政界の黒幕と義仲寺との接点とは?=「裏社会の顔役」(大洋図書)を読んで

 この雑誌、タイトルもおどろおどろしいですし、買うのも憚られるものですが、迷うことなく買ってしまいました。「手元不如意」ではなく、地元の健康キャンペーンに応募したら1000円の図書券が当たり、「何にしようか」と書店に行ったら、すぐにこの雑誌が目に入ったからでした。

 ちょうど1000円でした。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 内容は、この雑誌の表紙に書いてある通りです。

・日本を動かしたヤクザ 山口組最強軍団柳川組「柳川次郎」、伝説のヤクザ ボンノこと「菅谷政雄」

・愚連隊が夜の街を制した●万年東一●加納貢●安藤昇●花形敬

・黒幕が国家を操った●児玉誉士夫●笹川良一●頭山満●四元義隆●田中清玄●西山広喜●三浦義一

・一人一殺「井上日召」と血盟団事件

・米国に悪魔の頭脳を売った731部隊長 石井四郎中将

 などです。

 驚いたことに、この中の「満洲帝国を闇で支配『阿片王』里見甫」の章を書いているのが、皆様御存知の80歳のノンフィクション作家斎藤充功氏でした。頑張っておられますね。

 また、「日本を動かした10人の黒幕」で頭山満などを執筆した田中健之氏は、どうやら玄洋社初代社長平岡浩太郎の曾孫に当たる方のようです。

 正直言いますと、この本に登場している「黒幕」の皆様は、私にとってほとんど「旧知の間柄」(笑)で、あまり「新事実」はありませんでしたし、2020年1月21日付の渓流斎ブログ「日本の闇を牛耳った昭和の怪物120人=児玉誉士夫、笹川良一、小佐野賢治、田中角栄ら」で取り上げた別冊宝島編集部編「昭和の怪物 日本の闇を牛耳った120人の生きざま」(宝島社、2019年12月25日初版)の方が、どちらかと言えば、うまくまとまっていたと思います。この雑誌は、全体的な感想ですが、黒幕の人たちを少し持ち上げ過ぎていると思いました。

 とはいえ、歴史は、学者さんが得意な「正史」だけ学んでいては物事の本質を理解することはできません。「稗史」とか「外史」とか言われる読み物にも目を通し、勝者ではなく、敗者から見た歴史や失敗談の方が、結構、日常生活や人生において役立つものです。

 敗戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)のG2(参謀第2部)に食い込み、吉田茂から佐藤栄作に至るまで影響力を行使し、日本橋室町の三井ビルに事務所を構えていたことから「室町将軍」と恐れられたフィクサー三浦義一は、「55年体制」と後に言われた保守合同の際に巨額の資金を提供したといいます。

 その三浦義一のお墓に、かつて京洛先生に誘われてお参りしたことがあります。滋賀県大津市にある義仲寺です。名前の通り、木曽義仲の菩提寺です。戦後、荒廃していたこの寺を「日本浪漫派」の保田與重郎とともに再興したのが、この三浦義一だったからでした。本当に狭い境内に、木曾義仲と三浦義一と保田与重郎のほかに松尾芭蕉のお墓までありました。

 何と言っても、私自身、最近、鎌倉幕府の歴史に関してのめり込んで、関連書を読んでいるので、「そう言えばそうだった」と思い出したわけです。木曾義仲は一時、京都まで攻めあがって平氏を追放して「臨時政府」までつくりますが、後白河法皇らと反目し、法皇から「義仲追討」の院宣まで発布されます。これを受けた源頼朝は範頼・義経を京都に派遣し、木曾義仲は粟津の戦いで敗れて討ち死にします。その首は京都の六条河原で晒されましたが、巴御前が引き取って、この大津の地に葬ったといわれます。

 そんな、戦後になって、誰も見向きもしなくなって荒廃してしまった義仲寺を保田與重郎や三浦義一がなぜ再興しようとしたのか詳しくは存じ上げませんけど、彼らの歴史観といいますか、男気は立派だったと思います。

これからも新発掘が出る可能性も=「ポンペイ特別展」

 私は「有言実行」の人ですから、東京・上野の国立博物館で開催中の「ポンペイ特別展」を観に行って来ました。

 実は、単なる「便乗商法」に洗脳されただけですけどね(笑)。私自身、既にイタリア旅行した際にナポリ郊外にあるポンペイの遺跡を訪れたことがあるので、行こうか、どうしようか、迷っていたのでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 紀元79年、ヴェスヴィオ山の噴火で、一瞬にして火山灰で埋没してしまったローマ帝国の古代都市ポンペイ。約1万人の市民が暮らしていたと言われ、1784年になって再発見され、今でも発掘作業が続いているといいます。まるで密封されていたかのように当時使われていた生活必需品からモザイク画、それに剣闘士場などまでそのまま出て来たのです。  

 私がポンペイの遺跡で印象的だったのは、子どもから大人まで火山灰で丸焦げになってしまったのか、多くの人が当時の姿勢のまま固まったように亡くなり、後で復元されたのか、石膏の形で展示されていたことでした。今回も数点だけ展示されていました。

上野・東博「ポンペイ特別展」女性頭部形オイノコエ(ヴェスヴィオ山周辺地域)

  私が小学校4年生か5年生だった頃に、「ポンペイ最後の日」という子ども向けの挿絵の多く入った本を読んだことがあり、子どもの頃からずっと気になっていて、長じてから遺跡訪問につながりました。

 で、今回の特別展ですが、行ってよかったです。正直、一般2100円は少し高いかなあと思いましたが、それだけの価値はありました。現地で見なかったものや、知らなかったことも多く、かなり収穫がありました。21世紀ですから、それなりにCGなどを多用した「見せ方」が工夫されておりました。

上野・東博「ポンペイ特別展」

 何と言っても、私の知識として欠けていたことは、ヴェスヴィオ山で埋没したのは南部のポンペイだけではなく、その北部にあったソンマ・ヴェスヴィアーナや西部のエルコラーノなどの古代都市も同じように埋もれてしまっていたという事実です。特にエルコラーノは、日本の東京大学も発掘チームとして参加しているらしいのですが、まだ、全体の4分の1しか調査が進んでいないというのです。発掘は細かい手作業ですからね。

 ということは、これからまだまだ「新事実」が発見される可能性があるわけです。

上野・東博「ポンペイ特別展」「アレクサンドロス大王のモザイク」(ファウヌスの家)

 今展で私が最も注目したのは、ポンペイで最大の敷地を誇った超お金持ちの貴族らしきファウヌス家の談話室に敷き詰められていたモザイク画「アレクサンドロス大王のモザイク」です。本物は現在修復中なので、レプリカとスクリーンでの再現でしたが、それでも大きさが分かって十分に満足でした。

 このモザイク画は、今回展示されている際に「アレクサンドロス大王のモザイク」という名称でしかなっていませんが、私が大学受験の際にボロボロになるまで使った世界史の副読本である「世界史地図」の表紙だったので飽きるほど見ていました。その図版の説明は「アレキサンダー大王とペルシアのダリウス3世とのイッソスの戦い」(紀元前333年)だったことを今でもはっきり覚えています。今の教科書では、アレキサンダー大王ではなく、アレクサンドロス大王と教えているんでしょうか。

 世界史の副読本の表紙絵がポンペイ遺跡からの発掘品だったことを知ったのは、もう何十年も昔ですが、ますますポンペイに憧れたものでした。

上野・東博「ポンペイ特別展」食卓のヘラクレス(ポッターロ地区別荘)

 いずれにせよ、ポンペイはローマ帝国に征服される前は、ギリシャのヘレニズム文化に色濃く影響を受けていたといいます。

 ですから、ギリシャ神話に登場する神々の彫刻がふんだんに出土しています。

上野・東博「ポンペイ特別展」エウマキア像(毛織物組合フォルム)

 それにしても、これだけ高度の文化と技術を誇ったポンペイが埋没したのは、西暦79年のことです。日本でいえば、まだ弥生時代です。神話を除けば、倭王権も登場していない時代です。いまだに所在地も実体もよく分かっていない邪馬台国の卑弥呼でさえ、「魏志倭人伝」に出てくるのが西暦239年頃ですからね。

 弥生時代で農耕が始まったとはいえ、日本人の多くは、まだ洞穴に住み、裸同然で木の実を取ったり、イノシシと戦ったりしていたのかもしれません。

 そんな時、海の向こうのローマ帝国ではこれだけ高い文明を築いていたわけですから、何処か日本史の世界が随分チマチマしたもののようにに見えてしまいます。

上野・東博「ポンペイ特別展」ネコとカモ(ファウヌスの家) こんな細密な絵を描いていたとは!

 まあ、そんなことを言っても始まらないですかあ(笑)。あくまでも、私は、我が祖国日本を愛していますからそれでいいんですよ。

 ローマ帝国さんにはあっさりと負けを認め、2000年経ったら、日本の国力を見せつけて、ポンペイ遺跡の出土品を展示した博覧会を開かせてもらえれば、それで十分で御座います。

東京・上野「グリーンパーク」冬季限定ハンバーガー1400円、グラスワイン700円

 ところで、コロナ禍の影響で、展覧会はネットによる予約制で切符を購入しました。お蔭で、それほど混まずにゆっくりと観ることができました。

 会場の国立博物館平成館は、2012年1月~2月に開催された中国・北宋の「清明上河図」展は大行列で、寒い中、2時間近くも外で待たされた経験があります。

 パンデミック終息後もこの予約制を続けてくれたら有難いです。国家権力を保持されている皆様、どうか宜しくご検討ください。

今でも使っている古代ローマ帝国時代の遺跡

 「注意散漫」という言葉がありますが、私の場合、「興味散漫」で色んなことに興味があって止まりません。誰か助けてぇ…です。

 昨日まで、鎌倉幕府のことに熱中していたかと思ったら、今は、ローマ帝国のことで頭がいっぱいになってしまいました。何で、ローマ帝国?

 それは、目下、東京・上野の国立博物館で「ポンペイ」展が開催されているため、その影響で、テレビやラジオでもローマ帝国に関係した番組が放送されていて、私もその「便乗商法」に感化されてしまったのです。

 ローマ帝国といえば、30年程前に、塩野七生さんが「ローマ人の物語」(全15巻、1992年~2006年)を発表し、私も夢中になって読んだものでした。(正直、途中で挫折して全巻読んでおりませんし、引っ越し等で、もう今は1冊も手元にないのですが)

 それ以来、ローマ帝国は、30年ぶりぐらいの「マイ・ブーム」ですが、今回は新発見の連続でした。何故なら、21世紀になって次々とローマ帝国時代の遺跡が発掘されていき、歴史が塗り替えられているからです。

銀座・トルコ料理「サライ」

 特に2月5日に、BS国営放送で放送された「最強の帝国 ローマ」には感服致しました。ローマ帝国は欧州だけでなく、北アフリカやインド付近まで版図を拡大しましたが、異民族に対して寛容で独自の文化も認めてきたといいます。それだけではなく、戦争で勝ち取った領土を「植民地化」せず、ローマの市民権まで与えたといいます。その証拠に、五賢帝の一人、トラヤヌス帝は、属州ヒスパニア(スペイン)出身でした。

 番組では、北アフリカのチュニジアで4年前に海底で発見された古代都市を「再現」したりしてましたが、チュニジアでは、ローマ帝国時代の水道橋が2000年経った現在でも現役として使われているというので驚いてしまいました。

 また、奴隷剣闘士が戦った闘技場は、ローマやベローナのコロッセオぐらいかと思っていたら、属州でもあっちこっちにあり、特にトルコのエフェソスでは広大な円形闘技場が発掘されていました。また、オーストリアの首都ウイーン郊外では、何と剣闘士養成所まで発見されたのです。これらの遺跡から推測されるのは、これまで、剣闘士は即座に殺されたと思われ、映画やドラマ等ではそう描かれていましたが、結構、剣闘士に対する待遇が良く、栄養が良い食事も与えられていたといいます。何よりも、「見世物」であるため、すぐ殺されることはなく、「演出」もあったようでした。後年は奴隷の剣闘士も減って、一般人から志願された剣闘士も増えていったといいます。

 とにかく、旧ローマ帝国の領土だった欧州、アフリカ、中東はその遺跡だらけです。トルコのイスタンブールは、かつてコンスタンティヌス帝が建設したコンスタンティノープルでしたから、数年前に市内のカフェの地下から神殿が発見されたりしていました。トルコの法律では、その地下神殿はカフェのオーナーのものになり、遺跡保護のための助成金まで出るそうです。

 もう一つ、英国の首都ロンドンはローマ人が属州ブリタニアの中心地「ロンディニウム」として建設した都市でした。(英国人はローマ帝国の属州だったことは、文明化されたということで、誇りに思っているという話を聞いたことがあります)これまた数年前にそのロンドンの金融街シティー(ブルームバーグ欧州本部社屋建設現場の地下らしい)からローマ時代(紀元60年代前半)の商店や住宅などが出てきたといいますから、これまた驚きです。

銀座・トルコ料理「サライ」ビーフケバフ・ランチ1200円

 このほか、これまた国営放送の「世界ふれあい街歩き」という番組が好きでよく見ているのですが、先日は「古代ローマの宮殿が街に スプリト〜クロアチア〜」をやっておりました。このスプリトには、1700前に古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝(244~311年)が建設した宮殿がありますが、、その広大な宮殿を、市民が現在でも商店や住宅として使っているのです。これは、もう遺跡とか過去の遺物どころの話ではありません。石の建物ですから、2000年経っても使えるというところが凄い。ローマ人の底力を垣間見た感じです。

 そんなローマ帝国が何で滅亡してしまったのか? 諸説あるようですが、今は、そちらの方に興味が移っています(笑)。

 あ、そうだ。「ポンペイ」展を観に行かなければいけませんね。私自身は、かつて、イタリア旅行で現地を訪れたことがありますが、またまた最近発掘されたものまで展示されているといいますから、見逃せませんね。ナポリ近郊の都市ポンペイがヴェスヴィオ山噴火により埋没したのは紀元79年のこと。皇帝ティトゥスの時代です。ポンペイ展に行けば、少しは「ローマ帝国熱」も醒めるかもしれません(笑)。

 あ、書き忘れるところでした。「暴君ネロ」と言われたネロ皇帝は暴君ではなかった、と最近見直されてきているようです。まあ、そこが歴史の面白いところです。

「承久の乱」は「承久革命」なのでは?=「歴史道」の「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を読んで

 「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)をやっと読み終わりました。やはり、2週間ぐらいかかったでしょうか。

 でも、実に面白かった。鎌倉時代のことをもっともっと知りたいと思いました。800年続く武家社会(私説)の礎が築かれた時代ですからね。渓流斎ブログ2022年1月24日付「源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞」でも書きましたが、その前に読んだ「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と切り口が違うので、まるで違う本を読んでいる感じでした。(当たり前でしょうけど)

 両誌とも、目下放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法であることは間違いないのですが(笑)、私もそのお蔭で「鎌倉殿の13人」の補足知識を得ることが出来ました。まず、第一にこの「歴史道」の中で、濱田浩一郎氏によると、「鎌倉殿の13人」とは、以前は二代将軍源頼家が直接訴訟に判決を下すことを停止され、有力御家人13人の合議制による決裁に委ねられたとされて来ましたが、現在この見解は有力視されず、頼家への訴訟の取次を有力御家人13人に限定したに過ぎず、13人の宿老が一堂に会して合議した例は、文献等から確認されないといいます。つまり、「13人の合議制」なるものの実体はないというのです。へー、そうでしたか。

築地「わのふ」魚御膳定食1000円

 平安時代末期から鎌倉初期にかけて、保元・平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして何よりも承久の乱と戦乱・内乱が続き、おまけに飢饉、疫病、後に元寇といった国難もあり、この時代は、相当庶民が疲弊した大災難の時代だったと思います。そのために、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らが新興宗教を起こし、民衆が縋ったのか、もしくは、あまりにも民衆が救いを求めるので、新仏教が生まれたのではないかと私は思っています。

 この時代の歴史資料の代表的なものとして、「平家物語」「吾妻鏡」がありますが、「平家物語」は、平清盛ら平氏に対してあまりよく思っていない書き方で、「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史とはいえ、北条氏に都合の良い書き方がされているといいます。そのお蔭で、「平氏でなければ人にはあらず」に代表される言葉のように、確かに、私自身も平氏に対して悪い印象を植え付けられてきた感じがします。でも、「平氏=悪」「源氏=善」ではなく、互いに権力を争ったに過ぎないと考えるようになりました。(平清盛による開明的な経済政策は特筆に値します)

 また、「吾妻鏡」では、当初、源頼朝の乳母系として北条氏より遥かに所領も多く、権勢を誇っていた比企氏に関する履歴や記述が少ないのは、北条氏を有力御家人に見せるために、後から削除されたのではないかという疑惑もあるといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 さらに、北条氏は、平貞盛の子孫と言われます。北条頼政の義父で、北条義時の祖父に当たる伊東祐親が300騎を動員できた時に、北条氏はわずか30騎に過ぎない豪族でしたが、北条政子が源頼朝の妻になることで一気にのし上がります。その後、比企能員や梶原景時、和田義盛ら有力御家人らを次々と滅ぼし、ついには、承久の乱で勝利を収めて、武家政権を確立した北条義時は、「陸奥守平義時」と称しました。つまり、鎌倉時代は源氏はわずか三代で滅んだので、平氏政権でもあったと言えることでしょう。

 その承久の乱の後、後鳥羽(隠岐島)、順徳(佐渡島)、土御門(土佐→阿波)の3人もの上皇が流罪となり、追放されました。この時、義時と六波羅探題は、皇位継承まで介入し、上皇の荘園まで剥奪し、その権威を有名無実化することに成功しました。ということは、大袈裟に言えば「承久の乱」は、1000年続いた大和朝廷=天皇王権を覆して、武家政権を打ち立てた「承久革命」と言った方が実態に近いのではないでしょうか?

 最後に、もっと知りたいと思ったことは、鎌倉幕府の御家人たちのことです。「鎌倉殿の13人」でさえ、「生年不詳」の御家人が多いので、致し方ないのですが、少なくとも、その後の室町、戦国、江戸時代に活躍する祖先に当たる人たちの話ですから関心があります。例えば、武田信義(戦国武将武田信玄の祖先で甲斐武田氏の始祖)、大江広元(長州毛利氏の始祖)、島津忠久(薩摩島津氏の始祖)、足利俊綱(足利尊氏の祖先)らはあまりにも有名なので分かりますが、千葉常胤、三浦義澄、宇都宮朝綱、小山朝光、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越(川越)重頼、江戸重長は21世紀の現在でも地名として残っているので、土地と名前との関係(あるのかないのか)にも興味があります。えっ?自分で調べなさい、ってか?

「闘う講談師二代目松林伯円」と「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所」=インテリジェンス研究所主催第8回特別研究会

1月29日(土)は、第8回特別研究会(インテリジェンス研究所主催)をオンラインで聴講しました。ZOOMのオンラインなので、なるべく目立たないように、自画像はオフにして、音声はミュートにし、息もせず、瞬きもせず、伊賀の忍者か隠れキリシタンのように自分を消していたつもりでしたが、ある方から、(名前は口が裂けても言えませんが)、「本日の講演はいかがでしたか?」と聞かれてしまい、「ありゃま、こりゃ逃げられないわいなあ」と観念したわけです。

 観念した、というのは、正直、講演の内容が難しくて、もしくは、自分の認識力がついていけなかったからでした。何と言っても、講演の画面の切り替えが早かったり、講師のお話が聞きとれなかったりして、メモを取るのができなかった箇所がいくつもあったからでした。「とても、ブログにはまとめきれないなあ」と観念したわけです。

 と、クドクドと前書きを長く書いたのは、とにかく、逃げ切れないので、この特別研究会のことを書くことにしますが、本文が短くなると予想されるので、行数を稼ごうという魂胆があったことを告白しておきます(笑)。

 さて、報告者はお二人の特別研究員の方でした。最初は、昨年、「たたかう講談師: 二代目松林伯円の幕末・明治」(文学通信)を出版された目時美穂氏で、演題は「明治政府の国民教化政策に対する大衆芸能の対応―講談を例として」。続いて登壇されたのは、昨年「『善通寺俘虜収容所』ハンドブック : 太平洋戦争初の捕虜収容所と人々の記録」(私家版)を上梓された名倉有一氏で、演題の副題は「新資料『吉田文書』を中心として」でした。

 最初の目時氏の講演に登場した講談師二代目松林伯円という人物は、不勉強で私は全く知りませんでした。

 伯円は、明治期に、一般大衆から大物政治家に至るまで絶大なる人気を誇った講談師ということですが、私が知らないだけかもしれませんが、歴史に埋もれてしまった人物といえるでしょう。明治の講談は、木戸銭が二銭五厘(現在の250円ぐらい)と安価で庶民が気楽に楽しめる娯楽だったといいます。

 当時の講談の演題は「鼠小僧治郎吉」といった伝説物だけでなく、新聞に掲載された時事ネタや犯罪、そして自由民権運動など政治的な話までも題材にして創作されたといいます。その講談などの人気に目を付けた明治政府は、国民の道徳の涵養や天皇を中心とした国家神道を奉じる中央集権国家であることを国民に知らしめる目的で、大衆芸能を利用します。山縣有朋が伯円の大ファンで、彼に接近したといいます。

 明治政府は民権運動を弾圧するために、新聞条例や讒謗律(明治8年)、集会条例(明治13年)などを発布して監視体制を強化し、講談も少なからず影響受けたといいます。

 そのため、伯円は、講談小屋が閉鎖されたりしてはたまりませんから、山縣有朋ら大物政治家については、お客さんとして歓迎はしても、権力者側になびくことはなく、自分の考えや芸道に邁進していたのではないか、というのが目時氏の見立てでした。(伯円の政治信条は分かりませんが、と付言されましたが)

 もう一つ、今回勉強になったことは、明治政府は幕末に欧米と締結した不平等条約改正の一環として、日本を「文明国」として諸外国に認めてもらうために、新聞の普及を推進したという話です。その具体的な政策の中には、「聚覧所」と呼ばれる新聞が読める場所を設置したり、講談師に新聞を読み聞かせる「訓読会」を浅草で開催したりしたといいます。「郵便報知新聞」など当時の大新聞と呼ばれる政治色が強い新聞はインテリ向けで、漢籍の素養がある人しか読めなったからです。(現代人も、とても読めませんよ!)

 お二人目に登壇した名倉有一氏の「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所:新資料『吉田文書』を中心として」は、非常にマニアックといいますか(良い意味で)、これまで誰も成し遂げることができなかった善通寺捕虜収容所の歴史と実体をまとめた労作の話でした。

 善通寺捕虜(当時は俘虜)収容所とは、昭和17年1月14日、香川県善通寺町(現善通寺市)に太平洋戦争中に国内外を通じて初めて開設された米、英、豪州人らの捕虜収容所で、当初は355人で、終戦間近には720人いたといいます。「吉田文書」というのは、善通寺捕虜収容所に関わった陸軍の吉田茂主計中尉が残した資料のことです。

 名倉氏は、捕虜の扱いについて、日本は当初、国際法に遵守して厳格に守ってきたのですが、敗戦色が濃くなると、将校に関しては労働に従事させないという国際法を破って労働に参加させたりした実態も明らかにされていました。

 この捕虜の利用については、名倉氏は、陸軍省は主に労働力として、海軍軍令部は情報源として、情報局は、日本の立場を海外に主張するプロパガンダ(宣伝)として、陸軍参謀本部(第2部第8課恒石重嗣少佐)も、敵兵や敵国民に厭戦や反戦気分を高める宣伝として使った、などと図解で区分けされてましたが、非常に明瞭で分かりやすい説明でした。

 これらのプロパガンダは、内閣と情報局と大本営の代表が集まった「連絡協議会」で方策を決定し、実務は日本放送協会と国策通信社の同盟通信社が主に実践部隊として担ったという話でしたが、私もメディアの片隅に棲息する人間として興味があり、もっと詳しく聴きたかったでした。

 あれっ?結構長い文章になってしまいましたね。最後までお読み頂き洵に有難う御座いました。

源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞

「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集をやっと読了しました。2週間以上かかったでしょうか。でも、お蔭様で、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の御家人の名前と経歴、それに時代背景を覚えてしまいました。こんなに賢くなってどうするの?といった感じです(笑)。

 「便乗商法」というより、「便乗学法」ですね。大河ドラマがなければ、これほど北条義時に関心を持つことはなかったでしょう。1月21日付の渓流斎ブログ「承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?」でも書きましたが、北条義時は800年の武家政権の礎を築いた人であり(私の説)、日本史上では「逆賊」のイメージを払拭して、その功績をもっと見直されなければいけいないと思いました。

 そして、今は「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読んでいます。同じ鎌倉幕府を扱いながら、切り口が全く違うので、この本からも新たな知識が吹きこまれます。

 特に驚いたのは、源氏も平家も、位階はもともと六位という極めて低い下級職だったという事実です。警護や軍事を担当し、貴族の周辺に「さぶろふ」から侍と言われたり、武士と言われたりしましたが、「清和源氏」「桓武平氏」と言われるように、本来の始祖は天皇の子息でしたから、もっと位階は高いと思っていました。五位以上が貴族です。位階については、渓流斎ブログ2021年12月15日付「『従三位』と『正六位』の違いは何か?=位階(叙位)について考える」を再読されて思い出してほしいものです。21世紀の現在も叙位叙勲が続けられていますが、六位とは、小中学校の校長先生らに授与される位階です。

 それが、地方で反乱(天慶の乱、前九年の役、後三年の役など)があると、彼らは鎮守府将軍などに任命され、戦功があると、恩賞で四位まで昇任されたりしました。

 その後の出世頭は何と言っても平清盛です。保元・平治の乱を制した清盛は永暦元年(1160年)、三位の参議となり武士として初めて公卿となります。そしてその7年後はついに太政大臣という公卿のトップに立ち、一位を獲得するのです。(織田信長は正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣でした)

 平安末期の院政時代、もしくは武家の台頭から中世が開始したという説が有力ですが、それ以前の古代は、天皇の外戚を利用して権力を握った葛城氏、蘇我氏、藤原氏などのように、「女系」が為政者でした。それが、中世になって武家が政権を握ると、一転して「男系」となります。そのため、親と子や兄と弟、伯父(叔父)と甥との間で、跡目争いという血生臭い権力闘争が起きる、といったことが書かれていましたが、妙に納得してしまいました。

ジョン・スメドレー(創業1784年)のカーディガン3万4,000円

 話は変わりますが、山城の元祖は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ一人、楠木正成の千早・赤坂城だという説があります。何で、不便な高い山に城なんかを築かなければならなかったのかという理由は、鎌倉幕府の坂東武者が騎馬による攻撃を得意としていたためです。馬が登って来られないように、わざわざ山城を築いたというのです。

 承久の乱から100年余。鎌倉幕府の滅亡は、元寇による疲弊で、恩賞ももらえなかった御家人たちの不満が高まったことが理由に挙げられますが、このように鎌倉幕府が戦力的にも戦略的にも時代遅れになったこともあったのでしょうね。

三菱食品!?ローソンは三菱グループでした! 何で本文と全く関係ない写真なんだ!関係ある写真は著作権の関係で使いないためです。

 もう一つ、備忘録として書き残したいことがあります。NHKの「歴史探偵」という番組の中で、長崎のオランダ語通詞(通訳)の話が出てきましたが、彼らは当時の最先端の科学者でもあって、「引力」「遠心力」「分子」「動力」「弾力」「物質」「加速」「真空」「楕円」「惑星」「鎖国」などの翻訳語を考え、生み出した人たちだったというのです。

 これには吃驚。てっきり、福沢諭吉か西周か柳河春三か中江兆民ら幕末の語学の天才が考えたものだと思っていました。

 恐らく、恐らくですが、これら、科学用語も、「経済」「自由」などと同じように、本家本元の中国でも逆輸入されたと思われます。

 

承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

【追記】

・「吾妻鏡」によると、北条義時(1163~1224年、行年61歳)は「攪乱」のため急死しますが、詳細が書かれていない。後妻の伊賀の方が自分の息子の政村を次期執権にしたいがために、毒殺したのではないかという説があります。伊賀の方の兄伊賀光宗は政所執事(長官)、娘婿の一条実雅は、時の将軍九条頼経の親戚、また政村の乳母親は、有力御家人の三浦義村だったので、彼らが結束すれば、泰時を倒して執権の座を獲得することは不可能ではなかった。

・三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」。初めて口語ながら読みましたが、第12条に「争いの元である悪口は禁止。重大な悪口は流罪、軽いものでも入牢。」とあり、感心してしまいました。

比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=「鎌倉殿の13人」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が1月9日にスタートし、初回の視聴率が17.3%(関東)で、「そんなに低いのか」と思っていたら、16日の2回目は14.7%と2.6ポイントもダウン。最近、「見逃し配信」で見る人も多いので、視聴率に反映されませんが、2回目で視聴率が下がるのは6作連続らしいですね。1987年の「独眼竜政宗」(主演渡辺謙)が記録した最高視聴率39.7%は、夢のまた夢で、もう実現することはないかもしれません。

  「鎌倉殿の13人」 は、二代執権北条義時(小栗旬)が主人公で、鎌倉幕府を開いた源頼朝を支え、頼朝の死後は、承久の乱で、約650年続く武家政権の礎を築いた武将の物語ですが、何となく通好みのような気がします。何しろ、戦前は、義時は承久の乱で後鳥羽上皇を隠岐に配流するなどしたため、「逆賊」「悪党」扱いでしたから、とても小説や舞台の主人公になりえませんでした。

 時代は変わるもので、最近の歴史研究では、当初は、朝廷に対して弓をひくことなど考えもしなかった義時で、むしろ、無理難題を押し付けて挑発した後鳥羽上皇側の方に無理があったという学説に傾いているようです。つまり、義時の評価が見直されたわけです。

 いずれにせよ、私自身、北条氏といえば、まずは「尼将軍」政子であり、あとは初代執権の時政か、御成敗式目を制定した三代泰時か、元寇を退けた八代時宗ぐらいがキーパースンだと思っていましたから、義時についてはあまりよく知りませんでした。でも、私は真面目ですから(笑)、ここ数年は鎌倉にまで出掛けて義時所縁の寺社仏閣巡りをしたり、関連本を読んだりして勉強しました。

 そして、今月は、大河ドラマに便乗した「歴史人」(「鎌倉殿と北条義時の真実」特集)(ABCアーク)と「歴史道」(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)の2冊も宣伝に乗せられて買ってしまいました。

 今は「歴史人」の方を読んでいるのですが、非常にマニアックで、正直、読むのに難儀しています。なかなか頭に入ってくれません。

 大学入試の「日本史」で、「頼朝の死後、『13人合議制』になったが、その有力御家人13人を全て書け」という問題が出たら、全員は書けませんね(苦笑)。

 しかしながら、この13人の曲者同士が仲良く末永く穏便に暮らせるわけがなく、凄まじい、血なまぐさい権力闘争が繰り広げられます。最終的には、父親である初代執権の北条時政を追放した義時が最高権力者の座(二代執権)に就くことになるのですが、その間、例えば、頼朝の「右腕」として鎌倉幕府成立に粉骨砕身した梶原景時は、御家人66人からの連名で「糾弾訴状」を突き付けられて失脚します。景時は、目付役として義経を貶めた人物とされ、御家人の監視役として恨みを買ったと言われます。一方で実務に長けた優秀な人材だったという説もあり、権力闘争に巻き込まれた形で、嫡男景季から九男景連らを含む梶原一族33人は殲滅され、路上で首を晒されたといいます。怖ろしい。

 他に、殲滅された有力御家人の中には和田義盛や畠山重忠(居城は埼玉県武蔵嵐山市の「菅谷館」)らもおりますが、本日は比企能員(ひき・よしかず)を取り上げます。

 比企能員は、源頼朝の乳母だった比企尼の甥で、その養子になった御家人で、源平合戦で鎌倉方の幕僚として活躍します。(比企氏が一帯を支配した武蔵国は、埼玉県比企郡として今も名を残しています。比企氏は大資産家でしたが、北条氏によって比企氏の事績や勲功が「吾妻鏡」から削除されたため不明な点が多いといいます)。比企能員の娘の若狭局が後の二代将軍頼家の妻となり、長子一幡(いちまん)を生んだことから、能員は二代将軍の義父、三代鎌倉殿候補(一幡)の外祖父として強大な権力を握ることになります。

 これに危機感を持った北条時政が、比企能員に謀反の疑いがあるという謀略を仕組み、時政の自邸に招いて部下の天野遠景、仁田忠常に殺害させ、息子の北条義時には、比企氏の館を襲撃させて、幼い一幡もろとも比企一族を殲滅します。時政は、比企氏の血が濃い一幡よりも、娘の政子が生んだ千幡(せんまん=頼家の弟で、一幡の叔父に当たる。後の三代将軍実朝)を将軍にしたかったためでした。(慈円「愚管抄」)

鎌倉・妙本寺

 この北条氏によって滅ぼされた比企一族の館跡には、妙本寺が建立され、私もお参りしたことがあります。この寺は、比企能員の末子で、事件当時は京都で勉学中だったため生き延びた比企能本(よしもと)が文応2年(1260年)に日蓮宗に帰依して建立したものです。

 境内には比企一族の供養塔もあります。当時の比企館の一部でしょうが、妙本寺は広大な敷地でした。鎌倉時代は想像した以上に血なまぐさい武力闘争が頻発していたことを改めて思い起こしました。

 1980年代の往年のアイドル歌手で、今も女優として活躍する比企理恵さんは、比企一族の末裔と言われ、御先祖を意識して、全国の寺社仏閣巡りを心掛けているという話を聞いたことがあります。

戦国時代の家臣団=伊賀や甲賀だけでなく透波、風魔、村雲党も登場

 「戦国最強家臣団の真実」を特集している「歴史道」別冊SPECIAL(週刊朝日ムック、2021年12月発行)は薄い雑誌ですが、内容は百科事典みたいな本で、情報量が多く、全て頭に入れることは諦めて、必要な項目はその時にまた参照することにして、一応読了しました。

 「織田家」「武田家」「徳川家」「豊臣家」から「黒田家」の家臣団まで11家の家臣団が取り上げられているほか、合戦の陣形や戦術から調略まで、何かあらゆることが詰まっている感じです。

 考えてみれば、何故、家臣団のことを知るべきなのか、答えは単純ですね。例えば、「織田信長による比叡山焼き討ち」と歴史の教科書で習っても、実際に比叡山延暦寺に火を付けたりしたのは信長ではなく、その家臣団です。実戦部隊は主に、明智光秀軍だったと言われ、光秀はその戦功により、坂本城の一国一城の主となり家臣団の出世頭になったことは皆さんご案内の通りです。

銀座国旗掲揚塔奉賛会

 この本で取り上げられた家臣団の中で一番印象に残ったのは武田家です。百戦錬磨と言われた武田信玄亡き後、跡目を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてからは(この時、信玄の「四天王」と言われた内藤昌豊、山縣昌景、馬場信春が討死)転落の一途です。徳川家康軍に攻められていた高天神城に援軍を送れなかったことをきっかけに、家臣団中枢の御親類衆まで離反し、織田方の滝川一益隊に包囲されて最期に自決した田野(現山梨県甲州市)まで勝頼に従って残っていた家臣団はわずか43人だったといいます。

 家康との三方ヶ原の戦いの時の武田家が最盛期だったと言われますが、その時の家臣団は5万人はいたそうです。それがたったの43人に減少してしまったという史実は、武田家にせよ、戦国時代は、大名一人の独裁ではなく、多くの国衆などの家臣による合議制だったということが分かります。国衆の家臣も一国一城の領主でもあったわけですから、自分たちの領地を安堵してくれる頭目の神輿を担いでいるだけということになります。(武田軍団が無敵を誇ったのは、地元甲斐には肥沃な土地がないため、命懸けで他国に攻め入って領地を広げるしかなかったからという説が有力)

 武田勝頼は、最後に御親類衆である穴山信君(のぶただ、梅雪)や譜代・家老衆の小山田信茂らにも離反(裏切り)されますが、勝頼は、信玄の四男で母方の諏訪大祝(おおほうり)家の血が濃く(勝頼は、若い頃は諏訪四郎と名乗っていた)、名門「甲斐源氏」の正当な継承者ではないと見られたことも背景にあったようです。

 国衆にしても、自分の家の存続のために汲々としなければならないので、戦国時代は、離反や裏切りは当たり前だったことでしょう。明智光秀も主君織田信長を裏切った下克上の極悪非道人扱いをされましたが、光秀自身さえ、盟友で娘(お玉、細川ガラシャ)の嫁ぎ先であった細川家(藤孝・忠興親子)に出陣を要請しても裏切られています。

 裏切りや離反や寝返りや内応といったことは、現代感覚では「卑怯」の一言で済むかもしれませんが、当時は、生き抜くための手段の一つに過ぎなかった、と私は最近思うようになりました。まあ、現代人でも平気で裏切ったり、寝返ったりする人が多いですからねえ(爆笑)。

皇太子殿下御降誕記念 京橋旭少年団 昭和9年5月

 話は全く変わって、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの際、島津義弘による「敵中(前方)突破」は有名ですが、この捨て身の戦術「捨てガマリ」(殿様の退却を援護するために、殿軍=しんがりぐん=が反転して追撃してくる敵を迎撃)のおかげで、1500人いた家臣団のうち薩摩まで生還できたのはわずか80人だったいいます。

 裏切りや寝返りや離反が多いという時代に、島津家臣団は、殿様のためにあっさり自分の生命を投げ出すとは…。島津家臣団の結束の堅さには目を見張りました。

 いやはや、壮絶な話でした。

偶然、銀座の街角で見つけた「京橋旭少年団員 団長:会津半治」の碑。本文と全く関係なし。どうしてくれるんやあ?

最後に私も仕事柄、興味がある「戦わずに勝つことを目指した『調略・諜報・外交』の頭脳戦略」の中の「間諜」は勉強になりました。いわゆる忍びの者のことですが、大名によって色々と呼び方に違いがあることを初めて知りました。

 伊賀や甲賀の忍者はあまりにも有名ですが、武田信玄お抱えの忍者は「透波(すっぱ)」と言ったそうですね。これが、人の秘密などを暴いて明るみに出す「すっぱ抜く」の語源になったそうです。この他、伊達政宗が組織した忍者集団を「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」、北条氏に仕えた忍者は風魔と呼ばれ、頭目は風魔小太郎として知られています。私も子どもの頃に読んだ忍者漫画の中に風魔小太郎が登場していました。架空ではなく実在人物だったとは!

 このほか、福井藩に仕えた義経流や、安芸の福島正則に仕えた外聞(とどき)、加賀前田藩の偸組(ぬすみぐみ)などの忍者がいました。

 何しろ、京都の天皇家に仕えた忍びもおり、村雲党(流)と言われたそうです。忍びの者は隠密とも言われますから、村雲党を御存知の方はよほどの通でしょうね。

アダム・スミスと欲望の資本主義

 新しい年が明けて、何となくですが、今年は良い年になりそうな気がしています。自分でも、本当に数年か数十年ぶりに運気が向上している感じがしています(笑)。

 とにかく、高齢者になってもまだまだ色々と勉強することが出てきて、読まなければならない本が次々と現れてくるのです。こんなに真面目に勉強している老人は、世の中にいないんじゃないか、と通勤電車に乗るたび実感します。ざっと見回して、読書している人が私以外一人もいないからです。

 若い頃は、1カ月30冊ぐらい読めたのですが、さすがに高齢になった今はそうもいきません。限られた人生ですから、残された時間で読める本も限られているので、せめて「人類の遺産である古典だけでも」ということで読み始めたのが、アダム・スミスの「国富論」(国民の富の性質と原因に関する研究)です。今は、高哲男氏による新訳の講談社学術文庫の上巻の半分ほど読み進みました。最初はサッパリ理解できなかったのですが、段々とスミス節にも慣れてきて、読むのがワクワクするほど楽しみになってきました。

 人間には2種類の人間しかいない。アダム・スミス「国富論」を読んだ人と読んでいない人の2種類だ。

 と嘯いておきましょう。

 アダム・スミス(1723~90年)は、近代経済学を確立した最初の学者と言われますが、経済は人類の生活に欠かせない行為なので、その前に経済的なことを研究する学者や探検家や司祭らが何人もいて、スミスも彼らの論文を引用しています。例えば、ラディマン氏やレナール氏はこうこう言っているが、今の時代は事情が違ってこうなっている、といった記述に遭遇すると、とても人間臭くて、アダム・スミスを身近に感じてしまいます。

2022年正月の銀座・並木通り

 この本には色んなことが書かれているので、私の力ではとてもまとめきれないのですが、初版が書かれた1776年をアダム・スミスは「現代の最先端」として扱っているので、私はその時代に降りて、決して古臭いとは思わず、なるべく彼と同時代人の目と同じように接して読むように努めています。

 例えば、第一編「労働の生産力が改善される原因と自然に分配される秩序」の第二節「ヨーロッパ政策によって引き起こされた不平等」の中で、「欧州の大部分の同業組合化された職業で確立した徒弟修業期間は7年間ではあるが、ありふれた機械工の職業であれば、数日間のレッスンでも十分に用が足りる」といった趣旨のことを書く一方で、「ありふれた職業よりもずっと高度な技術、例えば、置時計や携帯用の時計製作といった技術が、長期の研修教育を必要とすることは疑問の余地がない」とも書いています。

 普通の人なら、通り過ぎる箇所ですが、私は、はっはあー、携帯用の時計は、今のスマホに匹敵する当時の最先端のハイテク産業だったろうなあ、と考えます。そして、私も以前、東京・銀座で高級腕時計店巡りをしたことがあり、今でも世界三大高級腕時計の一つとして知られるスイスの「ヴァシュロン・コンスタンタン」が、「国富論」出版の19年前の1755年に創業されていたことを思い出し、この事実を照らし合わせただけでも愉快になってしまいます。

 このほか、ローマ時代、カエサルを暗殺した一人で「ブルータス、お前もか」で知られ、高潔だったと言われていたブルートゥス(BC85~BC42)がキプロス総督時代に48%の高利で貨幣を貸し付けていたことをこの本で知りました。

銀座「華味鳥」博多御膳1800円

 「国富論」はキリがないので、この辺にしますが、アダム・スミスは、確かに現代の経済学者や財政家らにも多大な影響を与えていることを知りました。年末年始のテレビ番組の中で抜群に面白かったのが、1月1日にNHKーBSで放送された「欲望の資本主義2022  成長と分配のジレンマを越えて」でしたので、その話をします。(1月10日に再放送があるようなので、見逃した方はどうぞ)

 この中で、一番面白かったのが、ギリシャの財務相も務めたことがある経済学者のヤニス・バルファキス氏の発言でした。あまりメモが取ることができなかったので、私の補遺も入ってしまうことをお許し願いますが、彼はいきなり、世界で20億人以上の利用者がいるFacebookのザッカーバーグを批判します。「彼は、メタバースという仮想現実空間の中に自分を反映したアバターを作らせ、恐らく、数百万以上の人間がその中で、デジタル取引などを活発に行うことだろう。私はご免だね。情報の奴隷や農奴になってザッカーバーグなんかに支配されたくないよ」と痛烈に言い放ったのです。これは痛快でしたね。

 そして、バルファキス氏はアダム・スミスを持ち出します。

 「アダム・スミスは、市場が持つ自由の力と効率の高さを激賞したが、株式を公開している会社に対して匿名の株主が所有することを猛反対した。資本主義の守護聖人として名高い人物が資本主義に真っ向から反対していたことは興味深いでしょう。というのも、株式が匿名で取引されると流動的な通貨となり、いずれ集中することとなる。今や、ニューヨーク株式市場に上場する全企業の9割が、ブラックロックとステート・ストリートとバンガードのたった3社の投資会社に所有されている事態になっているんだ。これでは、独占資本主義だよ。アダム・スミスが思い描いた『共同体市場』が生まれるには、金融市場と労働市場を、すなわち資本主義そのものを既存の体制から取り除くしかない」

 バルファキス氏はこのような趣旨の発言をしていたので、嗚呼、「国富論」を読んでいて良かったなあ、と改めて思った次第です。