物理学、相対性理論、宇宙論、星座関連本を購入=おらあ、理科人間になるだあ

 ありゃまあ、もう7月ですかあ。今年も半分も過ぎてしまいました。まあ、何とまあ。。。

 あまりボヤボヤしていられませんので、本当に久しぶりに大型老舗書店に行って参りました。やはり、本を買うには、ちゃんと書店に足を運ぶのが一番です。それに、全く買うつもりがないのに、「偶然の産物」で見つけた本を買ってしまう楽しみがあります。ネット通販だと、最初から買うものが決まっていて、ピンポイントで購入するのは便利でしょうが、偶然の産物にありつけることはありません。それに、書店に同じような類書があると、自分にとって何が一番合うのか、手に取って確かめることが出来ますからね。

 私はもういい年なのですが、年を取っても、何歳になっても「変身願望」があります。私自身は、高校生以来文系で、歴史や文学、哲学、宗教学、絵画彫刻、寺社仏閣、お城、音楽等に興味があり、その筋の本ばかり読んで来ました。逆に言えば、数学や科学などの理系の勉強は疎かにして来たわけです。そこで、変身願望というのは、いい年こいて「理系人間になりたい」という願望だったのです。ズバリ、

  おらあ、理科人間になるだあ

 作戦です。人間、幾つになっても、努力次第で変わることが出来るというのが私の信念です。

 ついでながら、私自身の性格は、いつも不安と不満に苛まれ、苦悩の塊みたいなものです。そのため、若い頃からずっと宗教や哲学に救いを求めて来ました。しかし、宗教や哲学では、一時的に気が楽になっても、相も変わらず、苦しみや悩みは消えません。根本的には「われわれは何処から来て、何処へ行くのか?」というアポリア(難問)があります。

 そこで、人間とは何か、科学的に検証する人類学や進化生物学等の本に触れると、目から鱗が落ちるかのように、腑に落ちてきます。はっきり言ってしまえば、所詮、人間とは遺伝と環境と偶然の産物だということです。例えば、ろくに仕事をしようともせず、他者を陥れることしか考えない人間を、いくら責めても始まりません。相手は、どうせ悪党の遺伝子を受け継いでいるだけなので、治りようがありません。悔悟心も自責の念も罪悪感も全くありませんからね。

 ところで、進化生物学者が説くところによると、あらゆる悩みは、人間として生を受けたからだといいます。人間というものは、良心的人間なら、最初から悩むように、苦しむように、迷うように生まれついているというわけです。

 個人的ながら、こういったことを知ると、宗教哲学よりも、理系思考の方が救われるようになり、だんだん、理系人間になりたいと、思うようになったわけです。

おらあ、理科人間になるだあ

 大型老舗書店に足を運んだのも、もう一度、理数系の勉強をやり直そうかと思ったからでした。まず、最初に手に取ったのは、ニュートン別冊「学びなおし 中学・高校物理」(ニュートンプレス、1980円)です。人間の悩みの90%は、人間関係です。だから、もう嫌な人間と関わるのは懲り懲りですよ(笑)。別に世間に背を向けるつもりもありませんが、そんな人間どもの気まぐれを相手にするより、自然界はどんな力学が働いて動いているのか基礎知識を学ぶ方が魅力的です。中学、高校時代は物理の勉強はさぼってしまいましたから、やり直しです。(振り返ると、「組み合わせ滑車」の計算が全く出来なかったことがきっかけで、物理が嫌いになり、落ちこぼれてしまいました。)

 その次に手に取ったのが、またニュートン別冊「相対性理論」(ニュートンプレス、1980円)です。人間として生まれてきたからには、相対性理論を知らずに死ねるか、といった気持ちです。アインシュタインは、文学、哲学でいえば、ドストエフスキーやカントみたいなもので、音楽でいえば、バッハやモーツァルトやベートーヴェンみたいなもので、相対性理論は人類にとって必修でしょう。

 その後、書棚を見回すと、やたらに目立って多かったのが、「宇宙のおわり」の書です。「宇宙のはじまり」の本もありましたが、「おわり」はその3倍ぐらいの量です。そこで、当初は全く買うつもりはなかったのに、またまたニュートン別冊の「宇宙の終わり 誕生から終焉までのビッグヒストリー」(ニュートンプレス、1980円)も購入することにしました。そこには、宇宙に誕生があるように、宇宙にも終焉があるといったことが書かれていました。宇宙誕生138億年、地球誕生46億年ですが、20億年後、太陽は1.2倍の明るさとなり、地球は灼熱の大地となり生物は死滅するといったことも書かれていました。人類も、その前に絶滅していることでしょう。極貧に喘いで不幸な孤独の人生を歩んだ人間も、最高権力を手にして大豪邸で何不自由のない裕福な生活を送った人間も等しく滅び、その遺産も遺跡も跡形もなく消えるわけです。そう思えば、何を悩むことがあるのでしょうか?

築地「かつ平」ヒレカツ定食1200円 池波正太郎がこよなく愛した店 銀座、築地界隈で一番美味しいかも

 忘れるところでした。大型老舗書店に足を運んだのは、「星座」関係の本を買うためでもあったのでした。ネット通販で、星座関係の本を検索すると、星占いの本ばかり出てきて、自分が探し求めているものとは全く違いました。私が欲しかったのは、夜空の星座の観測も出来る手引きとなり、その星座の由来やエピソードも書かれた一般向けの書籍でした。書店には、それに該当する星座関係の本は「天文年鑑」も含めて10冊以上ありましたが、ちょっと、ペラペラと読み比べて、これだという1冊が見つかりました。永田美絵著、八坂康磨写真「星空図鑑」(成美堂出版、1100円)です。早速、7月7日の七夕の織姫星は、こと座のベガ、彦星は、わし座のアルタイルだということを教えてもらいました。星座観測が楽しみになりました。

 この4冊で、7040円。ちょっと高い買い物をしてしまったかな、と思いつつ、これから少しずつ読んで、勉強していきます。

 おらあ、理科人間になるだあ

「歴史は繰り返す」のか、「霊が霊を呼ぶ」のか?=倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」

 倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」(SB新書、2021年8月15日初版)なる本が、小生の書斎で、どういうわけか見放されて積読状態になっていたのを発見し、読んでおります(もうすぐ読了します)。

 これが、実に、実に面白い。どうして、積読で忘れ去られていたのかしら? 思い起こせば、この本は、確か、月刊誌「歴史人」読者プレゼントの当選品だったのです! 駄目ですねえ。身銭を切って買った本を優先して読んでいたら後回しになってしまいました。

 この本、繰り返しますが、本当に面白いです。かつての定説を覆してくれるからです。一つだけ、例を挙げますと、長南政義氏が執筆した「新説 日露戦争」です。日露戦争史といえば、これまで、谷寿夫著「機密 日露戦史」という史料を用いた研究が主でした。この本は、第三軍司令官乃木希典に批判的だった長岡外史の史料を使って書かれたので、当然、乃木将軍に関しては批判的です。しかし、その後、第三軍関係者の日記などが発見され、研究が進み、乃木希典に対する評価も(良い方向に)変化したというのです。

 有名な司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」も、谷寿夫の「機密 日露戦史」を基づいて書かれたので、乃木大将に対しては批判的です。旅順攻囲戦でも、「馬鹿の一つ覚えのような戦法で」無謀な肉弾戦を何度も繰り返した、と描かれ、「坂の上の雲」を読んだ私も、乃木将軍に対しては「無能」のレッテルを貼ってしまったほどです。

 しかし、そうではなく、近年の研究では、第三軍は、攻撃失敗の度にその失敗の教訓を適切に学び、戦略を変えて、次の攻撃方法を改良していったことが明らかになったというのです。また、第三軍が第一回総攻撃を東北正面からにしたのは、決して無謀ではなく、「極めて妥当だった」と、この「新説 日露戦争」の執筆者・長南政義氏は評価しているのです。

 また、勝負の分かれ目となった二〇三高地を、大本営と海軍の要請によって、攻撃目標に変更したのは、「司馬遼太郎の小説「殉死」の影響で、児玉源太郎が下したという印象が強いかもしれませんが、実際に決断したのは乃木希典でした。」と長南政義氏は、やんわりと「司馬史観」を否定しています。他にも司馬批判めいた箇所があり、あくまでも、小説は物語であり、フィクションであり、お話に過ぎず、実際の歴史とは違いますよ、といった達観した大人の態度でした。「講釈師、見て来たよう嘘を言う」との格言がある通り、所詮、小説と歴史は同じ舞台では闘えませんからね。

 でも、神格化された司馬先生もこの本では形無しでした。

大聖寺 copyright par TY

 ところで、日本史上、もし、たった一つだけ、代表的な合戦を選ぶとしたら、1600年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」が一番多いのではないかと思います。それでは、日本史上最大の事件を選ぶとすれば、殆どの人は悩みますが、少なくともベストスリー以内に「本能寺の変」が入ると私は勝手に思っています。本能寺の変の後、明智光秀は、中国大返しの羽柴秀吉による速攻で、「山崎の戦い」(1582年)で敗れ、いわゆる「三日天下」で滅亡します。

 関ケ原の戦いが行われたのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、古代から関所が設けられた要所で、ここを境に東を関東、西を関西と称するようになりました。古代では不破道(ふわのみち)と呼ばれていました。そして、山崎の戦いが行われたのは、天王山の麓で、現在の京都府乙訓郡大山崎町です。古代は山前(やまさき)と呼ばれていました。

 この関ケ原と山崎、古代では不破道と山前ー何が言いたいのかといいますと、倉本一宏氏が執筆した「新説 壬申の乱」を読むと、吃驚です。この不破道と山前が壬申の乱(672年)の重要な舞台になった所だったのです。不破道は、大海人皇子(後の天武天皇)が封鎖を命じて、壬申の乱の戦いを優位に進める端緒となりました。そして、山前は、壬申の乱で敗れた大友皇子が自害した場所だったのです。

 何で同じような場所で合戦やら事件が起きるのか?ー「歴史は繰り返す」と言うべきなのか、怖い話、「霊が霊を呼ぶ」のか、何とも言えない因縁を感じましたね。

浅草物語=Aさんと10年ぶりの再会

 25日(日)は、久しぶりに浅草に行って来ました。友人のAさんと10年ぶりぐらいに会うためでした。

 Aさんは日本人ですが、もう長らくフランスに住んでおり、何年に1度か帰国する程度で、今回、久しぶりにタイミングが合ったので、渡仏する前日にお会いすることにしたのです。

浅草寺 雷門

 Aさんとは老舗蕎麦屋で待ち合わせしましたが、時間があったので、一人で観音様にお参りすることにしました。

浅草寺

 日曜日なので、凄い人出でした。でも、ほとんどが外国人観光客という感じでした。コロナの第9波が始まったという報道もありましたが、彼らは、もうほとんどマスクもせずに満喫しておられました。

浅草寺

 でも、考えてみれば、外国人観光客が東京見物するとすれば、浅草ぐらいしかないんですよね。奈良や京都のように広大な敷地を持つ寺社仏閣が東京にはほとんどありませんからね。

 私も以前、外国人観光客のツアーガイドをしたことがありますが、やはり、浅草と秋葉原と銀座ぐらいでした。あとは原宿の明治神宮ぐらいでしょうか。

 だから、浅草に人が殺到するのでしょう。本堂の参拝所の前は、ほとんどが外国人観光客で、かなりの行列でしたので、参拝は諦めて、目的地に向かいました。

浅草 そば処「弁天」天せいろ 1980円

 目的地のそば処「弁天」は昭和25年創業で、江戸時代から続く店もある浅草の中では、それほど老舗ではありませんが、もう70年以上続いています。グルメ雑誌「dancyu」で紹介されていたので、3週間も前に予約を取っておきました。

 天せいろに板わさ、それにビールと日本酒を注文しました。さすがdancyuお勧めとあって、蕎麦の旨味、カラット揚がった天婦羅との相性が抜群で、その美味に舌鼓を打ちました。

 久し振りの再会で、積もる話もあり、調子に乗って呑んでいたら、店の主人が不機嫌そうな顔をして「ここは2時間で制限してます」と言うではありませんか。こちらもそのつもりでしたが、まだ!1時間半しか経っていません。我々も気分を悪くして、勘定を済ませる時に、私が「まだ1時間半でしたよ」と嫌味を言ったら、向こうは「本当は日曜日の予約を取っていないんですよ」と反発するではありませんか! それなら最初から、電話で予約を受けた際に「日曜日は予約受け付けていない」と言えばいいじゃないか! 味は「日本一」で、最高だけど、もう二度とこの店の暖簾をくぐるものか、と思いましたね。(※あくまでも個人の感想です。鬼平ファンのAさんのために、せっかく日本酒と蕎麦の組み合わせで蕎麦屋さんにしたのに残念でした。)

浅草「神谷バー」デンキブラン 350円

 このまま別れるつもりでしたが、気分直しに有名な「神谷バー」に行こうと提案したら、Aさんも「私も行きたかった店です」と言うではありませんか。凄い偶然。その前に、通りすがりにビジネスホテルがあったので、私が当てずっぽうに「(前泊するのは)ここのホテルでしょ?」と聞いたら、ズバリでした。偶然の一致が続きました(やはり、人生とは偶然の産物でした=笑)。

 Aさんは大変慎み深い人で、あまりネットに書かれることは好まれないので、細かい事は省略させて頂きますが、パリ郊外の某大学で、日本語と日本文化の教鞭を執っておられる方です。久しぶりにお会いして、話は脈絡がないほど多岐に渡りましたが、超エリート教育を進めるフランスのグランゼコールの話などを伺いました。

 神谷バー名物のデンキブランは2杯で打ち止めにして帰宅しました。昨年は40度の焼酎で泥酔して帰りは傷だらけとなり、今でもその傷跡が残るぐらいですから、さすがに自重しました(笑)。

フランスとシリアとレバノン

 6月23日(金)は、東京・恵比寿の日仏会館で開催された黒木英充氏による講演会「フランスとシリア・レバノンー幾重にもアンビバレントな関係」を聴きに遠路遥々、わざわざ会場にまで足を運びました。(参加者は、定員の3分の1の50人ほど)

 そしたら、怖い顔をした司会者が「写真を撮るな」「録音、録画は絶対するな」とうるさく上から目線で高飛車に言ってきたので、不愉快になり、ブログに書くのはやめようかと思いました。(ちなみに、おらあ、写真も撮らず、録音も録画もしてねえだ)

 しかし、ロシアのプリゴジンによる勇気ある反乱を見聞してからは、「何をビビってるんだ? 老い先短いくせに、格好付けるんじゃないよ!」という反骨精神が頭をもたげてきたので、前言を撤回して書くことにしました。

写真はこんなもんしか載せられない。日仏会館の目と鼻の先にある恵比寿「ちょろり」 ラーメン650円

 「書く」とは言っても、話の内容が複雑過ぎて、ほとんど持論ばかり展開すると思います。講師の黒木氏は、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(私が学生の頃はAA研と呼ばれていました)教授などを務め、シリア・レバノンに関しては「日本の第一人者」との紹介がありました。何しろ、彼が今年3月にレバノンに行った際、パスポートを確認したら、これが「108回目」のレバノン渡航だと分かったといいます。私は、シリアもレバノンも中東もアフリカも一度も行ったことがないので、ぶっ魂げました。

 今でもあちこちで紛争が続く中東ですから、根底には宗教問題と民族対立があり、一筋縄ではいきません。同じイスラム教でもほとんど敵対しているスンニー派(サウジ、エジプトなど)とシーア派(イランなど)があり、キリスト教でも、カトリック(ローマ)と東方正教会(ロシア、ギリシャ、シリアなど)が対立しながら存続しています。いくら日本の第一人者といっても、わずか1時間半超で、この複雑な宗教・民族紛争を素人にも分かりやすく指南することは、まさに指南、いや至難の業です。

 恐らく、日本人の多くはシリアにもレバノンにも行ったこともなく、ということは一生に一度もシリア人やレバノン人に会ったことはなく、区別もつかないと思います。私もそうです。が、私自身の管見によれば、第一次大戦で負けたオスマン・トルコ帝国の中東アラビアの領土を、英国が南半分、フランスが北半分を分捕って、植民地化、正確に言えば、委任統治した結果が現代の姿だと言えると思います。つまり、大国同士で、勝手に線引きして国境を決めたということです。地中海沿岸の中東の「フランス領」だけに話を絞ると、民族的には同じアラブ人でしたが、フランスの統治者は、特にキリスト教徒が多く住んでいる所(鳥取県ぐらいの広さ)を切り取ってレバノン国とし、残りの大半をシリア国にしたと思われます。

 ですから、シリアもレバノンもアラブ系で、公用語も同じアラビア語を使いますから、区別がつかないと思われます。ただし、シリアではイスラム教徒(スンニー派74%、シーア派13%)が87%を占め、レバノンではキリスト教マロン派が大半を占めているので、服装や食習慣の違いはあり、それで区別がつくかもしれません。

 今、私は「レバノンではキリスト教マロン派が大半を占めている」と具体的な数字を書きませんでしたが、それには理由があります。黒木教授によると、仏委任統治時代の1932年のレバノンには、キリスト教徒が50.0%、イスラム教徒(スンニー派22.4%、シーア派19.6%)が48.8%を占めていましたが、それ以降、90年間も国勢調査をしていないといいます。もし、調査を実施したら必ず政治問題化して紛争が起きるからだといいます。そこで、今のレバノンは、大統領がキリスト教マロン派、首相がイスラム教スンニー派、国会議長がイスラム教シーア派のそれぞれ出身者に取り決めているといいます。

恵比寿「ちょろり」餃子550円 「ラーメンと餃子」という庶民料理が1200円かあ。。。

 私は先に、シリア、レバノンの建国は、第一次世界大戦でのオスマン帝国敗退の混乱に乗じたもの、といったことを書きましたが、実は欧州人が中東を襲ったのは、20世紀が初めてじゃなかったのです。中世の十字軍があったのです。これは、11世紀末から13世紀末にかけて、キリスト教徒が特にイスラム教徒に占拠されたエルサレムの聖地回復を目指して、7回に渡って(8回という説も)軍隊を組織して遠征したことです。最終的にはイスラム勢力の反撃によって遠征は失敗しますが、その間に欧州側は中東にエデッサ伯国やエルサレム王国やアンティオキア公国など「十字軍国家」を建国していたのです。特に、エデッサ伯国を建国したボードワン1世は、十字軍の指揮官だったフランドル伯ボードワンでフランス人でした。その家臣や遠征軍の多くはそのまま土着した者も多く、地元民と混血したりして、中東にはトルコ人、アラブ人、ユダヤ人、アルメニア人だけでなく、欧州人の血も入っているということになります。

 そう言えば、レバノン系で日本人にとって、最も有名な人物はあのカルロス・ゴーンで決まりでしょうが、ハリウッド映画スターのキアヌ・リーブスもそうでした。(レバノンの首都ベイルートは、内戦前までは「中東のパリ」と呼ばれていました)

 シリアの面積は日本の面積の半分ほどの18万5000平方キロメートルですが、人口(2130万人)は地中海沿岸に集中し、内陸部は砂漠というか土漠で作物が育たず、ほとんど人が住んでいないことを黒木教授から教えられました。同じようにシナイ半島もほとんど人が住んでいない(というより住めない?)と聞いて、「へ~」と思ってしまいました。

 講演会では司会者が怖かったので、質問も出来ませんでしたが、後から、「そう言えば、シリア内戦は、アサド大統領側にはロシアがテコ入れしていたはず。ウクライナ戦争の影響でロシアによる支援が止まり、シリア内戦は今どのような状況なのか、質問すればよかった」と思いました。後の祭りでした。

 

背広1着100万円=NHK「世界ふれあい街歩き」ロンドン編

 以前は、全くといっていいぐらい、ほとんどテレビは見なかったのですが、最近では結構見るようになりました。もっとも、「見る」とはいっても、大抵はナマではなく、ビデオ録画したものですが。

 よく見る番組は、やはり、大半は歴史ものか、旅行ものです。特に好きな番組は、NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組です。この番組は、カメラを旅人目線に設置して、世界中の有名、無名の街を、まさに地元の人と触れ合いながら旅をする1時間の番組です。途中で、博物館の館長らが出てきて、その土地の歴史を説明してくれたり、くさい演技をする地元の女子大生がその土地の名物グルメを紹介したりするコーナーもあり、毎回、パターンは同じですが、結構知らないことばかりなので楽しめます。

 BSだけでなく、地上波でも再放送したりしているので、私なんか、30分ぐらい見て、やっと初めて、「あっ! 前に見たことがある!」と気付いたりします。(随分、加齢力が付いてきました。)

 番組では、街で偶然すれ違った人に声を掛けると、「ウチにいらっしゃい」と自宅に招待してくれたり、朝出会った人が、夕方に偶然にパブや劇場などで再会したり、何処かで音楽が聴こえる、と思って近づいたら、偶然、午前中に一度会った人がバグパイプを吹いていたりするような同じパターンが、毎回、毎回、様式美のように繰り返されます。

 それにしても、あまりにも「偶然」があり過ぎます。さすがに、最後のテロップで「コーディネーター」の肩書の人が登場したりするので、「偶然」ではなく、かなり事前からちゃんとアポイントを取っているのは確実で、偶然を装って、演技をしてもらっていることが容易に想像できます。そりゃそうでしょう。いきなりカメラを持った日本人が、顔の目の前にやって来たりしたら、誰でも怪しむはずですよ。

 先日は「格式高きクールな街 ロンドン メイフェア&ソーホー」というタイトルで、ロンドン一の高級住宅街を特集しておりました(再放送か再々放送)。メイフェアは、May fair で、17.8世紀に、ここで5月にマーケット(定期市)が開かれたことから付けられたそうです。昨年逝去したエリザベス女王(2世)もこのメイフェアの祖母の家で生まれたといいます。

 高級住宅街ですから、王室御用達の店も立ち並びます。特に有名なのは、日本語の「背広」の語源になったとも言われるサヴィル・ロウ地区です。この辺りに十何軒か洋服仕立て屋さんがありますが、番組では「偶然に」入った店が「ヘンリー・プール」Henry Poole という店でした。数ある洋服店の中でも最古の老舗らしく、1806年創業です。首相を務めたウィストン・チャーチルが若い頃から贔屓にしていたといわれ、今でも彼の顧客名簿と型紙が残っていました。調べてみたら、フランスのナポレオン三世まで海を越えて愛用したようです。ナポレオン三世の写真を見たら、以後は、「おっ?あの服はヘンリー・プールかな?」と考えるようにします(笑)。

 番組では、この店の支配人らしき人にインタビューしておりましたが、驚いたことに、背広1着のオーダーメイド代が6000ポンドから、日本円にして100万円からというので魂げてしまいましたよ。支配人は「20年は持ちますから、それほど驚くべき価格ではありません」と胸を張っておりました。

 もう一つ、たまたま通りすがりにあった会員制の社交場「ジェントルマンズ・クラブ」も紹介されていました。室内には宮殿のような豪華な調度品が並ぶ邸宅は、もともとは銀行家のJPモルガンのロンドンの自宅だったといいますから、これも驚くばかりです。ここの会員になるには、6人の会員からの推薦がなければならないのですが、年会費は「意外に安く」、1600ポンド(27万円)だと言っておりました。

 これまたヤラセ、おっと失礼、偶然にも、室内で3人の紳士会員が談笑しておりましたが、3人とも全員、恐らく、ヘンリー・プールで誂えた100万円の高級スーツを身に纏い、「ここでは服装規定dress code はありませんけど、それなりの格好をしなければ…」と、穏やかにクイーンズ・イングリッシュで応答しておりました。

 下衆な勘繰りではありますが、会員の皆様方は一体、どんな話をされるんでしょうか? 恐らく、天下国家や株やファンドの値動きやウクライナ戦争の話なんかでしょうか? ジャーナリストの会員さんもおりましたが、まさか、英オーディション番組で決勝進出した、とにかく明るい安村や広末涼子の話なんかしないことでしょうね。

生物は意味もなくただ生き延びるのが目的か?=ダーウィンの「種の起源」余話(続)

 昨日は、ダーウィンの「種の起源」の余話として、「人生は偶然か、必然か?」を書きましたが、まだ書き足りないことがありました(笑)。

 恐らく、この《渓流斎日乗》ブログを長年、欠かさずお読み頂いている方は、それほど多くはないと思いますが、何で、この人(主宰者=執筆者)は、脈絡もなく、乱読しているのか、と思われているのではないかと思っております。

 勿論、年を取っても、辛うじて知的好奇心を保っている、ということもありますが、私自身、これまでの人生経験からどうしても知りたい、分析したいと思ったことがあったからなのです。それは、どうして、ヒトはこうも厄介な人間が多くて、無神経で図々しく、簡単に人を裏切ったり、黙殺したり、誠意がなかったり、自己主張が強かったり、自己保守に走ったり、他人を蹴落としてでも成り上がろうとするのか? 放送禁止用語を敢て使えば、奇人、変人、狂人のオンパレード。偽善者と詐欺師ばかりではないか、といった素朴な疑問でした。

 歴史を勉強して偉人から平民に至るまで研究してみてもよく分からない。法華経や密教などの宗教書を読んでもよく分からない。そこで、自然科学からアプローチしてみたらどうか、ということで、古生人類学から生物学、はたまた宇宙論から進化論に至るまで関連書籍を乱読してみました。

新富町「中むら」天麩羅定食1100円

 それで、何となく分かったことは、自然科学からのアプローチでは、人生には意味も目的もない、ということでした。生物は、ただ「生き延びる」ことだけが目的で、その間に、壮絶な生存闘争が行われ、自然淘汰で絶滅する生物は、二度と復活しない。だから尚更、生物は、種の生き残りに全生命、全生涯を懸けるわけです。

 生き延びるためには手段を選びません。戦争や紛争などの大掛かりなものから、個人的な他者排斥、裏切り、寝返りまであります。ということは、現在生き残っている生物=人間は、それらの闘争に勝ち残った子孫であることは間違いありません。つまり、裏切ったり、寝返ったりした子孫でもあるわけです。となると、DNAの中に、闘争本能と寝返りと日和見と虚言僻が引き継がれているわけです。

 残念ながら、現代人の中で、生存闘争本能と裏切り精神と虚言癖がない人間はいません。ない人間は子孫を残せず、裏切られた人間は自然淘汰され、絶滅しているからです。絶滅した人種は二度と復活しません。

 となると、人間と付き合う際は、相手が大ウソつきで、隙を見せれば高飛車に出てきて、飽きたら、つまり利用価値がなくなれば関係を絶つ、というのが自然だと思えばいいのかもしれません。それが、人間の自然な姿だと思えなければ、その人は淘汰されますね。絶滅街道まっしぐらです。

 でも、その一方で、ひょんなことで、突然変異した人類も少なからずいるのかもしれません。その人は、正直で、自己犠牲を厭わず、誠心誠意、他者に尽くす人です。利他主義者です。ただし、そういったDNAは一代限りでしょうね。少なくとも、ダーウィン理論に従えば。

 ただし、ダーウィン理論も含めて、これらは実験によって実証されたわけではありません。ですから、もともと、人間は、汚れのない善人として生まれてきて、悪に染まっただけという「性善説」も考えられます。自己犠牲を厭わない利他主義が本来の人間の姿だというのが正しい、という考え方です。

 でもねえ、と私なんか思います。実際、手痛いしっぺ返しに遭ったりすると、人間は生まれながら悪党、というのが言い過ぎだとしたら、他者を排斥してでも生き残りを図る「性悪説」の方を信じたくなります。私の個人的な人生体験から、その方が合点がいきます。

 老若男女関係なく、ややこしい人間がいれば、「そっかー、そいつは手練手管を使って生き延びた悪党の子孫なのか」「そんな悪に染まったDNAの乗り物なのかあ」と思えば気が楽です。ですから、彼や彼女だけが悪いわけではありません。悪いのは遺伝子です。悪党の遺伝子を受け継いで、たまたま現代人という姿形として現れているだけです。彼や彼女は、生物学的に複雑に絡み合ったDNAが表出しているに過ぎない。そのうち消え失せ、また同じようなヒトが再生される。そう思えば、どんなに救われることか。。。。

 えっ? あまりにも悲観的過ぎますか?

 それなら、どなたか、強烈な理論とエビデンス(具体例)で、「人間=性善説」を解き伏せてほしいものです。

人生は偶然か、必然か?=ダーウィン「種の起源」余話

 ダーウィン「種の起源」の余話です。

 6月16日の渓流斎ブログで、「『種の起源』を読まずして人生を語ることができない。」という同書を翻訳した渡辺政隆氏の言葉を引用させて頂きました。極論しますと、人生とは、必然ではなく、偶然の産物で、運命もない。生存闘争と自然淘汰の末、何世代にも渡って変異が重なり、進化していくーというのがダーウィンの考え方になります。

 これに対する「反ダーウィン主義」となると、この正反対の考え方ということになるでしょう。つまり、人生とは偶然ではなく必然で、あらかじめ、宿命によって決められている。その線で行きますと、運勢や占いは信じられる、ということになります。

 一体、どちらかが正しいのでしょうか???

 私自身は、「種の起源」を読む前は、人生とは、遺伝が6割、運が2割、縁が2割だと思っていました。単なる当てずっぽうです(笑)。これまで人生経験からそう思わせるものがあった、というだけです。ですから、この比率は変わります。時には、遺伝が8割、運が1割、縁が1割だと思うことがあります。でも、運や縁の比率が遺伝のそれを上回ることはありません。人生の大半は遺伝によって左右されるという考え方です。蛙の子は蛙です。

 英語の格言に、nature or nurture  があります。人は遺伝によって決まるのか、それとも育った環境によって決まるのか、という意味です。日本語で言えば、「氏か育ちか」です。上述したことを真似しますと、氏が6割、育ちが4割という印象になりましょうか。これはケースバイケースで、例えば、最近「世襲制」だの「ファミリービジネス」などと大いに批判されている政界なら遺伝が9割、育ちが1割でしょう。首相公邸でおふざけパーティーなんか開いたりすると、育ちが審査され、世襲議員になれるかどうか危ぶまれます。

 芸能界、特に梨園の世界ともなると、氏が10割です。幹部になれるのは世襲のみです(養子になれば別ですが)。国立劇場の研修生では主役は張れません。

日比谷

 話を元に戻しますと、動物行動学者リチャード・ドーキンスが1976年に発表した「利己的な遺伝子」は衝撃的でした。私的には、ダーウィンの「種の起源」よりも衝撃的でした。特に、「生物は遺伝子DNAに利用される乗り物vehicle に過ぎない」という一言に還元される言葉です。こうなると、人生を左右するのは、100%遺伝子DNAです。生まれた時から全てプログラミングされて宿命だけ背負わされます。偶然なんかありません。闇バイトに手を出して強盗犯になったのも、偶然ではなく、遺伝子に組み込まれていたことになります。

 本当かなあ? もう一度、自問します。

 人生は偶然か、必然か? 

 人生は育ちか、生まれか?

 管見によれば、あれかこれかの二者択一でも二元論でもなく、やはり、折衷なのではないかと思っています。人生とは偶然であるが、因果応報の必然もある。人生は氏素性で左右されるが、人一倍の努力で運命を開くことが出来る。ーそう思わなかったら、やり切れないのではないでしょうか。人間は、単なるDNAの運搬人で、両親や祖父母や曽祖父母たちと全く同じことを繰り返すことだけが人生だとしたら、つまらなくて生き甲斐もなくなってしまうでしょう。(商家や職人さんなら違うかもしれませんが。)

 つまりは、考え方次第なのでしょう。

 例えば、経験者なら分かるでしょうが、それが「運命の出会い」と確信しなけりゃ、結婚なんかできないでしょう(何が起きても責任取れませんよ!=笑)。

 今、東京都美術館で、20年ぶりにアンリ・マチス(1869~1954年)の大回顧展が開催されています。このマチスは若い頃、野獣派の旗手として、色彩の魔術師として大活躍しますが、晩年になって病気を患い、身体が不自由になります。それでも最後の力を振り絞って、南仏の小さなヴァンス村のロザリオ礼拝堂の建築設計から内部のステンドグラス、壁画に至るまで完成させます。それは、入院した時に看病してくれた看護師が後年になって、修道女となり、マチスに会って、教会の再興を御願いしたことがきっかけでした。マチスは、看護師と修道女が同一人物だったことに驚き、「偶然」ながら、そこに「運命」を感じて仕事を引き受けたといいます。つまり、運命(を自覚すること)は、人に行動を起こさせる動機づけになることは確かです。

 これを機会に、皆さんも人生について、色々と考えてみては如何でしょうか? ただし、ダーウィンの「種の起源」を読んでからですよ(笑)。

 

生物に運命なし、全ては偶然の産物=ダーウイン「種の起源」を読了

 「わーお、やったーー」。通勤電車の中で一人、心の中で快哉を叫んでしまいました。ダーウインの「種の起源」(渡辺政隆訳、光文社古典新訳文庫)をついに、やっと読了出来たのです。ハアハアと3000メートル級の高山を登頂できた爽快感と疲労感が入り混じったあの感覚が押し寄せて来ました。

 「種の起源」は1859年11月24日に初版が発行され、ダーウインはそれ以降、13年間も地道に改訂作業を続け、1872年2月に「第六版」まで出版しました。訳者の渡辺氏によると、ダーウィンと言えば直ぐに連想できる「進化」evolution という言葉は、この最後の第六版になってやっと出て来た言葉だといいます。(それまでは「変異を重ねて来た」といったような表現。)また、ダーウィン主義のキーワードとなる「適者生存」も、1869年の第五版になって初めて登場したといいます。「進化」も「適者生存」も社会学者のハーバート・スペンサーが命名した造語でした。

日比谷公園

 いわゆるダーウィンの進化論は、今や定説になっていて疑問の余地はないと私は思っていましたが、今でも、キリスト教原理主義者だけではなく、科学者の中でも反ダーウィン主義者がいるとは驚きでした。訳者の渡辺氏も「あとがき」の中で、同氏が1970年代の前半、大学の生物学の最初の授業で、高名な教授から「ダーウィンの『種の起源』は読む必要もない。あそこに書かれているのは嘘ばかりだから」と聞かされたといいます。

 ダーウィンの進化論とは、一言で言えば、「全ての生物は共通の祖先から進化してきたという考え方」で「生物の進化は世代交代を経た枝分かれの歴史であって、一個人が進化することはありえない」ということになります。しかし、「種の起源」は決して読みやすい本ではなく難解のせいか、正しく読まれずに、ダーウィンの業績も正しく評価されないまま、学界で論争を生んだのではないか、と訳者の渡辺氏は書いております。

 なるほど、そういうことでしたか。「種の起源」の最後は「実に単純なものから極めて美しく素晴らしい生物種が際限なく発展し、なおも発展し続けているのだ。」という文章で終わっています。「種の起源」第六版を出版した時のダーウィンは63歳になっていました(その10年後の73歳没、ニュートンやヘンデルら著名人が眠るロンドンのウエストミンスター大寺院に埋葬)。

内幸町

 この難解の書物を私自身、どこまで理解できたのか心もとないのですが、読破できたことだけは自分自身を褒めてあげたいと思っております。「種の起源」を読まずに進化論を語る勿れですね。

 訳者の渡辺氏も「解説」の中でこう書いています。

 進化の起こり方は、常に偶然と必然に左右され、行方が定まらない。あらかじめ定められた運命など存在しないのだ。生存することの意味を問う中で虚無に走るのは容易い。しかし、偶然が無限に繰り返された結果として人生は存在するという考え方には荘厳なものがある。「種の起源」を読まずして人生を語ることができない。

 これ以上、付け足すことがないほどの名言です。

 

 

これが世間の実体、実相だ=マンション・ゴミ捨て騒動

 マンションの掃除のパートをしている知り合いの遠藤さん(仮名)から頭の痛い嫌な話を聞いてしまいました。

 50歳も過ぎると、なかなか再就職が難しいことは体験者なら分かるはずです。終身雇用を廃止して、転職を推奨する学者もマスコミも、何も分かっていません。儲かるのは、政商が会長を務めていた人材派遣会社や転職紹介会社だけなのです。

 遠藤さんも、社内のパワハラ上司とウマが合わず、思い切って退職しましたが、次の転職先がなかなか見つかりません。3カ月もの就職浪人の末、結局、マンション掃除人のパートがやっと決まりました。応募が殺到していて、3倍の難関を突破して採用されたといいます。募集元は、テレビでもよく宣伝する有名な不動産仲介管理会社です。

 散々苦労してやっと決まったので、彼はかなりのプライドを持って真面目に仕事に取り組んでいます。「掃除人だと人は皆、馬鹿にするけど、なくてはならない仕事ですよ。俺たちがいなくなったらどうなると思いますか? 俺たちは縁の下の力持ちというか、政治家さんよりも余程偉いと思っていますよ」と言うのが彼の口癖です。確かにその通りです。

 彼が担当しているのは某駅から数分の一等地に建つマンションですが、ワンルーム・マンションなので、全員独身者です。それなのに、ある日、小学校4年生ぐらいの女の子がマンションの住民用のゴミ置き場にゴミを捨てに来ました。そう言えば、ここ半年以上、「ゴミの日」ではないのに、ゴミが置いてあったり、キチンと分別しないで、そのまま乱雑に捨てられたゴミを目にするようになり、気になっていました。駅近の高級マンションなので家賃も高く、居住者は一流企業にお勤めの富裕層とみられ、ゴミのルールは守る人ばかりだったので、不審に思っていたところでした。仕事はパートの午前中だけなので、それまで怪しい人物と出食わすことがなかったのです。

 遠藤さんは、その女の子を捕まえて、「ここは、ここに住んでいる人だけだから、駄目だよ。ここに捨てろと言ったのは誰なの? えっ? お母さん? それなら、今日だけは許してあげるけど、今度から受け付けないからね。帰ったらお母さんに言っておいてね。ここは監視カメラが付いているから、隠れて捨てても駄目だからね」

 彼としては、優しく、かんで含めて、説諭したつもりでしたが、それから5分も経たぬうちに、女の子の母親らしき女が血相を変えて、まくし立ててきたというのです。

 「あんた、ウチの子に何言ったのよ。泣きじゃくって、帰ってきたじゃない。怖いおじさんに怒られたって! ウチはね、前からここに捨てて良い、とC(例の有名な不動産仲介管理会社)から言われているのよ。娘を脅迫するつもり? こっちは間違ったことなんかしていないのに、あんた何様なのよ、一体。冗談じゃないわよ。たかが、掃除人のくせに。あんた、名前何て言うの? Cに言って、やめさせてもらうわよ」

日比谷

 「全く、取り付く島もない、とはこのこと」と遠藤さんは後から振り返って言いました。彼の説明によると、女の住む低層集合住宅の1~2階は保育園になっていて、3階に居住している住民は3軒だけ。集合住宅のゴミ捨て場は、保育園専用になっていて、居住している3軒は、自治会にも入っていないので、そこには捨てられない。そこで、不動産仲介管理会社は、そこから50メートルも離れた遠藤さんが掃除を担当しているマンションのゴミ捨て場にゴミを捨ててもいいよ、と居住している3軒の住人に許可していたというのです。保育園とマンションの土地(建物)のオーナーは、同一人物だったからです。

 しかし、不動産仲介管理会社は、遠藤さんに一言もその「事実」を知らせていませんでした。1年前からそういう状態になっているにも関わらずです。一言あれば、「ああ、また、あの3軒の住人の誰かがが来たのか。ゴミ分別もしないけど、仕方ないな」と彼も納得したといいます。

 心優しい遠藤さんは、散々、モンスターペアレントみたいな女にこっぴどくどやされて、落ち込んでしまい、その日は夜も眠れなかったといます。

 悪いのは、連絡怠慢の大手の不動産仲介管理会社ですが、謝罪もなく、孫請けの人材派遣会社の担当者から遠藤さんに電話で一言、「それは大変でしたねえ」と慰めの言葉があっただけだったそうです。

【追記】

 町内会や自治会に入会する義務はありませんが、デメリットとして、町内会や自治会が管理するゴミ捨て場にはゴミは出せないといいます。不動産仲介会社ならそれぐらいの法律は知っているはず。遠藤さんが担当するゴミ捨て場は、マンションの住人が自治会費を支払って設けられたものだからです。となると、遠藤さんは、自治会費を払っているマンションの住人のためにゴミ捨て場を掃除し、その見返りに給料をもらっているようなものです。テレビで宣伝する有名不動産仲介管理業者も酷い会社だなあ。違法スレスレじゃないのかなあ。。。その後、遠藤さんは例のモンスター女と会ったのかどうかは、聞いていません。

🎬小津作品を観たくなります=平山周吉著「小津安二郎」

 今、話題になっている平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を読んでいます。同時並行で他の本も沢山読んでいますので、乱読です。

 巨匠小津安二郎(1903~63年)に関しては、様々な多くの書籍がこれまで出版され、いわば出尽くされた感じでしたが、それでもなお、この本では今までとは違った視点で描かれている(山中貞雄監督との関係や、円覚寺の墓石にかかれた「無」の揮毫は本人の遺志ではなかったことなど)ということで、多くの書評でも取り上げられ、脚光を浴びています。また、今年はちょうど小津没後60年の節目の年ということもあります。

 没後60年が何故、節目の年かと言いますと、小津監督自身、今ではとても若い60歳で亡くなっているからです。晩年の写真を見ると、80歳ぐらいに見えますが、まだ60歳だったとは驚きです。あれから60年経ったということで、今年は小津生誕120年ということにもなります。

 著者の平山周吉氏は、いつぞやこの渓流斎ブログで何度も取り上げたあの「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)の著者でもあります。文芸誌の編集長も務めた経歴の持ち主で、古今東西の古書を渉猟して調査研究する手法は、この本でも遺憾なく発揮されています。

 でも、正直言わせてもらいますと、異様にマニアックで、重箱の隅の隅まで突っついている感じがなきにしもあらずで、逆に言えば、マニアックだからこそ出版物として通用するといった感想を抱いてしまいました。

 とは言っても、私は小津安二郎が嫌いなわけではありません。彼がこよなく愛して通った東京・上野のとんかつ屋「蓬莱屋」には今でも通っているぐらいですからね(笑)。世界の映画人やファン投票で、代表作「東京物語」が何度も世界第1位に輝き、私も「東京物語」だけは、10回ぐらいはテレビやビデオで見ています。1953年公開ですから、劇場では見ていませんが。。。(遺作となった小津作品は「秋刀魚の味」ですら1962年公開ですから、小津作品を封切で映画館にまで足を運んで観たのは戦前生まれか、私の親の世代ぐらいではないでしょうか。)

 でも、この本を読んでみて、私自身は、小津作品をほとんど観ていないことが分かり、観ていないと何が書かれているのか分からないので、慌ててDVDを購入して観たりしています。

 早速、観たのは、1949年度のキネマ旬報の1位に輝いた「晩春」と、遺作になった62年の「秋刀魚の味」です。そしたら、あれ?です。何という既視感!

 男やもめの初老の父と年頃の娘がいて、老父は娘が行き遅れ(差別用語で、行かず後家)にならないか心配しています。娘はお父さん大好きで、いつまでも身の回りの世話をしてあげたい。老父は、痛し痒しで、それでは困る。結局、周囲からの縁談を進めて、最後は娘のいなくなった家で、老父は寂しく感慨深気な表情でラストシーンとなる。。。

 「晩春」「秋刀魚の味」ともに、この老父(とはいっても56~57歳)役が笠智衆。行き遅れになりそうな娘(とはいっても、まだ24歳)役は、「晩春」では原節子、「秋刀魚の味」では岩下志麻です。両作品とも、結婚相手は最後まで登場せず、名前だけ。自宅での花嫁衣裳姿は出てきますが、式や披露宴の場面はなし。うーん、同じようなストーリーといいますか、「晩春」から13年目にして、ワンパターンと言いますか、歌舞伎の様式美のような同じ物語が展開されます。それで、デジャヴュ(既視感)を味わってしまったわけです。

 特に老父役の笠智衆(もう40代から老人役を演じていた!)は、意識しているのか、あの独特のゆったりとした台詞の棒読み状態の中で、いぶし銀のような深い、深い味わいを醸し出しています。(「そおかあ、そうじゃったかなあ~」は夢にまで出てきます。)

 小津作品のほとんどがホームドラマと言えば、ホームドラマです。特別な悪人は登場せず(嫌な奴は登場します=笑)、露骨な煽情的な場面もなく、何処の家庭でも抱えそうな身近な問題をテーマにしています。どちらかと言えば、お涙頂戴劇か? 共同脚本を担当した野田高梧の台詞回しは、至って自然で、フィクションではなく、いかにも現実に有り得そうな錯覚に観る者を陥れますが、実生活では、最後まで独身を貫いて家庭を持たなかった小津が、何故ここまでホームドラマに拘ったのか不思議です。この本はまだ半分しか読んでいないので、最後の方に出てくるかもしれませんが、原節子との噂の真相も書いていることでしょう。

  ああ見えてファッション好きで、全く同じ色と柄の服を何着も揃えているとか、酒好きで知られ、行きつけの店は今でも「聖地」になっているとか。 ーこのように、小津安二郎という人が映画監督の枠を超えて、人間的に魅力があったからこそ、世界中の人から愛され、特にヴィム・ヴェンダース監督を始め、超一流のプロの映画人にも愛されたのではないかと私は思っています。日本的な、あまりにも日本人的な小津作品が、海外に通じるのも、人間の感情の機微に普遍性があるからでしょう。

 ところで、「秋刀魚の味」で、どこの場面でも秋刀魚が登場せず、少なくとも、何のキーポイントにもなっていないので、何でだろうと思って、この本の当該箇所を読んでみましたら、著者の平山氏は「『秋刀魚の味』は鱧(はも)と軍艦マーチの映画だ」なぞと書いておられました。恐らく、そう言われても、「秋刀魚の味」を御覧になっていない方は、よく分からないかもしれませんけど、確かにそうでした。そして、「秋刀魚の歌」で一躍有名になった詩人の佐藤春夫とその親友の谷崎潤一郎について触れ、文学少年だった小津安二郎は、二人の作品を全集などで読んでいるはずで、かなりの影響を受けていることも書いておりました。

 先ほど、この本について、「異様にマニアックだ」などと失礼なことを書いてしまいましたが、このように、ここまで各作品の細部について、解明してくれれば、確かに、「小津安二郎伝 完全版」と呼んでも相応しい本かもしれません。

 【追記】

 (1)著者の平山周吉の名前は、小津安二郎の代表作「東京物語」で笠智衆が演じた主役の平山周吉から取られたといいます。それだけでも、筆者は熱烈な小津ファンだということが分かります。

 (2)「秋刀魚の味」では、やたらとサッポロビールとサントリーのトリスバーが出てきます。「提携(タイアップ)商品広告」と断定してもいいでしょう。「ローアングル撮影」など小津安二郎を神格化するファンが多いですが、私は神格化まではしたくありませんね。ただ、小津作品は、歴史的遺産になることは確かです。映画を観ていて、パソコンやスマホどころかテレビもなかった時代。冷蔵庫も電話も普通の家庭にはなかった時代を思い出させます。文化人類学的価値もありますよ。