「現代用語の基礎知識」が半分になってしまった!

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 今年も「新語・流行語大賞」が発表されました。 既報の通り、今年日本で開催されたワールドカップ・ラグビーの日本代表が掲げた公式テーマ「ONE TEAM」 が大賞に選ばれたことは皆さま御案内の通りです。

 今日はその話ではなく、この大賞を選考している主催者の自由国民社の発行する「現代用語の基礎知識」のこと。本当に腰を抜かすほどビックリしましたね。今年発売の「2020年版」が、前年の半分になってしまっていたのです。

 上の写真の通りです。最初は、2020年版とは知らず、19年版の付録だと思ってしまい、正直、大笑いしてしまいました。

 比較すると、2019年版が、1224ページで、3456円だったのが、2020年版となると、その4分の1ぐらいの280ページで、価格も半分以下の1650円です。

 調べてみると、「現代用語の基礎知識」 が創刊されたのは1948年10月だとか。発行する自由国民社は 昭和3年(1928年)8月5日、初代社長長谷川國雄によって設立された「サラリーマン社」が創業母体。「時局月報」「雑誌サラリーマン」等、反権力のマスコミの一端を担った、などと会社概要に書かれています。へー、そうでしたか。

  私の記憶違いかもしれませんが、かつて、東京・銀座に本社ビルがあったと思いますが、今の本社は高田馬場のようです。

 個人的には仕事の関係で、随分昔に「現代用語の基礎知識」は毎年のように何冊か購入していました。百科事典のようにずっしりと重く、全部読みこなしていたわけでもありませんでした。最近は買うことはありませんでしたが、こんな薄っぺらになってしまったとは、隔世の感があります。

 当然のことながら、人は、用字用語はネットで検索して、それで満足してしまうので、売れなくなったことが原因なのでしょうね。その変わり目のエポックメイキングが今年だとは思いませんでした。「現代用語の基礎知識」のライバルだった「イミダス」(集英社)と「知恵蔵」(朝日新聞社)は、ともに2006年に休刊しています。これまで、よく頑張ってきたとはいえ、 やはり、寂しいですね。

 

清岡智比古、大木あまり、原田マハの3氏

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 「ブログは毎日更新しなければ駄目ですよ」との京洛先生の教えに従って、今日も何かネタがないものか、と自分の渓流斎ブログを開いたところ、異様なアクセス数に驚愕してしまいました。

 普段は1日300アクセスぐらいなのに、本日は何と、2100以上もアクセスがあるではありませんか。何事かと思って、分析したところ、2005年10月8日に書いた「中村哲氏と火野葦平」の記事へのアクセスが集中していることが分かりました。中村氏とは勿論、このほどアフガニスタンで献身的な医療と灌漑活動などをしながら、武装集団に暗殺された中村哲氏のことで、火野葦平は「麦と兵隊」などで知られる芥川賞作家です。二人は甥と伯父の関係だったことを書いています。

 でも、14年2カ月も昔に書いた記事ですからね。本人も書いたことすら忘れています(笑)。恐らく、ニュースで話題になっている中村哲氏のことを検索して、このサイトに行きついたのでしょう。ご愁傷さまでした(笑)。

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 ということで、14年前に倣って、今日も、有名人の意外な縁戚関係を取り上げてみようかと思います。多くの皆さんは御存知のことかと存じますが 単に私が知らなかっただけ、という理由ですのでお許しください。

 政治家と芸能人はまるで世襲のように、親子関係が続いていて、珍しくも何ともないので、割愛します。 いわゆる文化人を取り上げます。

 最近驚いたのは、NHKラジオでフランス語の講座を拝聴しているのですが、その講師を務める清岡智比古・明治大学教授(1958~)。少し変わった名前だな、と思ったら、何と、「アカシヤの大連」で芥川賞を受賞した作家で詩人・評論家の清岡卓行(1922~2006)の御子息だったんですね。智比古氏は、清岡卓行の先妻の子で、卓行は、作家の岩阪恵子氏(1946~)と再婚していました。

 最近、俳句の本を読んでいますが、俳人として今や大御所になっておられる大木あまり先生(1941~)がいらしゃいます。もう25年ぐらい昔、東京・新橋の「均一軒」という居酒屋の2階で行われた句会で1~2回お会いしたことがあります。彼女が詩人の大木惇夫(1895~1977)の御息女だったことを知りませんでした。言語感覚というのは遺伝するんですね。

 もう一人。「楽園のカンヴァス」や「風神雷神」など今や美術を題材にした小説では右に出る者はいないと言われる作家の原田マハ氏(1962~)。彼女は、小説家、エッセイストの原田宗典氏(1959~)の実妹だったとは、つい最近知りました。

 まあ、御存知の方は「そんなことも知らなかったの?」と怒られそうですが、恐らく、この記事も、また14年後にも読まれると期待しながら書きました。

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3年4カ月の拘束から解放された戦場ジャーナリスト安田純平氏

 「ブログやめたら楽になれますよ」との天使の囁きが耳にこだましております。そうなんです。最近、どういうわけか本当に忙しい。物忘れも激しい。さっきは、ランチした和食屋さんにスマホを忘れ、慌てて取りに行きました。

 12月7日(土)は、東京・早稲田大学で開催された第30回諜報研究会(早大20世紀メディア研究所共催)の講演会を聴講してきました。内戦中のシリアで3年4カ月もの長期に渡って拘束され、昨年10月に解放された戦場ジャーナリスト安田純平氏(45)の講演を聴きたかったからでした。

 5分ほど遅刻して会場に入ってきた安田氏。筋肉質で、一瞬、武道家が入ってきたのかと思いました。それもそのはず。配られた資料の略歴を読んだら、大学時代(人橋大学と誤記)は少林寺拳法部だったことが書かれていました。

 テレビや写真などからの印象では全く分かりませんでしたが、武術に心得があったんですね。世の中にジャーナリストと称する人は何百万人もいるかもしれませんが、戦場現場にまで行く記者は限られています。よっぽどの強靭な精神力と肉体に恵まれていなければならないのですが、安田氏にそれらが備わっていたことが分かりました。

 「シリア人質事件の真相」と題した講演は1時間35分に及びましたが、メモを一切見ず、途中休憩することなく、間断なく、よどみもなく続きました。非常に記憶力が良い頭脳明晰な人でした。話は多岐に及びましたので、人質事件の経過については既にご存知だという前提で、私自身が印象に残ったことだけを書きます。

 2011年、シリアでは本格的に内戦が始まります。サダト政権は少数派ながら、軍部を掌握し、厳しい監視体制を敷きます。意外なことに、と言いますか、当然のことながら、サダト派が支配する区域の治安は良いそうです。ただし、日々監視されて自由はなく、格差も激しい。「俺たちは家畜じゃない」という鬱積が溜まって始まった反政府デモは、各地で拡大し、内戦での死者は40万人にも達したといいいます。そのうち、イスラム国(IS)による死者は数千人程度で、90%以上が政府軍による空爆などで犠牲になっているといいます。

 反政府側は、空爆の現場を動画に撮って、すぐユーチューブなどにアップしますが、政府側は「うそだ」「スタジオで撮っている」などと否定して、つぶしにかかります。つまり、情報戦争になっているのです。

 反政府組織は、安田氏は「何百もある」と言ってましたが、とにかく、安田氏は反政府側を取材しようとし、綿密な計画を立て、様々な交渉を重ねた末、2015年6月にシリア北部に入ります。ところが、真っ暗な山道を迷い、交渉をしていない別の組織に入ってしまいます。内戦シリアでは、「知らない奴はスパイと思え」という不文律があり、安田氏はすぐ捕まってしまいます。

 この時、もし武器を持っていたら、間違いなく殺害されていたでしょうが、戦場取材に慣れている安田氏は当然持っていない。同年10月になって、ようやくスパイ容疑が晴れて解放されようとしたところ、安田氏は2004年にイラクで拘束された事実(ただし3日間で解放)が先方に分かってしまいます。しかも、まずいことに、その前にすぐ解放された通訳が知り合いのジャーナリストに安田さんが拘束されていることを話したところ、「人質」と間違ったデマを世界中に報道されてしまうのです。

 「拘束と人質は違います。人質は質を取ることですから、こいつは身代金が取れると誤解されてしまったのです」。 後で、安田氏は何度も強調していましたが、日本政府もカタール政府もどこも身代金を払わず、無償で無条件で解放されたといいます。

そもそも、2015年にシリアで人質になって、過激派武装集団によって殺害されたフリージャーナリストの後藤健二さんと元ミリタリーショップ経営者の湯川遥菜さんの例があるように、日本政府は身代金は支払わないといいます。カナダ政府も同様だといいます。

 しかし、人質騒動となると、多くの怪しげなブローカーが暗躍し、中には身代金として家族に10億円も要求する輩もいました。悪質なデマや知ったかぶりの偽情報もたくさん飛び交います。そうなると、外務省もますます疑心暗鬼となり、どこの組織や人物が信用できるか分からなくなります。それが、安田氏側から見れば、「日本政府が交渉したとは思えない」との発言につながったと思われます。(他にも色んな証拠を挙げていました)

安田純平氏

 それにしても、3年4カ月も長期拘留中、よく冷静でいられたと思います。私なんか、3週間、いや3日で駄目になることでしょう。この間、安田氏は「彼らはイスラム国とは違うので、殺すことはしないだろうが、身代金が取れるまで粘るかもしれない。そうなると、無期懲役みたいなものだ。インプットがないと、過去のことを否定してしまう。あの時、違うことを選んでいたらとか、もう少し人間関係でうまくやっておけばとか、中途半端で満足して如何に自分の人生はロクでもなかったか、といった考えが押し寄せ、反省なら次に生かせるだろうが、ただ悔やむだけだから地獄だった。そのため、『とにかく生きて帰る』と(頭の中で)切り替えることにした」と振り返ります。

 安田氏は拘束期間中、10カ所も移転させられ、敵は「私の名前はウマル、韓国人だ」と言え、と安田氏に強制し、その模様はネットで全世界に流されます。「それを見たワイドショーのコメンテーターと称する精神科医が『精神が錯乱している』と言ったらしいが、自分は、セリフを言わされただけ。向こうは身代金を取るためにビデオを撮っただけなのに、そのままテレビで使ってすぐ信じてしまう。『(安田氏は)自殺未遂を3回もやっている』などとも流されたらしいけどデマですよ。信じてはいけない。戦争になると、宣伝工作や情報戦になるけど、こんな弱い国は無理。憲法云々の前に日本人は戦争は無理ですよ」と、諜報研究会を意識した発言もしておりました。

 安田氏の講演会の結びの言葉は「(皆さん)好きなことをやってください」でした。彼は、パスポートを申請されても却下されたという報道もあり、拘束中の食事やシャワーのことや、今後の計画など色々質問したかったのですが、講演が終わってすぐ退出してしまったので、その機会を逸しました。

 そんなこんなで、安田氏のことをブログに書くのは少々憚れましたが、私自身も、拘束と人質の違いなど色々と誤解していたこともあり、「メディアとネットがデマを拡散した」という安田氏の主張は至極もっともなので、彼を援護する意味で、このような「印象記」を書くことにしたわけです。

 

鳥取砂丘~姫路城~倉敷・大原美術館=山陰・山陽の旅最終日

姫路城

 12月3日(火)は「山陰・山陽の旅」の3日目、最終日でした。待ちに待った姫路城です。

 その前に、この日の朝は、前日暗くて行けなかった鳥取砂丘へ。

鳥取砂丘

 前日夕食を取った丘の上の土産物屋さん付近から二人乗りのリフトで下って砂丘へ。往復300円のリフト代はツアー代に含まれていました(笑)。5~6分で砂漠へ。

朝の9時前で、シーズンオフだったせいか、我々ツアー参加者以外誰もおらず、日本海から吹きすさぶ風が冷たくて、寒くて早く帰りたくなりました(笑)。

ラクダさんもおらず、「ラクダの写真を撮ったら料金頂きます」との看板だけが空しく、突風に耐えていました。

1993年 世界文化遺産の日本第一号として記載された姫路城

 鳥取市から無料高速道路の鳥取自動車道と有料の中国自動車道などを通って、約2時間ぐらい掛けて南下して一路、姫路城へ。

 バスの中で、御一緒した「一人旅の達人」で74歳ぐらいにみえるK氏と話が弾み、彼は「鳥取自動車を有料にしたら、通る人がいなくなっちゃうからだよ」とか、「このツアーは安いよ。東京~岡山の新幹線グリーン車券だけで、元が取れちゃうから。ホテル代もバス代もタダみたいなもんだよ」と仰るではありませんか。

姫路城 籠城に備えて城内には11カ所の井戸があった

 なるほど、鳥取県の人口はわずか57万人。10月末に、栗原先生のお導きで宇都宮城に行きましたが、宇都宮市の人口だけで51万人ですからね。鳥取市の駅前商店街もシャッターで閉まっている店が多く、何と言っても、街灯が少なくて薄暗い。物価も他府県と比べて安いのでしょう。だから、「おまけ」の宿泊ホテルは鳥取県になったと思われます。K氏は「瀬戸内海側の岡山や姫路に泊まったら採算が合わないわけですよ」と言うのです。

 もう一つ。東京~岡山の新幹線グリーン車往復料金は、4万7460円。それなのに、ツアー旅行代金は、シーズンオフのため4万9900円。差し引き2440円で、ホテル代、バス代、入場料代、ガイド代等を賄っていたわけか…んな、そんなことできるわけない!

 2泊3日で、夕食は1回だけしか付いていなかったり、一日何カ所も土産物店を回ったりしていることから、提携、連携、共済、共存等色んなバックマージンで、業務を維持しているのでしょうね。

姫路城 地上6階、地下1階の7階構造 大天守の高さは31.5メートル 

 あ、旅行記のはずが、とんだ話になってしまいましたね。とにかく、姫路城です。ツアーに参加していなければ、入場料は1000円でした。

 姫路城の歴史は元弘3年(1333年)、護良親王の命により挙兵した赤松則村が京に上る途中、姫山に砦を築いたのが始まりだと入り口で入手したパンフレットに書かれていました。

 歴代の姫路城主の中で重要人物を挙げると、まずは羽柴秀吉(1583年から3年間)。長州毛利攻めの際、黒田官兵衛の勧めで入城しました。今の姫路城を整えたのは、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)に城主になった池田輝政。徳川家康の次女督姫と結婚し、播磨52万石を与えられました。薩摩、長州など西国列強に睨みを利かせる役割を担わされたわけです。

 元和3年(1617年)には、徳川四天王の本多忠勝の嫡男忠政が、伊勢国桑名から移封され、一緒に同行した忠政の嫡男忠刻に、二代将軍秀忠の長女千姫が再嫁します。千姫は7歳で豊臣秀頼と政略結婚させられますが、大坂夏の陣で大坂城から脱出しました。西の丸には今でも「千姫の部屋」があります。

 本多家のほかに、徳川の親戚と思われる松平家や、やはり徳川四天王の榊原康正や酒井忠次の末裔と思われる榊原家や酒井家などが城主となっていることから、相当な重要拠点だったことが分かります。

 姫路城がなぜ、国宝になったかと言えば、何と言っても、明治政府の愚かな廃城令から幸運にも免れ、太平洋戦争での米軍による2度の姫路空襲で奇跡的に生き残ったことが大きいですね。

 明治、昭和の大修理を経て、平成21年(2009年)には6年かけて「平成の修理」が行われ、「白鷺城」の異名通り、輝くばかりの白さが復活しました。

好古園 入園料300円(姫路城との共通券なら1050円だとか)

 そして、現在は、この城はどなたが所有しているのかと思ったら、な、何と文部科学省なんだそうです。「なあんだ、日本国民の共有の財産か」と安心していては駄目ですね。何しろ、今の官僚は、人事権を握られた安倍最長期政権に忖度して生きています。姫路城も、偽造されたり、改ざんされたり、廃棄されたり、シュレッダーで「なかったこと」にしたりしかねませんよお。

 いや、ブログが炎上してはいけないので、この辺で。2時間の自由時間が少し余ったので、姫路城西御屋敷跡に日本庭園として平成4年に開園した「好古園」を散策しました。結構広くて、途中で迷子になって、駆け足でバスにまで戻りましたが、紅葉がとても綺麗でした。

倉敷

 念願だった姫路城を後にして、バスは倉敷へ。当初は、色々と散策しようかと思いましたが、昨日書きましたが、急きょ、1時間15分の自由時間を大原美術館一本に絞ることにしました。

大原美術館 本館/ 分館と工芸・東洋館を合わせて1300円

大原美術館といえば、代表作は、エル・グレコの「受胎告知」でしょうけど、あたしは、グレコはスペインのトレドやマドリードでかなり観てきましたからね。お目当ては日本美術でした。

 「工芸・東洋館」では、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなどの陶芸作品が充実していました。

 創立者の大原孫三郎が支援し、美術館の収集品の元になった買い付けもした画家の児島虎次郎の作品も初めて見ましたが、なかなか良かったですね。岡山出身の虎次郎は東京美術学校は2年飛び級で卒業し、欧州に留学してベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業します。帰国後、「朝顔」など印象派の影響がみられる大作など旺盛な創作活動を続けましたが、病に倒れ、47歳の若さで亡くなっています。

 この後、倉敷から岡山に戻り、新幹線のグリーン車で帰京した次第。3日間、小生の旅行記にお付き合いくださり、誠に有難う御座いました。私もこれで、やっと、一息つくことができました。

 業界団体の幹部職員から「渓流斎さん、ブログは何時間もかけて執筆されているとのことですが、やめたらきっと楽になりますよ」と甘い誘惑の声を囁かれましたが、頑張ってその誘惑を断ち切って完走することができました。これも皆様のお蔭です。感謝!

足立美術館と念願の出雲大社へ=山陰・山陽旅行の2日目

足立美術館

12月2日(月)。「山陰・山陽旅行」の2日目です。初日は、移動日だけということで、米子駅前の床屋のおじさんの枕話だけで終わってしまいました。

 この日は、集合時間前の早朝に、米子城址に行く予定でしたが、早朝から雨。すっかり意気消沈して行くのをやめてしまいました。

足立美術館

この日のハイライトは、出雲大社の参拝です。

何で、出雲大社は島根県なのに、鳥取県の米子市に宿泊したんだろう?それは、後から理由が分かりました。

 団体ツアーの総勢は46人。貸し切りバスに乗ると超満員です。私自身、色んなツアーに個人で参加しましたが、こんな多いのは初めてでした。ほとんど人生を達観された方々ばかりでしたが、何でこんなに多いんだろう?その理由も後から分かりました。

足立美術館

 出雲大社の前に、日本庭園と120点の横山大観のコレクションを誇る「足立美術館」に立ち寄りました。入館料は、な、何と2300円。でも、ツアー料金の中に含まれていました(笑)。

 足立美術館を訪れるのは30年ぶりぐらいで、2回目です。でも、それだけ、歳を取ったせいか、深い感動が心に染み入りましたね。

日本庭園は、米国の専門誌で、2003年から連続16年も「日本一」に輝いているそうで、苔庭あり、枯山水あり、白砂青松庭あり…。5万坪もの敷地があるそうですから、見ていて飽きない。できれば、一日ボーと過ごしたいぐらいです。チコちゃんに叱られてもかまいません。

足立美術館

 展示されている絵画は、もちろん、撮影禁止でしたが、横山大観はじめ、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂ら日本画を中心に1500点(所蔵分も含む)。私は、若い頃は印象派を中心に西洋の油絵ばかり見続けてきましたが、歳を取ると日本に回帰するといいますか、断然、日本画の方が鑑賞するのが五臓六腑に染み込んで楽しくなりました。かなりの欧米にある美術館巡りをしましたし、もう、泰西名画はお腹いっぱい、といった感じです。

足立美術館

 足立美術館を開館した足立全康(1899~1990)は、地元安来市出身の実業家で、「庭園も一幅の絵画である」という信念のもとで、このような庭園を充実したらしいですが、本当に素晴らしい。

 下世話な話ですが、横山大観の富士山の絵画が、7億円はくだらないと言われていますから、120点ともなると、大観さんだけで、840億円はくだらない、わけですね。

 その財力はどこから来たのか?館内の年譜によると、足立全康は、尋常小学校を卒業後、家業の手伝いから、炭団(たどん)の販売を始め、それが当たって、商売を広げ、地元の安来鋼(はがね)や繊維卸業を軌道に乗せ、戦後は不動産投資で富を築いたようです。

後日談ですが、たまたま、その日の夜に、京洛先生から電話があり、足立美術館の素晴らしさを話したところ、「いやいや、倉敷の大原美術館の収蔵品の方が量・質とも上ですよ。是非、倉敷に行って比べてみてください」というので、最終日の3日目に倉敷に立ち寄った際、自由時間はすべて大原美術館に費やしました。

 大原美術館は1930年に、大原孫三郎によって開館されましたが、孫三郎は倉敷紡績(クラボウ)、倉敷絹織(クラレ)、それに今の中国銀行や中国電力などの社長を務め、大財閥を築いた人ですから、やはり、こちらの方が、桁違いの財力でした。

二の鳥居である勢溜(せいだまり)

さて、個人的には念願だった出雲大社にバスは向かいました。

 その途中で、団体ツアー旅行には付き物として、「トイレ休憩」の建前で必ず立ち寄る土産物店にバスは横づけされました。そこは「島根ワイナリー」といって、地元産のワインが9種類ほど試飲ができるのです。甘口から辛口までバラエティーに富んで用意されて、まさに飲み放題。途中で分からなくなってしまいましたが、8杯ぐらい飲んでしまいました。意外にも甘口ワインが旨かったでした。

 ただ酒を呑んでしまったので、「悪いなあ」と思い、買いたくもないお土産を2点買いましたよ。いけない、敵の罠にまんまとハマってしまった。

奥に一の鳥居が見えます

 出雲大社本殿近くの土産物店の2階で昼食を取った後、30分ほど自由時間になったので、一の鳥居(高さ23メートル)に行ってみようかと思ったら、外はどしゃぶりでした。途中まで行ったのですが、靴下まで濡れてきて、集合時間に間に合わなくなるといけないので、あえなくギブアップして引き返し、二の鳥居(高さ8.8メートル)がある勢溜(せいだまり)で我慢しました。

神楽殿

 集合時間に戻ったところ、どういうわけか雨はやんでくれました。

 ガイドさんの案内で、最初に連れて行ってくださった所は、神楽殿。大注連縄が特徴的で、私も写真で何度か拝見したことがありました。

 素人の方は、ここが本殿だと勘違いして、ここだけお参りして帰ってしまう人もいるんだとか。

オオクニヌシノミコト

 御存知、大国主大神、オオクニヌシノミコトです。出雲大社の祭神です。

 「因幡の白うさぎ」の話や国譲りの物語に登場します。

拝殿

はい、ここが拝殿。1963年に新築され、高さ12.9メートルあるそうです。

 右側に少し見えるのが、国宝の御本殿です。

神楽殿の大注連縄

 その前に、先ほどの神楽殿の大注連縄のアップ。以前は、この大注連縄に向かって、お賽銭を投げつける輩が多く、たくさんのコインが藁の間に挟まっていたそうです。今はない、ということは禁止されたのでしょう。

 長さ13.6メートル。重さが5.2トンもあるといいますから、下敷きになったら大変ですね。

八足門

 御本殿に向かいました。建物は、将軍徳川吉宗の頃の延享元年(1744年)に完成されたもので、国宝。

 ただし、上の写真は御本殿の手前にある八足門で、お正月以外、普段は御本殿に入れませんのでここで参拝します。

 神社での参拝は、普通は、2礼2拍手1礼ですが、出雲大社だけ特別で、2礼4拍手1礼となっていました。

御本殿

 上の写真が、国宝の御本殿です。屋根の上にバッテンのようにクロスしたものがありますが千木(ちぎ)と呼ばれ、穴も開いていますが、その穴の大きさはヒトの頭が入るくらいの大きさなんだそうです。

江戸時代につくられた御本殿の高さは24メートル。平安時代はこの倍の48メートルもあったそうです。それどころか、日本古代文明の発祥地とでも言うべき出雲国なので、当時は96メートルという全国一の巨大な建造物だったことが、2000年に発見された遺跡で明らかになっています。

 祭神のオオクニヌシノミコトは、西に向かってお座りになっているので、写真ではこちらに向かってお座りになっていることになっています。目と目が合いましたか?

 そうそう、出雲大社は60年に1度、「遷宮」という行事があります。ただ、出雲大社の場合、伊勢神宮のように場所は移動せず、瓦葺を新調するんだそうです。使われるのはヒノキの檜皮。これが不足して将来的に心配されるそうです。あわてて植林しましたが、檜皮が取れるヒノキが成長するのに120年もかかるんだそうです。

 遷宮の直近は平成25年(2013年)、その前は昭和28年(1953年)。次回は2073年ですが、ガイドさんは「60年後も皆さん、お参りに来てくださいね」と呼び掛けていました。これに対して、皆、力なく苦笑するだけでしたが。

お菓子の壽城

 さて、この後向かったのが、米子城です。

いや違った、「お菓子の壽城」というお菓子屋さんです。島根県出雲市から、また鳥取県米子市に舞い戻ってきました。「また、土産物屋かあ」と思いましたが、ここは許します。見事なお城の建物です。米子城を復元したらしいのですが、随分お金をかけているなあ、と思いました。

 早朝、行けなかった本物の米子城址の仇を取った感じでした(笑)。

12種海鮮御膳

 この米子市からバスでまた1時間半もかけて東へ走行し、 鳥取市へ。夕食は、鳥取砂丘のお土産屋さんを兼ねた食堂へ。午後5時半近かったので、外は真っ暗。街灯がほとんどないですからね。砂丘も見えないので、予定が変更され翌日回しとなりました。

 夕食は12種類の海の幸、海鮮御膳。中ビール650円は少し高め。

 2日目の宿泊先は、鳥取駅近くのシティホテルでしたが、駅前通りは寂れてシャッター商店街。街灯も少なくて、薄暗かった。むしろ、東京の夜の明るさの方が異常なのかもしれませんけどね。

 それにしても、2日目の宿泊先もまた鳥取県。どうしちゃったんでしょうかね?これまた、後で分かることになります。

 3日目は、ついに念願の姫路城と倉敷の大原美術館に行くことができました。(つづく)

初めての米子で面白い床屋のご主人と会う=山陰・山陽の旅

 「城好き」を自称しておきながら、日本一のお城「国宝 姫路城」にまだ行ったことはありません。「ライフワークは、寺社仏閣巡り」と宣言しておきながら、八百万の神が集まる出雲大社にも行ったことありませんでした。

 それじゃあ、駄目でしょう。ということで、この二つがセットになっていた団体旅行ツアーがあることを10月某日の新聞広告で見つけて、一人参加も同じ料金ということもあって、申し込んでみました。

その旅行の出発が昨日12月1日のことでした。東京から岡山までの「新幹線グリーン車」というのが、このツアーの「売り」でしたが、豪華さはそこまで。残念!初日は移動だけで、6時間半も掛かり、どういうわけか宿泊先が、何も関係がない鳥取県の米子市の駅近くのシティホテルで、大浴場がなし。

しかも、その日は、夕食もつかないということで、グリーン車代の影響がここまで波及するとは、申し込んだ参加者の中で想像出来る者は一人もありませんでした。

早速、ホテルを出て散策したところ、米子城跡があることが分かりました。看板では駅前辺りから800メートル。でも、雨が少し降ってました。少し走ったりして、15分ぐらいで、城址公園の入口みたいな所に着きましたが、辺りは真っ暗。これじゃ無理なので、明日、早朝にでも行くか、ということで、再び、駅に戻りました。

そしたら、床屋のネオンサインが目に入り、頭をカットしてもらうついでに、色々と米子市の情報を「床屋談義」で、取材しちまおうという魂胆で入ってみました。

米子市の特産物は何か?観光名所は何か?地元の有名人は誰か?ー色々とご主人に聞いてみましたが、あまりよく知らない、とどうも話が噛み合わない。おかしいな、と思ったら、このご主人はもともと松江市出身で、どうも、電車で40分ぐらいかけて米子にまで来ているみたいでした。

米子市は鳥取県とはいえ、西端で島根県に近く、県は違えども、松江市文化圏に入ることが初めて分かった次第。

 ご主人に、地元の人がお勧めの居酒屋を紹介してもらおうか、と聞いたところ、この床屋から歩いて1分ほどの「太平記」という店を教えてもらいました。

あとは、こっちが質問もしていないのに、ご主人自身が旅行した北海道の話になり、函館でのナオンは酷かった、札幌のススキノのサロンの横の店では隠れてやっていたとか、その筋の話のオンパレードになり、とにかく、興に乗って、変態的なレラシオンとか、ホワイトは凄いとか、一日に三回はしなきゃ、みたいな話を滔々とまくし立てて止まらないのです。

あまりにも、そういう数奇ものの話が多いので、「ご主人は、さっき自分で43歳って言ってましたけど、ご結婚されてないんですか?」と、つい、プライバシーを侵害してしまいました。

そしたら、「ええ、自分は独身ですよ。結婚するつもりないし、別に寂しくないですよ。老後のお金を貯めているんです。趣味としてクラシック音楽を聴いたり、サスペンスが好きなので本を読んだり、映画を観たりしてますから」と言うではありませんか。

 「あら、独身でしたか。そしたら、あっちの方はまだまだ頑張りたくてしょうがないでしょうね」と、私はもう達観してますから、彼を励ましておきました。

ご主人の独演会が終わった頃、本職も無事に済み、カットと軽いシャンプーで、料金はわずか1700円でした。安い!

この後、ご主人に教えられた通り、「太平記」で一人で呑んでいたら、何と、その床屋のご主人が店に来るんじゃありませんか。吃驚です。彼も飲みに来たと思ったら、詳細は分かりませんが、どうやら、一日の売り上げ金をこの店に銀行代わりに毎日預かってもらっているようでした。真相は分かりませんが。

 なーんだ。「安くて、美味しい、手頃な店」と聞かされていましたが、何かグルみたいですね(笑)。もっとも、添乗員さんが配ったお勧めの店のナンバーワンの店がこの店でしたから、グルというのは言い過ぎだったでしょう。

地元、いや、恐らく隣りの島根県の地酒のヤマタノオロチは、結構、口に合って美味しかったです。この日は予約客でいっぱいで、何人かの人が断られていました。私が入店できたのもラッキーでした。また、米子市に来るようなことがあれば、またこの店に来ますよ。そう言えば、鳥取県は、故片岡みい子さんの親友の米澤画伯の出身地でした。鳥取県を悪く言ったわけじゃありませんからね(笑)。

今日は、何か酒場放浪記みたいな話になってしまいました。次回は、ちゃんとした出雲大社や姫路城のお話になります。

ヒトとチンパンジーの遺伝子数は全く同じ?=DNAのヒミツ

今、新幹線の車内です。しかも、身分不相応にもグリーン車です(笑)。これから、出雲大社と姫路城に行って来まーす。

 さて、昨日の土曜日は、今年100周年を迎えた甲南大学の公開講座を聴講して来ました。同大学フロンティアサイエンス学部の三好大輔教授による「あなたの知らないDNAのヒミツ」という演題でした。

 小生、文系ですからこんな難しい話を聴講するなんて、まだ知的好奇心は衰えていない証拠ですね。

今さらご説明するまでもないのですが、DNAとは、ヒトの生命の情報を担う核酸のことで、A(アデニン)、T(チミン)、G(グアニン)、C(シトシン)のたった4種類が30億個並んでいます。(AはTと、GはCと結び付くが、この組み合わせ以外の連結はない!)これをゲノムといい、ヒト・ゲノムは1990年から2003年まで13年かけて、全配列の解析に成功しました。

ちなみに、ヒトは60兆個の細胞で出来ており、120兆メートルのDNAがあるということですが、そう言われても見当もつきませんね。

DNAの中で、遺伝子というタンパク質の情報を持つ部分は、全体のわずか1%で、ヒトには2万2000個あります。チンパンジーの遺伝子も全く同じ2万2000個だというのですから、「霊長類の頂点」などと威張ってられません。それどころか、イネには3万2000個の遺伝子があるといいますから、何をか況わん。

同じヒト同士でも、遺伝子の配列の違いはたったの0.1%。そうは言っても、DNAは、ATGCが30億個並んでいますから、30億の0.1%なら300万カ所違うわけです。

さて、唐突ながら、生命にセントラルドグマ(中心教義)なるものがあり、遺伝子情報には、DNA→RNA→タンパク質へという流れがあります(1958年、フランシス・クリックが提唱)

この流れは、まずDNAが複製され、それが転写されて、mRNA(伝令RNA)を通して翻訳され、タンパク質が合成されます。細胞が死滅して、再生されるわけです。

 さて、このDNAが複製される際、テロメアと呼ばれる末端が、本来なら死滅して先端部が切れていくのが、そのまま残り(不死化)、これががんになるというのです。原因は、老化によるもので、ヒトの細胞は、50歳を過ぎるとそんな不死化の可能性が高くなります。

例外的に良い意味で不死化しないのは、生殖細胞です。途中で、末端部が切れてしまっては、生まれてくる赤ちゃんに影響が出てきてしまいますからね。

ヒトは老化すると、細胞分裂(複製)の度に少しずつ(10億個に1個の確率)変異が蓄積され、これが疾患(がん)につながります。

講師の三好教授は、このDNAの複製からタンパク質が合成される際の途中で、mRNA(伝令RNA)が仲介することと、従来ゴミだとみなされていたイントロンが触媒として重要な働きをしていたことに注目して、このRNAを標的にした薬剤開発を研究中なんだそうです。

成功すれば、ノーベル賞ものかもしれません。その時が楽しみです。「私は三好教授の講演を聴いたことがあります」と自慢します。

「新善光寺展」が開催中=京都・泉涌寺

おはようございます、京洛先生です。

 昨年も渓流斎ブログで紹介、掲載してくださった「新善光寺展」が、今年も11月30日(土)まで、京都・泉涌寺山内にある「新善光寺」で開かれています。

今年は今週27日(水)に、天皇皇后両陛下が“皇室の御寺”である、泉涌寺に行幸啓されたので、同日は、新善光寺の界隈や狭い参道は、小旗を持った人が押しかけ、いつもは閑静な同寺一帯は大賑わいでした。

ワタシは、渓流斎さんも旧知の加藤力之輔画伯が新善光寺のご住職と入魂でもあるということで、彼のアトリエにお邪魔して、同展を覗いてきました。

 今年は、770年余にわたり同寺に伝わる「寺宝」や皇室ゆかりの遺品も展観、公開され、庭の紅葉とともにじっくり鑑賞してきました。 (残念ながら、寺宝等は、写真撮影禁止でした)

後嵯峨天皇が1243年(寛元元年)の勅願で創立、開山された「新善光寺」ですが、その謂れは、はるばる、信濃の「善光寺」に行かずとも、京の都で信州善光寺に祀られている阿弥陀如来と同仏同体を鋳造して、そのまま拝めるようにということで「新善光寺」の名前で建立されたわけです。

新年令和2年1月1日から始まるお馴染み、JRグループが大キャンペーンを張る「京の冬の旅」に新善光寺が初公開されることになったので、 今年は、そのポスターに使われた狩野周信筆の襖絵「鞨鼓楼図」も公開されました。

その前に、取り敢えず、新善光寺の境内の紅葉などをご覧ください。

恐らく、都心の東京駅をはじめ、銀座や新宿、渋谷などで、この襖絵をバックに座る片山九郎右衛門(能楽師)の、“京の冬の旅”の一大キャンペーンのポスターや映像が頻繁に大写しで流されることでしょう。

廊下の奥の絵は加藤力之輔画伯の作品です。

こちらもそうです。

皆さん、京の都がお待ちしております。

拝復

 確か、泉涌寺は真言宗だったはずですが、浄土教の阿弥陀如来の信仰も強いんですね。

 先週、後輩が京都に紅葉狩りに行ったら、大混雑で、歩くのも大変だったという話を聞きましたよ。

 あまり観光客が来ない、知られていない名所を狙うしかありませんね。

こんな近くに遠くの楽しさ=吉竹純著「日曜俳句入門」

 私は、どちらかと言えば、桑原武夫の「第二芸術」派で、俳句や短歌といった短詩型に関しては、敬して遠ざかっておりました。特に、結社というものは、偉い三太夫みたいな髪を生やした巨魁と呼ばれる大先生がピラミッドの頂点に君臨、もしくは世襲していて、会費という名の上納金を納めさせて、下々を睥睨しているように部外者からは見えました。

 でも、俳句や短歌自体には罪がないわけですよね。(もちろん結社も)立派な文藝という名の芸術で、第一とか第二とか序列を付けられるのは、甚だ不本意なことでしょう。

 このブログを愛読してくださっている皆様にはお分かりの通り、今、私は吉竹純著「日曜俳句入門」(岩波新書、2019年10月30日初版)を読んでいます。何故、短詩型嫌いの私がこの本を読むことになったのか、については、今日は説明致しません。お時間がある方は、小生が先日の11月26日に書いた「コピーライターから歌人・俳人に」をお読みください(笑)。

 私は、人間的に随分単純に出来ているのか、この本を読んで、桑原武夫的束縛というか、桎梏からほんの少し脱却できました。「結構、面白そうじゃん」といった軽いノリです(笑)。

 俳聖と呼ばれる偉い人の句を「詠む方」ではなく、「作る方」のことです。新聞などに投稿することを「投句」というそうで、この本の帯にも書かれている「こんな近くに投句のたのしさ」は、前回もご紹介しました。著者の吉竹氏は、「日曜大工」のノリで、忙しいサラリーマンの方でも休日に暇を見つけて、新聞や広報誌やコミュニティー雑誌でも何処でもいいから、投句してみませんか、と薦めているのです。(もう何年も前から、有名なプロ中のプロの俳人でさえも、新聞に投稿しているそうです!)

 そして、この本には、選者に選ばれる極意というかテクニックを教えてくれているのです。前回にも書きましたが、著者の吉竹氏は、電通のコピーライターを経てフリーになり、俳句だけでなく、短歌も新聞等に投稿し、ついには頂点ともいうべき天皇陛下の「歌会始」に入選しています。

 その極意というのは、ごくごく簡単に言えば、選者の句集を熟読吟味して、社会派か、花鳥風月派かといった「選者のクセをつかめ」という結論に落ち着くのではないでしょうか。東京で発行されている主要6紙の掲載日は、日曜日が朝日と東京、月曜日が毎日と読売、木曜日が産経、土曜日が日経というのは基本中の基本。朝日俳壇だけは、投句は葉書だけでしか認めていません。それは、毎週1回、選者が朝日新聞東京本社に集まり、同じ葉書に目を通すという共選システムだからだといいます。ネット投句を最初に解禁した新聞俳壇は、意外にも選者を年功序列で配し、レイアウトを固定している読売俳壇で1989年9月から。「俵万智さんが1996年6月に史上最年少の33歳で読売歌壇の選者に就任しており、私はこれを契機に始まったとばかり思っていましたが、それより7年も前から実施されていたとは驚くばかり」と吉竹氏は書いています。

 投句者にとって、掲載されることは名誉であり、これほど嬉しいことはありません。それには、メールがいいのか、葉書の方がいいのか? 手書きがいいのか、ワープロ字の方が採用の確率が高いのか?句の背景説明である「前書き」を書いた方がいいのか?季語がなくてもいいのか?自分で季語をつくってもいいのか?-まあ、色んなことが書かれています。

◇間違いでは?

 前回、岩波書店の校正は日本一と言えるぐらい厳格だ、といったことを書きましたが、えへへ、この本の中で、間違いを見つけてしまいました。38歳で夭折した画家有元利夫(1946~85)のことを著者の吉竹氏が詠んだ一句に

 花降りぬ有元利夫笛吹けば

 があります。この句は、産経俳壇2007年4月に小澤實選で掲載されました。

 有元利夫は、宮本輝の小説「錦繍」などの表紙も担当したバロック風の絵を描く知る人ぞ知る天才画家ですが、そもそも、彼を知らない選者だったら、この句は掲載されなかったわけです。これ以上、作品について踏み込むのは置いといて、実は、彼は、吉竹氏の電通時代の1年後輩のデザイナーだったというのです。ただし、彼は東京芸大美術学部には4年浪人して入ったので、「年齢は一つ上でした」(91ページ)と著者は書きます。でも、有元利夫は1946年9月23日生まれ、吉竹氏は48年生まれ(一浪して72年に大学卒業ですから早生まれではない)ですから、「年齢は二つ上でした」の間違いではないかなあ、とフト思ったのです。我ながら、嫌な性格ですねえ(笑)。

 ま、私も仕事で校正も、やっているので、職業病みたいなもんですよ。

京都・光明寺(西山浄土宗総本山)は今、紅葉の見ごろです

京都の京洛先生です。

「東西タイムズ」の渓流斎編集主幹から「京の都の紅葉の写真を送ってもらえませんかね。東京の紅葉は深みがありませんから」とのご依頼もあり、本日、午後から、洛外、長岡京市にある西山浄土宗総本山「光明寺」に出向き、パチパチ写真を撮ってきました。

Copyright par Kyoraque-sensei

紅葉のこの時季は「光明寺さんの紅葉は、綺麗やし、見に行きまひょか」と、近畿各地から見物人が大挙押し掛けるので、阪急「長岡京市」駅から、阪急バスが臨時増便されて、大賑わいでしたね。

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編集主幹とは、今夏、同じ西山浄土宗で、山科にある青龍山「安養寺」を訪れた際、村上純一御住職から「総本山光明寺は、宗祖法然様の御廟もあり、一度ご覧になるといいですよ。今の時季は閑静で人もほとんどいませんから落ち着くでしょう」と勧められましたね。

 確かに、暑さの頂点を極めたあの日、人影が全くない同寺を訪ねることができましたが、今日は、打って変わって大変な賑わいで、見物客目当ての様々な露店も出ていて、「これが同じあの光明寺か」と吃驚仰天です(笑)。

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あの夏の日、渓流斎主幹は、青葉を見ながら「紅葉の時季になると、恐らく、此処は一面、紅葉参道になるのでしょうね」と言っておられましたが、全くその通りでした。これから12月半ばまでは、紅葉見物が出来るくらいまだ青葉も残っていました。

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総門から御影堂までの石畳も、紅葉見物の人出が絶えず、阿弥陀堂、御影堂の堂内も、老若男女、子供連れ、アベック等々でごった返していました。

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光明寺は京都の西南の西山連峰を背景に、今から800年前、法然上人の教えを伝えるべく建立されましたが、総門の前には「浄土門根元地」と大きな石標が建てられています。

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広い境内は、楓の木が多く、「薬院門」から「閻魔堂」にかけての緩やかな下り坂は、まるで紅葉のトンネルのようで壮観でした。

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「御影堂」の裏には「国光大師の御廟」があります。この夏は、御影堂の中に入り、誰もいないお堂で、年老いた管理人の方の詳しい光明寺の謂れを教えてもらいましたが、裏手は拝観しませんでしたね。石庭もありました。…

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この時季だけは入山料500円を徴収されますが、それだけの値打ちはある境内の紅葉探訪、散策でした。

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御影堂の中から、外の紅葉の色合いも綺麗でしょう。

機会がありましたら、また紅葉狩りに京都にお越しください。

以上

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京洛先生江

そうですか。またまた、光明寺まで足を運ばれたのですか。少し、懐かしいですね(笑)。

 確か、光明寺から長岡京市駅までのバスが1時間に1本か2本しかなく、「大変な所に来てしまった」と思いましたが、紅葉のシーズンは臨時バスが出るんですね。

 たくさんの人出の中、「アベック」なんて、1960年代風で、今では死語になってしまいましたが、京洛先生の時間は停まっているのでしょうね(笑)。

 あれから、私自身は、日本浄土教に関して、ほんの少し勉強しましたので、西山浄土宗も、鎮西派も、法然上人も、弁長上人も、証空上人も、そして、阿弥陀如来の思想も知識として増えました。お蔭で、これからも寺院や仏像を参拝するのが、ますます楽しみになりました。

 また、いつか京都に行って寺社仏閣巡りをしたいと思っています。ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

渓流斎