「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

昨日21日(土)は、東京・御茶ノ水の明大リバティータワーで行われた講演会を聴きに行きました。

「偽りの烙印」などの著書があるゾルゲ事件研究の第一人者の渡部富哉氏が88歳のご高齢になられ、これが「最後の講演会」ということでしたので、渡部氏には大変お世話になったり、こちらもお世話をしたり(笑)した仲でしたので、会場で会いたくない人がいるので気が進まない面もありましたが、足を運んだわけです。

私は読んでませんが、「ゾルゲ研究の第一人者の最後の講演」は、朝日新聞(恐らく都内版)に掲載されたらしく、それを読んだ人が、「大変だ」とプレミア価値を持ったのか分かりませんが、驚くほど大勢の人が押し寄せて、受付も長蛇の列で長い間待たされました。

概算ですが、500人以上は詰め掛けたのではないでしょうか。資料代1000円でした。

プレミアで来られた方の中には、ゾルゲ事件についてあまり詳しいことを知らない人もいたようで、何だか分からないピンボケの質問をする自信満々の唐変木な老人もおりました。

あまりにも多くの人が押し寄せたので、気を良くした渡部さんは「これを最後にしようかと思いましたが、話しきれないので、もう1回やります」と宣言するので、こちらも拍子抜けしてしまいました。

とても88歳とは思えない矍鑠ぶりで、志ん朝のようなべらんめえ調の話術は相変わらずで、落語を聴いているようで、会場から笑いを誘ってました。

肝心の講演会は「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」で、日本共産党中央委員会顧問などを務めた松本三益(1904〜98年、享年94)が、当局(特高)のスパイだった、という説を特高資料や当時の関係者の証言録を引用してかなり説得力がありました。

渡部氏によると、松本三益は、日本共産党入党を1931年10月(「赤旗」など日本共産党の公式見解)としておりますが、真実は、既に1928年に入党しており、これなども当局によるスパイ松本三益隠しの一つだった、などといいます。

ただ、表題の「解明されたゾルゲ事件の端緒」に関しては、全く要領を得ず、納得できるような論は展開されなかった、と私なんかは聴きました。

ゾルゲ国際諜報団の中心人物の一人、宮城与徳(沖縄県名護出身。渡米し、画家に。米国共産党に入党。コミンテルンの指令で日本に戻り、ゾルゲ・グループに合流。逮捕され獄中死。享年40)は、日本に潜入した際、最初に接触したのが、沖縄師範学校時代の同級生だった喜屋武保昌(きやむ・やすまさ、東大新人会に参加し、官憲からマークされた。私立巣鴨高商教授。宮城与徳が描いた喜屋武保昌とその息子と娘の肖像画は記念館に展示されている)で、この喜屋武から「農業部門に詳しい専門家」として松本三益を紹介された。松本は、宮城与徳に高倉テル(1891〜1986、京大英文科卒、作家、教育赤化事件などで検挙。脱獄を企て、その脱獄に便宜を与えた疑いで三木清が逮捕された。戦後、日本共産党に入党し、国会議員)、安田徳太郎(1898〜1983、医師、社会運動家。京大医学部卒。東京・青山に医院を開業し、宮城与徳に、通院していた軍関係者の情報を提供したとして検挙)、久津見房子(1890〜1980、社会運動家。3・15事件で検挙、ゾルゲ事件に連座し、懲役8年の判決。敗戦で4年で釈放)らを紹介した。…などという話は渡部氏は事細かく説明してましたが、松本三益が、いかにしてゾルゲ事件の端緒を開いたのか、説明なしでした。

そこで、講演会の二次会を欠席し、自宅に帰って、古賀牧人編著「『ゾルゲ・尾崎』事典」(アピアランス工房、2003年9月3日初版。加藤哲郎一橋大教授のお薦めで、当時4200円なのに、2012年に古本で4949円で購入)を参照したら「真栄田(松本)三益密告説」など色々書いてあり、これを読んでやっと要点が掴めました。

高倉テルが安田徳太郎に語ったところによると、真栄田(松本)三益は、満州の事件(恐らく、合作社・満鉄調査部事件)で昭和16年に検挙されたが、助けてもらうために、警視庁がまだ知らなかった宮城与徳の諜報活動を密告して、当局と取引したというのです。

「伊藤律端緒説」という誤った説を広めたため、渡部氏が蛇蝎の如く嫌っていた尾崎秀樹(1928〜1999、文芸評論家、尾崎秀実の異母弟)も「越境者たち」の中で、「事実だとすれば、組織発覚の端緒は、これまでいわれていた伊藤律ー北林トモー宮城与徳といった線ではなく、真栄田三益ー宮城与徳ということになる」とはっきり書いてありますね。

私自身、日本ペンクラブ会長も務めた尾崎秀樹さんとは、かつて取材などで親しくさせて頂いたこともあり、渡部氏が批判するほど、そんな頑なで悪い人には思えず、もし彼がもう少し長生きされていたら、「伊藤律端緒説」を取り下げて、渡部氏と和解していたんじゃないかと思っております。

友が皆 我より偉く見ゆる日よ

墨俣一夜城

最近、年のせいか、かつての知人、友人が知らないうちに、ど偉く(ドエリャーと読みます)なっていて驚くことがあります。

私の場合、高校の同級生の木本君が、天下の高島屋百貨店の社長さんになっていたと聞いたときは、腰を抜かしました。

そんな時、

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

という歌が、教養があるもんですから(笑)、つい、ふと、頭に浮かんできました。

石川啄木(1886~1912)のあまりにも有名な短歌です。

色んな解釈があるようですが、啄木さんは空想ではなく、実際にあった、感じたことを描いたことでしょう。となると、この「友」とは一体誰なのか、昔、気になって調べたことがありました。

その一人が及川古志郎(1883~1958)でした。

銀座「わのわ」 しょうが焼き定食850円

当時は、近現代史や昭和史をそれほど勉強していなかったので、あまりピンと来なかったのですが、海軍大将、海軍大臣にまで上り詰めた軍人です。

啄木の旧制盛岡中学時代の3年先輩に当たります。戦史に欠かせない大変な人です。(啄木は1886年2月の早生まれで、盛岡中には1898年入学、及川は1883年2月の早生まれ)

及川は軍人ですが、もともと文学少年で、多くの短歌や長詩を文芸誌に投稿し、同期の金田一京助(1882~1971)や野村長一(1882~1963)らと文学サロンめいたことをやっていて、啄木も参加していたようです。

金田一京助は、有名なアイヌ語研究などで知られる言語学者で、啄木はかなり迷惑をかけていたようです。京助の子息で同じく言語学者の金田一春彦は、思い出エッセイの中で、「啄木はよく借金を踏み倒すので、父は啄木のことを『石川五右衛門の子孫じゃないかな』と冗談で言っていた」といったようなことを書いてましたね。

野村長一は、「銭形平次」で知られる作家野村胡堂のことです。盛岡中から第一高等学校~東京帝大を卒業し、報知新聞の政治記者になりました。

彼ら以外に啄木の同期に満州事変を起こした板垣征四郎(1885~1948)がおります。啄木は明治45年に26歳の若さで病死してますから、同級生だったなんて想像もつきませんでしたね。陸軍大将に登りつめた板垣征四郎は戦後、A級戦犯として逮捕され、東京裁判により処刑されてます。享年63。

また、4年先輩には、海軍大将で首相まで務めた米内光政(1880~1948)がおりました。米内は盛岡南部藩士の子息です。

南部藩は、戊辰戦争の「負け組」で、明治革命政権の下では冷や飯を食わされた側でしたが、中にはこうして実力と能力と努力で登りつめた人がいたわけです。

とはいえ、盛岡中(現盛岡第一高校)卒業生の中で、最も知られている有名な人物は詩人・童話作家の宮沢賢治(1896~1933)かもしれませんね。

賢治は、啄木の11年後輩に当たります。久しぶりに彼の作品を読みたくなりました。

加藤廣さん逝く

残念なことに、歴史小説家の加藤廣さんが4月7日に都内の病院でお亡くなりになっていたことが分かりました。今朝(16日)早く、京都にお住まいの京洛先生がメールで知らせてくれました。

享年87ですが、加藤さんが、デビューしたのは2005年の75歳の時。「本能寺の変」を独自の解釈で描いた「信長の棺」(日経出版)が、時の小泉純一郎首相の「愛読書」として注目され、瞬く間に大ベストセラーに。その後、松本幸四郎(現白鸚)主演でテレビドラマ化されました。

このあと、「秀吉の枷」「明智左馬助の恋」を完成させ、「本能寺三部作」と呼ばれました。この他、代表作に、週刊新潮に連載されて単行本化された「謎手本忠臣蔵」などがありますが、厚労省が言うところの、後期高齢者になってからこれだけの量と質を伴った作品を書き続けた作家は、日本文学史上、初めてではないでしょうか。

加藤さんは、少年の頃からの作家志望でしたが、大学卒業後、銀行員(中小企業金融公庫)になります。しかし、「作家になる夢」を諦めきれず、経済関係の本を現役時代から出版しておりました。

その才能に目を付けたのが、新聞社に勤務していた頃の京洛先生でした。エッセイやインタビューや連載企画物の執筆をお願いし、彼が主宰する勉強会「おつな寿司セミナー」にもゲスト講師として参加してもらったりしました。

小生渓流斎も加藤さんと謦咳を接したのも、この渋谷のおつな寿司の席でした。もう四半世紀以上昔のことで、当時はまだ加藤さんは無名で、エリートではありましたが、幼少の時から大変苦労されてきたようで、筋の通った古武士の雰囲気を醸し出してました。

加藤さんとしても、おつな寿司セミナーは、自分のメジャー・デビュー作を発表することになる日経文藝記者の浦田さんと知り合う場でもあったし、京洛先生には作品のテレビドラマ化に当たってコーディネーターになってもらったりしたので、相当思い入れがあった会合だったようで、ほとんど毎回出席されてました。

そういう小生も、加藤さんにはインタビューなどで大変お世話になりました。特に、銀座の超高級おでん屋さん「やす幸」のご主人が加藤さんの御学友とかで、すっかりご馳走になったりしました。

「やす幸」のおでんを食してしまうと、もう他のおでんは絶対口にできないほどの絶品で、今まで食べてきたおでんは一体何だったのか、と思うほどかけ離れた美味しさでした。

もう消滅してしまった《渓流斎日乗》には、かなり加藤さんが登場していたと思います。

加藤さんが中小企業金融公庫の京都支店長時代、当時、ベンチャー企業で、海のものとも山のものともつかぬ変な会社がありました。他の銀行は相手にしなかった変わったその経営者の素質を加藤さんは見抜いて、積極的に融資し、今や誰もが知る世界的な企業に成長した会社があります。

それは、今では飛ぶ鳥を落とす勢いの日本電産です。一風変わった経営者とは、お正月の午前中以外、1年365日働きまくる、あの永守重信氏です。

【追記】

どういうわけか、加藤さんの訃報記事は16日付日経、毎日、産経、東京の朝刊に載ってますが、朝日と読売は、朝夕刊ともに載らないのです。不思議です。

 

久しぶりの満洲懇話会

Copyright par Duc de Matsouoqua

先日十数年ぶりに再会した畏友隈元さんが、学生時代の卒論が満洲問題で、ライフワークもそうだというので、それなら、「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)などの著作がある満洲育ちの松岡氏をご紹介したら、面白いんじゃないかと思って、面談する機会を作ったのですが、この人、学生講義指導でハワイに行ったり、韓国に行ったり、「金持ち暇なし」生活でなかなか捕まらない。メールしてもなかなか返事もくれない(苦笑)。

昨日はやっと実現して、都内にある松岡氏の邸宅にお邪魔して、有意義な時を過ごすことができました。

私も2年ほど前に一度拝見したことがある「満洲の昔と今 四都物語」を写真と地図等で辿ったスライドショー大会がメーンイベントでした。(2年前と比べ数段進歩してました)

 

この会にはもう一人、私は初対面でしたが、隈元さんは以前、取材でお世話になったことがあるという古海氏も参加されました。古海氏は、「満洲国の副総理」と称された古海忠之総務庁次長の御子息で、敗戦時12歳。学年は松岡氏の1級上の満洲育ちでした。エリート一家というか一族で、米寿を近くしても頭脳明晰で、記憶力も抜群で、驚くほど全く気力が衰えておられませんでした。

1945年8月9日、ソ連軍が当時の日ソ中立条約を、ヤルタ会談密約により一方的に破棄して、満洲に進軍して占領し、60万人とも70万人ともいわれる日本人をシベリアに抑留し、鉄道敷設など重労働を科しました。その1割の6~7万人が異国の凍土で死亡しました。残留孤児という悲劇も産み、今でも詳細については歴史的に解明されておりません。

ソ連侵攻の噂を知っていち早く逃げ帰ったのが、関東軍幹部や満鉄など幹部家族ら情報が入りやすい特権階級でした。

古海「副総理」も、事前に日本敗戦濃厚の情報はキャッチしていたことでしょうが、国都新京(現長春)に居残り、当然、シベリアに抑留され、長くてもあの有名な大本営作戦参謀の瀬島龍三らほとんどが昭和31年に帰国することができましたが、古海「副総理」ら40人ほどは、ソ連から解放された後から、今度は中国共産党から拘束され、結局、懲役18年の満期を終えて日本に帰国できたのは昭和38年、1963年だったというのです。既に63歳になっていました。

古海は、軍人ではなく文官です。大蔵省出身で、後の東京裁判でA級戦犯となる「ニキサンスケ」の一人、大蔵官僚の先輩星野直樹の引きがあって、満洲に渡りました。恐らく、満洲国官僚のトップだった彼は、「見せしめ」として軍人より重い罪を与えられたのでしょう。

Copyright par Duc de Matsouoqua

子息の古海さんは、元銀行マンで、経営者の顔を持ちますが、全く偉ぶらない人格者でした。そして、「あの(満映理事長だった)甘粕さんは、歴史上では大杉栄らを惨殺した悪者になってますが、直接、甘粕さんを知っている人で、悪く言う人は一人もいなかったそうですよ。本人は『自分はやってない』と、ごく親しい人だけに極秘に打ち明けていたそうです」と自信を持って話してました。

私も一時期、甘粕正彦と大杉栄については、異様なほど熱中して、かなり関連書籍を読み漁り、この《渓流斎日乗》でも数回に分けて書いたことがありましたが、それらのWeb記事は残念ながら消滅してしまいました。

そのせいか、甘粕が服毒自殺した現場に居合わせた人物として、映画監督の内田吐夢まではかろうじて思い出せましたが、あとはすっかり記憶喪失(苦笑)。後で、調べたら、長谷川4兄弟(長兄海太郎は、林不忘の筆名で「丹下左膳」を発表し、流行作家に)の一人で、作家、翻訳家、ロシア文学者、戦後、ボリショイサーカスのプロモーターになった長谷川濬、作家赤川次郎の実父赤川孝一らがおりました。

もう一人、昨日はどうしても思い出すことができなかった、甘粕と親しかった重要人物に和田日出吉がおりました。昭和11年、中外商業新報(現日経)記者時代に「2.26事件」をスクープしたジャーナリストで、満洲に渡って、満洲新京日報社の社長を務めたりします。

この方、往年の大女優木暮実千代の旦那さんでした。この話は、黒川鐘信著「木暮実千代 知られざるその素顔」(日本放送出版協会、2007年5月初版、もう11年も昔か!)に詳細に描かれ、この本もブログに取り上げましたが、記事は、やはり消滅しています。また、残念ながら、個人的な入退院のどさくさの中で、この本を含め数百冊の個人蔵書は売ってしまったか、紛失したかで、今は手元にありません。

あ、忘れるところでしたが、昨晩は、松岡氏には大人気の銘酒で、今ではとても手に入らない「獺祭(だっさい)」などを遠慮も気兼ねもなく、バカスカとご馳走になってしまいました。さぞかしご迷惑だったことでしょう。お詫びするとともに、御礼申し上げます。

華族の家族の物語

恐らく、現在、華族の研究家としては第一人者の浅見雅男氏が、軽いエッセイ風の読み物「歴史の余白」(文春新書2018年3月20日初版)を出版し、今、私も面白く拝読しております。

例によって、この本は、博多にお住いの吉田先生からのお勧めですが、浅見氏とは、一度だけ渋谷のおつな寿司でお会いしたことがあります。もう20年ぐらい昔でしょうけど、当時、浅見氏はまだ、文藝春秋の編集者をされておりました。

著者は、学者以上にあらゆる文献に目を通しておられますので、説得力があります。例えば、天皇の生前退位についても「神話時代や古代はともかく、中世以降は天皇が生前に皇位を退くことは珍しくなかった。江戸時代に限っても。107代の後陽成から121代の孝明まで15人の天皇のうち9人が生前に譲位している。その理由はさまざまだが、天皇は即位した以上、終身、皇位にとどまるという定めや慣行はなかったのだ」とはっきり書いております。

つまり、生前退位を否定する考え方は、明治薩長政権が皇室典範で決めた比較的新しいものに過ぎないと歴史的に証明しているのです。

この本を読んで、初めて教えられたことは多くありますが、明治維新をやり遂げた公家代表の一人で、御札の肖像画にもなった岩倉具視がおります。彼は公家の中でも低い身分で碌高も少なかっただけに、維新後の出世には周囲からの妬みややっかみが多かったそうです。それはともかく、その曽孫に当たる靖子が日本女子大附属高校時代に共産党のシンパとなり、あの有名な昭和8年の一斉検挙で逮捕され、市ヶ谷刑務所に収監。治安維持法違反の裁判が始まる前に保釈された渋谷の自宅で自裁してしまうんですね。

実に波乱万丈なのは、靖子だけではなく、その父親の具張(ともはる)です。岩倉具視の直系の孫に当たり公爵岩倉家を継ぎますが、新橋の芸者に大金を注ぎ込んで破産してしまうのです。具張の父具定(ともさだ=岩倉具視の子息で岩倉家を継ぎ、宮内大臣などを歴任)、明治34年8月22日付「時事新報」で、全国で50万円以上資産を持つ411人の一人として掲載されるほどの大富豪でしたが、具張はこれらを全て散財しただけでなく、100万円以上の借財を抱えてしまったといいます。

同じ元公家として、東坊城家があります。江戸時代の禄高は、岩倉家の倍の301石もあり、明治になって子爵となりますが、家督を継いだ徳長(よしなが)が、赤坂あたりの芸者に大枚を注ぎ込んで没落し、大正時代は「貧乏公家」との定評が立ってしまいます。この徳長の三女英子が、後の大女優入江たか子だと知り、吃驚してしまいました。

英子は、 最近、閉校するということで話題になった文化学院(与謝野晶子らも教壇に立った)を卒業して、新劇の舞台に代役で出演したのがきっかけで、スターの切符を手にし、家族の生活を支えたという話です。

入江たか子については、2016年12月27日付の《渓流斎日乗》で、成瀬巳喜男の「まごころ」の中でも取り上げましたが、驚くほど美しい戦前の無声映画の大スターだったとはいえ、本物の華族の娘だったとは。。。

最後におまけ。

「平民宰相」と呼ばれた原敬首相。歴代首相を務める人は、これまで全員、公侯伯子男の爵位を受けるのに、この人は断り続けて、爵位なしで宰相になったからなんだそうですね。

原敬の家系は、南部藩の重臣で、明治薩長からみると逆賊です。原敬には「薩長の田舎侍から爵位をもらってたまるか」という反骨精神があったんでしょうね。

「ペンタゴン・ペーパーズ」は★★★★★

実は、あまり触手が動かなかったのですが、統合幕僚参謀本部からの指令で、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を先ほど観てきました。

だって、監督がスピルバーグ、主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。あまりにも役者が揃いすぎて、手垢がつき過ぎている。そりゃ、ハリウッド映画ファンなら大喜びでしょうけど、極東の映画巧者にとってはむしろマイナス要因ですからね(笑)。

それに、私の世代にとっては、この事件は、教科書に載るような歴史物語ではなく、生々しい過去の出来事。「感動してたまるか」と上から目線で見始めたら、いきなり、ベトナム戦争の前線の場面から始まり、多くの若い米国人兵士が次々と生命を奪われていく。。。「あれ、もしかしたら凄い映画なのかもしれない」と思ったら、気が付いたら、すっかり映画の中の住人になっていました。最後まで観客を飽きさせなかったリズ・ハンナの脚本の力が大きかったのかもしれませんが。

くどいようですが、私の世代まで、ギリギリ、ワシントン・ポストの女性社主キャサリン・グラハムの名前や、最高機密文書を暴露したエルズバーグという名前、それに、メディアとニクソン政権との確執などを同時進行で見てきた世代でしたので、「ストーリー」は分かってました。

個人的ながら、「ペンタゴン・ペーパーズ」を大スクープしたニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者とは、後年、彼が「輝ける嘘」(集英社)上下2巻を1992年9月に日本で翻訳出版した時、その発売前の8月に来日した際、インタビューしたことがありました。この映画の中で、何度も何度もニール・シーハンの名前が出る度に(意図したことなのか、名前だけで本人役は登場しませんでしたが)あの時の感動を思い出したほどです。

映画では、時の政府権力者と新聞社の社主との癒着に近い親密な関係を事細かく描いてます。ワシントン・ポストのグラハム女史と国防長官のマクナマラが、ホームパーティーに呼び合うなどあそこまで親密な仲だったとは知りませんでしたね。

デイビッド・ハルバースタムの名著「ベスト・アンド・ブライテスト」の中では、当時、フォードの社長だったマクナマラが、ケネディ大統領によって「最も優秀で賢い人間」の1人として国防長官に抜擢された有様が描かれていました。

それが、先日読んだ宇沢弘文氏の著作で、マクナマラは、太平洋戦争で日本空襲爆撃の際、どうやったら最も効率良く死者を産み出すことができるかという「キル・レシオ(殺戮比率)」を考案した人間で、ベトナム戦争でも応用した人物だったと知って、彼に対する見方も大分変わりました。

あ、映画の話でした。とにかく、1970年代の米国の新聞社の内部が非常によく描かれていました。当時は鉛活字ですから、今はなき植字工さんも健在です。原稿を包の中に入れて、ダストシュートのように社内を飛ばすやり方も、見ていて懐かしかったですね。私が勤めていた会社にも昔、ありましたからね(笑)。

1971年、つまり今から47年前の出来事ですから、脚本執筆に当たり、当時を知っている存命中の関係者に可能な限り取材して反映させた、といった趣旨の話がプロダクションノートに書かれていました。

映画に出てくる車やファッションは、70年代を再現していて、それらしく見せておりますが、当時を知っている私から言わせれば、外見は70年代でも、中身はやはり21世紀の若者、もしくは俳優にしか見えない。こういうのが作りもの映画の限界なんだろうなあと、理屈っぽく考えてしまいましたよ(笑)。

文民統制は本当に大丈夫なのだろうか?

駿府城

ここ最近、霞ヶ関官庁街で不行き届き、いや不祥事が相次いでいます。

文科省、財務省に続き、今度は防衛省です。例の陸上自衛隊イラク派遣の日報隠し問題。

昨年3月に発見していたにも関わらず、陸自研究本部(現教育研究本部)が、当時の稲田防衛相や統合幕僚監部などに報告していなかったというのです。

1年近くも何やっていたんでしょうか?

あの安倍政権護持派の「体制派」と言われている産経新聞までもが、5日付同紙一面トップで「陸自が防衛相の指示に結果的に従わなかったことは、文民統制(シビリアンコントロール)の実効性を疑わせることになりかねない」と、声を大にして批判しております。

当時の防衛相の稲田氏は、産経だけには積極的に取材に応じ、「驚きとともに、怒りを禁じ得ない。報告を信じて国会で答弁した。こんなでたらめなことがあってよいものか」と語気を強めたらしいですね。

シビリアンコントロールが取れていない、ということは、もし、遠く離れたイラクではなく、日本国内で有事があったとしたら、ゾッとしませんか?

戦前は、軍部が暴走したおかげで、歯止めが効かず、その反省から戦後は文民統制の重大さを再認識したはずです。しかし、実態は、戦前とほとんど変わっていないということではありませんか?

名古屋城

作家司馬遼太郎が、敗戦間近に駐屯していた栃木県佐野市の戦車部隊で、「事態が混乱して住民が逃げ回ったりして、戦車が動けなくなったらどうしますか?」と部隊長に尋ねると、その部隊長は「かまわん。ひき殺してしまえ」と言ったことを晩年のエッセイの中に書いておりました。

戦争は人間を狂気にします。今回の「日報隠匿事件」のニュースを聞いて、「憲法や文民統制なんてかまわん。突っ走ってしまえ」と、軍人が独断で戦争を始めてしまうんじゃないかという危惧を抱いてしまいました。

中部東海お城巡りツアー2日目は、墨俣一夜城・岐阜城・犬山城・岡崎城

国宝犬山城

昨晩は、尾上菊五郎丈に連れて行ってもらった名古屋一の繁華街栄の高級クラブ「みゃあたにゃ」で座っただけで4万5000円というテーブルチャージを払って、世紀の美女とドンペリニヨンを痛飲しました。

と、日記には書いておこう。

墨俣(すのまた)一夜城と木下藤吉郎

「中部東海お城巡りツアー」は最終日。この日は残り4城を廻りました。

最初は、名古屋から岐阜県大垣市に向かい、秀吉が信長の家臣木下藤吉郎の時代に、稲葉城攻略の拠点として、一夜で建ててしまったという墨俣城。本当かなあ?

金華山山頂329メートルに聳え立つ岐阜城

次に向かったのが、岐阜城。ここは、金華山の山頂にあり、ロープウエイで行きましたよ。

山頂駅から降りても、かなりハードな山道でした。

先程の秀吉が稲葉城攻略のために一夜で建てたという墨俣城。この、稲葉城が何処かと思ったら、ナーンダ、この岐阜城だったんですね。

稲葉城を岐阜城と改名したのは、織田信長でした。信長は、当時「井の口」と呼ばれた地名を岐阜と改名していたのです。

だから、岐阜と信長は、切っても切れない縁だったんですね。地元の英雄ですから、「信長ワンカップ」から「信長せんべい」に至るまで、お土産屋さんで売ってました。

信長は、山頂の岐阜城に住んだわけではなく、金華山の麓に大豪邸宅を作ったらしく、目下、「信長公居館」は発掘調査中で、わざわざ滝が注ぐ池の庭園まで作っていたようです。

国宝犬山城

続いて訪れたのが、犬山城。個人的ながら、実に60年ぶりの再訪です。

60年前は、写真が残っているだけで、殆ど記憶がありませんが(笑)。

渓流斎先生が御幼少の砌、訪れた犬山城

400年以上昔に建てられた木造建築がそのまま、残っていたことから、「国宝」一号に指定されたようです。いな、残っていたというより、代々の城主成瀬家が守り抜いたからに他ありません。

今でも、建前上は、成瀬家所有となっているそうですが、財団法人化して、一般に公開するなどして、かろうじて維持しているようです。

国宝の城は現在、全国に5カ所ありますが、賢明なる読者諸兄姉の皆様方は諳んじておられることでしょう。序でに、重要文化財に指定されている城は、7カ所あります。こちらは分かりますか?

岡崎城

最後に訪れたのが岡崎城。徳川家康生誕の城のとして有名ですが、想像していたより、敷地も広大で天守も立派だったので驚いてしまいました。

家康は、幼少年時代は人質生活が長く、この岡崎城に戻ってきたのは、信長が桶狭間の戦いで今川義元を破ってからです。その後間もなくして、浜松城に移ります。

1590年の秀吉による小田原攻めと北条氏滅亡で、家康は、関東に移封され、この時、岡崎城主となったのが、関ケ原の戦いで逃げる石田三成を確保して手柄を立てた田中吉政です。

江戸時代となり、岡崎城主田中吉政は、筑後柳川36万石を与えられる大出世を遂げます。

田中吉政には世継ぎがいなかったため、筑後柳川は、久留米の有馬藩と柳川の立花藩とに分割されてしまいます。

私のご先祖様は、久留米藩の下級武士だったため、田中吉政にはかなり興味があります。

先祖が、播磨の有馬の家臣だったのか、それとも、もともと田中吉政の家臣だったら、岡崎から移ってきた可能性もあるからです。

良い参考文献等があれば、御教授下され。宜しゅう頼みまする。

中部東海お城巡りツアーを大決行=駿府城〜浜松城〜名古屋城編

名古屋城

ムフフフ…私は今、名古屋におります。

独り、栄(名古屋一の繁華街)で、追河君と同じような貴族の夜を存分に味わっております(笑)。

訳がありまして、「徳川家康を訪ねて三千里」。急に、家康馴染みのお城巡りを思い立って、一人で新聞広告に出ていたツアーに申し込んで、参加したのでした。

駿府城

かつて一度訪ねたことがあるお城もこのツアーの中に入ってましたが、訪ねたのがもう半世紀以上前の大昔だったり、自分では行った気ながら、初めてのお城だったりしたのもありました。

今朝は、朝5時に目覚まし時計をかけていたつもりでしたが、目覚ましが「オン」になっておらず、もう少しのところで遅刻するところでした(笑)。

団体ツアーですから、遅刻していたら、アウト!このように皆様に御報告することは、不可能でした。

今の日本の縮図を反映して、見事に老男女46人もの人が参加しました。せめて30人くらいかと思っていたのに、バスはギュウギュウ詰めです。特に、後期高齢者が大きな声を出して一番元気でした。

ホモ・サピエンスですから、雌種の皆様は、バスの中で、1秒も休まずお喋りに費やして周囲に騒音を撒き散らし、朝早くて眠い小生なんかは、非常に不快でした。

駿府城

最初に訪れたのが、静岡市の駿府城。大河ドラマ「直虎」で何度も出てきたので、とても近しく感じていたのですが、これほど広大で立派な城だとは思いませんでした。

もともとは、室町時代の守護職今川氏の城でした。今川と言えば、一番有名なのが、今川義元です。

家康は、この義元によって、人質となり、幼年時代から少年時代をこの駿府城で過ごします。

そして、今川義元が桶狭間の戦いで、織田信長軍によって敗れると、家康は、今度は城主としてこの駿府城を拠点とします。

なおも、関ヶ原の戦いを経て全国統一して江戸幕府を開いてから、家督を二代家忠に譲ってから、家康は、またまた、「隠居」と称しながら、「院政」を敷いて、駿府城を拠点にします。だから、駿府城はこれが三度目です。

家康は、余程、駿府城が好きだったんでしょうね。

現在、天守(閣)を発掘、復元中で、完成すれば、また、素晴らしい観光資源となることでしょう。

浜松城

次に、バスで向かったのが浜松城です。

普通なら、駿府城から浜松城までバスで1時間もあれば楽勝ですが、今日は、桜が満開の日曜日と重なって、駐車場を求めて、道路が大渋滞で、2時間半はかかってしまいました。

浜松城は、家康が29歳から45歳までの元気な青年、中年期を過ごした城で、ここで、武田信玄との三方原の戦いで惨敗したりしますが、一番脂の乗り切った時代でした。後に「出世城」とも言われ、江戸中期、老中にまで出世した唐津城主水野忠邦らは、志願して国替えで浜松城主になったりしました。

個人的ながら、浜松城は、昨年訪れたばかりなので、飛び抜けて感動できませんでしたが、意外に敷地が広く、城下町もかなり工夫して築き上げていたことが分かりました。

名古屋城

この後、名古屋城に行きました。

名古屋といえば、以前、仕事と遊びで何十回も行っているのに、名古屋城を訪れるのは生まれて初めてだったということが、今日分かりました。当時、名古屋球場での中日戦のナイターの取材が終わると、栄で飲み明かしていたので、二日酔いの頭で行った記憶もないのです。

「尾張名古屋は城でもつ」と昔から言われていたのに、何で、これまで行かなかったのか?若い頃は、さほど城に興味がなかったのか、お城はあまりにも当たり前過ぎて、近くにあって、いつでも行けると思っていたのか、どちらかなんでしょうけど、いやあ、今日は感動しましたねえ。

名古屋城は、大阪城、熊本城と並ぶ三大名城なんですってね。(ちなみに、全国には、城跡まで含めると、3万ぐらいの城(跡)があり、今のコンビニより多かったとか)

名古屋城は、築城名人の加藤清正が関わったから、三大名城に選ばれたらしいですが、本当に感銘しました。駿府城も凄かったし、昨年行った小田原城も素晴らしいと思いましたが、この名古屋城と比べると、美空ひばりと坂本冬美ほどの違いがあります。京洛先生の真似ですが(笑)。

それほど、名古屋城は桁違いに素晴らしかったです。

本当です。

「尾張名古屋は城でもつ」の格言は嘘ではありませんでした。

この名古屋城。400年前にできた国宝の本物は、アメリカ軍が昭和20年に焼夷弾を落として焼却したことを今の日本人は殆ど知りません。(今の名古屋城は、昭和34年に復元。しかし、今年のゴールデンウィーク明けから、再び天守は、耐震工事などが行われ、非公開になるそうです。見るなら、今でしょう)

日本は、アメリカから、バーミヤンの石仏と同じくらい貴重な歴史的文化遺産の建造物を破壊する蛮行をされながら、そして、今のトランプ政権からは、鉄鋼とアルミニウムの関税を、ヨーロッパやカナダや同じアジアの韓国まで除外しながら、「同盟国」日本はモロに標的にされながら、多くの日本人は、いまだにアメリカを敬い、尊崇し、コカコーラやマクドナルドやケンタッキーやディズニーやプレスリーやリーバイス・ジーンズを受け入れて平伏しているという、この現状。

世界的にも特別に優秀な日本の官僚が、この真実を知らないわけがない。

右翼だの、左翼だの、政治的イデオロギーの問題じゃないのです。歴史的文化遺産の話です。

※おっと、オキシトシンかセロトニンが出過ぎたようです(笑)。明日は、岐阜城、犬山城、岡崎城などを巡ります。

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大阪浪華の宝、折口信夫、木津勘助

おはようございます。大阪の浪華先生です。

渓流斎さん、色々、時間をつくって、東京や小田原や埼玉周辺を探索されて居られますね。健康のためにも良いことです。

ブログでは、谷川彰英著の「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)を読んで居られるそうで、休日は、川越まで足を運ばれた、という事ですが、色々、歴史の足跡を確認されて、教養を深められて、何よりです。


迂生は、「ウマズイめんくい村通信」の赤羽村長に対抗して、廉価で美味いものを探しに、大阪周辺を歩き回っています(笑)。
以前、「めんくい村通信」で、東京・浅草の「千葉屋」という、大学芋が美味しいとの評判記事が出ていました。
迂生も「大学芋」は大好きですが、上方には、気にいった大学芋を売っている店がほとんどありません。
もっとも、焼き芋、大学芋の店は、時代の流れで、消滅寸前です。大学芋は、デパートの総菜売り場で見かける程度ですが、小奇麗な陳列棚に並んでいる芋類はどこか気取っていていけませんね。
そんな折、京阪電車「京橋」駅の京阪百貨店の催事売り場で、美味い大学芋に出くわしました。
大阪市浪速区の「大国町(だいこくちょう)」にある、「大国屋」という大学芋の専門店で、パソコンで「大阪 大国屋」で検索するとHPが出てきます。
此処の大学芋は時間が経っても、いつまでもパリッとして、口当たりがよいことです。大体、大学芋は、時間が経つと、液状になって、飴が手にねばりついたり、ねばねばして、食べるのも面倒くさくなるものです(笑)。

そこで、暇つぶしに、地下鉄御堂筋線「大国町」駅そばの、その「大国屋」にまで行ってきました。梅田から地下鉄に乘ると「難波」から一駅先が「大国町駅」です。難波からでも、歩いて行ける便利なところでした。
そこで、ついでながら、この「大国町」周辺のぶらぶら歩きをしたところ、色々、歴史探訪になりました。


一つは、彼の有名な民俗学者で国文学者、歌人の折口信夫(釋迢空)の生誕の地を見つけたことです。
さらに、それより、はるか昔、神功皇后が、「三韓征伐」の凱旋のおりに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ったという「敷津松之宮」(大国主神社)が大国町にありました。「古代」と「現代」が入り混じった、浪華の歴史が、あちこちに散見できることです。

”歴史の玉手箱”です。


折口信夫の生誕の地は、浪速区敷津西一丁目周辺で 今は鴎町公園の中にあり、大阪市が市制70周年を記念して記念碑を建立し、昭和58年に「十日戎」の詩の一文を刻んだ文学碑も建てられました。
記念碑には「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」と刻まれてありますが、「ほい駕籠」は、渓流斎さんお分りになりますかねえ?


東京、関東の人には、なじみのない言葉でしょう。「ほい駕籠」とは駕籠かきの掛け声です。
正月、同じ浪速区にある「今宮戎神社」の「十日戎」では、芸舞妓が「寶恵駕籠」に乗ったりするので、「ほえかご」とも言ったりしますが、当時の浪華の賑わいが、この歌からも伝わってきます。


また、「敷津松之神宮」の境内にも、折口信夫の記念碑が建っています。こちらは昭和53年11月に、折口の母校である「府立天王寺高等学校同窓会(旧制府立五中)」や「近畿迢空会」、「国学院大学院友会大阪支部」、折口が一時期、教員をしていた「大阪府立今宮高校自彊会」が協賛で記念碑を建てたものです。


「敷津松之神宮」の由緒は、神功皇后の時代に遡りますが、その後、江戸時代の延享元年(1744年)になって、神託を受けて、出雲大社の摂社として「大国主神社」になったため、鳥居と神殿が二カ所あります。「大国主神社」は、今宮戎神社と並んで、大阪商人の守り神とされています。「大国主神がお父さん」、「事代主神が子供」で、両方お詣りしなければ「片詣り」とも言われるそうです。初詣や、十日戎の時は、両方に参拝するする習わしになっている、という事です。


境内には「木津勘助」の大きな銅像もあります。
またまた、渓流齋さんは「木津勘助て、一体、何者ですか?」となるでしょうね(笑)。
木津勘助は、伝説的英雄で実像は不明のようです。


通説では、本名は中村勘助。天正14年(1586年)に関東の足柄山に生まれた、と言われています。その後、大坂は木津村に住み、豊臣秀吉の配下になり、豊臣家滅亡後は、木津川の治水・堤防作りや新田開発事業に取り組んだ、と伝わっています。とくに、寛永16年(1639年)の大飢饉では、「お蔵破り」を決行して捕まり、葦島(現在の大正区三軒家付近)に流されました。その後、また、新田開発に関わり、万治3年(1660年)、75歳で亡くなったと言われています。

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