陸軍中野学校のいちばん長い日とインドネシア独立の礎をつくった柳川宗成=第48回諜報研究会

12月10日(土)は、第48回諜報研究会にオンラインで参加しました。当初は、早稲田大学の会場に足を運ぶ予定でしたが、事情が生じて、正田先生に御迷惑をお掛けしながら、オンライン参加に切り替えてもらいました。

 少しトラブったのは、しばらく使っていなかった自宅のプリンターがパソコンとの接続が断絶していて使えず、遅く来た一部の資料が印刷できなかったことでした。私はIT音痴なので、ちょっとイラつきました(苦笑)。また、毎度のことながら(笑)、登壇された講師の先生方の講義が早いのでメモが全く追い付かず、以下に書くことは「概要」にもなっていない、単なる個人的感想であることを最初にお断りしておきます(苦笑)。

 苦笑ばかりですので、皆様も興醒めしたことでしょう。

 最初の報告者は、インテリジェンス研究所特別研究員の山内龍氏で、タイトルは「終戦史のなかの陸軍中野学校」でした。何度も映画化された半藤一利氏の名著「日本のいちばん長い日」に描かれたように、昭和20年8月、ポツダム宣言受諾反対の一部陸軍将校たちがクーデター未遂事件を起こします。そんな中、陸軍中野学校出身者たちも巻き込まれ、終戦前後の彼らの行動を日ごとに逐一追ったご報告でした。

 大変良く調査された労作だと思いましたが、山内氏御本人は「(中野学校はスパイ養成機関という性格上)公式記録の記載が乏しい。そのため、当事者の回想録が中心で、事実関係の確認が難しい」と正直に述べておられました。

 最初に書いた通り、メモが追い付かなかったので、詳しいことは茲に書けませんけど、阿倍直義少佐、猪俣甚弥少佐、渡部辰伊少佐といった中野学校の「在京一期生」たちは、「抗戦派」と接触して、クーデター参加に一時は前向きだったのに、結局不参加だったという史実は知っていましたが、二期生を中心にした人たちが、別に一期生に義理立てすることもないので同調しなかったということまでは、知りませんでしたね。

 次に登壇されたのは、拓殖大学教授の澤田次郎氏でした。タイトルは「陸軍中野学校出身者のジャワ工作ー柳川宗成大尉の遺稿からー」でした。この資料が、自宅のプリンターの不具合で印刷できず、「困ったなあ」と思っていたのですが、澤田教授は、やり手ビジネスマンのようにプレゼンテーションが巧かったので、非常に分かりやすい講義でした。

 私は柳川宗成(もとしげ、1914~85年)について殆ど知りませんでしたが、講義を聴講した後は、いっぱしの通になった気分でした(笑)。澤田教授は、最初に、自ら奉職する拓大についての話から始めました。講義の主人公である柳川宗成の出身大学でもあるからです。

 拓大と言えば、あの参議院議員鈴木宗男氏の出身校で、個人的には「武闘派」のイメージがありましたが、もともと1900年に台湾協会学校として、首相や台湾総督なども務めた長州出身の陸軍軍人・桂太郎によって創立されたものでした。当時、台湾は、日清戦争によって割譲されたもので、いわば、植民地経営のノウハウを習得する学校として設立されたのでした。学長はその後、後藤新平や新渡戸稲造も務めました。教授に招かれたのは、戦後,A級戦犯になる大川周明らがいましたが、柳川が入学した昭和8年の時点では、大川は5・15事件で連座して、教授の職を追われていました。

 拓大は1907年、日本で最初にマレー語を取り入れた大学(東京外大は1908年、大阪外大は1921年、天理大学は1925年)で、柳川もマレー語を習得するために拓大に入学したようです。柳川とはどういう人物かと一言で言うと、大卒後、陸軍中野学校に入学し、当時、オランダ領インドネシアのジャワ島に上陸し、諸工作を実行し、現地のタンゲラン青年道場(16歳~20歳、50人)やジャワ防衛義勇軍(PETA)を創設し、オランダからの独立の礎をつくった軍人で、映画「ムルデカ17805」(2001年)の主人公のモデルにもなった人です。

 ジャワ防衛義勇軍に参加した人物の中には、後にインドネシアの大統領になるスカルノやスハルトもおり(つまり、柳川の教え子)、柳川自身も1964年に家族とともに、インドネシアに移住し、国籍も取得しています。

 柳川は1967年に「陸軍諜報員 柳川中尉」(サンケイ新聞出版局)という回想録を出版しましたが、その本の元原稿が、現在、拓大のアーカイブに保存されています。元原稿は1088枚あり、そのうちの42.8%が単行本化されたといいます。この元原稿を拓大に寄付したのが、拓大OBで柳川宗成と親交があった元日刊スポーツ新聞記者の宮沢正幸氏(1930年生まれ)だということを、澤田教授が写真入りで明らかにした時、吃驚しました。宮沢さんとは私自身、面識がある、というか大変お世話になった方だったからでした。

 1981年から84年にかけて、原宿にあった日本体育協会(体協)の記者クラブで、宮沢さんと御一緒しましたが、大先輩記者なのに、そして他社の人間なのに、席が近かったせいか、分け隔てなく、大変親切で取材の初歩やちょっとした情報まで教えてもらったものでした。宮沢さんが拓大出身だったとは知りませんでした。大変温厚な方で、先に、拓大=武闘派なんて書いてしまい、失礼致しました。(拓大は、戦前から植民地経営学に付随して、空手が推奨課目のようでしたが)

 

真珠湾攻撃から81年、ジョン・レノン暗殺から42年=12月8日

 12月8日、今年は、真珠湾攻撃からもう81年になります。当時を知る生き証人の方もだんだん減って来ていますが、語り継がれなくてはいけない歴史です。

 もう一つは、ジョン・レノン暗殺から42年です。こちらは、私でもよく覚えております。第一報は、日本時間12月9日午後2時頃だったと思います。当時の私は、マスコミ入社1年目の新入りで、あまり外に取材に行かせてもらえず、デスク補助として、電話で先輩記者が送稿する原稿を書き取ったり、雑巾掛けしたりの修行期間でした。事件の一報を最初に知ったのは、速報やフラッシュニュースが出た際のアナウンスで、「元ビートルズのジョン・レノンさんがニューヨークの自宅近くで撃たれました」といった簡単な一文だったと思います。そう記憶しているだけで、間違っているかもしれませんが(苦笑)。

 当時、ニュースが集積する整理部でバイトをしていた顔馴染みのMさんが、ニュースの電ガラのコピーを持って来てくれたと思います。私が熱烈なビートルズ・ファンだということを知っていたからです。その時、私は勤務中だったので、涙も出ず、冷静さを努めましたが、仕事が終わってからは、Mさんと自由が丘で泥酔するほど吞みました。この衝撃をどう対処していいか分からなかったからです。

 翌日は、駅のキオスクに売っていた全ての新聞~一般紙、スポーツ紙、英字紙~を購入しました。ジョン・レノンの記事は皆、一面と社会面に掲載されていました。それらを切り抜いてスクラップブックに貼り付けていましたが、何処にいったのやら。探せば出てくるかもしれませんが…。

 あれから42年ですか…。あの事件を同時代として体験した人もだんだん減って来ました。

Higashi-Kurume

 そんな12月8日(木)の本日は、会社を休んで、近場のクリニックで5回目のBA5用のコロナワクチンを接種して来ました。私が住んでいる最寄り駅の反対側改札の西口にあるクリニックで、初めて訪れましたが、医師1人で受付兼務の看護師さんが5人もいて、皆さん感じが良い人ばかりでした。

5回ともそうですが、(今のところ)副作用がなかったのは、何よりでした。

 平日の午前は、通勤電車の中は、働き世代の若い人ばかりですが、クリニックは高齢者の方ばかりでした。これほど対照的なものはありません。普段の通勤電車では全く自覚しない「少子高齢化」を実感した次第です。つまり、クリニックでは、10人中8人が私より年長の高齢者、通勤電車や街中を元気に歩いている人たちの10人中8人は、私より確実に若いということです。

 そう言えば、この日はその最寄り駅で人身事故がありました。いつもなら利用している鉄道の電車が止まり、朝の8時10分過ぎ?に再開したようでしたが、大幅にダイヤが乱れ、沿線駅の中には改札入場制限がされ、「90分待ち」もあったようです。

 12月8日は色んなことがある日でした。

報知新聞が創刊150周年だったとは…=大隈重信、原敬、犬養毅も

 スポーツ紙の報知新聞が今年、創刊150周年ということで、12月6日の紙面から「報知あの時」のタイトルで自社の歴史を振り返った連載を開始しています。(執筆は、内野小百美編集委員)

 えっ?報知が150周年なの?と驚く方も多いかもしれませんが、もともと報知新聞は、明治に政論新聞と言われた一般紙とスタートし、大正時代は「東京五大紙」の一角を占めながら、戦時中に読売新聞の傘下になるなど紆余曲折の末、戦後、スポーツ専門紙として再スタートした新聞だったのです。

 創刊は明治5年(1872年)6月10日、前島密の支援で、「郵便報知新聞」の題で発刊され、当初週刊でしたが、翌年日刊紙となります。前島密と言えば、「郵便の父」と呼ばれ、1円切手の肖像画にもなっていますが、明治の元勲で内務卿になった大久保利通の晩年に、大久保の右腕として活躍した人でしたね。大久保が暗殺された紀尾井町の現場に真っ先に駆け付けたのも前島密でした。

 12月7日付の連載2回目で、報知新聞は「大隈重信、原敬、犬養毅と3人も総理を輩出した」と、その人材の豊富さを誇っておられます。大隈重信は、明治14年の政変で下野した後、自らつくった立憲改進党の政党機関紙として報知新聞にテコ入れします(そのお陰で、主筆だった栗本鋤雲らが退社。)大正10年、東京駅頭で暗殺された原敬は、明治12年から3年間在籍して、仏紙の翻訳、論説などを担当。昭和7年の5.15事件で暗殺された犬養毅は若き頃、通信員となり、明治10年の西南の役を従軍記者として取材しています。

 現在、東京・有楽町にあるビックカメラは、以前は百貨店の「そごう」(♪「有楽町で逢いましょう」がその宣伝歌)でした。そして、その前は報知新聞社の本社だった(だから、その名残でビックカメラの7階に「よみうりホール」がある)ことなど、ある程度、報知新聞に関するトリヴィア(雑学的知識)は知っているつもりでしたが、12月6日付の連載1回目に掲載された「報知150年史」の年譜を見ると、知らないことばかりでした。

 まず、明治30年(1897年)、編集局に「探偵部」を新設。現在の社会部の元祖、とあります。そっかあ。新聞社の社会部をつくったのは報知新聞社だったんですね。

 明治31年(1898年)、「校正係募集」の広告を見て羽仁もと子が入社。後に婦人記者第1号となる、とあります。羽仁もと子は、女性新聞記者の先駆けだったんですね。でも、後に、現在も続いている「婦人之友」を創刊し、夫の吉一とともに自由学園を創設した偉人として名を残していると思います。二人は社内結婚というので、ちょっと、調べたら、夫の吉一は、報知新聞の編集長を務めた人でした。女婿の羽仁五郎は歴史学者、孫の羽仁進は映画監督としても知られています。

 まだあります。大正9年(1920年)、「東京ー箱根間往復大学専門学校対抗駅伝競走」創設とあります。現在も続く箱根駅伝をつくったのは報知新聞だったんですね。読売新聞だと思っていました。

 昭和3年(1928年)、社員の鶴田義行がアムステルダム五輪200メートル平泳ぎで五輪水泳初の金メダル、とあります。記者ではなかったようですが、戦後は、愛媛新聞の事業部長、監査役などを歴任しています。(同じアムステルダム五輪の陸上女子800メートルで銀メダルを獲得した人見絹枝は大阪毎日新聞社の運動部記者でした。)

 報知新聞は、昭和17年(1942年)、戦時下の新聞統制で読売新聞の傘下に入り、「読売報知」となります。戦後の昭和21年(1946年)には夕刊紙「新報知」として復刊、翌年に題字を「報知新聞」に戻し、同24年(1949年)12月30日から朝刊のスポーツ専門紙となり、プロ野球読売巨人軍の広報紙?として現在に至っています。スポーツ紙としては、日刊、デイリー、スポニチに続き4番目だといいます。

アングロサクソンはなぜ覇権を握ったのか?

 またまたブログ更新に間が空きましたけど、サッカーのワールドカップに熱中したりして、読書がなかなか進まなかったことが理由の一つにあります(苦笑)。でも、昨日、やっと、エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)の上巻を読了できました。

 上巻のサブタイトルは「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」となっておりますが、何故、アングロ・サクソンが世界の覇権を握ることができたのか、については上巻を読んだだけでは明解な回答が私にはよく理解できませんでした。答えは書かれていないと言ってもいいかもしれません。「第9章 イギリスというグローバリゼーションの母体」の最初に「2015年頃の時点で、英米世界は4億5000万人の人口を擁し、既に、イギリスとアイルランドの分を差し引くと4億3800人しかならない欧州連合の総人口を凌駕している。」と書かれていますが、人口で比べれば、中国の14億人、インドの13.9億人と比べれば、微々たるものです。その微々たる人口のアングロ・サクソンが何故、世界制覇をしたのか、気になるところですが、私は、軍事力を超越して、文化力=英語という言語が世界共通語となったこと=が大きいと考えています。けれど、「鶏が先か、卵が先か」のような話になってしまいますね(笑)。

  日本国語大辞典(小学館)によると、アングロサクソンとは、現在のイギリス人の主な祖先のことで、5世紀ごろドイツ西北の海岸地方から大ブリテン島へ侵入したアングル、サクソン、ジュートなどの西ゲルマン族のこと、とあります。ということは、英国人というのは、もともとゲルマン=ドイツ人だったのかあ、ということになります。1066年にノルマン人による英国征服があり、ウィリアム1世として即位(ノルマン朝)しますが、この本の中で著者は「フランスのノルマン人」と書いております。でも、正確に言うと、ノルマン人とはゲルマン系で、フランスのノルマンディー地方に移住して根を張っていた民族だったので、ノルマン人はゲルマン=ドイツ人ではないでしょうか?それに、現在の英国の王室につながるハノーヴァー朝は、ドイツの王室から来たものです。

 また、12~14世紀の英プランタジネット朝は、フランスの貴族アンジュー伯アンリがヘンリー2世として即位した王朝で、そのヘンリー2世は、フランスのアキテーヌ女公エリアノールと結婚したため、ワインで有名なボルドーは、300年間もプランタジネット王朝の支配下、つまり英国領でした(英仏の百年戦争で、フランスがボルドーを奪還)。

 何が言いたいのかと言いますと、英国人、フランス人、ドイツ人などと言っても、欧州ではゲルマン系、ケルト系、ラテン系、スラブ系など色々混じっているので、民族的な特色を峻別するのは難しいのではないか、と思ってしまったわけです。でも、著者によると、国としてそこに住む人間の家族体系を比べると明らかに違いが出て来るというのです。その国をつくる国民の家族形態は、地理的環境や政治経済体制によってつくられていくというのがこの本の基本になっているようです。「ようです」と書いたのは、著者の文章が難解だからです。

 著者の言葉を堀茂樹氏の訳でそのまま、ここに掲載しますと、「イギリスでは、ケルト人、ゲルマン人などの『野蛮人』の未分化家族が絶対核家族に変形した。双系親族システムが非活性化し、兄弟姉妹の連帯がローカル集団の機能の根幹を担う部分ではなくなった。そのことにより、世帯の核家族的性格が徹底したものになった。」などとありますが、この文章をすぐ理解出来る人はそれほど多くないと推測されます。

 話は全く飛びますが、上巻で私が最も印象に残った数字が「他殺の発生数」です。13世紀のフランスのある村の教区の住民台帳が残っていて、それによると、他殺の発生率は、10万人当たり100件もあったといいます。かなり多いです。現代の世界平均では、10万人当たり1人を切るからです。13世紀と言えば、日本は鎌倉時代。ちょうど大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をやっていますが、梶原景時の乱、比企能員の乱、和田義盛の乱…等々、やたらと人が殺される物騒な世界です。そんな13世紀は大した憲法も法律も人権もない無法地帯だったので、世界的にも他殺の発生数が多かったのではないか、と思ってしまった次第です(笑)。

 ちなみに、この本の345ページには、1930年頃の他殺発生数が出て来ます。10万人当たり、英国では0.5件、スウェーデンとスペインで0.9件、フランスとドイツで1.9件、イタリアで2.6件、そして日本では0.7件だったといいます。それに対して、米国は8.8件という飛び抜けた数字です。著者のトッド氏は「アメリカ社会は歴史上ずっと継続して暴力的で、そのことは統計の数値に表れている。」と書くほどです。1930年頃の米国と言えば、アル・カポネらギャングが暗躍した頃なので、殺人事件が多かったのでしょうか。また、トッド氏は「米国社会で一般市民が拳銃やライフを所持するのは、中世ヨーロッパにおけるナイフの日常保持の永続化である。」と書き、米国の矛盾する先進性と野蛮性を指摘していましたが、要するに、日本のような秀吉による「刀狩り」がなかったせいなのでしょう、と私なんか読みながら考えてしまいました。

湯築城、宇和島城、大洲城=四国9名城巡り最終3日目(下)

宇和島城(現存12天守)

11月26日付「高知城、松山城、今治城」編に続く「四国9名城巡り」3日目の最終編です。いくら事前に少し「予習」したとはいえ、九つも城を廻ると、何が何だか分からなくなり、頭が混乱してしまいます。

 でも、ツアーの地元バスガイドのKさんはベテランで、流石に手馴れているというか、熟練の技を発揮され、それぞれのお城の築城者や歴史だけでなく、地元の特産品や、この他の四国の名勝名跡まで、しっかり頭に入っていてメモなしで話をしていたので感心してしまいました。「実は、わたしは、松山市郊外の愛媛みかんの農家の娘なんです」と打ち明けておられましたが、非常に頭脳明晰で、大変勉強熱心な方だということはすぐ分かりました。こちらも色々と教えてもらい、松山の名産「六時屋タルト」は、松山藩の久松松平家が長崎奉行を務めていた際に、ポルトガル人から製法を秘伝され、今では皇室御用達になっているとか、このブログに書いていることは、ほとんどガイドさんからの受けおりみたいなものです(笑)。

 前日に泊まった今治市では、タオルの生産が日本一で約8割も占め、市内には150社ほどもありますが、厳選な資格審査、しかもアポなしで製品審査を強行して、それに通った会社しか「今治タオル」のブランドを名乗ってはいけないことも教えてもらいました。ですから、数千円から3万円もするタオルがあるそうです。また、安倍晋三政権時代に大きな問題になった加計学園が今治市にあり、バスで近くを通ると、「ここからは見えませんが、あの小さい丘の向こうにあるんですよ」と、しっかり忖度なしに教えて頂きました(笑)。

湯築城(100名城)

 最終日の最初、初日から数えれば7番目に訪れた城は、愛媛県松山市にある湯築城(国指定史跡)でした。今治市からバスで南下して1時間ちょっとです。松山城の近くなので、当初は2日目に松山城と一緒に廻る予定でしたが、湯築城は、月曜日が休館だったため、この日に変更されたのでした。

 正直、湯築城に関しては、ほとんど知らず、事前にそれほど興味がある城ではありませんでした。そしたら、この資料館で「ある事実」を知り、椅子から転げ落ちるほど驚いてしまいました。

 その前に、前日の今治城では、地元のボランティアガイドさんの話を無視して聞かずに、自分勝手に廻っていたツアーの同行グループの人たちのことを、このブログで「私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだ」と酷評しましたが、この日は打って変わって、地元ボランティアガイドさんについて熱心に話を聞いているのです。まるで優等生です。これが同じメンバーだと思うと、信じられないほどです。他人の評価は当てにならないものです。思わず、勝海舟の「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」という言葉を思い出してしまいました。

湯築城

 一言で言って、湯築城は中世の城です。自然の岩山は除き、石垣はなく土塁です。中世の伊予の国の守護だった河野氏が、南北朝時代から戦国時代まで約250年間居城としていました。

 河野氏は風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠とし、源平合戦では河野通信(みちのぶ)が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ます。しかし、通信は、承久の乱で京都方について負け、奥州平泉に流されてその地で没し、河野氏は没落します。それでも、元寇の際は、通信の曾孫に当たる通有が大活躍し、一族が復活し、それ以降代々、この湯築城を拠点にするわけです。

湯築城 子の通り、本丸から松山城が見えます。目と鼻の先でしょ?

 私が先に、「椅子から転げ落ちるほど驚いた」と書いたのは、この城の資料館でビデオを拝見していたら、承久の乱で敗れた河野通信の孫が、時宗の開祖一遍上人だったことを知ったからでした。あ、そう言えば、河野氏と言えば、何処かで聞いたことがあると思いました。一遍上人の本名は河野智真で、河野通信の子通広の子息です。まだ河野氏が復活する前の没落した時期だったので、仏門に入らざるを得なかったのでしょう。

 ということは、河野通信が承久の乱で鎌倉方についていれば、そのまま河野氏の栄華は続き、一遍上人という時宗の開祖は生まれなかったかもしれません。私は仏教史にはとても関心があるので、湯築城がいっぺんに身近に感じてしまいました。

 湯築城は「日本100名城」に選ばれているので(今回廻った四国9城全てが100名城)、資料館で100名城スタンプを押したところ、その場に持っていた個人の資料ファイルを置き忘れる失態を演じてしまいました。後で、「これ、忘れた人、どなたですか?」と添乗員のKさんが届けてくれましたが、注意力散漫症は茲でも健在でした。

宇和島城

 湯築城の後、バスは南進して宇和島城に向かいました。宇和島市は愛媛県の南端に近く、高知県の傍です。途中で、真珠店を兼ねたハイウエーレストラン宇和島で、名物「鯛めし」の昼食でした。観光バスツアーといえば、大抵、旅行会社とお土産店が結託して、行きたくもないお土産店に何度も何度も連れて行かれますが、最近のツアーはほとんど減りました。今回のツアーも茲だけでした。それに、殆どの人は買い物をしてませんでした(笑)。

 私自身も全く知りませんでしたが、真珠といえばミキモトで、三重県の英虞湾で養殖されて日本一の生産地だと思っていましたが、実は日本一は愛媛県で国内生産の80%も占めるんだそうです。真珠は神戸にある取引所で競りにかけられ、現在、1玉1万円から1万6000円が相場だそうです。ネックレスをつくるのには40玉必要なので、ひとつ40万円となるわけです。バスガイドのKさんは「段々、真珠は取れなくなるので、将来上がるので今のうち勝っておいた方がいいかもしれませんよ」などとセールストークをしていました(笑)。

宇和島城

 さて宇和島城です。現存12天守の重要文化財で、縄張りしたのが「築城の名人」藤堂高虎でしたから、大いに期待しました。もともとは海城だったらしいのですが、堀はほとんど埋められ、現在はその面影はありません。

 現存天守は藤堂高虎というより、伊達家のお城です。幕末の四賢侯の一人、伊達宗城(むねなり)が最も有名ですが、不勉強だった昔は、宇和島に何で伊達なんだろう?と思っていました。勿論、仙台の伊達政宗の末裔です。慶長20年(1615年)、政宗の長男秀宗が宇和島に入城し、明治を迎えるまで伊達9代の居城でした。秀宗は長男だったとはいえ、庶子で、正室に嫡男が生まれたため、宇和島を拝領したわけです。

宇和島城 現存12天守(伊達家)珍しく玄関口がある

 宇和島城は、二代藩主宗利が寛文6年(1666年)頃に建築したもので、既に平和な幕藩体制が確立した後だったので、全国の城でも珍しく「玄関」があるお城なのです。

 明治になって、新政府に接取され、大阪鎮台の所管となりますが、明治22年、伊達家が買い戻します。地元ボランティアガイドさんの説明によると、四賢侯の伊達宗城が明治になって、大蔵卿となり、部下の渋沢栄一と知り合い、渋沢に財産の運用を託したところ、かなり資産が膨れ上がって裕福になったから出来たそうです。この逸話はあまり書かれていない、現地でしか聞けない話でした。(昭和24年に宇和島市に寄付)

 宇和島城ではまたまたバスの駐車場が分からなくなり、迷子になりそうでした(苦笑)。

大洲城

 さて、宇和島城から松山方面にUターンして向かったのが、このツアー最後の9番目の城、大洲(おおず)城6万石でした。これも100名城に選ばれていますが、ほとんど知らず、全く期待していませんでしたが、もしかしたら、一番印象に残るお城でした。

 何しろ、平成16年(2004年)に、企画段階も含めて約20年かけて四層四階の木造天守を復元したのです。天守は明治21年に姿を消しましたが、図面や雛型や写真が残っていたお蔭です。富山県から優秀な宮大工も招聘し、鉄くぎなしで、吹き抜けは安土城の影響と言われています。総工費の13億円は、市民から1万円以上の寄付を募ったそうです。中には、地元不動産業の女性社長さんが、ポンと1億1000万円も寄付されてます。郷土愛は宇和島の人より、強い感じでした。

 面白いことに、商魂たくましく、天守をホテルとして貸し出し、1泊4人まで100万円で泊まれるそうです(1人増えると10万円プラス)。年に何組からか予約があるようです。当日は、篝火がたかれてお殿様お姫様のようなお出迎え。天守内に畳が敷かれ、城内の露天風呂にも入れ、料理人を呼んでその場で調理してもらえるという話です。

大洲城(12億円かけて木造復元された)

 大洲城は、あの築城の名人、藤堂高虎も関わったりしていますが、江戸になって賤ヶ岳の7本槍の一人、脇坂安治が立藩し、元和3年(1617年)、脇坂家が信濃飯田藩に転封となった後、米子から加藤貞泰が移封され、加藤家が明治まで続きます。

 幕末の大洲藩は勤皇の気風が強く、鳥羽伏見の戦いでは官軍側で参戦しています。また、坂本龍馬の海援隊が運用し、沈没事件でも有名になった蒸気船「いろは丸」はこの大洲藩が貸し出したものでした。

大洲城

 大洲城は、事前にそれほど予備知識もなく、あまり期待していなかったのですが、行ってみたら、こじんまりとした城下町で、地元愛が強い町で木造天守が復活し、なかなか良かったでした。

 以上、3日間で、四国の九つの名城を巡ってきた漫遊記でした。ここまで随分長いお話を読んでくださった皆様には感謝申し上げます。読むのは大変でしたでしょうけど、書く方はもっと大変でした(笑)。この記事の初回を読んでくださった会社の後輩のW君は「僕も冷蔵庫を開けて、何を取ろうか一瞬忘れてしまったり、自宅で立ち上がってから、あれっ?自分は何をしようとしたか分からなくなることがありますよ」と励ましてくれました。

 W君は私より一回り以上若いのに、大丈夫なのかなあ、と逆に心配になりました(笑)。

高知城、松山城、今治城=四国9名城巡り2日目(中)

松山城(現存12天守、重要文化財)広い、本当に広い

 11月24日付の「徳島城、高松城、丸亀城」編に続いて、四国9名城巡りの2日目です。執筆者の体力と知力の都合で、かつてとは違い、なかなか更新できておりませんが、単なる漫遊記なので、お気軽にお読みください。

高知城(現存12天守)

 城巡り第4弾の高知城(現存12天守、重要文化財)は、泊まった高知のホテルからバスでわずか3分でした。

高知城(現存12天守)

 前日は徳島城で「迷い人」になってしまいましたが、この日はホテルで朝食を取った後、部屋に戻ろうとするとカギがない!室内に置き忘れたことが分かり、慌ててフロントに降りて、係りの人にお手数を煩わせてしまいました。綾小路きみまろの世界は続きます(笑)。

高知城(現存12天守)山内一豊像

 高知城(現存12天守)は、既に南北朝時代に大高坂山城として築城され、戦国時代は長宗我部元親が拠点にしたという説もあります。が、やはり、何と言っても、山内一豊でしょう。信長、秀吉の家臣ながら、関ケ原の戦いでは徳川方について手柄を立て、一豊は遠江5万5000石の掛川城から、土佐一国9万8000石(後に24万2000石)を与えられ、築城します。

 山内一豊と言えば、困窮時代に糟糠の妻千代さんが、そっとヘソクリを出して、「これで馬をお買いになって出陣してください」と援助したお蔭で出世していったという逸話はあまりにも有名で、小説(司馬遼太郎「功名が辻」)やドラマ、映画などになっております。

高知城(現存12天守)算木積石垣

 高知城=土佐藩は、幕末に「薩長土肥」の一角として、多くの偉人を輩出しました。坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太(瑞山)…そして最後の藩主山内容堂。彼は幕末の四賢侯の一人で、徳川慶喜に大政奉還を勧めた人でした。大酒飲みで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と、陰で揶揄されましたが、最近では再評価されているようです。

高知城(現存12天守)板垣退助像

 城内には板垣退助像もありました。明治の自由民権運動の旗手として有名で、銅像もその演説姿のようですが、実は土佐藩の家老クラスとも言える馬廻組(300石)の上士です。もともと板垣家は、武田信玄の重臣板垣信方を祖とする家柄で、武田家滅亡後、掛川時代の山内一豊の家臣になったわけです。土佐藩だけでなく、江戸時代は身分社会でしたから、武士の中でも階級があり、坂本龍馬らは郷士と呼ばれる下士で、板垣や後藤象二郎のような上士とは住む場所も違っていました。

 100円札にもなった板垣退助は、明治の言論人、政治家のイメージが強いですが、もともと上級武士ですから、幕末の戊辰戦争の際は、新政府側の迅衝隊(じんしょうたい)を率いて、近藤勇らの新選組とも戦っています(甲州勝沼の戦い)。

松山城(現存12天守)本丸6000坪

 次に向かったのは松山城(現存12天守)=第5弾=です。四国の南の高知からまた北上して愛媛県ですから、2時間ちょっと掛かりました。(高知高速道を通り、途中、石鎚山SAで休憩)

 松山と言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台であり、漱石の親友正岡子規の故郷で、今でも俳句が盛んです。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の秋山好古・真之兄弟の故郷でもあります。道後温泉と蜜柑の産地としても有名で、私も何度か松山を訪れたことがありますが、若い頃はあまりお城に興味がなかったので、松山城も、そして今回廻った四国9城全て、生まれて初めて訪れました。

松山城(現存天守12)20メートルの石垣 7階建物

 (この石垣は、「坂の上の雲」の秋山真之が、若き頃、スルスルとよじ登ったという逸話が残っているそうです。)

 松山城の高さは海抜132メートルで勝山の山頂にあります。。実はここまで来るのにロープウェイ(帰りはリフトでしたが)を使って来たのです。勿論、歩いて登って来る方もいますが、ツアー参加者には往復切符(ロープウェイとリフトの両方使える)が手渡されました。

松山城(現存12天守)

 松山城の創設者は、秀吉の家臣で、賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として活躍した加藤嘉明です。昔は、「かとう・よしあきら」という振り仮名だったのでそう覚えていたのですが、最近は「かとう・よしあき」が多いですね。

 そう言えば、高知城の山内一豊も、昔は「やまのうち・かずとよ」と呼ばれていましたが、最近は「やまうち・かつとよ」と読む説が有力なんだそうです。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する三代将軍源実朝を暗殺した公暁は、昔は「くぎょう」と習ったのに、ドラマでは最新学説を取っているらしく、「こうぎょう」になっています。何という日本語の曖昧さ! どないなっとるねん!? でも、この曖昧さが、長い歴史を持つ日本人の心因性を形作っているような気がします。テキトー(適当)というか、清濁併せ吞む、というか、自分の名前さえどう呼ばれようと気にしないという大らかさと言うべきか、それとも逆に、大胆不敵と言うべきか…。

松山城(現存12天守)

 加藤嘉明も、1600年の関ヶ原の戦いでは、山内一豊と同じように、徳川家康方についてその戦功を認められ、伊予20万石の大名となります。道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築く許可を得ますが、着工から25年の寛永4年(1627年)、松山城完成を目前にして義明は、会津へ転封となってしまいます。(もっとも、42万石に加増されたので栄転ではありますが)

松山城(現存12天守)安土城の影響か、天守と御殿が一体

 その後、あの蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが、寛永11年(1634年)8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

松山城(現存12天守)天守

 蒲生家断絶の翌年の寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主松平(久松)定行が松山藩主15万石に封じられ、それ以来14代世襲して明治維新に至りました。久松家(菅原道真を祖とする)の戦国武将俊勝が、徳川家康の生母於大の方(伝通院、水野忠政の娘)の再婚相手となったことから、代々、久松家は松平姓を名乗ることを許されたのでした。

 松山藩は親藩ですから幕末は当然のことながら、幕府方についたため、朝敵として追討され、財政難の中、15万両も朝廷に献上し、藩主、重臣の蟄居、更迭などで赦免されました。

 それにしても、これだけの立派で広大な曲輪を持つ城が、一部復元再建されたにせよ、21世紀までよく残ったものです。大袈裟ですが、世界に誇っていいお城です。(松山城ばかり贔屓にしてはいけませんが)

松山市「鯛めしスタンド」天然鯛めし定食1850円。養殖ものは1300円でしたが、やはり、せっかくですから天然鯛を選びました。

 松山城も昼食時間を含めて2時間半ぐらい自由時間があったので、ゆっくり見物できました。と思ったら、リフトで麓に降りて、近くのロープウェイ街にあった「鯛めしスタンド」でランチしていたら、そこに無料のマップが置いてありました。

 それを見たら、近くに「坂の上の雲ミュージアム」や「秋山兄弟生誕地」があるので行ってみることにしました。

松山市 秋山兄弟生誕地

 そしたら、「秋山兄弟生誕地」は月曜日で休館日。「坂の上の雲ミュージアム」もやっと見つけましたが、中に入って見学していたら、とてもバスの集合時間には間に合わないことが分かり、泣く泣く退散しました

今治城(海城)と藤堂高虎像

 松山城を北上して、2日目最後の目的地、今治城=第6弾=にはバスで1時間ほどで到着しました。松山も今治も同じ愛媛県で、現在は松山市(人口約52万人)が県庁の所在地として栄えていますが、今治市(人口約16万人)は古代の伊予国の国府が置かれた所だったといいます。つまり、古代は今治の方が栄えていたのでしょう。

 高松城と同じ海城である今治城を、6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に築城したのが、関ヶ原で戦功をたて、伊予半国20万石を領した藤堂高虎です。彼の銅像も建っています。

今治城(海城)の天守

 藤堂高虎は、「築城の名人」と言われ、今治城の前の文禄4年(1595年)に、同じ伊予(愛媛県)に、大洲城と宇和島城(現存12天守)をつくり、今治城の後の慶長13年(1608年)には、伊勢22万石に移封され、伊賀上野城、そして(安濃)津城を大改修しています。

 藤堂高虎は190センチを超える大男だったと言われますが、主君を8回とも10回とも言われるぐらい(仕方なく)変えて、足軽クラスの身分から大大名にまで出世した逸話は事欠かないのですが、茲では省略しておきます。

今治城(海城)天守から見えるしまなみ海道、手前右下に藤堂高虎像が見えます。

 天守からは、今治市と広島県尾道市を結ぶ全長60キロのしまなみ海道が見えました。バスガイドさんの説明では、瀬戸内海には725もの島々があるそうで、第1位は淡路島、第2位は小豆島、第3位は周防大島の順。

 今回のツアー参加者は16人だったと初日に書きましたが、失礼ながら、私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだと思いました。何故なら、バスガイドさんの話はバスの中で身動きが取れないので聞かざるを得ません。一方、各お城に、結構年配の地元ボランティアガイドさんがいて、熱心に説明してくれますが、今治城では、グループの人たちは一切無視して、話も聞かずに自分勝手に見て回っていたのです。

 あまりにも気の毒だったので、私一人だけが、一生懸命に70代半ばと思われる男性ボランティアガイドさんの側にくっついて話を聞いてあげましたよ。

今治国際ホテルの超豪華ディナー

 今回のツアーでは、夕食は1回しかつかなかったのですが、今治で泊まったホテルの夕食は豪華絢爛で大変美味でした。2泊3日分の夕食でした(笑)。

今治城(海城)夜景 あ、失敗!
今治城(海城)夜景 大成功

 夕食後、バスガイドKさんのお薦めで、ライトアップされた今治城の写真を撮りに行きました。

 一応、今治市の中心街なのでしょうが、街中は薄暗いので驚いてしまいました。後で分かったのですが、街灯があまりなかったのです。でも、東京などの都心は真夜中でもライトが煌々とついていて昼間のようですから、考えてみれば、東京の方が異常だということになります。

 それにしても、今治城の夜景は素晴らしかった。海城ですから、海水の内堀に映る天守が見事です。「来て良かった~」と思いました。正直、2日目の高知城も松山城も今治城も甲乙つけ難いほど、どれも素晴らしかったでした。

つづく

徳島城、高松城、丸亀城=四国9名城巡り初日(上)

丸亀城 すんばらしい

 しばらくブログを更新しておりませんでしたが、11月20日(日)から22日(火)まで、2泊3日で、C社が主催する「四国9名城」巡りに行っておりました。何しろ、全国で現存天守12ありますが、そのうち四国にある4天守全部回ってくださるというので、9月の新聞広告を見て、直ぐ申し込みました。一人で四国中のお城巡りをしたら、交通費、タクシー代など幾ら掛かるか分かりません。旅程計画も大変。その点、ツアーに紛れ込んでしまえば、バスで安価で運んでくれます。こんな良いお買い物はない、というわけです(ちなみに、全国旅行支援が使えて、8万5640円だったのが6万9640円となりました。このほか、3000円×2泊のクーポン券付き)。

徳島城

 でも、正直、今回の旅行で、生きていく自信を少し失いました(苦笑)。今まで出来たことが簡単に出来なくなったことが分かったからです。加齢によるもので、綾小路きみまろの世界です。重症ではありませんが、注意欠陥症みたいな感じです。ホテルの部屋の鍵を室内に忘れるやら、100名城スタンプ台の側に大切な資料ファイルを置き忘れるやら、鬼より怖い御家人からの御土産メモを失くすやら、注意力が散漫するようになっていたのです。

徳島城

 体力も落ちました。初日の第一弾は徳島城(徳島県)でしたが、かなり急勾配の山城で、階段が正確には数えていませんでしたが、500段近くあったんじゃないかと思います。途中で何度も一息いれたほどです。あの身延山久遠寺の急勾配の階段「菩提梯」を思い出しました。

 そうそう今回のツアーは、結構、自由時間が多く、決まった時間までにバスに戻れば良いというシステムでした。食事も2泊3日で、朝食2回(ホテルのバイキング)、昼食1回、夕食1回しかなかったので、同行者とはあまり顔を合わせることはなく、まるで一人で旅行している感じでした。今回の参加者は16人で、ペアが5組、一人参加が6人(男女各8人)でしたが、一人参加者の2、3人の方と少し言葉を交わした程度で、勿論お名前も何処から来られたのか最後まで分からず仕舞いでした(笑)。

徳島城 蜂須賀家政公

徳島城は、既に南北朝時代に築城されましたが、豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀小六(正勝)の嫡男家政が17万6000石の阿波の領主として天正13年(1585年)に入国し、蜂須賀家が幕末まで続きます。明治8年に城のほとんどの建物は解体され、太平洋戦争の際、米軍の空襲もあり、現在、建物は何も残っていません。

 この山城の「麓」には、現在、徳島市立徳島城博物館があり、入館しましたけど、どういうわけか何が展示されていたか覚えていないのです。ここでも、うわの空といいますか、注意力散漫を発揮してしまいました。はい、綾小路きみまろの世界です。(笑)。

 さて、バスに戻る時間が迫って来たので、戻ろうとしたところ、二又の道があり、「あれ?駐車場はどっちだっけ?」と迷ってしまいました。左の道を進むと、バラ園がありました。「あれ?来る時、バラ園なんか見なかった。もしかして、右に行かなければならなかったのか」と思い、元来た道を戻ると、C社のバッジを付けた同行者らしき女性二人連れがいたので、声を掛けたら、「この道で大丈夫ですよ」と仰るではありませんか。あれ?バラ園なんか全く覚えていません。そう言えば、来るとき、ガイドさんの旗ばかり見て、一生懸命についていき、周りの景色はあまり見ていなかったことに気が付きました。これを他山の石として、次回から、帰りに迷子にならないように、周囲の看板や景色を頭を入れておくことにしました。(とは言っても、もう一回、迷子になりそうになりました!=苦笑)

高松城

 第2弾は高松城(香川県)です。私の出身高校と同じ海城です。もっとも、こちらは「うみじろ」と読みますが、私の東京の新宿区にある高校は「かいじょう」と読みます(笑)。以前、NHKの「ブラタモリ」で放送されていたので、訪れるのを楽しみにしていました。

高松城 向こうに見えるのが二の丸から本丸に続く鞘橋(さやばし)

 山城で急勾配を登らなければならない徳島城と違い、高松城は海城(うみじろ)なので、平地です。戦さの時、大丈夫だったのかな、と心配したくなるほど散策しやすいお城です。もっとも、現在は、「玉藻公園」として公開されています。園内の総面積は約8万平方メートルもあるとか。

高松城 本丸に残る天守台 3層5階の天守は残ってません

 高松城は、天正16年(1588年)、ということは本能寺の変の6年後、豊臣秀吉の家臣生駒親正(ちかまさ)が築城し、生駒家4代54年間、水戸徳川の松平家(初代は水戸黄門の兄松平頼重)11代228年間にわたり居城した海城です。

高松城 復元された桜御門
高松城 艮(うしとら)櫓 有名な月見櫓は工事中でした

 城内には当時、天守のほか、約20もの櫓があったそうですが、空襲などで建物のほとんどが喪失しました。が、艮(うしとら)櫓などは残り、重要文化財に指定されています。他に、桜御門などが復元されました。松平藩時代に政庁・御殿として使用された被雲閣は、明治になって老朽化したため取り壊されましたが、大正6年に再建され、現在、事務所のほか、茶会、会議などで利用されているそうです。

 高松城巡りは、昼休み休憩も含み、2時間ぐらい自由時間がありましたので、この後、近くのJR高松駅に向かい、駅ビルの2階の「杵屋」で、名物の讃岐うどん(とり天、870円)を頂き、1階のコンビニ兼土産物店(高松銘品館)で上官の命令に従い、買い物をしました。

丸亀城(現存天守12)
丸亀城(現存天守12)

 初日最後の第3弾は、現存天守12のうちのひとつ丸亀城(香川県)です。高松城と同じ生駒親正が慶長2年(1597年)、築城を開始します。江戸時代となり、一国一城令により、一時、廃城となりますが、生駒家がお家騒動で所領が没収され、その後、山崎家、そして京極家が継いで、幕末まで続きます。

 大変見事な素晴らしいお城でした。高さ60メートルの日本一の高石垣を誇るそうで圧倒されました。

丸亀城(現存天守12)

 こりゃあ、凄い。(ここから、急坂を登るのに、大変つらい思いをさせられます!)

丸亀城天守 

 これが、3層3階の現存木造天守12の一つですが、意外と小さい。

 石落としや、弓や鉄砲を打つ狭間もしっかりあります。この天守は、四国の中で最も古く万治3年(1660年)に完成したそうです。

丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋

 丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋。バスガイドKさんの説明によると、瀬戸大橋は、6本の橋で出来ており、全長9368メートル。6本の橋のうち、5本香川県、1本岡山県にあるそうです。1988年に全線開通し、総工費は何と1兆1300億円だとか。

高知市のひろめ市場 四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」

 1日目の3城の日程を消化して、バスは一路、この日に宿泊する高知市へ。北の香川県から南の高知県まで1時間40分ほど、高知高速道路を通って、その途中で四国山地(坂本龍馬が脱藩の際、登った)を突き抜けるわけですから、トンネルだらけでした。

 この日は夕食が付いていなかったので、バスガイドKさんお薦めの「ひろめ市場」に行きました。新阪急高知ホテルから歩いて7分ほどです。ホテルから高知城にも歩いて7分ほどで行けます。このホテルは、35年ぐらい昔、仕事で泊まったことがありますが、当時はお城にほとんど興味がなかったので、こんな近くにお城があったとは、灯台下暗しです。

 ひろめ市場は、大きな体育館のような建物に70軒の屋台のような居酒屋や御土産屋さんなどがひしめいています。私は見たことがありませんが、テレビの「ケンミンSHOW」という番組で何度か取り上げられたらしく、観光客でいっぱいでした。ほとんどの店が満席で、やっと「鰹処ぼっちり」という居酒屋前に相席を見つけて、座っていたおじさんに断って、座らさせてもらいました。

 鰹のたたき定食900円と土佐の地酒(名前は失念)、それに、相席のおじさんの薦めで四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」も後で注文しました。お酒は色々と呑んで来ましたが、栗焼酎なんて初めてでした。

高知市ひろめ市場近くで 高知は坂本龍馬を始め、歴史上の偉人、有名人だらけです

 相席になったおじさんは、ちょっと変わった人で、70代前半といった感じ。三重県の四日市から来た、と言ってました。私も三重県出身の友人がいて、結構、三重県内は旅行したことがあるので話は弾みました。おじさんは、この時期、高知市で趣味の蘭の品評会があって、毎年、3日間ほど市内に泊まるそうです。高知には沢山の友人がいる、と仰ってましたが、独りで呑んでいたのは何故かしら。

 いずれにせよ、このおじさん、ご職業は何だったのか知りませんが、私が「城巡りで四国を旅行しています」と話したら、彼は異様に戦国武将に詳しいことが分かりました。私と互角に話が出来るのですから(笑)。そして、彼は三重県出身ということで、名古屋に対する尋常ならざる敵愾心を燃やしていました。

 「名古屋名物、と言われている(伊勢)海老フライもひつまぶしも味噌カツも、本当は伊勢名物なんですよ。伊勢の人間は宣伝が下手なんです。それに比べて尾張の連中は…」といった具合です。那古野(名古屋)は織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、蜂須賀小六ら多くの戦国武将を生んでいますが、野心家さんが多いのかしら。

 三重県のおじさんが頼んだ餃子を一つだけ、あまりにも薦めるので、頂きましたが、そのうち、彼は何の挨拶もなく、プイと帰っていなくなってしまいました。

田野屋塩二郎「シューラスク」

 帰りがてら、バスガイドKさんが薦めていた田野屋塩二郎のシューラスクというお菓子を買ってみました。田野屋塩二郎さんという人は東京の人でしたが、30代半ばで一念発起して高知で、火力は使わず、天日と潮風だけに拘って塩づくりをしている方で、その塩は高級レストランのシェフらに大好評。もっとも、1キロ当たり100万円もするという超高級の塩で(ホンマかいな?裏は取ってませんが)、本物の塩は買えないので、せめて、お菓子を買ってみたのでした。

 甘くて、ほんの少ししょっぱい今まで食べたことがない不思議なお菓子でした。

つづく

人類と家族の起源を考察=エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」

 本日、スマホを紛失してしまいました。焦りましたよ。でも、今日ランチに行った築地の「千秋」に戻ってみたら、案の定、その店で忘れておりました。もう六時です(洒落です)。でも、一瞬、命が縮む思いでしたから、見つかってよかった、よかった。

 さて、先月、ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)を読んで大いに感心感動したことはこのブログにも書きました。そのお陰で、文化人類学への興味が復活してしまいました。私が学生だった1970年代は、レヴィストロースを始め、文化人類学がブームでした。しかし、不勉強な私は、他の事(音楽のバンド活動でしたが)に夢中になってしまい、読書に勤しむことがなかったことを未だに後悔しております。

 その罪滅ぼしとして、先日、レヴィストロースの名著「悲しき熱帯」上下(中公クラシックス)を買い込み、早速読み始めました。それなのに、瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書)や松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書)など、次から次と読むべき本が登場してしまい、レヴィストロースさんは後回しになってしまいました。

 大方の緊急課題本は読了出来ましたので、では、レヴィストロースさんを再開しようかと思ったら、困ったことに、またまた新たに興味深い本が出現してしまいました。エマニュエル・トッド著、 堀茂樹訳の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋、2022年10月30日初版、ただし原著は5年前の2017年刊)です。今、その 上巻「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」を読んでいるところです。

 デシルヴァ著「直立二足歩行の人類史」、レヴィストロース著「悲しき熱帯」といった「人類学」の一連の流れの一環です。大雑把に言えば、歴史はチマチマした人間の業の行いの記録ですが、古人類学は、話し言語や文字が生まれる前の二足歩行を始めた約1100万年前の類人猿の話から始まりますので、雄大で膨大です。人間として生まれて来たからには、誰でも「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」は気になります。この本、スラスラ読めるかと思いましたら、結構、著者特有の専門用語が多出するので、つっかえ、つっかえ読んでいます。

 著者のトッド氏と言えば、ソ連崩壊などを予言した歴史人口学者として世界的に著名ですが(親日家で、目下来日中)、私のような仏文学を昔かじった学徒としては、「ポール・ニザンの孫」というのが真っ先に思い浮かんでしまいます。恐らく日本人のほとんどの方は知らないでしょうが、ジャーナリスト、作家のポール・ニザンはサルトルの親友で、1940年5月、通訳として転属されたダンケルクの戦いで戦死しています。行年35歳。代表作「アデン アラビア」は「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しい時代とは誰にも言わせない」という一文で始まり、若き頃の私が大変な衝撃を受けた出だしでした。

 エマニュエル・トッドの実父オリヴィエ・トッドもジャーナリスト兼作家なので、「なあんだ、彼の並外れて優れた知性は遺伝じゃないか」なんて思ってしまいます(笑)。

東銀座「むさしや」創業明治7年

 相変わらず、長々と前書きを連ねてしまいましたが、この本の要約がなかなかまとまらないからです(笑)。それに、まだ上巻の半分しか読んでいません。でも、ここまで読んできて、強引に最も印象に残ったことを茲に書くとすると、現生人類ホモ・サピエンスは元々、一夫一妻制だったということです。それが、一夫多妻や、稀に一妻多夫になったりしますが、文明が高度に発達した地域になれば、一夫一妻制に戻るというのです。

 これまで一般的に太古の家族共同体では、人類はひしめき合うように雑居し、性的に混乱し、原初的な近親相姦も頻繁に行われていた、という仮説が通説でしたが、それに意義を唱えて全面否定したのが、フィンランド人の哲学者・人類学者エドワード・ウェスターマーク(1862~1939年)でした。ウェスターマークは、近親相姦のタブーは文化事象ではなく、生存競争上の有利さをもたらすものとして自然選択された無意識の行動だと結論付けました(1891年「人類婚姻史」)。トッド氏は言います。「明らかにウェスターマークは正しい。彼より後に登場したフロイトやレヴィストロースらは近親相姦の回避の内に一つの文化事象を見ようとしたが、それは誤りだった。悲しいかな。人文科学はこうした知的後退に満ち満ちている」と皮肉交じりに叙述しています。えっ?あのレヴィストロースが間違いだったとは!?(トッド氏は、構造主義にも否定的に言述しております。)

 最新研究によると、霊長類の類人猿は今から約600万年前にヒトとチンパンジーに分かれます。だから、人間とチンパンジーの染色体はほとんど同じで、塩基配列の違いは約 2%に過ぎないと言われています。しかし、人類とチンパンジーの決定的な違いは、家族です。初期のホモ・サピエンスは一夫一妻制の核家族でしたが、チンパンジーは夫婦関係は知らない。群れでは、メスを庇護するオスが次々と変わり、オスとメスの安定した関係は認められない。第一、父子関係が確定できないというのです。野性のチンパンジーの平均寿命は15年。片や「人生100年時代」。このように、人類が霊長類、いや生物の頂点に君臨して長寿を保つことができるようになったのも、家族が関係しているのかもしれません。

(つづく)

嗚呼、夢の絶頂から敗戦へ=南満洲鉄道復刻保存会編「特急あじあ号復刻時刻表」(大洋図書)

 先日、拙宅に本が送られてきました。大洋図書というあまり聞いたことがない(失礼!)出版社の封筒に入っていて、差出人は不明。私は昔、文芸記者をやっていたことがあるので、会社だけでなく、自宅にも贈呈本や献本が送られて来ることがありますが、この出版社はあまり御縁がなかった出版社です。

 開封してみたら、その本は、南満洲鉄道復刻保存会編「特急あじあ号復刻時刻表」(2022年10月20日初版、1540円)というグラフ誌でした。「お~!」と歓声を挙げました(笑)。私の趣味というか関心に合った本です。一体、どなたが送ってくださったのか? 封筒には手紙もメモも入っていません。あら不思議。

 ということで、ページを捲ってみたら、思い当たるフシが見つかりました。知己のノンフィクション作家、斎藤充功氏が本文の中で、「『あじあ』を作った男たち」(28ページ)、「満鉄の旅」(54ページ)を執筆し、さらには、写真や資料の提供者としても名を連ねていたのです。「ははあん、斎藤さんが出版社を通じで送ってくださったのかあ」。そこで、斎藤氏に御礼のメールをしたのですが、返事なし。あれ? 御高齢なので、体調でも崩されたのでしょうか? 入院でもされているのかしら? 少し心配になりました。

大洋図書「特急あじあ号復刻時刻表」の14~15ページ

 正直、大洋図書という出版社について無知だったので、調べてみました。ノンフィクションなど硬い書籍を出している一方、漫画や成人向けの愉しそうな本もかなり出している1952年創業の老舗出版でした。出版不況と言われている中、本屋さんに行けば、コミック誌や成人雑誌のコーナーの面積が広いことから、その筋のジャンルが売れどころだということが分かります。あまり聞いたことがない出版社なのに(これまた失礼!)、都心に自社ビルらしきものを構えていることから、かなり羽振りの良い出版社だと想像されます。

 大洋図書の小出英二会長さまにおかれましては、売れなくても(またまた失礼!)、真面目なノンフィクションをどんどん出版してほしいものです。

 真面目な話、この本は歴史的資料価値が高いと断言してもいいです。当時のグラフ誌に掲載されていた貴重な写真や、鉄道マニアならたまらない当時の時刻表まで収録されています。

◇あじあ号とは?

 あじあ号は、昭和9年(1934年)11月1日、大連~新京(現長春)間約701キロを、最高速度130キロ、8時間30分で運転を開始し、「夢の超特急」と呼ばれました。勿論、当時「世界一」の列車です。その後、大連から哈爾濱まで約950キロまで延長して運行しましたが、昭和18年に休止してしまいます。あじあ号は夢の超特急ですから、現代人はディーゼル車か電気鉄道を想像してしまいますが、当時はまだ蒸気機関車だったのです。流線形のパシナ型と呼ばれていました。このパシナ型を設計した旅順工科大学卒の吉野信太郎と時代背景については、この本の「『あじあ』を作った男たち」中で、斎藤充功氏が詳しく書いております。

 日本の近現代史、特に昭和史に興味がある方にとって、好悪は抜きにして「日本の生命線」と言われた満洲問題を抜きにしては語られません。満洲の中でも満鉄のことを抜きにしては、満洲は語られません。満鉄とは、南満洲鉄道の略称で、鉄道会社と言っても間違いないのですが、大連汽船や満洲航空などの運輸交通関係、昭和製鉄所などの工業関係、日満商事などの商社関係、南満洲電気や満洲瓦斯などのインフラ関係、それに満洲日日新聞などのマスコミ関係等の会社も傘下に入れていたコングロマリットだったのです。1937年3月時点で満鉄の関連事業は80社だったといいます。

大洋図書「特急あじあ号復刻時刻表」(当時のまんまの復刻版)

 この本のタイトルになっている通り、巻末には当時発行された「満洲 列車時刻表」(昭和14年11月1日改正など)が復刻再掲されております。驚いたことに、大連から南満州鉄道とシベリア鉄道を経由して巴里(パリ)までの直行便まであったのですね。この時刻表を見る限り、大連を1日に出発するとパリには11日に到着するようなので、何と11日間の旅。東京からパリまで飛行機なら約13時間で行ける現代人から見れば気が遠くなる優雅な旅です(笑)。当時は朝鮮半島も満洲も日本の領土(つまり植民地ですが)だったので、東京から下関や門司でフェリーに乗って、釜山や大連を経て満鉄に乗れましたから、東京駅で「巴里まで、一枚!」と切符を買う富裕層もいたかもしれません。

 ソ連は昭和20年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満洲に侵攻します。終戦時、国策会社の満鉄の資本金は24億円、従業員約40万人、満鉄の営業路線は1万2500キロ、機関車、貨車、客車の総計は4万6995両。資産総額は、鉄道資産に限っただけでも今日の評価で30兆円はくだらないと言われています。

 その膨大な資産は、今はロシアとなってウクライナに侵攻しているソ連軍によって全て接収されました(34ページ)。現代の若い日本人はこの事実をほとんど知りませんが、世界史的に見ても、稀に見る蛮行です。機関車、貨車、客車は、恐らく、シベリア鉄道でソ連領まで運んだことでしょう。

大久保さん、ごめんなさい=瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」を読了

 11月11日付渓流斎ブログ「明治の元勲は偉大だった=瀧井一博著『大久保利通 《知》を結ぶ指導者』」の続きです。やっと読了できました。同書は、「出典・註釈」を入れて520ページ以上の大作でしたので、所用にも追われ、読むのに結構時間が掛かりました。とはいえ、難解な書物ではありません。不勉強な私は「大久保利通とはそんな人物だったのか!誤解していた」と何度も何度も感心しながら読みました。

 よく知られている大久保利通(1830~78年、47歳没)という歴史上の人物の評伝だとはいえ、読後感は胸が詰まる思いです。暗殺現場は凄惨そのものです。茲では書くのは憚れますが、暗殺された大久保の遺体の致命傷が事細かく記述されています。うーん、やはり、とても書くことが出来ません。それでも、暗殺者の島田一郎(元加賀藩士、事件後、大逆罪で斬首)ら6人の不平士族は、当時でさえ英雄視されていたのです。暗殺されたのは明治11年5月14日、麹町紀尾井町です。私も訪れたことがありますが、現在の清水谷公園に「大久保利通哀悼碑」があります。その前年に、西南戦争が終結し、大久保の盟友西郷隆盛は自決しています。これで、不平武士たちは、内乱を起こすのではなく、「悪政を糺す」ことを金科玉条として「要人暗殺」に方針を切り替えます。

 当の大久保は、暗殺される当日、早朝(何と6時!)に、麹町の自宅(現ベルギー大使館)で、福島県令(今の知事)の山吉盛典と会談しています。当時の大久保は、自ら率先してつくった内務省の大臣に当たる内務卿で、山吉とは福島県安積疏水事業に関する打ち合わせなどをしていたのです。この事業とは、明治になって職を失った士族や華族らのための公共事業で、いわゆる雇用対策事業です。不平武士らは、これら雇用創出の公共事業のことを知らず、大久保のことを誤解していたことになります。

歌舞伎座(東銀座)※本文とは関係ありません

 内務省と言えば、後世の人間にとって、戦時中の内務省警保局の特高のイメージが強過ぎます。特高は、作家小林多喜二を築地警察署内でリンチ撲殺した身の毛がよだつ恐ろしいイメージです。その恐ろしいイメージが、内務省をつくった「独裁者」大久保利通に重なってしまった弊害がありました。しかし、実は、大久保が内務省を創設した第一の目的が、治安維持ではなく、「殖産興業」だったことが本書を読んで初めて知りました。大久保は、「岩倉使節団」として欧米列強を視察して来ましたから、欧米列強の植民地にならないためにも、国内産業を奨励して国力を高めることを痛感していたのです。一言で言えば、「富国」ですが、意外なことに、大久保にとって、その後の「強兵」の思想は二の次です。何しろ、大久保は、明治4年に起きた台湾に漂着した宮古島島民54人もが殺害された事件が起きた時も、台湾出兵には消極的でした。またまた意外にも大久保は、平和主義者で外交で問題を解決しようという立場で、実際、自ら北京に渡って交渉しているのです。

 大久保は、明治10年に第1回内国勧業博覧会を先頭に立って開催しますが、あくまでも国内の産業の振興と発展と奨励が目的で、海外からの出品を拒否したほどなのです。また、大久保は、これまた意外にも農本主義者でもありました。

 何で当時の人も、そうして後世の人間も、大久保利通とは所詮、盟友を排除してのし上がった権謀術策に長けた冷酷非情な独裁者だというイメージが定着してしまったのでしょうか? 同時代人の岩倉具視でさえ、大久保のことを「才なし、史記なし、只確乎と動かぬが長所なり」と評したことから、大久保利通には思想も学才もない印象が持たれた要因になったようです。こんなんでは、大久保は二度も殺されたようなものです。

歌舞伎座(東銀座)

 しかし、大久保には岸田首相よりも「聞く耳」を持ち、知識を吸収し、著者の言葉を借りれば、「知と知を結び付け、人と人を結び付ける」才能があり、それらはとてもつもなく非凡な才能だったと言えます。「志半ば」で倒れた大久保利通ですが、維新の英傑の中で最重要人物だったということを本書で認識しました。また、この本では触れられていませんでしたが、大久保は公共事業に私費を投じるなど、多額の借金を残して亡くなったと言われます。大久保の後継者となった次の世代の、汚職事件にまみれた井上馨や、「椿山荘」「無鄰菴」など豪壮な別荘を構えた山縣有朋らと比べるとえらい違いです。

 泉下の大久保利通さんには「ごめんなさい。誤解していました」と謝りたいほどです。いつか、東京・青山霊園に墓参したいと思いました。