ワニブックス、池辺三山、有馬記念とは

我ながら、こう飽きもせず、毎日書き続けるものだと思います。今日の新聞広告で、佐野眞一著「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)のコピーで「大正期、激動の宮中におそるべき”記録魔”がいた」とあります。明治・大正・昭和の三代の天皇に仕えた倉富勇三郎の日記らしいのですが、「超一級史料」ということで、読んでみたくなりました。

最近読んだ本や雑誌の中で意外だったことを備忘録としてメモ書きします。

●ワニブックス

青春出版社の岩瀬順三氏が、光文社の神吉晴夫氏が生み出して大成功したカッパブックスに対抗して創刊した。その理由が「河童を餌にするのはワニだから」

●池辺三山の朝日退社

陸羯南が創刊した「日本」(正岡子規も記者だった)の記者だった池辺三山は、東京朝日新聞社に入社し、主筆として活躍。東京帝大講師だった夏目漱石を1907年4月、朝日新聞に招聘。その三山は、漱石の弟子森田草平が平塚雷鳥との愛人関係を赤裸々に描いた「煤煙」を紙上に掲載するかどうかを巡って、その背徳性を批判する大阪通信部長の弓削田精一(秋江)と衝突し、1911年11月に退社。

●世が世なら

1954年に「終身未決囚」で直木賞を受賞した有馬頼義(ありま・よりちか)は、旧久留米藩主、伯爵有馬頼寧(ありま・よりやす)の三男。頼寧は、1930年に未遂に終わった「桜会」が起こそうとした軍事クーデター「三月事件」の黒幕というか主犯格だった。このクーデターは、参謀本部の橋本欣五郎中佐ら将校100人以上が、国家改造と満蒙問題解決のために密かに結成した「桜会」が、時の浜口雄幸内閣を打倒し、現職の陸軍大臣宇垣一成を首班とする軍部独裁政権を樹立しようとするクーデター計画。頼寧が、大日本正義団総裁の酒井栄蔵を唆して軍部を動かした。

頼寧は、近衛文麿首相のブレーンの「昭和研究会」のメンバーで、農林大臣などを歴任し、日本中央競馬会理事長時代に競馬の「有馬記念」を創設。

作家の有馬頼義は、西荻窪駅から数分のプール付きの豪華な邸によく若い作家を集めて「石の会」を主宰していた。1972年5月、川端康成がガス自殺したことに衝撃を受けて、自分も追うようにガス自殺を図ったが、一命を取り留める。自殺未遂の後、広大な邸宅に住むことなく、自宅近くの狭いアパートで、精神病院入院中に知り合った若い女性と同棲した。

ヤメ検、昭和初期の若きエリート…

 ちょっとピンボケ


 インド象さんに奨められて「現代」10月号を読みましたが、なかなか読み応えがあってよかったですよ。750円の価値がありました。


 


 一番面白かったのが、やはりノンフィクションライターの森功氏の「ヤメ検ー司法に巣喰う生態系の研究」です。


公安庁元長官のヤメ検弁護士の緒方重威(しげたか=73)氏が、朝鮮総連の不動産売却にからんで詐欺事件として逮捕されましたが、緒方氏のような功なり名を遂げた、お金にも不自由をしていないように見える超エリートが、何で、こんな馬鹿げた事件を起こしたのか、一般庶民はさっぱり分からなかったのですが、事件の背後に潜むどす黒い闇が、この記事を読んで何となく分かるような気になりました。


 やはり、あれとあれだったんですね。


 


 非常に興味深かったのが、緒方氏の父親が、満州国最高検の思想検事として、戦時中に諜報活動家として名を知らしめた緒方浩弁護士で、公安調査庁の生みの親だったということです。


 


 緒方氏は、東京・六本木にあるTSKビルの再開発に乗り出すことが、最初に触れられますが、このビルはプロレスラーの力道山の盟友だった町井久之氏こと鄭建永氏が会長を務めた広域暴力団「東声会」が建設したビルだったということも明らかにされています。東声会は、あの政界フィクサーと恐れられた田中清弦氏を襲撃した団体としても知られています。


 このほか、NHKの人気キャスターだった宮崎緑さんの元夫だった椿康雄弁護士や、今年二月に大物華僑・葉剣英を自称して投資詐欺事件で逮捕された畑隆氏らも登場します。役者がそろった感じです。今回が第一回ですので、次回も楽しみです。


 


 佐藤優氏が、沖縄密約を証言した外務省元アメリカ局長の吉野文六氏の半生に迫った「国家の嘘」も面白かったです。吉野氏は旧制松本高校から東京帝国大学法学部に進み、大学3年で、高等文官試験の行政科、司法科、外交科のすべてに合格した超エリートだったのです。今で言えば、財務省官僚にも、裁判官にも、外交官にもなれるわけです。


 


 この論文を読んでいると、昭和初期の若きエリートたちのたたずまいが如実にわかりますね。当時、マルクス、社会主義が流行し、旧制弘前高校出身の太宰治(1909-1948)などは、組織に入って地下活動を展開し、後に転向する経験をしますが、吉野氏(1919-)は非常に理想的というより、現実主義的なところがあって、カント、ヘーゲル、ニーチェらドイツ観念論やマルクス主義関係の書物ではなく、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミルら英国経験論やアメリカのプログマティズムの書物に惹かれていたというのです。高校生、とは言っても今の大学の教養課程に当たるのですが、その分際で、旧制高校の連中は、このような書物をすらすら読んでいたのですからね。今の学生は、くだらない民放のお笑い番組を見て、ガハハと笑っているか、ゲームや携帯にはまっているだけでしょう。


 


 明治期に創設された第一高等学校から第八高等学校までは、「ナンバースクール」(一高:東京、二高:仙台、三高:京都、四高:金沢、五高:熊本、六高:岡山、七高:鹿児島、八高:名古屋)と呼ばれ、多数の政財官学界に人材を輩出し、他の旧制高校から区別されていたということも興味深かったです。ナンバースクールの連中に入る連中は、いぎたない野心の塊のような印象も受けました。


 

水木しげる「総員玉砕せよ!」

 

妖怪漫画の水木しげるさん(85)の自伝的戦記漫画「総員玉砕せよ!」を脚色したドラマ(西岡琢也作、香川照之主演)が、昨晩、NHKスペシャルで放送されました。よく知られているように、水木さんは、数少ない激戦区ラバウル戦線の生き残りです。左腕を失って帰還しました。

 

今だから、当時の軍幹部の無謀、無自覚、無責任、無定見は非難できますが、その渦中にいた当事者の庶民は何も抗弁も反抗もできず、玉砕という名の狂的な方法で殺害されたのに等しいことが分かりました。特に、最後に出てくる陸士出身の木戸参謀(榎木孝明)は、「司令部に報告義務がある」と言って逃げてしまうところなど、100パーセント、水木さんが見た事実だと思います。

 

木戸参謀は、部下を無意味に玉砕させておいて、自分だけは戦後もぬくぬくと生き延びたことでしょう。日本人はトップに立つ人間ほど卑怯なのですが、その典型なものを見せ付けられました。

 

水木さんは、10日付の東京新聞でインタビューに応えていました。戦記ものを書くのは、戦死した戦友たちが描かせるのかなあ、と言っています。「戦死した連中のことを考えるとわけがわからんですよ。何にも悪いことしていないのに、殺されるわけですからね。かわいそうだ」と語っています。

 

これ以外で、水木さんは大変貴重なことを言っています。

「好きなことをばく進してこそ人生です。カネがもうかるから嫌いなことでもするというのには、水木サンは我慢できないですねえ。人は我慢しているようですけどね。見ていられない。気の毒で。嫌いなことをやるのは馬鹿ですよ。…嫌いなことをするのは、私からみると意志が弱いように見えるねえ。自分の方針を貫かない。従順であったり。特に優等生に多いですよ、従順なのがね。世間が『こうしなくては』って言うとそっちの方向に行くって人が案外多い。好きなことにばく進する勇気とか、努力が少ない。私から見ると、必ず成し遂げるというのがない。命がけになれば選べることですよ。それをやらずに文句ばっか言っている」

 

最後に水木さんは、18歳ぐらいの時、生き方を真似ようと10人ぐらいの人からゲーテを選んだというのです。そのおかげで、ゲーテは水木さんの模範となり、幸せをつかんだといいます。戦場にもエッカーマン著「ゲーテとの対話」(岩波文庫、上中下3冊)を持って行き、暗記するくらい読み、ボロボロになった本を持ち帰ったそうです。

戦略爆撃

 勝毎花火


 


 真夏。今日は広島原爆記念日です。


 終戦記念日も近いということで、恒例の戦争ものの企画がマスメディアで取り上げられています。いいことでだと思います。


新聞の記事などによると、「戦略爆撃」と称して無辜の市民まで無差別に大量殺戮をした嚆矢が、ピカソの絵で有名になったゲルニカだったそうです。


1937年  スペイン・ゲルニカ   犠牲者 約2000人


1938年  中国・重慶              約2万人


1945年  ドイツ・ドレスデン         3万人~15万人


……


日本への大規模な空襲として、以下の記録がありました。


<o:p>1945年3月10日 東京    死者 約8万8,000人</o:p>


<o:p>1945年3月13日 大阪    死者  3,987人</o:p>


<o:p>1945年3月19日 名古屋   死者   826人</o:p>


<o:p>1945年5月29日 横浜    死者  3,789人</o:p>


<o:p>1945年6月 5日 神戸    死者   3,184人</o:p>


<o:p>1945年8月 6日 広島原爆 死者  約14万人 </o:p>


<o:p>1945年8月 9日 長崎原爆 死者約 7万3,884人</o:p>


<o:p></o:p> 


<o:p> 1937年の南京大虐殺が取り上げられていませんね。私は、否定説には与しませんが、その犠牲者の数については、いまだによく分かりません。ネット上では、かなり詳しく論争が展開されていますので、そちらをご参照ください。</o:p>


<o:p> 犠牲になった方々のためにも、先の大戦は何だったのかという論争が必要だと思います。まだまだ語り尽くされていません。</o:p>


 

「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」

 軽井沢


 


 文藝春秋8月号で「昭和の海軍 エリート集団の栄光と失墜」を特集しています。6月号の「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」に次ぐ第2弾です。座談会の形で、出席者は、半藤一利(作家)、秦郁彦(日大講師)、戸高一成(海軍史研究家)、福田和也(慶大教授)、平間洋一(元海将補)の5氏です。実によく微に入り細に入り調べつくしたものだと感心してしまいました。


 


 前回の陸軍に比べて、登場人物が少ないのですが、それもそのはず、太平洋戦争終結時の数字を試算すると、残存兵力と死没者を合わせて、陸軍は680万人、海軍は290万人だったそうです。陸軍と海軍では、2倍以上の開きがあったのです。


 


 日本の陸軍の原点は、高杉晋作の奇兵隊で、その後、山縣有朋、児玉源太郎、桂太郎、田中義一と長州閥がリードし、海軍は西郷従道で、以下、山本権兵衛、東郷平八郎と薩摩閥が続く…。成る程なあ、と思いました。一読して、人間、過去の栄光や成功からは教訓を学ぶことはできないと再認識しました。


 


 「成功体験の驕りと呪縛」がズルズルと、身内から錆びが生じて、愚かな負け戦と分かっていながら、国民を戦争に引き込んでいったのです。


 


 海軍は、大正十年(1921年)の軍縮問題で、軍縮の「条約派」(加藤友三郎海軍大臣)と軍備拡大・対米強硬論の「艦隊派」(加藤寛治中将)に分裂して、激しい内部抗争が生じます。結局、艦隊派の背後に、日露戦争のヒーローだった「軍神」東郷平八郎と、伏見宮博恭(ひろやす)王(連合艦隊「三笠」の分隊長)らがいたため、艦隊派の勝利で、太平洋戦争に突き進みます。


 


 特に、伏見宮は、陸軍の参謀総長に当たる軍令部総長に就任し、人事面などで都合の良い人間のみを抜擢します。昭和8年(1933年)から9年にかけて、大角岑生(おおすみ・みねお)海相の時に、加藤友三郎(7期)の薫陶を受けた「条約派」だった山梨勝之進(25期)と軍務局長の堀悌吉(32期)らが追放されます。堀は、山本五十六と海軍兵学校の同期で、海軍始まって以来の英才と謳われたといいます。結局、この人事が決定的になります。


 


 伏見宮は、昭和十六年四月まで軍令部のトップに君臨しますが、あと1年総長の座にとどまっていたら、開戦の責任を問われて戦犯になっていたはず。そうなると、皇室の責任と天皇制の存続の是非にも波及したかもしれない、と秦氏は言います。


 


 


 昭和十四年に日独伊三国同盟締結に反対した米内光正海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長を「良識派三羽ガラス」と言われています。しかし、福田氏は「海軍善玉論でよく語られているように、『米内は常に非戦論だった』『海軍は常に平和的解決を望んだ』というわけではない」と断言しています。昭和十四年二月、「海の満洲事変」と呼ばれる海南島の占領を、海相だった米内はかなり強引に推し進めた(平間氏)そうです。


 


 


 結局、海軍のエリートと言っても、官僚なのです。東京の安全地帯で作戦会議を開いて、指図していたに過ぎません。死ぬのはいつも庶民の兵隊さんです。だから、敵の暗号解読で、搭乗した飛行機が撃墜されて戦死した山本五十六がヒーローになるのかもしれません。

柏崎地震その後

 京都・祇園「小森」

 

大地震の被害に遭った柏崎の加納さんから電話を戴きました。まさに、報道の通りの大惨事で、水道はやっと通じたものの、ガスはまだで、おかげで火が使えず、いまだに柏崎小学校で避難生活が続いているということでした。火が使えないということは、食事(料理)とお風呂に困るということです。

 

加納さんは、柏崎の駅前通りの商店街で、古書店を営んでいます。五年前にご主人を亡くされましたが、ご主人は、非常に真面目で慎重な方だったので、家は鉄骨に建て替えておりました。おかげで、震度6強の激震に辛うじて耐えることができましたが、商品である本が滅茶苦茶になってしまいました。

 

加納さんによると、宮城県からボランティアの方が来てくださって、乱雑になった本を片付けるのを手伝ってくれたそうです。加納さんは、本当に有り難い、と話していました。

 

加納さんのご主人は、いわゆる地元の郷土史家で、生田万(いくた・よろず)の研究家でした。上州館林藩士だった生田万(1801-37)は、平田篤胤門下の国学者で、天保の飢饉の際、大坂の大塩平八郎の乱に刺激されて、柏崎で、乱を起こして死んだ人です。そう言えば、大塩平八郎の乱を平定したのは、渡辺崋山の友人、鷹見泉石でしたね。世に言う「生田万の乱」については、私も詳細は知りません。もっと加納さんのご主人というより、私から見れば、友人だった加納君のお父さんに話しを聞いておけばよかったなあと思っています。

 

ほとんど柏崎に暮らしていた加納さんは、70歳代だと思いますが、「こんな大きな地震は初めて」と話していました。よっぽど、ひどかったのだと思います。まずは、無事であったことに一安心しましたが、色々とこれからも大変だと思いますので、事あるごとに連絡を取っていこうと思っています。

長嶋さんのオーラ

 帯広動物園

日経新聞の「私の履歴書」で、読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄氏が7月から連載されています。私も面白く拝読しています。長嶋ファンにとっては、もう方々で読んだことがある「自明の理」なのかもしれませんが、私としては初めて知ることばかりで、「なるほど」と毎回、感心してしまいます。

 

長嶋の現役時代を知っている人は、今ではもう40歳を過ぎていることでしょう。私も、子供時代、長嶋はヒーローであり、スーパースターでした。しかし、この連載を読むと、当たり前なのですが、長嶋とて偶然の天才ではなく、彼なりに相当努力して、チャンスをつかんだ人だということが分かりました。プロとして、華があったのも、わざと華になるようにパフォーマンスしていたということも明かしています。二男二女の末っ子として生まれ、父親が千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)の収入役を務めた真面目で律儀な人で、長嶋が立教大学在学中に急死してしまう。つまり、彼の巨人での活躍を知らないまま亡くなってしまうことなど、知りませんでしたね。

 

私は、仕事の関係で、たくさんの有名人に会う機会がありますが、これまで会った人でオーラを見た(感じたではなく)人は三人います。そのうちの一人が長嶋さんでした。もう20年くらい昔の話ですが、その後光のまぶしさに目を細めてしまったくらいです。

 

賄賂

 帯広動物園

お中元の季節ですね。

私は、基本的に中元も歳暮も賄賂だと思っています。ですから、親しい人には贈りません。いや、親しくない人にもあまり贈りません。一応、サラリーマンなのですが、会社に入って20年以上、贈ったことがありませんでした。

 

それが、あることがきっかけで、贈ることになったのです。Xさんからのアドバイスでした。「贈ってごらんなさい。その人の意外な一面が分かって面白いですよ」というのです。

 

それで、試してみました。黙って受け取る人。贈られたら、すかさず贈り返してくる人。「もう、こういうことはやめてください」という人。本当にさまざまでした。しかも、そういうことを言いそうな人が、黙って受け取り、どう見ても悪っぽい人が意外と潔癖で、「こんなことやめようよ」と言ってきたりしました。

確かに意外な一面が分かりました。

加藤廣著「秀吉の枷」(日本経済新聞社)には、羽柴秀吉の桁違いの「お歳暮」のことが事細かに明らかにされています。もちろん、贈答先は織田信長です。

天正九年十二月二十二日のことです。

信長への献上品は、御太刀一振、銀子一千枚、御小袖百、鞍置物十疋、播州杉原紙三百束、なめし革二百枚、明石干し鯛一千枚、クモだこ三千連。これに織田家の女房衆に進呈する小袖が二百点。(中略)これらが秀吉の安土城外の外屋敷を出発して安土城に向かったのが夜明けである。(中略)しかし、先頭が門をくぐったのに、末尾の荷駄はまだ秀吉の外屋敷を出ていなかった。これだけでも秀吉の歳暮戦略は天下に鳴り響いた。

やはり、百戦錬磨の歴史上の人物は桁違いです。

大勢順応主義 

 上士幌町


 


加藤周一著「日本文化における時間と空間」(岩波書店)をやっと読み終えました。


 


 私なりに会得した同書を貫くキーワードは「大勢順応主義」だと思います。日本人は、過去は「水に流し」、「長いものは巻かれろ」精神で、面従復背で、「尊王攘夷」なら「尊王攘夷」、「開国」なら「開国」で「ええじゃないか」と唯々諾々と従ってきたというのです。先の戦争でも、結局、大衆までもが「米英撃滅」「八紘一宇」精神に邁進し、焼夷弾が降ろうが、原爆が投下されようが、竹槍で抗戦しようとしました。


 


 1936年、陸軍の「皇道派」による軍事クーデターの失敗を巧みに利用した「統制派」が、盧溝橋、上海、南京と中国との戦争拡大に突入します。この大勢に抵抗したのは、1936年に「粛軍演説」を行い、1940年に対中国攻撃を批判して衆議院から除名された斎藤隆夫ただ一人だったのですが、今、この斎藤の名前を知っている人は果たしているでしょうか。


 


戦後は戦後で、「平和主義」「保護貿易」が大勢を占めたかと思えば、今度は「市場開放」、「規制緩和」が大勢となります。集団の成立の行動様式に現れた現在中心主義が跋扈するのです。


 


 加藤氏は、「これらは日本文化の固有のものではない」と断りながら、結論的にこう述べます。


 


日本人は「過去を忘れ、失策を思い煩わず、現在の大勢に従って急場をしのぐ伝統文化があると思わざるを得ない」


 


 今、政界(自民党安倍政権)で、官界(社会保険庁)で、財界(コムスン)で、社会(温泉施設爆破事件、牛ミンチ偽装)で、起きている無責任の体質は、皮肉にも、これら日本人の伝統文化が如実に現れているのかもしれません。


 


 


 

安倍政権に反対宣言

 帯広

 

今日はちょっと、微妙な政治的な問題を考えます。

 

月刊「現代」7月号で、立花隆氏が「私の護憲論」を発表しています。東京新聞の「大波小波」でも取り上げられていたので、是非読まなければならないと思っていました。

最近、盛んに安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を口を酸っぱくして発言していますが、立花氏はそのアンチテーゼとして論考を進めています。副題が「戦後レジーム否定論への徹底抗戦宣言」となっています。この論文は次号にも続きますが、今回の論点、つまり立花氏が一番言いたかったことは、以下のことだと思います。(換骨奪胎しています)

 

「政治とは、一国の社会が全体として持つ経済的、資源的、人的リソース(資源)をどう配分していくかを決定するプロセスのことである。戦前の日本は、全予算の半分が軍事的リソースに投入されていった。しかし、戦後はその軍の崩壊によって、リソースはすべて民生に注入することができるようになった。アメリカは、軍産複合なくして発展してこなかった。しかし、日本は軍産複合体を存在させずに経済発展を遂げたという意味で日本の成長モデルは世界に誇れるのではないか。それは、『戦争放棄』の憲法第9条の戦後レジームがあったからこそ可能なのだ」

 

立花氏は、この論考を進めるにあたって、日本国憲法の成立の過程を検証します。GHQにより「押し付けられた」というのが定説になっていますが、それでも、日本人の手によって、国民投票する機会もあったし、国会で審議する機会もあった。それなのに、当時の為政者たちが、唯々諾々と敗戦国として受け入れた。これでは「押し付けられた」という歴史的事実が一人歩きして、今後禍根を残すので、国民投票に諮るべきだと主張したのはただ一人、東大学長だった南原繁だけだったということを明らかにしています。

 

戦後レジームを云々するには、「ポツダム宣言」を知らなければならない、と立花氏はズバリ指摘してますが、本当に勉強になりましたね。面白かったのは、日本人は終戦記念日は8月15日だと思っているのですが、それは、国内向けにポツダム宣言を受諾する天皇の玉音放送があった日だけで、依然、諸外国では、15日以降も激戦が続いていた。国際法の本当の終戦は、9月2日で、戦艦ミズーリ号で日本が降伏文書に署名した日である、ということも説明され、私なんかも「なるほどなあ」と思いました。

 

今朝の朝日新聞の朝刊で、評論家の岸田秀氏も「安倍改憲は『自主』なのか 米に隷属する現状直視を」というタイトルで寄稿していました。要するに「日本は戦争に負けて、アメリカに隷属する属国になった。だから、改憲といっても事実上、米国の許容範囲内でしかできない。今の9条の歯止めをはずせば、自衛隊員はアメリカが勝手に決めた戦争で世界のどこかの最前線に送られる消耗品になりかねない」と指摘しているのです。

 

北方領土はなぜ返還されずに、ロシアの「占領」のまま続いているのか。返還する気がさらさらないプーチン大統領の理由は明快です。「第2次世界大戦の結果、ロシア人の血を犠牲にして獲得したからだ」。これは、日本がもし、先の戦争に勝っていたか、負けを宣言しなかったら、日本が朝鮮も台湾も満洲もそのまま日本の領土として保持していた時に使う同じような理由づけでしょう。領土というのは、戦争の産物だという歴史的事実を再認識させられるのです。

 

6月10日付の東京新聞の一面トップで「日本兵遺骨 51体集中」というタイトルで「インドネシア・ニューギニア島北西部のビアク島で、旧日本軍兵士の遺骨が大量に野ざらしになっているのが、確認された」事実を報道しています。ビアク島では、日本側は陸海軍計約1万2800人のうち1万2000人以上が戦死したといわれます。そのほとんどが60年以上経っても、「帰還」を果たすことができず、遺骨が野ざらしになっているというのです。インドネシア領西部は治安状況などを理由に、戦後20余年しかたっていないのに「遺骨収集は概ね終了した」と、日本の国家は終結宣言してしまうのです。海外で没した旧日本軍兵士は約240万人いますが、このうち約124万柱しか帰還を果たしていないというのです。私が興味を持つフィリピンのレイテ島の激戦では、約8万人が戦死(生存率3%)しましたが、帰還した遺骨は1万5千柱のみなのです。

 

何と言う冷たい国家なのでしょうか。仕方なく徴兵で戦場に送られた兵士が飢えで喘いで死に瀕している時に、好きで偉ぶりたくて軍人になった将校連中は、そそくさとチャーター便で帰国しているのです。何が靖国神社だと思ってしまいますね。戦後もぬくぬくと生き抜いた偉い軍人だけを祭っているのではないかと疑りたくなります。

 

ピラミッド社会の日本人の心因性などそう変わるものではありません。戦争になれば、日本人は国家の名の下でまた同じようなことをするのです。だから、私は、改憲をして戦争国家に逆戻りさせようとする安倍晋三を全く信用できないのです。