往相と還相という親鸞聖人の教え=「教行信証」を読んで

 会社の近くに築地本願寺があります。

 心がささくれだった時、心が疲れた時ー、そんな時、たまに昼休みを利用して訪れると、心が洗われる気持ちになれます。

 昔は、ということは、今より若かった頃は、信者ではありませんが、聖書をよく読んでいたので、たまにキリスト教会に一人で行ったものですが、織豊時代の宣教師が日本植民地化の先兵だったり、聖職者のはずの宣教師がルソン島へ日本人を送り込む奴隷船の仲介したりしていたという史実を知り、また現代では、神父による少年への性的虐待等を知り、少しキリスト教に失望してしまい、足が遠のいてしまいました。

 私自身は浄土真宗の信者でも、本願寺の門徒でもありませんが、寺院は出入りが自由なので分け隔てなく、迎え入れてくれます。それどころか、守衛さんにお伺いしたら、寺院内の撮影までお許し頂きました。

築地本願寺

 実は、ここ半年間、少しずつ、浄土真宗の宗祖親鸞の主著「教行信証」を読み進め、もうすぐ読破しそうなのです。

 読破など言っては、怒られそうですね。神聖な宗教書を冒涜するな、とー。はい、すみません、と謝るしかありません。その上、私のような凡夫では、到底理解できず、同じ個所を何度も何度も読み返して、それでもよく分からないことが多いのです。でも、私のような懐疑主義者は、果たしてどれだけの門徒の方が、実際にこの書を読み通しているのであろうか、という疑問を持ってしまったことです。現代人は、テレビにゲームにエンタメにアイドルにスポーツに、麻雀・競馬にと寸暇が惜しいほど忙しいのです。専門の僧侶の方でさえ、原書(漢文)で読んでいらっしゃるのかなあ、と疑ってしまいました。

 というのも、私が読んでいるのは、昭和58年7月20日初版発行の中公バックス「日本の名著」の「親鸞」で、現代語訳と補注を担当しているのが、石田瑞麿氏(当時東海大教授)なのですが、例えば、補注の中で、石田氏は「この箇所の親鸞の読み方には無理があり、…一つづきに読まなければ、意味が通らない」とか「『転じて休息とも呼んでいる』とあるが、実は『転ずるとは、休息することに名づける』と読むのが正しい。今は親鸞の読み方に従った」とか「…写し誤ったために生じた読み違いであろうか」といった注釈が何度も出てくるからです。ただし、漢籍の素養のない私自身は、真蹟本である坂東本と別本である西本願寺本の漢文の原著を読む能力もなく、現代語訳で読むしかなく、その違いもよく分かっていないのですが…。

 「教行信証」とは何か?-勿論、浄土真宗の聖典ではありますが、「浄土三部経」を中心に「華厳経」「菩薩処胎経」「大乗大方等日蔵経」など非常に多くの仏典から引用された仏教説話なども織り込まれていますが、どういう聖典なのか、私自身、一言で説明する能力はありません。

 ただ、恐らく、これが一番、親鸞聖人が言いたかったことではないか、といいますか、私自身が、全く知らなかったといいますか、誤解に近い形で理解していたことで、親鸞が明快に答えていたところがあり、その中で私自身が一番印象に残っていた1カ所だけを茲で記したと思います。

築地本願寺

 それは「信巻」に出てくる極楽浄土に往生することについてです。石田氏の現代語訳を引用させて頂きますとー。

 如来の回向には二種の姿がある。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。

 往相は、如来ご自身の功徳を全ての人に回らし施して、誓いを立てて、共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせられることである。

 還相とは、かの国に生まれてから、心の乱れを払った精神の統一と、正しい智慧を働かせた対象の観察と、さらに巧みな手立てを講ずる力とを完成させ、再び生死の迷いの密林に立ち戻って、全ての人を教え導かせ、共に悟りに向かわせられることである。

 往相にしても還相にしても、いずれも世の人を苦悩から解放して、生死の海を渡そうとするために与えられたものである、といっておられる。(262ページ、原文にない行替えし、一部漢字表記改め)

 なるほど、極楽浄土に一方的に行くだけでは駄目だったんですね。もう一度娑婆世界に戻って来て、衆生を救済する役目があったんですね。

 ですから、ここから4ページ先の266ページに、以下のことが書かれています。

 釈迦仏が王舎城で説かれた「無量寿経」について考えてみると、(中略)この最高至上の悟りを求める心はすなわち仏になろうと願う心であり、仏になろうと願う心は、すなわち世の人を救おうとする心であり、世の人を救おうとする心は、すなわち世の人を救い取って、仏のおいでになる国に生まれさせようとする心である。だから、かの安楽浄土に生まれたいと願う人は、最高至上の悟りを求める心を必ず起こすのである。もし、誰かが、この最高至上の悟りを求める心を起こさないで、ただかの国で受ける楽しみに間断がないと聞いて、その楽しみのために、生まれたいと願うとしても、また当然生まれるはずがない。

 そう断言している箇所に、私は目から鱗が落ちたといいますか、頭を後ろからガツーンと殴られたような感覚に陥りました。

 つまり、楽しみだけを求めて極楽浄土に往生したいと願っても、当然、行けるわけがない。そもそも往生を願うならば、また娑婆世界に戻って、今度は貴方が衆生を救済する役目を担おうとしなければ、最初から往生するわけありませんよ、と親鸞は言っているわけです。

 私自身は、これこそが親鸞聖人の深い教えの肝ではないかと愚考致しました。

 西念寺

 承元の法難(浄土宗では建永の法難)で越後国に配流された親鸞聖人(1173~1262年)は、その後、すぐ京都に戻ることなく、常陸国の「稲田草庵」と呼ばれた地に留まり、関東布教の拠点にします。

 親鸞聖人と家族はこの地に20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住み留まり、親鸞はここで「教行信証」を執筆したと言われます。現在の茨城県笠間市の稲田禅房西念寺です。浄土真宗別格本山です。私も今年6月に、この寺院を参拝し、その頃から「教行信証」を読み始めたのでした。

三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観

 ◇三島割腹自決の衝撃

 11月25日は作家三島由紀夫が陸上自衛隊の市谷駐屯地で割腹自決した日で、今年はちょうど半世紀です。ということは、現在53歳ぐらいか、それ以上の方でないと、この事件を実体験した感想は書けないと思います。

 あの衝撃は今でも忘れられません。私は東京都下の中学生でした。当時、自分でもよく分からないのですが、剣道部に所属していて、この事件の第一報を知ったのは、剣道部の顧問の杉本教頭先生からでした。帰りがけの我々に学校の校庭で彼はこう言いました。「本日、日本で一番偉い方が亡くなりました」。

 日本で一番偉いのかどうなのか。当時、三島の作品を碌に読んでいなかったくせに、妙に反発心が湧き起きたことを覚えています。名前を知っていた三島作品は「潮騒」「永すぎた春」「金閣寺」など映画化された作品ばかり。ということは、まだ読んでおらず、小説は「仮面の告白」を既に読んでいたかどうか、記憶は曖昧です。

 三島主演の映画「憂国」(1966年)は見ていなくとも、切腹シーンで話題騒然となったことは覚えています。それが、実際、三島自身がミニチュア軍隊のような「楯の会」を結成して、メンバーとともに市谷駐屯地を襲撃して、本当に割腹してしまうのですから、興味よりも恐ろしさの方が先だったことを覚えています。当時は全共闘運動が盛んで、世間では左翼勢力の天下のような雰囲気だったせいか、極右の三島は恐ろしい人だ、憲法が改正され、徴兵制が敷かれ、戦争が始まる、といった恐怖心の方が強かったのでした。(私の少年時代は、親世代の戦争の記憶はまだ生々しく、私自身も徴兵制は復活すると思い込んでいました)

 翌日だったか、クラスの誰かが、朝日新聞の前日の夕刊を持ってきました。総監室で割腹自決した三島と三島を介錯した後自決した森田必勝の二人の首が並んだ写真が一面に大きく掲載されていました。この写真は、カメラマンが敷居の上から当てずっぽうにシャッターだけを押して隠し撮りしたら写っていたらしいのですが、個人的には「どうしてこんな写真を載せるんだろう」という気持ちが強かったでした。

◇50年後を予言した三島由紀夫

 まだ、中学生でしたから、政治も文学も思想も哲学も難し過ぎて関心すらなし。ビートルズやレッドツェッペリンに夢中でした。そのせいか、三島のクーデターまがいの行動には、滑稽と言えば生意気過ぎますが、正直、痛々しさを感じました。バルコニーで演説中は野次が飛び、三島本人も自衛隊員が同調して一緒に決起してくれることを期待していなかったようですし。

 半世紀を過ぎ、三島が生きた45歳をとうに過ぎた今の私は、三島が命を懸けて書いた「檄」文はある程度理解できます。それ以上に、檄文はまるで「予言の書」ではないかと思うようになりました。三島が憂いたように、「自衛隊はアメリカの傭兵」のような存在のままで、今でも莫大な資金でイージス艦など大量の米国製武器を買わされて続けています。日本国民の税金で。

 三島の死後、経済優先の弱肉強食の金融市場主義が蔓延って貧富の格差が拡大し、電車の中で化粧をしても恥とも思わない、三島が予言したような魂の抜けたような日本人ばかりになってしまいました。

 私は高校から大学にかけて、三島の主要作品は読破して、その煌めくような華麗な文体に眩暈し、日本文学史上最高の知性を持った文章家ではないかとさえ思ったことがあります。三島が自決する前夜に「最後の晩餐」をした東京・新橋の「末げん」に食事に行ったり、三島の遺児が成長して開店していた銀座の「宝石店」を探して見に行ったり、三島が夜な夜な通い詰めた新宿のバー「どん底」に飲みに行ったりし、結構、ミーハーなこともやったりしました。

それなのに、最後までアンビバレントの気持ちはなくなりませんでした。純真だった中学生の頃の反発心と、長じて文体に魅了された敬服心という相反する気持ちです。

◇ジャーナリズムの真骨頂

 今は、仮面を被った三島由紀夫よりも、幼少期病弱で祖母に溺愛された本名の平岡公威の方が興味があります。また、農商務官僚で、三島の死後も長命を保った実父平岡梓の方が興味があります。さらに、内務官僚で汚職の嫌疑で樺太長官の職を追われた三島の祖父平岡定太郎の方がもっと興味があります。

 三島のボディビルで鍛えた筋肉隆々で自身満々の姿は、己の弱さを隠すための方便だったのではないかと愚察しています。文学として、三島より、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治の方に私自身が惹かれるのは、後者は、三島のように「弱さ」を隠すことなく、人間の「弱さ」を作品の中で正直に吐露してくれたからだと思います。

 三島没後50年ということで、新聞、テレビ、雑誌等で散々取り上げられ、未だに熱烈な信奉者が多いことも分かりました。でも、11月25日を過ぎれば、取り上げられる機会は減ることでしょう。

 それこそがジャーナリズムの真骨頂です。

哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

伊達政宗の祖先は茨城県人だった=「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」

 「歴史人」11月号(KKベストセラーズ)「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集をやっと読了しました。

 不勉強のせいか、知らなかったことばかりです。特に、東北地方の戦国時代の武将は、伊達政宗と上杉景勝と最上義光ぐらいしか知りませんでしたが、まさに群雄割拠で、他にも有象無象の大名がのし上がっては消える弱肉強食の時代だったんですね。

 知っていたはずの伊達政宗にしても、仙台の青葉城の印象が強すぎて、伊達氏は元々の東北人かと思っていましたら、常陸国伊佐庄中村(茨城県筑西市)出身で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の関東御家人として、奥州藤原氏征伐に参戦し、武功として伊達郡を与えられたため、伊達氏を称したというのです。本姓は「中村」だったといいます。伊達者が絢爛豪華な数寄者の代名詞になっているぐらいですから、他の苗字だとピンときませんね(笑)。

 もう一人、「福島」の地名をつくった木村吉清という人物がおります。この人、元々、丹波亀山の足軽か雑兵出身だったといわれ、俄か大名の典型です。信長に謀反を起こした荒木村重に仕え、彼が失脚した後、明智光秀の家臣となり、本能寺の変にも参戦したといいます。山崎の合戦では羽柴秀吉につき、その戦功により5000石を与えられた、と、サラリとこの本に書かれています。でも、よくよく考えてみれば、本能寺の変から山崎の合戦までわずか11日です。こんな短時間で光秀を見限って寝返ったということになりますが、まさに戦国時代だからこそあり得る話なのかもしれません。もしかして、彼は、相当な忍びの間者を擁していて、秀吉の「中国大返し」のことも、細川幽斎・忠興親子が光秀を見捨てたという情報も得ていたのかもしれません。

 木村吉清は、秀吉による「奥州仕置き」で遠征し、「抜群の功があった」としてその60倍も加増されて東北の大大名になりますが、家臣団は浪人・無頼者出身が多く、暴政を敷いたため、地元の葛西氏や大崎氏の残党も加わった一揆で失脚します。一揆の背後で、伊達政宗が糸を引いていたとも言われています。その後、吉清は、嫡男清久とともに、蒲生家の与力として遇されて、信夫郡杉目5万石を与えられ、吉清は、この杉目の地を福島と改名したといいます。

 ちなみに、吉清の嫡男木村清久は、最期まで秀吉の恩を忘れなかったのか、大坂の夏の陣で討死しています。

 ◇尼子の悲劇

 このほか、中国地方で毛利元就・輝元に滅ぼされた出雲地方の大名だった「尼子の悲劇」があります。尼子義久・勝久に仕えた重臣で「尼子三傑」の一人、山中鹿介(やまなか・しかのすけ)は、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が有名ですが、今では知る人は少ないでしょう。

 また、戦前の修身などの教科書では、楠木正成・正行父子が訣別する「桜井の別れ」が必ず取り上げられ、知らない人はいなかったと思われますが、「忠君愛国」思想を教育するのにちょうどよかったのかもしれません。このように、歴史の常識というのは、解釈の面で、時代によって変わっていくものだということを思い返し、この本を興味深く拝読致しました。

 それにしても、戦国史ですから、人間の本性が剥き出しです。疑心暗鬼から、離合集散あり、裏切り、寝返り、下剋上ありの何でもあり、しかも殺戮の仕方があまりにも残酷で、つくづくこの時代に生まれなくてよかった、と改めて天に感謝しております。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(下)=本能寺跡~勝竜寺城~明智藪~関ケ原合戦地跡

関ケ原古戦場で甲冑姿で身を包む若武者たち

2020年11月8日(日) 「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」の三日目、最終日です。よくぞ茲までついてきて下さいました。読む方は大変でしょうが、書く方はもっと大変なのです(笑)。

 京都市西院のホテルを朝8時半にバスで出発し、10分ほどで「本能寺の跡」(京都市中京区山田町油小路通)に到着しました。

 御池通りを挟んで、京都市役所の真向かいにある本能寺(京都市中京区寺町通御池通下ル)には、私も中学校の修学旅行以来、何度も訪れていますが、ここは初めてです。

 でも、こちらの方が、実際に「本能寺の変」があった本物なのです。

 2005年に出版され、時の小泉首相も感動したということでベストセラーになった加藤廣著「信長の枷」でも詳述されていましたが、ここから西へ歩いて4~5分のところに南蛮寺という伴天連の寺があり、本能寺から南蛮寺に行くことができる秘密の抜け穴があったといわれます。

 この抜け穴は、本能寺の変の時、塞がれていて、信長は脱出できなかったといいます。そして、この秘密の抜け穴の在り処を知っていたのは、羽柴秀吉と徳川家康ぐらいだったことから、本能寺の変の黒幕説として、秀吉と家康の名前も挙がっているのです。(ほかに、光秀怨恨による単独説、四国の長曾我部元親黒幕説、将軍足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説などあり、何冊も本が書けます)

 この本能寺は、変の後に、秀吉らによって今の京都市役所向かいの地に移転・再建され、南蛮寺は、秀吉の伴天連追放令で廃寺となります。

 今、「本能寺の跡」地には介護の「デイケアセンター」が建っておりました。碑の本能寺の「能」のつくりは、ヒ(火)が二つではなく、「火よ去れ」という意味を込めて、「去」になっています。

 本物の「本能寺跡」(京都市中京区山田町油小路通)を後にして、現在ある「本能寺」(京都市中京区寺町通御池通下ル)に移動しました(バスで10分ほど)。法華宗大本山です。中学生の頃は、無邪気にも、ここで「本能寺の変」があったと思っていました。

  境内には「信長公廟」がありますが、本能寺の変後、信長の遺骸は見つかっていません。だから、小説などで、信長は、抜け道を通って逃れた、などといった話が描かれるのです。

 本能寺からバスで40分ほど掛けて南西に向かったのは勝竜寺城跡(京都府長岡京市勝竜寺)です。「明智光秀 最期の城」と言われています。

 備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉は、1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変の報せてを受けて、急遽、毛利軍と和睦して「中国大返し」で京に戻ります。これを受けて、光秀は6月13日に摂津国と山城国の境に位置する天王山の麓の山崎での合戦に挑みましたが、兵力に劣り、敗退します。信頼する盟友細川藤孝(幽斎)や筒井順敬らの積極的な支援を得ることができなかったことが光秀にとっての痛恨の極みでした。(明智光秀は「三日天下」と習ったことがありましたが、実際は「十一日天下」でしたね)

 残りの手勢とともに、この勝竜寺城に戻った光秀は、密かに裏門が逃れ、再起を懸けて、自分の城である坂本城(滋賀県大津市)に戻ろうとします。しかし、後からもう一度出てきますが、その途中の明智藪(京都市伏見区小栗栖)で、落ち武者狩りの農民らによって殺害されてしまいます。

 勝竜寺城は1571年(元亀2年)、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を本格的な城郭につくり替えたものです。

 1578年(天正8年)、細川藤孝の嫡男忠興と、明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)との婚礼がこの城で行われたということで、二人の像も城内にありました。

 幽斎と号して文化人でもあった細川藤孝は、この城で、茶会や連歌会、能、囲碁会などを催したと言われます。

 また、これまでの中世の城とは一線を画し、天守や石垣、瓦葺などは後世の城郭づくりに関して、諸国の大名に大きな影響を与えたといいます。

 話は遡りますが、光秀が本能寺の変を起こす一週間ほど前の5月28日、丹波亀山城近くの愛宕神社での連歌会に参加し、

 ときは今 あめが下知る 五月かな

 という意味深な歌を詠みます。

「とき」とは光秀出身の美濃守護土岐氏のこと、「あめが下知る」とは天下に命じる、と解釈する人もいます。しかし、これから自分が謀反を起こすことを連歌会で示唆するわけがなく、こじつけに過ぎないという識者もおります。

 ところで、石垣といえば、大津市坂本の石工集団・穴太衆が有名です。穴太衆と書いて「あのうしゅう」と読みます。もし、御存知なら貴方もかなりのお城通です。粋ですね。

 穴太衆が手掛けた石垣は、安土城、彦根城、竹田城、姫路城などがありますが、現在も、その子孫が「粟田建設」(大津市坂本)として存続しているといいますから驚きです。中国や米国など海外でも石垣づくりや修復を手掛けているそうです。

勝龍寺本堂

 ついでに、勝竜寺城から歩いて数分のところにあり、お城の名前の発祥ともなった勝龍寺にもお参りしました。

 806年(大同元年)、空海(弘法大師)が開基したといわれる真言宗の古刹でした。山崎の合戦(もしくは天王山の戦い)で、この辺りは多くの戦死者が出ていたわけですから、彼らのご冥福をお祈り致しました。

 勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)から明智藪(京都市伏見区小栗栖)と呼ばれる明智光秀最期の地を訪れました。バスで1時間ぐらいでしたから、馬なら2~3時間ぐらいだったかもしれません。

 光秀が無念の最期を遂げたのがこの辺りだったと言われます。

 ここは、京都市地下鉄東西線「醍醐駅」から住宅街の狭い道を通って、歩いて20分ぐらい掛かると思います。醍醐といえば、豊臣秀吉が全盛期で最晩年の1598年(慶長3年)4月に豪勢な花見会を開いた醍醐寺があります。何か不思議な縁ですね。

日蓮本宗 本経寺

 実は「明智藪」を450年近くも管理してきたのが、この近くの本経寺さんでした。日蓮本宗で1506年に創建されました。上の写真の通り、境内には「明智日向守光秀公」の供養塔がありました。

 主君信長の逆臣とはいえ、明智光秀は「ゆかりの地」では大変尊崇されていることがよく分かりました。

 でも、光秀の暗殺者たちは、どうやって情報をつかんだんでしょうか?インターネットやスマホがない時代です。当時は、文(ふみ)と立札と口コミぐらいしかないはずですが、情報伝播の素早さには驚くばかり。秀吉軍も光秀軍もお互い間者(スパイ)を養成して相手の動きを探っていたことは確かでしょうが、現代人以上に優秀だったのかもしれません。とにかく命懸けですから。

「明智藪」からバスで1時間ほど、山科から近江へ東を走り、最後の目的地、美濃の「関ケ原合戦地跡地」(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着しました。一度は訪れてみたいと思ってましたが、やっと実現しました。

 光秀公暗殺から18年後の1600年10月21日(慶長5年9月15日)、徳川家康軍(東軍)と石田三成軍(西軍)が激突した「天下分け目」の戦場です。

 東軍8万、西軍10万(諸説あり)。わずか半日で決着がついたと言われてますが、もっともっとだだっ広い原野を想像していました。

石田三成陣跡
三成の軍師島左近の陣地跡
家康が敵の大将の首実検をした所

 関ケ原の合戦については、多くの書物が書かれ、ドラマや映画にもなっているので、御説明はいらないかと存じます。

 上の写真の「あらまし」をお読みください。

 歴史にイフはありませんが、「もし西軍の小早川秀秋が裏切らなければ…」「もし西軍の島津義久が薩摩に敵前逃亡せず、最後まで戦っていたら…」などと考えたくなります。

 でも、石田三成が天下を取った政権は想像もつきませんね。三成は、家康のように狡猾ではないので、秀頼公を奉じて豊臣政権を長く続けさせたかもしれません。

 そうなると、首都は大坂で、大坂城が日本の中心。日本の植民地化を狙うスペインや交易で国威発揚を狙うオランダ、幕末に米国の黒船が襲来したらどう対処いたのでしょうか。うーむ、創造力がないのか、やはり、徳川江戸幕府しか想像できませんね。

 以上、3回にわたって「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」を報告してきました。歴史物語とも旅行記とも随筆とも、何にも当てはまらない中途半端なリポートでしたが、最後までお読み頂き、誠に有難う御座いました。

関係者や御協力者の皆様にはこの場を借りて、改めて感謝申し上げます。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(中)=西教寺~坂本城跡~丹波亀山城~福知山城

福知山城

 2020年11月7日(土)、光秀ゆかりの地行脚二日目です。

 まず、大津市坂本にある西教寺をお参りしました。明智光秀一族の菩提寺です。

 日本最大の湖、琵琶湖の南部の「ほとり」にありますが、前夜泊まった北部・長浜市の「対岸」にあり、バスで1時間半も掛かりました。

 この大津市坂本は、琵琶湖のほとりであると同時に、比叡山の「麓」でもあります。織田信長は1570年、敵対する比叡山延暦寺の焼き討ちを断行します。家臣である明智光秀は不本意ながらも参戦し、この西教寺も延焼させたといわれます。その後、信長により坂本の地を与えられた光秀は、いち早く、この西教寺を再興するのです。

西教寺総門 坂本城大手門を移築したものと伝わる

 いやあ、思いのほか広い境内でした。聖徳太子が恩師である高句麗の僧慧慈、慧聡のために創建したと伝えられる古刹です。

 さすが全国に400余りの末寺を持つ天台真盛宗の総本山だけあります。

 この唐門の軒に、何と麒麟の彫刻が見られます。明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」はフィクションですが、当時も、架空の動物ながら麒麟の存在を知られていたのかもしれません。

 西教寺境内にある明智光秀一族の墓です。

 我々はこの日の翌日に、光秀が殺害された「明智藪」(京都市伏見区小栗栖)を訪れましたが、光秀の遺骸はここまで運ばれたということなのでしょう。この寺は、先に亡くなった光秀の最愛の妻煕子(ひろこ)さんと実家の妻木家(美濃守護土岐氏の家臣)の墓もありました。

  光秀の墓と比べると煕子さんの墓はとてもこじんまりとしていました。戦国時代は、妻の葬儀に夫は参列しないという風習がありましたが、光秀は旧習を破って参列したと言われています。

 「煕子」という名前は、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」で広く知られるようになりましたが、それ以前は「お牧(槙)の方」の名前で通っていたようです。享年も46や36など諸説あります。

 西教寺の本堂です。本堂内には立派な阿弥陀如来坐像(重要文化財)が鎮座されておりました。

 境内の庭園も素晴らしく、一度は訪れたい寺院だと思います。何しろ総本山ですからね。渓流斎のお墨付きです。 

坂本城 本丸跡

 西教寺の後、坂本城に向かいました。この地を信長より下賜された明智光秀が1571年(元亀2年)に築城しましたた。宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」では、「安土城に次ぐ天下第二の城」と評されたらしいのですが、今は全く面影なし。

 石垣も今では琵琶湖の奥底に沈み、よほどの干潮でない限り、見られないそうです。上の写真を見ても、ここに本丸があったことなど誰も想像できないでしょう。看板すらありません。

 なぜなら、ここは今ではタッチパネルなどを製造するITメーカー、キーエンス(大阪市東淀川区)の保養所になっているからです。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放送される来年2月ぐらいまで、特別許可として私有地を観光客向けに公開してくれているのです。

 ということは、来年2月以降は、関係者以外立ち入り禁止になります。団体ツアーに参加してよかったと思いました。

 キーエンスは「日本一給与が高い」という一流企業ですが、勤務時間も長いという噂がありますね(笑)。

 坂本城の本丸ではなく、二の丸辺りが城址公園になっていました。

 城址公園にはこのように明智光秀の銅像があります(これからも出てきますが、他の城址公園にも結構、明智光秀像がありました)。

 坂本城を築城した頃の光秀は43歳。それぐらいの年齢の頃の像なのでしょう。

上の写真は、坂本城の三の丸あたりにあった碑です。

 ご興味のある方は、説明文もお読みください。

 また、大河ドラマの幟が立ってますね。NHK畏るべし。

 お昼は、びわ湖楽園ホテルの湖国御膳(滋賀県の郷土料理)でした。鮎、近江牛…料理長さんらしき方がメニューを紹介してくださいました。

 鴨肉が美味しかった。関東で食べる鴨は結構堅いですが、こちらはすごく柔らかくてハムのようでした。ご飯もおかわりしてしまいました。

 昼食会場のびわ湖楽園ホテルから西へ50分ほどで、丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町)に到着しました。

 明智光秀が1577年(天正5 年)頃、丹波攻略の拠点とするために築城しました。明治維新後、廃城となり、すかり荒廃してしまい、所有者も転々としたことから、大正期に新興宗教の大本教の教祖出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう=1871~1948)が購入し、大本教の教団本部となって現在に至っています。

 城址公園内には、またこうして明智光秀像がありました。こちらは、逆算すると、光秀49歳ぐらいの時の像と思われます。

 上の写真が、現在の大本教の教団本部です。かつて丹波亀山城の本丸があったところです。

 教団本部の中には書店もあり、出口王仁三郎の主著「霊界物語」全81巻もありました。いつか読んでみたいと思っています。

 というのも、元毎日新聞記者の早瀬圭一氏が書いた「大本襲撃」(2007年初版・毎日新聞社)を読んで感動したからでした。

 こうして、神聖なる教団の敷地を、物見遊山の一般客にも開放してくださることも凄いと思っております。

 ですから、私自身が大本教に入信することはありませんが、全く偏見はありません。

 上の写真の説明文にある通り、出口王仁三郎が大正末にこの地を購入した時、城址の痕跡すらほとんど残っていなかったようです。

 教団信者がそろって、汗水たらして、石を積み重ねて、当時の有り様を復元したようです。

 しかし、大正末から昭和初めにかけて、大本教は二度も時の政府官憲から襲撃され、徹底的に破壊されます。せっかく積み上げた石垣もです。宗教弾圧です。

 上の写真を見ると、石垣は苔むして、明智光秀が築城した450年前の頃のものに見えますが、実は、二度も大本教団本部が破壊されたため、戦後まもなくに復旧復興されたものです。

 それを考えると、あまりにも凄い。出口王仁三郎の明智光秀が築城した亀山城を是が非でも復元したいという執念が伝わってくるようです。

 ちなみに、丹波亀山城のある亀岡市の亀岡駅は、JR山陰本線の快速で京都駅までわずか20分。通勤圏になっているそうです。

 また、この近くの湯の花温泉には、ジョン・レノンと小野洋子夫妻がお忍びで訪れたらしいですね(笑)。

 丹波亀山城を後にして北西に向かったのは、この日最後の予定の福知山城(京都府福知山市)です。バスで1時間5分ほどの距離でした。

 福知山城は天正7(1579)年、丹波を平定した明智光秀が築城しました。明治維新後、廃城となり、石垣と銅門番所だけが残っていましたが、1986年に市民の瓦1枚運動などで三層四階の天守閣が復元されました。内部は明智光秀に関する資料や福知山地方の歴史や文化財を紹介したパネルなどがありました。

 財団法人日本城郭協会による「続 日本の名城100」にも選出されています。スタンプの台帳も家から持ってきたのに、浮かれていたのか、バスの車内に台帳を置いたまますっかり忘れてしまいました。嗚呼、残念!!

 明治になって廃城になっても石垣は残ったということで、光秀時代の石垣です。

 この写真の右上に模様のついた変な直方体の石が見えます。これは何と、墓石から転用されたらしいのです。

 領民をあまり苦しめたくないという明智光秀の配慮で、近場にある、利用できるものは何でも利用しようといった作為の現れのようです。

 主君織田信長を暗殺した逆賊のイメージが強かった明智光秀ですが、地子銭の免除や治水事業など善政を行い、領民たちには優しかった面があり、福知山では今でも光秀を慕う「福知山音頭」が歌い継がれているという話です。

 そこで思い出したのが、「忠臣蔵」では悪役の吉良上野介です。この高家旗本吉良義央は、「悪の権化」のように描かれています。私はもう30年近い昔、彼が治めた吉良町(現愛知県西尾市)を取材で訪れたことがありますが、地元では、灌漑用水を整えたりした領民思いの領主だった、と言い伝えられ、今でも尊敬されていました。

 歴史の解釈って多面的に複層していて、分からないものですよ。一方的、皮相的に見てはいけないという教訓です。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(上)=桶狭間古戦場~織田信長公居館跡~岐阜城~長浜城

岐阜城

 「机上の空論」といいますか、あまり本ばかり読んで知ったつもりになるのも如何なものか、と思い直し、城巡りの現地取材に飛び出しました。

 ちょうど、今年はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、主人公の明智光秀が脚光を浴び、再評価されていることもあり、それに便乗した団体ツアーに単独で潜り込むことに致しました。

 えっ?こんな東京では新型コロナの感染者290人前後も続出して、第2波襲来、第3波襲来と言われている最悪の時期に? 国賊ものですねえ。

 いえ、違います。むしろ国粋愛国主義者ですよ(笑)。我が日本国政府が強引に推し進めている「Go to トラベル」キャンペーンに身銭を切って参加したのですから。二泊三日の旅行でしたから、1泊に付き1万4000円の支援が頂けることから2泊で2万8000円(その分、旅費代割引かれて8万4000円に)。これに、現地(滋賀県、京都府など)で使える地域共通クーポン計1万2000円分も貰えましたから、合計4万円もの国家予算を拝受しての大名旅行でした。企画した旅行代理店は、非常に気を遣って、参加者には毎朝、健康チェックシートを提出させて検温し、バスに乗るたびにアルコール消毒を義務化しておりました。

 団体ツアーの参加者は18人。一人参加は男女各4人でした。小学校2年生ぐらいのお子様が参加していることには吃驚しました。平日ですから、学校を休んだのかしら? 「長篠の戦い」がどうしただの、と子供らしくない老成したことを漏れ聞いてしまい、怖くなって敬ってずっと遠くに離れておりましたから、どういうお子さんなのか不明ですが。

 それよりもっと驚いたのは、91歳の男性が参加していたことです。「昭和4年2月生まれ。若い頃は、水泳の選手で、古橋広之進と一緒に泳いだことがあるよ。クレージーキャッツの犬塚弘とは同級生だよ」。どこまで真実か分かりませんが、年齢的にはぴったりです。足腰がしっかりしていて、普通に歩いていたので、80歳ぐらいかと思ってました。

2020年11月6日(金)第1日

 最初に訪れたのが、桶狭間の戦いの古戦場です。

 今は住宅街に囲まれた記念公園になってますが、意外にも拍子抜けするほど小さいので吃驚しました(驚いてばかりですねえ)。

 桶狭間の戦いは、明智光秀の主君織田信長が1560年、この地で駿河・遠江・三河の守護今川義元の大軍を破り、天下に名を轟かせた歴史的合戦です。 義元殿、打ち死に。

 当時の信長26歳。小国・尾張の守護代の家臣から成り上がったまだ無名の若造で、対する今川義元は名門中の名門の駿府の守護職である大大名。格式が違います。信長の軍勢は今川の10分の1の2000ぐらいだったと言われますが、奇襲作戦が成功します。合戦当日は雷雨があり、今川軍は刀剣武器を雷から避ける目的で他に収容していたため、戦闘準備に手間取り、それが敗因の一つになったとも言われています。いずれにせよ、今川は、田舎侍の織田の「大うつけ」を甘くみていたことは確かでしょう。

桶狭間で勝った信長は、天下覇者の有力候補として全国デビューしたわけです。

 次に訪れたのが、織田信長公居館跡。岐阜城がある金華山の麓にあります。

 2年ほど前に、この地を訪れたことがありますが、見違えるほど変わっておりました。居館跡らしく整備されておりました。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」効果なんでしょうね。恐るべし。

大河ドラマ館も見物しました。

ミニチュアの三重塔や居館の庭園なども再現されていました。

 こんな門兵がいる立派な?居館への門など2年前はありませんでしたからね。

 NHKの威力は大したものです(笑)。再び、恐るべし。

 ロープウェイを使って金華山頂上付近にある岐阜城へ。

 元の名前は稲葉山城。信長の舅である斎藤利政(道三)が1539年に本格的な城づくりを始めます。詳細については、上の写真の看板にある説明書をお読みください。

岐阜城 1956年復元

 1567年、信長は、美濃攻略で、稲葉山城を攻め落とし、本拠地を小牧山城からこの地に移転します。その際、古代中国の周王朝の文王が岐山によって天下平定した故事にちなんで、城と町(井ノ口)の名前を岐阜と改名するのです。

 1日目の滞在先は、滋賀県長浜市内のホテル。夕食のメニューは高級料亭並みで、今まで参加した団体ツアーで出た食事の中でも、最高級の部類でした。ビール中瓶907円は、クーポン券で(笑)。

長浜城 1983年復元

 ホテルの目の前が長浜城がある豊公園になっていて、ツアーのコースになっていなかったので、夜、一人で散歩がてら行ってみました。公園内は、足元もおぼつかないくらい真っ暗闇で、人もほとんどいなく、お化けが出て来るような薄気味悪さを感じましたが、7分ほどで辿り着けました。

 長浜城は1573年、浅井長政攻めで戦功のあった羽柴(豊臣)秀吉が信長からこの地を拝領し、築城したものです。1582年の本能寺の変の後は、柴田勝家一族の領地となり、翌年の賤ケ岳の戦いの後は、秀吉の子飼いの山内一豊が入城します。

 山内一豊は妻の方が有名ですが、(笑)小田原征伐の後、掛川城主となり、関ケ原の戦いでは東軍徳川方に与し、戦功により初代土佐藩主となります。

 幕末には第十五代藩主山内容堂が活躍するのは皆様ご案内の通り。

しこりを残した浄土真宗本願寺派と高田派の争い=北陸の戦国興亡史

 昨日も取り上げた「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集ですが、全国でも異彩を放っているのが「『北陸』の戦国興亡史」です。文明6年(1474年)、加賀の守護富樫氏の家督相続争いに浄土真宗の本願寺派(一向宗)と高田派が分かれて戦い、弱体化した富樫氏を凌駕して本願寺の「加賀三箇寺(さんかじ)」(本泉寺、松岡寺、光教寺)が北陸の支配権を確立したりするからです。

 宗教とは何か、と思ってしまいますね。この本には軍事的戦略について詳細されていませんが、お寺のお坊さんや門徒たちが、武士という軍事専門集団に互角かそれ以上に戦って勝ってしまうということは、僧兵などという生易しいものではなく、武士と同じような鎧兜で武装し、弓矢や刀剣などの軍備は、武装集団以上だったのかもしれません。(一向一揆は農民だけでなく武士も参戦したようです)

 人を殺めることは仏教の戒律に反するはずですが、破戒してもそれに見合うメリットがあったからなのでしょう。寺院による支配権・自治権を持つということは経済的基盤を確立するということに他ならないからでしょう。寺社領から収穫される農作物を取り立てたり、領民から税を徴収したりしていたに違いありません。

 いずれにせよ、北陸地方は、他の日本各地と比べて、異様です。戦国武将同士だけの戦いではなく、浄土真宗の門徒らが参戦した三つ巴、四つ巴の争いで複層しています。そして、一向宗一揆が強かったのは、門徒たちが「死ねば極楽浄土に行ける」と信じて、命知らずにも勇敢に戦ったせいなのかもしれません。

「北陸」の戦国興亡史を年表風にするとー。

1474年 応仁・文明の乱で東軍に属した加賀の守護富樫政親(まさちか)が、西軍に属した弟の幸千代(こうちよ)と家督争い。本願寺派を味方につけた政親が、高田派の専修寺を味方につけた幸千代を追放。

1475年 越前朝倉孝景、権勢を強めた本願寺派8世蓮如の吉崎御坊を攻め落とす。蓮如、吉崎を去り、山科に本願寺建立。

1487年 富樫政親が本願寺派の弾圧を始めたため、加賀一向一揆が勃発。本願寺派は政親居城の高尾城を落とし、政親自害に追い込む。

1493年 明応の政変。10代将軍足利義稙(よしたね)が畠山政長らを率いて、畠山義豊(義就の嫡男)を追討するために河内に出陣。その間隙に、細川政元が義稙と対立していた足利義澄を11代将軍に擁立。畠山政長、自害。

1506年 本願寺派加賀本泉寺の蓮悟、本願寺派9世実如(蓮如の第8子)の支援を仰ぎ、11代将軍義澄を擁す細川政元の要請で越前侵攻。10代将軍義稙を匿う越前の朝倉貞景、本願寺派と対立する高田派の勝鬘寺、本流院、称名寺などを味方につける。朝倉貞景、不意討ちで本願寺派の門徒を一掃。

1507年 細川政元、暗殺死。政元の養子澄元(11代将軍義澄派)と高国(10代将軍義稙派)の覇権争い。澄元の子晴元が高国を敗死に追い込み、12代将軍義晴を擁立。一向一揆の強大化を怖れた晴元、法華宗と結び、山科本願寺を焼却。本願寺派10世証如(実如の孫)、大坂の石山本願寺に移る。(後に織田信長が石山本願寺を攻略し、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を建立することになります)

 以下略

 こうして見ると、同じ浄土真宗でも本願寺派と高田派は敵・味方に分かれて血と血で争う歴史があったことが分かります。

 学生時代の親友T君は神童で、中学校は三重県の地元の名門高田中学に通いましたが、この学校は浄土真宗高田派の学校でした。授業で宗教の時間があり、親鸞聖人の教えは熱心に教えてくれましたが、本願寺の話になると、「そういうものもある」と大変素っ気なかったんだそうです。浄土真宗といえば、西本願寺と東本願寺と築地本願寺ぐらいしか知らない人にとっては驚きです。

 でも、こうして歴史を見ると謎が解けましたね。先生は、550年も昔に起きたこと(本願寺派と高田派専修寺との争い)を忘れていなかったということなのでしょうね。

「戦国武将の国盗り変遷マップ」が面白い=「歴史人」

 今、とてつもない本を読んでいます。本というより雑誌ですが、永久保存版に近いムックです。「歴史人」という雑誌の11月号(KKベストセラーズ)で「戦国武将の国盗り変遷マップ」という題で特集しています。本屋さんでたまたま見つけました。(執筆は小和田哲男静岡大名誉教授ら)

 知らなかったことが多かったので勉強になります。私は、全国の「お城巡り」を趣味にしているので、大変参考になります。

 私自身の見立てですが、日本の歴史の中で、最も興味深い時代は、何と言っても「戦国時代」だと思っています。だから、多くの作家が戦国ものをテーマにしたり、NHK大河ドラマでもしばしば扱われたりするのです。人気面でも戦国時代がナンバーワンでしょう。これに続くのが、「幕末・維新」と「古代史」でこれでベスト3が出そろった感じです。

 そう言えば、「維新の三傑」と言われた人物でも、やはり戦国時代の信長、秀吉、家康の三巨頭と比較されると見劣りします。人間的スケールの大きさが違います。殺すか殺されるか生死の境目で生きざるを得なかった過酷な時代背景が戦国時代の英傑を産んだともいえます(幕末もそうですが)。勿論、個人的には一番生まれたくない時代ですけれど(笑)。だからこそ、憧れのない代わりに、そんな過酷な生死の境を生き抜いた英傑には感服してしまうのです。

 戦国時代とは、応仁の乱(1467年)から大坂の陣(1615年)までの約150年間を指します。まさに下剋上の時代で、食うか食われるかの時代です。臣下にいつ寝首をかかれるか分かりません。本書は「戦国武将の国盗り変遷マップ」と称していますから、時代ごとの勢力地図が示されて、その分布が一目で分かります。

 例えば、小田原北条氏の三代目氏康は、1546年の河越合戦(埼玉県川越市)で勝利を収め、扇谷上杉氏を滅亡させ、古河公方や関東管領家を弱体化することによって、ほぼ関東全域の支配権を確立します。しかし、氏康は1559年に氏政に家督を譲った後は、上杉謙信の侵攻に悩まされ、一時期は、北条氏の関東の領土は奪われて半減したりすることが、マップで一目瞭然で分かるのです。(氏政は後に奪還して北条氏の最大の領地を拡大しますが)

 内容は大学院レベルだと思います。私が学生時代に習った北条早雲は、出自の分からない身分の低い成り上がり扱いでしたが、実は、室町幕府の申次衆という高い身分の伊勢氏出身で、最近(とは言っても数十年前)の研究で、伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)だったことが認定されました(北条に改名したのは二代目氏綱から)。早雲の姉(または妹)の北川殿が駿河の守護今川義忠に嫁いだことから、早雲も京都から駿府に下り、家督争いになった今川氏のお家騒動に積極的に関わり、氏親~義元の擁立に貢献します。戦乱の絶えない世で、今川家の軍師として活躍し、後に小田原を中心に、今川家をしのぐ領土を拡大していきます。

 一方、九州の戦国武将は、島津氏や大友氏、大内氏ぐらいしか知りませんでしたが、佐嘉(佐賀)城を本拠地にした龍造寺氏が北九州で勢力を誇り、一時「三国鼎立」時代があったこともこの本で知りました。特に、龍造寺隆信(1529~84)は「肥前の熊」の異名を取り、少弐氏(冬尚)を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築きましたが、島津・有馬氏の連合軍との沖田畷の戦い敗れ、滅亡します。(代わりに肥前を治めたのが、龍造寺氏の重臣だった鍋島氏。ちなみに、お笑いの「爆笑問題」の田中裕二氏の祖先は、この龍造寺氏の家臣でしたが、敗退後に田中氏は武士をやめて帰農したことをNHKの番組でやってました)

 また、他の日にNHKで、専門家による戦国時代の最強武将を選ぶ番組をやってましたが、九州一の武将は立花宗茂が選ばれました。えっ?誰? 彼は大友家の猛将、高橋紹運の長男で、同じく大友家の重臣立花道雪の養子になりましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に就いたため、改易されました。しかし、余程人望が高かったのか知略を怖れられたのか、二代徳川秀忠の時代に筑後柳川城主に復帰します。でも、この人、この雑誌ではちょこっとしか出て来ないんですよね。大きく取り上げられているのが、島津家の領地を拡大した島津4兄弟の義久と義弘です。この2人なら、さすがの私でも知っています。

 日本史上最大、最高の「成り上がり」は、武士でもない庶民から関白の地位にまで上り詰めた豊臣秀吉でしょうが、織田信長も、尾張の守護斯波氏の守護代の家臣からの成り上がりで、徳川(松平)家康も、三河の守護細川氏の家臣からの成り上がりで、名を残した戦国大名のほとんど(毛利元就、松永久秀らも)が室町時代の権威(守護職)を下剋上で倒して成り上がったことがよく分かります。

 ついでながら、前半で、畠山政就⇒畠山義就、細川勝元⇒細川政元といった明らかな単純ミスが散見し、どうなるかと思いましたが、それ以降はあまり誤植もないようです。

言語は世界制覇の最大の武器

昭和10年創業らしい「かいらく」 もやしそば 700円

 人間、否が応でも、政治や経済や社会の影響なしでは生きてはいけないということは自明の理です。でも、それ以上に重要なことは、日ごろ安易に感じられがちな文化だと私は思っています。文化の中でも最も大切なものは、言語です。

 言語は単なるコミュニケーションの手段だと、またまた安易に考えられがちですが、人間は言語によって思考したり、言語によって感情を表現したりする極めて重要なツールなのです。つまり、言語は世界制覇の最大の武器になるのです。

…なぞと、いつもながらの渓流斎ブログらしく、ややこしい前触れから始めましたが、何でこんなことを考えたかと言いますと、欧米が中国の「孔子学院」を相次いで閉鎖している、という記事を読んだからです。

 孔子学院とは、中国教育省傘下の孔子学院本部(北京)が海外の大学構内に設置しているもので、教師や教科書は中国から提供され、運営費の半額は原則的に中国が負担しているといいます。今年10月の時点で、世界162カ国・地域で計541校も開校しているといいます。

 しかし、ここに来て、中国が香港やウイグル、内モンゴルなどに強権的政治力を発動し、人権問題になったりしたことから、欧米を中心に反発が広がり、閉鎖される傾向が続いているといいます。そうでなくても、もともと孔子学院は中国政府のプロパガンダ(政治宣伝)機関かスパイ養成機関ではないかといわれるような疑心暗鬼があったことから、拍車が掛かったようです。

 私自身は、孔子学院でどのような教科書が使われているか知りませんが、中国国内でネット検索すらできない「天安門事件」や「香港国家安全維持法」などは取り上げられていないと想像しています。

実家の老親がやっと退院できるようになりましたが、条件はこのように家内に介護環境を整えることでした

 10月28日付産経新聞は「スウェーデン 対中感情悪化=欧州で突出 香港人権問題契機に」という見出しで大きく報道していました。中国共産党の批判書を扱い閉店に追い込まれた香港の「銅鑼湾書店」の親会社の大株主でスウェーデン国籍も取得している桂民海氏が2018年、中国本土で警察に拘束されたことが関係悪化の契機だったといいます。

 スウェーデンは、国内に8カ所ある孔子学院を全て閉鎖し、携帯電話の5Gで中国のファーウェイの機器の使用を禁止したといいます。

 産経の記事だけを読んでいる限り、「そうですか。中国って悪い国ですね」と言いたいところですが、少し冷静になってみると、そう言い切れないところがあります。この深層に、今年新たに孔子学院を2校閉鎖し、最大120校あったものを現在、81校に減少させた米国と、政治的、経済的に世界制覇を狙う中国との覇権争いがあるからです。つまり、善悪で捉えてはいけないということです。中国が一方的に悪で、米国が善というわけではないのです。言ってみれば、サバンナの弱肉強食の世界です。

 スウェーデンにしたって、2000年初めまでは、経済大国であり、ノーベル賞学者を多く輩出する日本を重視し、多くの日本語講座を設けていたのに、中国が経済発展すると、手のひらを反すようにして、日本語学校を閉鎖・追放して中国語講座を設けるようになったという話を以前、スウェーデン留学歴のある学者に聞いたことがあります。

 正確な引用ではありませんが、勝海舟は毀誉褒貶がある人とはいえ、日清戦争が起きる前、「あれだけ、昔はお世話になったのに、支那(中国)がかわいそうじゃないか」と言って、戦争に反対したと言われてます。

 古代に仏教(漢訳経典)も、稲作灌漑技術も中国大陸から渡ってきたものです。何と言っても、日本語の根幹となった漢字の導入があります。ベトナムや韓国北朝鮮は漢字を棄てましたが、「優等生」の日本は漢字を棄てず、今でも漢字なしでは日本語は語れません。日本人は漢字なしでは思考すらできません。

 尖閣諸島に出没する中国船の話などが連日報道され、世論調査でも中国に対する好感度が極度に下がっています。しかし、隣国として将来に渡って付き合わざるを得ません。

 そう言えば、日本のメディアの中国報道はネガティブなものが多い気がします。それが日本人の対中感情の悪化の原因の一つになっています。

 正直、私自身も皆さんと同じように、今の中国のことを大好きにはなれませんが、何事もほどほどに。欧米だけが一方的に正しいというわけではないのです。「中庸の精神」が大事だと私は思っています。