究極の文化財、美術品を公開へ=京都・東寺で真言宗の最高の儀式「後七日御修法」

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

 ブログを書き続けて幾星霜か。ちょっと、書くネタに尽きて困ったときに、いつも天から救いの手が伸びてきます。

 今回も、京都にお住まいの京洛先生から特派員リポートが送られてきました。

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おはようございます。京洛先生です。

 七草粥も終わり、渓流斎さんも、正月休みから、帝都のオフイスに精勤されていると思います。8日(水)は、渓流斎さんもご存知の、御社とも関わりの深い大手代理店OBで長老のNさんが上洛されました。

 いつも正月休み明けの観光客が少ないこの時期に奥様とこちらにみえますが、今回は今週末まで滞在されています。そこで「何処に御案内しようか」と考えた末、今回は、いつも渓流斎ブログに紹介、写真掲載してもらっている「東寺」での真言宗の最高の儀式「後七日御修法(ごひちにちみしほ)」にお連れすることに致しました。

8日は、その最初の日に当たり、儀式が行われる東寺境内の国宝「灌頂院」の前までご一緒しました。

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 渓流斎さんは、昨年、高野山の「金剛峯寺」に出かけられ、念願の宿坊に泊まられ、大感激され、以後、ますます、仏教の関連書籍などを読破されていますね(笑)。

 後七日御修法はこのブログでは何度も紹介されておりますが、その高野山の金剛峰寺をはじめ、「真言宗」各派、十八本山の山主、高僧が集まり、8日から来週14日(火)まで7日間、灌頂院で五穀豊穣、国家安泰、世界平和の祈願法要をするわけです。

 弘法大師空海が平安時代の835年から京都の御所で始めたもので、明治初期、数年、途絶えましたが、その後は、御所から東寺に場所を移して行われてきています。

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 初日の8日は、宮内庁から勅使が天皇陛下の「御衣(ぎょい)」が届けられました。

  いつもながら、お坊さんの頭が綺麗でしょう(笑)

 

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法要では、御衣を前に7日間にわたり、護摩を焚いて大法要が行われますが、8日は、今年の大阿闍梨(おおあじゃり、導師)である「仁和寺」の瀬川大秀門跡をはじめ、真言宗の長老、門跡らが朱傘をかざされ、上の写真のような行列が続きました。いつもながら全国の真言宗の僧侶、檀信徒の方がこの様子を見ようと、大勢来ておられました。

 Nさんは「いやあ、凄いものですね。京都、奈良など大伽藍の高僧が一堂に集まるのですからね。こういう希少な機会に出くわせるとはワタシも感激です。軽薄な観光客もいませんし、数珠を持って、『南無大師遍照金剛』と念仏を唱えて、手を合わされている檀信徒のご婦人方の着物も、いずれも高価な立派なもの、とお見受けしました。やはり、お金が出来ても、最後は精神世界に惹かれるのですね」と、日ごろお目にかかれない光景、様子をじっくり眺めておられました。

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  「後七日御修法」は14日(火)に終わり、同日午後12時頃から、2時間に限って、「法要」後の灌頂院(通常は非公開)内が公開されます。法要後の堂内には香がたかれた匂いが漂い、重要文化財の曼荼羅もまだ架けられていて、”究極の文化財、美術品公開”とも言える機会です。ご興味のある方は見に行かれることですね。

 以上

煩悩に取りつかれたカルロス・ゴーン被告

 日本時間の8日午後10時のカルロス・ゴーン被告の記者会見は予想通りでしたね。自分の言いたい放題で、肝心なことは秘匿して、自己正当化と自己保身と自己主張に終始しました。弁護士でもある日本政府の森雅子法相が夜中の1時近くに臨時記者会見して「(ゴーン被告の)出国は犯罪行為に該当し得る。それを正当化するために、国内外に向けてわが国の法制度について誤った事実を喧伝するのは到底看過できない」と批判したことは大いに賛同します。日頃、日本政府に対して、厳しい批判を書き連ねている渓流斎も、諸手を挙げて賛同致します。

 記者会見場には、ゴーン被告の「お気に入り」のメディアしか入場できず、日本のマスコミはほとんどシャットアウト。唯一許されたのが、朝日新聞と小学館とテレビ東京だったらしいですが、その選別の仕方には思わず笑ってしまいました。選ばれなかった読売新聞は、「米CNNの中継映像などによると」といった報道の仕方で、聊か格好悪かったですねえ。

 それにしても、ゴーン被告が、映画まがいの犯罪的逃避行をしながら、全く悪びれることなく、世界中が注目する公の席に登場できた自信の根拠は焉んぞあらんや、と感嘆してしまいました。

 たまたまですが、先程、阿満利麿・現代語訳の法然「選択本願念仏集」(角川ソフィア文庫、平成19年5月25日初版)をやっと読破することができました。途中で難解な仏教用語を調べながら読んでいたので、1カ月以上掛かりました。最初は、無謀にも、法然房源空上人の原文をそのまま読んでみましたが、理解できずに挫折。現代語訳に辿り着き、やっと少しは理解できました。

色んな専門家が現代語訳を出版されていますが、最初にこの阿満氏の訳文にしてよかったでした。初心者でも大変分かりやすかったからです。阿満氏は巻末に他の雑誌に寄稿したエッセイ「なぜ他力なのか」も収録しています。その中で、煩悩について書かれた箇所があり、法然と親鸞は、煩悩を以下の3種類として捉えていたといいます。

(1)欲が深いこと(従って怒りやすく、妬み、嫉むこともしばしば)

(2)生への執着心(生きたい、死にたくないという拘り)

(3)自己正当化に熱心な精神(自己と他人を区別し、自己の優越を誇る)

 もちろん、これら3者を全否定してしまっては、生への原動力もなくなり、資本主義社会は成り立っていかなくなります。とはいえ、煩悩にとらわれた存在が凡夫であるということを自覚し、そんな凡夫でも、精励刻苦、修行し、智慧と慈悲の心を身に着け、菩提心を起こせば、煩悩から解脱した浄土の世界に行くことができるという宗教が浄土教思想であり、仏教だというのです。

 ゴーン被告は、(3)の自己正当化の煩悩に取りつかれていますが、仏教徒ではないので、聞く耳を持たず、逃亡を続けることでしょう。まさに、資本主義社会の権化ですからね。しかし、彼はまだ65歳。果たして、このまま、心の平穏(peace of mind)を得て往生できるのでしょうか。老婆心ながら御同情申し上げます。

大正期に東京主要5大紙の首位だった報知新聞=「近代日本のメディア議員」

佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」(創元社)を読了しました。ちょっと無味乾燥な部分もあり、「大学紀要」を読んでいる感じでしたが(失礼!)、大変よく調べ上げられており、メディアに 興味がない人でも、面白く読めるかもしれません。データ資料がしっかりしているので、恐らく、今後出版されるメディア関係の書籍も、この本から引用されていくことでしょう。

 例によって、自分が興味を持った箇所を、逸早く引用させて戴くことにしましょう。

・関東大震災が起こる前の1923年5月の東京主要5大紙の発行部数は、「報知新聞」が36万部でトップ。続いて「東京日日新聞」が30.5万部、「東京朝日新聞」が29万部、「国民新聞」が23万部、「時事新報」が20万部だった。新聞社の企業化の先頭を走った大阪系の朝日新聞・毎日新聞と比べれば、報知新聞はなおも「政治の論理」にとらわれた町田忠治社長(1919年、憲政会総務から社長に就任)派が影響力を保持していた。(35ページなどを改編)※ しかし、震災後、商業化路線の朝日、毎日によって部数は逆転することになります。 当時、いまだ健在だった黒岩涙香の「萬朝報」や「二六新報」などの部数は如何ほどだったんでしょうか?

早稲田大学出身者は1912年の第11回総選挙で、8人から16人へと議席を倍増させ、さらに政友会、憲政会、革新倶楽部の3党が護憲三派を形成した1924年の第15回総選挙で30人を超え、1942年、戦前最後の第21回総選挙まで30人以上維持し続けている。…このように、議会開設当初、メディア関連議員には早稲田出身者が多く、彼らが改進党系に連なったのというのは早稲田の政治的立場を考えれば当然かもしれない。明治14年の政変で政府から追放された大隈重信が改進党を創立し、郵便報知新聞を買収して実質的な社主になったことが理由の一端に挙げられる。(94~95ページを改編)

・駄馬裕司「大新聞社 その人脈・金脈の研究」によると、朝日新聞社が三井財閥と近しい関係にあり、毎日新聞社長の本山彦一は三菱財閥や改進党に関与していた。その結果、「朝日の方が権力中枢に食い込む上で有利だったに違いない」というのは、明治14年の政変で、改進党の大隈重信が失脚し、三井財閥に関連の深い伊藤博文井上馨が、権力の中枢に残ったからである。(99ページを改編)

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・1855年生まれの田口卯吉は、1879年に経済雑誌社を創業し、日本初の本格的な経済雑誌と言われる「東京経済雑誌」を創刊した。…田口はジャーナリストというよりも経済学者であることが分かる。1872年に大蔵省の上等生徒となり、経済学の研究を進め、そこで、お抱え外国人のシャンドと出会い、英「エコノミスト」誌を範とする経済誌を日本でも発行したいという願いが、東京経済雑誌創刊の動機の一つとなった。(181ページ改編)

・同じ1855年生まれの犬養毅は、郵便報知新聞記者を経て、1880年に豊川良平と「東海経済新報」を創刊した。田口卯吉の「東京経済雑誌」が自由貿易を主張していたのに対し、犬養の「東海経済新報」は保護貿易を主張した。

・前述した1919年に報知新聞の社長になった町田忠治は、「朝野新聞」「郵便報知新聞」記者を経て、外遊後の1895年に東洋経済新報社を創立し「東洋経済新報」(現「週刊東洋経済」)を創刊した。同社出身の議員に、天野為之石橋湛山苅田アサノがいる。同誌は創刊以来、会社経営などの私経済よりも、経済界の大勢あるいは国家財政など公経済を得意としてきた。同誌の主張は、日露戦争まで経済的自由主義の域にとどまっていたが、大正期以降、帝国主義の放棄や民本主義などを主張し、石橋湛山編集長の頃は、「小日本主義」を唱えて日本の帝国主義的侵略を批判するなど政治的な言論活動を展開した。(183ページ改編)

・1897年に創刊された「実業之日本」(1964年から「実業の日本」、2002年休刊)は、1900年から、読売新聞経済部主任記者だった増田義一に、東京専門学校の同窓生の光岡威一郎が健康悪化により、「発行編輯に関する一切」を譲渡された。

野依秀市の「実業之世界」で編集を行っていた石山賢吉は1911年、実業之世界社を退社し、1913年にダイヤモンド社を設立し、「ダイヤモンド」誌(1968年から「週刊ダイヤモンド」)を創刊した。同誌には、財界の概況や時報が掲載され、会社の経営分析を連載し、併せて経済統計や調査資料が示されたが、政論は含まれていなかった。(187ページを改編)

・翼賛選挙を象徴するメディア議員である三木武吉(香川出身、早稲田法卒)は、1928年の京成電車疑獄事件で失脚し、34年に実刑が確定。36年の第19回総選挙に立候補できなかった。「浪人生活」を送っていた1939年5月に「報知新聞」社長に就任した。しかし、1941年7月、三木は報知新聞の株式を読売新聞の正力松太郎に譲渡してしまう。これについて、報知新聞で主筆を務めた武藤貞一は、「武藤貞一評論集 戦後篇」(動向社、1962年)の中で、三木は、翼賛選挙の政治資金を獲得するために、報知新聞を手離した、と厳しく批判した。(313~315ページ改編)

 キリがないのでこの辺でやめておきます。

戦争の抑止力にならなかった新聞社出身の国会議員=佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」

 大阪にお住まいの滝本先生のお薦めで、佐藤卓己、河崎吉紀編著「近代日本のメディア議員」(創元社、2018年11月10日初版、4950円)を読んでいます。1960年から86年にかけて生まれた「比較的」若い中堅の学者10人が共著でまとめた学術研究書です。かつてはかなり多くのマスコミ出身の国会議員や首相にまで上り詰めた人がいたことが分かります。

 滝本先生が何故、この本を薦めてくださったかというと、先日、大阪市内で、この本の編著者である佐藤卓己・京大教授の講演会を聴いたからでした。会場には、現役時代にブイブイ言わせていた朝日新聞や毎日新聞など大手新聞社のOBの方々も見えていたそうです。

 新聞メディアの歴史を大雑把に、やや乱暴に要約しますと、明治の勃興期は、薩長を中心にした藩閥政府に対する批判と独自の政論を展開する大新聞が主流でした。柳河春三の「中外新聞」、福地源一郎の「江湖新聞」、栗本鋤雲の「郵便報知新聞」、成島柳北の「朝野新聞」などです。彼らは全員、幕臣でした。その後、政府による新聞紙条例や讒謗律などで反政府系の大新聞は廃刊に追い込まれ、代わって台頭したのが、大阪朝日新聞や、大阪毎日新聞、読売新聞などの小新聞と呼ばれる大衆紙でした。政論主流が薄れたとはいえ、新聞社出身の国会議員を多く輩出します。まるで新聞記者が国会議員の登竜門の様相ですが、政治家志望の政治記者が多かったという証左にもなります。

でも、「白虹事件」で大阪朝日新聞を退社したジャーナリストの長谷川如是閑は「大正八年版新聞総覧」で、以下のような面白いことを書いています。

 …新聞記者は、主観的生活に於いては、同時に政治家であり、思索家であり、改革家であり、学者であり、文士であり得るが、客観的生活に於いては、ただのプロレタリアに毛が生えたものであり得るのみである。…

 大手新聞出身のOBの皆さんは、新聞社出身の議員の活躍を聴きたいがために、佐藤卓己教授の講演会に参加したようでしたが、見事に裏切られることになります。

佐藤教授によると、満洲事変から2・26事件などを経て、日本が軍国主義化していく昭和12年(1937年)、マスコミ出身の国会議員が占める割合は、実に34%の高率だったそうですが、その直後に支那事変(日中戦争)が起こり、皮肉にも、マスコミ出身議員は、何ら戦争の抑止にもならなかった、というのです。


 この本の巻末には、「メディア関連議員一覧」が資料として掲載されているので、これだけ読んでも、興味がそそられます。

 例えば、現首相の父君に当たる安倍晋太郎は、毎日新聞政治部記者だったことはよく知られていますが、二番目に登録されています。全部で984人も掲載されているので、キリがないので、首相まで経験した有名人を取り上げると、まずは5.15事件で暗殺された犬養毅が挙げられます。岡山出身の犬養は、慶應義塾の学生の時、郵便報知新聞の主筆藤田茂吉の食客となり、明治10年の西南戦争の際には、「戦地探偵人」となり、「戦地直報」を報知新聞に連載するなどして記者生活をスタートしています。

 平民宰相として有名な盛岡藩出身の原敬は明治12年、フランス語翻訳係として栗本鋤雲の推薦で郵便報知新聞社に入社しています。「憲政の神様」尾崎行雄も、慶應義塾で学び、新潟新聞や郵便報知新聞などで記者としての経歴があります。

 明治14年の政変で大隈重信とともに下野して、立憲改進党を結成した矢野文雄は、郵便報知新聞の社長や大阪毎日新聞の副社長などを務めています。この本では、佐藤教授は、矢野文雄としか書いていませんでしたが、政治小説「経国美談」の作者矢野龍渓(雅号)のことでした。日清戦争の前後に、清国特命全権公使を務めています。

 佐藤教授は、このほかメディア関連の首相として、郵便報知新聞を買収して実質上の社主だった大隈重信、東洋自由新聞の社主だった西園寺公望、東京日日新聞で外国新聞を翻訳して収入を得ていた高橋是清、東京日日新聞の第4代社長を務めた加藤高明、戦後では、産経新聞記者だった森喜朗や朝日新聞記者を務めた細川護熙らを挙げていました。

 また、最近のメディア関連の国会議員の中の自民党系として、大島理森(毎日新聞広告局)、額賀福志郎(産経記者)、松島みどり(朝日記者)、茂木敏充(読売政治部)、竹下亘(NHK記者)、鈴木貴子(NHK)、小渕優子(TBS)らを挙げていて、私も知らなかったことも多々あり、これまた興味深かったでした。

 この本は、まだ読み始めたばかりなので、また取り上げるかもしれません。

(同書に合わせて敬称を略しました)

藤堂高虎はとてつもない築城名人

国宝姫路城

昨晩、お城関係の本を読んでいたら、三重県の津城は、正式には安濃津城ということを初めて知り、自分の不勉強を恥じるとともに、本当に驚いてしまいました。

 以前、沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」を読んでいたら、中世になって差別をされた人々が浄土宗系の仏教に縋り、多くの寺院が建てられるようになったという話が出てきました。その中で、三重県の津市のことも出てきたので、たまたま、津市出身で、浄土系の名門中学校を出ている学生時代の友人がいるので、メールで聞いてみたところ、「私が育った安濃津(あのつ)あたりは、差別された人たちが多く住んでいて、私が通った小学校は、全国でも同和教育のモデル校として表彰されたこともあります。中学は浄土真宗の学校でした」といった答えが返ってきました。

 いきなり、初めて聞く「安濃津」という地名が出てきましたが、特に調べることはなく、津市の郊外にある地名なのかなあ、と思っていたら、どうやら、津城が安濃津城(津市丸之内)と呼ばれるぐらいですから、津市の中央部もかつては安濃津と呼ばれていたのかもしれません。

 となると、古代に征服されて、差別された人たちは、中世になって浄土系の宗教に救いを求めるようになり、その領地には寺院が建てられ、戦国時代になって、城郭が建てられたという仮説が成り立つのではないかと思ったわけです。よく知られている史実として、蓮如の建てた石山本願寺の跡地に大坂城がつくられ、このほか、 加賀前田藩の金沢城は、それ以前は、加賀一向一揆の拠点だった浄土真宗の尾山御坊という寺院だったといいます。

  私の晩年の趣味は、どういうわけか、いつの間にか、お城と寺社仏閣巡りになりましたが、城郭と寺社とは、水と油(戦闘と慰霊)で全く関係がないと考えていたら、意外にも密接な関係があったのですね。本当に驚きました。

 日本の歴史や文学、美術を知るには、仏教思想が欠かせませんが、当然ながら、寺社仏閣や城巡りの際にも、仏教思想はこうして役に立つわけです。

唐沢山城(伝藤原秀郷の築城、日本の100名城)

 先程の安濃津城は、浅はかにも、藤堂高虎の築城かと思っていたら、永禄年間(1558~70年)に、伊勢の有力国人・長野一族の細野藤光が築城したものでした。しかし、織田信長が伊勢を征服し、その弟の信包が城主となります。関ケ原の戦いの後になって、藤堂高虎が入城し、全面改修し、城下町も整え、明治維新まで藤堂家が続きます。

 藤堂高虎は、築城の名人と言われ、調べば調べるほど、とてつもない偉人だったことが分かります。伊勢の人ではなく、もともと、近江の甲良荘(滋賀県犬上郡)出身で、甲良大工という築城集団がいたようです。藤堂高虎もその影響で、伊予の今治城(海城)と宇和島城(重要文化財)、それに伊勢の安濃津城と伊賀上野城などを作り、江戸城、大坂城、二条城、丹波亀山城などを改修、篠山城、名古屋城などの縄張りを任されています。徳川家康も一目置いて、江戸の屋敷は、寛永寺そばの上野の領地を与えます。上野は、勿論、伊賀上野から取って付けられた地名です。

 明智光秀もいいですが、藤堂高虎も大河ドラマの主人公にしてほしいものです。

スマホに支配される前に自分自身を知れ!=ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」

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 ユヴァル・ノア・ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社 ) を読了しました。どちらかと言えば、歴史書ではなく、哲学書でした。深い歴史の知識に支えられた歴史哲学書でした。深く考えさせられました。

 色んな書評が出ているでしょうが、どれも、象を撫でて、犬だ、猫だと言っているような類で、どれも的確でない気がします。一言でまとめること自体、複雑な示唆に富む論考が数多含まれているからです。強いて言えば、「訳者あとがき」が最も著者の意図を端的に代弁しているかもしれません。(例えば、著者のハラリ氏は、謙虚さを重視し、一神教よりも多神教に優しい目を向ける、とか、著者は人類の将来に非現実的な期待を抱いていないが、絶望もしていない、などといった部分)

 前著を読んでいない私が意外だったことは、ハラリ氏はイスラエル出身の人ですから、ユダヤ教やシオニズムなどに対して絶対的な信仰と信頼を置いているかと思っていたら、言ってよければ、冷ややかに批判的に見ていることでした。それどころか、人類の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史から見れば、宗教も思想も人間の生きる価値までもが取るに足りない、大したことはないと明示しているのです。科学者らの見解を引用して、そもそも2億年後には哺乳類は絶滅する、とまで書いていますから、王の墳墓も歴史的建造物も何もかも無意味に思えてきます。

 ハラリ氏はこんなことを書いています。

 「自己嫌悪に陥ったユダヤ人」あるいは「反ユダヤ主義者」だ思われたくないので強調しておきたいのだが、私はユダヤ教が特別邪悪な宗教だとか、暗愚な宗教だとか言っているわけではない。ただ、ユダヤ教は人類史にとって、特別重要ではなかったと言っているだけだ。ユダヤ教は何世紀にわたって、…書物を読んでじっくり考えることを好む、迫害された少数派の質素な宗教だった。(255ページ)

 シオニズムは、地表のおよそ0.005%の土地を占める、人類のおよそ0.2%の人々(ユダヤ人のこと)がほんのわずかな時間に行った冒険を神聖なものとしている。シオニズムの物語は、…モーセやアブラハムが生きた時代や類人猿の進化の前に超過した果てしない歳月にも、何一つ意味を与えていない。(354ページ)

 エルサレムは「ユダヤ民族の永遠の都」であり、永遠のものに関しては絶対に妥協できないと、彼らは主張する。…現在の宇宙の年齢は138億年。地球はおよそ45憶年前に形作られ、人類は少なくとも200万年存在してきた。それに対して、エルサレムはわずか5000年前に創設され、ユダヤ民族は長くても3000年の歴史しか持たない。これでは永遠という資格はとうていない。(同ページ)

 ユダヤ教超正統派の男性の約半分が一生働かない。彼らは聖典を読み、宗教的儀式を執り行うことに人生を捧げる。彼らと家族が飢えずに済むのは、一つには妻たちが働いているからで、一つには(イスラエル)政府がかなりの補助金や無料のサービスを提供し、基本的な生活必需品に困らないようにするからだ。(67ページ)

 このほか、現代人に対して、こんな風に批判しています。

 テクノロジー自体は悪いものではない。…だが、人生で何をしたいのか分かっていなければ、代わりにテクノロジーがいとも簡単にあなたの目的を決め、あなたの人生を支配するだろう。…スマートフォンに目が釘付けになったまま通りを歩き回るゾンビたちを見たことがあるだろう。あなたは彼らがテクノロジーを支配していると思うだろうか?それとも、テクノロジーが彼らを支配しているのか?(345ページ)

コカ・コーラをたくさん飲んでも若返られないし、健康になれないし、運動が得意にもなれない。むしろ、肥満と糖尿病になる危険が高まる。それにも関わらず、コカ・コーラは長年、膨大な資金を投じて、自らの若さや健康やスポーツと結びつけてきた。(309ページ)コカ・コーラや アマゾン、百度、政府がみな我先にあなたをハッキングしようとしている。あなたのスマホやパソコンや銀行口座ではなく、あなたとあなたの有機的なオペレーションシステム(OS)をハッキングしようと競っている。私たちはコンピューターがハッキングされる時代に生きていると言われるが、…、実は私たち人間がハッキングされる時代に生きているのだ。(一部換骨奪胎)(346ページ)

 やはり、訳者もあとがきで、引用しているように、この本で著者が最も言いたかったことは、次の部分かもしれません。

 もちろん、あなたは、権限を全てアルゴリズム(AIによる問題解決の方法や手順)に譲り、アルゴリズムを信頼して自分のこともそれ以外の世の中のことも全て決めてもらって、満足そのものかもしれない。それならば、くつろいで、そういう暮らしを楽しめばよい。…だが、自分という個人の存在や生命の将来に関して、多少の支配権を維持したければ、アルゴリズムより先回りし、アマゾンや政府より先回りし、彼らより前に自分自身のことを知っておかなければならない。

 著者のハラリは、その自分自身を知る一つの方法として最後にヴィパッサナー(物事をありのままに鑑札する、という意味)瞑想を挙げていました。確かに、タイトル通り、21世紀に生きる人類のための指南書でした。

【追記】

 ●法然は「選択本願念仏集」の中で、念仏(仏を念ずる)の手段として、凡夫では到底できない瞑想よりも、易行である称名を選択するべきだ、という革命的理論を展開していました。

 ●著者のハラリ氏が本書で言いたかったことは、既に古代ギリシャの賢人が述べています。

 人生の究極的な価値とは、ただ単に生き長らえるということではなく、むしろ、気づきと深い思考を巡らすことに掛かっている。(アリストレス)

12月23日(月)放送NHKファミリーヒストリー「阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に」をご覧になってください

 満洲研究家の松岡將氏から、大変嬉しいメールを頂きました。

…実は、資料提供その他、小生が色々と協力したNHKのファミリーヒストリー番組「阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に」が12月23日(月)夜7時30分から放送されることとなりました。よかったら、ご覧になってみてください。

 内容は、阿川家三代(阿川甲一、弘之、佐和子・尚之)のお話で、この阿川甲一は、拙著『在満少国民望郷紀行』の始めに出てくる(露清密約に基づく)ロシアの1898年東清鉄道建設着工当時からハルビンに渡るなど、時代の風雲児であり、日露戦争後、満鉄長春附属地にて、多くの土木工事を手掛けた、阿川組のトップでした。それで、あまり長くはならないようですが、(現在の)長春のシーンなども出てくるようです。

 本件に関して、阿川弘之著『亡き母や』には、「明治42年、日露戦争に通訳官として従軍した阿川甲一は、戦後長春で阿川組を設立、事業を興し、羽振りをきかし…」とあるのだが、その証左として、小生が提供した阿川組のオフィスの在所(満鉄長春附属地内 日本橋通り16)の地図が出てくる筈です。ご覧のように、「日本橋通り16」は、新京(長春)駅直近で敷地も広く、しかも、オエラさんたちが出入りしていたヤマトホテルにも直近。これも、拙著『在満少国民望郷紀行』執筆・刊行の“お勉強”の成果です(同書P133参照)。

満鉄長春附属地内 日本橋通り16  Copyright par Duc de Matsuoqua

7年ほど前にも、NHKの番組には、フィギュアスケーター小塚崇彦一家の件(祖父小塚光彦が満洲国協和会職員)で協力したことがあるのだが、今回も、その繋がりもあったかと思われます(この時は、担当者に協力して、拙著『在満少国民望郷紀行』P151、③の写真を発掘したりもしたのでした)。

 今回のファミリーヒストリーの番組最後には、小生の名前が、地図や資料提供者としてクレジットされる由。こういった機会は、小生自身にとっても、問題意識を持って歴史を深掘り出来る、大変いい機会だと思っています。…

 凄い話ですね。私も楽しみに拝見させて頂くことにします。

古代史が面白い

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

最近の古代史研究は、発掘された考古資料から、木の年輪や放射性炭素を用いた科学的手法で飛躍的進歩を遂げ、大幅に歴史が書き換えらています。

 と、断定的に書きたいところですが、その科学的手法を使っても年代測定に誤差が生じ、何と言っても、いまだに邪馬台国が九州か大和かの論戦に決着がついていないといいます。(大和説の方が有力な遺跡発掘が出てきたようですが)

 騎馬民族征服王朝説も、否定されたかと思ったら、いまだに根強く残っていて、まだ分からないことだらけです。が、私の世代のように40年も50年も前に学校で習った古代史研究と比べれば、飛躍的進歩を遂げていることは確かで、もしかして、古代史が今、一番面白いかもしれないとさえ思えてきます。

 恐らく、日本列島に長らく住んでいた縄文人(アイヌ、蝦夷、隼人、熊襲など)は、稲作の技術を持った弥生人(という言い方はしませんが)から征服、という言葉が強すぎれば、制圧されたか、同化されたか、していったことでしょう。時代は前後しますが、それら渡来人は、北方の鮮卑やツグース系や、大陸の江南(揚子江の南)や半島の朝鮮系、はたまた遥かインドネシア、それにミクロネシアなどの南方から渡ってきたことでしょう。

 そんな予備知識を持って、街を歩いて、日本人の顔を見るとはなしに見てみると、確かに色んな顔があることが分かります。欧米人には区別つかないでしょうが、モンゴル系もいれば、朝鮮系のような顔の人がいます。ジャワ系の人もいますね。日本人は単一民族ではないことが分かります。

 先ほど読了した武光誠著「一冊でつかむ古代日本」(平凡社新書)から、色んなことを教えてもらいました。2011年7月15日初版ということで、「最新情報」とまでは言い難いので、また何かいい本があったら教えてください。少し列挙します。

・2009年8月に島根県出雲市の砂原遺跡から、12万年前から7万年前といわれる旧石器が出土した。現在のところ、これが日本列島最古の人類の生活の跡だということになる。

・現在のところ、青森県外ヶ浜大平(おおだいら)山元Ⅰ遺跡から出土した縄文土器が日本最古というのが有力。それは、約1万6500年前から1万6000年前のもの。

・水稲耕作の技術は朝鮮半島南端から伝わったと考えられる。江南の水稲耕作が朝鮮半島の中部・南部に広まったのは紀元前1100年から同1000年頃で、その技術は早い時期に日本に伝えられた。

・近年になって、水田跡とともに縄文土器が出土する遺跡がいくつも報告された。(弥生時代初期の福岡・板付遺跡など)→並存しているということは、弥生人が縄文人を征服したわけではないかも。

中略

・5世紀末に朝鮮半島南部の伽耶から移住してきた有力豪族が秦(はた)氏と東漢(やまとのあや)氏。6世紀に新たに来た豪族を今来漢人(いまきのあや)と呼ぶ。

・これまで「大王」と呼ばれた王族の頂を初めて「天皇」と名乗ったは、天武天皇。北極星を神格化した道教の「天皇大帝」にちなむ。中国皇帝と同格の地位を宣言し、これまでの「倭国」の国号を廃して「日本」の名称を対外的に用いた。

・奈良時代の人口は約450万人で、そのうち平城京の人口は10万人。このうち1万人が下級官僚だった。五位以上の貴族の人数は150人程度。家族を含めると800人ほどだった。平城京と周辺には1万人の僧侶もいた。

・古代の朝廷の政務は、太政官を中心に運営され、天皇は、太政官の決定を追認する形だった。太政官には、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議がおり、総称して「公卿」と呼ばれ10数人。すべて、公卿による合議で決められた。→天皇は祭祀の長という性格を持ち、独裁者ではなかった。これは明らかに古代中国やローマ帝国とは違っていた。

足立美術館と念願の出雲大社へ=山陰・山陽旅行の2日目

足立美術館

12月2日(月)。「山陰・山陽旅行」の2日目です。初日は、移動日だけということで、米子駅前の床屋のおじさんの枕話だけで終わってしまいました。

 この日は、集合時間前の早朝に、米子城址に行く予定でしたが、早朝から雨。すっかり意気消沈して行くのをやめてしまいました。

足立美術館

この日のハイライトは、出雲大社の参拝です。

何で、出雲大社は島根県なのに、鳥取県の米子市に宿泊したんだろう?それは、後から理由が分かりました。

 団体ツアーの総勢は46人。貸し切りバスに乗ると超満員です。私自身、色んなツアーに個人で参加しましたが、こんな多いのは初めてでした。ほとんど人生を達観された方々ばかりでしたが、何でこんなに多いんだろう?その理由も後から分かりました。

足立美術館

 出雲大社の前に、日本庭園と120点の横山大観のコレクションを誇る「足立美術館」に立ち寄りました。入館料は、な、何と2300円。でも、ツアー料金の中に含まれていました(笑)。

 足立美術館を訪れるのは30年ぶりぐらいで、2回目です。でも、それだけ、歳を取ったせいか、深い感動が心に染み入りましたね。

日本庭園は、米国の専門誌で、2003年から連続16年も「日本一」に輝いているそうで、苔庭あり、枯山水あり、白砂青松庭あり…。5万坪もの敷地があるそうですから、見ていて飽きない。できれば、一日ボーと過ごしたいぐらいです。チコちゃんに叱られてもかまいません。

足立美術館

 展示されている絵画は、もちろん、撮影禁止でしたが、横山大観はじめ、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂ら日本画を中心に1500点(所蔵分も含む)。私は、若い頃は印象派を中心に西洋の油絵ばかり見続けてきましたが、歳を取ると日本に回帰するといいますか、断然、日本画の方が鑑賞するのが五臓六腑に染み込んで楽しくなりました。かなりの欧米にある美術館巡りをしましたし、もう、泰西名画はお腹いっぱい、といった感じです。

足立美術館

 足立美術館を開館した足立全康(1899~1990)は、地元安来市出身の実業家で、「庭園も一幅の絵画である」という信念のもとで、このような庭園を充実したらしいですが、本当に素晴らしい。

 下世話な話ですが、横山大観の富士山の絵画が、7億円はくだらないと言われていますから、120点ともなると、大観さんだけで、840億円はくだらない、わけですね。

 その財力はどこから来たのか?館内の年譜によると、足立全康は、尋常小学校を卒業後、家業の手伝いから、炭団(たどん)の販売を始め、それが当たって、商売を広げ、地元の安来鋼(はがね)や繊維卸業を軌道に乗せ、戦後は不動産投資で富を築いたようです。

後日談ですが、たまたま、その日の夜に、京洛先生から電話があり、足立美術館の素晴らしさを話したところ、「いやいや、倉敷の大原美術館の収蔵品の方が量・質とも上ですよ。是非、倉敷に行って比べてみてください」というので、最終日の3日目に倉敷に立ち寄った際、自由時間はすべて大原美術館に費やしました。

 大原美術館は1930年に、大原孫三郎によって開館されましたが、孫三郎は倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)、それに今の中国銀行や中国電力などの社長を務め、大財閥を築いた人ですから、やはり、こちらの方が、桁違いの財力でした。

二の鳥居である勢溜(せいだまり)

さて、個人的には念願だった出雲大社にバスは向かいました。

 その途中で、団体ツアー旅行には付き物として、「トイレ休憩」の建前で必ず立ち寄る土産物店にバスは横づけされました。そこは「島根ワイナリー」といって、地元産のワインが9種類ほど試飲ができるのです。甘口から辛口までバラエティーに富んで用意されて、まさに飲み放題。途中で分からなくなってしまいましたが、8杯ぐらい飲んでしまいました。意外にも甘口ワインが旨かったでした。

 ただ酒を呑んでしまったので、「悪いなあ」と思い、買いたくもないお土産を2点買いましたよ。いけない、敵の罠にまんまとハマってしまった。

奥に一の鳥居が見えます

 出雲大社本殿近くの土産物店の2階で昼食を取った後、30分ほど自由時間になったので、一の鳥居(高さ23メートル)に行ってみようかと思ったら、外はどしゃぶりでした。途中まで行ったのですが、靴下まで濡れてきて、集合時間に間に合わなくなるといけないので、あえなくギブアップして引き返し、二の鳥居(高さ8.8メートル)がある勢溜(せいだまり)で我慢しました。

神楽殿

 集合時間に戻ったところ、どういうわけか雨はやんでくれました。

 ガイドさんの案内で、最初に連れて行ってくださった所は、神楽殿。大注連縄が特徴的で、私も写真で何度か拝見したことがありました。

 素人の方は、ここが本殿だと勘違いして、ここだけお参りして帰ってしまう人もいるんだとか。

オオクニヌシノミコト

 御存知、大国主大神、オオクニヌシノミコトです。出雲大社の祭神です。

 「因幡の白うさぎ」の話や国譲りの物語に登場します。

拝殿

はい、ここが拝殿。1963年に新築され、高さ12.9メートルあるそうです。

 右側に少し見えるのが、国宝の御本殿です。

神楽殿の大注連縄

 その前に、先ほどの神楽殿の大注連縄のアップ。以前は、この大注連縄に向かって、お賽銭を投げつける輩が多く、たくさんのコインが藁の間に挟まっていたそうです。今はない、ということは禁止されたのでしょう。

 長さ13.6メートル。重さが5.2トンもあるといいますから、下敷きになったら大変ですね。

八足門

 御本殿に向かいました。建物は、将軍徳川吉宗の頃の延享元年(1744年)に完成されたもので、国宝。

 ただし、上の写真は御本殿の手前にある八足門で、お正月以外、普段は御本殿に入れませんのでここで参拝します。

 神社での参拝は、普通は、2礼2拍手1礼ですが、出雲大社だけ特別で、2礼4拍手1礼となっていました。

御本殿

 上の写真が、国宝の御本殿です。屋根の上にバッテンのようにクロスしたものがありますが千木(ちぎ)と呼ばれ、穴も開いていますが、その穴の大きさはヒトの頭が入るくらいの大きさなんだそうです。

江戸時代につくられた御本殿の高さは24メートル。平安時代はこの倍の48メートルもあったそうです。それどころか、日本古代文明の発祥地とでも言うべき出雲国なので、当時は96メートルという全国一の巨大な建造物だったことが、2000年に発見された遺跡で明らかになっています。

 祭神のオオクニヌシノミコトは、西に向かってお座りになっているので、写真ではこちらに向かってお座りになっていることになっています。目と目が合いましたか?

 そうそう、出雲大社は60年に1度、「遷宮」という行事があります。ただ、出雲大社の場合、伊勢神宮のように場所は移動せず、瓦葺を新調するんだそうです。使われるのはヒノキの檜皮。これが不足して将来的に心配されるそうです。あわてて植林しましたが、檜皮が取れるヒノキが成長するのに120年もかかるんだそうです。

 遷宮の直近は平成25年(2013年)、その前は昭和28年(1953年)。次回は2073年ですが、ガイドさんは「60年後も皆さん、お参りに来てくださいね」と呼び掛けていました。これに対して、皆、力なく苦笑するだけでしたが。

お菓子の壽城

 さて、この後向かったのが、米子城です。

いや違った、「お菓子の壽城」というお菓子屋さんです。島根県出雲市から、また鳥取県米子市に舞い戻ってきました。「また、土産物屋かあ」と思いましたが、ここは許します。見事なお城の建物です。米子城を復元したらしいのですが、随分お金をかけているなあ、と思いました。

 早朝、行けなかった本物の米子城址の仇を取った感じでした(笑)。

12種海鮮御膳

 この米子市からバスでまた1時間半もかけて東へ走行し、 鳥取市へ。夕食は、鳥取砂丘のお土産屋さんを兼ねた食堂へ。午後5時半近かったので、外は真っ暗。街灯がほとんどないですからね。砂丘も見えないので、予定が変更され翌日回しとなりました。

 夕食は12種類の海の幸、海鮮御膳。中ビール650円は少し高め。

 2日目の宿泊先は、鳥取駅近くのシティホテルでしたが、駅前通りは寂れてシャッター商店街。街灯も少なくて、薄暗かった。むしろ、東京の夜の明るさの方が異常なのかもしれませんけどね。

 それにしても、2日目の宿泊先もまた鳥取県。どうしちゃったんでしょうかね?これまた、後で分かることになります。

 3日目は、ついに念願の姫路城と倉敷の大原美術館に行くことができました。(つづく)

「新善光寺展」が開催中=京都・泉涌寺

おはようございます、京洛先生です。

 昨年も渓流斎ブログで紹介、掲載してくださった「新善光寺展」が、今年も11月30日(土)まで、京都・泉涌寺山内にある「新善光寺」で開かれています。

今年は今週27日(水)に、天皇皇后両陛下が“皇室の御寺”である、泉涌寺に行幸啓されたので、同日は、新善光寺の界隈や狭い参道は、小旗を持った人が押しかけ、いつもは閑静な同寺一帯は大賑わいでした。

ワタシは、渓流斎さんも旧知の加藤力之輔画伯が新善光寺のご住職と入魂でもあるということで、彼のアトリエにお邪魔して、同展を覗いてきました。

 今年は、770年余にわたり同寺に伝わる「寺宝」や皇室ゆかりの遺品も展観、公開され、庭の紅葉とともにじっくり鑑賞してきました。 (残念ながら、寺宝等は、写真撮影禁止でした)

後嵯峨天皇が1243年(寛元元年)の勅願で創立、開山された「新善光寺」ですが、その謂れは、はるばる、信濃の「善光寺」に行かずとも、京の都で信州善光寺に祀られている阿弥陀如来と同仏同体を鋳造して、そのまま拝めるようにということで「新善光寺」の名前で建立されたわけです。

新年令和2年1月1日から始まるお馴染み、JRグループが大キャンペーンを張る「京の冬の旅」に新善光寺が初公開されることになったので、 今年は、そのポスターに使われた狩野周信筆の襖絵「鞨鼓楼図」も公開されました。

その前に、取り敢えず、新善光寺の境内の紅葉などをご覧ください。

恐らく、都心の東京駅をはじめ、銀座や新宿、渋谷などで、この襖絵をバックに座る片山九郎右衛門(能楽師)の、“京の冬の旅”の一大キャンペーンのポスターや映像が頻繁に大写しで流されることでしょう。

廊下の奥の絵は加藤力之輔画伯の作品です。

こちらもそうです。

皆さん、京の都がお待ちしております。

拝復

 確か、泉涌寺は真言宗だったはずですが、浄土教の阿弥陀如来の信仰も強いんですね。

 先週、後輩が京都に紅葉狩りに行ったら、大混雑で、歩くのも大変だったという話を聞きましたよ。

 あまり観光客が来ない、知られていない名所を狙うしかありませんね。