旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)

 5月15日(日)~16日(月)、一泊二日で、名古屋に住む大学時代の旧友K君のお見舞いも兼ねて、小旅行を敢行しました。1日目だけは、大学時代の後輩で、今や有名私立大学の教授にあらせらる山上君もお住まいの浜松から飛び入り参加してくださり、実に充実した日々を過ごすことができました。

 とはいえ、最初からかなりのトラブル続きで、まるで我々の人生を象徴しているかのようでした(苦笑)。何しろ、山上君とは大学卒業以来一度も会ったことがなく、42年か43年ぶりの再会。K君とも、彼は記憶力抜群で、最後に二人で会ったのが、東京・銀座で、2008年12月31日以来だといいいますから、14年ぶりぐらいです。

 三人の共通点は、同じ大学の音楽倶楽部仲間ということです。それでも、43年ぶりともなると、昔の面影も何もなく、浦島太郎さんが玉手箱を開けて、「あっと言う間に、お爺さん~」ですから、果たしてうまく再会できるのやら…。

 待ち合わせ場所は、新幹線出口(太閤通口)を降りた「銀の時計」前ということでしたが、「いない!」。K君に電話しても出ない。それじゃあということで、山上君に電話しても出ない!どないなっとるんねん???もしかして、反対側の出口(桜通口)かな?と思って、右往左往して銀の時計に戻ったら、いたいた。「あれっ?電話したのに」と二人を責めると、「あれ?え?」と悪びれた様子もない。お爺さんは耳が遠いので電話が鳴っても気が付かないことが判明しました。これがトラブルの第一弾、先が思いやられます。

名古屋・豊国神社

 この後、私の宿泊するホテルに荷物を預けて、タクシーで向かったところは中村公園です。ここは天下の豊臣秀吉の生誕地であり、豊国神社が建立されていました。

名古屋・豊臣秀吉生誕地

 豊臣秀吉は、名古屋生まれだったのです。看板にある通り、「秀吉は1536年、木下弥右衛門の子として生まれた」とあります。この木下弥右衛門がどんな人物だったのか、諸説ありますが、単なるドン百姓(差別用語)ではなく、中村の長(おさ)だったという説があります。つまり、村長さん、恐らく大地主か庄屋クラスでしょう。秀吉は、最底辺のどん底から這いあがって立身出世した歴史上最大の人物とされますが、もともとある程度裕福な特権階級だったんじゃないかと思います。哀しいかな、無産階級では教育も受けられませんし、ゼロだと何も生まれませんから。

太閤秀吉功路 最終地点の碑除幕式(名古屋・中村公園)

 たまたま、公園内で、「太閤秀吉功路 最終地点の碑」の除幕式を地元の名士を集めてやっておりました。

 何の碑かと思ったら、秀吉の馬印「せんなり瓢箪」でした。

名古屋・秀吉清正公園

 中村公園内に他に何かあるか探してみました。

名古屋・中村公園内「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」

 ありました、ありました。「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」です。えっ?歌舞伎役者で、中村座の座頭だった勘三郎はここで生まれたんですか。

 看板などの情報によると、中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。

 秀吉と勘三郎が同郷人だったとは。

 公園内には「秀吉清正記念館」もあったのでちょっと覗いてきました(無料)。清正とは、後に肥後52万石の大大名になる加藤清正のことで、清正もここ中村生まれです(1562年)。父親は、刀鍛冶・加藤清忠だったようです。

 尾張出身の戦国武将は、ほかに、織田信長、森蘭丸、前田利家、柴田勝家、池田輝政、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊…と錚々たる武将を輩出してます。

 名古屋の人は、今回の小旅行で、あまり親切な人がいませんでしたが、著名な戦国武将が生まれるくらい生存競争が激しい土地柄なのかしら?

 ただし、地元の人の話では、中村公園がある中村区は土地が低く、名古屋駅の西側は、亀島や津島といった地名があるように古代中世は陸続きではなかったようです。

 逆に名古屋駅の東側の東山などは、地名の通り、「山の手」で現代も高級住宅街が多いということでした。

名古屋城

 次に向かったのが、名古屋城です。中村公園から「メ―グル」と呼ばれる「なごや観光ルートバス」に乗りました。

名古屋城

 メ―グルは1乗車210円ですが、一日乗車券(500円)を買うととても便利です。名古屋城に入城するには普通は一般500円ですが、メ―グルカードを見せると、割引で400円。この後、入った徳川美術館と庭園徳川園も通常は一般1550円ですが、やはり、メ―グルを提示すると1350円で済みました。メ―グルは2回(420円分)しか乗りませんでしたが、入場券で300円分割引を受けたので、十分に元が取れたのです(笑)。

 タクシーの運転手さんは「名古屋には観光するところがない」とぼやいてましたが、名古屋観光するなら、メ―グルはお勧めです。ただし、本数が少ないのでご注意。

名古屋城 石垣ファンにはたまらない
名古屋城 石垣フェチにはたまらない

 名古屋城の天守は現在、工事中で中に入れないことは知っていたので、お目当ては「本丸御殿」でした。3期にわたる工事で、2018年から全面的に公開されるようになりました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

  期待通り、見応え十分でした。バチカンのシスティーナ礼拝堂に匹敵するぐらいです。日本美術の粋が集まっています。

 本当に圧倒されました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿・上洛殿(三代将軍家光をお迎えするために増築)
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

 残念ながら、「本物」は、昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。名古屋城は、昭和11年に指定された「国宝第1号」ですからね。米軍は、それを知って、爆撃したに違いありません。米国人は野蛮な文化破壊者ですよ。ロシア人を批判する資格があるのかしら?と、つい興奮してしまいます。

 本丸御殿は、復元ですが、世界に誇れます。感嘆感服致しました。今回、これを見るだけで名古屋に来た甲斐がありました。

元祖てんむす千寿と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップ こりゃうめえ

 あ、その前にランチは、K君が3人分用意してくれました。天むすの元祖「千寿」と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップです。これが旨いの何の…。これまた、名古屋に足を運んだ甲斐がありました(笑)。

名古屋・徳川美術館と庭園「徳川園」

 次に向かったのが徳川美術館と庭園「徳川園」です。大変、大変失礼ながら、口から泡を吹いて驚くような見たことがないようなお宝は展示されていませんでした。(尾張)徳川家代々の本当の秘宝は、蔵にあるんでしょうね(笑)。

名古屋・庭園「徳川園」大曽根の瀧

  徳川美術館では、どういうわけか、春季特別展が開催されていて、安藤広重の「東海道五十三次」と「木曽海道六拾九次」の全作品が展示されていました。山上君は静岡県出身で、「東海道五十三次」で描かれた蒲原(本当は雪は降らない)や三島や見附や舞浜などは馴染みの深い地元の名所なので、食い入るように見つめておりました。

名古屋のシンボル・テレビ塔

 次に向かったのが、現代の一番、名古屋らしい所ということで、久屋大通り公園にあるテレビ塔です。

 久屋大通り公園は、何となく、札幌の大通公園に似たイメージがありましたが、すっかり変わってしまい、公園の両脇は、超高級ブティックやレストランが並び、随分、敷居が高くなりました。

名古屋「御園座」懐かしい!

 そうそう大変なことが起きました。今回起きたトラブルの究極の極致です。K君が、スマホを無くしたことに気が付いたのです。恐らく、午前中に出掛けた秀吉生誕地の中村公園内で置き忘れたのではないか、ということで、公園事務所や近くの交番に電話しましたが、まだ届け出はありませんでした(いまだ探索中)。

 普通だったら、パニックになるのに、K君は肚が座っているというか、あまり動揺しません。仏教的諦念に近いんです。でも、早く見つかることを願っています。

 今回一緒に合流してくれた山上君は、夕方の新幹線で帰るというので、地下鉄の「栄」駅で別れました。一緒にお酒でも飲もうと思っていたのに本当に残念でした。

名古屋の居酒屋「大甚本店」閉まってたあ

 今回の小旅行は「トラブル続き」だった、と書いた通り、最悪だったのは、本日のハイライトだった「夜のお楽しみ」が日曜日だったせいなのか、予定していたお店が全て閉まっていたことでした。まず、K君が学生時代から通っていた、名古屋一の老舗居酒屋「大甚本店」(創業明治40年、伏見)が閉まっていました。そして、御園座近くの「大甚中店」も閉まっていました。

名古屋・伏見 バー「バーンズ」

 しかも、K君が1カ月も前から考え抜いてくれていた「二次会」用の老舗著名バー「バーンズ」までこの日は「貸し切り」で中に入れませんでした。

 どないなっとるんねん??? 

名古屋・串カツ屋

 仕方がないので、伏見駅の近くにあった串カツ屋さん「串かつでんがな」に飛び込みで入り、この後、名古屋駅にタクシーで向かいました。

名古屋ミッドランドスクエア42階「スカイプロムナード」800円のはずが

 K君が「どうしても見てもらいたい」ということで、駅前に聳え立つ超高層ビル「ミッドランドスクエア」の42階「スカイプロムナード」に連れて行ってくれました。(名古屋には超高層ビルは、駅前にある3棟ぐらいしかありません)

名古屋ミッドランドスクエア「スカイプロムナード」360度の視界で、名古屋城も見えます

  ここは入場料が800円ですが、K君の「身体障害者手帳」を提示すると、その付き添いまでロハで入場できたのです。

 周囲は若いカップルばかりで、お爺さんの二人連れは、何となく異様な雰囲気でした。

 でも、今回、山上君と再会したのは43年ぶりのこと。ということは、43年前は彼ら若いカップルはまだこの世に生まれてもいなかったに違いありません。感慨深いものがあります。

 2日目の16日(月)の話は次回に続きます。

「新富町」散歩=「新富 煉瓦亭」から鉄砲洲稲荷神社まで

 テレビの影響力はおっとろしい(笑)。

 土曜日にテレビ東京系の番組「アド街ック天国」で「新富町」の特集をやっておりました。新富町は会社から近いので、「シメシメ、月曜日のランチはそこ、かしこにしよう」と心に決めて出掛けたところ、お目当ての寿司店は予想通り、長蛇の列(昼休みの時間に間に合わない!)。もう一軒、「こだわり」のフレンチ店に行ってみたら、いっぱいの人たちが食事をしているのが外から見えましたが、12時45分だというのに、もう「closed(営業終了)」の看板。「こりゃ駄目だあ」

鮨 ishijima 新富店

 仕方がないので、新富町ならよく行く「新富 煉瓦亭」で、Bランチ(ポークカツとクリームコロッケ)1150円を食しました。「仕方ない」なんて言っちゃ怒られますねえ(笑)。このお店も番組では、堂々の「第10位」にランクされていました。銀座の老舗店「煉瓦亭」から暖簾分けされた店だとは知っていましたが、やはり味は確かです。しかも、銀座店と比べると500円ぐらい安い。(ただし、銀座店の「元祖ポークカツレツ」は2000円也です。)

 カウンターの目の前にいるマスターがテレビに出ていたので、「テレビ、見ましたよ」と声を掛けましたが、「べらんめえ、こちとら江戸っ子だあ」とも言わず、無言で頷いただけでした。照れていたのかもしれません。

新富町・仏料理「ニコラ・シュヴロリエ」

 新富町は明治になって、守田勘弥が座頭を勤める歌舞伎の芝居小屋「新富座」が出来ました。関東大震災で焼失し、今は京橋税務署になっていて、署前には「新富座跡」の看板があります。ですから、もともとこの辺りは新富町と言っていたとばかり思っていたのですが、江戸時代は「大富町」と呼ばれ、武家地だったといいます。

 それが、明治になって築地の外国人居留者を目当てに新島原遊郭が置かれ、この新島原の「新」を取って、新富町になったといいます。

鉄砲洲稲荷神社(東京都中央区湊)

 いやいやそんなんで驚いていてはいけません。この辺りの鎮守様として鉄砲洲稲荷神社がありますが、創建は平安時代初期の841年にまで遡ることができるといいます。この辺りは埋め立てが進んだ土地であり、その度に社(やしろ)は移転され、室町時代は「八丁堀神社」と称されたことがあり、江戸時代あたりから「鉄砲洲稲荷神社」になったようです。

 歌川広重の浮世絵にも描かれています。名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」です。

 5月初めの「例大祭」では三年に一度、御神輿の渡御があり、東銀座の歌舞伎座辺りまでも回るようです。(歌舞伎座に分祠された鉄砲洲稲荷神社があるため)

入船「焼鳥 さくら家」

 新富町といえば、昼休みに、これまで新富座があった京橋税務署辺りまでしか足を延ばしたことがありませんでしたが、今回初めて、「入船」とか「湊」まで、奥深く足を踏み入れました。

 最近、新富町が雑誌などでも取り上げられ、ブームになっているようですが、その取り上げ方が「奥銀座」とか、「裏銀座」。番組に出てきた地元の人が「何?奥銀座だと?新富町は、新富町じゃねえか。誰が付けたんだ!冗談言っちゃいけねえ!」と吠えていました。

 どうやら、新富町を「奥銀座」と呼ぶのは避けた方がいいかもしれませんね(笑)。最近、個性のあるシャレたお店が結構増えてきましたし、かつての花街でしたから、高級料亭やミシュランの星付き寿司店も多いようです(地元の芸者さんがお一人だけ残っていらっしゃるとか)。

 番組では入船の「さくら家」(番組では第7位にランクイン)という老舗の焼き鳥屋さん(1917年創業)のことを「手頃な価格で美味しい」と紹介していましたので、行ってみましたが、ランチはなく、営業は夕方からでした。今晩も多分、テレビの影響で超満員になるのでしょうね。

 ほとぼりが醒めた頃に行きますかあ。

ジョン・レノンが愛した洋食店に行って参りました=東京・上野の老舗「黒船亭」

 ロシアが2月24日にウクライナに侵略して、5日経ちます。民間人にもかなりの犠牲者が出たようですが、停戦交渉も「画に描いた餅」のように現実性がなく、膠着状態のようです。

 こんな蛮行は、冷戦時代にもなく、戦後初めてではないかと思っていたら、冷静に振り返ってみれば、ソ連時代の1956年に「ハンガリー動乱」と1968年に「プラハの春」がありました。いずれも、戦車で首都を制圧し、ブタペストでは数千人、プラハでは約400人の市民の死者を出しています。前者は、ソ連のフルシチョフ首相、後者はブレジネフ第一書記が最高責任者でしたが、プーチン大統領も彼らの顰に倣ったのでしょうか。

 ただ、信じられないような未確認情報が飛び交っています。「プーチン大統領は、パーキンソン病を患っており、正常な判断ができない」(英「サン」紙など)のだと。プーチン大統領は、ベラルーシのルカシェンコ大統領と会談した際、彼の左手が痙攣しているようで、椅子の後部を左手で必死に抑えているビデオが流れ、確かに不自然さを誰でも感じてしまう映像でした。

 ロシアによるウクライナ侵略について、世界の多くの識者が「狂気の沙汰」と批判していますが、もし、そのまま文字通り、プーチン大統領が正常な判断が出来ない状態だとしたら、そんな人間が核のボタンを握っていることになり、夜も眠れないほど恐ろしくなりますね。

上野・洋食「黒船亭」ビーフシチュー・セット グラスワイン クロズリーデ・ピノ・ノワール950円

 さて、昨日の渓流斎ブログの「昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著『昭和・東京・食べある記』」の中で、「上野の『黒船亭』には、いつか行くしかない」と書きましたが、昨晩、会社の帰りに途中下車して行って参りました。

 思い立ったが吉日。「このブログを書くため」にですから、御苦労さまのことです。どうせ、誰一人、褒めてくれないでしょうけどねえ(苦笑)。

上野・洋食「黒船亭」1979年8月 ジョン&ヨーコ ※お店の人に許可を得て撮影しております

 何としてでも行きたかったのは、偏に、尊崇するジョン・レノン様が行かれた店だったからでした。並ぶのが嫌なので、ネットで予約しましたが、結構空いていて、何と、私が予約して確保して頂いた席の壁に、ジョンとヨーコが訪問した時の記念写真が飾ってあったのです。

 撮影日は「1979年8月」とありましたから、ジョンが暗殺される1年4カ月前のことでした。老けて見えますが、当時38歳です。

 天下のジョン・レノンなんだから、カラーで撮ってくれよお、と突っ込みたくなりましたが、こんなに当たり前にカラー写真が普及したのは、せめて、80年代以降だったことでしょう。私の学生時代は1970年代でしたから、白黒写真が多いです。

上野・洋食「黒船亭」ビーフシチュー・セット5220円

 何を注文しようかと思いましたが、電車の中で考えていた通り、ビーフシチューにしました。コース料理もありましたが、それほど空腹でもなかったので、サラダとパンとコーヒーの付いたセットにしました。

 このセットで5220円ですから、あのプーチンさんの全盛期のように、正常な判断が出来る状態でしたら、こういう高級料理店に足を踏み入れることはありませんでした(笑)。

 ついでに、仏産クロズリーデ・ピノ・ノワールのグラスワインを頼んだら、驚くほどドデカイ、ワイングラスを持ってきてくれ、「どんだけ注いでくれるんかいなあ」と愉しみにしていたら、全体の8分の1程度、ちょこっと、注いでくれただけでした。これで950円。

 締めて、6170円でした。

上野・洋食「黒船亭」

 ビーフシチューは、シチューが少しだけで、ほとんどビーフでした。4~5時間もグツグツ煮込むようです。味付けは抜群。大抵しょっぱくなるんですが、塩加減を抑えている感じでした。こんな高くてうまいもん、ジョンとヨーコは毎日喰っていたんだろうなあ、と羨ましくなりました。

 「ビーフは4~5時間煮込む」というのは、実は、隣りのテーブルの老夫婦も同じビーフシチューを注文していて、彼らの会話が耳に入ってきたのでした。お二人とも85歳は超えているような感じで、旦那さんの方はかなり衰弱していて奥さんには我が儘放題に振舞っていました。でも、何となく、この近くに住み、不動産からの莫大な不労所得がありそうな富裕層で、通い慣れた常連客といった感じでした。

 何故なら、店の奥から、若手のシェフがわざわざ二人のテーブルの側に出てきて、「いつも有難う御座います」と最敬礼して会話しておりましたから。

昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」

 森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書、2022年2月28日初版)を読んでいます。出たばっかりの新刊ですが、「『懐かしの昭和』を食べ歩く](PHP新書、2008年)や「東京人」などに掲載された一部のお店を再取材して所収したものもありました。

 著者の森まゆみさんにはもう30年近い昔、彼女が「谷根千」の編集長として脚光を浴びていた頃に、会社の新年企画でインタビューしたことがあります。千駄木にある千代紙の「いせ辰」など彼女のお気に入りのお店を一緒に回った思い出があります。でも、こんな有名な作家になられるとは思いませんでした。「鴎外の坂」「彰義隊遺聞」(新潮社)など次々と力作を発表され、最近では「聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(亜紀書房)も出されています。(主人公の林聖子さんは、太宰治の「メリイクリスマス」のモデルになった少女で、新宿で文壇バーのマダムをやっていた人です。私も一度訪れたことがあり、「風紋」の同人誌のようなものを頂いたことがありました。先週2月23日、93歳で亡くなりました)

 森さんは、何でこんな筆力があるかと思いましたら、早稲田大学政経学部の藤原保信ゼミ出身だったんですね。「名伯楽」の藤原ゼミからは、奥武則、姜尚中、斎藤純一、原武史、佐藤正志といった今第一線で活躍する多くの学者を輩出しています。

上野・天ぷら「天寿々」

 さて、「昭和・東京・食べある記」ですが、ムフフフ、この中で取り上げられているお店は、結構、私自身も行っております。甘味は負けますが、居酒屋でしたら森氏以上に行っていると思います。王子の居酒屋「山田屋」には週2回も行っていた時期もありましたが、ボトルキープしていた焼酎を紛失されたのに全く責任を取らないので、行かなくなりました。十条の有名店「斎藤酒場」は、作家の中島らもがこよなく愛して、大阪からわざわざ泊りがけで通ったというお店ですから、その辺りの逸話にも触れてほしかったと生意気ながら思ってしまいました(笑)。

 森氏得意の歴史から、森鴎外も通った上野の蕎麦店「蓮玉庵」や夏目漱石も贔屓にした神田の洋食店「松栄亭」が登場するかと思いましたが、取り上げられていませんでした。その代わり、上野の「藪そば」、天ぷら「天寿々」、浅草の「駒形どぜう」、神保町の喫茶店「さぼうる」「ラドリオ」「ミロンガ」、渋谷の台湾料理「麗郷」、新宿の居酒屋「地林坊」、銀座のインド料理「ナイルレストラン」…といった昭和の香りがする、いわば手堅いお店が選ばれています。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」マルガリータ・ランチ13200円

 森氏は「聞き書き」が得意ですから、お店の御主人らにしっかり取材しています。特に、印象深かったのは、上野の洋食店「黒船亭」の三代目の須賀光一会長の話です。初代の須賀惣吉が明治35年(1902年)に栃木から東京に出てきて、色んな商売をした上で、上野に「鳥鍋」という料亭を始めたのが原点だそうです。初代惣吉は教育熱心で、11人の子どものうち男の子には家庭教師を付け、何人かは東京大学に進学したといいます。

上野・中華「東天紅」

 三代目須賀光一会長の父利雄(二代目)も東大の美学科を出て、大正6年(1917年)に「カフェ菊屋」を始め、当時としてはモダンな輸入酒やハヤシライスやオードブルを出していたそうです。昭和12年(1937年)には初代惣吉と二代目利雄は池之端に本格中華「雨月荘」を始めます。昭和19年に三島由紀夫が出版記念会を開いたのもこの「雨月荘」だったそうです。後に、この中華店は懇意にしていた小泉さんという人に譲り、今は「東天紅」になっているというのです。

 えーー、この東天紅は、私も学生時代、一日だけですが、ウエイターのアルバイトをしたことがありました(笑)。

 須賀一族は、このほか、日本料理「世界」や天ぷら「山下」や洋品店など色んな店を展開しますが、戦災などにも遭い、戦後、昭和44年に二代目利雄は、婦人用品店を兼ねた「レストランキクヤ」を始めます。この店にはジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻もみえ、写真が残っています。

 昭和61年(1986年)、その店を洋食「黒船亭」に代えたのが、この三代目の光一会長でした。残念ながら、私自身は、この店に行くといつも満員で、何人も行列をなして並んでいたので一度も入ったことがありません。この話を聞けば、いつか行くしかありません。

 ジョン・レノンも行った店ですし、こんな歴史のある店なら、30分ぐらい待ってもいいかもしれません。朧げな記憶ですが、確か戦前の「カフェ菊屋」時代、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実も、通っていたと思います。彼はかなりのグルメでしたから、結構、銀座、浅草など東京の高級料理店をはしごしているのです。

 【追記】

「黒船亭」のHPを見たら、現在は、4代目の須賀利光氏が店主になっておられました。

ロシアも欧米も妥協して戦争回避するべきだ=ウクライナ問題

 もうここ1カ月以上も、ウクライナ情勢が懸念されています。

 ロシアがウクライナに侵攻すれば、第3次世界大戦が勃発するのではないか、と言う評論家もいるぐらいです。

 我々、日本人は米国支配下の「西側」諸国に属しているせいなのか、メディアの翻訳報道によって、悪いのはロシア人だと一方的に信じ込まされています。私自身も、先の大戦で、日ソ中立条約を一方的に破棄して60万人もの日本人をシベリアに抑留し、いまだに北方領土を返還しないロシアは好きになれませんから、その通りだと思っていました。でも、実体はそんな単純なものではないようです。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【前菜】コンソメロワイヤルのパイ包み焼き 春野菜のベニエを添えて

 「ロシア=悪」「西側=正義」の図式を考え直すきっかけとなったのは、先日、行きつけの東京・銀座のロシア料理店に行った時、そこのロシア人の女将さんに話を聞いたからでした。その店は御主人が日本人で調理と会計を担当し、そのロシア人の奥さんは料理を運んだり給仕をしたりしています。人気店なのでいつもお客さんがいっぱいで、二人とも息つく間もなく、てんてこ舞いです。

 ですから、あまり話しかけるのも気が引けていたのですが、今回はウクライナ問題のことをどうしても知りたかったので、帰りの会計の際に、御主人に聞いてみたのです。

 「奥さんはウクライナ人ですか?」

 「いや、ロシア人ですよ」

 「今、大変ですね」

 「本来、ロシア人もウクライナ人もほとんど一緒ですから、戦争になるわけないんですけどねえ」と御主人。

 そこで、私はロシア人の奥さんに向かって、半ばジョークで、

 「戦争しないでくださいよ。プーチンさんに伝えてください」と忠告してみました。

 すると、奥さんは流暢な日本語で、

 「戦争したいのはアメリカ。ロシアは戦争なんかしたくありませんよ」と反論するではありませんか。

 なるほど、普通のロシア人の「庶民感覚」を教えてもらった気がしました。

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【メインディッシュ】あぶくま三元豚のロティ 福島県産あんぽ柿とクリームチーズのクルートをのせて

 ロシア側からすると、悪いのは米国ということになります。ウクライナのコメディアン出身のゼレンスキー政権が、ロシアを仮想敵国とする北大西洋条約機構(NATO)に加盟しようとしたのがきっかけです。これでは裏庭に敵が土足で踏み込んできたことに他ならなくなります。もっと言えば、首筋に匕首(あいくち)を突き付けられた感じか? プーチン政権も「仕方なく」、ウクライナとの国境付近に15万人規模の軍部隊を集結させ、米欧にNATO不拡大を要求せざるを得なくなった、というのが、ロシア側の主張になります。

 情勢を冷静に見れば、ウクライは、親ロシア武装勢力が支配する東とウクライナ民族意識が強い西側と分裂している状態です。2014年にウクライナのクリミア半島がロシアにあっさりと併合されたのも、ロシア系住民か、シンパが多かったからでしょう。 

東京・銀座「ポール・ボキューズ」ランチ【デザート】“ムッシュ ポール・ボキューズ”のクレーム・ブリュレ

 要するに、今回の問題は、人口約4500万人のウクライナが、天然ガスなどの資源も含めた経済的基盤と軍事的支援を欧米にするか、ロシアにするか、選択の問題だと言えるでしょう。覇権主義の問題です。でも、ウクライナはどちらかを選ぶことなく、曖昧な玉蟲色的な選択にすることはできないでしょうか。

 戦争はいつの時代も「正義のため」「自衛のため」「自存のため」為政者によって始まります。ロシア人も米国人も「戦争はしたくない」というのが庶民感覚なら、為政者は平和的な外交で決着を付けるべきです。

 戦争になれば多くの人が犠牲になります。いくらロシア嫌いの日本人でも、ドストエフスキーやトルストイ、それにチャイコフスキーを愛してやみません。それは、世界でも類を見ないほどです。将来のドストエフスキーにでもなれたかもしれないロシアやウクライナの若者が戦争によって犠牲になってしまっては居たたまれません。

 為政者の皆さんには、戦争だけは回避してもらいたい。

人間、14歳が勝負の分かれ目?=イタリア映画讃

  本日、ランチで行った東銀座のイタリアンレストランで、稀に見る飛びっきりの美人さんとほぼほぼ同席となり、何か得した気分になり、食後のコーヒーまで改めて注文してしまいました(笑)。

 誤解しないでくださいね。ただ、たまに、チラッと見ていただけーですからね(笑)。

 その美人さんはお仲間さんと3人で食事をしていたので、よく素敵な笑顔がこぼれておりました。まだ20代半ばか後半といった感じでしょうか。いやはや、これ以上書くと炎上するので、やめておきます(笑)。

 後で、誰に似ているかなあ、と思ったら、先日(2月2日)亡くなったイタリアの女優モニカ・ヴィッティさんでした。ちょっときつめのアイラインで、少しワイルドな感じでしたが、知的そうで、なかなか、滅多にお目にかかることはできない美人さんでした。

 とにかく、モニカ・ヴィッティさんにそっくりだったので、(90歳で)亡くなった彼女が再来して降臨してきたのではないかとさえ思いました。でも、今では彼女のことを知る人はもう少ないかもしれません。私は、彼女がアラン・ドロンと共演した「太陽はひとりぼっち」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)で強烈な印象に残っています。1962年公開作品(カンヌ映画祭審査員特別賞受章)ですから、映画館ではなく、何年か経ってテレビか、池袋の文芸座(洋画二本立て100円)で見たと思います。ニーナの主題曲もヒットしたと思います。

 1962年はビートルズがデビューした年ですから、少なくともこの年まで世界的な流行音楽は(映画音楽も)ジャズだったのではないかと思います。私は最近、1950年代から60年代にかけて流行したジャズ・ギターにハマってしまい、昨年から今年かけてもう10枚以上ものCDを買ってしまいました。タル・ファロー、ハーブ・エリス、バーニー・ケッセル、ケニー・バレルといった面々です。彼らの超人的早弾き演奏には圧倒されます。これまで、エリック・クラプトンかジミ・ヘンドリックス、もしくは、ジミー・ペイジかジェフ・ベックかリッチー・ブラックモア辺りが人類最高のギタリストだと思っていたのですが、ちょっと、考え方が変わってきました。ジャズ・ギタリストの早弾きは、ロック以上で、とても真似できませんね。

東銀座・イタリア料理店「エッセンス」ランチB(カサレッチェ)1100円+珈琲100円=1200円

 1960年~70年代はハリウッド映画一本やりではなく、映画館(私がよく行ったのは池袋「文芸座」のほか、大塚駅前の「大塚映画」?、高田馬場「パール座」「松竹座」、飯田橋「佳作座」などの廉価な弐番館です)では、結構、欧州映画が掛かっていました。アロン・ドロンやジャンポール・ベルモンド主演のフランス映画が多かったですが、イタリア映画も負けてはいません。先のアントニオーニ監督の他、何と言っても巨匠ルキノ・ヴィスコンティ(「地獄に堕ちた勇者ども」「山猫」「ルートヴィヒ」など)、それにフェデリコ・フェリーニ(「道」「甘い生活」など)は若輩には難解でしたが、何日も頭の中でグルグルと場面が浮かぶほど印象深かったでした。ピエロ・パオロ・パゾリーニ監督の「デカメロン」や「カンターベリー物語」には衝撃を受けましたが、その前に、ヤコペッティ監督の「世界残酷物語」(1962年)は日本でもヒットしました。DVDがあればもう一度見てみたいですが、所有したくないので、レンタルであればの話ですけど(笑)。

 ああ、そう言えば、「ロミオとジュリエット」「ブラザーサン・シスタームーン」のフランコ・ゼフィレッリも大好きな監督です。それに何と言っても、ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」(マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィア・ローレン主演)は名作中の名作です。

 懐古趣味的な話になってしまいましたが、人間、多感な若い時(恐らく14歳)に聴いた音楽や観た映画が、一生を左右する、ということを言いたかったのです。今の若者たちに流行のラップやヒップホップは、私自身、個人的には、もう手遅れでついていけないので勘弁してほしいですし、映画も勧善懲悪がはっきりした単純なハリウッド映画よりも、難解なヨーロッパ映画の方が趣味的には合ってしまうのです。

 何か、問題ありますかねえ?

銀座「木村屋総本店」と新富座と助六寿司

 本日もまたまた「銀座ランチ」のお話です。

 私にとって、銀座ランチの最高の贅沢は、銀座4丁目の木村屋總本店の3階レストランです。運が良ければ、窓際の席に案内してくれます。

 ここから「下界」を眺める景色は「絶景かな、絶景かな」です。まるで、天守から城下町を眺める大名(城主)になった気分です。

銀座「木村屋総本店」プレートBランチ+ドリンクセット 2480円

 木村屋は、明治2年(1869年)創業です。創業者は、木村安兵衛(1817~89年)という常陸国(現茨城県牛久市)の農家出身者で、婿入りした木村家の叔父を頼って江戸に出てきます。最初にパン屋を開業したのは今の新橋駅近くで「文英堂」という名前でしたが、火災で焼失してしまいます。安兵衛は52歳ですから、当時としては相当高齢での起業だったことになります。安兵衛は、再起を目指して、明治7年に銀座4丁目に「木村屋」の看板を掲げて、日本人の口に合う柔らかいパンを売り出します。明治天皇の侍従だった山岡鉄舟が当時「へそパン」と呼ばれていた木村屋のアンパンを天皇に献上したところ、大変なお気に入りになったことから評判となり、大繁盛となって現在に至るわけです。

 レストランは、いつも混んでいて並んでいますが、本当に運が良くて窓際の席を確保できれば、贅沢気分を味わうことができます。それに、何と言っても、色んな種類のパンが食べ放題というところが最高です。でも、銀座という場所柄、お値段がちょっと張ります。それは仕方ない(笑)。

東銀座「大海」大分とり天定食880円

 木村屋に行ったのは昨日ですが、本日は数年ぶりに新富町方面に足を延ばしてみました。

 このブログを書くためだけに、ひたすら、ランチは銀座か、築地方面を回っていたので、新富町は本当に久しぶりです。銀座だと1500円とか2000円のランチなんかザラですが、少し離れた新富町ともなると、800円台でも十分美味しいランチが食べられるのです。木村屋さんの3分の1です(笑)。

 新富町といえば、私的(わたくしてき)には、歌舞伎の新富座です。新富座は、万治3年(1660年)に木挽町(現銀座六丁目)に創建された森田座を引き継ぐ劇場でした。紆余曲折の末、明治5年(1872年)にこの地に移転してきました(座元は十二代守田勘弥)。その後、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失してしまいます。

 今は、確か、税務署になっていたはずですが、見当たりません。

京橋税務署

 そしたら、驚きです。前の古いビルは壊されて、七階建ての超近代的なビルに変わっていたのです。しばらく行っていなかったので分からなかった。

 思わず、「税務署って、本当に儲かるんだなあ~」と心の中で叫んでしまいました(関係者の皆様には、とんだ失言で失礼仕りました!)

 以前は入り口の近くに設置されていた「新富座跡」の看板は、正面から左奥に直ぐに見つかりました。歴史のある旧跡ですからね。

 ただし、この京橋税務署の道路を挟んで真向かいに合ったはずのお寿司屋さんは、どうしても見つかりませんでした。あの市川團十郎の十八番の「助六寿司」の発祥地と言われる「蛇の目鮨」です。10年ぐらい前に何度か行ったことがありました。「コロナ禍で閉店したのかしら?」と、会社に帰って調べてみたら、京橋税務署の真向かいではなく、場所は、そこからワンブロック北に行った所で、元気に営業されているようでした。

 これまた失礼致しました。

 

80年前の12月8日に起きたこと

 今年の12月8日は、昭和16年(1941年)の「真珠湾攻撃」から80年ということで、新聞、テレビ等では大きく特集記事が組まれたり、特集番組が放送されました。私も、結構、見たり読んだりしました。

 この中で、特に印象に残ったことは、「特殊潜航艇」と呼ばれる小型潜水艦で真珠湾攻撃に参加して戦死した9人が「軍神・特攻隊九将士」として崇められて大きく報道された一方、一人だけ生き残った戦士がいて、その人は長らく記録から抹殺されていた史実でした。この人は、酒巻和男・元海軍少尉(1918~99)で、日本人捕虜第一号でもありました。(今年、愛媛県佐多岬半島に彼ら10人の慰霊碑が建てられ、酒巻さんもやっと戦友の仲間入りをすることができました)

 当時は「生きて虜囚の辱を受けず」という1941年1月8日に東条英機陸相によって布達された「戦陣訓」によって、軍人は敵の捕虜になってはいけなく、死を強要していました。捕虜になれば、本人だけではなく、家族にも被害が及ぶ危険があったため、酒巻さんも自決を望みましたが、日露戦争で捕虜になった経験を持つハワイ浄土宗第8代総長の名護忍亮師から説得され、逆に後から収容されてきた日本人捕虜に対して、生き抜くことを説得するようになります。

 戦後に帰国した酒巻さんは、その後、トヨタ自動車に入社し、ブラジルの現地法人の社長になるまで活躍したようです。

 この酒巻氏については、今年は大手紙やNHKにまで取り上げられただけでなく、既に、ウィキペディアにまで登録されていたので驚きました。

銀座3丁目「Le vin et la viande」(ワインとお肉)

 もう一つは、12月8日付の朝日新聞に出ていた「『12月8日開戦』の意味」特集の中の地理学者・歴史研究家の高嶋伸欣氏のインタビュー記事です。これまでマレー半島に赴いて100回以上も調査した高嶋氏は「日本では真珠湾攻撃でアジア太平洋戦争が始まったという認識が一般的ですが、それは違います。海軍の真珠湾攻撃よりも1時間5分早く、陸軍がマレー半島の英領コタバルに上陸し、英軍と戦っています」と力説しています。

 はい、そのことは、勉強家の?私も存じ上げておりました。

 しかし、高嶋氏の「日本軍はコタバルより少し北にあるマレー半島東岸のタイのシンゴラにも上陸しています。しかし、その前年に日本はタイの中立尊重を保障した日タイ友好和親条約を締結しています。にもかかわらず、一方的に独立国のタイに奇襲上陸したのです」と発言しています。

 これは不勉強の私は、全く知りませんでした。恥じ入るばかりです。調べてみたら、確かに、1年前の1940年6月12日に外相官邸で有田八郎外相とセナ・タイ国在京公使との間で 日タイ友好和親条約 が締結されています。

 そして、高嶋氏は「ソ連軍の旧満洲への侵攻は日ソ中立条約違反だと言われますが、日本はそれと同じことをタイに行っているのです」と続けるのです。

 確かに、これまで我々日本人は、ヤルタ密約で一方的に条約を破棄して満洲(中国東北部)に侵攻した極悪非道のソ連スターリン政権を批判続けてきましたが、日本も同じアジア民族に対して酷いことをやったことを認めざるを得ません。自虐史観批判者や歴史修正主義者たちが何を言っても、です。

銀座3丁目「Le vin et la viande」ハンバーグステーキ・ランチ1000円 本文と関係ないじゃないか!

いざ「竹葉亭」へ=ポイント乞食、老舗鰻屋に走る

 本日は、通勤途中、朝っぱらから原付バイクに乗った若いおまりさんから追い駆けられて叱られました。詳細は省きますが、嫌なことがあったので、通勤定期を買ったりして溜まっていたJRのスイカのビューカードに付いたポイントを今朝、駅にある「ビューアルッテ」で交換してきました。数千ポイント溜まっていたので、そのまま数千円分使えることができます。

 さて、どうしようか。差し当たって、今欲しいものは特にありません。いや、あるんですけど、それは、ジョン・レノンがはめていたパテック・フィリップの高級腕時計で、それは数千円ではなく、数千万円もするので、買えるわけありません(笑)。

 そこで、本日は高級ランチに行くことにしました。今、喉から手が出そうで出ない高級ランチと言えば、ここしばらく御無沙汰の鰻です。そして、鰻といえば、銀座界隈で食すとなると築地の「竹葉亭」に決まってます。竹葉亭は銀座5丁目にもありますが、やはり、本店の築地の方が落ち着いて食すことができます。

築地「竹葉亭」鰻お丼B 3520円

 このコロナ禍による不景気のご時世だというのに、店内はほぼ満杯で、少し待たされました。

 こっちはポイントで稼いだ余剰金があるので、大船に乗ったつもりで、「 鰻お丼」のAではなく、少し高いBを注文しました。

 さすが、幕末創業の竹葉亭。文句なしのお味でした。

 さて、お隣の席は、初老の紳士と三十路そこそこの若い女性で、何となく怪しい関係に見えるカップルでした。耳を塞ぐわけにはいかず、二人の会話は丸聞こえでした。

 どうやら初老の紳士は、スパイ映画007の大ファンらしく、全部観ているとか。何故なら、第1作「007 /ドクター・ノオ」が公開された年(1962年)に生まれているからだ、と紳士は若い女性に呟いていました。隣に諜報員がいるというのに、そんなことまで喋っていいんですかねえ。59歳か…これで、彼の年齢が分かってしまった(笑)。

 そして、007の大ファンのため、彼の愛用腕時計は、スイスの「オメガ」だと言いつつ、若い女性に自分の腕時計を見せびらかしていました。「まあ、凄い!」と女性が黄色い金切り声をあげたことは言うまでもありません。

 紳士のお仕事はどうもファッション関係のようで、青山にある高級ブランドB店の店長に今度紹介するよ、電話しとくよ、と何度も言ってました。恐らく、店長の口利きで割安で商品が買えるんでしょう。再び、若い女性は黄色い金切り声でした。

築地「吉兆」工事中?

 また、さて、ですが、以前にもこのブログで書いたことがあるのですが、新橋、築地界隈は、明治時代から高級料亭が林立しています。「吉兆」、「松山」、「米村」、「金田中」(新橋演舞場)、「新喜楽」(芥川・直木賞の選考委員会が開かれますが、実はここは「築地梁山泊」の異名を取った大隈重信邸でした)、「ふぐ料亭わのふ」(かつての料亭「石蕗(つわ)」)、「花蝶」(1968年の日通事件の舞台になった)等々です。

 この中でも代表的な高級料亭は「東京 吉兆」ですが、久しぶりに近くを通ったら、何と今、工事中でした。しかし、「建築計画」の看板をチラッと見たのですが、吉兆の「き」の字も書かれていませんでした。

 「おかしいなあ」と思いつつ、会社に戻ってパソコンで調べたところ、どうも、あの「吉兆」がコロナ禍のあおりを受けて、今年1月で「休業」してしまったらしいのです。どうも事実上の「閉店」らしいのです。よく分かりませんが。

 世知辛い世の中になって、政治家さんたちが料亭で密室政治をやってくれなくなったからでしょうか…。残念といいますか、良きにつけ悪しきにつけ、日本の伝統文化がなくなったようで、何か哀しいものがあります。

 

かなりお得だった東京・新橋の「香川・愛媛せとうち旬彩館」

 訳あって、東京・銀座周辺に進出している全国各県の「物産館」巡りをしています。そこに食堂や喫茶店が付設していれば、その県の名産品を食すという遊びも昼休みにやっております。

 これまで、銀座方面は大体回ったので、今は新橋方面に足を延ばしています。

 本日行ったのは、「香川・愛媛せとうち旬彩館」です。この近くに「とっとり・おかやま新橋館」があります。歴史的に鳥取と岡山は同じ池田藩つながりがあるので、両県が共同参画するのはよく分かりますが、香川と愛媛となると、四国の瀬戸内海寄りという共通点はありますが、かつての讃岐、伊予藩で、縁戚関係はなかったと思います。そして、讃岐=うどん、伊予=蜜柑と名産品も違います。

 何ででしょうか?

東京・新橋「香川・愛媛せとうち旬彩館」伊予定食1300円⇒ランチで1100円

 ま、堅いこと言わずに2階の食堂に出かけてみたら、他の県の物産館と比べて、かなり「サービス」が行き届いておりました。週の日替わりで、ランチ定食が普段の100円~200円安になっていたのです。しかも、会計を済ませた後、年内で使える「100円割引券」まで貰ってしまいました。

 これは、2階の食堂でも、1階の物産店でもいずれでも使えるそうです。

東京・新橋「香川・愛媛せとうち旬彩館」にて

 2階食堂の窓側の席に座って食事していたら、「北海道根室市館」が目の前に見えました。県が東京に物産館を建てるのは大変だというのに、市が建ててしまうというのですから、凄いですね。でも、そう言えば、有楽町駅前の東京交通会館には、北海道や富山、秋田、兵庫など10軒以上の県の物産館がありますが、この中で、北海道の美瑛町が「丘のまち美瑛」の名前で頑張っていました。

 今、東京交通会館のホームページを見てみたら、中に「徳島・香川トモニ市場」の物産店がありました。香川県は、愛媛県にくっついてみたり、徳島県にくっついたりして忙しかったんですね(笑)。

 根室市館には「根室食堂」もあるみたいなので、今度ランチに行ってみましょうか。

新橋「玉木屋」創業1782年 老舗の佃煮屋さんです

 あ、そう言えば、今、思い出したのですが、私が赴任したことがある北海道十勝地方の池田町が東京駅近くに店を出していて、何度か行ったことがありました。「レストラン十勝 日本橋店」という店です。勿論、池田町の売り物の「十勝ワイン」が置いてあります。ステーキなんかも美味しかったでした。

 もう一軒。銀座の串焼き・もつ焼き店「ささもと」では、「葡萄割り」という強烈なお酒がありました。これは、キンミヤ焼酎を十勝ワインで割ったものです。かなり強いお酒なので、店主は3杯までしか注文を受け付けていませんでした。コロナ禍で最近ずっと行っていなかったので、ここもまた久しぶりに行きたくなりました(笑)。

 十勝ワインで有名な池田町は、ドリームズ・カム・トゥルーのボーカル吉田美和さんの出身地としても知られています。