自社株を環境保護団体に寄付した創業者=パタゴニアのシュイナードさん

 本日は下世話なファッションの話をー。

 年を取ると、どうもファッションに関心がなくなり、着るものに関しては無頓着になってしまうものです。今さら、モテるわけでもなく、仕事もなくなれば、「着た切り雀」になることでしょう。

 私もその一人でした(過去形)。固有名詞を出しては申し訳ないですが、近年は、ほとんどユニクロで間に合わせておりました。下着からワイシャツ、ダウンジャケットに至るまでです。ユニクロの柳井さんに対して、こんなに貢献している人は他にいないぐらいです(笑)。

 それが、あるきっかけで、もうユニクロは卒業させてもらうことにしたのです。はっきり書きますが、XLの大きさにしても、下着のトランクスのゴムがきつく、布の質がイマイチなのか、装着感が、ゴワゴワして少し擦れる感じなのです。そこで、天下の伊勢丹で売っている某社の高級トランクスに代えたところ、値段は倍以上でしたが、ゴムは全然きつくなく、履いていても擦れる感じ全くなく、実に爽快だったのです。

 お金は、死んであの世に持っていけるわけではありませんから、ケチケチ過ごすことが馬鹿らしくなってきました。下着だけでなく、もう少し、ちゃんとした衣類を着よう、と思ったわけです。人は90%見かけで判断しますからね。でも、いい加減年を取ると、相応しいファッション・ブランドがなかなか見つかりません。

 昔は、つまり若い頃は、「ポパイ」や「ホットドッグ・プレス」なんかを買って、当時全盛期だったテニスのビヨルン・ボルグが着用していたフィラや、ジョン・マッケンローが着ていたセルジオ・タッキーニなどを無理して買って、よく着ていたものでした。それらは、昔は、かなり高級ブランドでしたが、今では、そこら辺のスーパーでも売っているぐらい、格が落ちてしまいました。高級ブランドのジヴァンシーが、トイレのスリッパまで作るようになったのと同じ路線です。

 何の話でしたっけ? そうそう、シニア向けのブランドと言えば、有名なパパスとかありますが、あまりにもあからさまで「爺むさい」感じがするので、仕方なく、昔よく買っていたラコステのポロシャツやズボンで間に合わせることにしました(価格はユニクロの2.5倍以上)。この他、1877年にノルウェーで創業された老舗のヘリー・ハンセンというブランドが、漁師向けで防寒に優れて耐久性もあり、品質が良いという噂を聞いて、リュックサックやダウンジャケットなども取り揃えました。

 それでも、何か物足りないような、引っ掛かるような感覚がありました。私は電車通勤をして、会社のある銀座の街中を歩いておりますが、車内や街行く人のファッションのブランドを眺めてみると、男性も女性も圧倒的にノースフェイス THE NORTH FACEが多いですね。今は冬なので、そのノースフェイスのダウンを着ている人ばかり見かけます。私はへそ曲がりですから、(全く恨みはありませんけど)皆が着ているノースフェイスだけは恥ずかしくて着られません。

東銀座

 そんな折、本日のことですが、東京新聞が朝刊1面トップで、「米アウトドア用品『パタゴニア』創業者 自社株ほぼすべて環境団体に 地球を救う経営を」と題した記事を掲載しておりました。何と1面トップですよ! ウクライナ戦争でもなく、昨今の物価高の話でもなく、防衛費増額問題の話でもなく、ファッション業界の創業者の話です。

 最初、大変失礼ながら、「また売名行為かぁ?」と読む気がしなかったのですが、読んでいくと、こんな素晴らしい経営者はいないと確信しました。創業者のイボン・シュイナードさん(84)は、もともとロッククライマーで、登山用具の鍛冶屋だった経験も生かして1973年に「パタゴニア」(本社=米加州ベンチュラ)を設立します。現在、世界で1300億円以上の売上高を誇る企業に成長させました。しかし、もともとは職人さんですから、金儲けには大して関心がなかったようです。自身と家族が保有する約3900億円もの自社株を環境保護団体に寄付してしまったのです。その理由は、気候変動の危機感があり、「死んだ星では何もできない」ことを悟ったからだといいます。シュイナードさん御自身、パタゴニアという会社をこれから先、200年は続けてもらいたいという希望があるからこそ、どうすれば良いか考えた末、環境保護団体に寄付を決めたというのです。

 いやあ、なかなか出来ないことです。しかも、大富豪らしからず、社長さんなのにお抱え運転手はおらず、飛行機はエコノミークラス。同じ家に50年以上妻と一緒に住み、携帯電話も通話以外使わない。ほぼ毎日、中古で買った日本車スバル・アウトバックを自ら運転して出勤しているというのです。

 しかも、2011年の感謝祭翌日の大規模セールで、「自社商品を買わないよう」キャンペーンを張ったといいます。「そのジャケットは本当に必要なのか。必要で買ってくれるなら永久に保証する。不具合が出たら修理する。体形が変わって着られなくなったら、買ってくれる別の人を探す。使い古されて完全に使えなくなったら送り返してほしいというメッセージだった」とシュイナードさんは振り返ります。勿論、地球環境問題に配慮した考え方です。

 この記事を読んで、私は、いっぺんにシュイナードさんと、彼の理念が反映されているパタゴニアのファンになってしまいました。パタゴニアは登山用品専門かと思っておりましたら、検索してみたら、街中でも着られるジャケットやパンツ(私の世代ではズボンと言います)やダウンや帽子など品数多く揃っておりました。

 今まで一度も買ったことがありませんが、これからは、シニアでも着られる(と思われる)パタゴニアの衣類を少しずつ買い揃えてみようかなあ、と思っております。(あくまでも、これは宣伝記事ではありません。我利我利亡者が蔓延るビジネスの世界で、シュイナードさんの理念と行動に感動した話でした)

歴史クイズが答えられない世界で強大な影響力を持つユーチューバー=東海オンエア

 この話は書かないでおこうかと思っていましたが、最近、書くネタがないので、仕方なく書かさせて頂くことに致しました(笑)。

 毎週月曜夜に放送されているNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」という番組の話です。1月16日と23日に2回に渡って放送された「松本潤が家康ゆかりの 愛知県岡崎市の旅でまさかの対面実現!?」という番組の話です。既に御覧になった方は、「ああ、何だ、その話かあ」ということで、この先お読みにならなくて結構で御座いまする。。。

 大河ドラマ「どうする家康」のタイアップと言いますか、宣伝番組と断言しても構わないでしょう(笑)。それでも、ドンドン引き込まれてしまいますから、「あに、やってんだか」です。

 徳川家康を演じる「嵐」の松本潤が愛知県岡崎市で「ぶっつけ本番旅」をする話です。道行く観光客らしき人に声をかけると、岡崎に来た理由は、家康の生誕地だというわけではなく、岡崎市在住の有名ユーチューバー「東海オンエア」の「聖地」を訪問するためだという人ばかり。しかも、松潤よりも、東海オンエアの方が良いと露骨に言われた松本は、次第に気になって、彼らに会いたいという気持ちが高まっていきます。結局、彼らが行きつけのラーメン店があるというので行ったところ、そこの大将が彼らの無名時代からお世話したこともあり、すぐ連絡を取ってくれることになりました。

 勿論、私は東海オンエアなるユーチューバーは見たことも聞いたこともなく、これが初めてです。松潤さんも同じように初めてです。彼らは、高校の同級生を中心に集まった6人からなる人気グループで、岡崎市の名所やお勧めスポットなどを紹介するユーチューブを配信し、現在は登録者数が670万人以上。ということで、岡崎市の観光大使にも任命されているとか。そのラーメン店も彼らの聖地となっているらしく、全国どころか、遠くアイスランドから足を運ぶファンもいたとかで、本当に吃驚してしまいました。

 とにかく、東海オンエアの6人のメンバーに直接会えた松潤は、「どっちがスターか勝負しよう」と、互いに、徳川家康に関するクイズに答えることにしました。1問目が、「徳川家康が開いた幕府は?」という一瞬、耳を疑うような幼稚園児でも答えられそうな問題です。松潤はしっかりと、「江戸幕府」と正解を出したのに、東海オンエアのメンバーは「江戸幕」とフリップに書いてしまい、不正解。

 2問目は、「1600年の天下分け目の合戦とは?』で、松潤は当然のことながら「関ケ原の戦い」と書いて正解。一方の東海オンエアは、「桶狭間の戦い」。しかも「桶」の漢字が間違っていました。えっ?これ間違えるの!?です。 3問目は、「家康の晩年に2度に渡って行われた戦い」で、答えは、勿論「大坂の陣」。松潤は「大阪の陣」と書いてましたが、正解になったようですが、一方の東海オンエアさんは、「実家の陣」だったか?ー忘れてしまったので、御存知の方はコメントください(笑)。とにかく、不正解。彼らは、笑いを取るために、わざとボケていたのか? でも、メンバーの誰かが「ユーチューバーはバカだと思われたくないなあ」と本音?を漏らしていたので、もしかして、小学生レベルでも歴史の知識はゼロなのかもしれません。(くどいようですが、岡崎市は徳川家康の生誕地ですよ!)

新富町「うら銀座くらぶ」肉野菜炒め定食 1100円

 でも、そんな彼らが世界中に強大な影響力を持っているわけですから、今の時代、不思議と言えば不思議です。教養も知識も学問なんかも必要がない。運と実力さえあれば、ユーチューバーで億万長者になれる時代だということなのでしょう。小学生のアンケートで「将来に何になりたいか」を聞かれて、「ユーチューバー」と答える辺り、子どもは正直ですから時代を反映しているということなのでしょう。

 ちなみに、この後、彼らのユーチューブをチラッと拝見させて頂きましたが、正直、ついていけず、途中でやめてしまいました。「老兵は死なず、消え去るのみ」かなあ…。

徳川家臣団の変遷が面白い=「歴史道」25号「真説! 徳川家康伝」特集

 1922年創刊と日本で一番古い週刊誌で、101年の歴史を持つ「週刊朝日」(朝日新聞出版)が今年5月末で休刊になる、という超メガトン級のニュースが飛び込んで来ました。時代の趨勢を感じます。100年以上も歴史あるメディアが事実上廃刊になるのです。ピーク時は、150万部に達していたそうですが、昨年12月の平均は7万4千部程度。将来の部数と広告収入の減少を見込んだことが休刊の表向きの理由ですが、同社は週刊誌は他に「AERA」も発売しており、2誌同時発刊は経営的に厳しいと判断したようです。まあ、一番の理由は若い人が紙媒体を読まなくなり、ネット情報に依存するようになったからなのでしょう。

 私は古い世代なので、やはり紙媒体が一番です。残念としか言いようがありませんが、何を言っても始まらないでしょう。

 でも、その週刊朝日ムックとして隔月刊で発行されている「歴史道」は続けてほしいなあ、と思っております。1月発売の第25号は「真説! 徳川家康伝」特集で、あからさまなNHK大河ドラマ「どうする家康」とのタイアップ記事もありましたが、雑誌存続のためには仕方がないということで御同情申し上げます。

 ムックなので、写真や図解が豊富というのが特徴ですが、テレビに出たがりの、特に見たくもない、勝ち誇ったような学者様のアップした顔写真を何枚も掲載するのはそれほど必要なものか、と苦言だけは呈しておきます。その学者様の洞察力と業績は尊敬しますけど、まさかアイドル雑誌?これも売るために仕方ないのかなあ?

 先日、やっと読了しましたが、徳川家康というまさに日本史上燦然と輝く「日本一の英傑」の生涯がこの本で分かります。人には功罪がありますが、戦国時代の最終勝者で、その後、260年間もの太平の世を築き挙げた家康の手腕は、やはり、罪より功の方が遥かに上回っていると認めざるを得ません。3歳での実母との別離、幼少時代の人質生活、そして16歳(1558年の鱸氏攻め)から合戦に次ぐ合戦で、最晩年の大坂の陣(死の1年前)を入れれば、戦争に明け暮れた波乱万丈の一生と言えるでしょう。

 渓流斎ブログ2023年1月11日付「水野家と久松家が松平氏の縁戚になったのは?=NHK大河ドラマ『どうする家康』で江戸時代ブームか」でも書きましたが、この本を買ったのは、付録として「徳川家臣団 最強ランキング」が付いていたからでした。つまり、私には徳川家臣団の知識が不足しておりました。260年続く幕藩体制を築いた家康ですが、家康一人の力で天下を獲ったわけではありません。優秀で有力な家臣団がいたからこそ成就できたのです。その家臣団のほとんどが、幕末まで続く藩主(大名)になっているので、そのルーツを知りたかったこともあります。1月11日付のブログでも書きましたが、上総鶴巻藩主などの水野家は家康の実母於大の方の実家であり、下総関宿藩主などになった久松家は、その於大の方が離縁後に嫁いだ先でしたね。

 家臣団の中で、徳川四天王が一番、人口に膾炙しておりますが、それ以外に、この本では詳述されていませんでしたが、「徳川十六神将」とか「徳川二十四将」「徳川二十八神将」とかあるようです。特に二十八神将となると、後世になってつくられたものなので、人物名の誤記などもあるというので、よほどの通の人でなければ覚える必要はないかもしれませんが、この本の付録「徳川家臣団 最強ランキング」では「三河統一時代」と「五カ国領有時代」「関東入国時」と時代別に家臣団の変遷が詳述されています。例えば、三河統一時代の「三奉行」が高力清長、本多重次、天野康景だったことが分かります。私も含めて、知る人ぞ知る武将なので、彼らがその後、どうなったのか、子孫が幕末まで生き残って何処かの藩主になっていたのか調べたりすると本当にキリがありません。

銀座「マトリキッチン」

 そこで、有名どころとして、徳川四天王の筆頭、酒井忠次を今回取り上げますが、この人は、家康より15歳年長で家康の義理の叔父に当たる人でした。(酒井忠次の正妻碓井姫は家康の父広忠の妹。酒井氏は、鎌倉幕府の公文所初代別当大江広元の末裔とも言われている。また、酒井氏は松平氏と同族の兄弟(同祖)で、三河の国衆の中で酒井氏の方が有力だった時もあった。家康時代の酒井氏は、忠尚家、忠次家、正親家の3家から成る)。左衛門尉(さえもんのじょう)酒井忠次は、特に天正3年(1575年)の長篠の戦では、武田軍の背後に回る奇策を演じて、織田・徳川連合軍の勝利に導きました。いくら信長、家康といった目上の人に対してでも物怖じせず、率直に物を申す人柄で、酒井家の代々の藩主の家風として伝えられています。酒井忠次の孫に当たる忠勝から庄内藩主として幕末まで十二代続きます。あくまでも徳川家の臣下として誠意を尽くした庄内藩は、幕末の戊辰戦争でも最後まで善戦したため、過酷な処分が予想されましたが、比較的軽い処分で済みました。それは西郷隆盛の配慮だったことを後で知った旧庄内藩士によって明治初期に「西郷南洲翁遺訓」がまとめられた、という話につながります。

 歴史とは、現代との「つながり」ですから、そのルーツを知れば知るほど興味が増していきますね。

日本人とフランス人との国民性の違いを感じます=年金改革反対、仏全土で大規模デモ

 いつも饒舌な友人のB君から最近連絡が来ないなあ、と思っていたら、コロナに感染して散々だったようです。今は完治して大丈夫なようですが、それにしても、解せないことは、彼はテレワークだということです。

 小生は、毎日、満員の通勤電車に揺られて出勤しているというのに、コロナにかからず頗る健康です。テレワークなんて意味ないじゃん! それとも、彼は、プライベートまで知りませんど、夜遊びでもしていたのかしら? 一日中、パソコンの前に座っているわけにはいきませんから、昼間にランチを取るために外出することもあるでしょう。それとも、日夜、徘徊していたのかなあ、と疑ってみたくなります。

銀座「マトリキッチン」日替わり定食(チキンピカタ)1100円

 そんな折、日本政府は、新型コロナウイルス感染症の法的分類について、今春にも現在の「2類相当」から「5類相当」へ引き下げる方針を固めていることがニュースになっています。私は毎朝、出勤前にTBSラジオの「森本毅郎 スタンバイ!」を聴いているのですが、毅郎さん(83)は「ちょっとひがんだ者の言い方をしますと、高齢者が抱えている病気がコロナによって悪化するということが今起こっていて、死者数も連日300人、400人となっているんですよ。『これは仕方がないことだ』ということに考え方が変わるということになるんです。『高齢者が亡くなるのは自然の流れ』…ひがんで言っていますが、こういうことになる」と怒り心頭の御様子でした。

 確かに、コロナによる死亡者の9割が高齢者だとニュースでやってました。そのせいか、街中を歩いていると、マスクをしないで平気な若者と中年が最近増えてきた気がします。森本毅郎さんでなくても、やはり、政府のやり方は、「高齢者は一刻も早く死んでください」と言っているように見えます。

 話は変わりますが、フランスでは今日(現地1月19日)、国の年金改革に反対する労働組合が一斉にストライキを起こし、全国で112万人も参加したそうです。交通機関の多くが運休し、学校も休校となるなど大きな影響が出たようです。やるじゃないか、フランス。

 マクロン政権はこのほど、財政再建のため、年金の受給開始年齢を現在の62歳から64歳に引き上げることを柱とする年金改革案を発表したことが、今回の大規模デモに火が付きました。でも、あれっ? です。日本では年金支給は現在、概ね65歳からで、岸田政権は、今や70歳からの延長支給を視野に入れています。それなのに、日本では暴動どころか、小規模なデモでさえ聞かれません。どうしたものか?

 ちなみに、平均寿命で日本は世界一位(男性82歳、女性88歳)ですが、フランスだって男性80歳で世界19位、女性は86歳で世界5位です(国連人口基金、2022年版)。そんなに大差はありません。

 となると、お上の言うことなら子羊のように従順に従う日本人と、あくまでも権利獲得を追求する個人主義のフランス人という国民性の違いなのかもしれません。

 それに、岸田政権は、防衛費増額(実体は、米国から大量の軍需品を購入して莫大な金額を支払い、米経済を支えること)によって、日本国民への増税を画策しています。米国、中国、ロシアに次ぐ世界第4位の軍事大国を目論んでいます。その前に、少子化対策のための子ども手当充実や、すずめの涙しかない年金の増額の方が先にやるべきではないかと私は思っています。

ゾルゲと尾崎は何故、異国ソ連のために諜報活動をしたのか?=フェシュン編「ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書」

(2023年1月12日付渓流斎ブログ「動かぬ証拠、生々しい真実」の続き)

 アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書」(みすず書房)を読了しました。内容は圧巻でしたが、最後は、あっけない尻切れトンボのような感じでゾルゲによる機密暗号文書(1941年10月4日付)は「201」で終わっています。ゾルゲ本人もまさか1941年10月18日に自分が逮捕されるとは思ってもみなかったことでしょう。

 本書は、ソ連の「赤軍参謀本部情報本部」(以前は「赤軍第4本部」と翻訳されていました)から派遣された大物スパイ、リヒアルト・ゾルゲが1930年から45年にかけて上海と東京から送電した暗号文書や手紙、それにゾルゲを監視する在京ソ連大使館軍情報部による報告文書など、機密指定を解除されて、フェシュン氏がロシアで編集出版した約650点のうち、1941~45年分の218点が訳出されています。ゾルゲによる歴史に残る二大スクープとして、「独ソ戦の開戦予告」と「御前会議での日本軍の南進決定」がありますが、それらは41年のものであり、33年から8年以上にも及ぶゾルゲの日本滞在での集大成とも言うべき極秘文書がこの本で読めるわけです。

 この本を訳出した名越健郎・拓殖大特任教授が前文「ゾルゲ事件に新事実」を書き、編著者のフェシュン・モスクワ国立大東洋学部准教授が巻末で解説「『ゾル事件』の謎に終止符」を書かれていますが、これだけ読んだだけでも、ゾルゲ事件の概要と背景がかなり詳しく分かり、私なんかまず出る幕はありません。

 そう言えば、註釈などに書かれていましたが、無線技士のマックス・クラウゼンは滞日最後の方になると、自身が副業として設立した複写機会社が軌道に乗り、また共産主義にも嫌気がさし、ゾルゲの高慢な態度にも不満を持つようになり、せっかくゾルゲが苦心して集めた情報記事を暗号化して送電しなかったり、やったとしてもほんの1部だったりしています。ゾルゲ自身は最後まで気が付かなかったらしいですが、捜査員が踏み込んだ隠れ家には原文が残されていて、クラウゼンのサボタージュが分かったというくだりは大変興味深い話でした。

 しかし、フェシュン氏の著書で、ゾルゲ事件のほぼ全容が解明されて、謎がなくなったとは言っても、そして、確かにゾルゲの機密文書という「成果」が掲載されたとは言っても、通読すると、私自身どうも理解できないことばかり浮上して困ってしまいました。そこで、自問自答形式をー。

【疑問】何故、ゾルゲ情報は、スターリンらクレムリン首脳部で信頼されなかったのか?

【推測】恐らく、ゾルゲがドイツ人(国籍)だったからだと思われる。二重スパイとして疑われるはずだ。しかも、ゾルゲは、コミンテルン(国際共産党)に所属したことがあり、コミンテルン派のトロツキーを追放(暗殺)したスターリンにとっては、本来ならゾルゲも粛清の対象だったはず。

【疑問】ドイツ人のゾルゲが、なぜ祖国ドイツではなく、ソ連のために諜報活動したのか? 

【推測】ゾルゲの父はドイツ人鉱山技師だったが、母親がロシア人だったせいかもしれない。国際共産主義のイデオロギーに心酔したため、国家は関係なかったかもしれない。それでも、独ソ戦が勃発した際、二律背反に陥らなかったのかどうか?…秘密文書だけではゾルゲの心理まで分からないが、隠れ蓑としてナチス党員になったのに、反ヒトラーだったので、快哉を叫んだかもしれない。

【疑問】近衛内閣参与だった尾崎秀実が、何故、御前会議での内容など日本の国家機密をゾルゲに漏らしたのか?

【推測】フェシュン氏の解説によると、尾崎の主要な政治目的は、戦争回避、日中戦争の局地化と解決、ソ連との講和、太平洋での戦争阻止だったという。尾崎が日本の「裏切り者」になったのは、日本が自ら宣言した使命を果たさなかったこともあろう、とフェシュン氏もいささか尾崎に同情している。と、同時に、「尾崎は奈良でゾルゲに協力を頼まれる前から、生粋のソ連諜報網のエージェントだった」とも書いている。つまり、共産主義に傾倒していた尾崎が、大阪朝日新聞の上海特派員時代から、著名な作家でコミンテルン活動家でもあったアグネス・スメドレーと関係を持ち、帰国後も北京で逢瀬を続けていた。尾崎がゾルゲと親しくなったのは上海だったが、ゾルゲと会わなくても、ソ連諜報機関員として活動していたことになる。尾崎は、ゾルゲもコミンテルンの一員だと思い込み、実は、ソ連軍参謀本部から派遣されたスパイだったことは最後まで知らなかったようだ。自分の機密情報が直接、クレムリン首脳部に届き、戦略や政策に多大な影響を与えるとまで考えていたかどうか分からないが、恐らく薄々感じていたはずだ。ただし、諜報組織ゆえ、ソ連の内務人民委員部(NKVD)と赤軍参謀本部情報本部と在京ソ連大使館軍情報部の違いまでは知らなかったことだろう。尾崎がソ連に機密を齎したことで、結果的に日本の国家が転覆(滅亡)することまで想像できなかったかもしれないが、尾崎に多大な責任があったことは確かだ。

 ◇◇◇

 さて、ロシアがウクライナへの侵略戦争を開始してもう1年が経とうとしていますが、目に見えない諜報活動は、ロシアのお家芸ですから、メディアで報道されなくてもかなり頻繁に、かつ重厚に行われていることが容易に想像されます。諜報員は東京でも暗躍しているかもしれません。

映画🎬「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」は★★★★★

 久し振りに映画を劇場に足を運んで観て来ました。2年半ぶりぐらいかなあ? ちょっとよく覚えておりません(苦笑)。

 勿論、コロナ禍の影響ですが、何が何でも、石にかじりついてでも,観たい映画がなかったからかもしれません。所詮、映画はつくりものですし、現実生活やノンフィクションには劣るといいますか、二の次になってしまいました(失礼!)。そうなると、かつては、これまで1カ月に2~3本、映画館で観ていたのに、観ない習慣が出来てしまいました。また、怒られてしまいますが、映画を観る暇があったら、人類学や歴史関連の本を読んでいた方が遥かに有意義な時間が過ごせると思ってしまったわけです。

 ですから、この「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」も殆ど期待しないで映画館に行きました。テレビで派手に宣伝しており、内容についても、あのハリウッドの帝王とも呼ばれた敏腕プロデューサー、ワインスタインによる性的暴行事件と、その後、勇気を出してカミングアウトするようになった女性被害者たちの「#Me Too」運動の話だということも、分かりきってしまっていたので、新鮮味がないだろうなあ、と高を括ってしまっておりました(これまた、失礼!)

 そしたら、我も忘れて映画の世界にどっぷり引き込まれてしまいました。正直言いますと、最初は、何が何なのか、さっぱり分かりませんでした。出演する俳優さんもほとんど知らず、顔と名前が一致しません。しかも、ですよ。20年前の若い時と、その20年後の2017年の現在の姿が交互に出てきて(勿論、全く別の、似ている女優さんが演じています)、本当に何が何だか、顔の区別ができないために、さっぱり付いていけなかったのです。

 それが、次第にジグソーパズルのピースがハマっていき、全体像がうっすら見えて来ると、「そういうことだったのかあ」と分かり、何とも言えない爽快感が出てきたのです。

 まあ、これ以上、内容について触れませんけど、舞台は米ニューヨークタイムズ紙の本社になっています。二人の、…いちいち断る必要はないかもしれませんけど、ママさん記者による調査報道のスクープ記事を巡る実話が描かれています。

 私も長年、マスコミ業界で働いておりますので、新聞社の内幕やら、取材方法やら、取材相手との交渉といったことは熟知しておりますので、その描き方は、本当に真に迫っております(当たり前かあ=笑)。ですので、感心どころか、感激してしまいました。

 最初にお断りしたように、出演している俳優さんの顔も名前も知らなかったのですが、新聞社内の役割ならよく分かりました。勿論、日本と米国ではシステムは違うかもしれませんが、まず女性記者2人がいて、デスクらしき年配の女性がいて、その上に白髭を生やした部長らしき年配の男性がいて、そのまた上に編集局長らしい黒人の統括責任者がいて、告発記事なので裁判にもなりかねないということで、記事化するに当たって最終ゴーサインする社主か社長らしき壮年男性がいるような感じを私自身は観ていて受けました。あまり観たことがない俳優さんたちだったので、名前を知らなかったのは申し訳なかったのですが、役割だけは手に取るように分かり、自分自身も現場にいるような錯覚をしてしまったぐらいです。

 特に、オフレコで取材に応じた被害を受けた女優さん(御本人が出演!)が、意を決して最後に「自分の名前を出してもらってもいいですよ」という電話をし、それを受けた記者が、感激して涙を流すシーンが出てきましたが、思わず私ももらい泣きしてしまいました。まだ、青いですねえ(笑)。その女性記者ジョディー・カンター役は誰なのか、後で調べたら、ゾーイ・カザン(1983~)という女優さんで、「波止場」や「エデンの東」の監督として知られるあの巨匠エリア・カザンの孫娘さんだったんですね。知らなかったなあ。

 あまり褒めてばかりいると私らしくないので(笑)、あら探ししますと、この映画では、やたらとiPhoneとMacパソコンが登場します。勿論、原作に登場するからしょうがないかもしれませんけど、GAFAの一角、アップル社と宣伝契約しているんじゃないかと勘繰りたくなりましたよ。

動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」

 昨日は帰宅して、大切な手帳をなくしたことに気が付きました。鞄の中にもポケットの中にもありません。でも、すぐに、会社に置き忘れたのではないかと予測できたのでそれほど焦りませんでした。翌日の朝(ということは今日)、会社に着いて、机の引き出しを開けたら、案の定、手帳が出て来ました。一安心です。

 とはいっても、会社員になって40年以上経ちますが、大事な手帳を置き忘れたことは今回が初めてです。冥界の閻魔大王様が、ニコニコしながら、こちらに手招きしている姿が頭にちらつきます。

 さて、今、通勤電車の中で、アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」(みすず書房、2022年10月17日初版)をやっと読み始めました。7040円という大変、大変高価な本なのですが、ゾルゲや近現代史研究者だけでなく、一般市民の方でも必読書ではないかと思いながら、熟読玩味しております。実に面白い。

 この本については、既に2022年11月8日付の渓流斎ブログ「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」でも取り上げておりますので、ご参照して頂ければ幸いです。

 これでも、私自身は、ゾルゲ事件に関連する書籍はかなり読み込んできた人間の一人だと思っております。10年程昔、この渓流斎ブログでもほぼ毎日のようにゾルゲ事件について取り上げて書いていた時期がありましたが、その大半の過去記事は、小生の病気による手違いで消滅してしまいました。

 そんな私がこの本を「面白い」とか「必読書」などと太鼓判を押すのは、ゾルゲ事件の核心的資料だからです。何と言っても、在東京のスパイ・ゾルゲがモスクワの赤軍参謀本部情報本部に送った暗号文の「生原稿」が読めるのです。ゾルゲ事件といえば、日本の当局が容疑者を訊問した調書が掲載された「現代史資料 ゾルゲ事件」1~4(みすず書房)が必読書の定番ではありますが、この本は、事件の核心につながる粋を集めた、いわばゾルゲ国際諜報団の「果実」みたいなものだからです。まさに「動かぬ証拠」です。よくぞこんな機密文書が残っていて、あのロシア当局がよくぞ公開したものです。恐らく、ゾルゲを神格化したいプーチン大統領の思惑によるものでしょう。

 収録された暗号文には実に生々しいことが報告されています。特に、「お金が足りず、早く送金せよ」といったゾルゲの悲痛な叫びが何度も登場します。それに対して、モスクワ当局は「予算を切り詰めろ」とか「価値のない情報に金は払うな」「出来高払いでよい」といった冷たい態度で、まるで現在の何処かの国の多国籍企業の本社と海外駐在員とのやり取りのようです。

 先ほど、「一般市民の方でも必読書」と書きましたが、ゾルゲ事件に関する書籍をほとんど読んだことがない人でも読みやすいと思うからです。何故なら、註釈がしっかりしているからです。例えば、ゾルゲが宛名先として指名し、暗号文書の中では、「赤軍参謀本部情報本部長」もしくは「G」となっている人物については、「註釈21」で「フィリップ・ゴリコフ(1900~80年) ソ連軍元帥。野戦部隊司令官などを経て、40年7月から41年10月まで、赤軍参謀本部情報本部長を務めた(軍参謀次長を兼務)。…」と詳細されているので、初心者の人でもついていけると思います。

 また、巻頭には、登場人物として、「ゾルゲ機関」「赤軍参謀本部情報本部」「クレムリン指導部」などの項目別に、顔写真と名前と生没年、肩書等が掲載されているので一目瞭然です。私も、先述した赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフや、暗号解読者のラクチノフらの顔をこの本で初めて見ました。特にロシア人の名前は日本人には馴染みが薄く、ドストエフスキーの小説を読んでいても誰が誰だか分からなくなります。巻頭に登場人物を持って来るなんて、まるでロシア小説の日本語翻訳本みたいですね(笑)。

◇軍機保護法違反なのでは?

 でも、これは、創作ではなく、史実です。「へー、こんなことまでゾルゲはモスクワに報告していたのか!」と驚きの連続です。例えば、1941年2月1日付で送った電報(本書では「文書19」47ページ)ではこんなことまで書いています。

 …労働者1万人を擁する太田(群馬県)の中島飛行機工場は、海軍の軍用機単発戦闘機を製造している。格納式のフラップ付全金属製の戦闘機「九七式」が月間30機製造されている。速度360キロ。陸軍用の九七式軽戦闘機は月産40機。…

 ひょっええーです。ゾルゲは新聞記者(独フランクフルター・ツァイウィトゥング紙特派員。ただし正社員ではなかった)とはいえ、どうしてこんな軍事機密情報を仕入れることが出来たのでしょうか? こんな情報は、漏洩なんかすれば、間違いなく軍機保護法、国防保安法などに引っかかるはずです。情報元は書かれていませんが、この情報は恐らく、元朝日新聞記者で内閣嘱託だった尾崎秀実か、沖縄出身の米国共産党員・宮城与徳とその友人・小代好信(陸軍除隊後、軍事情報を収集)からもたらされたものと思われます。

 余談ですが、2021年5月8日付の渓流斎ブログ「中世の石垣が見どころでした=日本百名城『金山城跡』ー亡くなった親友を偲ぶ傷心旅行」で書きました通り、群馬県太田市の金山城跡を訪れた時に、中島飛行機の創業者である中島知久平の銅像があったことを思い出しました。中島飛行機は、有名な戦闘機「隼」なども製造していたということですが、ゾルゲ諜報団の情報収集力には魂げるほかありません。

 この他、オットーこと尾崎秀実は、日本軍の師団配置と師団長の名前までスクープしてゾルゲに渡していますが(文書34)、読んでいて、まさに日本の機密情報がソ連側に最初から筒抜けだったことが分かります。畏るべし。

◇みんな若い!

 そして、何と言っても、驚かされたのは、登場人物の年齢の若さです。1941年の時点で、ゾルゲは46歳、尾崎秀実40歳、宮城与徳は38歳。ソ連側も、スターリンは63歳ですが、受け手の赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフは、元帥とはいえまだ41歳、ゴリコフの後任のパンフィーロフは40歳、暗号解読専門家のラクチノフなんか33歳です。ドイツのリッベントロップ外相は48歳、オット駐日独大使は52歳、そしてヒトラーでさえ52歳だったのです。

 こっちが年を取ったせいですが、こうした若い彼らに地球上のほとんどの国民の生命と運命が委ねられていたと思うと、本当にゾッとします。

 私は、20年ほど前からゾル事件関連の文献を読み始め、当初は、尾崎秀実は国際平和を心から願う高邁な精神の持ち主で英雄だと思っておりましたが、最近では、やはり、「売国奴」のそしりを受けても仕方がない人物だと思うようになりました。こうして、軍事機密をゾルゲに伝え、月額250円(当時の大卒の初任給は70~80円)もの謝礼を受けていたことも本書に出て来ます。「情報を金で売った」と言われても、彼は抗弁できないでしょう。しかも、尾崎は、ゾルゲがドイツ人で、ドイツ紙の記者であることは知っていても、ソ連の赤軍参謀本部のスパイとまでは知らなかったという説が濃厚ですが、尾崎は、ゾルゲがソ連にも通じているかもしれないと、薄々感じていた、と私は思っています。しかし、彼はその疑念をゾルゲに確かめなかった。ですから、尾崎にも責任があった、と思います。そう書いてしまっては、思想検察側に寝返ったことになりますが、この本の「生原稿」を読むと余計に、尾崎秀実=売国奴説に傾いてしまいました。

 まあ、こうコロコロと見解が変わってしまっては、とても学者さんにはなりませんね(苦笑)。

私たちは「バカ」だから繁栄できた?=更科功著「禁断の進化史」

 その表紙といい,、本のタイトルといい、書店の店頭で初めて見かけた時、とても手に取ってみる気がしませんでしたが、どうも、昨年から「人類学」もしくは「進化論」にハマってしまい、見過ごすことができなくなってしまいました。

 更科功著「禁断の進化史」(NHK出版新書、2022年12月10日初版、1023円)という本です。表紙には「私たちは『バカ』だから繁栄できた?」という挑発的な惹句が踊り、少し興醒めしてしまいましたが…。

 実は、この本は既に読了して数日経っておりますが、どうもうまく敷衍できません。正直、前半は人類の進化の歴史が、動物の側面からだけでなく、植物や気候変動にまで遠因を突き止めて、類書には全くそんな話は出てこなかったので、興奮するほど面白く、先に読み進むのが勿体ないくらいでした。でも、後半になると、急に、「意識」の問題がクローズアップされ、デカルトの哲学から始まり、かつて、生きたまま土葬されて生き返った人の話、植物人間状態になった人の意識はあるのかどうかーといった話を最新の脳科学や「統合情報理論」に基づいて分析したりして、少しは理解は出来ても、ちょっと付いていけなくなってしまいました。

 失礼ながら、このような正統なアカデミズムから少し飛躍したような論理展開は、著者の略歴を拝読させて頂いて、少し分かったような気がしました。著者は1961年、東京生まれで、東大の教養学部をご卒業されて、どこかの民間企業に入社されてます。その後、東大大学院に戻って、理学博士号を取得して研究者の道に変更しますが、現在奉職されている大学は、著者の専門の分子古生物学が学生にとっては専門外の美術大学ということですから、これまた大変失礼ながら「異端」な感じがしました。私が使う異端には決してネガティブな意味が強いわけではなく、むしろ新鮮で、正統なアカデミズムにはない強烈な個性を感じますが。

 とはいっても、著者は正統な学者さんですから、私の100倍ぐらい、あらゆる文献に目を通しているようです。引用文献も「ネイチャー」などの世界的科学雑誌が多く、この本でも最新情報が反映されいるので読み応え十分です。単に私だけがバカで知らなかっただけでしたが、著者には「進化論はいかに進化したか」(新潮選書)、「絶滅の人類史」(NHK出版新書)など多数の著書があり、その筋の権威でした!ということは、私が感じた「異端」は間違っていたかもしれませんね(苦笑)。

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 人類学は、21世紀になって化石人類のゲノム解析が急激に進んで、日進月歩のように書き換えられていることは、このブログでも何度もご紹介して来ました。ですから、著者も、現在は〇〇が定説になっていても、その後の新発見で塗り替えられるかもしれない、ということを断っております。そのことを前提に、更科氏と彼が引用した学説によるとー。

◇人類は700万年前に誕生した

・ヒトとチンパンジーは約700万年前に分岐したと考えられる。今のところ、人類最古の化石は700万年前のアフリカのサヘラントロプス・チャデンシスとされている。サヘラントロプスは直立二足歩行のほかに、犬歯が小さいのが特徴。(類人猿なら犬歯が大きく、牙として使う)

・霊長類が樹上で生活するようになったのは、ライオンやハイエナ、ヒョウといった捕食者から逃れるためだった。

・霊長類は、昆虫食から果実食になる過程で、果実を見つけやすいように、眼が2色型(赤、紫のオプシン)から3色型(赤、紫、緑オプシン)に進化した。植物も、動物に果実が食べられて、広い範囲に種子が散布(繁殖)されるように進化した。

・果実は、どこに実る木があって、いつ成熟するのかを予測し、空間的、時間的に記憶しなければならないので、霊長類の脳が発達した可能性が高い。基本的に果実には毒はなく糖が含まれ栄養価も高い(脳の発達に良い?)

・約260万年前以降、人類は肉食の割合が多く占めるようになり、チンパンジーはほとんど植物食のままだったことから、肉食が人類の知能を発展させたのではないかと考えられる。この肉食だけでなく、人類はを使うことによって、調理で寄生虫などを殺し、消化を助け、栄養素を取り入れ、捕食者からも逃れる術を得たのではないか。

◇意識は自然淘汰の邪魔

・意識がある方が、自然淘汰に不利になることがしばしばある。自己を保存するためにはかえって意識は邪魔になる。長い目で見れば、自己保存と自己犠牲を使い分ける個体が進化して、常に自己犠牲する個体や、常に自己保存する個体は進化しないはずだ。たまたま、生存して繁殖するようになった構造が生物なのだ。もしかしたら、意識は、生物に進化の言うことを聞かなくさせる禁断の実だったのだろうか。

◇氷期を脱した1万年前に農耕が始まった

・地球は約10万年周期で、寒冷な「氷期」と温暖な「間氷期」を繰り返し、一番最近の氷期は1万数千年前に終わった。(と同時に人類が農耕を始めるようになった)安定した気候でなければ、農業を維持し発展することは難しいし、農業を維持し、生活に余裕ができなければ、好奇心や発明も起こりにくい。ということは我々ヒトが文明を築き、驚異的な種となったのは、単に、気候が安定化した1万数年前まで生き残ったからという可能性がある。

・絶滅したネアンデルタール人の方が現生人類よりも脳の容量も大きく、意識のレベル高い可能性があるかもしれない。意識があることは、必ずしも適応的ではない。つまり、ネアンデルタール人の意識レベルが高ければ高いほど生き延びる可能性が難しくなった可能性がある。意識レベルが高いほど、脳は多くのエネルギーを使い、生き残るために必要な血も涙もない行動を躊躇ったりするかもしれない。一方、私たちヒトの方が意識レベルが低ければ、生き延びやすかったかもしれない。

 なるほど、ここから、この本の編集者は、「私たちは『バカ』だから繁栄できた?」というコピーを生み出したのか…。

【追記】2023.1.9

 1月8日にNHKで放送された「超・進化論(3) 『すべては微生物から始まった〜見えないスーパーパワー〜』」は異様に面白かったでした。ヒトがチンパンジーから分岐したのが700万年前、現生人類ホモ・サピエンスが誕生したのが30万年前という話どころじゃないのです。人類の祖先は20億年前「アーキア」(古細菌)だというのです!

 まず、おさらいしますと、宇宙が誕生したのが138億年前地球が誕生したのが46億年前。そして、生命が誕生したのが38億年前と言われています。その最初の生物は、細菌などの微生物です。最初は、二酸化炭素を酸素に変える「光合成細菌」が繁栄し、次に「好気性細菌」がこの酸素を取り入れて活発化します。人類の祖先であるアーキアは、この好気性細菌を取り入れることによって生き延び、やがて、細胞をつくっていったというのです。取り入れた好気性細菌はミトコンドリアとして我々生命の細胞に今でも残っています。

 腸内細菌に100兆個もあるらしく、我々は微生物で出来ているということになります。ですから、中にはがん細胞を殺す細菌もあることから、やたらと細菌を殺す(=殺菌)ことは考えものだというお話でした。子どもさん用の番組でしたが、なかなか興味深い番組でした。

幕藩体制の完成は4代将軍家綱からか=「歴史人」1月号「江戸500藩 変遷事典」

 (昨日のつづき)

 年末年始は、勿論、私は生真面目ですから(笑)、勉学にも勤しんでおりました。主に、エマニュエル・トッド氏の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋)など上下巻の分厚い本に時間を取られて読めなかった「歴史道」「歴史人」「週刊文春」などの雑誌でしたけど(笑)。

 ということで、本日はまたまた月刊誌「歴史人」を取り上げます。昨年12月に発売された1月号「江戸500藩 変遷事典」特集号です。「事典」と銘打っているぐらいですから、情報量が多いったらありゃしない。なかなか、読めませんでしたが、1月4日にやっと読了できました。

 「歴史人」にしては珍しく、誤字脱字が少ないなあ、と思っていたら、細かい字で書かれた「500藩完全データ」の中にありました、ありました。宇都宮藩(71ページ)の主な藩主が「戸田市」(本当は戸田氏)となっていたり、久居藩(84ページ)で「津藩主藤堂高次の次男高通」とするべきところを、「津藩主藤堂高次の次男高が、通」と意味不明の文章になったりしていてズッコケました。

 それでも、偉そうなことばかり言ってはおられません。不勉強な私ですから、知らなかったことばかり書かれておりました。

 まず、江戸時代、「藩」と言わなかったそうですね。大名の所領は、その姓名を冠して「〇〇家領」とか「〇〇領分」と呼ばれ、支配組織も「〇〇家中」というのが通例だったそうです。幕末になって、毛利家家臣たちが、自分たちを「長州藩」と呼ぶようになったのが最初という学説があるようです。

 もう一つ、大老とか老中といった幕閣の超エリート幹部になれる藩主は、譜代大名だけで、外様は勿論、親藩大名も原則的に対象外だったこともこの本で知りました。しかも、老中になれるのも、3万石程度の譜代大名で、10万石クラスになるとあまり登用されないというのです。エリートコースは、まず奏者番(儀礼の際、将軍と大名の取次役)を振り出しに、寺社奉行を兼任し、無事務め上げると、大坂城代や京都所司代に進み、瑕疵がなければ、江戸に戻って老中になれたようです。他に若年寄から老中になるケースも。

 この本には書かれていませんでしたが、天保年間に老中首座になった下総古河藩の藩主だった土井利位(としつら、1789~1848年)も上述した絵に描いたような出世コースを歩んでいました。つまり、奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代→老中のコースです。大坂城代時代に大塩平八郎の乱が起き、利位は、古河藩家老の鷹見泉石(渡辺崋山が描いた肖像画=国宝=で有名で儒学者でもあった)に乱の鎮圧を命じています。ただし、古河藩は譜代大名で、他に何人かの老中を輩出しておりますが、最大時の石高は16万石もありました。土井利位藩主の時代でも8万石あったので、異例の抜擢だったのかもしれません。

 さて、「江戸500藩」とか「江戸300藩」とか言われますが、一体、どれくらの藩があったのでしょうか? 歴史家の河合敦氏によると、江戸幕府成立期は185家で、それが元禄期に234家に増え、幕末期に266家、廃藩置県が行われた明治4年は、283家あったといいます。一方、歴史家の安藤優一郎氏によると、幕末期は275家で、内訳は国持大名と国持並大名が20家、城持大名(城主)が128家、城持並と無城大名(陣屋)が127家となっています。

築地「とん㐂」アジフライ定食1300円 昔の大名もこんな御馳走を食べられなかったでしょうが、混んでいて30分も待たされましたよ

 私は、大の城好きなのですが、全国に300人近くいた大名でも、お城が持てる大名はその半分しかいなかったことが分かりました。そうでなくとも、「一国一城令」で廃城にさせられたケースも多いですからね。陣屋どまりです。そして、正確な数字は出ていませんでしたが、1万石以上が大名と呼ばれて領地を拝領しますが、江戸300藩の大名の大半は1万石、2万石クラスの外様ばかりでした。10万石以上なんて全体から見えればほんのわずかです。ところが、私のご先祖様が俸禄した久留米藩(有馬氏)は21万石で、何とベスト20位になっていたので、誇らしくなってしまいました。幕末275藩のうち、20万石以上が20藩しかなかったとしたら、わずか7%。93%が20万石以下の藩だったということになります。

◇知恵伊豆こと松平信綱の活躍

 これまた、この本には出て来ませんでしたが、徳川家康から4代将軍家綱までの50年間で、231もの藩が改易(お取り潰し)になったようです。中でも、広島藩49万8000石の福島正則の改易が最も有名ですね。福島正則は関ケ原で東軍についたとはいえ、もともと豊臣秀吉の子飼いの重臣でしたから、警戒されたのでしょう。お蔭で、40万人もの浪人が街中に溢れ、家綱時代に由井正雪の乱が起きる原因となりました。由井正雪は、楠木正成の末裔を自称する楠木流の兵法学者でした。この乱を鎮圧したのが、「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱でした。老中松平信綱は、島原の乱を平定した総大将として有名ですが、由井正雪の乱にまで関わっていたことは最近知りました。松平信綱は忍藩3万石の大名から、島原の乱平定の功績で、川越藩6万石の藩主になり老中首座にもなった人です。私の東京の実家近くにある埼玉県新座市の平林寺に葬られており、私も何度も訪れましたが、信綱は生前、川越街道を整備したり、野火止用水を掘削したりした藩主として私も小学生の時、郷土史として習ったことがあるので、大変馴染み深い人です。

 話を元に戻しますと、由井正雪の乱後、4代将軍家綱率いる幕府は「武断政治」から「文治政治」に改め、改易も減っていったといいます。大坂の陣での勝利による「元和偃武」を経て、幕藩体制が完成したからでしょう。武士が刀を脇に置いて、行政官になっていったのです。

現世人類は所詮、猿人の子孫さ

 今年もあとわずかで、年の瀬も押し迫って来ました。

 ランチに行ったりすると、その店の常連さんや馴染み客が「今年で最後かな? 良いお年を」と言って出ていく人も多くなりました。

 まだ少し早いですが、今年も読者の皆様には大変お世話になりました。今年は相当な数の馴染みの読者さんが離れていきましたが(苦笑)、また、相当な数の新しい読者の皆様も御愛読して頂いたようです。このブログがいつまで続くか分かりませんが、感謝しか御座いません。

 さて、今年は、いつもの個人的なことながら、人類学にハマりました。ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)、エマニュエル・トッド著、 堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上下巻(文藝春秋)、そして、篠田謙一著「人類の起源」(中公新書)と、これまでほとんど知らなかった古代人類化石のゲノムを解読した最新科学を教えてもらい、目から鱗が落ちるような感動でした。

 もともと、私自身は、記者生活をしながら、近現代史の勉強を個人的に始めました。きっかけは、ゾルゲ事件研究会でした。しかし、昭和の初期から敗戦に至るあの狂気と言っても良い時代に登場する人物の中には、一兵卒たちは皆殺しになっても、自分だけは飛行機に乗って逃げて助かるといった日本史上最悪とも言うべき軍人がいて、腸が煮え沸るどころか、吐き気を催すほどで、日本人というものがつぐづく嫌になってしまいました。

 同時に、近現代史を知るには、明治維新を知らなければならない。明治維新を知るには江戸の徳川の治世を知らなければならない。江戸時代を知るには、まず関ケ原の戦いを知らなければお話にならない。関ケ原を知るにはそれに至る戦国時代を知らなければならない。でも、彼ら戦国武将を知るには鎌倉時代の御家人たちのことを知らなければならない。そして当然のことながら天皇家の歴史を知るには古代にまで遡らなければならず、究極の果て、人類学にまで逆上ってしまったわけです(笑)。

 でも、色んなことが分かると、皆つながっていて、「なるほど。そういうことだったのかあ」と感激することが多々あります。

東銀座 料亭H

 今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、脚本のせいで、合戦場面がほとんどなく、まるでホームドラマかメロドラマになってしまい、残念至極なお芝居でしたが、その半面、鎌倉時代関連の書籍が多く出回り、色んなことを学ぶことができました。

 鎌倉殿の13人の一人、大江広元の子孫に毛利元就がいて、中原親能の子孫には大友宗麟がいて、八田知家の子孫には小田氏治がいる、といったことは以前、このブログでも書いたことがありますが、和田合戦で滅亡させられた初代侍所別当・和田義盛(三浦義村の従兄弟に当たる)の子孫に、織田信長の重臣だった佐久間信盛や盛政(母は柴田勝家の姉)らがいること最近、知りました(笑)。佐久間氏は、和田義盛の嫡男常盛の子、朝盛が、三浦義明の孫に当たる佐久間家村の養子になったことから始まります。

 和田合戦で、和田常盛は自害に追い込まれますが、その子、朝盛は佐久間氏の養子になっていたため、逃れることができました。しかし、朝盛は承久の乱に際して、後鳥羽上皇側について没落します。一方、朝盛の子である家盛は、北条義時側についたので、乱後は恩賞として尾張国愛知郡御器所(ごきそ)を与えられるのです。(「歴史人」12月号)

 私はこの御器所と聞いて、吃驚してしまいました。今年5月に名古屋に住む友人の家を訪ねたのですが、その場所が御器所だったのです。友人の話では、御器所はもともと熱田神宮の器をつくる職人が多く住んでいたことから、そんな変わった名前が付けられたという由緒は聞いていましたが、佐久間氏のことは全く聞いていませんでした。佐久間家盛が御器所の地を与えられたため、佐久間氏は尾張の地に根を張るようになり、その関係で、佐久間信盛や盛政らは、尾張の守護代、織田信長の重臣になったわけです。つまりは、戦国武将佐久間信盛らは、もともと三浦半島を本拠地とする三浦氏だったということになります。

 まさに、点と点がつながって線になった感じです。

東銀座・割烹「きむら」白魚唐揚げ定食1300円

 確かに、鎌倉時代は、梶原景時の変、比企能員の乱、畠山重忠の乱、将軍頼家、実朝の暗殺…と血と血で争う殺戮と粛清の嵐が吹き荒れました。当時は刑法もなければ、人権意識そのものがないので生命は軽んじられ、仕方がなかったかもしれません。でも、それは日本だけの状況かと思ったら、エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」の中で、フランスのある教会区の住民台帳のようなものを調べたところ、13世紀(日本ではちょうど鎌倉時代)のある村の殺人率が10万人当たり100人(現代は、だいたい10万人当たり1人未満)と異様に多かったといいます。

 「なあんだ、世界的現象かあ」と思ってしまったわけです。当時は、ちょっとした言い争いでも直ぐに殺人事件に発展してしまったということなのでしょう。

 30万年前にアフリカで出現した現生人類は、7万年前に本格的にアフリカを出て世界に拡散し、1万年前に農耕を始めて定住生活をするようになると、土地、領土争いから戦争が絶えなくなります。21世紀になってもロシアがウクライナに侵攻するぐらいですから、人類は原始以来、全く変わっていません。人類学で篩にかければ、所詮、現世人類は700万年前、霊長類のチンパンジーから分岐して進化した猿人の子孫に過ぎません。だから、何が起きても予想外として驚くようなものはないかもしれませんね。