が書かれていますが、佐倉市にはそのような看板がなく、城建物の物理的な説明だけでした。

 そこで、また佐倉市のホームページを引用します。(少し表記を改めています)

佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532~1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしま・もとたね)が鹿島台に築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611年)から元和2年(1616年)までの間に築造された平山城です。

 土井利勝公は、このあと茨城県の古河に移封され、初代古河藩主になりました。実は、先だって、古河城址訪れた際に、土井利勝公のことを知ったので、今回、どうしても佐倉城址を見たかったのでした。

北に印旛沼、西と南に鹿島川と高崎川が流れる低地に西向きに突き出した標高30メートル前後の台地先端に位置します。佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配して、城下町としました。

 以後、江戸の東を守る要として、有力譜代大名が城主となり、歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就きました。なかでも、幕末期の藩主・堀田正睦は、日本を開国に導いた開明的な老中として有名です。

 なるほど、そういうことでしたね。

佐倉丼 1230円

お腹が空いたので、この城址公園の隣接地に昭和58年に開館した国立歴史民俗博物館にあるレストランでランチを取ることにしました。

 佐倉名物ということで、佐倉丼なるものを食しました。観光客だからいいでしょう?(笑)。

 この国立歴史民俗博物館は、初めて訪れました。

古代の第1展示室から、現代の第6展示室まであり、広い、広い。見応え十分でした。入場料600円は安いですね。

パンフレットには「ゆっくりひとまわりで1時間半~2時間」と書かれていましたが、まさか、まさか、説明文を読みながら、ゆっくり回ると3時間~4時間はかかる量でしたよ。

 外は大雨で、良い雨宿りになりましたが、私は2時間半かかり、疲れてぐったりしてしまいました。

 恐らく、全国で一番、展示量が多い歴史博物館でしょう。考えてみれば「国立博物館」でしたね。でも、「複製」がちょっと多い感じでした。とはいえ、素人には区別がつきませんから、百科事典を読んでいる感じで、大変な歴史の勉強になります。

 機会があれば、是非訪れることをお薦め致します。

水戸漫遊記=水戸城址を訪ねて

 昨日18日(土)、ついに水戸城址に行って参りました。何しろ御三家で、最後の将軍徳川慶喜を輩出した藩ですからね。

 でも、遠かったあー。自宅から3時間以上掛かってしまいました。行く前に会社の後輩から「水戸に行くんですか?成田空港より遠いですよ」と脅されていましたが、まさかこんな遠いとは(苦笑)。筑波山よりも遠いんですからね。

 そう言えば、この間、古河城址に行った時、地元のお好み屋のおばちゃんから、「県庁の水戸まで行くのに遠過ぎる。栃木県の宇都宮や埼玉県の浦和だったら近いのに」と嘆いてましたが、その気持ちが良く分かりました。

水戸学の道

でも、行ってよかったですね。書物だけじゃ駄目です。実際に自分で現地に行かなければいけません。新聞記者の原点である「足で稼がなければ」なりませんね。

 土曜日だというのに、上の写真の通り、人が少なかったでした。さすがに水戸駅前は人が多かったでしたが、ちょっと離れた城下町に入るとタイムスリップしたような感覚に襲われました。

 古河市も素晴らしい城下町でしたが、何度でも言いますが、水戸は御三家です。やはり、規模が違いました。でかい。広い。

 上の看板写真のように、あちらこちらに案内図があり、「城歩き」には大変便利でした。

 水戸彰考館は、上の写真の説明にある通り、水戸黄門(黄門とは、中納言の唐風の呼び方)こと二代藩主徳川光圀が、「大日本史」の編纂のために創設した学問所です。勿論、現物は残っていません。昭和20年8月2日、アメリカ軍の爆撃で焼失しました。

 この水戸城三階櫓もアメリカ軍にやられました。このように戦前の写真が残っていますが、誠に惜しい櫓を失いました。

 水戸城は、御三家にしては質素な平城で、この三階櫓が天守のシンボルのようなものだったといわれています。説明文には「水戸空襲で焼失した」とだけしか書いておらず、主語が抜けています。忖度したのでしょうか?

二の丸は「藩の政務の中心施設」と書かれています。

 現在、この広大な二の丸の敷地跡には、筑波大付属小学校、市立水戸第二中学校、県立水戸第三高校があります。

 茨城県は、全国の魅力度ランキングで47都道府県中、6年連続最下位と聞いたことがありますが、教育に力を入れているんですね。もっと、アピールしなければいけませんよ。

 このように、現在、大手門の復元工事を行っていました。完成は今年9月30日ということですから、ご興味のある方は、お出掛けになったら如何でしょうか。魅力度アップに貢献してください(笑)。

 これは、二の丸と本丸の間の土塁と言われていますが、現在、JR水郡線が走っております。

 やっと本丸跡に着きました。えーー?看板が剥げて読みにくい。こりゃないよー。到達感が味わえない!

 こんな無粋で、興醒めするような碑を建てちゃ駄目でしょ?これでは、魅力度が落ちるはずだ。(何か、持ち上げたり下げたり忙しいですね)

 本丸は、現在、名門水戸一高になっており、敷地内は関係者以外入れませんが、私のような城好きの文化財視察者には特別に開放されているわけです。

 水戸一高は、旧制茨城中学で、小説「土」を夏目漱石に激賞された長塚節は中退していますが、この学校の出身です。

 上の説明文にある通り、旧水戸城薬医門は、旧水戸城で現存するただ一つの建造物で、現在は、水戸一高の校門みたくなっています。文化財見学者は、許可は取らなくても、ここまで入れます。

 土曜日でしたが、水戸の高校は授業があるようでした。生徒さんたちが帰るところでした。

 本丸から二の丸に戻って、三の丸に向かいました。ここには、藩校の弘道館があります。

 九代藩主徳川斉昭が天保12年(1841年)につくった日本最大級の藩校で、あの吉田松陰らも訪れています。最後の将軍慶喜は5歳のころから、ここで英才教育を受けたといいます。

 また慶喜は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂から逃れ、江戸城を出て、ここでしばらく、新政府軍に恭順の意を示すために、謹慎しました。

 この弘道館は、昭和20年8月のアメリカ軍の爆撃では、必死の消火作業で、延焼を免れたと、案内係の人が説明してくれました。ということは、今年で創建178年ですか。昭和39年には国の重要文化財に指定されていますので、まだの方は、是非行かれるといいでしょう。

 水戸駅に戻って、バスで茨城県立歴史館を訪れました。

 そう言えば、申し遅れましたが、バスを利用するのでしたら、水戸駅に着いたら最初に「水戸漫遊1日フリーきっぷ」を買うといいです。乗り放題で大人400円。

 水戸駅から歴史館・偕楽園まで往復480円ですから、80円のお得。それだけでなく、弘道館、歴史館、偕楽園好文亭などの入場料も割引になりますから、買わなきゃ損。私は、水戸駅を降りて、バス停の看板でその存在を初めて知りました。

 ただし、バスは1時間に1~2本ですから、前もって時刻表を確かめて行動するといいでしょう。

茨城県立歴史館内にある旧水海道小学校

 水戸市内には、私も昔行ったことがある水戸芸術館をはじめ、茨城県近代美術館など多くの美術館・博物館があります。私も事前に調べて、何処に行くべきか迷ったのですが、時間の関係で、最低1カ所だけしか行けないのでしたら、そして、城好き歴史好きでしたら、この歴史館がお勧めです。

 個人的な感想ながら、水戸藩と言うと、どうしても朱子学や尊王攘夷思想などの影響で、幕末は桜田門外の変や天狗党事件などを起こし、過激派のイメージが強いことは確かです。

 歴史館ですから、最初は古代の縄文土器や埴輪などに始まり、中世、近世、近代と時系列に展示されています。その最後の方で、私は思わず、あっと叫びそうになりました。

 太平洋戦争末期の昭和19年9月から11月にかけて激戦が行われた太平洋パラオ諸島のペリリュー島の戦い。ここで、水戸の歩兵第2連隊(第14師団)が中核となって戦い、全滅したというのです。日本軍の戦死者1万人以上、米軍も2300人以上戦死したといわれます。

 私も思わず、パネルに向かって黙祷しました。

 歴史館から歩いて13分ほどで偕楽園に着きます。入場無料は、大変有難い。

好文亭表門から入りました。

 広い、広い。日本の三大名園ですが、一番規模が大きいようです。

 梅シーズンを外したので、それほど混雑しておらず、ゆっくり森林浴が出来ました。

目指すは好文亭(200円が割引で150円に)です。天保13年(1842年)、徳川斉昭が自ら設計した別邸です。

好文亭

 好文亭もアメリカ軍の空爆で焼失しましたが、戦後、復元したようです。

 さすが、ここは観光ガイドブックに載っているのか、外国人観光客でごった返していました。(写真には写っていません)

常磐神社

 最後に訪れたのが、偕楽園に併設している常磐神社。二代藩主徳川光圀と九代藩主徳川斉昭を祀る神社です。

水戸市内には多くの寺社仏閣がありますが、時間の関係で一カ所しかお参りできなければ、ここが究極の選択になるかもしれません。

お土産に水戸の名物の青梅でも買おうかと思ったら、青梅が出るのは6月の中旬だそうです。残念でした。

 とにかく、行ってよかったでした。水戸城は「名城100」のうちの一つでした。そんなら、本丸跡の碑は、もうちょっとしっかりして下さいね。

鷲宮神社〜騎西城〜玉敷神社の藤の花=埼玉県久喜市~加須市

 先日、この渓流斎ブログで予告させて頂きましたように、5月4日(土)は、「城歩き同好会」のメンバーの皆さんと一緒に、埼玉県加須市にある騎西城とその周辺の神社仏閣を散策して参りました。

鷲宮神社

 最初に訪れたのは埼玉県久喜市にある「鷲宮神社」です。

 ゴールデンウイーク(GW)前半の先月4月29日に、古河城址を散策した話を、この渓流斎ブログで書きましたが、この時はJR宇都宮線で古河まで行きました。GWのせいで、行きも帰りも混んで座れなかったのですが、途中の久喜駅でかなり乗降客が多くて不思議に思っていたのです。今回、このJR宇都宮線久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えて鷲宮に行きましたから、久喜駅は東武線と連結していたことを今回初めて知りました。

鷲宮神社

 鷲宮神社は、「出雲族の草創にかかわる関東最古の大社」なのだそうです。創建は「神代の昔」で、主な御祭神は、天穂日命(あめのほ ひのみこと)、武夷鳥命(たけひな とりのみこと)、大己貴命(おおなむぢ の みこと)。中世以降も源頼朝、古河公方、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら名立たる武将が、奉納や神領の寄進、社殿の造営などを行うなど由緒ある神社です。

 鳥居をくぐると、急に、大変、荘厳な雰囲気に包まれます。

 ここの神楽殿では、関東神楽の源流と称される「土師一流催馬楽神楽(はじ いちりゅう さいばら かぐら)」が奉演され、上皇后両陛下と来日されたスウェーデン国王御夫妻が鑑賞されているパネル写真も展示されておりました。

粟原城か?

この鷲宮神社の裏手(?)にはかつて、「粟原城」があったらしいのですが、今は影も形もないどころか、面影すら残っていません。

一説には粟原城主は、鷲宮神社の社司も兼ねていたそうですが、何しろ、歴史的資料が乏しく、詳細は不明なんだそうです。

土塁に建つ私市城(きさいじょう)碑

鷲宮駅に戻って、東武伊勢崎線二つ目の加須駅に向かいます。

その途中の花崎駅(2017年の夏の甲子園でここの花崎徳栄高校が埼玉県勢として初の全国制覇しましたね)を少し越えると、右に花崎城跡公園と自動車教習所、左に花崎城山公園があります。

そうなんです。ここはかつて、「花崎城」があった所なのですが、線路で分断されてしまっているのです。公園内には堀や土橋が残っているらしいのですが、電車内で目視での確認に留めました(苦笑)。

加須駅に着き、迷った末に駅から遠く離れた、とは言っても、300メートルらしいのですが、「観光案内所」に辿りつき、そこで地図などパンフレットも頂き、幸運にも目の前のバス停から騎西城跡まで行ってくれるというので、バスを利用することにしました。案内所のおじさんは大変親切で、バスが来るまでヤキモキして一緒に待ってくれました。

そこから、バスで約12分。ちょっと楽して到着したのが、騎西城跡。かつては私市と書いて、「きさい」と読んだらしいのですが、これは、武蔵七党の一つ、私市(きさい)党から来ているようです。

騎西城土塁跡

この辺りは、昭和57年ごろから本格的に発掘・整備されて、看板も充実していました。

武州騎西の絵図

江戸初期の騎西城の城下町の絵図をご覧になれば、その広さが分かります。

騎西城のレプリカ(本丸は天守がなく平城だったらしい)

お、ついに出ました。騎西城の天守です。城内は、資料館になっており、入場無料。(ただし、春と秋のほんの少しの期間しか開いていないようです)騎西城は、康正元年(1455年)に古河公方足利成氏が攻略したことで、文献に初登場し、江戸初期の寛永9年(1632年)に廃城なったということです。

ということで、これは平成の時代になって観光資源のために建てた天守で、実際の騎西城には天守がなく、平城だったそうです。この「天守」が建っている所は、かつての外堀(または沼地)だったようで、現在の生涯学習センターがある所はかつての「天神曲輪」、その北に「二の丸」と「馬屋曲輪」があり、その北に「本丸」がありました。

騎西城跡

はい、これが、騎西城跡の説明文ですから、こちらをお読み頂ければ、お分かりになるかと存じまする。

玉敷神社(久伊豆神社)

騎西城跡から町人町を通って、歩いて25分。玉敷神社に向かいました。これは、かつて本丸の東にあった久伊豆神社を移築したもので、今でも、玉敷神社の別名は久伊豆神社です。

加須市の郷土の偉人として、河野省三(1882~1963)がおりますが、彼はこの玉敷神社の社司を務め、国学院大学の学長も務めた人でした。社内にある彼のかつての邸宅は、公開されています。

玉敷神社

久伊豆神社は、武蔵国の東葛飾郡に多く見られる神社で、久伊豆を逆にして伊豆久として、同音異義語の「出ず」「く」→「出ずくも」→「出雲」となり、久伊豆神社も出雲族系なのだそうです。

 埼玉県大宮には「武蔵国一之宮」である氷川神社があり、こちらも出雲斐川を勧進した出雲族系と言われていますが、同じ出雲でも違いがあるんですね。

 大宮を含む旧武蔵国埼玉郡には、今の東京都内も含めて、氷川神社だらけですが、武蔵国東葛飾郡には氷川神社はなく、久伊豆神社だらけです。

玉敷神社の見事な藤の花が

玉敷神社では、このように、ちょうど藤の花が満開で、「藤まつり」が開催されていました。福島からのハワイバンドの演奏と、40歳ぐらいのプロ男性歌手によるワンマンショーも開催されておりました。が、真面目に聴いている人が少なくて、彼は一生懸命に、手振り足振りして頑張って唄っているのに、かわいそうで涙が出てきてしまいました。

藤の花は日本一かも

樹齢400年以上の大藤が、県指定天然記念物になっていますが、これは見応えがありました。

浮世絵にも描かれた江戸の亀戸天神より凄い。圧巻でしたよ。

古河公方こぼれ話=久留米藩主有馬氏

 いまだに「古河公方~古河城址」歴史散歩の興奮が冷めやらず、前回書き切れなかったことを書いてみます。

◇古河公方は生き延びた 

康正元年(1455年)、鎌倉府から古河に移った第5代鎌倉公方足利成氏(しげうじ)は、古河公方と称し、この地に館を構えたため、古河は関東の政治文化の中心地となります。

 この古河公方は、第5代の足利義氏(よしうじ)が1582年に没するまで、100余年続きます。義氏には女子1人おり、名前を氏女(うじひめ)と言いました。小田原北条氏を平定して関東を制圧した豊臣秀吉は、古河公方の名跡が途絶えることを惜しみ、腹心の小弓義明の孫國朝に氏女を娶らせて、喜連川(きつれがわ)の地5000石を与えます。

 國朝は病死したため、その弟の頼氏が喜連川家に入り、氏女は義親を生み、その後、江戸時代になっても、喜連川家は小藩ながら幕末まで生き延びるのです。

 最初、喜連川藩の名前の読み方も分からず、ましてや、古河公方の血筋をひく由緒ある藩だとは知りませんでした。

史跡 古河公方館址

◇熊沢蕃山 

熊沢蕃山(1619~91)といえば、江戸初期に活躍した備前国(岡山県)出身の陽明学者ですが、古河藩で亡くなっていたとは、今回の歴史散歩の下調べで初めて知りました。

 山川出版社の「日本史小辞典」を引用しますと、熊沢蕃山は、農本主義を唱えて、岡山藩主池田光政に仕えて、治水・治山による米の増産を実践し、岡山藩の財政立て直しに寄与します。しかし、晩年の著書「大学或問」で、参勤交代や兵農分離策などを批判したため、幕府の命により古河藩お預かり処分となったというのです。

 彼は、古河城内に幽閉され、72歳で没し、城外大堤にある鮭延寺に葬られました。

◇古河藩の飛び地

 先月4月7日に現在の千葉県野田市にある関宿(せきやど)城址に行ったことは、このブログにも書きました。後に第2次世界大戦終戦のポツダム宣言を受諾した際の首相を務めた鈴木貫太郎が、この関宿藩出身だったことも書きました。でも、鈴木貫太郎は、関宿生まれではなく、今の大阪府堺市生まれなのです。関宿藩が、堺に領地(飛び地)を持っていたからでした。

 このように、幕府は、雄藩に対して、飛び地を所有することを、むしろ推奨する形で認めていたんですね。幕府も天領という領地を全国各地に所有していましたし、特に、大坂城代や京都所司代などを務める譜代藩に対しては、財政支援上、飛び地を所有することを認可していました。これには、外様大名を牽制する目論見もあったそうです。

 で、古河藩ですが、同藩家老の鷹見泉石の資料の中に、この飛び地からあがる石高などを記した貴重な文書も展示されていました。大坂城代や京都所司代を輩出した古河藩は、大坂、兵庫だけでなく、遠く離れた岡山県津山にまで領地(飛び地)を持っていたことを知り、少し驚きました。江戸時代は、現代人が想像する以上に人の行き来があったんですね。

◇有馬氏は転勤族?

 先程の喜連川藩などを調べている時、下級武士だった我が祖先の九州の久留米藩のことが気になって調べてみましたら、意外なことを「発見」しました。

 豊臣秀吉の九州平定後、小早川(毛利)秀包が筑後7万5000石を与えられ、久留米城を近代城郭に大改築して居城とします。しかし、関ケ原の戦いで西軍についた秀包は改易となり、代わって石田三成を捕縛する戦功を挙げた三河岡崎10万石の田中吉政が筑後32万石を与えられ、入城します。しかし、その後、田中氏は無嗣改易となり、筑後の北の久留米藩21万石は、丹波福知山から有馬豊氏が入ります。(筑後南の柳河藩10万9000石には、立花氏が20年ぶりに帰還します)

 久留米藩主の有馬氏は、幕末までずっと続きますが、第15代当主に当たる有馬頼寧は、農林大臣(第一次近衛内閣)などを歴任し、戦後は、競馬の「有馬記念」に名前を残しています。そうそう、作家の有馬頼義も、臨済宗相国寺の有馬頼底管主も、藩主有馬氏の末裔でした。(殿様には決して頭が上がりません)

 初代久留米藩主(二代という説も)有馬豊氏は、丹波福知山から移封されてきたということですから、有馬温泉と関係があるのかなあ、と思っておりましたが、丹波福知山(もともと明智光秀の領地)の前は、何と、豊氏は、遠江の横須賀を居城としていたというのです。遠江横須賀とは、現在の静岡県掛川市です。えっ?どういうこと?

 これまた調べてみますと、有馬氏のルーツは14世紀に有馬義佑が摂津国有馬郡の地頭に補せられた時にまで遡ることができます。その後、豊臣秀吉に従った有馬則頼とその子である豊氏が、「秀次事件」で改易された秀次の家老渡瀬繁詮の領地だった遠江横須賀3万石を与えられたんですね。関ケ原の戦いでは、有馬父子は東軍として活躍したため、豊氏は丹波福知山藩6万石に封されます。そして、大坂の陣でも大いに戦功を挙げたことから、豊氏は久留米藩21万石の初代藩主になったということです。(豊氏の父則頼が初代久留米藩主という説も)

 戦国時代も江戸時代も、現代人が不勉強なだけであって、このように、かなりの大名が改易されたり、移封されたりしておりますから、今と変わらない転勤族だらけだったんですね。

いざ古河へ=古河公方と古河城

古河と書いて、「こが」と読みます。「ふるかわ」ではありません。古代から中世、近世にかけて、一時、関東の中心として繁栄した城下町であり、宿場町でもありました。

 古代では「許我」と書いて「こが」と読み、何と今最も注目されている「万葉集」に二首も詠まれています。ご興味のある方はご自分で調べてみてください(笑)。

 奈良時代から渡良瀬川を利用した水運交通の中継地としても発展し、中世は第5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉氏に追われて、ここ古河の地に邸を移して、「古河公方」となりました。(下総古河は鎌倉府の領地=飛び地だったという説が有力です)

 古河はその後、小田原北条氏の支配下になりますが、江戸時代になると、古河城は最重要拠点の一つとなり、将軍の日光参社の際の宿泊地となったり、藩は老中首座を輩出したりします。

 当然、明治になると、憎っき徳川方の最大の敵地となりますから、廃城となり、打ち壊されて跡形もなくなりますが、かろうじて城下町の雰囲気だけはかすかに残っています。


古河駅西口から北西10分ほどにある杉並通りにはこうして武家屋敷跡が並んでいます。今は個人の住宅になっているようでしたが、詳細は分かりません。この辺りは面影が残っているせいか、観光用ポスターにも使われるそうです。

この武家屋敷跡の近くにあるのが、正定寺です。江戸時代に代々古河藩主を務め、江戸詰めでは老中職も歴任した土井家の墓所です。

 看板にある通り、東京・本郷にあった古河藩主土井家の下屋敷の表門をこちらに移築してきました。

境内には、初代古河藩主土井利勝公の像がこうして祀ってありました。


ここは、江戸町通りにある歴史作家永井路子の旧宅です。


 永井路子の旧宅は、お茶と茶器を扱う豪商だったそうです。実は、彼女は永井家の実子ではなく、実父は歴史学者だった来島清徳。生まれる前から母方の永井家の養子になる約束だったというのです。

 旧宅は、現在、彼女のちょっとした文学館となっており、入場無料。私はよほど怪しい人間と見られたのか、タダで入場させてもらった上、お茶まで御馳走になってしまいました(笑)。永井路子は、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾ら直木賞作家を輩出した「近代説話」の同人だったことは知ってましたが(本人も直木賞受賞)、小学館の編集者だったんですね。歴史学者の黒板伸夫と結婚し、出版社時代は黒板という本名で仕事をしていて、当時、一緒に仕事をしていた後輩さんが先日、この旧宅を訪れ、「黒板さんは、黒板さんは…」といった話をこの旧宅の留守を預かっている人に話していたそうです。

 永井さんは現在94歳になられたそうです。

この永井路子旧宅の近くに、幕末から明治にかけて活躍した「最後の浮世絵師」河鍋暁斎の生誕地の碑があり、吃驚しました。知りませんでした。

河鍋暁斎、あの緻密な筆致が好きですね。彼は天才です。確か、埼玉県蕨市に彼の美術館があったと思います。いつか行ってみようと思っていながらまだ行ってません(苦笑)

 たまたま、この近くの江戸前通り沿いにあった「お好み焼き屋」さんに入って、ランチ(蕎麦入り特製お好み焼き750円とノンアルビール380円)を取りましたが、そこの女将さんが大の話好きで、この江戸前通りは、かつては一番の繁華街で、左右両通りはぎっしり商店が並んでいたのに、今や、御覧の通り、少ししか残っておらず、寂しい限りです、と溜息をついておりました。

 しかも、ここ古河市は、茨城県の西端の外れの外れ。県庁の水戸に行くのに3時間もかかり、遠くて困るとまた溜息です。ここからなら、栃木県の宇都宮や埼玉県の浦和(の県庁の所在地)に行く方が全然近いというのです。

 実は、古河に水戸直通の水戸線が通る話が大正の終わりか、昭和の初めにあったそうですが、古河市民は断ったんだそうです。女将さんによると、古河の人間はよそ者嫌いだとか。お蔭で、水戸に行くまで、栃木県の小山まで行って乗り換えなければならないといいます。

この話好きの女将さんは私の目の前で、お好み焼きを焼いてくれて、70歳ぐらいに見えましたが、何と7人姉妹で、6番目だというから思わず笑ってしまいました。代々の商家で、商いはしょっちゅう替えているらしく、男の子が生まれるまで頑張った御尊父は、青果業を営み、古河市の青果市場をつくった偉い人だったとか。

日光街道沿いにあるお茶屋口跡。宿場町だった証ですね。

こちらは、かの有名な鷹見泉石の記念館、つまり旧宅です。入場無料には驚きました。

 渡辺崋山描く「鷹見泉石像」は、絵画の国宝第一号になった人でした。

渡辺崋山筆「鷹見泉石像」(国立博物館のHPより)

 以前、このブログで書きましたが、古河藩家老で、大坂城代詰めの頃に、大塩平八郎の乱が起き、その鎮圧の陣頭指揮を執った人でしたね。

 鷹見泉石は、隠居名で、家督後の名前は十郎左衛門。諱は忠常。本職は家老で、蘭学者とも言われますが、仕事が海外の最新情勢の情報収集と情報分析でしたから、蔵書の多さや、知り合った人間関係は、超弩級です。

それら鷹見泉石の膨大な資料を収蔵しているのが、旧宅の真向かいにある古河歴史博物館です。(入場料は、文学館などとの共通券で600円。ここは絶対に一見の価値があります。)

 鷹見泉石が知遇を得た人がずらりとパネルで紹介されていましたが、島津斉彬ら諸国の大名を始め、ジョン万次郎ら漂流から帰国した人、農学者の二宮尊徳、江戸琳派の酒井抱一、鈴木其一まで親睦を深めているのですから、まさに超人です。例のシーボルトとも交友していたようなので、鷹見泉石もよくぞシーボルト事件や蛮社の獄などに連座しなかったと思いました。

 渡辺崋山が捕縛されたのは、あの悪名高い鳥居耀蔵による讒言だったと言われています。渡辺崋山は、尾張田原藩という小藩の家老。一方の鷹見泉石は老中だった土井利位(としつら)の譜代大名の家老ということで、別格扱いだったのかもしれません。

きゃあ~、ヒトが写っている…

古河歴史博物館の入り口には、古河城の出城諏訪郭だったという記念碑がありました。

 実は、ウマズイめんくい村の赤羽村長さんからの情報で、古河歴史博物館の隣にある古河文学館の2階にレストランがあるということで、お腹が空いてきたので、そこでランチしようかと思ったら、残念、満席で断られてしまいました。

 仕方がないので、フラフラ彷徨った挙句、永井路子旧宅近くのお好み焼き屋さんを見つけて入り、先程書いた通り、そこで色んな地元の情報を得たので、怪我の功名(笑)だったかもしれません。

赤羽村長が指摘されたように、この文学館~歴史博物館~鷹見泉石旧宅辺りの石畳と城下町の雰囲気は最高ですね。とても落ち着いた静かな雰囲気で、何度でも来てみたいと思いました。

 文学館では、永井路子をはじめ、小林久三、佐江衆一ら古河市ゆかりの作家の作品などが展示されていました。

 鷹見泉石の曾孫に当たる鷹見久太郎が大正11年に創刊した童話雑誌「コドモノクニ」(野口雨情や北原白秋らが寄稿)のバックナンバーなども展示されてました。

さて、いよいよ、今回の「古河の旅」のもう一つの目的、古河公方様に会いにいくことでした。

 現在は、「古河公方公園」になっていますが、第5代鎌倉公方の足利成氏が康正元年(1455年)、鎌倉からここ古河の地に移り、舘を構えたところです。

ここには2年間ほど住んだ後、渡良瀬川流域の古河城に移ったとあります。

永井路子旧宅からここまで歩いて30分くらいかかりましたかね。でも、この上の碑を見つけた時は感激しました。

それ以上に感動したのは、古河公方公園から少し離れた川沿いに、この「古河城本丸跡」の碑を探し当てた時です。

道路には道案内の看板がなく、探索するには、古河駅の観光案内所でもらった地図だけが頼りでした。

 今や、渡良瀬川の堤防になってしまいましたが、ここに、あの古河城の本丸があったのかと思うと、打ち震える思いでシャッターを切りました。城好きの私にとって、この日のハイライトでした。

 持参したスマホの万歩計によると、この日は、2万2000歩、15.5キロ歩きました。