ワクチンで85人が死亡?=何を信じていいのやら…

Mt Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 不可解なる孝之進の変節の背後に毬ありき。友情より毬を取りし孝之進の行為は人倫に悖り両者諸共別次に堕ちなんと覚ゆ。今生どころか来世でもゆめ相まみえまじ。

Copyright par keiryusai

 相変わらず、毎日、ワクチン報道のオンパレードです。東京と大阪で大規模接種会場が特設されて、テレビや新聞は「やっと打てて、これで一安心です」といった声ばかり拾ってます。まるで、「バスに乗り遅れるな!」といった感じで煽っています。でも、本当に安心なのでしょうかー?

 というのも、「医療従事者」ということで私の娘が一昨日ワクチン接種したところ、発熱し、自宅の階段も昇れないほどフラフラで、昨日は仕事を休んだという話を聞いたからです。

 そこで、本日発売の「週刊現代」の「日本人ワクチン死85人『自分は打たない』と決めた医師たちの意見」という記事を読んでみました。いきなり、鹿児島県のひらやまのクリニックの森田洋之院長が「私はワクチンを打たない」と宣言しています。

  厚生労働省は26日に開いた専門家部会で、3月の接種開始から5月21日までの約3カ月間で、ファイザーのワクチンの接種を受けた601万6200人余のうち25歳から102歳の男女85人の死亡を確認したことが報告されたというのです。ただし、政府は、ワクチンと死亡との因果関係が認めていません。

 週刊現代では、69歳の妻を亡くした夫が「基礎疾患もなくあんな元気だったのに…。死因はワクチン以外考えられない」と悲痛なコメントを寄せています。

躑躅 Copyright par keiryusai

 同誌によると、インフルエンザワクチンによる一般人の死亡例は100万回に0.08人ですが、新型コロナワクチンの場合は、100万回に9.9人(5月21日時点)もいるというのです。

 「接種後に亡くなった人を解剖していない。だから、因果関係が分からない」と言う医師もいるので、上に挙げた数字の信憑性まで分かりません。が、普通、ワクチン開発には10年、20年単位の治験が必要だという話を聞いたことがあります。今回のコロナはわずか1年です。やはり「大丈夫なのかなあ」という疑念は払しょくできません。

 かなりの接種が進んでいる米国や欧州での死亡例がほとんど報道されていないことも疑念に拍車が掛かります。米国では「ワクチン接種した人に100万ドル(1億1000万円)が当たるクジをプレゼント」などという州(オハイオ州など)もありましたが、何か、怪しいなあ~。

二重橋、伏見櫓…江戸城跡めぐり

 中公ムック「歴史と人物」創刊記念プレゼントに応募したところ、上の写真の通り、「オリジナルA4クリアファイル」が当選しました。

 今年1月末締め切りだったので、すっかり忘れていました(笑)。買った雑誌を見返したら、クリアファイルは、「W賞」で当選者は300人でした。本当は「B賞」の「トートバックと中公新書5冊」狙いでしたが、それでも、「W賞」に当たったのですから、凄い。良しとしなければなりませんね。ついている!

 まあ、原価10円か20円ぐらいのファイルに見えましたが(失礼!)、会社の後輩から「メルカリで売れば、500円でも売れるんじゃないですか」と言うのです。そっかー。でも私は、メルカリなんかやってないし、あまり、好きではないので、このクリアファイルは、その後輩にあげてしまいました。彼から、テレビで放送された「大戦国史」をDVDに録画したものをもらってしまいましたから、その御礼です(笑)。

二重橋

 さて、昨日の昼休みは、またまた江戸城にまで足を延ばし、いわゆる一つの「二重橋」まで行って来ました。1時間の昼休みではそこまでが限度でした。

 何と言っても江戸城は広い!細かく史跡を全てを隅々回れば数日掛かるでしょう。

 今は皇居ですから、普段は「宮殿」にまで一般人は入れませんが、個人的には2017年18年に、元ナロードニキで今や優しい右翼の友人栗林氏と一緒に2年連続、お正月の「一般参賀」に参列し、禁断の皇居内に入ったことがあります。

 2018年は、平成最後ということで、参列した日は、最多の12万6720人が参賀したということでしたから、人、人、そのまた人で身動きが取れない状態でした。(1時間半ほど並びましたが、勿論、無料です)

 でも、昨日はコロナ禍で緊急事態宣言が発令され、平日の昼間ということもあり、皇居外苑は人が少なく、ガラガラでした。

 いやはや、目的は皇居参賀ではなく、江戸城址巡りでした。

 看板には「江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌が創築し。天正18年(1590年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。…」とあっさりした書き方ですが、本当は凄い所なんですけどね(だから、特別史跡か!)。

 上の写真は、伊達政宗の仙台藩上屋敷にほど近いところにある日比谷濠の石垣です。まだ素人なので間違っているかもしれませんが、この石垣は「打込接の亀甲積」に見えます。この辺りに、今は、皇居外苑管理事務所が建っていますが、江戸時代は陸奥泉藩(福島県いわき市)の上屋敷でした。

 何で分かるかと言うと、「大江戸今昔めぐり」というアプリがあるからです。これは、現代地図と古地図を一瞬にして転換できる優れものです。このアプリは、渓流斎ブログのサイトの立ち上げやサーバーなどでお世話になっている松長哲聖氏から紹介されたもので、彼も寺社仏閣に関して協力しているようです。「七福神めぐり」や「江戸歌舞伎ゆかりの地めぐり」などもあり、結構楽しく遊べる(?)アプリです。

 この二重橋は、普段は入れませんが、「一般参賀」の時に渡ることができます。

 向こうに見えるのが伏見櫓です。

 詳しくは上の説明文をお読みください。

 現在、皇居の宮殿がある所は、先ほどの「大江戸今昔めぐり」によると、「西御丸」「西御丸大奥」だったんですね。

 私も以前、何度か訪れている本丸と天守台、二の丸、三の丸などがある江戸城址は、現在、「皇居東御苑」として整備され一般公開されています。(目下、コロナ禍で休園中のようですが)

 ちなみに、天皇陛下がお住まいになる吹上御所がある所は、江戸城時代は(変な表現)、「吹上御庭」と呼ばれ、馬場や梅林や森林もあったようです。普段は一般人は誰も入れませんから、そこは、今でも、古代中世・近世から手つかずの自然が残っているそうです。

 私自身は、二重橋よりも、手前の石垣の方に興味があります(笑)。

 上部は、打込積の亀甲積に見えますが、下の方は布積というんでしょうか?お濠には忍者が潜伏していたのかしら?石垣は、関東大震災でも崩れなかったんでしょうか?

 いやはや、まだまだ勉強が足りません。

「伊達政宗 終焉の地」と江戸城跡

銀座「ごだいご」 ランチごだいご御膳 1100円

 昨日、伊達政宗(1567~1636年)のことを書いたら、ふと、「政宗終焉の地」を再訪したくなり、昼休みに日比谷公園にまで走って行きました。しかも、5月24日(太陰暦)は、政宗公の命日(386年遠忌)だったのです。是非ともお参りもしなければなりません。

(会社から歩いて20分ほど)

 場所は、皇居寄りの日比谷交差点近くの公園入り口(交番がある)から入るとすぐあります。

 上の写真の木々の間から微かに見える建物は、戦後、GHQ本部が置かれた第一生命ビルです。

 ここが「伊達政宗 終焉の地」です。

 初めて、ここが「伊達政宗 終焉の地」だと知ったのは、ほんの5,6年前です。ですから、この立て看板が出来て、まだ10年も経っていないのではないかと思います。

 私の会社は、2003年まで日比谷公園内にありましたから、日比谷公園に関しては隅から隅まで歩き尽くし、熟知していたつもりでしたから、この看板を見つけた時は本当に吃驚しました。

 「えっ?ここに伊達仙台藩の上屋敷があったの?」聞いてないよ、といった感じです。先日、この渓流斎ブログにも書きましたが、伊達仙台藩の上屋敷は当初、ここにあり、寛永18年(1641年)になって浜屋敷(今の汐留の日本テレビ本社)に移転(幕末まで)したのでした。

 ちなみに、以前、会社があった場所は、盛岡南部藩の上屋敷跡だった所でした。

心字池 右後方は帝国ホテル

「伊達政宗 終焉の地」の目の前は、今は心字池になっています。

 かつてはお濠だったらしいのです。

 石垣は、江戸時代のものですが、よくぞ残ったものです。

米軍は東京を空襲する際、既に、戦後の占領統治を考えており、第一生命ビルをGHQ本部にし、日比谷界隈の宝塚劇場や映画館等は兵士の慰問のために残すことを決定し、この辺りを爆撃しなかったと言われています。だから、石垣も残ったのでしょう。

 この石垣の上にベンチがあり、よく、ランチ気分でサンドイッチやおにぎりを食べたり、本を読んだりしたものです。

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部とのこと。

案内板では、慶長19年(1614年)に熊本藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永5年(1628年)には仙台藩主伊達政宗によって門の石垣が構築された、とあります。

日比谷公園を出て、日比谷交差点を渡ると、もうそこは江戸城です。勿論、今の皇居です。

 以前、テレビで、ある女性タレントが「皇居が江戸城だったの?知らなかったあー!」と叫んでいたのを見て、腰が抜けるほど驚きました。世の中にこういう人もいるとは…。戦前、宮城(みやぎ、ではなく、きゅうじょう)と呼ばれていたことも知らないことでしょう。

 それはさておき、伊達藩の上屋敷が江戸城からこんな近いとは驚きです。目と鼻の先。まさに「スープが冷めない距離」です。家康公が、よっぽど伊達政宗を警戒したのか、逆に、よほど近くに置いておきたかったのかのどちらかでしょう。伊達藩は外様ですが、家康は案外、政宗公を気に入っていたんじゃないかと私なんか思うんですけど、理論的な裏付けはありません(笑)。

 仙台藩は「伊達騒動」を始め、お家騒動が極端に多く激しかった藩で、幕末も佐幕派と新政府側と壮絶な争いがありました。あの仙台藩から遣米使節に選ばれた玉蟲左太夫も、奥州越列藩同盟の推進に活躍したため、最後は詰め腹を切らされました。大変惜しい人材でしたが、玉蟲左太夫は、言わば、伊達政宗公の遺訓を守って、徳川方に忠誠を尽くしたような気がします。これも想像ですが。

 江戸城は、天守こそ再建されませんでしたが、広大な敷地といい、天下普請の石垣といい、日本全国見渡しても、江戸城に優るお城はありません。私なんか、外から石垣を眺めるだけでも大満足です。石垣は諸藩から献上されたので、藩の家紋が彫られたりしています。

 コロナ禍で遠出ができない人には、江戸城跡はお薦めです。(あ、これは関東圏にお住まい向けの発言でした。全世界の愛読者の皆様、大変失礼仕りました)

「裏を取る」ということ

築地「鴨亭」 Copyright par Keiryusai

 新聞記者は、記事の正確さを徹底させるため、セカンドオピニオンを取ったりします。業界用語で「裏を取る」と言ったりします。

 でも、逆に、裏を取らないで、そのままスキャンダラスな見出しと記事で部数を伸ばす新聞もありますが(笑)。

 ブログは、色んな種類がありますけど、まあ、大半は個人の感想、もしくは意見の表明といったところでしょう。この《渓流斎日乗》もその範疇に入ることでしょう。

 でも、一応、このブログは「世界最小の双方向性メディア」と自称している関係で、事実が間違っていた場合など、御指摘があれば、即、訂正したり、表現を変えたりしております。まあ、取るに足らない個人の感想なので、多くの皆様には大目に見て頂いておりますが(笑)。

築地「鴨亭」鴨せいろランチ 1100円 友人に紹介されて行きましたが、結構リーズナブルで美味しかった Copyright par Keiryusai

 とはいえ、個人的に気になることは、後で、周囲に裏を取ったりします。例えば、5月18日に書いた「初めてのタコス」の記事。生まれて初めて本格的なタコスなるものを食したのですですが、「まあ、こんなもんか」といった程度の感想でした。そのことを米国人の友人に話したら、「ハハハハー、その店は、アメリカでは何処にでもあるチェーン店で、マクドナルドみたいなもんですよ」と言うではありませんか。

 そして、丁寧にも、「東京にはもっと良い店が昨年から出店しましたよ。虎ノ門にあるTWという店です。ここなら本格的ですし、美味しいし、お薦めですよ」と教えてくれたのです。

 なるほど。裏は取ってみるものですね。

Copyright par Keiryusai

 もう一つありました。5月17日に書いた「翻訳家なんかになるもんじゃない?」という記事です。あるプロの翻訳家が、印税が6%の契約を4%にダウンさせられたり、突然、出版中止を宣告されたりして、ついに裁判沙汰などで精神的に追い詰められて、燃え尽き症候群となり、翻訳業を廃業する話でした。作家の印税は10%だということは知っていましたが、翻訳家になると、最高でも8%ぐらいだという話を知り、私自身も「翻訳家にならなくてよかった」と末尾に書いたほどでした。

 そこで、また、裏を取るために、出版関係の友人に現状を聞いてみました。すると、「印税8%なんて、よっぽど有名な翻訳家だけだよ。今は4%だったら、妥当な数字だよ」と言うではありませんか。これもまた「へー」です。「出版社はかなりのリスクを取っているわけ。売れなきゃ、全部、持ち出しだからね。今の出版不況じゃ、仕方ないんじゃないかなあ」と彼は説明してくれました。

 そうですね。今朝も、通勤電車の中で、本を読んでいる人は、軽く車内を見渡したところ、私だけでした。たった一人でした。

 となると、私は出版業界に寄与しているわけですから、このブログに書く独断と偏見に満ちた書評でも、大目に見てもらいたいものです(笑)。

Copyright par Keiryusai

 話は変わり、何度も書きますが、このブログは「世界最小の双方向性メディア」を自負しておりますから、皆さまのコメント大歓迎なんですが、中には最初から粗探しをする目的ありきで、小さなミスを発見することを至上の喜びとする方もいらっしゃるので、参ります。

 例えば、上の写真もそうです。最近、花の名前が瞬時に分かる、千葉工業大学が開発したAIアプリ「ハナノナ」の写真を掲載することが多くなってきたのですが、粗探しさんは「渓流斎ブログは、ハナノナを使い過ぎてますなあ。素材から調理しないで、スーパーで惣菜を調達して来て食卓に並べるのと変わりませんぞ。取材は足で稼ぐもの。被害者の写真入手がどんなに大変かは、ご存じですよね?」と説教するのです。

 あのねえ。花の写真を撮るのに、しっかり足で稼いで撮っているわけで、矛盾してませんか?どっかの図鑑か、本の写真をそのまま写したのなら、「スーパーからの惣菜調達」になるかもしれませんけど、あたしは、しっかり、現場に行ってまっせ、釈悪道老師。

 あ、ほんの少し、胸のつかえがおりました(笑)。

 

初めてのタコス=そして、老舗の料亭は何処か?

 このブログはあまりにも複雑怪奇で、テーマに一貫性がなく、話題も縦横無尽に複層しておりますから、読者の皆様方も付いていくのが大変のことと存じます。

 案の定、昨日は数十人の方が脱落されたようです。アクセス数を見れば分かります。痛恨の極みで御座いまする(苦笑)。

 さて、先日、仙台伊達藩の江戸上屋敷跡を視察のため、東京・汐留の日本テレビ本社を訪れた話を書きましたが、そのビルの(恐らく)1階にメキシコ料理のタコスを売っている「TACO BELLタコベル」があったので、再度、行ってみました。

 勿論、ランチするためです。これまた以前にこのブログに書きましたが、世界各国の料理を食べて、コロナ禍で実際に行けない海外旅行を模擬体験しようと、銀座で、色んな国の料理を食べ歩きをしました。その中で、メキシコ料理にも挑戦したのですが、生憎、私が訪れた数日前にその店は閉店してしまっていたのです。

 「捕らぬ狸の皮算用」とはよく言ったもので、逃したものは気になります。「いつかはタコスなるものを食べてみたいものだ」と、腰を低くしてそのチャンスを狙っていたのでした(大袈裟な!)。

(ダブル)タコスセット 900円

 そして、本日、ついに、タコスなるものを食しました。私の記憶が確かなら、生まれて初めて食べました。

 まあ、こんなものか、といった程度の感想ですが(笑)。

 野菜やひき肉を包んだ皮が、カレーに付くナンのように柔らかいものかと思っていたら、パリパリとはいかなくても、少し硬めでした。まあ、ファストフードといった感じで、対費用効果としてはギリギリかな、といった感じでした。

 さて、またまた皆様には驚かれるかと存じますが、この年になって、いまだに何冊かの本を同時進行で読んでいます。渓流斎は勉強家です。と、誰も言ってくれないので、厚かましく自分で言っているだけで、その実力と内容は全く伴っておりません!

 その一つが、阿古真理著「日本外食全史」(亜紀書房)です。3080円と、私としてはかなり高価な本でしたが、書評で評判でしたので、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ってしまいました。

 で、大変失礼とは存じますが、正直申して、最初は、著者の文体に付いていけませんでした。私のブログのように(笑)、急に著者の個人的な友人が出てきたり、まるで、週刊誌のグラビア記事を読んでいる感じでした。と、思ったら、著者は、もともと週刊誌のライターさんだったんですね。失礼ながら、好嫌の反応が如実に出る文体です。

 でも、読み進めていくうちに慣れていき、内容も俄然面白くなっていきます。不勉強な私ですから、知らないことばかり出てきます。(そう来なくては!)例えば、和食。「貴族が完成させた儀式的な大饗料理に、僧侶らの高度な調理技術に基づく精進料理を組み合わせたもの」などと色んな定義がありますが、以下のような変遷があることを教えてくれました。

(1)本膳料理=中国や朝鮮半島の影響のもとに生まれ、平安時代に確立。切り方の工夫には日本の独自性あり。

(2)精進料理=平安末期から鎌倉初期にかけて、宋から帰国した僧侶が持ち帰った技術をもとにした魚肉を使わない料理。

(3)懐石料理=本膳料理を発展させた少人数の茶会の席で出された料理。千利休が完成。

(4)会席料理=江戸時代、懐石料理から茶道の要素を抜き、お茶の代わりに酒を料理とともに楽しむものとして登場。

 そして、日本で最初の料亭と言われるのが、元禄年間(1688~1704年)に営業を始めた大坂・四天王寺の「浮瀬(うかむせ)」なんだそうです。松尾芭蕉、司馬江漢、曲亭馬琴ら多くの文化人も訪れたとか。

 江戸は、私も何かの本で読み、聞いたことがある浅草の「八百善」は、享和年間(1801~1804年)に創業。画家の酒井抱一、谷文晁、葛飾北斎、渡辺崋山ら一流の文化人も集まる場所でもあったらしい。幕末、ペリーが来航し、日米和親条約の宴席で出された料理も八百善だったといいます。もっとも、ペリーの口には合わなかったらしい。

 京都と言えば、一番の老舗は、私も、京洛先生のお導きで、中には入らず、長い長い土塀の軒先だけを覗いただけですが、南禅寺門前の「瓢亭」かと思いましたら、高橋嘉兵衛が懐石料理を出し始めたのが天保8年(1837年)と意外と新しい。もっとも、「瓢亭」は、腰かけ茶屋として南禅寺前で始めたのが、今から400年前という長い長い歴史があります。

 京都に現存する老舗料理店は、丸太町の「柿傳」(1721年)、四条大橋近くの「ちもと」(1718年)、袋町の「はり清」(明和年間=1764~1772年)などがあります。

 皆様も是非、訪れて、その感想をお聞かせください。宜しく御頼み申し上げます。

翻訳家なんかになるもんじゃない?

 一昨日まで、江戸時代の仙台藩士のことを書いていたかと思えば、昨日は、フランスのマルセル・プルートの話となり、関連性もまとまりもなく、読者の皆様もこのブログに付いていくのが大変だと拝察申し上げます。

 私自身は、毎月30冊読破していた若い頃の仕事の延長線みたいな感じでブログを書き続けていますが、さすがに御老体となり、日常生活にも差し触り、「誰か止めてくれ~」と叫びたくなるほどです(笑)。

 とは言いながら、またまた、ずばぬけて面白い本を読んでしまったので、このブログで御紹介せざるを得ません。宮崎伸治著「出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記」(フォレスト出版、2020年12月1日初版)です。内容は、タイトルになっているそのものズバリです。出版業界の、特に翻訳家の皆さんが、これほどまでに「天国」と「地獄」を味わうものなのか、全く知らず、まさに手に汗を握る推理小説(実際は過酷なドキュメントなんですが)を読んでいる感じで、一気に読んでしまいました。

 著者の宮崎氏は、本の略歴等を引用させて頂きますと、1963年広島県生まれ。青学大卒後、英シェフィールド大学大学院で修士号を取得し、大学職員、英会話講師を経て、翻訳家になった人です。30代の10年間で50冊もの翻訳書を出版するものの、出版社と裁判訴訟になるほど数々のトラブルに見舞われます。最後は裁判で勝訴しますが、精神的トラウマや燃え尽き症候群などで2012年に出版業界から足を洗い、現在は警備員をされている方です。(ご本人は、裁判中に受ける精神的苦痛や、出版中止などのリスクを負うくらいなら、警備員の方が何倍もいいという結論になる、とあとがきで書いています)

 本書の中では、「裁判記録の非公開」を条件に和解した案件もあるので、出てくる出版社や翻訳書の書名等はイニシャルなどになっているので推測するしかありませんが、大手出版社と思われる有名出版社も、随分、えげつないことをやっているなあ、という記述が散見します。

 勿論、著者が翻訳した本がベストセラーになり、かなりの印税も入って、「天国」を見ることもありますが、ほとんどは「地獄」の話です。私も、作家の印税は10%だということは知っていましたが、翻訳者の印税について不勉強で知りませんでした。最高に近いのが8%で、宮崎氏の場合、最初は「6%」と提示されていても、「出版不況」だの何だのと色々と理由を並べられて、「4%」に大幅ダウンさせられる暴挙を突き付けられ、涙を飲んで忍ぶ場面が数々出てきます。

 翻訳家にとって、最も痛手となるのが出版中止です。7年がかりで訳した1650ページに及ぶ翻訳書が出版中止されて、「死を考えることすらあった」という翻訳家(宮崎氏ではないが、裁判所でその陳述書を読んで、「胸が張り裂けそうになった」と書いています)の話も出てきます。

 とにかく、編集者との会話や電話やメールとのやり取りを宮崎氏は本当によく覚えているものだと感心しました(恐らく日記を付けていたのでしょう)。編集者は依頼するとき、「大急ぎで、1カ月で翻訳してください」と注文し、宮崎氏は不眠不休の仕事でしっかり締め切りを守ったというのに、原稿を送っても、数週間、梨のつぶてで、1カ月待たされ、2カ月待たされ、半年、1年…と放置され、イライラのし通しです。その間は、無収入ですから、フリーの翻訳者となると生活も大変です(宮崎氏は、軌道に乗るまでアルバイトをすることを勧めていますが)

 まず、翻訳家になること自体が大変です。宮崎氏も最初は何十社もの出版社に原稿を送ったり、訪問したり、電話やメールをしたりしてアプローチしますが、最初は、翻訳者の名前すらも出て来ない「ゴースト翻訳者」扱いです。

 面白かったのは、ある翻訳書を出版する際、B書院の女性編集者から、本を売るために「監修者に渡部昇一先生の名前を出してほしい」と言われたことです。宮崎氏は「一方がビッグネームだったら、私の名前はかすんでしまう。そうなるともう、その本は実質的には渡部昇一の本になってしまう。私が何カ月もかけて翻訳したというのに、たった1日か2日だけ仕事しただけでカバーに名前を載せるんですか。それっておかしくないですか」と抵抗すると、その女性編集者は「だって、宮崎さんって、何でもない人じゃないですか」と言われたといいます。「その悔しさはその後も消え去ることはなかった」と宮崎氏は書いていますが、渡部昇一氏(ペンネーム大島淳一)に関しては、大変面白い後日談があり、それは本書をお読みください(笑)。出版界の裏が分かります。

 私もこの本を読んで、色々考えさせられました。私自身は、もう「終わった人」だからいいものの、少なくとも、「業界の実態を知らずに出版翻訳家にならなくてよかった」と胸をなでおろしています。

 

マルセル・プルーストを求めて

 日仏会館は、「近代日本資本主義の父」渋沢栄一と駐日フランス大使で詩人でもあったポール・クロデールによって1924年3月7日に設立されました。(渋沢は、幕末に徳川昭武のパリ万博視察の随行員として渡仏。フランスで会社や銀行などの制度やサン・シモン主義などに影響受けました)

 私は3年ほど前にやっと、大学と会社の先輩の推薦を得て会員になりましたが、コロナ禍で、月に数回、東京・恵比寿の同会館で開催される講演会や映画会などが中止となり、オンラインになりました。が、平日はなかなか時間が取れず、やっと今回、土日に開催されたシンポジウム「プルーストー文学と諸芸術」に参加することができました。

 プルーストと言えば、「失われた時を求めて」(1906~22年執筆、1913~27年刊行)です。全7巻16冊、3000ページに及ぶ大長編小説で、「20世紀最大の世界文学」という文芸評論家もいます。

 私自身は、もう40年以上も前の大昔の学生時代に岩崎力先生の授業で最初から原語で読みましたが、たった1ページ翻訳するのに、1週間掛かり、当然のことながら挫折。日本語も読み通すことがありませんでした。悲しいことに、知っているのは、第1巻「スワン家の方Du côté  de chez Swann」、第2巻「花咲ける乙女たちの影に À l’ombre des jeunes filles en fleurs」といった巻のタイトルと、第1巻に出てくる最も有名な「無意識的想起」の場面です。お菓子のマドレーヌを紅茶に浸して食べた瞬間、主人公が幼児に過ごしたコンブレーでの出来事や幸福感などが蘇ってくるというあの場面です。

 日仏会館が主催したシンポジウムは、日本とフランスの専門家20人以上をオンラインで繋ぎ、2日間でテーマが「プルーストと音楽」「プルーストと美術」「プルーストと教会/ 建築」など6以上で、休憩時間も入れて合計で11時間にも及ぶ長丁場でした。同時通訳の皆様には「大変お疲れ様でした」。

 正直申しまして、私自身は「失われた時を求めて」を完読していないので、さっぱり付いていけず「完敗」でした。ですから、小生が理解できたことだけ少し触れます(苦笑)。

 一つは、中野知津一橋大学教授の「プルーストと料理芸術」の講演の中で、あの有名なお菓子マドレーヌは、ホタテ貝の形をしているものとばかり思っていたら、19世紀では卵型が普通だったらしいということでした(アレクサンドル・デュマ「料理大辞典」1873年)。

 ホタテ貝は、フランス語で coquille Saint-Jacquesで、サン・ジャックは、キリストの弟子、聖ヤコブのことです。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並ぶキリスト教徒の三大巡礼地になっていることから、中野教授も、マドレーヌは巡礼の隠喩になっているかもしれない、といった趣旨の話もされていました。

◇ドビュッシーとランボーは会っていた?

 もう一つ、ピアニストで文筆家でもある青柳いづみこ氏の「プルーストとドビュッシー」も面白かったです。恥ずかしながら、私は、印象派の画家モネと音楽家ドビュッシーで学士論文を書いたのですが、不勉強でプルーストには全く触れませんでした。青柳氏によると、二人はあるサロンで知り合い、プルーストが自宅にドビュッシーを招いたのですが、ドビュッシーはどういうわけか、理由をつけてお断りしたというのです。

 ちなみに、ドビュッシーのピアノ教師はモーテ夫人でしたが、その娘マチルドと結婚したのが詩人ヴェルレーヌで、一緒に住んでいたそうです。ドビュッシーがピアノを習っていた時に、あの17歳のランボーがヴェルレーヌの自宅に押し掛けていたらしく、ドビュッシーはヴェルレーヌとランボーに会っていたのかもしれませんが、うっかりそこまで知らず、意外でした。まあ、この辺りの話に全く御興味がなければ、どうでもいい話かもしませんが…(笑)。

 一番興味深かったのは、作家水村美苗氏の「母語で書くということ」でした。御案内の通り、水村氏は御尊父の仕事の関係で、小さい頃から米国暮らしが長く、英語漬けの毎日でしたが、それに反発(?)するかのように、米国では日本の古典文学にのめり込み、帰国後は、夏目漱石最後の未完の小説「明暗」を、彼女が、漱石の文体を完璧に近い形で会得して「続明暗」を完成して脚光を浴びた人です。(一度、30年も昔に、私は水村氏にはインタビューしたことがあります。当時とほとんどお変わりないので吃驚)

 ですから、水村氏は母語に大変拘わった、今でも拘っている作家で、プルーストに関しても、「本人は”世界のプルースト”になるとは思わなかたとはいえ、一番、母語に拘った作家」と分析しておりました。「失われた時を求めて」は今でも、日本では、個人による翻訳が4件も同時に進んでいるといいます。プルーストが普遍的になったのも、フランス語という世界的な欧州文明の特権的な地位があったから。それに対して、プルーストと同世代の夏目漱石は、知性的には全く劣っていないのに、日本語のせいか、世界ではほとんど知られていないという分析もなるほど、と思いました。(他に水村氏は、作品が英訳されるとグローバル化を意識してしまう、といった本筋の話をされてましたが、省略)

 ◇若い仏人はプルーストが読めない?

 「失われた時を求めて」岩波文庫全14巻(2010~19年)を、1ページごとに厖大な量の注釈と絵画や建築写真を挿入して個人訳で完成させた京大名誉教授の吉川一義氏も「今の若いフランス人は、(注釈なしで)この作品を読めるかなあ」と面白いことを言うのです。フランス語の原語を読まれたことがある方は分かると思いますが、一文がとても長ったらしく、この名詞がどこに掛かるのか、外国人は大変苦労します。

 吉川氏はフランスのソルボンヌ大学に留学して、プルーストで博士号を取った学者ですが、博士号は同然ながらフランス語で書かなければなりません。本人は謙遜されますが、自信がないので、フランス人の友人に事前に添削してもらったら、引用したプルーストの原文まで直されたという逸話を紹介しておられました。

 やはり、フランス人でもプルーストは難しいんですね。これには私も大笑いしてしまいましたが。


 

見つけた!仙台藩江戸上屋敷跡

東京・汐留 日本テレビ本社 下はゼロスタ広場

 昨日も取り上げました「仙台藩士 幕末世界一周」の玉蟲左太夫にはまってしまい、昼休みを利用して東京・汐留(港区東新橋)の日本テレビ本社に行って来ました。

 な、な、何で?

 チ、チ、チ。あたしがテレビに出るわけない。ここは江戸時代は仙台伊達藩の上屋敷があった所だったのです。

 明治になってから、上屋敷は新政府に没収され、汐留は、日本で最初の鉄道である新橋停車場が建設された所でもありました。

 日本で初めての鉄道は、1872年10月14日、新橋~横浜間で開業しましたから、来年でちょうど150周年を迎えます。記念行事が予定されているようなので、来年こそは、コロナが終息してほしいものです。

 さて、仙台伊達藩の江戸上屋敷は、今では日本テレビの本社になっているということは、先ほどの玉蟲左太夫著、山本三郎解説の「仙台藩士 幕末世界一周」(荒蝦夷)で初めて知りました。

 この本によると、玉蟲左太夫は、この江戸上屋敷内にあった学問所「順造館」でも教鞭を執っていたというのです。

 ということは、玉蟲左太夫さんも、幕末にこの汐留辺りをウロチョロしていたわけですね。何か感無量です。

 でも、屋敷跡の看板を探すのに一苦労でした。銀座にある会社から昼休みを利用して行ったので、ランチを含めて1時間で戻れるかどうか冷や冷やでした(笑)。(迷わずに速足で行けば、10分ちょっとで行けますが)

 上の写真の「江戸時代の仙台藩上屋敷跡」の看板は、日本テレビ本社敷地内の1階というか地下にあるというか、ゼロスタ広場の地下通路寄りの柱にやっと見つけました。冗談じゃない、くらい分かりづらい場所にありました。

もっと分かりづらかったのが、上の看板「江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡」です。

日本テレビ本社の1階というか地下にあるのかと思ったら、1階というか2階というか、汐留通りに面した所の、何か、工事中みたいな出っ張った所、日本テレビの北玄関近くで、この看板をやっと見つけました。(面倒臭い言い回しで失敬致しました。本当に、地下なのか1階なのか2階なのか、区別が付かないのです)

 せっかく、あたしが苦労して見つけてきた看板ですから、写真を眺めるだけでなく、是非とも文字もお読みくださいね(笑)。

 仙台伊達藩の江戸屋敷は、伊達政宗が存命中の江戸初期は、江戸城に近い外桜田(現千代田区日比谷公園)や愛宕下(港区新橋)などにありましたが、寛永18年(1641年)にこの浜屋敷を幕府より与えられました。当初は下屋敷でしたが、延宝4年(1676年)以降は幕末までは上屋敷だったのです。

 元禄15年(1702年)12月15日、本所の吉良邸に討ち入りを果たした赤穂浪士が、高輪の泉岳寺に向かう途中、仙台藩士に呼び止められ、ここで粥のもてなしを受けた、と看板に書いております。

あらま、結局、看板の文字を少し書いてしまいましたね。

花の名前が瞬時に分かるアプリ=AIさんも悩みます

コデマリ Copyright par Keiryusai

 文章は難しい。

 書いた本人が全く意図しなかったことを、曲解する人がいたりして心を痛めています。

 先日は大の親友が急死し、その追悼文めいたことをこのブログに書いたのですが、ある人から「お前は自己中で、亡くなったK君のことを一つも慮っていない。思いやりがない。その性格は永遠に治らない」などと非難してきたのです。あまりにも心外で、問い質してみると、私自身が全く思いもつかない「悪行」を並べ立てられました。指摘してきた人は、匿名の知らない人ではなく、一緒に彼の追悼会をやろうと呼び掛けた親友の一人でもあったのですが、非難するだけでなく、その追悼会参加も取りやめると宣言するぐらいですから茫然自失です。

 かといえば、5月4日に書いた「花の美しさはない=雲の波間に消え去った彼」という記事の中で、「毒された欲望資本主義には異議を唱えたい。」と書くべきところを、変換ミスで、「毒された欲望資本主義には意義を唱えたい。」と書いてしまい、「ネット界の小舅」との異名を持つある人から、「超キモチイー」と鬼の首を取ったように指摘されました。こちらの間違いですから、反省しなければならないのですが、ちゃんと「間違いの御指摘有難う御座いました」と返信したにも関わらず、「誰にも知られないように、そっと訂正するとは、どこかのマスコミみたいだ」と輪をかけて批判する始末。

 文章だけでなく、人間関係も難しい。

Copyright par Keiryusai

 というわけで、すっかりミザントロープになってしまい、散歩がてら、路傍に咲いている花々を愛でて、心を癒しています。

 でも、残念ながら、花の名前が分からない! そしたら、偶然、ラジオを聴いていたら、スマホをかざすだけで、花の名前が分かるアプリがあるというので、早速試してみました。

 花の名前が分かるアプリは、どうやら何十種類もあることが分かったのですが、逆に何を選んだらいいのか分からなくなってしまいました。その中で、取り敢えず、千葉工業大学が開発した人工知能(AI)「ハナノナ」をインストールしてみました。

 それが上の写真の「ロベリア」です。まだ、使い方はよく分かりませんが、花にスマホのアプリの撮影モードでかざすと、花の名前の候補が何種類か出てきて、例えば、「ロベリア95%」などと表示されるので、撮影者は「決定」ボタンを選択して保存すると、上の写真のように花の名前まで印字されるわけです。

ジャガイモ Copyright par Keiryusai

 それが、100%と決定的に分かる花だったら良いのですが、AIさんでも迷うことがあります(笑)。

 例えば、上の写真の花は、花卉も栽培している農地で咲いていたので、何となくジャガイモの花のような気がしたのですが、このアプリをかざすと、「クリンザクラ45%」「サクラソウ属35%」「ワルナスビ50%」「サトイモ科65%」…と目まぐるしく変わり、「一体、何の花なんじゃい」とAIに声を掛けたくなりました。

カラー Copyright par Keiryusai

 こちらの上の写真もそうです。

 どっかで見たことがあるので、直ぐ答えが出てくるかと思ったら、「カラーリリー75%」「アルム65%」「サトイモ科70%」「ギボウシ40%」「ミズバショウ45%」…とこちらも目まぐるしく変わります。ちなみに、この確率の%も変化します。カラーリリーでも30%になったり、80%になったり、瞬時に変わるのです。

 でも、とっても面白いアプリなので、散歩がてら遊んでいます。皆さんも御自分に合ったアプリを見つけてインストールしてみたら如何ですか? 心優しいミザントロープさんにはお薦めです。

 嗚呼、でも、この文章を読んで、また曲解する人がいるかもしれないと思うと、夜も眠れないですねえ。。。

中世の石垣が見どころでした=日本百名城「金山城跡」ー亡くなった親友を偲ぶ傷心旅行

金山城跡 復元された大手虎口(金山城で一番有名なスポット)

 親しい友人を亡くしてしまい、ショックで寝込むわけにもいかず、傷心旅行に出かけることに致しました。

 東京では緊急事態宣言、周辺首都圏でもまん延防止等重点措置が発令され、不要不急の外出や飲食店でのお酒を含めた自粛要請がなされておりましたが、傷心旅行ですから、よゐこの仮面を取ることにしました。

目指したのは、「日本100名城」にも選出されている金山(かなやま)城です。群馬県太田市金山町にあります。

自宅の最寄り駅から、金谷城跡の最寄り駅の太田までわずか1時間26分しか掛かりませんでした。都心に行くのと変りゃあせん(苦笑)。JR宇都宮線久喜駅から東武伊勢崎線に乗り換えますが、久喜駅から太田駅まで、奮発して特急(指定780円、運賃660円)に乗りましたから意外と近かった。

総合案内板

 総合案内板に書かれている通り、金山城は、昭和9年(1934年)に群馬県で初めて城跡として「国の史跡」指定を受けています。

 ここまで、太田駅から歩くと、1時間半ぐらい掛かりますが、バスも走っていないようで、私はズルしてタクシーに乗りました。最初は「太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設」までタクシーに乗って、そこから歩こうかと思いましたら、かなりの急こう配で、タクシーの運転手さんも「キツイですよ」と言うので、運転手さんの言うところの「城跡入り口」まで乗せてもらうことにしました。(駅から19分ぐらい。タクシー代1770円)

 コロナ禍で、「ゴールデンウイークも観光客がほとんどいなかった!」とタクシーの運転手さんもボヤいてました。

馬場下通路

金山城は、文明元年(1469年)、新田一族の岩松家純が築城した、いわゆる中世の城です。門も櫓も建物は何も残っていませんが、石垣だけでも風格が見て取れます。

物見台下虎口

 岩松氏を下克上で倒して城主となった由良氏(横瀬氏から改姓)の時代の16世紀半ばに最盛期を迎えます。上杉謙信や武田勝頼らから十数回も攻撃されますが、一度も落城しませんでした。

月ノ池

 しかし、1584年、小田原北条氏の謀略によりついに落城し、北条氏の支配下になりましたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉軍による小田原征伐で、北条氏の支城だったこの金山城も廃城となります。

大手虎口大手虎口
大手虎口

 この大手虎口が、金山城の写真では一番有名です。

 私もこの石垣を見たいがために、ここまで足を運んだわけです。

大手虎口

 上部の石垣は復元されたものですが、下の方には中世のままの石垣もあるそうです。

 私は石垣ファンなので、こんな石垣を見るとゾクッとしますねえ(笑)。ほんの少しだけ、西洋の中世城壁に似た感じがします。

 石垣だけで、昔の人たちの生活の営みが垣間見える気がします。

日ノ池

 これも有名な「日ノ池」で、解説パンフレットによると、戦いの勝利や雨乞いなどの儀式が行われた神聖な池だったらしい。

 こんな山城の頂上付近に池があること自体、不思議です。

新田神社

 金山山山頂の金山城本丸跡に、地元有志らが明治8年(1875年)に創建したのが、この新田神社です。鎌倉幕府を倒した郷土の英雄新田義貞を祀っています。

 ここで私は、4月27日に亡くなった親友神林康君の冥福をお祈りしました。

金山城主系図
実城(みじょう)本丸址

 金山城の本丸は、実城(みじょう)と呼ばれていました。

本丸残存石垣

 新田神社の裏手に回ると、この「本丸残存石垣」が見られます。いわゆる野面積にみえます。15~16世紀のものでしょうが、よくぞ、こんな山の頂上にまで重たい石を運んだものです。

 城主の権力の大きさには圧倒されます。

建物は隈研吾氏設計だとか

 本丸跡を見て、また、タクシーで連れてきてもらった「城跡入り口」まで同じ道を戻り、そこから車道(県道金山城址線)の端を恐る恐る歩いて「金山城跡ガイダンス施設」まで行きました。歩く人はほとんどいなく、車はブンブン飛ばしていました。どういうわけか、こんな山道をジョギングする人が何人かいました。ここまで歩いて20分。

上野国新田郡庁(復元模型)

ガイダンス施設に来てよかったことは、新田荘の歴史が模型展示で、手に取るように分かったことでした。

 新田荘は、かの清和源氏の血を引く新田氏が切り開いた土地だとばかり思っていたら、ここはもともと、古代から色んな豪族が支配していた所で、東日本最大級の天神山古墳など、古墳だらけの土地でした。今度は古墳巡りでもしようかしら(笑)。

 大和王権は、ここに、上野(こうずけ)国新田郡の郡庁まで築き、郡司を派遣して政務や儀式を行っていました。

 租税として納められた米を保管する「正倉」も多く建てられたということですから、この辺りは結構、お米が採れたことでしょう。古代は、もともと野(ずけ)という国一つだったのが、お米の収穫量が多いことから、上野(こうずけ=群馬県)と下野(しもつけ=栃木県)に分割されたという説を聞いたことがありますが、恐らくそういうことだったのでしょう。

 そして、中世になって、やっと武士化した新田氏が台頭してくるわけですね。

金龍寺

 昼時になったので、持ってきたおにぎりをガイダンス施設近くのハイキングコースのベンチで食べて、ここからまたタクシーを呼んで、駅まで戻ろうかどうか思案しましたが、結局、歩くことにしました。真っすぐ帰れば、50分ぐらい歩けば、駅に着くようでした。

 でも、歩くことにしたのは、ガイダンス施設のパネルで見たお寺が気になり、途中で寄りたかったからでした。せっかく、ここまで来たのですから、お参りしなければ、と気がせきました。

金龍寺本堂

 ガイダンス施設から歩いて10分ほどで、金龍寺(きんりゅうじ)に到着。

 ここは曹洞宗の寺院で、金山城主だった由良(横瀬)氏の菩提寺です。

 本堂では、また、亡くなった親友神林康君の冥福をお祈りしました。

金龍寺 新田義貞供養塔

 正一位左中将 新田義貞公の供養塔もあります。

 金龍寺は、天正18年(1590年)、由良氏の常陸国牛久移封で、一緒に移転しましたが、慶長年間にこの地を拝領した舘林藩榊原氏(徳川四天王の一人)によって再興されたといいます。

大光院

 金龍寺からまた歩いて15分ほどで、大光(だいこう)院に到着。

 金山城址の南曲輪に「中島知久平」の銅像が立っており、南曲輪も「中島記念公園」と命名されていました。中島知久平、って聞いたことあるし、誰だっけなあーとずっと気になっていたら、大光院境内の入り口付近で公園になっている所に、上の看板がありました。

 中島知久平氏は、あの中島飛行機をつくった人だったんですね。太田市押切町出身。つまり、地元の英雄だったのです。

 私は昭和史を少し齧ったので、中島知久平は、政友会の総裁を務め、鉄道大臣なども歴任した政治家だということでインプットしていました。もともと実業家で、政界に進出したんですね。

 中島飛行機は戦後、富士重工となり、この群馬工場で、あの懐かしいスバル360を生産していたとは知らなかった。私が子どもの頃、父親がこのスバル360を中古で買ったので、よく乗ったことを覚えています。可笑しいくらいボロボロの中古車なのに、それなりに走りました。雨が降った時、(駐車している)車の中で遊んだりしました。

大光院

 大光院は、清和源氏新田氏の子孫と称する徳川家康が、その新田氏の祖新田義重を追善するため、慶長13年(1613年)に創建した浄土宗の寺院です。寺領300石。初代住職呑龍(どんりゅう)に由来する子育て信仰で有名で、地元では、大光院のことを別名「呑龍様」と呼んでいるようです。

 勿論、ここでも、親友だった故神林康君の冥福をお祈りしました。

東武伊勢崎線太田駅北口前に建つ新田義貞像

 大光院から歩いて25分。やっと太田駅に到着。

 太田駅北口駅前に建つ新田義貞公が「お疲れ様」と声を掛けてくれました。