🎬「スパイの妻」は★★

 ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した話題作「スパイの妻」(黒沢清監督作品)を大いに期待して観に行ってきました。

 劇場に着いたら、超満員の観客が列を作ってました。私は事前にネットでチケットを購入していたので安心していましたが、なかなか入り口に辿り着きません。

 「えらい人気だなあ」と思ったら、この作品ではなく、今、子どもから大人まで大人気のアニメ?「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」の観客でした。この映画館だけで、この作品を週末は1日15~20回ぐらい上映しているらしく、三密状態で押し合いへし合いでした。

 私は全く興味がないので、漫画なのかアニメなのかよく分かりませんけど、恐らく今年一番の観客動員数を記録することでしょう。

 私の目当ての「スパイの妻」は、7割ぐらいの観客入りといったところでした。

 最初に書いた通り、大いに期待して観たのですが、ガッカリでした。「サスペンス」と称していますので、あまり詳しく内容には触れられませんけど、サスペンスにしては、驚くほど緊迫感はありませんでした。

 「回路」「トウキョウソナタ」などで知られる黒沢清監督も今年65歳となり、もう巨匠です。東大総長も務め、立教大学時代、黒沢監督の師匠に当たる有名映画評論家が、この作品を大絶賛する映画評を新聞に書いてましたが、それほど傑作とは思えませんでした。

 「何でかなあ」と自問してみましたが、はっきりした回答は出てきません。恐らく、もう少し、細部に拘ったドキュメンタリータッチの作品を期待していたのかもしれません。太平洋戦争前夜という緊迫した時代を背景に、神戸の商社社長である主人公福原優作(高橋一生)が、満洲(現中国東北部)に商用で出張した折に、国家機密の情報を知り得てしまうという話で、この映画を観る前、「一体何の話なのか」と思っていたら、結局、「何だ、その話でしたか」という意外性がなかったことで失望したのかもしれません。(その国家機密は、ハルビン郊外の話ですが、映画では新京は出てきてもハルビンのハの字も出てきませんでした。あ、あくまでも映画でしたね)

 この映画は、「スパイの妻」聡子役の蒼井優を中心に描かれた作品ということになるでしょうが、あまりにも彼女の顔のアップシーンが多い気がしました。(だから何だという話ですが)

 出てくる軍人役の俳優が一人も軍人に見えないし,軍隊行進の姿も全くなってない。登場人物の誰一人にも感情移入できなかったのが、最大の難点だったかもしれません。

 研究し尽くされていたのは、当時のファッションだったかもしれません。これは、うまく再現していましたが、当時の人はもっと帽子を被っていたと思いました。

 28歳の若さで戦病死した山中貞雄監督の「河内山宗俊」(1936年)を福原夫妻が映画館で観るシーンが出てきましが、これは旧き大先輩に対するオマージュだったのでしょう。しかし、映画の舞台は主に1940年の神戸。「人情紙風船」などで知られる山中貞雄監督は、1938年に亡くなっていますから、福原夫妻は超大金持ちなのに、弐番館の名画座で観たのかしら?

 昭和初期の細部にこだわる、と言いますか、うるさい人間がこの映画を観ると、難癖をつけたくなってしまいました。あまり詳しくない人にとっては、どうでも良い話でした。

特別展「桃山 天下人の100年」と上野「ぽん多」のカツレツ

 嗚呼、上野駅

 台風14号の影響で大雨が降る中、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「桃山 天下人の100年」を見に行って来ました。圧巻、感服、圧倒されました。普段は滅多に買わない図録(3000円)まで買ってしまいました。

 室町末から安土桃山、江戸初期にかけては、日本の美術史の中でもその時代は頂点を極めたと言っても過言ではないでしょう。狩野永徳、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達…国宝級が勢ぞろいです。彼らの先駆者の雪舟と後継者の尾形光琳、最近では伊藤若冲あたりを加えれば、もうほぼ完璧に近いでしょう。もしかして、逆に言えば、この奇跡的な時代に、日本人の美意識が完成したと言っても良いかもしれません。

 台風なのに出掛けたのは、この展覧会は、コロナ禍でオンラインによる日時指定の切符しか手に入らなかったからでした。しかも2400円もしました。(お蔭で、普段より空いていましたが、不注意にぶつかって来る人が何人もいて、一人も謝らない。日本人らしいなあ、と思いました。海外では、少しかすっただけでも、絶対、Excuse me とか Pardon ぐらい言いますからね)

 上野は久しぶりでした。2月に「出雲と大和」展(東博)を見に行って以来でしょうから8カ月ぶりです。そしたら、写真にある通り、嗚呼、上野駅はすっかり変わっておりました。東京文化会館や動物園、東博などがある公園口前の車道がなくなり、もう横断歩道を渡ることなく、そのまま駅から降りたら歩けるようになったのです。(そう言えば、東京・銀座の地下鉄の地下街を久しぶりに歩いたら、すっかり化粧直しされ、明るくなり、新しい店舗も入るようになりました)

 さて、肝心の「桃山」展ですが、絵画、襖絵から、武具甲冑、刀剣、茶道具、陶器、小袖に至るまで、信長、秀吉、家康に代表される天下人が愛用した品までもが見られるのです。また、御用絵師に描かせた肖像画などもあります。(会場には御用絵師の狩野家や土佐家の系図もありました)

 テレビの「なんでも鑑定団」の見過ぎかもしれませんが、1点何千万円も何億円も何十億円もしそうな「お宝」ばかりです。やはり、戦国武将ですから生命が掛かっています。命を削って得た「戦利品」です。これこそが、ハイリスク、ハイリターンの極致だと言えますね。

 この展覧会で特筆すべき作品を1点だけ挙げろ、と言われれば、私は本阿弥光悦・筆、俵屋宗達・絵による「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(京都国立博物館蔵)を挙げます。何十羽もの鶴が地上から空に飛び立つ連続写真のような絵を俵屋宗達が描き、その上に、本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書いた巻物です。特に、「風神雷神図屛風」で有名な俵屋宗達は、生年没年不詳の謎の絵師で、たまたま彼を取り上げたテレビ番組を見ていたら、この作品が取り上げれられ、「いつか見たいものだ」と思っておりました。

 展覧会の鑑賞は90分までと、お上から子ども扱いされて、制限時間まで決められていました。私はギリギリ、85分粘ってやめましたが、もう一度見たかった作品もありました。展覧会は後期に作品を入れ替えするので、もしかして、もう一回行くかもしれません(笑)。

 会場を出て、この後、行ったのが上野の「三大とんかつ屋」の一つと言われる「ぽん多」でした。とんかつ屋御三家の一つ、「双葉」(川島雄三監督作品「喜劇 とんかつ一代」モデルになった=閉店)と「蓬莱屋」(小津安二郎監督がこよなく愛した店)には行ったことがありますが、「ぽん多」はどうも敷居が高く、店の前に行ったことがありますが、入るのは今日が初めてでした。

 これまた、テレビで「ぽん多」の主人に焦点を当てた番組を見てしまったため、「いつか是非」と思っていたのです。明治38年創業。「カツレツ」の元祖という有名店だということで、ランチでも1~2時間待たされると、ネットでありましたが、この日は台風のせいか、13時過ぎに入ったら運良く空いていて、すぐ座れました。

 ちょっと値が張ることは知ってましたが、ビール小瓶(550円)とカツレツ(2970円)とご飯と赤味噌汁とお漬物(550円)を注文しました。消費税を入れると、お会計は4400円でした。

 主人が腱鞘炎になるほど叩いて柔らかくしたお肉は、とても上品なお味でしたが、個人的ながら、目黒の「とんき」で食したロースかつ定食(2100円)の方が衝撃的にうまかったでした。比較してはいけなかったかもしれませんが、どなたかをお連れして再訪したいのは「とんき」の方ですね。

 そう言えば、夏目漱石も大好物だったという「空也最中」の御主人もよく行かれるという銀座のとんかつ屋「とん喜」のランチのひれかつ定食(950円)は安くて旨いです。先週も行きましたが、私はこの店にはもう30年以上前から通っています。ランチなので、これまたテレビ番組に出ていた店の御主人は全く小生のことを覚えていませんが。

 結局、「とんかつ屋談義」みたいになってしまいましたが、「ぽん多」のことを特別に称賛しないのは、やっぱり敷居が高いせいかな、と我ながら反省しています。

「禁じられた西郷隆盛の『顔』」=写真から消された維新最大の功労者

いつも何かと小生に気を遣ってくださるノンフィクション作家の斎藤充功(みちのり)氏から、出版社二見書房を通して本が送られて来ました。

 「禁じられた西郷隆盛の『顔』 写真から消された維新最大の功労者」(二見文庫、2020年10月25日初版)という本です。2014年に刊行された「消された『西郷写真』の謎 写真がとらえた禁断の歴史」(学研パブリッシング)を増補改訂した文庫版です。

 ちょうど1年前に出版され、小生もこのブログ(2019年9月26日付)で取り上げさせて頂いた「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)の続編にもなっております。

 一応、帯にある通り、「明治維新史の暗部に切りこむノンフィクションミステリー」となっていますので、タネ明かしをしてしまうのはフェアではありませんが、結論を先に言ってしまいますと、結局、これまで出回っている西郷隆盛の「真顔」と言われていた写真は、東京歯科大学法人類学研究室の橋本正次教授による鑑定で「一致」に至らず、なおも探索作業が続いている…ということでした。

 著者は、「西郷写真」の存在を求めて、上野の西郷さん像をスタートして、二戸、大阪、下関、長崎、鹿児島…と関係者に会い、3年間かけて丹念に取材しています。そのフットワークの軽さはさすがです。

 斎藤充功氏が特に問題とした代表的な写真が、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)で再脚光を浴びた「フルベッキ群像写真」(幕末に来日したオランダ系米人宣教師フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったもの。写っている武士たちは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…ではないかと推定された)、明治2年から8年にかけて浅草で撮影された「スイカ西郷」と呼ばれる写真(西瓜のような頭をした人物が西郷ではないかと言われたが、法人類学者の鑑定では否定。医師小田原瑞苛が有力だが、確定にまで至っていない)、天皇の専属写真師、内田久一撮影の「大阪造幣寮前に集合した近衛兵と3人の指揮官らしき人物=その中央が西郷か?」、オーストリア人のスティルフリードによって盗撮された「横須賀造幣所を行幸中の明治天皇」などです。

 実際、写真がないと、参照できず、このように文字だけ並べても、お読みになっている方は何のことか分からないことでしょう。仕方がないので、ご興味のある方は本書を手に取って頂きたいと存じます。

 フットワークの軽い斎藤氏は、鹿児島県さつま町にある「宮之城島津家資料センター」を訪れ、加治将一著「西郷の貌」などで、西郷隆盛と同定している「一三人撮り」写真の史料根拠としていた「宮之城史」が、資料として存在しないことを同センター専門委員の川添俊行氏から引き出したことは、この本の手柄でしょう。

「スイカ西郷」に写る右端の男性が大久保利通と一致

 著者の斎藤氏は、法人類学の橋本教授とタッグを組んで、さまざまな「西郷写真」を鑑定し、結果的には西郷さんに「一致」と断定できる写真は見つかりませんでしたが、その過程で、思わぬ収穫がありました。

 「スイカ西郷」の写真で右端に立ち、西郷と思しき西瓜頭の男性の肩に手を掛けている男性が、大久保利通であるとほぼ確定できたことでした。有名な髭もじゃの大久保ではなく、まだ明治初期の若い頃の写真です。

 結局、西郷隆盛と断定できる写真は発見できませんでしたが、著者は「必ずどこかにあるはずだ」という確信を持っていることから、この続編が書かれるかもしれません。

 坂本龍馬も高杉晋作も桂小五郎=木戸孝允も大久保利通も幕末の志士と呼ばれた人たちのほとんどの写真が残っているというのに、維新最大の功労者である西郷隆盛の写真だけが残っていないのは何故か?ー 著者は、西郷隆盛が神格化されたり、反政府の象徴にされないように、明治の要人の誰かが故意に、隠したり、消したりしたのではないかという説を取っておりましたが、確かに、その通りなのでしょうね。

 「あるものをなかったことに」したのは現代の安倍政権下の官僚によって行われましたが(公文書破棄事件)、西郷写真の抹殺は、確かに明治維新史暗部のミステリーですね。

鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺

龍口寺の五重塔

 ブログ、ちょっとご無沙汰してしまいましたが、巷では4連休(敬老の日、秋分の日)の真っ最中です。

 コロナ禍とはいえ、こんなチャンスを逃して家に閉じこもっているのも何なんで、以前から計画していた鎌倉の日蓮宗寺院巡りを決行してきました。

 平安末期から鎌倉時代にかけてのこの時期は、日本史の中で最も瞠目すべき時代かもしれません。浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗と次々と鎌倉仏教と呼ばれる新宗教が生まれたからです。

 時代は公家社会から武家社会に移り変わり、戦乱と飢饉と疫病が流行り、社会的に不安定な時代で、多くの民衆が救いを求めたからに他ならないことでしょう。

 古都・鎌倉にはこれら鎌倉仏教の寺院がいまだに多く残っているのでお参りするのに最適です。

本覚寺 本堂

 今回は取り敢えず、日蓮宗の寺院に絞ってみました。JR鎌倉駅からほど近い所に主要寺院が集中していて参拝しやすいからです。

 まずは、永享8年(1436年)に創建された本覚寺です。鎌倉駅東口を出て若宮大路を渡り、郵便局の細い道を進むとすぐ到達します。駅から5分ぐらいでしょうか。

 本覚寺については、上の写真の看板の説明にある通りです。拝観は志衲。

本覚寺

 上の説明文にある通り、二代目住職日朝上人が、甲斐の身延山から日蓮聖人の遺骨をこの地に納めたことから「東身延」とも呼ばれています。

本覚寺

 本覚寺は、もともと源頼朝が戎神を祀った戎堂でした。

 上の写真の八角形の建物は近年復興したものですが、配流先の佐渡から戻った日蓮がこの戎堂に滞在していたといわれています。

日蓮上人辻説法跡

 次に向かったのが「日蓮上人辻説法跡」です。本覚寺から、車がクラクションを鳴らしてくる小町大路を北進して、迷わなければ歩いて3分ほどで行けます。

 現在の鎌倉は、道が狭く車が多いという、人に優しくない、あまり「いけ好かない」所になってしまいましたが、当時は車なんかないので、この程度の道幅でも十分機能していたことでしょう。

 そして、この辻説法跡は、市内でも最も人通りが多い繁華街の一つだったはずです。安房から出てきた日蓮がここで辻説法を始めたと、上の看板に書かれていますが、石碑などがある場所は鉄の柵で囲まれて入れないようになっていました。信徒にとって、ここは「聖地」だからという理由です。

 念じれば、日蓮聖人が辻説法している姿が浮かび上がってきそうな歴史的スポットでした。(と思ったら、日蓮は辻説法などしなかった、という説もあるようです。何だかよく分かりません)

妙本寺

次に向かったのが「妙本寺」です。迷わなければ、辻説法跡から歩いて7~8分で行けます。拝観志衲。

妙本寺の縁起については、上の説明文に書いてある通りですが、もともとは、頼朝の重臣・比企一族の屋敷跡でした。

 源頼朝が成立させた鎌倉幕府は、関東の御家人、つまり坂東武者によって支えられました。現在、埼玉県比企郡として名前を残す比企能員(ひき・よしかず)を始めとする比企一族も、有力御家人の一つでした。その当時の御家人の勢力がどれくらい大きかったのか、この妙本寺、実は比企一族の屋敷跡の広大な敷地を訪れて初めて分かりました。やはり、現地を見なければ分かりませんね。あまりにもの広さに圧倒されました。

妙本寺

 しかし、比企一族は北条氏によって滅ぼされました。乱から逃れ、辛うじて生き残った末子の比企能本(ひき・よしもと)が日蓮聖人と出会い、屋敷を献上して1260年に法華堂を創建したのが、この妙本寺の始まりだと言われています。

妙本寺 祖師堂

 鎌倉の有力御家人を調べてみると、北条氏などによって滅ぼされたのは、比企能員(ひき・よしかず)だけではないんですね。石橋山の戦いで頼朝の危機を救った梶原景時も、奥州合戦で活躍した畠山重忠も、侍所初代別当だった和田義盛も、評定衆の三浦泰村も安達泰盛も、ほとんどやられて、生き残ったのは足利氏ぐらいじゃないかと思わせるぐらいです。

 「いざ、鎌倉」と何かあれば駆け付けた坂東武者のイメージが強った鎌倉時代でしたが、北条執権の全盛時代は、ほとんど関東武士は淘汰されてしまっていたんですね。

常栄寺 (ぼたもち寺)

次に向かったのが、「常栄寺」、別名「ぼたもち寺」と呼ばれています。拝観志衲。

 日蓮は、法華経を広めるために、「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)」と他の宗派を激しく断罪し、災害や疫病の蔓延などに無策な幕府も批判したことなどから、刑に処されることになります。市中引き回しされた上、刑場の瀧の口へ向かう途中で、一人の老婆が日蓮に胡麻入りのぼた餅を捧げたことから、この寺が創建されたという言い伝えがあります。

妙法寺 総門

 次に向かったのが妙法寺です。

 常栄寺から八雲神社を通ると、車の往来の激しい通りに出て、迷わなければ10分ほどで着きます。

妙法寺 本堂

 妙法寺は、鎌倉の寺院を訪れるとしたら、最もお薦めしたい寺院の一つでした。拝観料300円。土日、祝日のみ開門のようですので要注意。

 妙法寺は、上の説明文にある通り、日蓮聖人が安房から鎌倉に入り、最初に草庵を結んだ由緒のある寺院で、信徒には欠かせない聖地でした。

妙法寺 苔石段

 境内は奥行きがあって、意外にも広く、上の写真のように、有名な苔の石段があり、息を切らして登って行かなければなりません。

妙法寺

 石段を登った中腹に、このような「松葉ケ谷御小庵跡」があります。登るだけで、結構、修行になります。

 当時は、飲み水や食べ物はどうしていたのだろう、と思いを馳せました。

妙法寺

 このまま下に降りようとしましたが、この「松葉ケ谷御小庵跡」の上に護良(もりなが)親王のお墓があるというので、お参りしなければなりません。また、息を切らせて急こう配の石段を登って辿り着きました。

 妙法寺は、後醍醐天皇の皇太子、護良親王の菩提を弔うために、その子息である日叡上人が中興の祖と言われています。

安国論寺

 次に向かったのが、安国論寺です。妙本寺から数分です。拝観料は100円以上となっていました。

 ここで、日蓮聖人が、あの有名な「立正安国論」を執筆したと言われています。

 コロナ禍の現在、国家だけでなく、世界中の人々の安寧を、ここでもお祈りしました。

長勝寺

 次に向かったのが、長勝寺です。安国論寺から横須賀線の踏切を渡って、歩いて5分ほどです。拝観志衲。

長勝寺 本堂

 長勝寺も、妙法寺、安国論寺と並び、日蓮聖人が松葉ケ谷で結んだ三大草庵の一つだと言われています。

 この地の領主・石井長勝が日蓮聖人に帰依して、日除と名乗り、弘長3年(1263年)に邸内に法華堂を建てたのが始まりだと言われています。

長勝寺 日蓮聖人像

 この日蓮聖人像は特に有名なんだそうです。

 さて、他にも日蓮宗寺院はたくさんありますが、この長勝寺を最後に鎌倉駅近くの日蓮宗寺院巡りは打ち止めにし、バスで鎌倉駅に戻りました。長勝寺から駅まで歩いても30分か40分ぐらいでしょうけど、少しズルしました(笑)。

小町通り とんかつ「小満ち」

 寺院巡りをしている間は、ほとんど人がいないので快適でしたが、鎌倉駅に戻ると驚くほどの人、人、人。ほとんどの人たちは、若宮大路や小町通りを通って、鶴岡八幡宮へ参拝するものと思われます。コロナ禍なのにどうしたことでしょう。4連休なので、アヴェック(死語)も家族連れも繰り出したのです。東京・表参道の竹下通りのような混雑でした。

 バスから降りて、私が目指したのは、小町通りにあるとんかつ屋さんの「小満ち」です。川端康成、里見敦、小林秀雄ら鎌倉文士のお気に入りの店だったらしいので、物見遊山気分で行ってみたのです。(そう言えば、鎌倉文士は有名ですが、浦和画家を知らない人が多いですね。関東大震災後に芸術家たちが郊外に移転し、「鎌倉文士に浦和画家」という言葉が流行ったのです)

 昼時だったので、店内は混雑していて、しばらく外で待たされました。

 注文したのはかつ重(1000円)とグラスビール(400円)で、税込み1540円。とんかつは、今まで食べた中で、一番上品で優しい味でした。実に旨い。いつかまた来た時は、とんかつ定食にチャレンジしようかと思いました。

龍口寺

 最後に向かったのは、鎌倉時代の処刑場、龍の口です。

 鎌倉駅から江ノ電に乗って、江ノ島駅で降りて、数分の所にあります。

龍口寺

 鎌倉駅から江ノ島までの江ノ電は、めっちゃくちゃ混んでいました。30分ぐらい掛かったでしょうが、満員で、ずっと、ぎゅうぎゅうといった感じでした。コロナ禍なのに、こんなんで大丈夫なんでしょうか?

龍口寺

 処刑場跡に建てられたのが、龍口寺です。拝観志衲。

 日蓮聖人がここで処刑されようとする寸前、雷鳴が光る奇跡が起こり、聖人の処刑が中止された法難の地ですが、ここに改めて寺院が創建されたのです。

龍口寺 本堂

 詳しい龍口寺の縁起については、上の看板の説明文に書かれていますので、ご参照ください。

龍口寺

 どういうわけか、龍口寺に建てられた日蓮聖人の像は、他と比べて、柔和で穏やかな感じがします。

 処刑されようとした地なのに、何とも不思議です。

龍口寺

 な、何と、龍口寺には五重塔がありました。

 上の説明文にある通り、明治末に建てられたようですが、信仰の深さを感じました。

龍口寺
龍口寺

 最後に龍口寺境内にある「御霊窟」をお参りしました。

 龍の口法難の際、日蓮聖人が囚われて、一晩、この洞窟に幽閉されたといいます。人、ひとりが立ってもいられないほど狭い洞窟で、さぞかし窮屈だったことでしょう。

 熱烈な信徒の皆様から怒られるかもしれませんが、ここで歴史上に実在した人間日蓮に出会えたような気がしました。今回は、随分、中身が濃いお参りができました。

 帰りは、生まれて初めて、龍口寺から程近い湘南江ノ島駅から湘南モノレールに乗って大船駅まで行って、帰宅しました。江ノ電は混んでいましたが、湘南モノレールは空いていてゆったり座れました。

 心配事ばかり多い毎日でしたが、お参りすることで、ほんの少しだけ心が和らぐことができました。

 合掌

 南無妙法蓮華経

【追記】2023・2・1

 比企能本が創建した妙本寺。ここは、あの中原中也が海棠の咲く花を見ながら、小林秀雄に「ボーヨー、ボーヨー」と溜息をついたお寺でした。小林秀雄が「どういうこと?」と聞くと、中也が「前途茫洋」と応えた、あの有名寺院だったとは!

今は昔、元首相邸は大使館に近衛歩兵第3連隊はTBSに

平林寺前「たけ山」うどんランチ1000円

 竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社)を読了しました。明治大正の歴代首相や有力者、元老らが住んでいたお屋敷などが、今、どうなっているのかも書かれていましたので、備忘録として列記しておきたいと存じます。(順不同で全て現在の東京都内の話に絞り、既に知っていることは省略=笑)

 ・麹町区永田町(千代田区永田町)西郷従道(隆盛実弟、陸軍中将、海軍大将)邸⇒(中略)国会議事堂

 ・早稲田・彦根井伊藩下屋敷⇒東京専門学校(早稲田大学キャンパス)

 ・築地・旗本戸川安宅(やすいえ)邸⇒大隈重信(肥前藩士、首相、侯爵)邸⇒(中略)料亭「新喜楽」(芥川・直木賞選考会場)

 ・築地・海軍大学校⇒(中略)築地市場(豊洲に移転しても健在)

 ・京橋区木挽町(中央区銀座8丁目)逓信大臣官邸⇒(中略)銀座中学校

 ・麻布区桜田町(港区元麻布)後藤新平(満鉄総裁、東京市長など歴任)邸⇒満洲国大使館⇒中華民国大使館⇒中華人民共和国大使館

 ・麹町区下二番町(千代田区二番町)加藤高明(尾張藩士族、帝大首席卒業、首相。岩崎弥太郎の長女と結婚し、「三菱の大番頭」の異名、伯爵)邸⇒ベルギー大使館

 ・神田一ツ橋(千代田区一ツ橋)文部省⇒(中略)毎日新聞社東京本社

 ・赤坂区一ツ木町(港区赤坂)近衛歩兵第3連隊⇒(中略)TBS、赤坂パークビル

 ・内山下町(千代田区内幸町)鹿鳴館⇒華族会館⇒(中略)日比谷Uー1ビル

【その他の逸話】

・戦前、霞が関といえば、海軍省があった海軍のことを指していた。陸軍は三宅坂と言ったように。戦後は、霞が関といえば中央官庁の別称となり、三宅坂は、本部があった社会党を指すことがあった。

・頭が大きかった桂太郎(長州藩士、陸軍次官、台湾総督、内大臣、首相、公爵)の脳は1600グラムもあった。一方、夏目漱石は1425グラム。

・三菱合資会社地所部(現三菱地所)が開発した駒込の六義園(旧・柳沢吉保別邸)近くの高級住宅地「大和郷(むら)」の初代名誉村長は若槻禮次郎(松江藩士族、帝大首席卒業、憲政会、首相、男爵)、村長は俵孫一(北海道庁長官などを歴任した内務官僚。浜口雄幸内閣商工大臣。政治評論家俵孝太郎の祖父)だった。

 映画「ミッドウェイ」は★★☆

 「インデペンデンス・デイ」などのスペクタクル映画で知られるローランド・エメリッヒ監督の「ミッドウェイ 日本の運命を変えた3日間」を観て来ました。

 エメリッヒ監督は1955年生まれのドイツ人ということですが、何でこの時期に、太平洋戦争の「勝負の分かれ目」となった「ミッドウェイ海戦」を作品化しようとしたのか、よく分かりませんでしたが、パンフレットによると、20年間もリサーチの時間をかけて、この戦争を映像化したかったようでした。「多くの命が失われる戦争には勝者はなく敗者しかいない。だからこそ二度と起きてはならない戦いを描いたこの映画を日米の海兵たちに捧げる内容にしたかった」

 とはいえ、米ハリウッド映画という勝者側から描いた作品にしか観えないのは、私が敗者側の日本人だからかもしれません。ウェス・トゥークの脚本、つまり、ストーリーが、お涙頂戴の「家族愛に基づくアメリカ人の愛国心」対傲慢な「領土拡張の野心に燃える日本の軍人」という構図になっているからです。

製作プロダクションとフィルム・プロダクションに米国だけでなく、中国、香港、カナダが入っているのも何となく違和感がありました。これらの国側から、脚本について何らかの「意見」を具申したと思われるからです。

 しかしながら、エメリッヒ監督が歴史を捻じ曲げたわけではなく、監督得意のスペクタクルは、まさに戦争に打ってつけ(?)で、戦闘シーンは非常にリアリティがあり、まさに戦場にいるような感覚にさせられました。

 真珠湾を奇襲攻撃した卑怯で悪いジャップをやっつけるのですから、若い米国人が観れば感動ものでしょう。よくぞ「再現」したものです。

 山本五十六・連合艦隊司令長官(戦艦大和)に豊川悦司、南雲忠一・第一航空艦隊司令官(空母赤城)に國村隼、山口多聞・第二航空戦隊司令官(空母飛龍)に浅野忠信を配し、それぞれ立派な演技でしたが、海兵隊員役の若い日系人か日本人のエキストラ俳優に全く緊張感が見られなかったのは残念でした。

 映画の最後の方では、この戦場で功績を挙げた戦士たちが、何とか十字章をもらったとか、山本五十六大将の乗った飛行機が撃墜されたとかいった、よくある「説明調」の場面が続きました。もちろん、命を懸けて大前線で戦った兵士の功績の賜物でしょうが、やはり、ミッドウェイ海戦の影の主役は、太平洋艦隊情報主任参謀のレイトン大佐(パトリック・ウイルソン)だったことがこの映画でよく分かりました。レイトンは駐在武官として日本に滞在し、日本語もできる日本通であり、この映画では、日中戦争が始まった1937年に、レイトンと山本五十六が会って話をする場面から始まることも印象的でした。

 山本五十六はハーバード大学留学、米駐在武官経験もある米国通で、アメリカの国力については知り過ぎていたはずだったのに…。

 結局、勝負の分かれ目は、日本の暗号を解析して読み取った米軍の情報収集能力にあったとも言えます。恐らく、大日本帝国軍は、ここまで敵に暗号情報が漏れていたことを知らなかったと思われます。いや、恐らくではありませんね。全く知らなかったのですね。そうでなければ、山本五十六大将の搭乗機が撃墜されるわけがありませんから。

 日本は国力や物資だけでなく、情報戦争で負けていたことが否が応でも見せつけられました。

伊藤博文は女性、山縣有朋は邸宅

 昨日のこのブログで、日産と初代総理大臣伊藤博文とのほんのちょっとした関係に触れましたが、これには種本がありました。それは竹内正浩著「『家系図』と『お屋敷』で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇」(実業之日本社、2017年6月1日初版)という本でした。

 昨年たまたま購入しておりましたが、読むことはなく、積読状態でしたが、昨日から読み始めたのでした。そして、そこに伊藤博文と日産とのほんの少しの関係が出てきてまたまたシンクロニシティを感じたわけです。

 この本は、文字通り、歴代総理大臣の家系と本宅・別荘などを探った異色の研究本です。

 伊藤博文は、かなりの漁色家として知られ、婚外子も多くいました。黒岩涙香が明治31年7月から9月にかけて「万朝報」紙上で、500人以上の顕官や資産家の「畜妾」を実名住所入りで赤裸々に暴露した「弊風一斑 畜妾の実例」という記事を連載しますが、その中で、伊藤博文については「大勲位侯爵伊藤博文の漁色談は敢て珍しからず世間に知られたる事実も亦甚だ多し」と書かれています。妾を囲うことが半ば当然と思われていた明治の世であってさえも、伊藤博文の漁色は飛び抜けていたというわけです。(伊藤博文が寵愛した一人に日本橋芳町(現人形町)の「小奴」という半玉がいたが、彼女は、後にオッペケペーの川上音二郎と一緒になり川上貞奴として知られる)

 かなりの女好きの伊藤博文と並び、明治国家を建設するのに奮闘した人物として山縣有朋が挙げられます。彼は、「黒幕」「悪漢」「軍閥の巨魁」などと、戦後は悪いイメージが拡散されましたが、山縣は意外にも伊藤とは違って女性関係は地味だったというのです。山縣が妻にしたのは、山口県湯玉の庄屋の娘友子で、三男四女をもうけますが、次女の松子を除いて全て夭折し家庭的には不幸でした。

 山縣のいわゆる妾として名前が挙がるのは、新橋の芸妓吉田貞子(実家の日本橋の商家が没落して芸者に)ただ一人だったと言われています。(吉田貞子の実姉たきも新橋の芸妓で、こちらは三井財閥の大番頭益田孝に見初められた)

 山縣有朋が女性の代わり(?)に情熱を注いだのが邸宅、別荘、庭園でした。庭師七代目小川治兵衛の作庭による京都の「無鄰菴」や小田原の「古希庵」といった別荘や東京・目白の本邸「椿山荘」のほか、栃木県の那須野ケ原に農場まで経営していました。

 椿山荘は、山縣有朋が傘寿(80歳)を機に藤田平太郎男爵に譲渡されます。藤田平太郎の父は、長州奇兵隊出身で維新後「政商」となった藤田伝三郎で、建設・土木から電力開発、金融、新聞(大阪毎日新聞)まで経営した「藤田財閥」の創業者でした。藤田財閥の一角だった藤田観光は現在も優良企業で、ワシントンホテル、箱根小涌園、ホテル椿山荘東京などを展開していることで知られています。

 ま、有体に言えば、山縣と藤田の長州閥つながりで椿山荘はホテルとして残ったことになります。

 

フォーが食べたい、そして日産の正体

 9月も半ばになろうとしているのに、まだ気温が30度を超え、猛暑のように暑い。地球温暖化は進む。去年もこんなに暑かったっけ? 残念ながら、もう忘れています。

 こう暑いと、急にヴェトナム料理が食べたくなってしまいました。ヴェトナムは、ハノイ、ハイフォン、ホーチミン、ビンズオン省など、仕事と遊びで何度か訪れています。私の世代は、どうもベトナム戦争のイメージだけが濃厚で、行く前は、大変な国だという印象ばかりでした。

 でも、着いてみると、そんなイメージは全くなく、戦争の爪痕が残っているのはホーチミンの「戦争証跡博物館」ぐらいで、私が訪れた5、6年前は、ベトナム人の平均年齢が27歳という若々しさ(年長者は戦争で亡くなっていたということか)でした。フランスの植民地だったのに、フランス語で話しかけても全く通じませんでした。

 ハノイもホーチミンも、都市は驚くほど近代的なビルが建ち並び、ゴミも少なく清潔でした。ただし、やたらとモータバイクだらけで道路を渡るのに苦労しました。また、取材で訪れた日系企業の工業団地なども衛生管理が行き届いていて、日本の工場よりきれいじゃないかと思ったぐらいでした。

 そこで、初めて触れたヴェトナム料理は、日本人にも合って、病みつきなりました。特に「フォー」という米粉のラーメンみたいな麺料理は、ラーメンと同じような色んな味付けがあり、上に載せる具までも、鳥から豚から牛肉など本当に千差万別で、毎日食べても飽きませんでした。

鶏肉入りフォー

 ということで、ランチは、フォーがまた食べたくなって、銀座のヴェトナム料理店に向かいました。今の愉しみといったら、食べることぐらいですからね。金に糸目は付けません(大袈裟な)。お互い、いつ死ぬか分かりませんから、子孫に美田を残さず、です。

 入った店は、マロニエビルの11階にあり、結構、高級店で、フォーのランチセット(春巻きとベトナムコーヒー付き)が1650円もしました。普段の私のランチの1.5日分です(笑)。

 さすがに高級店らしく、お客さんも裕福そうでした。私の隣に座った40歳前後の女性は、文字盤を見れば一目で分かる50万円ぐらいのフランク・ミュラーの高級腕時計をさり気なくしておりました。女性客の大半は、着ているものも、ジョン・スメドレーとかストロベリーフィールズとかいかにも高級そうでした。

 肝心の料理ですが、お値段なりに、とても美味しかった、とブログには書いておきます。

◇日産の正体

 さて、昨日のこのブログで、日産自動車へ1300億円もの政府保証融資がなされ、「何で日産だけが特別待遇になるのか?」といったような趣旨のことを書きました。

 そこで、調べてみたら、確かに日産は特別な会社だということが分かりました。日産は、皆さん御存知のように、戦前は日本産業株式会社と呼ばれていました。設立者は、満洲の「二キ三スケ」の一人、鮎川義介です。鮎川は、義弟の久原房之助が1905年に設立した久原鉱業や日立製作所など久原コンツェルンが、第一次世界大戦後の慢性不況により経営不振に陥ったため、1928年にその経営再建を託されたのでした。鮎川は手腕を発揮して多角経営に乗り出し、日産自動車もダットサンなどを吸収合併して手に入れたものでした。ダットサンのダットは国産第一号車「脱兎号」の出資者DAT(田、青山、竹内)の頭文字から取ったという話は、皆さんも御案内の通りです。

 こうして、日立製作所、日産自動車、日本水産、損害ジャパン、ENEOSなどの日産グループは現在、「春光懇話会」と呼ばれています。

 そして、この春光というのは、初代総理大臣伊藤博文の子息(婚外子)の伊藤文吉(元日本鉱業社長)の雅号でした。芝公園にあった文吉の私邸(現春光会館)にグループ企業の幹部が集まり、「春光会」を開いたのがその始まりでした。文吉の長男俊夫(伊藤博文の孫)も東大法学部を卒業後、日産自動車に勤務していたといいます。

 日産は、初代総理大臣伊藤博文と縁のあった会社だったんですね。ビスマルクは「鉄は国家なり」という名言を残しましたが、その伝でいけば、「日産は国家なり」というわけだったんですか? 日本政府の皆さん。

35年ぶりのランボー詩集

 最近、文学しています。残った夏休みの宿題を慌てて仕上げようとしている感じもします。

 文学ですから、儲かりません。はっきり言って、なくても困りません。といいますか、なくても生活に支障はきたしません。そういうものに、学生時代の一時期、命を懸けるほど熱中したことがありました。

 今でこそ堕落して、他人のこしらえたフィクションには目もくれずに、ビジネス書やブロックチェーンやMMT関連の書物にまで首を突っ込んで、不安な将来に備えていますが、かつては、経済に左右されない人生こそが美徳であると信じていた時期がありました。

 文学には社会を変革する力があると信じていたこともありました。

 それは新聞広告で目にした一冊の文庫本でした。

  中地義和編「対訳 ランボー詩集」(岩波文庫、2020年7月14日初版)です。何か見てはいけない広告を見てしまった感じでしたが、ずっと心の奥底に引っかかっていました。フランス象徴派詩人アルチュール・ランボー(1854~91)は、学生時代にかなりはまったことがありましたから尚更です。フランス語の原書は、文庫版では飽き足らず、高いプレイヤード版の全集も買いました。日本語は、小林秀雄訳、中原中也訳、鈴村和成訳などを経て、平井啓之ら共訳の「ランボー全集」(青土社)まで買い揃えました。それでも、難解過ぎて途中で挫折してしまいました。

 わざわざ、この本を買ったのは「対訳」としてフランス語の原文と和訳が並列していたからでした。

 しかし、正直に告白すると、途中で挫折したように、20代の頭ではさっぱり分かりませんでした。意味はどうにか取れても、作者の意図する本意や時代的背景などを熟知していなかったせいもありました。ランボーは15歳頃から詩作をはじめ、20歳で早くも筆を折りました。ということは作品の大半は、10代の少年が書いたものです。歴史に残る大天才を前にして、異国の軽輩が何か言うのも烏滸がましいのですが、極東に住む凡夫の若者はランボーの作品を理解することを諦めました。そして、邪道ながら、彼にまつわる逸話(ファンタン・ラトゥールの絵画など)を追いかけました。

 詩作をやめたランボーは、オランダ軍傭兵としてジャカルタに行ったり(後に脱走)、キプロスの採石場の現場監督をしたりしましたが、地元シャルルヴィル高等中学校時代の級友エルネスト・ドラエー(1853~1930)から文学への関心を問われると「あんなもの、もう考えもしないさ!」と答えたといいます(1879年)。

 その後、ランボーはイエメンのアデンにあるバルデー商会に雇われ、アビシニア(現エチオピア)のハラールの代理店に勤め、交易商人になります。主に象牙やコーヒーの取引やフランスからの工業製品や武器まで扱ったようです。しかし、アデンで膝の腫瘍が悪化します。風土病だったとも性病だったとも色んな説がありますが、フランスのマルセイユに戻り、コンセプション病院で右脚を切断し、1891年11月10日に同病院で死去します。まだ37歳という若さでした。

 若い頃のランボーと言えば、詩人ポール・ヴェルレーヌ(1844~96)との不適切な関係を始め、ふしだらで酔いどれの破天荒な私生活が有名ですが、詩作を断ち切り、武器商人になった晩年の孤独で悲惨な生活とその早すぎる死が、彼の書いた難解な作品(「地獄の一季節」など)と見事に、結果的に「言行一致」してしまったことが、何百年経っても彼に惹き付けられる魅力になっていると言えるでしょう。

比類なき超天才児とその後の「没落人生」(本人は認めないでしょうが)とのギャップがあまりにも大き過ぎるので、謎が謎を呼ぶことになったのです。

プレイヤード版の「ランボー全集」。40年近い昔に買った本だが、当時7760円もした

 ということで、35年ぶりに改めて「ランボー詩集」の文庫本(1122円)を読み始めています。

 原文と対訳を熟読すると、何と1篇の詩を読むのに2~3日も掛かります。本当です。読書は主に通勤電車の中でしているので、48時間~72時間掛かるという意味ではありません。電車の中で、1篇の詩作品を読むと1日で読み切れず、2~3日掛かるという意味です。

 15~16歳の時に書かれた初期韻文詩は、見事な12音綴のアレクサンドランの定型詩になっていて、しっかり脚韻が踏まれています。アレクサンドランは、日本の短歌や俳句と同じようなものかもしれません。脚韻は、aabbだったり、 ababだったり色々ですが、韻を踏むために、主語と述語が倒置されたり、名詞と形容詞が入れ替わったり、形式を優先するために、意味は後回しで、かなりこじつけになったりして、外国人にとって理解するのに難儀することがあります。

 何と言ってもフランス語の語彙力には全く歯が立ちません。相手は15歳の少年でも、記憶力抜群の比類なき超天才ですから、異邦人の凡夫が勝てるわけがありません。

 ただ、年を取って、人生経験も豊富になり、既に世界各地を旅行し、分別も付き、大きな病気も体験し、他人からの裏切りや嘲笑も味わい、辛酸を舐めてきたお蔭で、人生経験の少ない少年には負けませんね(笑)。それに、自分で言うのも何なんですが、不断の努力による膨大な読書量で、ランボーには負けない教養なるものも身に着きましたから、怖れることはありません。

 そんな中で興味深かったことは、15歳の少年だというのに世の中の動きや時事問題にかなり関心があって、当時、普仏戦争(1870年)の最中で、スダンでプロシャ軍に降伏したナポレオン三世を揶揄、批判する詩まで書いていたことです。(15歳の自分はビリヤード場で遊び惚けていましたからえらい違いです。)この詩は、私も学生の頃に読んでいたはずですが、すっかり忘れています(苦笑)。当時のフランスは、世の中の動きや情報を知る手段として新聞ぐらいしかなかったでしょうが、15歳のランボーは「皇帝の憤激」という詩の中で、ナポレオン三世のことを「遊蕩に明け暮れた20年に酔いしれている」といった反帝政派のキャンペーンを文字ったり、「彼(ナポレオン三世)は、眼鏡をかけた協力者を思い出している」と書き、共和派から帝政派に鞍替えして首相になったエミール・オリビエのことを示唆したりしています。

 ランボーの10代は、普仏戦争とパリ・コミューンが起きた歴史的な激動期でした。当時のフランス人たちは、「遊蕩に明け暮れた」(遊蕩orgieには乱交パーティーという意味もある)だけでナポレオン三世のことを思い浮かび、「眼鏡をかけた協力者」だけで、オリビエ首相のことが何ら説明もなく分かったことでしょう。これでは、詩人というより、ジャーナリストですね。(そう言えば、19世紀のバルザックやフロベールらの小説は、例えば二月革命など当時の時代背景を忠実に再現したもので、フィクションというより、ジャーナリスティックでした)

学生時代の畏友と横浜でランボー詩集の「読書会」を開いて勉強していた20代後半の頃。1ページ読むのに1週間掛かった

 私が20代の頃に読んでさっぱり分からなかったことは、今ではネットのお蔭で、簡単に分かります。オリビエ首相だって検索すれは略歴とともに、眼鏡をかけた彼自身の肖像写真まで出てきますからね。今の若い人は羨ましい。

 文学していると、コロナ禍の現代を忘れて19世紀に逃避行できます。何と言っても、ヴェルレーヌはともかく(二人の直接の交際はわずか4年だったとは!ランボー17歳から21歳まで。ランボーの死後、無名だった彼を蘇らせたのはヴェルレーヌの尽力によるものだった)、学生時代に親しんだジョルジュ・イザンバール(ランボーの高等中学校の教師)とかポール・デメニー(イザンバールの友人で詩人)やジェルマン・ヌーヴォー(「イルミナシオン」の清書も手伝った詩人)らの名前がこの本にも出てきて、あまりにもの懐かしさに心が動揺し、涙が出てくるほどでした。

 恐らく分かってもらえないでしょうけど、私は、彼らのことを現代人より近しく感じてしまうのです。

 20代の私は純真無垢で、純粋芸術である(と思い込んでいた)文学に憧れを抱いていたことも思い出しました。

 でも、文学の実体は、なくても支障がない絵空事です。一人の人生を変えるほどの文学に出合えた人には「おめでとう御座います」と言うしかありません。

 文学だけでなく、生活も哲学も宗教も経済学も政治学も無意味かもしれません。パスカルがいみじくも言ったように、結局、「人生は大いなる暇つぶし」だと最近とみに感じています。

「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」は★★★★★

 久しぶりに映画館で映画を観て来ました。

 調べてみたら、2月11日に東京・恵比寿の日仏会館で観たアルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」以来でしたが、封切映画なら2月8日に有楽町で観た第1次大戦のAIカラー映像化した「彼らは生きていた」以来で、いずれにせよ半年ぶりでした。

 小生、皆さまご案内の通り映画好きですが、こんなにブランクが開いたのは初めてぐらいです。コロナ禍の影響で、映画館の席は間隔が開けられ普段の半分しか入れない状況でした。

 観たのは「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(ポーランドのアグニェシカ・ホランド監督作品)です。先週、たまたま新聞の広告でその存在を知り、私の”興味津々”範疇の「スパイもの」だというので飛びついたわけです。子どもの頃から、「007」シリーズ(特にショーン・コネリー)を観て育ちましたからね。

 でも、この作品は全くのフィクションではなく、主人公ガレス・ジョーンズ(1905~35)は英国ウエールズ出身の実在の人物で、スターリン政権のソ連に潜り込んでその実体をスクープしたフリーのジャーナリストでした。彼は、ロイド・ジョージ首相の外交顧問も務めたことがあり、日本にも取材で6週間滞在したことがあるらしく、最期は満洲でソ連の秘密警察の手によって暗殺されたようでした。30歳の誕生日を迎える1日前のことでした。ジョーンズ記者が、潜入したウクライナ地方の凄惨な飢餓状況を初めて西側に発表したことから、ソ連側から「要注意人物」として恨みを買っていたためでした。

 この作品には、「動物農場」などでスターリンの恐怖政治を痛烈に批判した、私も大好きな作家のジョージ・オーウェル(1903~50)が準主役として登場する一方、スターリニズムを称賛するニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長ウォルター・デュランティ(1884~1957)が、ジョーンズのスクープはデマだと否定したりして「悪役」として活躍します。何しろ、デュランテイは1922年から36年まで14年間も支局長としてモスクワに滞在し、その間にピュリッツァー賞も受賞した大物ジャーナリストでした。

 そのデュランテイは、モスクワから一歩も出ず、地方の飢餓や窮乏を見て見ぬふりをし、夜ごと裸になって変な麻薬パーティーを開いたりします。麻薬パーティーが事実だったかどうか知りませんが、ホランド監督の彼に対する痛烈な皮肉と批判の現れでしょう。フェイクニュースが跋扈する現代と状況はほとんど変わっていないことを再認識させられます。

 若きジョーンズ記者は無鉄砲で、ソ連の官憲から逃れて、凍てつく吹雪が荒む凍土のウクライナを彷徨います。そこでは、あちらこちらで餓死した遺体が無造作に転がり、…いやあ、これ以上書けませんが、大変衝撃的な場面も出てきます。

 今ではすっかり忘れられたジョーンズ記者を掘り起こしたホランド監督は、ポーランド出身ということもあり、征服されたソ連の無情と残忍さは骨身に染みるように親から伝えられたことでしょう。1930年代の「ウクライナ大飢饉」(実に300万人の人が餓死したと言われる)は史実として知っておりましたが、この作品で、スターリン粛清主義の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。