青柳いづみこ著「パリの音楽サロンーペルエポックから狂乱の時代まで」を読んで興奮しています

 個人的なお話ながら、私の大学の卒論のテーマが「印象派」だったため、どうしても19世紀から20世紀にかけてのフランス文化からの桎梏から抜けきれません。

 卒論は「二人のクロード」というタイトルで、美術界の印象派を代表するクロード・モネと音楽界を代表するクロード・ドビュッシーの二人にスポットライトを当てて、何故、印象派なるものが当時席捲したのか、その時代的背景や思想等も含めて分析したつもりなのですが、今から読み返せば、まるで小学生以下の作文です。

 今、青柳いづみこ著「パリの音楽サロンーペルエポックから狂乱の時代まで」(岩波新書、2023年7月20日初版)を読んでいますが、この本を読むと、改めてその思いを強くしました。著者は、ドビュッシー演奏では第一人者の世界的なピアニストですが、講談社エッセイ賞を受賞するなど文にも秀でたいわゆる両刀使いの才人です。実に本当によく文献を調べ尽くしておられます。

 時代は、ナポレオン三世の第二帝政から普仏戦争での敗北~パリ・コミューンを経て、第三共和政に移行した激動期です。この時代なら、フランス語を少しは齧ったことがある人なら誰でも、画家のモネと音楽家のドビュッシー以外なら、ヴェルレーヌやランボー、ボードレール、マラルメといった詩人を挙げることでしょう。もしくは、フロベールやゾラといった小説家か。そんな時代でもいわゆるブルジョワ階級の貴族が健在で、特に暇を持て余した?公爵夫人、伯爵夫人たちが自宅を開放して、芸術家(の卵も)を招いて夜な夜な怪しげなパーティーを開き、そんなサロンから巣立って世界的にも有名になった詩人、音楽家、画家、小説家は数多に及ぶといった史実は、さすがに私でも知っておりましたが、誰が具体的にどんなサロンに参加して、参加した人たち同士はどんなつながりがあったのか?ーつまり複雑な人物相関図までは知りませんでした、と告白しておきます。

 著者は、数多いるサロンの主宰者の中で、まずニナ・ド・ヴィヤール夫人(1843~84年)を取り上げております。勿論、恥ずかしながら、私自身すっかり忘れておりましたが、この方、「フィガロ」紙の記者エクトール・ド・カイヤス伯爵と結婚し、夫の金利と父親の資産で何不自由のない生活を送っていましたが、ほどなく別居してサロンを開きました。彼女を慕って集まったのが、反体制ジャーナリストや詩人、画家、音楽家らの芸術家です。彼女自身も詩人で、バッハ、ベートーヴェンらを得意とするピアニストでもありました。

 彼女の男性遍歴は「公然の秘密」で、ステファヌ・マラルメが夢中になり、ヴィリエ・ド・リラダンは生涯の友、アナトール・フランスは愛人でした。この3人は、特に有名ですが、他に親しい関係があった人物に医師で画家で科学者のシャルル・クロ、シャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリー、画家のフラン・ラミ、ジャーナリストで作家のエドモン・バジールらがいます。この他、サロンに参加した人の名前が多く出て来ますが、私が知っているのは、詩人のポール・ヴェルレーヌとヴェルレーヌとランボーの共通の友人だった知る人ぞ知る詩人のジェルマン・ヌーヴォーと、小説家のギイ・ド・モーパッサンぐらいでした。また、エドワール・マネが彼女をモデルに「団扇と婦人」という絵を描いています。(ヴィヤール夫人は1884年、41歳の若さで精神科病院で死去します。)

 さて、この中で、長年、名前は知っていても「人物相関図」がなかなか分からなった人物がこの本を手掛かりにやっと分かりました。鍵を握っていたのが、サロンに頻繁に通って、ヴィヤール夫人とも昵懇だったシャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリーでした。このシヴリーとサロンで知り合ったのか、その前からの友人だったのか分かりませんが、有名な詩人ポール・ヴェルレーヌがいます。ヴェルレーヌは、このシヴリーの妹マチルドと結婚します。そして、新婚早々の二人の家庭生活をめちゃくちゃにして破壊したのが、シャルルヴィルの田舎からパリに出て来たばかりの17歳の少年アルチュール・ランボーだというのは、皆さん、御案内の通りです。

Asoukayama

 ここまではよく知られていることですが、何とドビュッシーが登場します。9歳のドビュッシーにピアノを教えてパリ音楽院に合格するほどまで手ほどきをしたのがモーテ夫人で、彼女は一説にはショパンの門下生と言われていますが、シャルル・ド・シヴリーの母親だったのです。経緯はこうなります。

 普仏戦争の末期、ドビュッシーの父親は志願して国民軍に入隊しますが、国民軍は敗北して、サトリ―の監獄に収監されます。同時にシャルル・ド・シヴリーもパリ・コミューンに巻き込まれて同じサトリー監獄に送り込まれます。ここで二人は知り合い、ドビュッシーの父親は音感の良い自分の息子の音楽の教育について、シヴリーに相談します。それなら自分の母親はピアノ教師だから、どうか、と提案したようです。こうして、9歳のドビュッシーが、モーテ夫人の下を訪れたのは1871年秋のことでした。詩人ランボーがパリに上京し、ヴェルレーヌ宅、つまりは、モーテ夫人宅に居候したのが1871年9月中旬で、乱暴狼藉を働いたかどで追い出されたのが1カ月後の10月中旬か下旬だったといいます。となると、ドビュッシーがランボーに会ったか見た可能性は微妙ですが、ゼロではない気がします。ランボーは1891年に37歳の若さで亡くなり、ドビュッシーは20世紀初頭に活躍した印象があったので、2人が同時代人で、パリ市内の何処かですれ違っていたかもしれない、と思うとちょっと興奮しますね。

Asoukayama

 もう一人だけ、取り上げたいのは、サロン主宰者のヴィヤール夫人の愛人だったシャルル・クロです。この忘れられた天才、もしくは歴史から抹殺された天才の偉業は、この本では「第2章 シャルル・クロ」と章立てされて詳細されています。サロンには医者であるアンリとともに、パリ大学の医学部学生時代から参加し、詩人であり、画家であり、科学者でもあった人です。ヴェルレーヌとは親友で、ランボーが上京した際、最初に面倒を見たのがシャルル・クロだったというのに、ヴェルレーヌは「呪われた詩人」のラインアップの中にクロの名前を無視して入れませんでした。いわゆるヴェルレーヌ=ランボー事件でのわだかまりが、ヴェルレーヌにはあったようでした。

 他に、科学者としてのクロの不幸はまだあります。1867年末、フランスの科学アカデミーに「色彩、形体、運動の記録と再生の修法」という論文を送り、カラー写真に関する「三色写真法」に発展しましたが、わずが2日の差で他人に先を越されてしまいます。

 また、1877年4月、現在のレコードとほぼ変わらないディスク式の「パレオフォン」と名付けた蓄音機の原理の論文を科学アカデミーに送付し、この時点で米国のエジソンに半年先んじていましたが、特許を取るのはエジソンの「フォノグラム」の方が先でした。

 実についていない人、と言わざるを得ませんね。

好きな上野で「京都・南山城の仏像」展

 本日は木曜日でしたが、会社を休んで上野に行って来ました。上野は東京で2番目に好きな所です。1番目は? それは勿論、神田神保町です。古書店の街ですが、三省堂、東京堂など新刊書店も多くあり、何よりも安くて美味しい隠れたグルメの街でもあります。

 3番目に好きな東京は、神宮外苑の銀杏並木道ですが、どうやら、この「外苑の森」が伐採されるという話が進んでいるようですね。亡くなった坂本龍一教授も、再開発に大反対で、小池都知事に中止するよう手紙まで送付したらしいというのに。大都会東京のど真ん中で、あそこほど心休まる所は他にありません。銀杏並木だけは残す計画もあるようですが、もしこのまま強行されれば、小池百合子さんは「神宮外苑の森の伐採を認可した都知事」として歴史に名を残すことでしょう。

東京・上野東博「京都/南山城の仏像」展

 さて、上野に行ったのは、目下、東京国立博物館で開催中の「京都・南山城の仏像」展を拝観するためでした。自他ともに「仏像好き」を自称する私ですが、さすがに南山城(なんざんじょう、ではなく、みなみやましろ)の寺院にまで足を延ばしたことはありませんでしたからね。南山城とは京都府の南端で奈良県に近い地域で、住所で言えば、木津川市とか宇治田原町などがあります。

東京・上野東博「京都/南山城の仏像」展

 会場は、本館の「特別5室」が当てがわれ、いずれも京都・浄瑠璃寺(木津川市)蔵の「阿弥陀如来坐像」「多聞天立像」「広目天立像」の3点の国宝を含む18体の仏像(うち12体もが重要文化財)が展示されていました。

 しかし、「えっ?これだけ??」というのが正直な感想でした。「国宝3体、重文12体もあれば十分でしょ!」と主催者の日経新聞社には言われてしまいそうですが、もし、これが仏像ではなく、そして、有難みもなく、ただの彫刻として眺めただけでしたら、長くても5分で「見学」を終えてしまいます(笑)。こ、こ、これで、入場料は1500円もするんですからねえ。高いでしょう? 奥さま~、そう思いませんこと? 

 あっという間に「出口」になってしまったので、私なんか、慌てて5秒間で入り口方面に戻って、再度、拝観したほどでした。それほど狭い「特別5室」でした。

上野・東京国立博物館

 今回、「十一面観音菩薩像」が3体展示(京都・禅定寺など)されておりましたが、いずれも後頭部の真後ろにあしらわれた「面」が「大笑い」の観音菩薩であることが、パネルでも解説されていました。十一面もありますから、大衆を教化するため忿怒の表情の観音菩薩もありますが、この「大笑い」の面だけ突出していて、改めて仏像の魅力に染まってしまいました。

 会場を何気なく見回すと、平日だからかもしれませんが、どうも日本人が少ない気がしました。7割近くは、どう見ても外国人観光客でした。コーカサス系だけでなく、東南アジアやインド系、勿論、中国、韓国系の人もです。そう言えば、私も海外に行けば、必ず、博物館や美術館に足を運びますからね。ガイドブック等で上野の博物館・美術館が紹介されているということなのでしょう。まさに、「世界に誇れる上野」です。

 でも、私は歴史好きなので、「この博物館はねえ、江戸時代は、東叡山寛永寺の本堂があった所だったんですよ。今の上野公園と言われている敷地は全て、寛永寺の敷地で、幕末には彰義隊が最後まで新政府軍に抵抗してここで戦ったんですよ」と外国人観光客に蘊蓄を垂れたくなりました(笑)。

上野・東博・常設展

 私はせっかちな性格で、「京都・南山城の仏像」展はわずか20分程で鑑賞し終えてしまいましたので、同じ本館の常設展も駆け足で見て回りました。

 やはり、ここでも、絵画ではなく、彫刻、特に仏像彫刻ばかり注目して観てしまいました。

 やはり、(ともう一度書きますが)仏像を拝観すると心が落ち着き、心が洗われる思いがします。仕事や人間関係で疲れた皆様にもお薦めですよ。出来れば、その前に、仏像の基礎知識を頭に入れて行かれれば鑑賞の醍醐味も倍増します。例えば、四天王の北の一角「多聞天」は、独尊としてまつられると「毘沙門天」と呼ばれます。この毘沙門天とは、インドの財宝神クベーラの前身で、「ヴァイシュラヴァナ」という別名を持っていました。この「ヴァイシュラヴァナ」はサンスクリット語で「よく聞く」と意味することから、中国語で「多聞天」と訳されたといいます。 

生蕎麦「吉祥」クルミせいろソバ1170円

 また、五大明王の中心となる不動明王立像(京都・神童寺蔵)が展示されていましたが、この不動明王とは、密教の大日如来の化身と言われています。煩悩多き救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をし、光背は怒りの炎がメラメラと燃え上がっているわけです。

 えっ?それぐらい御存知でしたか? 失敬、失敬。

多宝塔が身近にあったので吃驚=真言宗智山派の円乗院

 昨日は半年ぶりぐらいで東久留米の実家に行って来ましたが、9月の半ばだというのに強烈な残暑というより猛暑で、駅から実家まで歩いたら釜茹で状態でした。ちょっとあまりにもの異常気象で、このままでは人類も地球に住めなくなるんじゃないかという嫌な予感がしてきました。地球物理学では、それは20億年後ですが、もっと早まるのではないでしょうか。

円乗院

 ところで、私の趣味は、皆様にはバレておりますが、世界の城巡りと神社仏閣巡りです。あと温泉巡りですかね(笑)。暇さえあれば色々と行きたいのですが、今年の夏の暑さは異常でしたので、途中で熱中症になって周囲に迷惑をかけたくないということで、自重しておりました。

円乗院

 9月の半ばですから、近場ならいいか、ということで、やっと、神社仏閣巡りを再開しました。自宅から自転車で20分ほど。安養山西念寺円乗院です。鎌倉時代、「坂東武士の鑑」との誉(ほまれ)高い畠山重忠(1164~1205年)が建久年間(1190~99年)に、道場村(現さいたま市桜区道場)に創建し、慶長年間(1596~1615年)に現在地(さいたま市中央区)に移建されたといいます。真言宗智山派で、御本尊は五大明王です。

 畠山重忠は今の埼玉県深谷市生まれで、今の比企郡嵐山町の菅谷館を本拠地としておりましたが、この辺りまでも畠山重忠の領地だったということになりますね。

円乗院

  お目当ては、境内にある高さ30メートルの多宝塔でした。弘法大師空海の1150年御遠忌に当たる昭和56年(1981年)に記念事業として建立されたものです。高野山金剛峯寺、根来寺に次ぐ大塔ということで必見、いやお参りには欠かせません。

円乗院

 御覧の通り、確かに立派な大塔です。以前、私自身、高野山にお参りしましたが、そこにある根本中堂を思い出しました。そっくりです。住宅街の中に、根本中堂のような大塔があるのは、どこか、不自然ではありますが、境内に入れば神聖な雰囲気があります。

 残念ながら、多宝塔の敷地内には入れませんでしたが、真言宗ですから、塔内では大日如来を祀っているかもしれません。

円乗院

 拝観時間は午前7時から午後5時までです。私がお参りした時は、どなたも他に参拝者はおりませんでしたが、色んな方がいらっしゃるようで、境内には「三脚撮影禁止」だの、「ここからは墓参者のみ関係者以外は立ち入り禁止」だのといった看板があちらこちらに「展示」され、よほど、何かの被害を蒙っているのかしら?と思ってしまいました。

円乗院

 「ご安心ください。私は単なる神社仏閣巡りの参拝者です」と言いながら、本堂でのお賽銭は少し弾んでおきました。

 そして、ここをお参りすることが出来て、坂東武者の畠山重忠のことをまた少し身近に感じることが出来ました。歴史が教えるところでは、彼は、清廉潔白の恩義に堅い武将で、源平合戦で大活躍しましたが、源頼朝の死後、北条時政の騙し討ちに遭って、命を落としました。まさに、権力闘争です。

 関東地方には、鎌倉だけではなく、御家人たちが建立した寺院が多くあります。いつ何時、生命を奪われかねない乱世で、武将たちは仏教に救いを求めたことがよく分かります。

天祖神社

 この円乗院の奥という言い方は変ですが、与野本町駅を背後に前進すると、バラ園で有名な与野公園がありました。

 ついで、と言っては怒られますが、公園内に天祖神社が祀られていましたので、お参りして来ました。

 以上、本日は、何か、小学生の夏休みの作文のような記事でした。

名倉有一氏の「恒石重嗣年譜」とモーツァルトの曲、何だっけ?

 在野の近現代史研究家で、NPO法人インテリジェンス研究所特別研究員の名倉有一氏から「恒石重嗣年譜」の資料が、メール添付で小生にも送られて来ました。579ページという膨大な資料で、おっ魂消ました。

 恒石重嗣(つねいし・しげつぐ、1909~96年)という人は、太平洋戦争中、陸軍参謀本部参謀(宣伝主任)兼報道部員として敵の戦意喪失を目的としてラジオの宣伝放送「ゼロ・アワー」「日の丸アワー」等を担当した元陸軍中佐です。謀略放送ということで、戦後、戦犯容疑でGHQに2年間で23回も出頭したといいます。東京ローズ裁判のからみや、捕虜を強制的に謀略放送に使った容疑だったようです。その後、出身地の高知市に戻り、不動産業などで生計を立てていたようです。陸士44期ということで、あの瀬島龍三と同期ですね。

 もし、御興味が御座いましたら、インテリジェンス研究所のホームページにも掲載されておりますので、そちらをご参照ください。

 恒石重嗣と同じ1909年生まれの文学者には大岡昇平、中島敦、花田清輝、長谷川四郎、太宰治、松本清張、まど・みちお、飯沢匡らがおり、多士済々です。

 さて、先日、CDプレーヤーを買い換えた話をこのブログに書きました。しばらく聴けなかったCDがやっと聴けるということで、喜び勇んでかけようとしましたが、曲名が分かりません。

 モーツァルトの曲です。「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」というメロディだけは鮮明に思い浮かぶのに、何の曲かさっぱり出てきません。でも、最初は高を括っておりました。ディヴェルティメントの何番かではないか、という薄っすらとした確信があったからでした。そこで、持っているCDの中の全てのディヴェルティメントを聴いてみました。が、どれも違う? ディヴェルティメント15番変ロ長調でもありませんでした。

 おっかしいなあ?それなら「管楽器のための協奏曲」かな?ということで、フルート協奏曲やホルン協奏曲やオーボエ協奏曲など手当たり次第に聴いてみましたが、どれも違います。モーツァルトはわずか35年の生涯でしたが、作品は厖大です。K626と言われていますが、ジャンルも交響曲、室内楽から宗教曲、オペラまで作曲しています。まさに大天才です。

 そっかあ、もしかして、私の頭の中でグルグルと回っている「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」という旋律は交響曲39番だったかなあ?ということで聴いてみましたが、これも違いました。ああ、もう分からん、ということで奥歯に物が挟まった感覚でしたが、この日は諦めました。

 それが、一日経った本日、「もしかして、ヴァイオリン協奏曲かもしれない」と急に思い当たり、これまた持っているCDを手当たり次第に聴いてみましたら、やっと見つかりました。「ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調」の第1楽章アレグロでした。

 私が文字で示した「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」というメロディが出てきますよ(笑)。

 この曲を聴くと凄く元気が出ます。

【追記】2023年9月10日(日)

 渓流斎ブログの愛読者であるYさんから連絡があり、思い出せない曲があったら、グーグルの「鼻歌検索」があるので、試してみては如何ですか?と教えてもらいました。早速、チャレンジしてみましたが、あまりにも鼻歌が下手くそで音痴なのか、うまく行きませんでした。

 でも、iPhoneを使って、CDで曲をかけながら「この曲何?」と聞いたところ、曲名だけでなく、交響楽団名からヴァイオリン奏者まで提示し、そのCDが買えるサイトまで辿り着けるようになっていたのです。これには吃驚。

🎬「福田村事件」は★★★★★

 昨日書いた渓流斎ブログ「100年前の関東大震災直後に起きた不都合な真実」の最後の方で、映画「福田村事件」(森達也監督)のことを書いたので、本日早速、観に行って参りました。言い出しっぺが、観なければ話になりませんからね。この映画は色んなことが複雑に絡んでいて、後からボディーブローのように効いてくる作品でした。今年一番の名作と言っておきます。

 その前に、実は、当初は、観るつもりはなかったのです。生意気ですが、最優先事項ではなかったのでした。特に、今年はつまらないハリウッド映画に遭遇して、劇場に足を運ぶのが億劫になっておりました。それが昨日、たまたまブログを書いた後、友人のY君からメールが来て、「僕は明日『福田村事件』を観に行くつもり」とあったのです。私もブログで朝鮮人虐殺事件のことを書いたばかりだったので、「これも何かの啓示かな」と思ったのでした。

 そして、何よりも、昨日書いたことは、小池都知事を始め、国粋主義者の皆さんの逆鱗に触れる話かもしれませんが、大手マスコミである読売、産経、日経が、大震災後の不穏な空気の中で、朝鮮人虐殺がまるでなかったかのように「報道しなかった事実」には愕然としてしまいました。そこで、この事実を多くの人に読んでもらいたいと思い、やめていたFacebookに昨日の記事だけを何年かぶりに投稿したのでした。そしたら、即、反応がありまして、色んな副産物を得ることが出来ました。それは後で書きます。

映画がはねて、今話題沸騰の池袋「フォー・ティエン」へ。店前は長い行列で22分待ちました。

 映画は、関東大震災が起きて5日後の1923年9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)で実際に起きた自警団による、朝鮮人だと誤認した日本人虐殺事件を題材にしています。殺害されたのは、讃岐(香川県)から来た薬売りの行商団15人のうち、幼児や妊婦を含む9人です。行商団の人たちは、被差別部落出身で、二重に差別されているような感じでした。この史実は、100年近くも闇に葬られていましたが、1979年から遺族らによる現地調査が始まり、1980年代から徐々に新聞等で報道されるようになったといいます。

 それでも、多くの人には知られず、そういう私もこの映画を観るまで、この事件について全く知りませんでした。

池袋「フォー・ティエン」牛肉のフォー950円 非常に期待していたのですが、小生の馴染みの銀座のフォーの方が美味しいかな?

 先述した「副産物」というのは、Facebookで投稿したところ、色々な方からコメントまで頂いたことでした。その中で、読売新聞出身のSさん(著名な方なので敢えて名前は秘します)から驚きべき内容のコメントを頂いたのです。以下、御本人に事前承諾の上、掲載しますとー。

 映画は、封印されてきた事実をベースにしています。福田村は今の千葉県野田市で、私が住んでいる柏市を含めた東葛地域に当たります。映画が依拠した「福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇」の著書である辻野弥生さん(82)は、私も参加している「東葛出版懇話会」の仲間です。懇話会は6月、森達也監督を定例会の講師に招き、映画『福田村事件』の話をしてもらいました。もちろん辻野さんもスピーチしました。

 福田村事件の加害者として検挙されたのは、福田村の自警団員4人と、隣村の田中村の自警団員4人で、その後、恩赦で全員釈放されたといいます。この田中村は現在の柏市ですから、同市にお住まいになっているSさんとは大いに関りがあったわけです。

 Sさんは、読売新聞文化部の放送担当記者出身で、現在放送評論家です。昨日のブログで私が読売新聞の悪口めいたことを書いたので、低姿勢でお詫びしたところー。

 「悪口」ではなく、事実を指摘されたわけですよね。 Y紙についていえば、きのうの夕刊の映画評欄で女性記者が絶賛していました。新聞記者時代も今もそうですが、私は「文化(部)は政治(部)の風下に立たない」と自分に言い聞かせています。

 との返事を頂きました。同じ読売社内でも、違う考え方をする「抵抗勢力」がいらっしゃるということで安心しました。

 あれっ? 映画の話でしたよね? まあ、とにかく御覧になってください。ドキュメンタリー作家の森達也がメガホンを採りましたが、フィクションも取り入れてます。荒井晴彦、佐伯俊道、井上淳一の3人ものベテラン脚本家が恐らく侃侃諤諤と協議して練り上げた台詞と、正確な衣装考証で色鮮やかな大正時代のファッションまで蘇らせ、100年前にタイムスリップしたようです。

 主演は井浦新、田中麗奈、永山瑛太の3人ですが、過去のスキャンダルで謹慎処分が続いていたピエール瀧や東出昌大、昨年、参院選に当選しながら病気で辞職した水道橋博士も出演していて、いい味を出しておりました。特に、ピエール瀧は、地元紙「千葉日日」の編集部長の役で、若い女性記者(木竜麻生)が真実を書くことを主張しても、「不逞鮮人の仕業だと書き直せ」などと当局の意向に沿った発言しかしないので、まさに「はまり役」でした(苦笑)。

 そう、当時は、ネットどころか、テレビもラジオもなく、メディアと言えば新聞だけ。その報道が大衆に与えた影響はかなり大きかったはずです。その新聞が、内務省の発表通り「朝鮮人が暴動を起こそうとしているので、自警団をつくって守るように」との通達をそのまま掲載すれば、民衆はその通り、実行するはずです。加害者も、むしろ正義感に駆られて自分たちの村を守るべきだと立ち上がったのかもしれません。

 これらは100年前の大昔に起きたことなので、現代に起きるわけがない、と考えるのは間違いです。今は、むしろ、SNSなどでフェイクニュースや偽情報が横行しています。

 私も映画の帰り、某駅前で、某政党の政治家が、外国人排斥のアジ演説をしているのに遭遇しました。不安と恐怖に駆られると何をしでかすか分からない群集心理に洗脳される日本人のエートス(心因性)は、100年前とちっとも変っていないのです。

【追記】

 差別用語は当時のまま表記しました。

 

100年前の関東大震災直後に起きた不都合な真実

 9月1日は、関東大震災から100年の節目の年です。100年は、長いと言えば長いですが、「人生100年時代」ではあっという間です。

 本日付の新聞各紙はどんな紙面展開するのか? 興味津々で都内最終版の6紙を眺めてみました。そしたら、「扱い方」が、どえりゃあ~違うのです。

 扱い方というのは、大震災のどさくさの中、「朝鮮人が井戸に毒を流した」などといった流言蜚語が飛び交い、自警団らによって朝鮮人・中国人が虐殺された事件をどういう風に紙面展開するのか、といったことでした。毎日新聞は、社説、記者の目、社会面を使ってかなり濃厚に反映していました。朝日新聞も負けじと、社説、特集面、社会面で積極的に報道しています。東京新聞も、「売り」の「こちら特報部」で朝鮮人虐殺正当化の「ヘイト団体」まで取り上げています。ネットで確認したところ、時事通信もかなり報道していました。

 その一方で、うっすらと予想はされましたが、産経新聞と読売新聞は全く触れていません。産経と読売の幹部は「朝鮮人虐殺はなかったこと」にしているかのようです。日本経済新聞も、ほとんど触れていません。と、思ったら、辛うじて、社説で、虐殺があったことを、震災直後に発行された「震災画報」の記事を引用して取り上げております。何故、論説委員が直接書かないのか不思議です。

 劇団俳優座を創設した一人である千田是也(本名伊藤圀夫、1904~94年)は、大震災後、千駄ヶ谷で朝鮮人と間違われて暴行された経験があり、芸名を、「千駄ヶ谷のコリアン」から付けた逸話は有名です。千田是也のような実体験をした人が亡くなると、歴史は風化して「なかったことに」なるのでしょうか。

スーパーブルームーン

 松野博一官房長官は8月30日の会見で、朝鮮人虐殺について問われ、「政府内において事実関係を把握する記録が見つからない」と宣言したようです。しかし、震災直後の内務省警保局の電信文には、朝鮮人殺害や日本人誤殺、流言の拡散などが記され、震災から2年後に警視庁が発行した「大正大震火災誌」にも掲載されています。また、政府の中央防災会議の2009年の報告書では、震災の死者・行方不明者約10万5000人のうち「1~数%」(つまり、1000人~数千人)が虐殺犠牲者と推計しています(東京新聞「こちら特報部」)。ということなので、岸田政権が事実関係を把握しようとしないのか、もしくは「なかったこと」にしようとする強い意思が伺えます。小池百合子都知事が犠牲者追悼式典に追悼文を送付しないのも、同じような理由なのでしょう。

 大震災のどさくさに紛れて、朝鮮人だけでなく、「主義者」と呼ばれた反国家主義者も虐殺されました。その一番の例が無政府主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、そして6歳の甥橘宗一が憲兵隊によって虐殺された「甘粕事件」です。さすがに本日、そこまで取り上げるメディアはありませんでしたね。(甘粕正彦憲兵大尉はその後、満洲に渡り、満洲映画協会の理事長になり、ソ連侵攻で、「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」という辞世の句を残して服毒自殺しました。)

スーパーブルームーン

 産経、読売、日経も岸田政権も小池知事も「もう自虐史観はやめて、前向きな新しい歴史をつくろう」という積極的な意図が見えますが、読者には100年前の史実が伝わっていません。

 昨日は、西武池袋百貨店が、大手百貨店としては1962年の阪神百貨店以来61年ぶりにストライキを行いました。テレビで、ある若い男性がインタビューを受けていましたが、彼は「ストライキなんて教科書に載っているのを知っているぐらいで初めてです」などと発言していました。彼よりちょっと年を取った世代である私からすれば、「えー!!??」です。特に、我々は国鉄のストで学生時代はさんざん悩まされた世代ですからね。会社でも30年前まで頻繁に時限ストを行ったいました。

 30年前ぐらいにストライキが頻発した出来事を(当然のことですが)若い世代は知らないのですから、100年前の虐殺事件ともなると、知るわけがありません。特に、産経と読売の読者でしたら、知り得ません。でも、あれっ?そっかあ~。今の若い人は新聞読まないかあ~。

 奇しくも、本日から関東大震災直後の虐殺事件を扱った映画「福田村事件」(森達也監督)が公開されたので、御覧になったら如何でしょうか?

【追記】2023年9月2日

 関東大震災後の朝鮮人虐殺事件に関して、「国営放送」のNHKでさえかなり積極的に報道していました。予算審議を政府に握られているNHKが出来るのに、何で政府の意向に従わなくても済む読売、産経、日経が政府の顔色を窺って報道を避けるのか、全くもって不思議です。

物理学に苦手意識がなくなったことが収穫です=ニュートン別冊「学びなおし 中学・高校物理」

 むふふふ…。ニュートン別冊「学びなおし 中学・高校物理」(ニュートンプレス)を読了しました。広げたら縦27.5センチ、横42.0センチというデカイ本を小さく折り畳んで、満員電車の中で一生懸命読んでいた老師がいたとしたら、それは私です。今どき、電車の中で勉強している人間は皆無です。。。と思いきや、本日は、司法試験らしき勉強をしている若い人を一人だけ見つけましたが、彼は座ると直ぐ寝入ってしまいました(笑)。

 「学びなおし 中学・高校物理」は、看板に偽りあり、ですね。「ドップラー効果」「慣性の法則」「ボイル・シャルルの法則」といった実に懐かしい用語が出てきましたが、「キルヒホッフの法則」も「波動関数」も、それ以外はほとんど習っていないことばかりです。「学びなおし」にならず、お初に学習させて頂きましたが、お蔭様で、物理学に対する謂れも知れぬ恐怖心はなくなりました。「全て理解できた」などとおこがましいことを言うつもりはありませんが、少なくとも、物理学に対する苦手意識がなくなり、むしろ、非常に好きになりました。

 いやはや、人類が確立した学問の中で、物理学ほど面白い学問はありません、と図々しく言っても過言ではありません(笑)。

Ginza

 この本では、

・重力は距離の二乗に反比例する。

・重力の正体は時空のゆがみである。

・自然界は波(電磁波、電子の波、音波など)に支配されている。

・自然という書物は、数という言語で書かれている。(ガリレオ)

 などといった物理学のキーワードが登場し、文科系の人間でも大いに深く考えさせられました。

 結局、自然科学は、実験で得た仮説を、最終的には数式に当てはめることによって初めて万物に応用が出来る学問だと思いました。アインシュタインが自らの相対性理論らしき理論を、黒板いっぱいに数式を書いて説明講義している写真を見たことがありますが、素人にはさっぱり分かりませんでしたけど(笑)。

 しかも、物理学は象牙の塔には閉じ籠りません。ニュートンの万有引力の法則は、蒸気機関の発明に応用され、産業革命の土台になりました。ファラデーとマクスウェルによる電気と磁気の解明によって、都市に街灯が巡らされ、発電機が発明され、ラジオやテレビの通信にまで応用されました。アインシュタインの相対性理論は、核力の存在を明らかにし、残念ながら本人は関与しなくても原子爆弾の開発につながり、シュレーディンガーやハイゼンベルクらの量子力学は、レーザーを始め、インターネットからスーパーコンピューターの開発に至るハイテク革命にまで応用されました。(実は、この辺りは、ミチオ・カク著、斉藤隆央訳「神の方程式」(NHK出版)からの部分引用です。)

Ginza

 さて、現代の最先端の物理学はどうなっているのでしょうか? 同書によると、現在の物理学者たちは、マクロな世界を記述する一般相対性理論と、ミクロな世界を記述する量子論を融合した「究極の理論」を構築しようと努力しているといいます。

 それは、仮に「量子重力理論」と呼ばれているそうですが、先に引用した「神の方程式」の日系3世の米国人ミチオ・カク(賀来道雄)ニューヨーク市立大学教授(76)もその一人です。彼は、「粒子と波の二面性」を持つ素粒子は点状の粒子とは考えず、長さを持つ「ひも」として考える「超ひも理論」の提唱者です。と、言われても、中学・高校で習ったことはなく、これまた初めて聞く理論です。

 人間、何歳になっても、勉強し続けなくてはいけませんね。時代についていけなくなってしまいます。

大スターは代償が大き過ぎる=草刈正雄さんの父親捜し

 毎日、ブログを書き続けることは実に大変です。ので、もしかしたら、毎日、このブログを読み続けてくださる人の方がもっと大変なのではないかと拝察致します。感謝申し上げます。

 さて。14日にNHK総合で放送された「ファミリーヒストリー=俳優・草刈正雄(70)篇」を御覧になりましたか?実に壮絶な話で、涙なしでは見られませんでしたね。恐らく、再放送されることでしょうから、見逃した方は、検索してみてください。

 草刈さんは1952年生まれで、「朝鮮戦争で死んだ」「写真は全て焼き捨てた」と母親から聞かされていた米兵の実父が、実は生きていて、2013年に83歳で亡くなっていたという衝撃な事実が明かされます。草刈さんも全く初めて知る事実だったので、司会者から感想を聞かれても、「言葉が出ませんね…」と涙を流しておられました。

Ginza

 戦後6年間、敗戦国日本は米軍に占領され、米軍兵と日本人女性との間に生まれた「混血児」の多くが親たちに見捨てられた悲しい歴史がありました。そんな混血孤児たちを養護するための施設として、岩崎弥太郎の孫に当たる澤田美喜さんが創設した「エリザベス・サンダース・ホーム」は特に有名です。

 草刈さんの場合、米兵の父親ロバート・トーラーさんは、草刈さんが生まれる前に米国に帰国してしまい、その後、空軍の仕事で西ドイツに渡り、同国で知り合った女性と結婚します。一方の福岡県人の母親は、気丈な人だったため、小倉で仕事を掛け持ちして女手一つで子どもを育てようと決心しますが、時には生活が立ち行かなくなり、何度か心中しようとしたらしいのです。当時は、学校でも「合いの子」と差別されたらしく、草刈さんも戦争の犠牲者と言えなくありません。

 番組では、スタッフが苦労の末にやっとノースカロライナ州に住む草刈さんの伯母に当たるジャネットさん(97)を探し当てます。ジャネットさんは70年前に、草刈さんの母親から米国の自宅に手紙をもらった時は、弟であるロバート・トーラーさんは西独に行っておらず、自身も若くてお金がなく、親子の無事を祈るしかなかったといいます。その事実は誰にも話せず、70年間も自分の心の内に秘めていたといいます。

 結局、番組では草刈さんとジャネットさんは、米ノースカロライナ州の彼女の自宅で再会を果たし、めでたし、めでたしで終わります。だけんども、1日経って、冷静に振り返ってみれば、父親は、日本人女性が妊娠していることを知っていたのに見捨てて帰国し、その後も養育費すら払っていなかったわけですから、それらの事実を省略して随分、美談に仕立て上げられたもんだなあ、という感想に変わりました。

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 草刈さんは、その甘いマスクを生かして、モデルから俳優業にも進出して大スターになりましたが、芸能界で成功することは並大抵のことではありません。いわば、宝くじに当たるようなものなのです。私もかつて、芸能界を広く浅く取材したことがありますが、大スターに限って、その代償として、大借金を抱えるとか、家族に恵まれないとか、差別されて育ったといったような、本人が自覚しているにせよ、しないにせよ、大きな大きな「不幸」を抱えている人が多いという事実に気付かされたことがありました(非常にマイルドに書きました)。

 草刈さんも大スターながら、70年間も父親のことに関して、心の奥底でモヤモヤを抱えて生きてきたことを告白していました。その草刈さん、苦悩したのは父親のことだけでなく、2015年には長男が、23歳の若さで、渋谷区のマンションから転落死されていたことも、この記事を書くに当たって色々と調べていたら初めて知りました。

 やはり、大スターは代償が大き過ぎます。

 

日本人のルートにまで迫る=更科功監修「人類史の『謎』を読み解く」

 もし、貴方がこの渓流斎ブログの長年の愛読者様でいらしたら、ここ数日、何で、違う話題なのに、急にネアンデルタール人やホモ・サピエンスが出てくるのか不可思議にお感じなったのではないでしょうか?

 はい、更科功監修「人類史の『謎』を読み解く」(宝島社、2023年8月5日初版)を併行して読んでいたからです(笑)。この本は、人類学の最新の学説を表や写真やイラストを取り入れて分かりやすく解説した好著です。高校か大学の副読本にしてもおかしくありません。こんな情報が1320円で手に入るなんて安いもんですよ。

 私が急激に人類史にのめり込んだのは、昨年10月に読んだジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)がきっかけでした。えっ?こんな話聞いたことない。アウステラロピテクスは知っていても、サヘラントロプス・チャデンシスって何だ!…てな具合でした。それからは人類学、進化論、宇宙論にまではまってしまったことは、このブログの読者ならご案内の通りです。この本を監修している分子古生物学者・更科功氏の著書「禁断の進化史」(NHK出版新書)についても、このブログで取り上げました。

 人類の進化史研究が飛躍的に進歩したのは、技術的に核ゲノムの解析まで可能になったからです。それが西暦2000年のことだといいますから、これまでの古い学説が次々と書き換えられるようになったのはつい最近のことだったのです。古生人類の化石の新発見に次ぐ新発見は、1970年代で学業を終えた旧世代の学徒は全く知らなかったのは当たり前の話だったのです! 20世紀後半までは、母親から子に遺伝するミトコンドリアのDNAの解析まで辛うじて解析できたのですが、それが限界でした。核ゲノム(DNAの中の遺伝情報の全て)の解析で両親から子へ遺伝子まで分かり、それが進化史研究の飛躍的発展につながったわけです。

 例えば、現生人類であるホモ・サピエンスは30万年前にアフリカで出現しましたが、その前の43万年前にホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)が誕生していました。ネアンデルタール人は4万年前に絶滅しましたが、それまで同時代人として地球上で生きていて、何とホモ・サピエンスとも交雑していたというのです(最新の学説ではデニソワ人との3者が共存した時代があり、お互いに交雑したともいわれます)。核ゲノムの解析で、現生人類の中にネアンデルタール人の遺伝子が約70%残っていることが分かったといいます(ただし、一人ひとりの個人では約2%)。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの交雑が分かったのは2010年頃といいますから、これまた、本当につい最近のことですね。

 ついでながら、この本の監修者である更科氏は、ホモ・サピエンスの脳の容量は約1350ccに対して、ネアンデルタール人は1600ccだったことなどから、ネアンデルタール人がホモ・サピエンスよりも知能的にも体力的にも劣っていたというこれまでの学説に疑問を投げかけ、絶滅するのが、ネアンデルタール人ではなく、ホモ・サピエンスの方だったとしても「何の不思議もない」とまで発言しています。(更科氏は、ホモ・サピエンスが絶滅しなかったのは子沢山だったためで、ネアンデルタール人が絶滅したのは少子だったからではないかと推測しています)

 この本に書かれている「新説」は、私自身、これまで人類史関連の本を結構読んできたので、生意気ながらあまり驚くことはありませんでしたが、図解入りで整理して解説してくれるので、頭に入りやすい。多くの人にお勧めしたいぐらいです。それに、「学説」は色々ありますから、何を信じたら良いのか分からなくなることがありますが、この本は、「これが最新学説だ」ということで提示してくれます。

 例えば、同じ霊長類の生物の中で、現生人類に繋がるヒトとチンパンジーが分岐して進化したのは、この本は約700万年前であることを提起してくれます。この700万年前説を否定する学者もいますが、それだけなくても、人間が猿から進化したことを真っ向から否定するキリスト教聖書原理主義者も現代にはいるわけです。だから、原理主義者さんから見れば、この本や進化論は発禁本ということになると思われます。

 もう一つ、この本が読み易いのは、進化の過程を「初期猿人」「猿人」「原人」「旧人」「新人」に区分けして解説してくれることです。国際学会では、もうこんな区分けはしないそうですね。でも、我々のような旧世代にとっては大変馴染み深い区分なので理解が増すことが出来ました。(700万年前の初期猿人のサヘラントロプス・チャデンシスの復元写真が掲載されていますが、これは猿そのものですね)

◇日本人のルーツとは?

 本書の終わりの方では、日本人のルーツにまで迫っています。ホモ・サピエンスが日本列島に到達したのは4万年前としています。つまり、地球46億年の歴史で、わずか4万年前まで日本列島には一人も現生人類はいなかったのです!主にサハリン経由で北海道へ、そして、台湾、沖縄経て九州へと2ルートあったといいます。彼らが1万5000年間続いた縄文人となったのでしょう。だから、縄文人の遺伝子がアイヌと琉球人に色濃く残っています。その後も、大陸から朝鮮半島を通しても渡って来たりしますが、それが稲作などを伝えた弥生人です。弥生時代は紀元前300年頃からとなっていますが、渡来人はその前からかなり多くやって来たようです。この本の最新学説では、現代日本人は、弥生人が縄文人を征服したわけではなく、混血によって同化し、その後、古墳時代になって、中国の内乱(4〜5世紀の五胡十国時代)を避けて日本列島に渡ってくる人(政治亡命者?)がかなり多かったことから、この古墳人とも混血していったといいます。

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 興味深かったことは、日本人に多いミトコンドリアDNAの分布を解析すると、中国東北部と朝鮮半島と東南アジアに多く見られたと言います。

 吃驚です。

 恐らく「大炎上」するかもしれませんが、中国東北部とは旧満洲のことです。先の世界大戦で、日本人が朝鮮と満洲と東南アジアに進出(というより侵攻)したのは、ホモ・サピエンスとして、故地を目指した(奪回?)のではないかと錯覚してしまいました。

 いえいえ、政治的意味はありません。単に自然科学の人類学からの推測です。

英国人とは何者なのか?

 昨日は、清水健二著「英語は『語源×世界史』を知ると面白い」(青春出版社)を取り上げ、内容については、「かなり知っているつもりだった」と放言してしまいました。

 これからは、正直に、この本に書かれていた語源で、知らなかったことを告白していきます。(順不同)

 ◇ lady (女性、貴婦人)は「パン生地をこねる人」だったとは!

 「領主」や「地主」「管理者」などを意味するlord は、「パンを管理する者」が語源で、ここからloaf (パン一斤)が派生し、「パン生地をこねる人」のlady も派生した。ちなみに、女性の地主は、landlady 。

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 ◇フランス人はフランク人か

  481年、ライン川東岸にいたゲルマン系のフランク人が北ガリア(北仏)に侵入してフランク王国を建国します(第一次ゲルマン人の大移動)。フランク Franks は、彼らが好んで使用していた武器「投げ槍」に由来します。フランク人は自由民であったことから、frank は「率直な」という意味になり、これから、「自由に販売・営業する権利」などを意味するfranchise (フランチャイズ)に派生します。名前のFrancis は「自由で高貴な」、Franklinは「槍を持つ人」「自由民」を意味します。ドイツの都市フランクフルトFrankfurt は「フランク人が渡る浅瀬furt 」だったとは知りませんでしたね。

 フランク人に征服される前のフランスは、ケルト系のガリア人が住んでいました。古代ローマ帝国のカエサルが遠征した「ガリア戦記」で有名です。フランス人は、自分たちのことをゴウロワ(ガリア)と自称していますから、大まかに言えば、ケルト人とゲルマン人の混血が今のフランス人になったということになるでしょう。

 ◇英国人はノルマン人なのか

 5世紀中頃、アングロ・サクソン人がブリテン島に侵入して、先住民のケルト系ブリトン人を征服します。(ブリトン人は、4~6世紀にフランスのブルターニュ地方に移住し、ブルトン人と呼ばれます。)アングロ・サクソン人とは、ユトランド半島とドイツ北岸のエルベ川流域に居住していたゲルマン系のアングル人とサクソン人とジュート人の3部族の総称のことです(第一次ゲルマン人の大移動)。

 アングル人は、ユトランド半島の海岸線の地形が釣り針(古英語でangel)に似ていたことからそう呼ばれたといいますが、このアングル人が住む土地からイングランドEngland 、アングル人が話す言葉からイングリッシュEnglish が生まれました。また、アングル angle は「角」とか「角度」を意味したことから、triangle(三つの角⇒三角形) quadrangle(四つの角⇒四角形、) rectangle( rect真っ直ぐな角⇒長方形)が派生しました。さらに、ankle 「曲がったもの」から「足首」、anchor「曲がったもの」から「錨」が生まれました。

 サクソン人the Saxonは「ナイフを持った兵士」、ジュート人 the Jutes は「ユトランド Jutlandの住人」に由来します。

 そっかあ、英国人とはゲルマン系のアングル人の子孫かあ、と思ったら、9世紀頃からノルマン人(スカンジナビア半島やユトランド半島など北欧に留まっていたゲルマン人。いわゆるヴァイキング)の一派であるデーン人(デンマーク人)がブリテン島を征服します。デーン人は11世紀にも再び、侵攻して、クヌート1世は、デンマークとノルウェーだけでなく、イングランド王まで兼ねます(第二次ゲルマン人の大移動)。

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 そっかあ、英国人はデンマーク人なのか、と思ったら、1066年、ノルマンディー公ギョーム2世が王位継承を主張してイングランド王国を征服して、ウイリアム1世として即位します。世に言う「ノルマン・コンクエスト Norman Conquest」です。(ノルマンディーは、西フランク王のシャルル3世が、ヴァイキングの侵入を防ぐためにノルマン人にフランス北西部の土地を与えて公爵に任命したもの)このノルマン王朝が現在の英国王室に繋がっています。先に亡くなったエリザベス女王も生前、「あれ(ノルマン・コンクエスト)は私どもがやったことです」とインタビューに平然と答えたといいます。

 となると、英国人はノルマン人(ヴァイキング)ということになりますね。しかし、先住民が絶滅したわけではないので、英国人とは、ケルト人(アイルランド)とゲルマン系のアングロ・サクソン人とデーン人の末裔でもあるわけです。ブリテンに王朝を建てたノルマンディー公ギョーム2世はフランス育ちなので、英語が出来ず、ノルマン・コンクエストからその後300年間も英国の公用語はフランス語で、公文書はラテン語を使っていたといいます。えっ?英語はどうしちゃったの? 辛うじて庶民が使っていたようです。

 道理で、日本人は、英国人とフランス人とドイツ人とデンマーク人とノルウェー人との区別がつかないのかよく分かりましたよ。

 でも、英国人だの、フランス人だのと言っていては、ちいせえ、ちいせえ。元々、欧州にはネアンデルタール人(43万~4万年前)が住んでいたのですから。ネアンデルタール人は4万年前に絶滅しましたが、はっきりした原因は分かっていません。現生人類ホモ・サピエンスよりも、脳の容積量が多く、腕力も強かったのに、です。はっきりしているのは、少子化による子孫絶滅ということですから、ホモ・サピエンスも少子高齢化社会ですから、ネアンデルタール人と同じ運命を辿るかもしれません。