諜報研究会の見学ツアー 「九段下〜北の丸公園」

江戸城 清水門

5月26日(土)は、NPO法人インテリジェンス研究所が主催する見学ツアーに参加してきました。

前回、高田馬場の戸山公園近辺にある石井731細菌部隊関連の史跡を辿ったツアーでしたが、今回は、九段下の北の丸公園近辺にある近衛歩兵連隊など昭和史だけでなく、江戸、明治時代関連の史跡も沢山見ることができました。

軍人会館

午前10時50分、麹町警察署九段下交番前集合。老若男女、30人ぐらいが参加しました。

まずは、すぐ隣の九段会館へ。1934年2月に、軍人会館として建立されました。総工費272万円だったとか。

昭和11年の「2.26事件」の際に、戒厳令司令部(中将香椎浩平・司令官)にもなりました。

2011年の東日本大震災で天井壁が落下して、お亡くなりになった方もいらして、今も耐震改修中です。

防諜研究所跡

極秘のスパイを養成する陸軍中野学校は、軍人会館近くの愛国婦人会本部裏に「防諜研究所」として設立されました。(勿論、防諜研究所跡の碑はなし)

清水門と牛ヶ淵

目の前は江戸城の内堀の牛ヶ淵。隣は、九段精華高等女学校(空襲で消滅。戦後もGHQの許可下りず、復校ならず)。

「愛国婦人会」と「九段精華学校」の碑はありました。

大隈重信候 雉子橋邸跡

防諜研究所跡前の道路を隔てたところにある大隈重信の屋敷跡。

ここに住んでいた頃は、大蔵卿だったようです。(後で関連話が出てきます)

憲兵司令部・東京憲兵隊跡

大隈重信の屋敷跡の北隣は、現在、合同庁舎になってますが、かつて、泣く子も黙る憲兵さんの司令部があったところでした。現在は、合同庁舎に東京地検と関東公安調査局が入居していたので、思わず苦笑してしまいました。

日本は誠に伝統を重んじる国です。《渓流斎日乗》も検閲しているのかしら?

憲兵司令部は、昭和10年に大手門前からこの地に移転してきましたが、ここは、元は、フランス大使館の敷地跡だったとか。

吉田茂像

憲兵司令部跡から、清水門(これは必見!国の重要文化財)を通過、というか、坂道階段を登って、北の丸公園へ。

何故かしら、最近、公明党さえ責任問題を追及し始めた麻生財務相の母方祖父の吉田茂の銅像へ。

吉田茂は戦中、東条首相に歯向かったことから、戦後は英雄扱いでしたが、実はそうでもなかったという大宅壮一の文章を引用して、主催者は説明してくれました。

近衛歩兵第二連隊跡

近衛歩兵第一連隊跡

近衛兵は、勿論、天皇陛下を御守りする最後の砦のような兵ですから、宮城(皇居)から目と鼻の先のこの北の丸に設置され、全国から最も優秀な人材が選ばれました。

明治に設置され、先の敗戦で消滅しましたが、この近くに近衛砲兵大隊もありました。明治11年(1878年)に竹橋事件が起きた所です。

昭和時代の「5・15事件」や「2・26事件」など青年将校らによる反乱はよく知られておりますが、竹橋事件についてはあまり知られてないので、少しブリタニカ大百科事典を引用させて頂きます。

【竹橋事件】明治初年の陸軍兵士の反乱事件。 1878年8月 23日竹橋 (現東京都千代田区北の丸公園) 在営の近衛砲兵隊二百数十人が,西南戦争恩賞遅延を理由に決起し,隊長,士官を殺害。大蔵卿大隈重信邸を襲撃し,仮皇居 (現在の迎賓館赤坂離宮) 門前で天皇に直訴しようとしたが,同日東京鎮台兵の手で鎮圧された。陸軍裁判所は,同年 10月 15日に死刑 53人,準流刑 118人,その他の刑を宣告。死刑はただちに執行された。この事件をきっかけとして政府は「軍人訓誡」「軍人勅諭」を発布し,軍律強化に努めた。(引用終わり)

ほら、先程の大蔵卿大隈重信邸まで出てきたではありませんか!死刑53人とは只事ではありませんね。

しかも、舞台になったのが、宮城と目と鼻の先の近衛砲兵大隊ですから、山縣有朋ら明治新政府は焦ったでしょう。死刑の数の多さは見せしめの意味もあったんでしょう。

江戸幕府を倒してまだ10年しか経ってませんからね。

しかし、鎮圧に成功した新政府は、この後、「明治十四年の政変」などを経て、薩長への権力集中を確立し、藩閥政治を成就していくわけですね。

昭和天皇御野立所(おのだてしょ)碑

最後にお導き頂いたのが、昭和天皇御野立所。昭和天皇が昭和5年、関東大震災後の帝都復興の様子を視察された所だというのですが、何でこちらをご紹介して頂いたのか、よく分かりませんでした。

いや、そんなこと言ってはいけませんね(笑)。これらツアーは、資料まで配布してくださり、無料だったのですから。

ガイドして頂いた正田先生、山本先生有難う御座いました。

【追記】ちなみに、北の丸公園は、都心のオアシスです。緑豊かで目の保養になる中、一人ベンチでお昼のおにぎりを食べましたが、最高でした!

また、さすがに、九段下、飯田橋近辺は、歴史の宝庫でした。榎本武揚が始めた北辰社牧場(牛乳を販売)跡や、肥前藩士だった佐野常民が創設した日本赤十字社跡、徳川幕府が創設した蕃書調書(明治になり帝国大学に発展)などもありました。もっと探索したくなりました。

「台湾歴史ドキュメント」

昨晩、皆さまご存知の「ガルーダ博士」こと山本さんから、「もし関心がありましたら、『台北の歴史ドキュメント』を見てください。滅多に見られない光景が見られます」とメールがありました。

「何だろう?」と思いつつ、見てみました。

「台湾歴史ドキュメント」 ←こちら

「台湾が生まれ故郷」という新元久さんという方が、子ども時代に通った台北の小学校などの当時の写真や米軍による空襲などCGを交えて再現したドキュメンタリーでした。

新元さんご本人が登場する場面は日本語なので分かりますが、彼の友人という台湾人の方は中国語なので、ほとんど理解できませんでしたが、何となく雰囲気が分かります。

台湾の地元テレビ局が制作して放送したのでしょうか。動画はかなり、プロ級です。

何で、山本さんが、このようなメールを送って来られたのかと思ったら、山本さんのご尊父さまが台湾総督府に勤務していて、山本さんは台湾生まれの台湾育ちだったというのです。

そして、昭和19年5月31日、米軍B-24による台北空爆を疎開先で見たそうです。(その時、台北の台湾総督府で働くご尊父は、戦火の中、大変な思いだったようです)

山本さん一家は敗戦後の大変な引き揚げも経験しました。

山本さんとはもう何十年も昔に面識を得ましたが、こういった話は初耳でした。

今の若い人の中には、台湾がかつての日本の領土だったことを知らない人がいると聞きます。もちろん、日清戦争後の賠償として分捕った領地だとか、植民地主義とかいう批判がありますが、地元のインフラ整備をしたり、病院や学校を建てたりして、貢献した面もあります。

台湾は親日家が多いと聞きますし、実際、私も一度だけですが、台北に観光旅行に行ったとき、地元の人から、日本人だということで随分親切にされたことを忘れません。年配の人には日本語が通じました。

植民地主義のあくどい搾取ばかりしていたら、親日家は生まれないのではないかと密かに思っています。

台湾総督府といえば、児玉源太郎や後藤新平らが活躍したことで知られ、また、台湾は、ゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実(ほつみ)が子ども時代を過ごした所でした。報知新聞社の記者だった秀実の父秀真(ほつま)が後藤新平の招きで、台湾日日新聞社漢文部主筆として赴任したことから、岐阜県生まれの秀実は台湾で育ち、台北第一中学校に進学しています。

片岡みい子さんのお導きで素晴らしい方とお会いしました

昨晩は濃厚な時間を過ごすことができました。

いや、誤解しないでください(笑)。昨晩は、わざわざカナダから帰国したその筋の日本人男性と銀座のフレンチレストランで会食し、実りのある話をお伺いし、有意義な時間を過ごすことができたというお話です。

その筋といっても、裏社会の人ではありません。れっきとした表社会の紳士です。今は引退されておられますが、現役時代は、ファッション関係とフード・コーディネーター等の仕事をされていたようです。

仮名として、杉下さんとしておきます。奇遇といいますが、偶然といいますか、必然といいますか、回りくどいので、単刀直入で言いますと、この《渓流斎日乗》を通して知り合った方でした。

このサイトで、昨年(2017年)2月7日に、おつなセミナーの仲間だった翻訳家で画家だった片岡みい子さんが亡くなったことや、その後のお別れ会のことなど実名で書かさせて頂きましたが、カナダ在住の杉下さんが、たまたま検索して見つけてそれらを読まれ、先月4月14日にわざわざ、メールで感想を投稿してくださったのです。(個人的な内容なので、投稿は公表しませんでした)

それによると、杉下さんは、片岡さんの夫で仕事のパートナーだった故正垣さんと、東京の中高一貫のエリート学園の同級生で親友だったといいます。勿論、片岡さんとは生前何度もお会いしたことがあるといいます。

なにぶん、杉下さんは現在、カナダにお住まいのため、何度かメールを交換させて頂きました。こちらが10行ぐらい送ると、100行ぐらいで返信が来るといった感じでした。どういう話の展開だったのか、力道山が刺された赤坂の「ニュー・ラテン・クオーター」や芝公園の中華料理店「留園」(汪兆銘政権を擁立した影佐機関を支援した盛一族が亡命して創業)、それにビートルズを呼んだ興行師として名を馳せたキョードー・トウキョウ創立者の永島達司さんらについて異様に詳しいというより、かなりインサイダー情報をお持ちの方で、一体、この方、どちらの組関係の方なのかと戦々恐々としてしまったわけです。

こちらも、10年近く探訪記者として、その方面だけを取材していたため、かなりの構図を普通の方より理解し、ある程度の知識はありましたが、それ以上の情報通です。

種明かしをすると、杉下さんのご尊父は、東京・赤坂などで大型のナイトクラブ数軒を経営する顔役だったというのです。杉下さんもご幼少の頃から、芸能・スポーツ関係者から政財界の大物を身近に接してきたわけです。

で、5月に久しぶりに帰国されるというので、懇談する機会をつくってくださったのです。

お会いすると驚きました。てっきり、肩で風を切って歩くような映画に出てきそうな怖い方を想像していたら、物腰も柔らかく、言葉遣いも大変丁寧な真の紳士だったのです。何と言っても、お酒は一滴も呑めないか、呑まないというんですからね。

2時間半にわたって、みっちりお話を伺ったり、こちらから一方的にしゃべったりして、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

もう半世紀近い昔の話とはいえ、色々差し障りがあるといけませんので、昨晩の会談の内容を詳しく書けないのが残念ですが、どんな方が登場したかと言いますとー。

大行社と日本青年社、ホテル・ニュー・ジャパンの横井英樹さん、ベニハナのロッキー青木さん、ポール・アンカとナツキ(後のデヴィ夫人)、サミー・デービス・ジュニア、東声会の町井さん、東日貿易の久保さん、高倉健さん、児玉さん、岸信介さん、宝塚と岡村吾一さん、田中清玄さん、銀座の福田さん、菅官房長官と藤木組といった方々、そして、3億円事件とロッキード事件の真相です。ご興味がある方は、最後に参考文献を何冊か挙げておきます。

一番驚いたのは、トランプ米大統領が、はるか昔、若き青年実業家の頃、ある若い日本人に対して行った陰徳の話でした。その日本人は、杉下さんの従兄弟に当たる人だというのです。この詳しい話もここでは書けませんので、悪しからず。(苦笑)

最後に杉下さんが強調したことは、2020年の東京五輪の選手村の食事でした。1964年の東京五輪では、杉下氏のご尊父が親しかった元日活ホテル総料理長の馬場久氏が陣頭指揮を取って、世界最高級の食事を提供したらしいのですが、今度の20年五輪は、かなりレベルが落ちる料理関係者が落札したか、しそうなんだそうです。「日本の調理業界はかなり心配してます。小池都知事にはしっかり判断してもらいたい」と杉下さんは仰ってました。

帰り、東京中のショップで探したというドイツ製のワイン「聖母=歳暮」まで手土産に頂いてしまいました。仮名ですが、杉下さん、その節は大変お世話になりました。いつか、カナダに行くようなことがあれば宜しくお願い申し上げます。コラ!(笑)。

【研究者のための参考文献】

・ロバート・ホワイティング著「東京アンダーグラウンド」(角川書店)

・山本信太郎著「東京アンダーナイト“夜の昭和史”ニューラテンクォーター・ストーリー」(廣済堂出版)

・山本信太郎著「昭和が愛したニューラテンクォーター ナイトクラブ・オーナーが築いた戦後ショービジネス」(DU BOOKS)

・城内康伸著「猛牛(ファンソ)と呼ばれた男―『東声会』町井久之の戦後史」(新潮社)

・野地 秩嘉 ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 」(幻冬舎文庫)

・大須賀瑞夫インタビュー「田中清玄自伝」(筑摩書房)

・木村勝美山口組若頭暗殺事件―利権をめぐるウラ社会の暗闘劇」 (文庫ぎんが堂)

・後藤忠政著「憚りながら」(宝島社)

・山平重樹著「実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界」(双葉社)

「終わらなかった人」映画化 贋作「東京物語り」

大学は出たけれど、定年になって大学に入り直す男を描く壮大な家族劇「終わらなかった人」(「日の入り」連載の外館牧子原作のベストセラー小説が原作)が、巨匠小田安二郎のメガホンで、活動写真が撮られたそうですね。主演は、猫ひろしと黒樹瞳。華族出身の入江たか子が友情出演。6月から有楽町の邦画座を始め、全国一番館でロードショウ公開です。

築地・中村家のランチ弁当850円(京都「宮武」の日替御膳880円に対抗しました)

花の都、東京では、銀座の柳も春風に揺られている今日この頃です。

巷の弐番館ではニュース映画がかかってます。

「満洲某重大事件」のニュースの後、「車は作らない」柳瀬元秘書官が「記憶にございません」と能面のように表情一つ変えない答弁で、能吏ぶりを発揮。「私はあなたと違うんです」福田元事務次官は「全体的に見れば私はやってません。だから血税が原資の5000万円の退職金は返しません」と、高らかに宣言しています。

扨て、銀座の柳通り。

ナウいアヴェックが、モボ、モガスタイルで、ミルクホールで逢引を重ねてます。ジルバを踊って、リキュルをあおり、すっかりいい気分。でも、当時はセブンイレブンがなかった!

ソフト帽を被った彼の名前は白澤明。近くの交詢社内にある時事新報の記者。十五代目羽左衛門に似たハンサムな顔立ち。真っ赤な口紅の彼女の名前は原田節子。今はときめくエレベーターガール。今売り出し中の女優原節子似の美人さんだ。

「なあ、節ちゃん。今度の休みはキネマに行かないか。小田安二郎の『終わらなかった人』がかかるんだよ」

「へえ、題名だけだと、つまんなそうね」

「新朝社の『日の入り』に連載された小説が原作なんだよ。大学は出たけれど、定年になった田代宗助が主人公…」

「何か、余計、つまんなそう。いっそ、小田急で逃げましょか」

「節ちゃん、それじゃまるで、『東京行進曲』じゃないか」

「まあ、明さんもよく流行り唄をご存知のこと。それより、今、霞ヶ関で流行っている『接吻はらはら』とかいう遊び、どんなのか、教えてくださらない?『万朝報』のゴシップ欄に出ていたわ」

「だめだめ、子どもがそんなことに興味を持っちゃだめ。美人薄命だよ」

「なあに、それ!? チョベリバ」

「チョベリバ?」

「卍まんじ」

「節ちゃん、余計、分かんないよ」

「えへへへ、明さんも、天保生まれだから、水滸伝しか知らないんでしょ」

「あに言ってるんだか…」

赤塚公園のニリンソウ自生地

若い二人には明日がある。熱血指導マスターの掛け声で、二人は、銀座・交詢社通りの人を押し分け、搔き分け、夕陽に向かって走っていくのでした。

おしまい

名古屋城天守が木造で復元 4年後が楽しみ

 長い連休の後は、どうもエンジンがかかりにくいもんです。仕事にも勉学にも身が入りません(苦笑)。
ということで、皆様からの投稿も交えた種々雑多の話題をー。
「最近の渓流斎ブログは実につまらん。昔はもっと誠実でひた向きで、パンチが効いたものが多かったのに、最近のものは読むに耐えません」(福岡県・A子)。
あっちゃあ、いきなり、強烈なパンチを食らいましたね。
まあ、自己弁護しません。病気のため、中断した時期が長かったせいかもしれませんけど、理由になりません。本人は、毎日、知らなかったことを知る喜びでいっぱいで、一歩ずつ前進しているつもりなんですけどねえ。。。あ、これ以上書くと本当に自己弁護になるのでやめときます。
 
玉敷神社の「藤まつり」は1本だけ
「昨日は、自宅近くの騎西・玉敷神社『藤まつり』に行って来ましたが、今年は異常気象で、例年ならGWに満開のはずの藤の花がすっかり散っておりました。見物客もガラガラで、露天商さんも町内会も当てが外れて、暇を持て余しておりました。地元観光協会の会長さんは『スマホで花がすでに散っているのがリアルタイムで分かるから、観光客が来ないんだよ。便利なのも、困ったもんだなあ」とボヤいておりました。」(埼玉県・B男)
 なるほど、地元観光業界にとっては死活問題ですからね。確かに昔は、咲いているのか、咲いていないのか、満開なのか、散ってしまったのか、最新情報のほとんどが口コミでしたからね。口コミなんか、糸電話(死語)みたいなもんですから、多くの人にそんなに正確に伝わるわけがない。
 無駄がなくなったと、言えなくもありませんけど、余裕がない生活になったということなんでしょうね。
赤塚公園(東京都板橋区)の橡の木(マロニエ)の花
「今日は朝から酷暑向けに、いち早く、クーラーの掃除に『おそうじ屋さん本当』に来てもらいました。毎年、クーラー掃除をしているのですが、おカネはかかっても、モーターが軽くなり、電気代がかなり抑えられるのです。これは案外知られていません。それに、心なしか、空気が澄んで感じられます。半日かかったので、昼飯を食いに出かけられず、どうしようかと思って、作家の松井今朝子女史のホームページを覗いたら『牛肉をマルエツで買って、タケノコの水煮と、生姜で、甘辛く作って、美味かった』と言う記事を読み、すぐ、隣の公設市場で材料を仕込んで甘辛く煮込み食しましたが、手前味噌ですが、美味かったですね。皆さん一度やってみたらどうですか(笑)。
 松井女史の実家は、京都・祇園の高価な料理屋『川上』ですが、此処のメニューの百分の一のおカネで出来るのですから安いものです(笑)。松井今朝子女史のHPの料理献立はアナですよ」(香川県・K男)
早速、 松井今朝子女史ホームページ を私も覗いてみることにしました。確かに、美味しそうで、男でも手軽に出来そうな料理がいっぱい載ってますね。松井さんは「今ごはん、昔ごはん」などたくさんの料理関連本を出版されているようで、実家が実家だけに、お料理は得意なんでしょうね。
 このホームページを覗きますと、松井先生はしょっちゅう趣味の乗馬をされていて、その帰りに大宮(さいたま市)の馴染みのお店に立ち寄って、食材などをお求めになっているようです。
名古屋城
 あまり、人様から頂いた投稿ばかりでお茶を濁してはいけませんので、私も一言。
 私も今年3月に行ったばかりの尾張名古屋城天守が、木造復元のため、昨日7日で入場禁止になった、というニュースには驚きました。全く知りませんでしたね。再公開は2022年末といいますから、4年後じゃありませんか!
 嗚呼、無理して行ってよかった。(行ってない皆さんはごめんなさい。)
 皆さんよくご存知の通り、名古屋城は戦前、城郭では国宝第1号に指定されましたが、1945年に米軍による空爆で焼失してしまいました。文化財遺産を平気で破壊するような国は歴史観がない野蛮な国と断言します。
 多くの新聞は、「戦災により焼失」だの、「空襲により焼失」だのと、主体を書かずに、曖昧にぼやかしてますが、はっきりと「米軍による」と書かなきゃなりません。
 マスコミは、どうしても、こうも主体や主語を曖昧にするのでしょうか!
 そうでなければ、なぜ米軍がそこまで追い込まれて、日本の国宝を破壊したのか、なぜ戦争が起きたのか、さえも曖昧になってしまうからです。
 名古屋城天守は1959年に鉄筋コンクリートで再建されましたが、今度は17世紀当時の図面も参考にして、しっかりと耐震に対応した木造で復元するというので、完成が楽しみです。老骨に鞭を打ってでも是非ともまた見に行きたいです。
 城巡り趣味の渓流斎与利

志村城〜赤塚城巡り 東京都板橋区に城跡があるとは…

昨日4日は、「山城歩き同好会」の皆様と一緒に、「志村城・赤塚城ハイク」に参加し、実に万歩計で2万5000歩も歩き、いい運動になりました。

場所は、東京都内の板橋区なのです。こんな都会に、まだ手付かずの自然が残されている(というか、保護されている)とは思いませんでした。そして、こんな所に戦国時代の武将が城を構えていたとは全く知りませんでした。我々は、室町、戦国時代といえば、京都や奈良など関西での出来事ならよく知っておりますが、同時代の関東地方で起きたことはほとんど無知です。

この時代でよく知られている武将は、 せめて、太田道灌ぐらいでしょう。だから、恐らく、応仁の乱の前哨戦とも言える享徳の乱(1455〜1483年)を知る人は、余程の歴史通です。

享徳の乱は、室町幕府8代将軍義政の治世で、鎌倉公方(足利尊氏の四男基氏の子孫が世襲)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領(鎌倉公方の補佐として将軍が任命。上杉氏が世襲)の上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに、関東地方で28年間も続いた内乱のことです。

このグチャグチャの大内乱の最中に、今回の赤塚城に入城したのが、千葉自胤(よりたね、1446〜94年)だと言われています。

残っている資料や史料が少ないので、諸説ありますが、千葉氏とは桓武平氏の流れを汲み、代々、下総周辺を支配していた守護で、今の千葉県の名前の由来になったようです。しかし、最終的に今の千葉県に住み着いて残ったのは、千葉自胤の子孫ではなく、千葉氏の正統性を主張した岩橋氏ですが、話が混乱するので省略します。

千葉自胤は、享徳の内乱では関東管領の上杉氏(つまりは、室町幕府)方でしたが、鎌倉から古河(茨城県)に本拠地を移した足利成氏(初代古河公方)に呼応した原胤房(たねふさ)らに千葉城を攻撃され、市河城に落ち延びますが、その間に、父、伯父、従兄弟らは自害。結局、上杉氏の支援によって、自胤とその兄実胤兄弟だけは、関東平野にまで逃げ延びます。

康正2年(1456年) のことで、兄実胤は、石浜城(東京都台東区)へ、自胤は、赤塚城(板橋区)に入城します。(単純計算すると、この時、自胤はまだ10歳ですから、長老が補佐する家臣団ということでしょう)

以上が前触れです。今回の探訪ハイクでは、この千葉自胤を中心に彼と所縁がある城や寺社仏閣、そして、彼ら一族(武蔵千葉氏)と自胤の菩提寺「松月院」にまで訪れることができたのです。

一行5人は、 都営地下鉄「志村坂上」駅で集合。駅前にある志村一里塚(国指定史跡、都内で残されている江戸時代の一里塚は、ここと北区西ヶ原の2カ所のみ)、その隣の斉藤商店(明治22年創業の竹細工屋さん)に寄った後、延命寺へ。

この寺は、千葉自胤死後30年も後の時代の話ですが、大永4年(1524年)、小田原の北条氏綱と扇谷上杉朝興とがこの地で戦闘となった時に、志村城主篠田五郎の家臣見次権兵衛が自邸を寺にしたものだといいます。(近くに立派な池のある見次公園もあります)江戸時代は、8代将軍吉宗が鷹狩に来た際、休息所になったとか。

続いて向かったのが、志村城跡。千葉自胤が赤塚城に入城した際に、前衛拠点として千葉一族の信胤が築いたとも、この地の志村氏が築いたとも言われ、不明だそうです。本丸跡には、今は400世帯も入る大型マンションが建っていて、そのマンションは、まるで天守閣のようでした。ここには、今回参加したNさんの実姉家族が住んでいるということで、一同吃驚仰天でした。

熊野神社

この隣の熊野神社は二の丸跡のようで、しっかり、「志村城跡」の石碑が立っておりました。

途中省略して、南北朝時代(1334〜40年)は、七堂伽藍を備えた大寺院だった(1561年の戦乱で上杉謙信によって焼失した、とも)といわれる「松月院大堂」と、神仏習合により隣接した「八幡神社」をお参りして、この近くの「松月院」へ。今回の主人公の千葉自胤のお墓もありました。自胤は、最後まで下総=千葉に戻りたかったようですが、願い叶わず、失意のうち、この「異国」の武蔵の土地で亡くなったということかもしれません。(しかし、小田原の北条氏に滅ぼされるまで、武蔵千葉氏の基盤を作りました)

この後、着いたのが、「東京大仏」で知られる浄土宗乗蓮寺。応永年間(1394〜1427)、今の板橋区仲宿に創建されましたが、道路拡張のため、1973年にこの赤塚の地に移転してきたばかりらしいのです。

大仏さまは大変風格ありました。生まれて初めて訪れましたが、ミャンマー人の旅行者と会い、「日本人より情報通だ」と感心。わざわざ鎌倉にまで行かなくても大仏様の御尊顔を拝することができると思ってしまいました(笑)。

ここは、実は、千葉自胤が構えた赤塚城の二の丸があった所だったらしく、境内にはしっかりと「二の丸跡」の石碑が建てられ、感激してしまいました。

実際の赤塚城本丸跡は、ここから歩いて10分ほど離れた赤塚溜池公園の高台にあり、今から562年前に千葉自胤らが、今の千葉県市川市での戦乱を逃れてここまで来たのだと思うと、感無量になりました。

この近くには、自胤が、赤塚城の鬼門除けのために、信州諏訪大社の分霊を勧請した赤塚諏訪神社があり、勿論、ここもお参りしました。

このほか、立ち寄った所はまだまだありましたが、主に歴史散歩中心に記述しました。

ギブソン破綻と大陸新報と記者の劣化

私は、少年の頃、ギター小僧でしたから、フェンダーやマーチン、ギブソンと聞くと、襟を正したくなります。

当時でも20万円、30万円は軽くしましたから、とても手に届くはずがなく、憧れの的でした。

ですから、昨日(米時間5月1日)、「ギブソンが破綻した」というニュースを聞いた時は本当に驚き、悲しくなりました。「ギブソンが危ない」という憶測記事が数週間前に流れていたので、覚悟はしておりましたが、やはり、寂しい。米裁判所に連邦破産法11条(日本の民事再生法)の適用を申請したらしく、負債は最大5億ドル(550億円)だとか。

5月2日付朝日新聞夕刊の記事によると、ギブソン破綻の原因は、ギターをあまり使わない「ヒップホップ」が人気を集める一方、ロック音楽が低迷し、エレキギター市場も縮小傾向が続いていたからなんだそうです。そのせいで、ギブソンは、日本のティアックなど音響メーカーを買収して多角経営を図ったのですが、それも裏目に出たようです。(再建後は、ギター製造に専念するらしい)

ギブソンは1894年創業といいますから、ロックなんてありません。もともとは、カントリーやジャズ、ブルースギターを中心に始めたのでしょうが、記事を書いたのは若い記者のせいか、一言も触れていません。ギブソンを愛用したギタリストとして、「ルシール」と名前を付けて愛用したB・Bキングは当然出て来なければならないし、何と言っても、レスポールギターの生みの親である名ギタリストのレス・ポールは最重要人物です。恐らく、若い記者は知らなかったのではないでしょうか。

批判ついでに、同じ朝日新聞夕刊の社会面に「戦時下の上海  幻の雑誌」「井伏・壷井ら有名作家ずらり」といった見出しで、太平洋戦争末期に上海で発行され、これまで「幻の雑誌」とされてきた日本語の雑誌が北京などで見つかり、その内容が明らかになった、と報じてます。

北京の図書館で見つかった雑誌は、月刊「大陸」で、これまで日本の公共図書館では所在が確認できなかったといいます。そこには井伏鱒二や壷井栄ら有名作家らも寄稿していたといいます。それはそれでいいのですが、この雑誌「大陸」について、「日本軍などの支援で創設された新聞社『大陸新報社』が1944年に上海で創刊した」としか書いておりません。

大陸新報社=朝日新聞ですよ!ブラックジョークかと思いました。山本武利さんの「朝日新聞の中国侵略」(文藝春秋)を読んでいないんでしょうかね?大陸新報は、朝日新聞が昭和14年に、帝国陸軍とグルになって、大陸利権を漁る方便として創刊した新聞なのです。侵略の急先鋒みたいなもんです。その事実をひた隠しにしているとしたら、随分と悪意がありますね。

もし、その事実を知らないで若い記者が書いたとしたら、不勉強というか、記者の質が劣化したと言わざるを得ません。

大陸新報と朝日新聞との関係を知っていて、わざと書かなかったとしたら、これはまた酷い話です。原稿を見たデスク、整理部か編成部か知りませんが、校正と見出しを付ける部署も含めて、「証拠隠滅」と言われてもしょうがないでしょう。

「新聞社崩壊」(新潮新書)を書いた畑尾一知さんが心配した通り、このままでは、記者とデスクの劣化で本当に新聞社は崩壊してしまうかもしれませんよ。

カツカレーの起源に異説あり 「歴史の余白」から

浅見雅男著「歴史の余白」(文春新書)を読んでいたら、先日4月29日付の《渓流斎日乗》で御紹介した和田芳恵著「ひとつの文壇史」(新潮社)の中のエピソードが登場していたので、吃驚してしまいました。

著者の浅見氏は、手広く色んな古今東西の書籍を逍遥しているんだなあ、と感心してしまった次第。このエピソードとは、和田芳恵が新潮社の大衆文芸誌「日の出」の編集部にいて、かかってきた電話に「北条です」というので、てっきり、北条秀司の奥さんかと思ったら、何と「東条」の聞き違いで、東条英機の勝子夫人。用件は、北原白秋に揮毫してほしい、というものだったが、当時、東条は陸軍大臣で、夫人も少し上から目線だった、といったこぼれ話です。

著者の浅見氏は文章がうまいし、かなり調べ尽くしている感じです。「ある」ことは、文献を引用すればいいのですが、「ない」ことを証明するには、あらゆる文献を読み尽くさなければ、「なかった」と断定できません。ただし、「ある」と本人が日記の中で断定していても、それは実は「嘘」も多い。このように、歴史的事実を事実として認定する作業は、かなり難しいと告白しております。

繰り返しになりますが、「歴史の余白」では、面白い逸話で満載です。井伏鱒二が若い頃、森鴎外の「渋江抽斎」で、匿名でいちゃもんを付けていたとは知りませんでしたね。「十六代将軍」徳川家達(いえさと)は、長らく貴族院議長を務め、70年以上も家督を嗣子家定に譲らなかったことも、不勉強で知りませんでした。西郷隆盛の実弟西郷従道の逸話も読み応え十分。

築地「スイス」の千葉さんのカツカレー 880円

きりがないので、最後に「カツカレー」の起源を。一説では、プロ野球読売巨人軍の名選手だった千葉茂が戦後、東京・銀座の「グリル スイス」で考案したものだと言われ、私も信じてきました。銀座の「スイス」では今でも「千葉さんのカツカレー」という名前で売り出してます。

今日、昼休みに行ったら、ゴールデンウイークだというのに、銀座店は閉まっていたので、この日乗を書くためだけに、わざわざ、築地の「スイス」にまで行って、「千葉さんのカツカレー」を食べてきました。(スイス築地店は、かつては、銀座店のカレーをつくる作業場だったそうです。そう、女将さんが教えてくれました)

でも、千葉茂といっても、今のナウいヤングは誰も知らないでしょうね。あのミスター長嶋が付けていた背番号「3」をその前に付けていた名二塁手です。長嶋茂雄の現役時代を知るのはもう50歳以上ですからね。千葉茂を知るわけがありません。1950年代初めに川上哲治、青田昇らとともに、巨人軍の第2期黄金時代を築いた人ですので、実は私も彼の現役時代は知りませんけど。(野球評論家時代は知ってます)

いずれにせよ、まだまだ、食糧事情が十分ではなかった時代に、スポーツ選手のためにカレーの上にとんかつを載せた栄養満点のカツカレーを、千葉茂が考案したというのが定説だったのです。

それがこの浅見氏の本によると、既に戦前に平沼亮三という人が、自宅(とはいってもテニスコートや宿泊所などもあり、敷地3000坪)で、今のカツカレーと全く同じ料理が「スポーツライス」という名前で振る舞われていたというのです。

平沼は明治12年(1879年)生まれで、生家は横浜の大地主。幼稚舎から慶応で学び、大学では野球部のサードで4番。卒業後も柔道、剣道など26種類のスポーツをこなし、神奈川県議会議員、横浜市会議員、貴族院多額納税者議員などを歴任。このほか、日本陸上競技連盟などの会長も務め、1932年のロサンゼルス五輪、36年のあのヒットラーのベルリン五輪の日本選手団長を務めた華麗なる経歴の持ち主なのです。

この平沼の孫の一人が俳優の石坂浩二だというので少し驚いてしまいました。

やはり、カツカレーは平沼が、戦前に「考案」したということなんでしょうね。

「猫都の国宝展」と目黒雅叙園の裏話

ゴールデンウイークは人出が多いので、出掛けるのはあまり好きではありませんけど、不可抗力により、東京・目黒のホテル雅叙園内の「百段階段」で開催中の「猫都の国宝展」を観に行ってきました。

猫にまつわる置物やら絵画やらをあの東京都指定有形文化財の「百段階段」の座敷に222点も展示されていて、結構、見応えありました。

入場券は、当日1500円というので、ちょっと高い気がして、庶民らしく、事前に新橋辺りで前売り券を準備しておきました(笑)。

そんな話をしたところ、物知り博士の京洛先生は「雅叙園ですか。。。松尾国三さんですね」と、思わせぶりな発言をしてケムに巻くのでした。

明治維新後、大名屋敷、別邸を摂取されて空き地となった目黒一帯は、内務省衛生局の初代局長などを務めた医学者の長与専斎が広大の敷地を所有していたと言われます。専斎の長男称吉は医師(妻は後藤象二郎の娘)、二男程三は実業家(日本輸出絹連合会組長)、三男又郎は病理学者で東京帝大総長、四男岩永裕吉は同盟通信社(戦後、時事通信社などに)初代社長、五男長与善郎は、あの著名な白樺派の作家です。

この中の岩永家に養子に行った四男裕吉は、同盟通信社が国策で電報通信社(戦後、電通に)と合併させられて設立される前に、自ら聯合通信社を設立した際に、その設立資金を捻出するために、所有地を目黒雅叙園に売却したと言われます。その相手が細川力蔵で、雅叙園は、昭和6年に日本初の総合結婚式場として開業します。(中華料理の円形テーブルは、細川の考案と言われてます)

力蔵亡き後、細川一族による経営が行われてきましたが、 戦後の昭和23年にその経営権を握って雅叙園観光を設立したのが、京洛先生が仰っていた松尾国三でした。(その後、複雑な経緯で、今では米国のファンドが経営権を取得し、所蔵する重要文化財級の絵画、彫刻、天井画などは散逸したようですが、全略。)

松尾国三は、旅芸人一座の歌舞伎役者から、一念発起して、芸能プロモーターとなり、大阪の新歌舞伎座などの劇場経営、横浜ドリームランドなどのレジャー施設の経営者(日本ドリーム観光取締役社長)にまで出世した波乱万丈の人物です。晩年は、大元のオーナーだった大阪の千日デパートの火災で、責任を問われました。

私はこの人について、演劇人に与えられる「松尾芸能賞」の創設者としか知りませんでしたが、陰では「昭和の興行師」「芸能界の黒い太陽」と言われていたらしいですね。興行の世界ですから、裏社会との繋がりやら、そりゃ色々とあったことでしょう。

と書いたところ、これを読んだ京洛先生から「雅叙園は、住友銀行の磯田会長が、愛嬢可愛さで、”天下の詐欺師”伊藤寿永光と、あの許永中に巨額融資をした舞台になったところですよ。迂生は、松尾国三夫人の松尾ハズエさんが存命中に、雅叙園の一室で取材をしたことがありました」との補足説明がありました。

なるほど、そういうことでしたか。。。

※もし、この記事にご興味を持たれましたら、関連記事の「目黒と岩永裕吉」(2016年5月7日)も併せてお読みください。

鹿島神宮は中臣氏の氏神さまだった…

昨晩は、珍しく痛飲してしまい二日酔いです。。。

この《渓流斎日乗》のサイトの技術と運営面でお世話になっているIT実業家の松長会長と一献傾けたところ、あまりにも美味しい料理とお酒に恵まれて、ついメートルがあがってしまいました(笑)。

松長会長は、私よりちょうど一回り若い海城高校の後輩ですが、彼より1年後輩の坂元さんという方がやっている湯島の純酒肴「吟」に連れて行ってもらったところ、驚くほど美味!

この話は一番最後に回すとして、まず、昨晩、松長会長の神保町の会社を訪れたお話から。

◇おねだりしません!

皆様、既にお気づきのことと存じますが、今年1月からこの《渓流斎日乗》のサイトに鬱陶しい(笑)広告が掲載されるようになりました。正直申しますと、魂胆が御座いまして、この広告を皆さんがクリックして頂くと収益になるわけです。高望みはしてません。せめて、サイトのサーバーやドメイン維持料金の肩代わりをしてくれれば、という切ない希望的観測で始めたのでした。

その結果を教えてもらうため、足を運んだのですが、何と、1カ月の収益が、約170円だったということが分かりました。えーーーー!!!これでは何の足しにもなりませんねえ(笑)。アクセス数が少ないからしょうがないのですが、広告までクリックしてくださる方は、アクセス数の1%、つまり、100人に1人だということも分かりました。

何も、皆様に広告をクリックしてほしい、とおねだりしているわけではありませんよ(笑)。何しろ、頻繁にクリックされると、「不自然なクリック」としてマイナスになってしまうのです。また、私自身がクリックすると、どんなに機種を変えてもGPSかなんかで分かってしまい、「違反」になり、これもマイナスになります。

この話はこれぐらいにします。

純酒肴「吟」にて

◇古代史の謎を解明

松長会長はITに詳しいだけでなく、古代史と神社仏閣の縁起に異様に詳しいのでした。

たまたま、「埼玉風土記」の話になると、もう散逸して今は残っていないというのです。知りませんでしたね。現存している写本はたったの五つで、「出雲国風土記」がほぼ完本、「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っているだけだというのです。

そして、常陸国の風土記が残ったのには理由があり、中臣氏の領地だったからだというのです。中臣氏とは、中大兄皇子とともに乙巳の変の革命を行い、大化の改新を遂げた、あの中臣氏です。中臣鎌足は、藤原鎌足と改名し、藤原氏は、摂関政治の黄金時代を築いて、現在でも血脈が続いているので、常陸国の風土記も現代まで残ったといわけです。

その証拠は、中臣氏の氏神が常陸国の鹿島神宮であり、この祭神を大和に移送して祀ったのが春日大社だというのです。神の使いといわれる鹿も一緒です。確かに、春日大社の「御由緒」の中には、記紀に出てくる出雲の国譲りの物語で成就された武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を鹿島神宮からお迎えしたと書いてありますね。中臣氏の氏神とも書いてありますから、結局、鹿島神宮は、中臣氏の氏神を祀った神社だったわけです。

そして、鹿島神宮の「神宮」は、そう滅多に名乗ることができないというのです。明治以前は、天皇家直系の伊勢神宮と、この鹿島神宮と、同じく国譲りの神話に出てくる経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祀った香取神宮(下総)しかありませんでした。明治以降になって、熱田神宮(三種の神器の一つ、草薙神剣が収められている)や明治神宮などがあるぐらいで、社格が段違いに凄いのです。

◇武蔵国の首都は鴻巣市だった!

さて、次は古代の武蔵国の話です。風土記が散逸してしまったので、詳細は分かりませんが、武蔵国の中心は、何と今の埼玉県鴻巣市笠原だったというのです。この地名に残る笠原とは、西暦534年頃に起きた「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の乱」で、大和朝廷(今は「ヤマト王権」というらしい)の力を借りて、武蔵国を統一し、この辺りを拠点にした笠原直使主(かさはらのあたいおみ)から付けられたと言われてます。

おまけの話として、古代の地名の上野(こうずけ)国(群馬県)と下野(しもつけ)国(栃木県)はもともと、一つの国で「野」(け)と言われていたそうです。ヤマト王権は全国統一に当たって地元豪族を国造に任命したりしますが、その代わりに屯倉(みやけ)といって直轄地を寄進させます。年貢米の収穫が目的です。

こうして、お米の生産が上がっていくと、人口も増えていきます。そうなると、上野国、下野国のように、国を分割するわけです。「総(ふさ)」の国だったのが、「上総(かずさ)」(千葉県中部)と「下総(しもふさ)」(千葉、茨城、埼玉、東京)に。「備」の国は「備前」(岡山、兵庫、香川)「備中」(岡山県西部)「備後」(広島)に分かれるわけです。

湯島の純酒肴「吟」にて

◇京都の銘酒「まつもと」にはKOされました

そうそう、最後に純酒肴「吟」の話をしなければなりませんね。JR御徒町駅と地下鉄湯島駅の中間辺りのちょっと奥まったビルの2階にあります。15人も入れば満員になるお店です。居酒屋というより、酒肴という代名詞が雰囲気に合ってます。亭主の坂元さんは、30歳過ぎてから日本料理店で修行して、この店を出したという苦労人でした。

刺身を料理ではないと思っている人がいるかもしれませんが、立派な日本料理です。しめ鯖もカツオも旨いこと、旨いこと。

置いているお酒の銘柄は、まったく初めて聞くものばかりで、最初に味わった京都の銘酒「まつもと」は、これまで呑んだ日本酒のベスト5に入るくらい、クセがなく上品なスッキリとした味わいで、驚いてしまいました。