「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。

佐川長官辞任、竹田厳道、萩原吉太郎、児玉誉士夫、塚本素山

待ち人来ず  Copyright par Kyoraque sensei

以前は、湧き出る泉の如く、1日にナンボでも書けたのですが、最近は、加齢のせいか、眼精疲労も酷く、無理を押して書く気力が段々なくなってきてしまいました(苦笑)。

致し方ないことです。人間だもん、相田みつを。

六義園

森友問題で、近畿財務局の50代半ばの職員が自殺したと思ったら、ついに、当事者だった元近畿財務局長の佐川国税庁長官が辞任(事実上の更迭)に追い込まれました。このまま行けば、任命責任のある麻生財務相、そして安倍首相にまで責任問題に発展し、内閣が崩壊するのではないかという識者も多いですが、私はそこまではいかないだろうと思ってます。

別に根拠はありませんけど、何となくそんな気がします。

森友問題で、財務省が公文書を、マスコミでは「書き換え」なんてめでたく言ってますが、はっきり言って「改竄」でしょう。もしそれが事実なら、公文書偽造罪であり、国会で「破棄した」と宣言した佐川さんは、明らかに偽証罪であり、国民を裏切る犯罪行為であることは誰でも分かります。

でも、安倍首相の場合、「わたくしの全く預かり知らぬところです」という答弁は、もしかしたら、その通りかもしれません。

昨年、流行語になったように、財務省の連中が、己れの出世のために「忖度」して、論功行賞欲しさに時の権力者に阿(おもね)っていただけだったような気がするからです。

これもこれも、首相官邸が霞ケ関=官僚の人事権を握ったからなのでしょう。そりゃ、飛び抜けて優秀な官僚さんも、国民ではなく、首相の顔色を伺って仕事をするようになるはずです。

人間だもん。

Copyright par Kyoraque sensei

さて、先日、加藤画伯の個展を鑑賞するために、東京・銀座の「一枚の繪画廊」に行ったことを書きましたが、この画廊を経営する美術誌「一枚の繪」を昭和47年に創業した人は、竹田厳道という人で、この方は、もともと北大を出て、北海タイムスの社長をしていた人だということを京洛先生から伺いました。

北海タイムスは既に廃刊した伝説の新聞ですが、明治20年に創刊された北海新聞の流れを汲む歴史のある新聞社でした。

統廃合を繰り返した末に、戦後、復刊させたのが、北海道財閥の最高実力者、三井財閥系北炭の萩原吉太郎でした。竹田厳道は、この萩原に見込まれて社長に就任するのですが、その経営方針で対立して、追い出される格好で、美術の世界に転身したわけです。

さて、この萩原吉太郎という人物もなかなか恐ろしいほど凄い人物です。特に、黒幕児玉誉士夫との交流が深く、河野一郎、大野伴睦ら有力政治家を紹介され、中央政治界にまで食い込んでいきます。

ご興味のある方は、検索すれば色々と出てきますからどうぞ(笑)。

私も皆さんと同じように(笑)色々検索してみました。

まず、「一枚の繪」のホームページには、沿革がなく、一切、竹田厳道の名前は出てきませんね。今は、彼の娘さんが2代目として継いでいるらしいですが、京洛先生から名前を聞かなければ、全く調べようがありませんでした。

まだまだ、デジタルの世界は遅れているということです。アナログの知識がなければ、キーワードさえ思いつかない…。

で、萩原吉太郎も検索してみたら、児玉誉士夫、永田雅一ら色んな著名人が出てきました。その中で私が注目したのが、塚本素山です。

えっ?知らない?

銀座・塚本素山ビルディング

あのミシュランで世界的にも超有名になった高級寿司店「すきやばし 次郎」の入っている塚本ビルのオーナーだった人です。建物には「塚本素山ビル」と大きな字で描かれています。ここを本部に全国に一大コンツェルンを築き上げます。

この方、陸士出身で、少佐で敗戦を迎え、戦後は実業界に華麗なる転身を遂げた人です。その点だけは、あの元大本営高級参謀瀬島龍三と少し似たところがあります。

銀座に大きなビルを建てるぐらいですから、この人も只者じゃありませんね。児玉誉士夫さんとの関係も濃厚です。児玉事務所は、塚本ビルにあったぐらいですから。

検索すれば、色々と出てきますから、ご興味のある方はどうぞ。私のように無気力にならず、青春を謳歌してください。

【追記】

コメント有難う御座いました。

 

蘇我氏が分かれば古代史が分かり、古代史が分かれば日本の歴史が分かる

Copyright par Matsouoqua Sausaie

先日、倉本一宏著「蘇我氏」(中公新書)を読了しましたが、1週間近く経つのに、まだ、あの感銘が消えていません。「そっかあ」「そういうことだったのかあ」と納得することばかりでした。

この感銘もいずれ忘れてしまうので、書き留めておかなければなりません。前回書いた記事に【追記】として掲載しようかと思いましたが、稿を改めることにしたわけです。

倉本氏は、「おわりに」に梗概をうまくまとめておられました。それなどを参考に私の感想も含めて列記致したく存じます。

・「乙巳の変」は(1)舒明天皇と皇極天皇との間の皇子、中大兄王子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と、舒明天皇と蘇我馬子の女(むすめ)法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子(ふるひとのおおえのみこ)との大王位継承争い(2)中臣鎌足と蘇我入鹿との間の国際政策構想(唐からの圧力にどう対処するかの外交問題)の争い(3)蘇我氏内部における本宗家争い(4)大夫(まえつきみ)氏族層内部における蘇我氏族と非蘇我氏族との争い―など複雑な要素がからんだクーデターだった。

・その際、中大兄王子の敵対者として、その実像以上に反天皇の立場(幕末史でいうところの賊軍)に描かれたのが蘇我蝦夷・入鹿親子だが、究極的には、「日本書紀」の編者である持統天皇と藤原不比等の主張に基づくものだったと考えられる。

・中臣鎌足の子息藤原不比等は、嫡妻(ちゃくさい)として、蘇我馬子の孫で、蝦夷の甥に当たる連子(むらじこ)の女である娼子(しょうし、媼子=おんし)を迎えたのは、蘇我氏という尊貴性を自己の中に取り入れて、正統性を主張する魂胆が背景にあった。

・同時に、藤原氏の不比等は、蘇我氏が6世紀から行ってきた天皇家との姻戚関係の構築による身内氏族化という政略も同時に踏襲した。(藤原氏による天皇家との外戚関係構築は、蘇我氏の真似をしただけだったとは!)

・乙巳の変で、蘇我氏本宗家は滅亡したが、本宗家の弟、甥筋などに当たる田中氏、久米氏、小治田氏、桜井氏などは奈良時代辺りまで、石川氏や宗岳(そが)氏などとして、藤原氏独裁の中、低官位に甘んじながらも平安末まで生き抜いた。

・最近の歴史教科書は、昔と大違い。聖徳太子の名前も消えるという噂もありましたが、今は厩戸王子(うまやとのみこ=聖徳太子)と記述されているようです。何故なら、聖徳太子は、厩戸王子の死後の諡(おくりな)で、生前に一度も、聖徳太子と名乗っていなかったからだそうです。

・この聖徳太子は、父用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の女堅塩媛=きたしひめ=との間の皇子)と母穴穂部間人王女(欽明天皇と蘇我稲目の女小姉君との間の皇女)との間に生まれた皇子で、つまり、蘇我氏の血が半分流れていたわけです。

・蘇我馬子の孫連子(むらじこ)の子孫が石川氏を名乗るも、元慶元年(877年)に、宗岳(そが)と改姓。これが後世には「むねおか」と読むようになり、宗岡、宗丘などの字も当てられた。埼玉県志木市の宗岡も関係あるのではないかという説も。

・参議(正四位以上)。平安時代になると、蘇我氏末裔は三位以上の官人はいなくなり、多くは五位で終わってしまう。(六位以下の官人の叙位記事は原則として「六国史」には掲載されない)

・平安時代の摂関期になると、国家による正史が編纂されなくなり、その代わりに古記録と呼ばれる男性貴族や皇族による日記が現れるようになる。倉本氏は、かつて、摂関期は古代氏族としての蘇我氏は完全に終焉したと考えていたが、それが誤りだったと気づきます。古記録には、蘇我氏末裔は、六位下の下級官人として古記録に登場していた!(同様に古代の名族である安倍氏、阿部氏、紀氏、石上氏、物部氏、平群氏、巨勢氏、大伴氏、伴氏、佐伯氏、春日氏、大神氏、橘氏なども健在だったと言われてます)

ついにパソコンよ、さらば?

JR浦和駅

不動産情報サイトが実施した「住みたい街ランキング 2018関東版」で、あの吉祥寺が首位から陥落して、横浜がトップになったそうで、おめでとう御座います。

しかし、私が注目したのは、埼玉県の大宮(9位)と浦和(10位)がトップ10にランクインしたことです。

へーと思ってしまいました。

でも、昨年辺りから、東海道線などと乗り換えなしで運行されるようになり、大宮、浦和から直接、横浜や熱海、小田原、伊豆まで、直行できるようになったので、便利と言えば便利です。

以前は、埼玉と言えば「ダサいたま」と言われ、住むのが恥ずかしいイメージがありましたが、そんな偏見も無くなったようです。

これから読もうかと思っている谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)によると、古代、埼玉は、武蔵国の中心どころか、東日本の中心だったようです。そして、何と言っても、埼玉(さきたま)の由来は、幸御魂(さきみたま)から来ているらしいですね。「人に幸せを与える心」という意味らしい。武蔵国には、古代には、出雲の人たちが渡ってきて、氷川神社などを建てたり、高句麗や新羅からの渡来人が移住したり、古代からなかなかのロマンと歴史があったようです。

この本を読むのも楽しみです。

 

さて、長年使っていたパソコンを処分することに決めました。メーカーが無料で引き取ってくれるという記事を新聞で読んだからです。

私の個人パソコンは、ウインドウズ7で、どうやら昨秋あたりから、マイクロソフトさんの戦略でサポートをやめたらしく、潮時となりました。

保証書と一緒に保管していた領収書を見たら、購入は2011年3月6日でした。東日本大震災の直前だったんですね。ちょうど、7年経ちますが、途中、入院したりして1年間殆ど全く使わない時もありました。

まだ、使えそうですが、バッテリーが劣化して、途中で電源が落ちたりして困ったことがありました。それに、動作が遅くてイライラしたりします。

もうパソコンも文房具みたいなもんですね。これが何台目だったのか、もうすっかり忘れてしまいました。

それに、今は、iPhoneとiPadがあるので、自宅でパソコンを使わなくても済んでしまいます。何しろ、iPhoneの最新機種のiPhoneⅩなんか、10万円以上するのに、パソコンは7万円ぐらいでも新品が買えるんですからね。パソコンもどうせ、5、6年持てばいいでしょうから、そして、ソフトもハードもそのように作られているのですから、それで十分です。

ただ、今のところ、この《渓流斎日乗》を執筆するにしろ、自宅ではパソコンを使わなくても用が済んでしまいますので、また新たに買い換えるかどうか迷ってしまってます。

ハムレットの心境です。

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」は悲運一族の名誉回復書か?

倉本一宏著「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書、2015年12月20日初版)。この本は面白い。実に面白かった。

著書は1958年、津市生まれ。国際日本文化研究センター教授。昨夏(2017年8月29日配信)に「戦争の古代史 ―好太王碑、白村江から刀伊の入冠まで」(講談社現代新書)を読んで、大興奮しましたが、その同じ著者でした。はずれがありませんね、一般向けにこの学者の書くものは。今度は、目下発売中の「藤原氏―権力中枢の一族」(中公新書、2017年12月20日初版)も読んでみようかなと思ってます。

倉本氏は恐らく、現代日本を代表する古代史の泰斗ではないでしょうか。

最近、ネット上では、古代史については、誰も分からないだろうからということで、「講釈師、見てきたような嘘をつき」といった内容の素人によるいい加減な記述投稿が目立ち、腹が立っていたのですが、倉本氏の著作は信頼できます。「古事記」「日本書紀」はもちろん、国内の「藤氏家伝」「元興寺伽藍縁起 流記資材帳」から、「呉志」「礼記」「晋書」といった漢籍、朝鮮の「三国史記 百済本紀」などに至るまで多くの原資料に当たって執筆しているので、国際的な視野も広く、敵対する両方の立ち位置まで俯瞰して、できる限り公平性を保っています。

この本は、いわば、これまで天皇絶対史観によって、「蘇我氏=専横=悪玉」「討伐されて当然」として歴史的に決定付けられていた悲運の一族の名誉回復書と言えるかもしれません。

また、大塚ひかり著「女系図でみる驚きの日本史」(新潮新書)で初めて知った(2018年1月17、18日配信)のですが、蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿の蘇我本流の宗家は滅んでも、いわゆる傍流、分家は、あの藤原氏よりいち早く、天皇家の外戚になったりして、現代の皇室に血脈がつながっていたんですね。

この本の大団円は、やはり、蘇我本宗家が滅んだ皇極4年(645年)6月12日の「乙巳(いつし)の変」でしょう。乙巳の変といっても、半世紀もの昔に学生だった私の世代は誰も知らないと思います。教科書にも参考書にも出てきませんでした。ただ単に「645年 大化の改新」のみです。

しかし、乙巳の変というのは、血生臭いクーデター事件のことで、その後、実権を握った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、公地公民制などによる中央集権国家建設を目的とした一連の政治改革のことを大化の改新と言うのが歴史的にも正確な言い方でした。

天皇王権の正統性を詳述した「記紀」によると、乙巳の変は、天皇家から実権を奪って独裁政権を樹立しようとした専横な蘇我一族を天誅により罰したというもので、それがこれまでの「正義」「正当」であり、「歴史」でしたが、この本によると違います。乙巳の変は、複雑な政争だったということです。

当時は、ちょうど唐の覇権主義が朝鮮半島から日本列島にまで及ぼうとしている東アジアの激動期でした。これを向かい討つには、高句麗のように権力集中を目指して、傀儡王を立ててでも独裁権力を振るおうとする蘇我入鹿。(この時、合議制のマエミツキ会議のトップである大臣=オオマエミツキでした)彼は、厩戸王子(聖徳太子)と蘇我蝦夷の妹である刀自古郎女の間の皇子、山背大兄王子を亡きものにしてしまいます。

その代わり、舒明天皇と蘇我蝦夷の妹法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子を次期天皇に祭り上げようと画策します。

これに対抗したのが、蘇我一族の血が一滴も入っていない舒明天皇と宝女王(皇極天皇)との間の皇子、葛城王子(=中大兄皇子、後の天智天皇)でした。彼は、唐から最新の統治技術を学んだ留学生や学問僧からの意見を取り入れ、官僚的な中央集権国家建設を目指します。

中大兄皇子の側には、中臣鎌足が付き、鎌足は、蘇我一族の内紛に目に付け、蘇我氏の氏上(うじのかみ)と大臣(おおまえみつき)の座を餌に、蘇我倉氏の石川麻呂と阿倍氏の内麻呂を誘い込んだのではないかというのが、倉本氏の説です。

乙巳の変の刺客に選ばれたのは、中臣鎌足が推挙した佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)。

「石川麻呂が上奏文を読み上げ終わりかけていた頃、中大兄皇子が入鹿に突進し、剣で頭と肩を斬り割いた。入鹿が立ち上がると、子麻呂が片脚を斬った。皇極天皇が宮殿に入った後、子麻呂と網田が入鹿を斬り殺し、入鹿の屍は雨で水浸しになった前庭に置かれ、蓆や障子で覆われた」と書かれています。

とても今から1373年前の大昔に起きた出来事とは思えないほど生々しい描写です。

「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」は人類必読書ではないでせうか

東北学の権威である赤坂憲雄・学習院大教授が、「必読書」として多くの人に勧めておられた石光真人編著「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」改版(中公新書2017年12月25日)を読了しました。初版は、1971年5月25日発行とありますから、もう47年も昔。遅ればせながら、死ぬ前にこの記録を読んで本当によかったと思いました。

私がこれまで読んだ本の中でもベスト10に入るぐらいの感銘を受けました。この本を読むには、居住まいと襟を正して、正座しなければならないという境地になります。

武士道の本質が初めて分かったような気がしました。巷間あふれる小説や講談の類いは嘘臭く興醒めしてしまいます。「葉隠」でさえ、頭の中で考えられた口先だけの論法にさえ思えてしまいます。

この本については、この《渓流斎日乗》でも以前に触れたことがあります。柴五郎は、陸軍大将にまで昇り詰めた英雄的軍人でした。明治33年に起きた義和団事件の際、北京駐在武官(中佐)だった柴は、その冷静沈着な行動で列強諸国から一目置かれる存在でした。義和団事件の詳細については、あの不愉快な(笑)東洋文庫所蔵の「北京籠城」(平凡社)に講演速記として掲載されております。

しかし、この栄光なる柴大将の過去は、実に悲惨で、壮絶な艱難辛苦の連続だったのです。それが、この「遺書」に書かれています。安政6年(1859年)、会津藩士として会津若松に生まれた柴五郎は、薩長革命軍による東北征伐=会津戦争という動乱の中、祖母と母と姉妹らは、会津城下で、「薩長の手に掛かるのなら」と自害して果ててしまうのです。柴五郎、時に満九歳。五郎だけは、いずれ戦力となる武士の男として成長せよ、と田舎に預けられていた時でした。柴五郎は、その時を回顧してこう書きます。

…これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに相語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼かりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慚愧にたえず、想いおこして苦しきことかぎりなし。…

その後、降伏した会津藩士らは、下北半島にある極寒の、しかも火山灰地の不毛の斗南に追放され、作物が取れず、ぼろ家は襖も障子もなく吹き曝しで、赤貧洗うが如くという以上に餓死寸前にまで追い込まれます。

時に犬の肉しか食べるものがなく、柴少年は嘔吐を催している中、父から「やれやれ会津の乞食藩士どもも下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまで生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と厳しく叱責されたことなども書き残しております。

その後、柴少年は、細い伝手を辿って東京に出て、下僕といいますか、奴隷のような生活をして辛酸を舐め、幸運なことに陸軍幼年学校の試験に合格して、何とか生き抜き、「遺書」は陸軍士官学校の3年期で終わっています。陸軍大将柴五郎は、自分の手柄については語りたがらない人物だったようです。

この「遺書」を編纂し、第二部として柴五郎の評伝を書いた石光真人は、近現代史や満洲関係に興味がある人なら誰でも知っている露探(ロシア情勢の情報専門家)石光真清の御子息だったんですね。この真清の叔父に当たるのが、「遺書」にもよく出てきた、柴五郎を陸軍幼年学校の受験を勧めた恩人野田豁通(青森県初代大参事)で、その関係で、二人は親交を結んでいたわけです。

子息の石光真人は、東京日日新聞の記者などもしていたことから、晩年の柴五郎は、「遺書」の編集等を任せたようです。

柴五郎は、「日本は負ける」と予言していた敗戦直後の昭和20年12月3日、死去。享年87。実兄の柴四朗(白虎隊の生き残り)は、東海散士の筆名で政治小説「佳人之奇遇」書いたジャーナリスト、政治家。

この本で、維新の動乱に翻弄され、賊軍の汚名を着せられた会津藩士の武士道の魂に触れました。「武士は食わねど高楊枝」のような痩せ我慢の精神かもしれませんが、どんなにどん底に堕ちても、絶対に不正は働かず、あくまでも真摯に誠実に生き抜くといった精神です。

自分も襟を正したくなります。同時に、今年の「明治維新150年記念式典」も手放しで喜んで祝いたい気持ちもなくなってしまいました。

少なくとも、60歳の佐川宣寿国税庁長官(旧会津藩出身。都立九段高〜東大〜大蔵省)のように「差し押さえ物件を格安で仕入れて東京・世田谷区に大豪邸を建てた生涯収入8億円の官僚」(週刊文春)のような恥辱に満ちた名前を歴史に残して死にたくないものです。

【追記】

会津戦争で編成された隊の編成は以下の通り。四方位神に則ってます。

【東】青龍隊(36歳〜49歳)国境守護

【西】白虎隊(16歳〜17歳)予備(悲劇として語り継がれます)

【南】朱雀隊(18歳〜35歳)実戦

【北】玄武隊(50歳以上)城内守護

戊辰戦争で、会津藩士の戦死者は約3000人、自害した女性は233人といわれてます。勿論、柴五郎の祖母、母、姉妹も含まれていることでしょう。

これほど、会津藩が蛇蝎の如く敵視されたのは、藩主松平容保が京都守護職に就き、新撰組、京都見廻組を誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を多く殺害したことが遠因。長州桂小五郎(木戸孝允)はその復讐の急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

靖國神社には、戦死した会津藩士は祀られていません。

「東洋文庫」は不愉快、実に不愉快でした

真冬の最中に少し陽気がよかったので、本日は前から是非とも行きたかった東京・駒込の「東洋文庫」に行って来ました。

後から書きますが、ここは酷かった!不愉快でしたので、もう二度と行くもんか!と思いましたよ。

ちょっと寄り道をする所がありましたので、JR京浜東北線の上中里駅で下車しました。

日本文学者のドナルド・キーンさんがお近くにお住まいになってる旧古河庭園には入らず、目の前を通り過ぎて…。

探しに探して、やっと「聖学院」の門前に到着しました。

小学校時代の友人のお孫さんが、見事この学園に合格して四月からご入学されるというので、見学に行ったわけです(笑)。

ここから、駒込駅まで、徒歩10分ぐらいでしょうか。

駒込駅の側の六義園を目指し、やっと東洋文庫を見つけました。

この東洋文庫、博物館を称して入館料900円も取るんですよね。

それは我慢して、入館しました。

そうです。この念願のモリソン文庫が見たかったのです。

三菱財閥三代目の岩崎久彌が、上海在住の豪州人ジャーナリスト、アーネスト・モリソン(ロンドン・タイムズの通信員)の蔵書4万5000冊を、今のお金に換算すると70億円ぐらいもの大金で買い取って、この東洋文庫の基礎を作ったというのです。

現在の東洋文庫の蔵書は、100万冊に及び、どれくらい凄いかというと、上写真に書いてある通り、国内最大で、世界的にも、米、英、仏、露の中国関係の専門文庫と肩を並べるぐらいなんだそうです。

フラッシュをたかなければ、館内の撮影ができ、このように動画も取ることができました。

ここまではいいのです。

何故、不愉快だったかと言いますと、【第1弾】中庭にちょっと出て、館内に戻ると、係員が血相変えて近寄って来て、「入館料払ったのなら、証明のシールを提示しろ」と詰問するのです。

確かに、入館する時、シールを貼るよう言われたので、肩掛けバッグに付けておきました。

心の中では「これが見えぬかあ!」と、水戸黄門様の助さんか格さんの気持ちで見せたら、「は、は、はあ、先程、係員が変わったもんで失礼しました」だと。確かに、こちらは怪しいおじさんではありますが、人を獄破り扱いするとは!許せねえなあー。

【第2弾】3階が閲覧室だというので覗きに行ったところ、出入り口に「見学なら禁止」「閲覧者は身分証明書提示し、閲覧申込書に記入のこと」「入場前に持ち物はロッカーに入れること」とあるではありませんか。

面倒なので、少し迷いましたが、せっかく来たので、その通りにして、中で登録して五つほどあった大テーブルの一つに腰掛けて、開架室から本をパラパラとめくってました。

少し経って、今何時かなぁ、と思い、ポケットに入れていたスマホの時計を見ることにしました。

そしたら、また、係員が血相変えて、こちらに突撃して来て、「ちょっと携帯の持ち込みは困ります」とくるではありませんか。

おっとろしい!遠くからこの席は見えないはず。あちこちに監視カメラを巡らされていて、常に監視されてたんですねえ。非常に不愉快になり、5分ほどで出ることにしました。

【第3弾】ロッカーから持ち物を取り返して、そのまま階段を下りていたら、またまた、係員が血相変えて追いかけてきて、「お帰りになるんですか?それなら、先程お渡しした閲覧書をお返し下さい」だと!

何だ!もう二度と来るもんかあぁぁぁー。(心の中の叫び)嗚呼、実に不愉快でした。

「お口直し」に近くの六義園に行くことにしました。

六義園については、以前に何度も書きましたが、五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の別邸でした。

それを、明治維新後、武力で権力を握った薩長革命政権が、大名屋敷から別邸まで没収し、その後、六義園は、三菱財閥に払い下げられたようなもんです。

六義園内には岩崎邸も作られ、それだけでなく、近くに東洋文庫も作り、それに巣鴨辺りまで、三菱財閥の広大な敷地だったことは以前にも書きました。

六義園には、学生時代は無料だったのでよく行きましたが(今は300円)、数十年ぶりに入るとすっかり忘れておりました。

かなり広大だったんですね。ゆっくり回ると一時間以上かかります。

柳沢吉保がこの六義園という別邸を作ったのは、まだ、川越藩主の頃だったといいますから、「たかが、川越城主程度で」と言うものなら殺されるかもしれませんが、当時の権力者と言われる人間の財力にはほとほと舌を巻きました。

六義園から巣鴨方面に歩いて行ったら、コリント式か、イオニア式かよく分かりませんが、ローマ帝国のような異様な巨大な建造物に遭遇しました。

今は便利な世の中で、検索するとすぐ分かり、某新興宗教の本部で、竹中工務店が建設したようです。

巣鴨駅も久しぶりですが、すっかり変わってしまいました。

私が学生時代に通っていたのは、もう40年以上もの大昔ですからね。変わって当たり前です。

懐かしくなって、そのまま、昔のように、大学まで歩いて行くことにしました。実は、もう大学は府中に移転してしまい、跡形もないのですが…。

巣鴨駅近くにある三菱養和会のスポーツセンターは健在でした。

三菱財閥の敷地が、駒込から巣鴨まで及んでいた証拠です。

ケンちゃんが筆を下ろした巣鴨駅近くにあったお店も、名前を変えて今もありましたよ(笑)。

巣鴨の高級住宅街を抜けると「染井霊園」に着きます。

上写真のように、著名人がたくさん眠っておられます。

せっかくここまで来て、私自身も掃苔趣味がありますので、「懐かしい」人のお墓参りをしてきました。

このように、二葉亭四迷こと長谷川辰之助の墓はかなり大きく立派です。

勿論、慈眼寺の芥川龍之介の墓参も忘れてはいけません。

側の芥川家の墓には、妻文、長男比呂志(俳優)、三男也寸志(音楽家)らも眠っておられました。仏文学者を嘱望されていた次男多加志は、ビルマで戦死したため、一緒に眠っているかどうか、石碑の字が読みにくく確かめられませんでした。

やっと、かつて学んだ大学キャンパス跡に辿りつきました。

今は老人ホームが建てられ、「みんなの公園」になってました。

幻を見ているようです。哀しい気持ちになりました。

この西ケ原の辺りは坂になっていて、それが下瀬坂だということを本日初めて知りました(笑)。

ここに東京外国語大学が移転して来る前、明治から大正にかけて、海軍の火薬製造所だったようです。そして、江戸時代は「御薬園」だったらしいです。知らなかったですね。

ちなみに、染井霊園の染井村には江戸時代、植木職人が多く住み、桜のソメイヨシノの品種を作ったか、販売したとして、全国的にも知られています。

京都・醍醐寺の五大力さん

皆さんこんにちは、京洛先生です。

ここ、二、三日、洛中は気温が上昇し、春の訪れを感じさせる毎日ですが、帝都は如何でしょうか。3月の奈良の「お水取り」が終わらないと、春はやって来ない、と言われていますが、梅も咲き始め、あっという間に、桜満開、花見気分になるでしょう。

Copyright par Kyoraque Sensei

ところで、渓流齋さんは「五大力(ごだいりき)さん!」は、ご存知ですかね?

「え、五大力さん? 何ですか、それは!」「人力車の大きいのですか?」「いや、待てよ? ごだいちから、という、昔の人の名前ですかね」との反応があるかもしれませんね(笑)。

まあ、関東や東京の人は、ほとんど分からないでしょうね。

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「五大力さん」とは、世界遺産でもある「醍醐寺」が、毎年2月15日~21日までの1週間、「五大力尊仁王会」という、同寺にとって、最大の宗教儀式を執り行うのですが、それを親しみを込めて「五大力さん!」と、京都の町衆は、昔から呼んできているのです。

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「五大力さんのお札。あれは、昔から、ウチの玄関、台所に貼ってあるわ!」「あの日は、醍醐寺で、大きな鏡餅を持ち上げ、競わはるのと違いますか」というふうに、その意味や歴史は分からなくても、京都の庶民は、自然にアタマの中に入っていることなのです。

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醍醐寺は空海の孫弟子の源大師聖宝が、貞観16年(874年)に開基したお寺です。醍醐山も、聖宝が名付けたと言われ、醍醐天皇のバックアップで、寺勢は興隆、延喜7年(907年)には、後醍醐天皇の発願で「薬師堂」も建てられ、下醍醐一帯は大きく発展しました。その後、応仁の乱で、醍醐山の麓の下醍醐は、国宝の「五重塔」を残して殆どが焼失、その後は、豊臣秀吉の手で再興され、「醍醐の花見」は有名ですね。

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この「五大力尊仁王会」は、千年以上続く、大きな宗教儀式で、同寺によると、全国各地から、この法会に、およそ10万人の信者、信徒が訪れると言われています。

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特に7日間にわたって延べ千人のお坊さんが祈祷した「五大力尊」の分身であり、あらゆる災難からも守られる、という「御影(みえい)」は、2月23日の一日に限って授与されるというので、朝から夕方まで、それを授かろうという人が、続々と醍醐寺にやって来ていました。

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愚生は、天気も良く、温かい日和でもあり、23日(金)、久しぶりに「奉納の餅ち上げ」の見物と、「御影」の授与を受けに、同寺に出かけて写真を撮ってきました。とくと、ご覧ください(笑)。

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醍醐天皇の御代から始まった「五大力尊仁王会」と違って、「奉納の持ち上げ」は、戦後、始まったもので、歴史はそれほどありません。終戦直後の食糧難、モノ不足の時代に、お米や餅米をもちよって大鏡餅を奉納し、ご利益を得ようという庶民、大衆の願いから始まったようです。

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女性は90キロ、男性は150キロもある巨大な鏡餅をどれだけ持ち上げて居られるか、時間を競うわけで、境内の特設会場には、それを見ようと大勢の人だかりができました。

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「御影」の授与には二千円が必要ですが、有難いお札を拝受しようと、長蛇の列で、同寺としては、かなりの志納金が集まったと思いますね。
来月になると、今度は桜を愛でる人で、醍醐寺はさらに、大勢の観光客でごった返します。

以上、ご報告迄。

「仁和寺と御室派のみほとけ」展では思わず手を合わせてしまいました

最近、文化事業に力を入れている天下の読売新聞主催の特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」を帝都・上野国立博物館まで朝一番で観に行ってきました。

京都にお住まいの京洛先生からのお薦めで、出掛けたのですが、京洛先生の仰るように「帝都の臣民は、篤い信仰心もなければ、教養が高い人は少ないので、並ばずに直ぐに入れますよ」というわけにはいかず、下記写真のように、「待ち時間40分」の表示。

実質時間を測りましたら、22分で入場することができ、「国宝」や「重要文化財」の前では、二重、三重、四重のとぐろ状態で、かなり盛況でした。

京都・真言宗御室派総本山仁和寺の秘蔵お宝だけではなく、その御室派の筋に当たる大阪・金剛寺、福井・明通寺、香川・屋島寺、大阪・葛井寺、三重・蓮光院などからも惜しげもなく国宝や重文が出展され、それはそれは見事でした。

日本の展覧会では、まず、録音や写真撮影は禁止されておりますが、仁和寺観音堂を再現したこの場所だけは、どういうわけか撮影オッケーでした。

表現が不適切かもしれませんが、圧倒的な迫力で、まるで、仁和寺の伽藍にいるかのような錯覚に陥り、思わず、手を合わせてしまいました。

昔は、展覧会に行く度に、必ず、カタログを買っていたのですが、最近は、やめてしまいました。重く嵩張り、自宅で置くスペースもなく、死んであの世に持っていけるわけでもなく(笑)、蔵書も含めてあらゆる意味で、コレクションの趣味をやめてしまったからです。

それでも、撮影禁止の国宝「千手観音菩薩坐像」(奈良時代・8世紀、大阪・葛井寺)は、ことのほか感銘してしまい、思わず、カタログか絵葉書でも買おうかとしましたが、結局、やめてしまいました。

(リーフレットから葛井寺の千手観音坐像)

このご本尊様は本当に凄い秘仏でした。大阪・葛井寺でも滅多に公開されないようです。公開されたとしても、今回の特別展のように、背後まで見られるようなことはないでしょう。

千手観音の名前の通り、実際に手が千本以上あるのは、この葛井寺の「千手観音坐像」以外、日本では他にないらしく、ここだけは、人だかりが半端じゃありませんでした。

入口に置いてあった「出品目録」で数えてみたら、国宝は、空海の「三十帖冊子」など24点、重文は、徳島・雲辺寺「千手観音菩薩坐像」(経尋作、平安時代・12世紀)など75点もありました。

仁和寺は仁和4年(888年)、宇多天皇により創建されました。ということは、皇室皇族の寺院というわけです。秘仏や国宝が揃っているわけです。

そして、天皇は一人しかなれないことで、他の皇子や皇族は代々、このような寺院の門跡(住職)を務めるようになっていたのです。よく考えられたシステムです。

正直言いますと、私自身、博物館での仏像展示は、何ら功徳も御利益もなく、邪道ではないかと訝しむ気持ちがかつてはありましたが、信仰心さえあれば、そんなことはない、と心を改めることにしました。

この特別展がそのきっかけを作ってくださった気がします。

「仁和寺展」は、東博の「平成館」で開催されていて、見終われば、いつもなら、そのまま帰路に着いていたのですが、今回は、久し振りに「本館」にも立ち寄ってみました、数十年ぶりかもしれません(笑)。

多くの展示品の中で、徳川四天王の一人、榊原康政(上野国館林藩主)の甲冑に魅せられました。本物だと思われますが、意外と小さい。兜には1本太刀がスッと装飾されていました。

ランチがてら、上野から御徒町の「寿司幸」まで足を伸ばしました。博物館から歩けないことはないのですが、以前、アメ横を通ったら、人混みでほとんど前に足が進めない状態で、ウンザリしてしまったので、電車に乗って行きました。

そこまでして食べたかったのは、ここの名物のネギトロとコハダの握り。

昼間っから、オチャケで喉を潤しました。

いやあ、極楽、極楽(笑)

「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展

大阪の浪華先生です。ご無沙汰しております。

東京は此処へきて気温が上昇、暖かくなっているようですが、関西は寒さがおさまりそうではありませんね。少し温かくなったか、と思うと、すぐ、小雪が舞い散り、春はやはり奈良の「お水取り」が終わらないとやはりダメです。「梅は咲いたか、桜は、まだ、かいなあ!」とは、よく言ったものです。

東京は東京国立博物館で「仁和寺」特別展が開かれているようですが、こちらは、大阪・中之島の大阪市立東洋陶磁美術館で、日中国交正常化45周年記念と開館35周年記念と題して「唐代 胡人俑(こじんよう)」特別展(3月25日まで)が開催中です。

2001年に甘粛省慶城県で、唐の時代の遊撃将軍と言われた穆秦(ぼくたい)のお墓(730年)が発見されました。お墓から出土、発見されたのは、極めてリアルでエキゾチックな、胡人や交易に使われたラクダ、馬などを描いた陶製の副葬品で、今回、それらのうち、慶城県博物館所蔵の貴重な、60点が中国から運ばれて、特別展として展示されています。

「胡人(こじん)」は、漢民族にとっては異民族であり、中央アジアを中心に活躍したソクド人らを指します。
唐(618年~907年)の時代、シルクロードを使って、唐の都である長安と、西方文化の交易に大きな影響を与えたわけですが、これらの作品を見ると胡人が漢人からどう見られていたか、よく分かります。

実物を直かに見ると、何とも言えない、ユーモアや人間味が感じられ見惚れました。大胆に異民族をデフォルメして、今、見ても、唐代の人が、胡人に感じた怖れや違和感、彼らのバイタリティを巧みに表現、それらをひしひしと感じ取れました。人物だけでなく、駱駝や馬も、活き活きと描かれていて、渓流斎さんも、ご覧になると、きっと「極端に誇張されているようにみえて、本質を迫っていますね」と礼賛されると思います。

残念ながら、東京では開催されません。もし、ご興味があれば「大阪市立東洋陶磁美術館」のホームページを検索されて、その中で動画の「黄土の魂 唐代 胡人俑の世界~生を写して気満ちる」(約15分)をご覧になると歴史的な経過などが分かることでしょう。

この展覧会では、フラッシュさえ使用しなければ、写真撮影もOKでした。珍しいですね。
小生は、紅色が鮮やかな「加彩女俑(唐 開元18年 西暦730年)」と、泣いているようにも見え、両手、両膝を地面に付けている「加彩跪拝俑」(同)の二点をデジカメで寫してきました。ご覧ください。