1%の富裕層のための新自由主義=ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」を「100分de名著」が取り上げています

 目下、NHKのEテレで放送中の「100分de名著」の第130回「『ショック・ドクトリン』ナオミ・クライン」は頗る面白いので、皆さんと共有したいと思いました。6月12日(月)に第2回が放送されますが、同日に第1回の再放送もあり、見逃した方は、最初から見ることが出来ます。

 実は、私自身はこの名著を読んだことがなかったので、全く期待していなかったのですが、何となく見始めたら、すっかりハマってしまったのです。

 「ショック・ドクトリン」はユダヤ系カナダ人のジャーナリスト、ナオミ・クラインが2007年9月に発表したノンフィクションです。一言でいえば、シカゴ大学の教授でユダヤ系経済学者のミルトン・フリードマンが提唱した「新自由主義」に対するアンチテーゼで、彼女はフリードマンの経済政策を「惨事便乗型資本主義」と批判しているのです。

 番組の解説者として出演しているジャーナリストの堤未果氏によると、ショック・ドクトリンのショックとは、戦争やパンデミック、自然災害、テロといったことを指し、大衆がこのようなショックで正常な判断を失っている間隙を縫って、新自由主義者たちが次々と表向きは都合の良いように見せかけながら、自分たちだけが利益になるような政策を誘導していくことだといいます。一言でいえば、「火事場泥棒」ということで、実に分かりやすい表現だと思いました。

 新自由主義たちが為政者たちに「市場原理こそ全てだ」と言いくるめて、まずは①「規制緩和」に誘導させ、続いて、公共事業を次々と②「民営化」させる。最終的には③「社会福祉の制限」が目的となります。当然、貧富の格差は拡大しますね。堤氏によると、民間企業なら利潤があげられなければ、簡単に逃げられるが、公共団体は、綻びが出たからといって撤退できないといいます。つまり、例えば、2007年に財政破綻した北海道の夕張市は、撤退することが出来ず、国の管理下で借金を返済し、結果的に若者が離散して超高齢化と人口減少という現実があります。そうかと言えば、ハゲタカのようなファンドが、企業を乗っ取り、甘い蜜を吸いつくしてから、高額な金額で転売して逃げ去る構図と似ています。

 私は昔から、誰が世の中を動かしていて、誰が額に汗水たらさずに儲けて楽をしているのか、といった「世の中のからくり」について興味があり、ずっと知りたかったので、この本には目を見開かせられます。

 「ショック・ドクトリン」では、1973年、米CIAの工作員の力を借りてアジェンデ社会主義政権をクーデターで倒したチリのピノチェト将軍による独裁を振り返っています。ピノチェトは、1万3500人の市民を拘束し、数千人に拷問をかけて「ショック」を与え、1950代にシカゴ大学に留学してフリードマンから薫陶を受けた「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれた経済学者らに経済政策の指揮を執らせ、国営企業を次々と民営化して外国企業=つまりは米国=を参入させます。その結果、1974年のチリのインフレ率は375%に上り、パンの価格が高騰し、安い輸入品のお蔭で国内の企業が低迷し、失業率も増大します。

 その一方で、富裕層の収入は、アジェンデ政権時と比べて83%も増大したというのです。

 このほか、「英国病」と呼ばれて景気低迷していた1980年代の英国。サッチャー政権も支持率が25%と低迷していましたが、サッチャー首相は、フォークランド紛争という「ショック」を利用して、事業を民営化して景気回復を図り、支持率を59%に伸ばしたといいます。その一方、富裕層に対しては優遇政策を取ったといいますから、フリードマン流の新自由主義です。

 番組では、堤氏は「日本にもシカゴ・ボーイズ(フリードマンの影響を受けた経済学者や政治家)はいます」とキッパリ言ってましたが、具体的にどなたなのかは口を噤んで、言いませんでした。ズルいですねえ。まあ、誰かは想像はつきますが(笑)。

 でも、穿った言い方をすれば、政治の世界は「善か悪」とか「正しいか、間違っているのか」の世界ではなく、結局は、「強いか、弱いか」の世界です。民主主義なら、数が多いか、少ないかの世界です。権力を握った者=恐らく富裕層=が好き勝手な政策をできるわけです。

 だって、フリードマンの新自由主義は、1%の富裕層にとっては、救世主のような正しい善の政策になるわけですからね。

 思えば、日本人は、自分が貧困層だという自覚が全くないから、多くの人が富裕層を優遇する政党に投票しているわけで、勉強が足りないといいますか、自業自得になっているわけですよ。

暴露好きの弱い人間の部分につけこむ野心的商売=ガーシー元議員について

 昨晩は、出版社を経営する旧友と久し振りに再会し、東十条の「たぬき」で一献を傾けました。

 コロナの影響で、彼と会うのは1年ぶり、いや数年ぶりかもしれません。記録を取っていないので覚えていませんけど(笑)。当然ながら、「出版不況」の話となり、彼が若い頃に入社したマキノ出版が先月、事実上倒産してしまった話が中心となりました。「壮快」「安心」などの健康雑誌がかなり売れて、自社ビルを建てた話を聞いていたので、驚きました(経営権は、違う会社に譲渡し、雑誌発行は続ける見込みのようですが)。

 彼は長らく、雑誌「特選街」の編集者として活躍し、会社が絶頂期の時に退社して独立しましたが、残っていた人は、恐らく、ほとんどが解雇されるようで、これからが大変です。

 マキノ出版を創業した牧野武朗氏は10年程前に他界されましたが、講談社の「少年マガジン」や「週刊現代」の編集長を務めていた方だと彼から聞いて、初めて知りました。出版業界はやはり、ワンマン社長が亡くなると、途端に競争の荒波に揉まれる厳しい業界で、マキノ出版もその御多分に漏れなかったということになります。

 ただ、出版業界が低迷した原因は、やはり、インターネットの影響だということは間違いないでしょう。新聞業界も放送業界も同じことが言えます。つまり、新聞、出版、放送業界の屋台骨を支えている米櫃である「ドル箱」の広告がほとんどネットに移行してしまったことが敗因なのです。ネット広告の売り上げは、ラジオ広告を追い抜き、新聞広告を抜き、出版を追い抜き、ついに2019年にはテレビを追い抜き、「王者」として君臨するようになりました。

 しかし、悲しいことにネット情報は、発信者がズブの素人だったりして信頼性に欠けます。それなのに、時間や場所に拘束されずに、テレビ以上に無尽蔵の情報を垂れ流しすることができます。スマホがあれば、いつでも何処でもアクセス出来ますが、その人が興味を持ちそうな広告がアルゴリズムによって割り出されて、個人に直撃してきます。こんなピンポイント攻撃はないでしょう。広告費の後ろ盾となるテレビの視聴率などという曖昧な数字は、もう田舎芝居みたいなもんです。

 ◇ガーシーとは何者か?

 そして、また、残念なことに、人間というものは、信頼性に欠けるトンデモナイ情報に飛びつきがちです。その典型が、先日、UAEから護送されたガーシー元議員(本名東谷義和)容疑者(51)でしょう。私自身は、彼が開設した暴露系のYouTubeチャンネルを一度も見たことがないので、今回の事件について、新聞を読んでも、何が問題なのか、さっぱり分かりませんでした。

 そしたら、元朝日新聞のドバイ支局長の伊藤喜之さんという方が、「悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味」(講談社+α新書)という本を出版され、ガーシー元議員について、詳細に論じていることを知りました。

 ガーシーとは何者か? その本では、ガーシーの生い立ちから、彼の黒幕、それに、警察に追われた動画制作創業者、王族をつなぐ元赤軍派、元バンドマンの議員秘書ら日本に何らかの遺恨を持つ相棒たちまで登場し、大変面白そうな本なので購入しようかと思いました。何しろ、著者の伊藤氏は、朝日新聞の「事なかれ主義」に嫌気がさして、天下の朝日を退社してしまった人ですからね。新聞は「建て前主義」で「本音」はなかなか書けないので、伊藤氏は上司と衝突したようです。

 確かに、新聞やテレビの報道を見ていても、私自身は、この事件の真相がさっぱり分からないのです。だって、警察に被害届を提出している有名俳優や実業家は、もう既に広く知られてしまったというのに、新聞報道は頑固にも固有名詞の名前を出さないんですからねえ。この事件は、ガーシー元議員がたった一人でやった行為ではなく、裏で多くの人間が関わっていることが何となく分かっておりましたが、この本を読めばはっきりするはずです。

 そこでネットでこの本を購入しようと思い、検索したら、普段はまずめったに読んだりしないのですが、購入者のレビューやコメントが目に入って来たのです。その中で、どなたか分かりませんが、こんなコメントをされているのです。

 「著者の文章も、ガーシー以下取材対象者たちも全く魅力を感じず、なんでこんな奴らが話題になるのか全く理解に苦しむ。終始無視して話題にすべきでない。勿論全く読む価値ないし、焚書が適当。。」

 かなりの暴言ではありますが、私はこの方の主張がスッと胸に降りて来てしまったのです。この本のタイトルはまさしく「悪党」です。複数の悪党の素性が明かされて、事件の真相が分かったような気になる自分自身が恥ずかしくなってきました。相手の罠にハマるようなものです。とにかく、暴露してページビュー(PV)を稼ぐのが奴らの戦略だからです。著者も正義感に駆られて朝日を退社したようですが、逆に、向こうに取り込まれて、「ミイラ取りがミイラになった」様相に見えなくもありません。

 やはり、「無視するのが一番」ということで、この本の購入はやめにすることにしました。何度も書きますが、YouTubeのPVとやらで、短期間で1億円以上もの大金が稼げるシステム自体がおかしいのです。となると、話題にすること自体もおかしい、ということになります。話題に乗ることは、罪に加担するようなものです。そう認識しました。

藤井七冠が歴史的快挙達成、しかし…

 将棋の藤井聡太さん(20)が先日、渡辺明名人から名人を奪取し、竜王、王位、叡王、棋王、王将、棋聖と合わせて七冠を手にしました。1996年に羽生善治九段(52)が達成して以来、史上2人目の快挙です。同時に最も歴史のあるタイトルである名人位を20歳10カ月という最年少記録で獲得したことになり、谷川浩司十七世名人(61)の21歳2カ月を40年ぶりに塗り替えました。

 我々は同時代人として歴史的快挙を目撃する幸運に恵まれたわけです。あと残りの「王座」を獲得すれば、全タイトルの八冠となり、その偉業は年内に達成されそうですが、こういう天才はまず50年に一人か100年に1度現れるかどうかです。まさに、我々は歴史的瞬間に立ち合うことができたのです。

 …なぞと大袈裟に書きましたけど、将棋に詳しい会社の同僚から、「彼は六冠も獲ったというのに、昨年の年収は1億円ちょっとだったんですよ。あまりにも少ないと思いませんか?」と耳元で囁かれたのです。えっ? 本当? あれだけ苦労して獲得したのに、たったそれだけ? 報道の推定によれば、藤井六冠の昨年の年収は1億1000万円程度だったようです。今年の年収は七冠となり、広告出演も増えて収入も倍増することから、2億2000万円程度が予測されますが、それにしても少ない。

 1億円は確かに庶民にとっては「高嶺の花」ではありますが、先日、暴力行為等処罰法違反(常習的脅迫)容疑などでUAEから護送されたガーシーこと東谷義和容疑者(51)は、2022年4~8月のわずか5カ月間で、YouTubeなどの広告収入で、1億数千万円も荒稼ぎしたと報じられました。たった5カ月で1億数千万円も稼げるなんて、おかしいですね。そのシステムというか、スキャンダルに群がる大衆というか、そういう土壌をつくっている社会というか、やはり、おかしい。狂ってますよ。

 その点、藤井七冠は自分の努力で、衆人環視の下でプロとして、しかも、かなり超人的なハードスケジュールで堂々と仕事をしているわけですから、その見返りの報酬は、やはり、少ないと誰もが思うことでしょう。

 勿論、理由は色々と考えられます。将棋や囲碁などのタイトル戦は、主に新聞社が近年、部数拡販のために主催して始めたわけですが、最近の新聞販売の部数低迷で、どうしても賞金は少なく抑えざるを得ません。収益として観客を呼ぶとしても、多くても数百人程度でしょう。野球やサッカーのように、一度の試合で5万人も呼べるわけがありません。

 2023年の途中経過で、プロスポーツ選手で一番稼いでいるのは、やはりサッカー選手で、アルゼンチン代表のリオネル・メッシ選手。広告収入を含めて155億円と言われていますから、桁違いです。気になる「二刀流」の大谷翔平選手は、年俸39億円、広告収入は30億円以上が予想され、70億円以上になるのではないかと言われています(あくまでも推定)。

 他人様の懐具合をこれ以上探っても、何の足しにも教訓にもなりませんから、この辺でやめておきます。年収〇万円の私は仏教的諦念と六波羅蜜の忍辱で耐えるしかありませんよ。

用不用説は日常生活で感じられます

ダーウィンの「種の起源」(光文社古典新訳文庫、下巻)を読んでおりますが、ちょっと難解で、正直言って、途中で投げ出したくなります。科学者になる人、科学者になった人は必読書ですが、恐らく、多くの人は挫折しているんじゃないかと断言したいぐらいです。

 私の場合は、翻訳者の渡辺政隆氏が下巻の「訳者まえがき」に「ダーウィンの『種の起源』は手強い本である。決して読みやすい本ではない。」というお言葉に励まされて、息も絶え絶え、何とか読み続けております。

 頑張って読んでいると、20ページに1カ所ぐらい、私のような素人でも面白いと感じる箇所が出てきます。例えば、キリンに尻尾があるのは、その用途の一つとして、蠅を追い払うため、などと書かれたりすると、「へ~」と思ったりします。猿は尻尾で木の枝をつかんだりしますが、人類の尻尾が退化したのは、使わなくなったからでしょう(用不用説)。もう木に登らなくてすむようになったし、蠅や蚊はベープマットを使ったりしますから(笑)。

 でも、牛や馬やキリンさんにとって、蠅や蚊を追い払うことは「死活問題」です。もし、変な病気を持った蠅や蚊にやられたらイチコロですから、尻尾は必需品で、なくならないのでしょう。

有田

 用不用説ーつまり、使わなかったら、退化したり、なくなったりすることは、普段の生活で誰でも感じるのではないでしょうか。先月、私は健康診断でバリウム検査をした時、とんでもない体験をしました。機械の上に乗ってグルグル回されますよね。その時、両手は脇の棒にしっかり捕まって、変な姿勢を取らされる時に我慢しなければなりません。検査する医師が、マイクを通して、「はい、右に90度回転して」とか「左回転で1周回って」とか命令します。その時、私は、普段使わない左腕の筋肉がつってしまい、とても痛くて、脇の握り棒をつかめなくなり、体を回転するのも難儀になってしまったのです。

 それでも、検査医師は知らぬか、知ってか、「はい、真面目にしっかり握って!」とか「左じゃない、右に回転して」とか命令し続けるのです。

 あれには参りましたね。

 検査が終わって反省しました。「そう言えば、ここ何年も、鉛筆より重いもの持っていなかったなあ。だから腕がつったりするんだ」という事実に気が付いたのです。毎日、通勤で、書籍やペットボトルなどが入った重い鞄を持参していますが、リュックサックなので肩で背負って、手で持つことはありません。「あっ! 腕は全然使わず、鍛えられていなかったのだ」との用不用説に気が付いたのです。それ以降、なるべく、歩くとき、鞄は手で持つようにしました。(人類が二足歩行したのも、前脚で赤ん坊やモノを持つため、という説もありましたね!)

 1年も続ければ、腕は鍛えられるでしょう。もう腕はつったりしないかもしれません。来年の検診が楽しみになってきました(笑)。

池波正太郎さんの行きつけだった築地「かつ平」

 このように、用不用説は日々の日常生活で感じることが出来ます。歩かなければ、足が退化しますし、笑わなければ、顔面筋肉も退化することでしょう。そう言えば、入院した時、人と話さなかったら、声が出なくなった体験をしたことがありました。

 頭も使わなければ、退化しますので、こうして、私は毎日、一生懸命、ダーウィンの「種の起源」を読んでおります。電車の隣席では、おばさんが熱心にスマホゲームしてますが。

奴隷を巡る内戦と債務上限引き上げ問題との関係

  昨日のブログで、奴隷狩りするアマゾンアリや奴隷取引をする人間のことを書きましたが、読売新聞を読んでいたら、国際経済欄に米国の奴隷問題の話が出てきたので、その偶然の一致に驚いてしまいました。

 それは、国際経済学者の竹森俊平氏が、デフォルト危機に陥るのではないかと不安視された米連邦債務上限引き上げ問題について解説した記事でした(2023年6月2日付読売新聞朝刊)。債務上限の決定権を何故、議会が持つようになったのか、その経緯について歴史的に説明してくれています。近年は民主党の大統領の時に、共和党が議会の過半数を握る「ねじれ状態」が生じたりすると、共和党は、歳出削減を勝ち取ろうと、この上限引き上げを拒む瀬戸際作戦を画策するといいます。最初にそれが起きたのがカーター民主党政権時代の1979年5月で、不慮の不履行(テクニカルデフォルト)となりました。当時の私は、経済音痴の不勉強な学生でしたので、あまり覚えていません(苦笑)。同じ年に起きたホメイニ師らによるイラン革命はよく覚えているのですが。。。

「隣りの席に鞄を置くな」と言われた

 竹森氏は、「もともと政治の根本理念を巡る国内対立の深刻さこそが米国史の独自性だ」ということで、その典型的な例として南北戦争(1861~65年)を挙げています。この南北戦争は、奴隷制度を「自由の侵害」と考える北部と、奴隷禁止を国民の奴隷に対する「所有権の侵害」と考える南部の理念が真っ向から衝突したものだったといいます。

 つまり、19世紀になっても人間はいまだに奴隷を巡って争いを続けていたのです。ダーウィン先生(1809~82年)の進化論が正しければ、人間はもっと進化して賢くなっていいはずなのに、です。(ダーウィンは、南北戦争は同時代の戦争として経験していました!)

 また、この記事で、この奴隷を巡る南北戦争での戦死者は、米国史上最大の70万人だったことが書かれていたので、私なんか「えっ!?」と驚愕してしまいました。先日、この渓流斎ブログで、第二次世界大戦中の独ソ戦について触れ、ドイツとソ連の戦死者は、民間人も併せて3000万人だったと書いたばかりでしたので、不謹慎ながら、「えっ?70万人が最大なの?」と思ってしまったわけです。

 そこで、調べてみたところ、過去の米軍の死者数は、第2次大戦が40万5000人、ベトナム戦争5万8000人、朝鮮戦争3万6000人(米ABCニュース)でした。米国は、海外での戦争より、国内の内戦での死者数の方が多かったということになります。

 日本が先の太平洋戦争で犠牲になった戦死者数は民間人も含めて、310万人と言われています。この中には「米国の若者の犠牲を防ぐための正義の手段」と米国で教育されている原爆投下による犠牲者も含まれています。

「いらっしゃいませ」も「有難う御座いました」も言わない! ファストフード店でもない高い店なのに、食器を返却させ、制限時間まで通達する。こんな店、二度と行くかあ~!金輪際。

 もう一度書きますが、米軍の第2次世界大戦での犠牲者は40万5000人。奴隷を巡る内戦での死者数は70万人でした。ということは、米国は、海外での戦争や外交より、内政を重視しないと損害が大きいと米国史が教えてくれているようなものです。先に、バイデン米大統領が債務上限引き上げ問題で、G7会議を欠席するだの、参加してもすぐ帰国するだの、色々と話題になったのは、こうした外交より内政を重視せざるを得ない国内事情があったわけですね。

 話はダーウィンの進化論から奴隷問題、債務不履行問題にまで及び、何か、脈絡がないような話でしたが、根っ子はつながっているのです。

奴隷狩りするアマゾンアリから独裁者の末路を思う=ダーウィン「種の起源」

 相変わらず、チャールズ・ダーウィン(1809~82年)著、渡辺政隆訳の「種の起源」(光文社古典新訳文庫)を読んでいますが、この本では、同時代の多くの自然科学者の論文や観察記録等が引用されています。

 この中で、「昆虫記」で有名なジャン・アンリ・ファーブル(1823~1915年)の名前が出て来てたので、「へ~」と思ってしまいました。調べてみたところ、ファーブルはダーウィンより14歳年少ですが、ダーウィンがファーブルの観察者としての実績を評価して親交があったようです。ただし、熱心なカトリック教徒だったファーブルは進化論に関しては批判的だったといいます。これまた、「へ~」です。二人の話はかみ合っていたのかどうか、不思議です。

築地・町のパスタ屋さん「ソノコンテント」

 さて、ダーウィンは、当時、アリの研究で有名だったピエール・ユベールやF・スミスの観察記録を引用しています。ただし、本文の記述が難解ですので、そのまま引用するとよく分からないと思われるので、私が勝手に補弼編纂して引用してみます。

 アマゾンアリと呼ばれる蟻がいます。南欧とアジアの一部に自生する蟻です。この蟻は、クロヤマアリなどを奴隷として使う蟻として知られています。アマゾンアリの雄と妊性のある雌は働かず、不妊の雌である働きアリは、奴隷狩りでは勇壮活発に働きますが、それ以外の仕事はしません。自分たちの巣を作ることも、幼虫の世話もできないといいます。「それ以外の仕事」は奴隷アリがやるわけですね。

 このアマゾンアリは、完全に奴隷に依存した生活を送っていることから、「奴隷がいなければ確実に絶滅する」とダーウインは書いています。ユベールが実験で、30匹のアマゾンアリを奴隷アリなしで容器に閉じ込めたところ、多くの個体が餓死したというのです。容器には、彼らの一番好きな食べ物をたっぷり入れて、仕事の意欲をわかせようと幼虫やサナギまで一緒に入れたのにも関わらず、アマゾンアリは一切何もせず、自分で食べることさえも出来なかったというのです。

 また、ダーウィンは「アカヤマアリが奴隷狩りするアリであることを最初に発見したのもピエール・ユベールである」と紹介しています。ダーウィン自身も、アカヤマアリがクロヤマアリを奴隷化しようと闘って、撃退されている現場を目の当たりし、クロヤマアリのサナギ一塊を掘り起こして、彼らの「戦場」近くの露出した地面に置いたところ、アカヤマアリが大慌ててそのサナギをくわえて運び去ったと書いています。

 これらの記述を読むと、蟻でさえ、奴隷狩りをするぐらいですから、同じ動物界の霊長目ヒト科の人間も、同じように奴隷狩りや奴隷取引をしていたことがよく分かりました。奴隷取引の話は、古代やリンカーンによる奴隷解放の19世紀どころか、21世紀の現代でも似たような話は聞きますからね。

築地「千里浜」刺身定食950円

 そして、何と言っても、「アマゾンアリは、完全に奴隷に依存した生活を送っていることから、奴隷がいなければ確実に絶滅する」という話を読んで、どうも北の独裁国家の独裁者のことが思い浮かんでしまいました。自分たちの国民を奴隷化して、彼らが餓死しても見て見ないふりして、好き勝手に、好きなだけミサイルを飛ばして大喜びをしておりますが、実情は、独裁者は、完璧に「民主主義人民共和国民」という名の奴隷に依存して生きていて、自分一人では何も出来ないのです。アマゾンアリのように、奴隷がいなくなってしまえば、独裁者は絶滅するのはないでしょうか。

 それこそが、自然淘汰と言いますか、自然の法則の理に適う話です。

 ただし、英オックスフォード大の研究チームが運営する国際統計サイト「Our World in Data」によると、世界で民主主義を享受する割合は2017年の50%を頂点に下落し、2021年では世界人口(78.6億人)のうち23億人(29%)に下がったといいます。つまり、世界人口の71%に相当する55.6億人が「投票権」の保障を十分に受けていない、つまり独裁国家だというのです。

 あんりまあ、です。でも、人間も自然界の動物ですから、ほとんどが、奴隷アリや働きバチに似た同じようなもので、独裁国家の方が自然の理にかなっている、と言えないこともありません。何だか、よく分からなくなってきますが、そう考えると、自然の法則と実体が見事に一致します。あくまでも、私の意見ですが、インドはカースト制のある身分社会と批判されますが、先進国の欧州やアジア諸国でさえ、王政や貴族がいまだに残っている国が多くあります。

 自然界が生存闘争の末の適者生存で自然淘汰されるとしたら、身分社会は自然の理に適うということになってしまうことに気付かされます。語弊を恐れずに言えば、エジプトのピラミッドにせよ、姫路城にせよ、身分社会から生み出された世界遺産であり、逆に言えば、身分社会でなければ生み出せなかった世界遺産だからです。(私は身分社会を是認しているわけではなく、結果的に、世界は独裁国家と身分差別社会が大半を占めているという現状を暴露したかったのです。)

自然界は生存闘争だけの世界なのか?=真の自己に目覚め生き延びる

  相変わらず、ダーウィンの「種の起源」を読んでおります。先日は「自然淘汰」が頭にこびりついて離れない、とこのブログに書きましたが、まだまだありました。「生存闘争」もそうでした。struggle for existence の訳ですが、私の世代は「生存競争」と習い、そう覚えていました。かつての「競争」より新訳の「闘争」の方がどこか熾烈な争いの印象があります。

 生存闘争とは、自然界で、動物も植物も、弱肉強食のジャングルの中で、生き残りを懸けて、熾烈な闘いを繰り広げるということです。それによって、弱者は自然淘汰され、絶滅していくのです。勝ち残った強い者だけが生き残るのです。そこには、ダーウィンの造語ではありませんが、「適者生存」という法則で絶滅を免れたものだけが子孫を残すことが出来て、生き延びていくわけです。

 同じ種や仲間同士でも、雌(もしくは雄)を巡っての闘争があります。勝ち抜いた強者しか自分の子孫が残せないのです。

 このように、自然界は、動物も植物も、絶滅せずに、生存闘争に勝ち抜いて生き延びることが、唯一の目的であり、意味のように見えてきます。それは、動物界霊長目ヒト科ヒト属の人間にも同じことが言えるのかもしれません。つまり、人生には目的も意味もない、ということです。もし、唯一、人生に意味と目的があるとしたら、それは、「生き延びる」ということになります。

 人生に意味も目的もない、と言われれば、誰でも戸惑い、ニヒリズムに陥りますね。しかし、それは現実です。一生には限りがありますから、何をやっても一緒です(個人的にはひたすら善行を積みたいと思っていますが)。人間はニヒリズムに陥って絶望したくはないからこそ、芸術や制度をつくったり、宗教や神を創造したりしているのではないでしょうか。

 個人的にそういう思想といいますか、考えに到達しましたので、「迷える子羊」の友人から悩み事の相談メールがあったので、以下のような話に転化してお応えしておきました。

築地本願寺

 ところで、小生は最近、宗教書を乱読しておりましたが、宗教とは「壮大なフィクション」だということを確信しました。

 キリスト教の場合、イエス・キリストが人間として存在したことは歴史上の事実ですが、イエスが神の子であり、磔刑されて死んだのに復活し、最後の審判が下されるということは、壮大なフィクションです。それらを信じることが出来る人だけが、信者です。

 つまり、信仰とは壮大なフィクションを信じることなのです。そして、「信じれば救われる」という教えです。(確かに法悦の中で救済を得た人もいます)

 仏教も同じことが言えます。

  紀元前5世紀のインド(今のネパール)に釈迦という王子がいて、出家して覚りを開いたことは歴史的事実です。ただし、釈尊は「真の自己に目覚めよ」と覚りを開くことを説いただけで、それ以上の話は壮大なフィクションです。「阿弥陀様を拝めば救済され、極楽に行ける」というのも壮大なフィクションです。特に日本では法然を中心に西方浄土に住む阿弥陀如来を(「選択本願念仏集」などの著作で)「選択」しました。となると、東方妙喜世界にいる阿閦(あしゅく)如来や薬師如来を切り捨てたわけです。同時に北の不空成就如来と南の宝生如来も切り捨てたのです。だから日本人は、阿弥陀如来以外の切り捨てられた仏様についてはほとんど何も知らないのです。しかし、その一方で、阿弥陀如来の脇侍に過ぎなかった観音菩薩も独立して、日本では多くの像が作られるようになりました。広大無辺の慈悲を持つ「観音様」は、「救いの神」として広く信仰されるようになったのです。観音信仰がこれほど篤いのは世界でも日本ぐらいではないでしょうか。

 ただし、阿弥陀如来も観音菩薩も、それに加えて、釈迦入滅後、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩も、もともとペルシャ(イラン)の神様だったと言われます。ゾロアスター教の神ともいわれます。

 仏教は、うわばみのように、あらゆる宗教を取り入れて変容していきます。ジャイナ教、バラモン教、ヒンズー教…等です。挙句の果てには、後期密教では人間の煩悩まで肯定します。性欲も肉食妻帯もライバル同士の仲違いも殺人までも呪術として容認します。とてもついていけません。(後期密教は、日本には伝わらず、チベットに残っているだけです)

 インドは複雑で、とても、一言で言えませんが、根っ子には、インダス文明を築いた南インドのドラヴィタ人を征服したアーリア人がバラモン教を創始し、現在、カースト制度を含めヒンズー教に引き継がれていることがあります。このアーリア人というのは、諸説ありますが、イラン系という説が有力です。嗚呼、それでインドなのにイラン神の影響があったのか、と小生は納得しました。

築地本願寺

 話が長くなるので、一つだけ補足します。

 釈迦は、衆生を救済する神を創造したわけではありません。釈尊はただ「真の自己に目覚めよ」と説いたのです。それは、究極的に、「他者に依存せず、独立して生きよ」ということなのです。釈迦入滅間際に、不安になった弟子のアーナンダが、「師がいなくなったら、我々はどうやって生きていったら良いのですか?」と尋ねた時に、釈尊がそう答えたといいます。

 「他者に依存せず、隷属せず」ということは法華経の思想ですが、小生はそれに「他者を支配せず」を付け加えたいと思います。

 後期密教は、とても信仰出来ませんが、この「他者に依存せず、隷属せず、他者を支配せず、独立独歩で生き延びる」という仏教から派生した思想だけは、私自身、信仰したいと思っています。

 不安や悩みは、六波羅蜜の忍辱(にんにく)や諦念などのメンタルヘルス・ケアで克服出来ます。性悪説に近いかもしれませんが、他者に隷属せず、他者を支配せず、「真の自己」を目指して、小生は残りの人生を生き延びていくつもりです。

世の中には漫画が読めない人も

 「宗教は大衆の阿片である」と言ったのはマルクスだったか…。

 ここ数カ月、私自身は、宗教関係の書籍にはまっておりましたが、先日読了した松長有慶著「密教」(岩波新書)で、宗教書は一区切りにするつもりでした。そこで、今は、ダーウィンの「種の起源」を読んでおりますが、どうも心の片隅にぽっかり穴が開いたような気分で、もっと宗教書(特に仏教書、中でも禅関係)を読みたいなあ、と思ったりしております。

 一区切り付けるつもりだったのに、です。そこで、「宗教は阿片である」という言葉が浮かんできたわけです。

 人間はもともと裸で自分の意思に関わらず、この世に生まれてきたので、誰にも「不安」と「恐怖」は付き物です。700万年前に人類が誕生した頃のように、常に猛獣の捕食者によって襲われる「恐怖」はなくなりましたが、独裁者による戦争や地震、噴火、洪水などの天災、それに感染症、さらには最近頻発している強盗殺人の「恐怖」は21世紀になってもあります。また、生きている限り、「不安」に関しては、どうしてもなくなりません。だからこそ、日本人は、古代から神仏に縋ってきたのだと思います。どんな辺鄙な田舎に行っても、必ずと言っていいぐらい、寺社仏閣があります。そこまで豪勢ではなくても、ほんの小さな祠(ほこら)やお地蔵様や不動明王像ぐらいはあります。

 科学が進歩して色々な自然現象が解明されても、霊魂や神の存在などエビデンスで証明されないのに、いまだに人類は、目に見えない何かを信じるように出来ているのかもしれません。

 さて、話はガラリと変わりますが、会社の同僚のAさんから、急に脈絡もなく、「僕は漫画が読めないんですよ」と言われ、一瞬、ポカンとしてしまいました。漫画・アニメと言えば、今や日本の最大輸出産業のはずです。漫画を読んだことがない日本人なんていないはずです。アニメの聖地を訪れるために来日する外国人観光客も増えているとも聞きます。

 漫画が読めないって、どうゆうこと?

 よくよく話を聞くと、彼は子ども時代に漫画を読まなかったから、だと言うのです。だから、大人になっても漫画が読めないというのです。でも、子どもの時に「読まなかった」というより、「読めなかった」「読みたくても読むことが出来なかった」というのが正確です。貧困家庭だったからです。彼の父親は物心付く前に病死されていて母子家庭で育ったというのです。彼とは随分長い職場での仕事付き合いですが、初めて聞きました。子ども時代は狭い薄暗い長屋で福祉の援助を受けて生活し、着る物は同じ長屋の近所の人たちのお下がりです。当然、お小遣いもなく、漫画なんか買ってもらえるわけがありません。

 私は、中学生の頃まで漫画は結構読んでいましたが、高校生からほとんど読まなくなりました。そのうち、大人になると、活字の本はスラスラ読めますが、漫画は読むのが大変になりました。絵と「吹き出し」を交互に読む行為がはっきり言って面倒臭くてたまらないのです。それで、彼の言っている「漫画が読めない」ということが私には理解できました。

 つまり、子どもの時に漫画を読む習慣を身に付けないと、大人になってからでは「しんどい」のです。私自身は中学時代まで漫画を読んでいたので、今でも無理をすれば何とか読めますが、もし、小学生の時に読んでいなかったら、恐らく、今は読めないと思います。

 それにしても、彼が漫画が読めないほど大変な家庭に育ったことを全く知りませんでした。他にも大変な逸話を聞きましたが、もう茲では書かないことにします。

 その点、自分は、それほど裕福ではなくても両親が揃った中流家庭で育ち、大学まで行かせてもらいました。それが当たり前だと思っていた若き頃の自分を改めて恥じ入るばかりです。それと同時に、会社の現役時代は、左遷と塩漬けの連続で、人から足をすくわれたり、今でも多くの人から裏切られたりしたので、「自分は何て不幸な人生なんだ」とずっと思い続けて来ました。でも、彼に対して大変失礼ではありますが、自分は、随分マシな、いや相当幸せな人生だったことに気付かされたのです。

 ある意味で、漫画が読めることは一種の才能であり、幸福なことです。そして、自分の幸福は、ささやかだと気が付かないものです。

 生きていて、十のうち、二つか三つ幸運だったことがあれば、その人の人生は幸福なのです。プロ野球選手でさえ、打率3割も打てれば首位打者になれるくらいですから。

NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「独ソ戦 地獄の戦場」は必見です

 先日見たNHKの「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「独ソ戦 地獄の戦場」は、かなり衝撃的な内容で、頭にこびりついてなかなか離れてくれません。(5月31日に再放送があるようですから、お見逃しの方はどうぞ)

 1941年6月から45年5月にかけて、ヒトラー率いるナチス・ドイツとスターリン率いる共産主義国ソ連との全面戦争で、両軍(民間人も含めて)合わせて3000万人以上の死者を出したという人類史上最悪・最大の戦争です。最初に仕掛けたのはドイツでしたが、復讐が復讐を呼ぶ殺戮・殲滅合戦となり、反転攻勢したソ連が、逆にドイツ軍の捕虜を虐殺したりして、想像もつかない程の犠牲者を生みました。(嗚呼、だからソ連軍はシベリア抑留した日本人捕虜を奴隷以下に扱っても平気だったんですね。日露戦争の復讐です!)

 「この世の地獄だった」という生存者の証言もありましたが、まさに、地獄はあの世にあるのではなく、この世にあると思わせました。

 諸説ありますが、第二次世界大戦では、ソ連(1939年の総人口1億8879万人)は、民間人も含めて2700万人が戦病死したと言われ、ドイツ(同6930万人)では800万人以上が犠牲となったと推計されています。日本(同約7138万人)は310万人の戦病死者が推計され、日本全国津々浦々、何処の家庭でも犠牲者を出していたので、あまりにも多過ぎると思っていましたが、独ソ戦を含め、戦場になった欧州での犠牲者の数は、日本人が想像も出来ないぐらい桁違いです。

牧野富太郎先生に何の花か聞きたい

 スターリンは、19世紀のナポレオン戦争の「祖国戦争」になぞらえて、特に独ソ戦を「大祖国戦争」と銘打ちました。勝利を収めたソ連ですが、その陰には2700万人の莫大な死者の犠牲があったということになります。そのソ連の血を引くロシアのプーチン大統領がウクライナ戦争を仕掛けたということは、この大祖国戦争の延長で思考しなければなりません。つまり、今のウクライナ戦争は、独ソ戦争に抜きにしては語れないということです。プーチンも演説の中で、ウクライナのことを「ネオナチ」と呼んだり、大祖国戦争のことを持ち出したりしていますから。

 ということは、ロシア人は2700万人だろうが、考えられないほどの大量の犠牲者を出しても戦争を完遂する民族であるということです。イデオロギーだろうが、領土的野心だろうが、正義だろうが、名目は何でも良いのです。「戦争犯罪」何のその。勝てば官軍、勝てば責任なんか問われない免罪符です。そして、この分だと、戦争は短期間で終わらず、あと数年は続きそうだということです。

 プーチン大統領をウクライナ侵略に駆り立てた独ソ戦から引き出せる教訓は、やはり、全人類がもう一度、学び直すべきです。その点、この番組は最適です。

現世利益を否定しない仏教=松長有慶著「密教」を読んで

 ここ何日もブログ更新出来ず、週末も、天気が良いのに、家に閉じこもって本ばかり読んでおりました。若者でなくても、「書を捨て街に出よ」ですから、あまり、健康的ではありませんよね…。

 松長有慶著「密教」(岩波新書)を読んでおりました。どうしても密教のことが知りたくなったからです。著者は有名な大家であり、入門書として手頃なのかなと思って、この本を選んだのですが、結構難解でした。密教そのものが、「秘密の教え」ということですから、修行するわけでもなく、灌頂を受けるわけでもなく、本を読んだだけで理解しようとするその心構えがまず間違っておりました。密教は「実践」を重視するからです。密教では、人はそれぞれ皆、仏性という宝を自らの内に秘めているのに、平常は煩悩という雲に覆われて自覚することは少ない。そのため「即身成仏」(行者が肉身を持ったまま現世において悟りを得て仏となる)するための最も有効な方法として瑜伽(ヨーガ)の観法を実践することなどを説いております。

 このほか、本書では「月輪観」や「阿字観」、「五字厳身観」や「五相成身観」、さらには護摩業や陀羅尼真言などの実践が紹介されていますが、素人が自分勝手にやっても効き目がないと思われますので、「師資相承」で正式に師匠から秘伝を授けられることが一番だと思います。

 さて、著名な著者の松長有慶氏は、高野山真言宗総本山金剛峯寺第412世座主で、高野山大学の学長まで務めましたが、先月4月に93歳で亡くなられました。(それなのに、5月の叙位叙勲で、中学、高校長レベルの「正五位」だったことは聊か意外でした。)日本の仏教には色々な宗派があり、空海が開いた同じ真言宗でも弟子が分派して古義真言宗系や真義真言宗系などがあり大変複雑ですが、この本は、その中でも「高野山真言宗」の教えが説かれているということは間違いないでしょう。ということで他宗派に対する批判や優越感? が本書では垣間見えたりします。例えば、60~61ページにはこんな記述が見られます。

 それは「華厳経」とか「法華経」という経典が、釈尊の生涯の中で最晩年のもので、内容がもっともすぐれているというひとりよがりの見解でもあった。

 「ひとりよがり」なんて、書かれたりすれば、サンスクリット語の「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(妙法蓮華経)」を「白蓮華のように最も優れた正しい教えのお経」と大変苦労して翻訳された植木雅俊氏なんか怒るんじゃないかなあ、と思ったりしました。

 法華経だけかと思ったら、他力本願を主旨とする浄土真宗や親鸞に対する揶揄も117ページにあります。

 即身成仏は、行者の力だけによって達成できるものではない。といっても他力を説く仏教のように、如来の救済力だけに頼るわけではない。

 如来とは、阿弥陀如来のことだと思われます。素直に読めば、浄土真宗の念仏よりも真言密教の方が効果ありそうに見えます。

 また、禅宗に対する批判も120~121ページにあります。

 密教の観法は、…行者が仏と一体化するように組織されている。この点、禅宗系の禅定が、…具体性を持たぬ空間とか壁に向かって、一切の現象界の事物を否定し、捨離することによってなりたつのとは対照的である。

 うーん、これを読むと禅では駄目ですよ、と読めなくはありませんね。そう言えば、本書には空海や攪拌、最澄ら密教に関係した人の具体名は当然出てきますが、比較として、道元も栄西も、いや法然も親鸞も日蓮も一切出てきませんでした。なきが如くに。

 それでは、何よりも「一番良いのは密教だ」という話になるかと思ったら、128ページで少し密教批判も出て来たので驚きました。

 日本密教の修法の方法は、密教観法を形式化し、密教的な生命を弱体化させる方向に進まざるをえなかった。

 ここでは、金剛峯寺の座主としてではなく、学者としての中立的立場を通していたので安心しました。この本の初版は、1991年7月19日で、私が購入したこの本は2022年1月17日発行の第33刷なので、実に30年以上もの年月が経過していたことになります。つまり、1991年の記述ですから、その4年後に起きたオウム真理教事件などは一切触れていないので、ジャーナリスティックという意味で、内容が古びていますが、密教の根本思想は変わっていないということでロングセラーになっているのでしょう。

 密教は大乗仏教から5~6世紀頃に派生し(初期密教=雑密)、7~9世紀に隆盛期(中期密教)を迎え、9世紀以降は、特殊な後期密教が起こり、本国インドではイスラム教徒の侵入により13世紀初めに滅亡します。その間、中国にも密教が伝えられますが、9世紀中ごろ唐の18代皇帝武宗による廃仏政策で衰退し、10世紀後半に消滅します。日本には、最新研究では、密教は既に飛鳥時代には入り、平安時代に留学した空海が長安で恵果から直々両界曼荼羅の伝授と灌頂を受けて本格的に入り(東密)、その後、最澄の弟子の円仁(第3代天台座主)や園城寺の別当になった円珍(最近、彼が唐から持ち帰ったパスポート「過所」などが「世界の記憶」遺産に指定されました!)らも入唐し、密教(台密)を伝授され、現在に至ります。後期密教は中国や日本には伝わらず、チベット仏教として受け継がれ現在に至っています。

 ということは、密教は本国のインドと中国では消滅したのに、日本とチベットだけに残っているわけです。

 ただし、後期密教(左道密教という蔑称も)のタントラ(行者の思想、儀礼、生活習慣など)には、わびさびを愛好し、心の平安と清潔感を求める日本人にはそぐわないものがあります。行者たちは、人々が避ける墓場に集まり、禁断の人肉を食らい、人間の排泄物や〇〇(伏字)まで飲食し、女性の行者と交わることを修法と称して実践したりするのです。ここまでいくと、宗教か?という疑問が生まれ、まるでタチの悪い新興宗教のようにも見えます。これも仏教の一派だとしたら、仏教とは何と恐ろしい宗教だと私なんか思ってしまいます。

 著者は、このような非倫理的、反道徳的タントラ主義=タントリズムには、徹底して自己の本源に帰ろうとする、言い換えれば、有限の人間の中に無限の絶対を見つけ出そうとする神秘主義的な宗教の一つの極端な姿を示している(26ページ)とまで言います。インドの後期密教(チベット密教)には、呪術などを使って、人を殺す「呪殺法」や仲間割れを起こさせる「離間法(りげんほう)」も行われ、経典には6種以上の護摩法が記されているといいます。人を救済するのが宗教だとすれば、後期密教は本当に宗教なのか?という疑問も生まれます。

 呪殺なんて、オウム真理教の連中が使っていた「ポア」じゃありませんか。

 以上は、あくまでも極端な例なので、これで密教の習得から遠ざかってしまっては勿体ない気がします。驚くべきことに、密教は、欲望(煩悩)を否定しないといいます。密教では人間的な欲望もまた宇宙生命と繋がっているものなので、これらを全面的に否認せねばならぬと考えません。欲望を肯定することと、断ち切ることは矛盾しないとまでいうのです。つまり、我々の弱点を含んだこの現実世界を全面的に肯定し、その中に理想形態を見出し、現実世界の中に絶対の世界を実現することが密教の理想だというのです。(曼荼羅はまさに宇宙論です。曼荼羅では大日如来が中心で、仏教開祖の釈迦如来は、端っこに追いやられているか、多くの如来の中の一つとして影が薄くなっています。)

 ということで、密教は、現世利益の追求も否定しません。現世利益とは、資本主義的金儲けという意味だけでなく、病気治癒や健康長寿、受験合格、出世、名声、尊敬(「いいね!」ボタン)獲得、除災招福、家内安全といった実に日本人的願望も多く含まれています。

 もともと、密教に異様な興味と関心を抱くようになったのは、東京・新橋の奈良県物産館で、運慶作の「国宝 大日如来坐像」のモデルを購入し、色々と大日如来の意味や意義などを知りたいと思ったからでした。お蔭で金剛界の大日如来には「オン・バサラダト・バン」、胎蔵界の大日如来には「ノウマクサンマンダ・ボタナン・アビラウンケン」と唱えることも知り、毎日のように礼拝していたら、驚きべきことに、ある程度「霊験あらたかなり」の現象が起きたのでした。(この本には陀羅尼の呪文の例が出てきませんでしたが)

 仏教は、開祖の釈迦が真の自己に目覚める悟りを開くという修行の教えから始まり、釈尊を神格化して、出家した声聞、独覚の男性しか成仏できないという小乗仏教となり、そのアンチテーゼで出家在家問わず、そして男女の区別なくあらゆる衆生が覚りを開くことができるという大乗仏教が起こり、さらには、宇宙生命と繋がる自己の仏性に目覚める密教にまで行きついたことになります。その間、インドのバラモン教やヒンドゥー教や、ペルシャ(イラン)のゾロアスター教まで取り入れて、仏教が七色変化していった過程も少し分かりました。

 仏前で、供花したり香をたいたりする行為は、仏教の儀式ではなく、バラモン教から取り入れたものだったことは、この本で知りました。また、この本には書かれていませんでしたが、弥勒菩薩も阿弥陀如来も観音菩薩も、もともとはイランの神で、梵天や帝釈天や不動明王などは、ヒンドゥー教の神々を参考にして取り入れられたものだというので、仏教はうわばみのように周囲の宗教を飲み込んで、発展したいったことも分かります。

 そして、ついに反道徳的な後期密教となり、本国インドでは滅亡したことも何となくですが、薄っすらと分かる気がしました。