検察庁の世界=山本祐司著「巨悪を眠らせない」から

 その前に、山本祐司著「巨悪を眠らせない」(角川文庫)を読んでいました。1988年2月10日初版になっていますから、もう30年以上昔の本です。(文庫ですから、単行 本の方は、「続・東京地検特捜部 日本最強の捜査機関・栄光の復権」(現代評論社)のタイトルで1983年に発行されていました。)

 1976年に明るみに出たロッキード事件を追ったノンフィクションです。著者の山本祐司氏(1936~2017)は、司法記者クラブに10年在籍し、毎日新聞の社会部長も務めた人で、司法関係、特に検察関係の書籍を多く出版し、「この人の右に出る者はいない」と言われたジャーナリストです。が、小生は、社会部畑の人間ではなかったので、つい最近知りました。この本も人に勧められて、古本を買ってみました。

 何で、興味を持ったかといえば、つい先月、都内で加藤哲郎一橋大学名誉教授によるゾルゲ事件に関する講演会を聴講し、その中の重要人物が、太田耐造という戦前を代表する「思想検事」だったからです。法曹界の最高権威でしたが、日本の敗戦により、公職追放されます。

 この本によると、戦後に思想検事に代わって台頭してきたのが、「経済検事」で、戦後の昭和電工疑獄、造船疑獄など歴史に残る大事件で敏腕を振るいます。と、書きたいところですが、造船疑獄では、犬養健法相による「指揮権発動」(検察庁法第14条)で、捜査は打ち切られてしまうのです。犬養健は、5.15事件で暗殺された犬養毅首相の子息で、ゾルゲ事件で連座して逮捕された人でしたね。

 また、同じことを書きますが、同書は、ロッキード事件のあらましを追ったノンフィクションですが、その前に、過去の事件や検察庁の内部闘争などが描かれているのです。検察庁のトップは、最高検の検事総長だということは知っていましたが、最高検の次長検事よりも、東京高検の検事長の方が位が上だということはこの本で教えられました。

 私自身は、戦中前後の昭和初期の方に興味があるので、実は、ロッキード事件よりも、途中で検察が挫折した造船疑獄の方に絶大な関心を持ってしまいました。小生の生まれる前の事件でしたが、後に首相となる自由党の池田勇人政調会長と佐藤栄作幹事長が、収賄側として捜査が続けられていました。日本の政治というのは、戦争直後も金権体質は変わっていなかったんだなあ、という思いを強くしました。

 同書によると、造船疑獄の【贈賄側】は、

 三井船舶社長 一井保造(いちい・やすぞう)

 三菱造船社長 丹羽周夫(にわ・かねお)

 石川島播磨重工業社長 土光敏夫(あの臨調の土光さんまでも)

 飯野海運社長 俣野健輔(日比谷の飯野ビルの大家さんか)ら

【収賄側】は、

佐藤栄作幹事長 《容疑》利子補給法成立にからみ、造船工業会、船主協会から自由党あてとして、各1000万円。佐藤個人として、飯野海運の俣野社長から200万円。

池田勇人政調会長 《容疑》日本郵船、大阪商船、飯野海運、三井船舶の4社から俣野社長を通じて、200万円受け取り。

 造船疑獄が起きた1954年の大学卒初任給は5600円で、2018年の大学卒初任給は20万6700円であることから、約37倍の物価水準にあることが分かるので、当時の1000万円とは、今の3億7000万円ということになりますね。

WST National Gallery par Duc de Matsuoqua

 ところで、この本の主人公の一人が、この造船疑獄や昭和電工疑獄などで主任検事を務めた河井信太郎・元大阪高検検事長(1913~82)です。政財界の事件を捜査し、「特捜の鬼」と言われた人物です。この人は、中央大学法学部という私学の出身ながら、東大閥の多い官僚の世界では異例にも抜擢されます。これは、戦後の「思想検事」から「経済検事」に比重が移っていった時機と歩調が合い、実力主義が見直されたからでした。

 中央大学の場合、法律以外にも経理や会計の課目取得が重視され、数字にも強い司法修習生が多かったため、経済検事を重視した検察庁に引き抜かれることが多かったともいわれています。

 どこの世界も奥が深いです。

 

🎬「決算! 忠臣蔵」は★★

 宣伝につられて、映画「決算! 忠臣蔵」を観てきました。宣伝のチラシでは、監督の中村義洋の名前が少し小さいことから、この作品は監督で売り出しているんじゃなくて、俳優で売ろうという趣旨が見え隠れします。(映画の宣伝費は、製作費と同じぐらい掛ける、と著名な映画プロデューサーから聞いたことがあります。)

 主演の大石内蔵助役が、堤真一。準主役の勘定方・矢頭長助役が岡村隆史。内蔵助の妻りく役は竹内結子、浅野内匠頭の妻瑶泉院役は石原さとみ。堤は真田広之の元付き人でアクションスター出身の俳優。岡村は、お笑いコンビ、ナインティナインのボケ役で、吉本興業所属。吉本は製作協力に名を連ねていることから、吉本のタレントが総出演という感じ。元参院議員西川きよし、桂文珍の大物までも…。

 仇討ち劇に、お笑いの人たちとは、何か違和感。

もっとも、仇討ちの剣劇場面はほとんどなく、吉良さんも登場せず、お話のほとんどが、銭カネの話。当時の1文=30円、1両=12万円と換算し、蕎麦の相場が16文だったことから、今の480円。討ち入りのためには、宿代、飯代、武具、槍、刀代などで、合計1億円近くかかる詳細内訳は、大変面白かったのですが、やはり、演ってる人たちがお笑いさんだと、違和感が…。

まるで、昭和時代の文士劇か、学芸会のようだった、と書くとこのブログも炎上するでしょうね。映画館までわざわざ足を運んで、きちんとお金を払って観た単なる一個人の感想ということで、勘弁してください。今、ブログに批判的なことを書くと殺される時代ですから、こちらも命懸けです。

 ただし、この映画の原作になった山本博文著「『忠臣蔵』の決算書」(新潮新書)は、しっかりしているようです。武士の中でも、番方(武官)と役方(文官)との間の反目が映画でもよく描かれていました。

京都・光明寺(西山浄土宗総本山)は今、紅葉の見ごろです

京都の京洛先生です。

「東西タイムズ」の渓流斎編集主幹から「京の都の紅葉の写真を送ってもらえませんかね。東京の紅葉は深みがありませんから」とのご依頼もあり、本日、午後から、洛外、長岡京市にある西山浄土宗総本山「光明寺」に出向き、パチパチ写真を撮ってきました。

Copyright par Kyoraque-sensei

紅葉のこの時季は「光明寺さんの紅葉は、綺麗やし、見に行きまひょか」と、近畿各地から見物人が大挙押し掛けるので、阪急「長岡京市」駅から、阪急バスが臨時増便されて、大賑わいでしたね。

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編集主幹とは、今夏、同じ西山浄土宗で、山科にある青龍山「安養寺」を訪れた際、村上純一御住職から「総本山光明寺は、宗祖法然様の御廟もあり、一度ご覧になるといいですよ。今の時季は閑静で人もほとんどいませんから落ち着くでしょう」と勧められましたね。

 確かに、暑さの頂点を極めたあの日、人影が全くない同寺を訪ねることができましたが、今日は、打って変わって大変な賑わいで、見物客目当ての様々な露店も出ていて、「これが同じあの光明寺か」と吃驚仰天です(笑)。

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あの夏の日、渓流斎主幹は、青葉を見ながら「紅葉の時季になると、恐らく、此処は一面、紅葉参道になるのでしょうね」と言っておられましたが、全くその通りでした。これから12月半ばまでは、紅葉見物が出来るくらいまだ青葉も残っていました。

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総門から御影堂までの石畳も、紅葉見物の人出が絶えず、阿弥陀堂、御影堂の堂内も、老若男女、子供連れ、アベック等々でごった返していました。

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光明寺は京都の西南の西山連峰を背景に、今から800年前、法然上人の教えを伝えるべく建立されましたが、総門の前には「浄土門根元地」と大きな石標が建てられています。

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広い境内は、楓の木が多く、「薬院門」から「閻魔堂」にかけての緩やかな下り坂は、まるで紅葉のトンネルのようで壮観でした。

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「御影堂」の裏には「国光大師の御廟」があります。この夏は、御影堂の中に入り、誰もいないお堂で、年老いた管理人の方の詳しい光明寺の謂れを教えてもらいましたが、裏手は拝観しませんでしたね。石庭もありました。…

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この時季だけは入山料500円を徴収されますが、それだけの値打ちはある境内の紅葉探訪、散策でした。

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御影堂の中から、外の紅葉の色合いも綺麗でしょう。

機会がありましたら、また紅葉狩りに京都にお越しください。

以上

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京洛先生江

そうですか。またまた、光明寺まで足を運ばれたのですか。少し、懐かしいですね(笑)。

 確か、光明寺から長岡京市駅までのバスが1時間に1本か2本しかなく、「大変な所に来てしまった」と思いましたが、紅葉のシーズンは臨時バスが出るんですね。

 たくさんの人出の中、「アベック」なんて、1960年代風で、今では死語になってしまいましたが、京洛先生の時間は停まっているのでしょうね(笑)。

 あれから、私自身は、日本浄土教に関して、ほんの少し勉強しましたので、西山浄土宗も、鎮西派も、法然上人も、弁長上人も、証空上人も、そして、阿弥陀如来の思想も知識として増えました。お蔭で、これからも寺院や仏像を参拝するのが、ますます楽しみになりました。

 また、いつか京都に行って寺社仏閣巡りをしたいと思っています。ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

渓流斎

陶山幾朗著「パステルナーク事件と戦後日本」は名著としてお薦めします

 ここ10日間ほど、ずっと陶山幾朗(すやま・いくろう)著「パステルナーク事件と戦後日本ー『ドクトル・ジバゴ』の受難と栄光」(恵雅堂出版、2019年11月20日初版)を読んでいました。もうすぐ読了します。今日は11月19日。えっ?まだ初版が発行されていないじゃないですか。…実は、「謹呈」として出版社から贈られてきたのです。謹呈となってますが、その著者は既にこの世におりません。昨年11月に急逝されていたのです(享年78)。今月初めに出版社の方から知らせて頂きました。

 「えっ!!」ですよ。1年も経つのに知りませんでした。陶山さんとは3、4回お目にかかったことがあります。1度は1時間以上のインタビューでお会いしたので、人柄を察することができました。一言で言うと超真面目。饒舌ではなく、一つ一つ言葉を丁寧に慎重に選ぶ人でした。哲学者風です。陶山さんとは、彼が出版した「内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく―私の二十世紀」 (恵雅堂出版)を読んで感動し、その本の編者にこちらからインタビューをお願いしたのでした。2008年5月の初版ですから、初対面はもう10年以上昔ですか…。

 「パステルナーク事件と戦後日本」は、 著者の遺作となってしまいましたので、特に熟読致しました。正直、個人的には文学とは離れてしまったので、陶山さんの著作でなければ読まなかったかもしれません。とはいえ、この本は1958年10月に起きた、官憲の圧力による「ドクロル・ジバゴ」の著者パステルナークのノーベル文学賞辞退という世界中を巻き込んだ「事件」の顛末を追った紛れもないノンフィクションでした。そこには、社会主義という人類の理想を実現したソ連という国家の背後に、血の粛清で権力を独占したスターリニズムという恐怖政治がありながら、戦後の日本の知識階級が抱いていた幻想によって、彼らが実態を冷徹に分析できなかった歴史的事実を、現代人から見ると滑稽とも思えるほど暴いています。

 ただし、「滑稽」と言えるのは当時の渦中にいなかった安全地帯にいる現代人の特権みたいなもので、後世の人間から見れば現代人の滑稽さなど、同じようにいくらでも見つけ出すことができることでしょう。

 パステルナーク事件が起きた1950年代後半から連合赤軍事件かベルリンの壁崩壊辺りまでの日本は、左翼知識人が「良識」として跳梁跋扈とした時代でした。今でこそ、人類史上でも卑劣なシベリア抑留やラーゲリ(強制収容所)の実態が暴かれ、ソ連が人間的ではない、とんでもない恐怖政治を敷いた監視国家だったことが分かっています。しかし、当時の日本の知識人(例えば中野重治)たちは、本来の平等な共産主義とは似ても似つかぬような、というべきか、それとも共産主義そのものが持っている暴力的体質というべきか、とにかく、反体制派を弾圧し、粛清と殺戮が日常茶飯事のように行われていたソ連の実態に目を瞑り、理想主義国家として賞賛していました。当時、そのような風潮を冷静に批判したのは、本書にあるように、シベリア抑留体験のある内村剛介、戦前共産党員として逮捕され獄中体験した埴谷雄高、プロレタリアートから出発した平林たい子ぐらいでした。

 私は幼かったので、パステルナーク事件が起きた当時の喧騒を「同時代人」として体験したわけでなく、「ノーベル賞を受賞したにも関わらず、ソ連当局(フルシチョフ政権と作家同盟)の圧力により受賞を断念した事件」という後付けの一行ぐらいの知識ぐらいしかありませんでした。でも、この本を読むと、それに付随して、日本ペンクラブ内での高見順専務理事を中心としたグループと、「源氏物語」などの翻訳者としても知られるサイデンステッカーら外国人会員との対立と軋轢、「モスクワ芸術座」事件、当時世界的な人気作家だったアーサー・ケストラー(スペイン内戦時、拘束されて死刑判決を受けたが、国際世論によって救われた体験を持ち、ソ連恐怖政治の批判者)による日本ペンクラブ講演ボイコット事件、ルイセンコ「学説」の興亡など、複層した事件が次々と起こっていたことがこの本を読んで初めて知りました。もちろん、当時の日本は敗戦から占領時代を経て、ようやく政治的にも文化的にも独立を勝ち取って歩みだした時代であり、世界政治が、資本主義対共産主義という冷戦構造の真っただ中にあったことは言うまでもありません。そんな時代的背景が事細かに鮮烈に描かれ、この本を読むと、事件の喧騒に巻き込まれて、当時と同じ空気を吸っているような感覚に襲われます。

 名著です。私の勝手な空想ですが、著者は、パステルナーク事件という狂騒曲を使って、それを舞台回しにしながら、1940年生まれの著者の最も多感だった青春時代の歴史的時代背景を描写したかったのではないのか、と思いました。(「あとがき」では、本書を書くきっかけは、「高見順文壇日記」を読んだことから、と書かれていますが)御本人が生きていたら、伺ってみたかったでしたね。

女優沢尻エリカの薬物所持が「桜を見る会」を駆逐する話

WST Natinal Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

  上野の東京国立博物館のミュージアムショップで買った「仏像でめぐる日本のお寺名鑑」(廣済堂出版、1650円) を読んでいたら、恥ずかしながら、知らないことばかりでした。

 驚きの一つは、観音様(観世音菩薩)が、阿弥陀如来の「従者」だったということです。正確には従者ではありませんが、阿弥陀如来が衆生を極楽浄土にお迎えする際、25人の菩薩を引き連れて行きますが、そのお一人が観音菩薩だったのです。そもそも、如来とは、菩薩が悟りを開いて最高位に達した人でした。阿弥陀仏も法蔵菩薩が悟りを開いて如来になったことは、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に書かれていました。(この本には書かれていませんでしたが)。

即成院の「練り供養」 Copyright par Kyoraque-sensei

 私は忘れっぽい質(たち)なのですが、この「阿弥陀如来と二十五菩薩」といえば、今年10月23日付のこのブログで「京都・泉涌寺で『練り供養』」のタイトルで書いたことがありました。京都にお住まいの京洛先生からの写真と情報提供で「10月20日(日)は、『練り供養』、正式には『衆來迎練供養会式』が、東山のふもと“天皇の御寺(みてら)“である「泉涌寺」の塔頭の一つ『即成院』でありました」と書いております。(素人目から見て不可思議なのは、泉涌寺は、真言宗なのに、浄土思想の行事があることです)

 この即成院の 阿弥陀如来と二十五菩薩」 は、国の重要文化財となっており、ホームページを見てみると、二十五菩薩とは何を指すのか、全て明らかにされています。よく知られている普賢菩薩や文殊(法自在王)菩薩、虚空菩薩、薬王菩薩などのほか、即成院には面白いことに、二十五菩薩には本来入らない如意輪観音もあり、全部で二十六体もあります。

◇JCコムサって何?

 仏像の話はひとまず置いといて、昨晩、名古屋にお住まいの篠田先生から電話があり、「今、『桜を見る会』の不正を安倍首相は握り潰そうとしているけど、とんでもない。花見会の飲食物を提供するケータリングサービス業を、安倍政権になってから一社が独占し、年々売り上げを伸ばしている。それは『JCコムサ』という会社で、主にピザの製造宅配から名を上げて、外食産業に進出した会社や。そのJCコムサの大河原愛子社長と安倍昭恵夫人とは昵懇の仲で、愛子社長の夫である毅CEOは、安倍首相と昵懇の仲、愛子社長の弟は米ドミノ・ピザの日本営業権を持つ起業家で、安倍夫妻と昵懇の仲ちゅうわけや」といきなりまくし立ててきました。

 何の話なのか、さっぱり分からなかったので、調べてみたら、BIGLOBEニュースの「『桜を見る会』公金不正に新疑惑! ケータリング業者は安倍首相と昭恵夫人のお友達だった 不自然な入札、価格も倍以上に」に出ている話だったことが分かりました(笑)。

 もう一つ、安倍首相と高木邦格理事長との関係が隠蔽されたと言われる国際医療福祉大学の問題についても、書こうかと思いましたが、あまり、他人様の褌で相撲を取っているわけにはいかず、今日はこの辺でやめておきます。

 しかし、政府首脳は、警察に対して、大物女優沢尻エリカの薬物所持をマスコミにリークさせるなど、自分たちに都合の悪い「桜を見る会」疑惑をカモフラージュしようと躍起になっているように見えます。確かに、ワイドショーは、女優さんの話ばかりで、桜は消えてしまっているなあ…。

東博「正倉院の世界」展は満杯だった

 東京・上野の東京国立博物館で開催中の「正倉院の世界 皇室がまもり伝えた美」展(読売新聞社など主催)(当日1700円)に行って来ました。

 読売新聞を読んでいないと、こんな展覧会が開催されているなんて、さっぱり分かりませんが、つまり、朝日や毎日や日経や東京や産経を読んでいてはその存在自体も知りにくいのですが、さすが、天下の読売です。その「力」で、平成館の入り口前には長蛇の列が出来ていたので、吃驚しました。

スカイツリーが見えました

20分近く並んでやっと入れました。

説明するまでもなく、正倉院とは、奈良にある聖武天皇の御遺愛品を収蔵した倉庫でしたね。今回、新天皇陛下の御即位ということで、特別に公開されることになったのです。

正倉院の原寸大(?)の模擬建造物

 恐らく廃仏毀釈のせいか、明治になって、法隆寺から皇室に献納された宝物も今回展示されていました。

 とにかく、読売新聞の力で、会場内は超満員で、展示物を飾ったガラスケースの前は、二重三重のとぐろが巻かれていました。

 宝物を見に来たのか、人間を見に来たのか、区別がつかなくなるほどです。

上の写真は、「螺鈿紫檀五弦琵琶」です。模造なので、館内で数少ない写真撮影オッケーの宝物でした。パンフレットには、11月4日までの「前期展示」と書かれているので、前期には模造ではなく、本物が展示されていたのかもしれません。(私が訪れたのは11月16日でした)

今回の展示で、私が注目した1点だけ挙げるとしたら、「蘭奢待(らんじゃたい)」(黄熟香=おうじゅくこう)です。写真はありませんが、「天下人が切望した香り」とあるように、「門外不出」どころか、本来なら触ることも厳禁だった香木ですが、3カ所だけ、くっきりと切断されて持って行かれているのです。その3カ所にはわざわざ名前が書かれていて、それは「足利義政」「織田信長」「明治天皇」だったことが分かっています。一体どんな香りだったのか、興味が湧きますね。切断された空洞は、権力の象徴に見えます。

        ◇◇◇◇◇

 人混みが大嫌いなので、本館で開催中の「文化財よ、永遠に」展に移動しました。正院院展のチケットを持っていたので、そのまま入れますが、ここだけ入るには620円の観覧料が必要です。でも、それだけの価値はありました。

 同展は、住友財団が修復した仏像が展示されていました。中には、昭和18年に日本から仏領インドシナのフランス極東学院に送られた鎌倉時代の阿弥陀如来立像(ベトナム国立歴史博物館蔵)が、75年ぶりに里帰りし、修復された姿が展示されていました。

 変な言い方ですが、私は仏像が大好きです。対面すると心が落ち着きます。大変信仰深い仏教徒とは言えないかもしれませんが、自然と手を合わせてお祈りしたくなります。やはり、自分は日本人なんだなあ、と思います。

 今さらながらですが、観音様と一言で言っても、観音様には「千手観音菩薩」「十一面観音菩薩」、それに「聖観音菩薩」「如意輪観音菩薩」など本当に色々とあります。正直、その違いと意味合いについて深く分かっていないことに気づき、ミュージアムショップで、手頃な本を探しました。

 そしたら、ありました、ありました。「仏像でめぐる日本のお寺名鑑」(廣済堂出版、1650円)です。仏像の種類について何でも書いてあり、特に国宝や重文の仏像が御本尊になっている代表的なお寺まで紹介されています。これを参考に、小生の寺社仏閣巡りに拍車をかけたいと思っています。正直、ウキウキ、ワクワクです。

新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事「太田耐造関連文書」公開で

 「ゾルゲ事件研究の新段階」と題した加藤哲郎一橋大学名誉教授による講演が11月9日(土)に東京・早稲田大学で開催された第29回諜報研究会の報告会で行われ、私も聴講してきました。その4日前の11月5日付朝日新聞朝刊で、「ゾルゲ事件 天皇への上奏文案 旧司法省主導 都合よく添削」という記事が掲載され、そこには、「概要は9日に都内で発表される」とあったので、さぞかし多くの方々が詰めかけると思いましたが、それほど多くはなく90人ぐらいだったでしょうか。(6月8日の専修大学での報告会では200人以上だったらしい)

 それも、どうみても年配の方々ばかり。若い人は新聞を読みませんからね。時代を反映しているということでしょう。時代の反映といえば、ゾルゲ事件研究も、かつては高度経済成長にあった日本が最先端で、世界的にみても量も質もピカ一でしたが、「失われた30年」で、中国が経済大国に成長してからは、今後は中国(ゾルゲの上海時代の活動は未だ未解明部分多し)での研究が期待されていると言われています。学術研究もお金がかかるというわけです。会場には大御所の研究家渡部富哉氏も参加されていましたが、御年数えで九〇歳。懇親会で大声を出されて、まだ元気溌剌でした。

 さて、講演会の副題は「思想検事・太田耐造と特高警察・天皇上奏・報道統制」でした。ゾルゲ事件に関しては私自身、勉強会やセミナーなどにも参加して15年近く関連書籍も読んできて、このブログにも散々書いてきました(ただし、その間の記事は小生の不手際で全て消滅!)。そんな私ですが、講演会の内容は色々と複雑に派生した問題がからんでおり、結構難しかったですね。資料を読み込んだりしているうちに、これを書くのに3日もかかってしまいました(苦笑)。

 ですから、そんな複雑な話は、ある程度の予備知識がある人でないと分からないので、茲で書くことは最小限に絞り、固有名詞、用語の説明については最低限に留めます。その代わり、リンクを貼っておきますので、ご自分で参照してください。

 加藤先生は講演タイトルを「ゾルゲ事件研究の新段階」とされてましたが、長年、ゾルゲ事件を研究をしてきた人にとっては、実に画期的で革命的な「新段階」なのです。何故なら、かつての研究者が元にしてきたのは、1962年からみすず書房が刊行した「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻で、これは戦前の内務省警保局特高警察資料を元にした戦後の警察庁版「外事警察資料」(1957年)だとみられるからです。

 それが、2017年に国会図書館憲政資料室から「太田耐造関連文書」が公開され、司法省の「思想検事」だった太田耐造が残した文書にはゾルゲ事件に関する膨大な資料が含まれ、そこには司法大臣名の昭和天皇宛上奏文や新聞発表統制資料などが含まれていたことが初めて分かったのでした。

 つまり、加藤先生によると、ゾルゲ事件の捜査・検挙・取り調べ、新聞発表を主導したのは、治安維持法による共産主義の取り締まりに当たった内務省警保局(特高警察と外事課)ではなく、また陸軍憲兵隊でもなく、国防保安法、軍機保護法に基づく国家機密漏洩を重視した司法省思想検察だったというのです。外務省や情報局はほとんど関与できなかったといいます。

 太田耐造(1903~56)は、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕する際の法的根拠とした治安維持法の改正(1941年3月10日、7条だったのを65条にも増やした!)、軍機保護法の改正(同日)、軍用資源秘密保護法(同年3月25日施行)、軍機保護法(同年5月10日施行)の全てに関わっていたのです。驚きですね。当時、太田はまだ30代の若さでした。

 太田耐造関連文書の中の「ゾルゲ事件史料集成」(全10巻)は現在、不二出版から刊行中ですので、ご興味のある方はご参照ください。講演会では隣席にこの不二出版の小林社長が座られて、何年ぶりかでお会いし(当時は、編集者でした)、向こうから御挨拶して頂き、社長業も大変で何となくお疲れ気味でしたので、茲で紹介させて頂くことにしました。

 司法大臣岩村通世からゾルゲ事件について昭和天皇に上奏されたのは、昭和17年(1942年)5月13日(水)午前11時30分。司法省刑事局長室での新聞発表はその3日後の5月16日(土)午後4時でした(朝日新聞の記事では【司法省十六日午後五時発表】となっている。不思議)。ゾルゲやブーケリッチ、宮城与徳、尾崎らが逮捕されたのは、これを遡る7カ月も前の1941年10月でしたが、報道差し止め。事件の発覚が国民の目に触れたのはこの時が初めてでした(しかも具体的な諜報内容は伏せられた)。その後、日本が敗戦となるまで、44年11月のゾルゲと尾崎の処刑も含めて一切の報道はありませんでした。

探しました!昭和17年5月17日(日)付東京朝日新聞朝刊1面「国際諜報団検挙さる」 扱い方が司法省の命令により地味 紙面は戦中のせいなのか、わずか4面。夕刊は2面でした。

 ここで注目したいのは、太田耐造文書に関しては既に毎日と朝日で報道されていますが(読売、日経、産経、東京などは精通した記者がいないのか?報道していないようです)、天皇上奏文と新聞発表では明らかに、かなりの相違があったことです。新聞発表では、「トップ扱いにするな」「四段組以下扱いにせよ」「写真は載せるな」(現代文に改め)など事細かく「新聞記事掲載要綱」で報道統制していたことも分かりました。

2018年8月18日付 毎日新聞朝刊1面

 上奏文と新聞発表の大きな違いは十数点ありますが、一つだけ挙げるとすると、上奏文の内部資料とみられる文書では、ゾルゲは「ソ連の赤軍第四本部の諜報団」と正確に明記しながら、新聞発表文では治安維持法適用のために「コミンテルン・共産党関係の諜報団」としたことでした。司法省も大本営発表のような偽情報を流したということですね。

 (ただし、日本共産党関係は、治安維持法の制定(1925年)で、28年の「三・一五事件」、29年の「四・一六事件」や幹部の転向などで壊滅状態となり、加藤先生によると、1935年以降の共産党関係者の検挙率は1%にも満たなかったといいます。えっ!驚きです。むしろ、太田耐造らが関わった41年3月の治安維持法改正では第七條「國體ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者 」も加えられ、労組関係者や宗教団体への弾圧が増えたといいます。)

 そして、何よりも付け加えたいのは、上奏文にはあった「ソ連」が新聞発表文では、一切削除されていたことでした。これは、当時、ソ連とは日ソ中立条約を締結しており(しかし、昭和20年8月にソ連が一方的に破棄して、満洲の悲劇が生まれる)、内務省警保局外事課では、ソ連は、何と「親善国」とされていたという背景があります。「ソ連」と新聞発表しなかったのは、親善国ソ連を徒らに刺激することを避けたとみられます。そういえば、終戦間近、日本はソ連を仲介して和平工作を進めていましたね。満洲で暴虐の限りを尽くし、「シベリア抑留」をしたロシア人を信用するなど実におめでたい話だったことは歴史を見れば分かります。

 いずれにせよ、太田耐造関連文書の公開で、ゾルゲ事件の研究がさらに進むことが望まれますが、景気低迷、少子高齢化の日本では興味を持つ若い人材すら減り、危うい感じもします。

 ゾルゲ国際諜報団が、ソ連赤軍に打電した重大事項の中には、尾崎が情報収集した昭和16年(1941年)7月2日の御前会議で決定された南部仏領インドシナへの進駐(いわゆる南進政策)のほか、ゾルゲがドイツ大使館で入手した独ソ戦開戦に関するドイツ側の開戦予定日と意図などもあり、世界史的にも注目されます。(ただし、スターリンは信用していなかったという説もあり)

 ゾルゲ関係の資料や200冊近い関連書籍を読みこなすには何年もかかりますが、多くの人に少しでも興味を持って頂ければ私も嬉しいです。

日蓮主義とは何だったのか

 大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか」(講談社)をやっと読了しました。668ページの大作ですから、2週間ぐらいかかりました。

 この本については、前半を読んだ段階で、11月6日付のこのブログでも取り上げましたが、通読してみて、少し印象が変わりました。

 前半は、明治から大正にかけて、田中智学(国柱会)や本多日生(顕本法華宗管長)、高山樗牛(文藝評論家、思想家)ら第1世代による日蓮主義の創設、確立、普及の話でしたが、後半に入ると、井上日召(血盟団事件)、北一輝(2.26事件)、宮沢賢治(詩人)、石原莞爾(満洲事変)ら第2世代による日蓮主義の実践の話が中心となります。

 この中で、最も多くの紙数を費やしていたのが、石原莞爾でした。日本の軍人の中でも最も毀誉褒貶の高い複雑怪奇な人物です。

 満州事変を起こした中心人物の一人ながら、東亜連盟主義思想から中国戦線の拡大を断固として反対して、逆に左遷され、特に東条英機とはソリが合わず、徹底的に反抗したことから、ついには予備役に回され、軍服を脱いで、立命館大学の教壇に立ちます。これが、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月のことでしたから、戦後になって、石原はGHQから戦犯に指名されることはありませんでした。

 ともかく、石原莞爾は軍人という以上に思想家として知名度を高めます。「東亜聯盟建設綱領」(石原の個人秘書名で出版)、「昭和維新論」「世界最終戦争論」など多くの著作も発表します。いずれも、「日蓮思想」に深く根差した思想を表明した著作です。石原は田中智学の創立した国柱会の熱烈な信行員でした。

 私自身は、昭和初期の経済恐慌を背景に、血盟団事件や5・15事件、相沢事件、2・26事件などが起きて、 日本全体が軍事ファッショ化する歴史について、日本史の中で最も興味があります。その時代を、当時、日本中を席捲した宗教・思想を中心にこの本は描かれているので、大変勉強になりました。

 「日蓮思想」は、戦争を正当化した「八紘一宇」(田中智学が造語)や石原莞爾の例に見られるように、日本が敗戦を迎えるまで、太平洋戦争も含めてずっと、他の宗派を凌駕して圧倒的な影響を勝ち得ていたと思っていたのですが、違うんですね。特に昭和14年に田中智学が亡くなってからは、タガが外れたように総攻撃が熾烈化します。

 「曼荼羅国神勧請不敬事件」や「日蓮遺文削除問題」などが起こり、日蓮主義者たちは徹底的に攻撃されるのです。その攻撃側の中心人物が「原理日本」を主宰する蓑田胸喜です。この人は、美濃部達吉の「天皇機関説」を攻撃して葬り去った人物として有名です。胸喜は「むねき」ですが、「きょうき」と読んで恐れられました。

 蓑田らは、日蓮主義者たちが、国主法従説(国家が宗教に優先する)を装いながら、法主国従説に立ち、天皇よりも日蓮や法華経を上位とする考え方が国体護持に反すると我慢ならなかったのでした。

 面白いことに(と言ってはいけませんが)、蓑田胸喜が東京帝大哲学科宗教学宗教史学科時代に師事したのは、親鸞の信奉者だった右翼思想家の三井甲之だったいうのですから、仏教宗派の勢力争いにも見えなくもないです。

 いずれにせよ、昭和16年になると、治安維持法も改正されて、全ての既成仏教や大本教(大正時代から弾圧)などの新興宗教、キリスト教など、国家神道以外のほとんどの宗教への弾圧が徹底化されます。

 日蓮主義は、田中智学らのような国家主義と結びついた思想のほかに、本多日生思想から離れた妹尾義郎らを中心にした仏教社会主義もありました。明治末から隆盛した社会主義や労働組合運動などの時代的背景があります。

 本書では、日蓮や智学らが唱える「王仏冥合理論」や「国立戒壇論」などにも深く踏み込んで、戦後の創価学会の動きにも触れています。

かなりの労作ですから、皆さんも心してかかってください。

私自身は、父親の影響で、子どもの頃に意味も分からず法華経を読誦してきましたが、この本を読むと、日蓮思想には、四箇格言(「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という痛烈な他宗批判)があり、否が応でも強制的に教団に引きずり込む「折伏」という手段があり、明治以降の日蓮主義には、それが眼目にみえます。しかも、日蓮主義には、思想だけではなく、即、行動が伴います。他宗には見られない過激な信念があります。

宗教とはそういうものかも知れませんが、私自身は、どうもそのような思想や組織には馴染めません。まあ、信仰失格者ながら、仏教思想の勉強は続けていきたいと思ってます。

日本メディアの黎明期は僧侶出身が多かった

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨日のこのブログで、大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を取り上げたところ、京都にお住まいの京洛先生から早速、反応のお便りがありました。

 …渓流斎ブログで取り上げておられる大谷栄一氏の本は面白そうですね。寺内大吉の影響がいかに大きいか、ということです。
 つまり、僧侶でもある寺内大吉にはジャーナリストの視点があり、学者や専門家にはそういうことは邪道で、文献と資料だけで十分だということです。自分の推論やひらめきは持たないのです。
 渓流斎さんは、「中外新報」という宗教専門紙を御存知ないでしょう。明治30年(1897年)創刊の老舗新聞です。司馬遼太郎が産経新聞記者時代に、小説「梟のいる都城」を連載し、後に「梟の城」として出版され、これが直木賞を受賞したので知る人もいるかもしれません。司馬遼太郎こと福田定一記者は、日本で唯一の宗教記者クラブである「京都宗教記者会」に所属していました。

 しかし、中外日報の創業者、真渓涙骨(またに・るいこつ)は謎の多い人物で、知る人は少ないでしょう。「万朝報」の黒岩涙香ではありませんよ(笑)。この人は、聖俗合わせて飲むような生き方で、やはりヤクザ=ジャーナリスト(笑)ですが、「中外新報」のホームページに、龍谷大教授の中西直樹氏が「『中外日報』創刊前夜の真渓涙骨 生誕150年に寄せて」と題して、この謎の人物に迫っています。

この中で、中西教授は「黎明期の日本ジャーナリズムを支えた新聞記者には僧侶が意外に多い」として、その代表として干河岸貫一(ひがし・かんいち=1847~1930)と安藤正純(1876~1955)を挙げています。この2人の活躍に真渓が憧れて「中外日報」を創刊したといいます。干河岸は、福島県の本願寺派大乗寺に生まれ、本願寺派訳文係として数冊の翻訳書の出版し、朝日新聞、東京日日新聞などで活躍します。朝日新聞の東京支局通信主任時代には、「大日本帝国憲法」全条文をスクープして大阪本社に打電しました。社内きっての速筆と評され、その後、仏教専門紙「奇日新報」を創刊します。

京都・龍谷山本願寺

  安藤正純は、浅草の真宗大谷派真龍寺の住職の子として生まれ、僧籍を持っていました。陸羯南の日本や朝日新聞などの記者として活躍した後、政界に進出し、立憲政友会の幹部となり、戦後は文部大臣となった人です。

  中外日報の創業者、真渓涙骨も福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派興隆寺の住職の息子です。

 今と比べて、昔はマスコミ人のスケールが違いますね。幕末、明治は激動期であっても、メディアの黎明期で、同時に仏教や宗教の影響が大きく、新聞記者、ジャーナリストには在野精神が横溢していたわけです。テレビで顔を晒して政府擁護しかできない御用解説委員や、「スイス大使」を簡単に引き受けるような現代のマスコミ人とは大違いですよ。…

 なるほど、なるほど。真渓涙骨も干河岸貫一も安藤正純も、ジャーナリストの先輩として知りませんでした。日本のジャーナリズムも、仏教思想を抜きにして語れませんね。

大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を読み、暗澹たる思い…

  大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」(講談社、2019年8月20日初版)を今、読んでいますが、何とも心がざわつき、暗澹たる思いにさせられます。

 実に668ページの分厚い大作で、価格も4070円。読んでも読んでも、読み終わりません。

 著者の大谷氏は佛教大学教授。長年、近現代の宗教文化を研究され、特に日蓮主義運動に関する本も多く出版されています。

 学者さんの書くものなので、学術書ですから、小説のようには面白くありません。しかし、非常に多くの文献とデータを引用して、明治になって勃興し、超国家主義と結びついて戦争にまで駆り立てる「日蓮主義」を冷徹な筆致で分析しています。著者はあからさまには書きませんが、これらの主義、運動を批判的に見ていることは確かでしょう。何しろ、著者は寺内大吉著「化城の昭和史」に触発されてこの本を書いた、と序章で述べているからです。この本は、私も以前読んだことがありますが、昭和初期のファシズムの動向を日蓮主義の観点から批判的に分析した必読の名著です。

 大谷氏は、日蓮主義の代表人物として3人を中心に取り上げています。国柱会創始者の田中智学(1861~1939)、顕本法華宗管長の本多日生(にっしょう、1867~1931)、そして身延派の日蓮教学者清水梁山(りょうざん、1864~1928)の「三大家」です。

 日蓮思想は、幸田露伴、高山樗牛、宮沢賢治、北原白秋といった文学者から、石原莞爾(満洲事変)、北一輝、西田税(2.26事件)、井上日召(血盟団事件)ら軍人、右翼思想家らにまで膨大な影響を与えました。

 さて、この日蓮主義とは何なのか? まあ、本書をお読みください。詳しく書いてありますから(笑)。恐るべきことが多く書かれています。

 例えば、田中智学著の「世界統一の天業」の中には「日本国の祖先は太古印度地方より日本の地に王統を垂れたものだといふことは、種々の方面から立証を得ることゝなッて居るのみならず、現に印度にも釈迦の滅後に最高種族の一団が東方へ移住したといふことが伝説されて居るといふことだ」(14頁)と書かれています。

 つまり、日蓮思想によると、神武天皇をはじめ、天皇皇族の祖先は、釈迦の弟子で法華経を奉じた王族のインド人だったというのです。現代の右翼思想家も目を丸くすることでしょう。

 欧米列強に対抗する明治政府の富国強兵政策に則って、日蓮宗は日清、日露戦争と国家衰亡の危機が懸かった戦争に協力していきます。戦争に協力したのは、日蓮宗だけではありません。残念ながら、浄土宗も浄土真宗も曹洞宗も臨済宗もそうでした。仏教界全体が後押ししたのです。

 仏教は、名もなき庶民を救い、平和と平穏をもたらし、心の拠り所になるものではなかったのかー?

 ただ、彼ら僧侶に対して、半ば贔屓目に見ると、その時代の背景が浮かび上がってきます。明治新政府というより、薩長革命政権による「廃仏毀釈」の断行です。これによって、仏教界は壊滅的な打撃を蒙りました。寺宝の仏像や仏画や塔や伽藍等が売却されたり、海外に流出したりしました。仏教界も生き残りのために、富国強兵策を取る、時の政府に迎合、と言えば言い過ぎですから、歩調を合わせて行かざるを得なかったのでしょう。

 日蓮自身はそこまで言っていません。どうも、日蓮の宗教、教義を大幅に曲解し、牽強付会した理論に思えます。もしくは、数ある仏教の宗派の中でも、日蓮宗だけは異様に極端に走る傾向がある、と疑いたくもなります。

 これが、太平洋戦争ともなると挙国一致、大政翼賛会となり、仏教界だけでなくキリスト教界まで戦争に協力していきます。戦後最大のタブーの一つになった「宗教界の戦争責任」の追及は結局、有耶無耶になってしまった感がありますが、こういう本を読むと実証されていることが分かります。

 せっかく、柳宗悦の「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んで、仏教思想(浄土教)の神髄に触れて、仏教を見直したというのに、やるせないですね。

 この本は、まだ読了していないので、そのうち続きを書くつもりです。(つづく)