北野天満宮の梅が咲き始めました

 京都にお住まいの京洛先生から、うれしい「風物詩」を送ってくださいました。

…大阪の梅田にまで遠出し、念願のデジタルカメラを奮発して買ってしまいました。

今日の午後、その新しいデジカメで近所の「北野天満宮」の梅を撮ってきました。だいぶ紅白梅が咲き始めました。2月の「節分」を終える2月8日(金)から境内の「梅苑」公開は3月半ばまで始まります。「梅が咲いたか、桜はまだかいな」ですね。

 デジカメは高性能カメラで画素数が高く、一度そちらにお送りしたのですが、うまく行きませんでした。そこで、少し画質を落として配信することに致しました(笑)。

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 それにしても、一年経つのは早いものです。こういう具合にあっという間に終わるのです。

 「合格祈願」のお札をかけて無事、大学入学した受験生もあっという間に4年経ち、社会人になり、定年を迎え、人生終末を迎えるわけです。

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あっという間に一生ははかなく終わるわけですから、一日一日を大事にしないといけませんね。…

 諸行無常。何か、「平家物語」か「方丈記」を読んでいる感じですね(笑)。

 一日一生

 

秋葉原研修ツアーで不愉快事が三つも

昨日の月曜日は、有休を取って、某通訳団体の研修会に参加してきました。場所は、秋葉原です。昨年、久しぶりにオランダ人家族の東京旅行をガイドした際、下調べに大変苦労したので、最新情報を仕入れようと思ったからでした。参加費は6000円。でも、不愉快なことが三つもありました。

ということは、愚痴めいた話になるので、「そんなもん、聞きたかねえだあ~」という紳士淑女諸兄姉の皆様は、この先、お読みにならなくて結構です。さようなら。

秋葉原

秋葉原の現地集合が午前8時45分と早く、いつもとは違って早めに家を出ました。そしたら、運悪く、乗った電車の前の座席に座っている変な男が、私が彼の前に立った途端、持っていたA4判下敷きサイズのプラカードを左右に激しく振り始めるのです。そこには「歩きタバコ禁止」と書かれていたのです。

えっ?何? 私はタバコは吸いませんし、まして、ここは電車内ですよ!頭がおかしいに違いありません。男は、70歳ぐらいか。深く帽子を被り、マスクをして眼鏡をかけ、素顔は分かりません。こういう輩は何をしても時間の無駄なので、次の駅で空いた反対側に移動したところ、その狂人は、聞こえよがしに「やっと行ったか」ですよ。えっ?私が一体、何をしたというのですか。たまたま、空いていた空間に立っただけで、何の関わりもなく、初対面のすれ違いにしか過ぎないのに、何で、恨まれる筋合いがあるというのでしょうか。不愉快でしょうがありませんでした。

上階にある店舗のロボットは定評があるとか

これが不愉快の一つ目(笑)。二つ目は、通訳研修会の講義で、主宰者が「メモ厳禁」と宣言したことでした。理由は、資料に全て書いてあるからということでしたが、ありえない!秋葉原の現地ウオーキングツアー中に、メモを取ることは、他の一般客の通行に邪魔になるので、理解でき、私も「メモ禁止」とは戸外の話かと思ってたら、部屋の中での誰にも迷惑を掛けない講義でも駄目と言うんですからねえ。知らずにメモを取っていたら、鬼面のような怖い顔をした女講師が「メモは厳禁です。ここからもメモしていることは見えますよ」ですって!

秋葉原

私は、資料に書いていなかったことをメモしていたところでした。意味が分かりません。頭おかしいじゃないでしょうか。記者からペンとメモ帳を取り上げることは、大工からノミやカンナを奪うのと同じですよ。今度また、メモ禁止なんて言うのなら、そんな研修会やらセミナーなんかには参加しませんよ。

戦後、GHQが露天商を「ラジオセンター」に一堂に集めたといいます

でも、ウォーキングツアーは、主宰者が凄い下調べをしていて、大変役に立ちました。これでも、私もかなり下調べしましたが、知らないところも案内してくれました。秋葉原の戦前は、御案内の通り、駅前に青物市場がありました。戦後すぐに闇市が立ち、1950年代はラジオや部品販売の商店、60年代は電気冷蔵庫やテレビなど家電製品、70年代、80年代は オーディオ・ブーム、90年代からパソコン、今では、アニメやフィギュアなどの萌えオタク文化の世界的発信基地として海外でも知られています。

メイドカフェ


 これだけ秋葉原は変遷が激しいのです。確か、6~7年前にも私は、同じような秋葉原の研修会に参加しましたが、店が変わったりしていて、もう古い情報は通用しませんからね。

今回も秋葉原名物のメイドカフェに行き、「永遠の17歳」のメイドから給仕を受けたりしましたが、加齢のせいで、何が面白いのかさっぱり分かりませんでした。いわゆる「オタク文化」なるフィギュアやコスプレなど全く興味なし。自分が正常だと強調したいわけではありませんが、第一、還暦過ぎたお爺さんが、セーラー服や10代の若い女の子に興味津々なんて、気持ち悪い。変態扱いされますよ!

カフェ入場料700円、絵を描いてくれる抹茶ティー680円、オムライス1100円でしたが、ショータイムあり、ゲームあり、人件費を考えるとサービスは価格に見合ってました

正直、こんな通訳の仕事は、自分には向いていないと思ってしまいました。

ただし、弁護しておきますが、メイドカフェは、皆さんが想像するような(笑)いかがわしい店ではなく、若い女性が一人で入店しているのさえ目撃しました。「ご主人様」「お嬢様」という約束事を楽しむ空想遊びだということです。正直、個人的には行きたいとは思いませんけど(笑)。

ウオーキングツアーを案内してくださったNさんからは、イチゴの糖度の計測器まで何でも売っている「東洋計測器」近くにある穴場の隠れ家レストランを紹介してもらいました。今度利用してみようかと思っております。これが今回の一番の収穫かなあ(笑)。

写真右下の「イヤホン」店は、某著名スポーツ選手が買った30万円のイヤホンも売っているそうな

あと、秋葉原には神田明神近くに「名酒センター」というのがあって、全国の銘酒が1杯150円から試飲できるという話を聞いたものですから、ツアーが終わった後、一人で一生懸命に探してみました。やっと見つけたら、月曜日は定休日で閉店でした!こちらが下調べせず、無謀に行ったのが悪かったにせよ、これが、不愉快の三つ目でした(笑)。

「おでん缶」の自販機は秋葉原発祥という説も。は外国人観光客にも評判だとか

 あれっ?まだお読みになってたんですか?最後まで読んでくださり、誠に有難う御座いました。

 

飲食店サイト「ぐるなび」の原点は地下鉄広告

 某諜報機関の機関長から、ネットで飲食店の情報を提供している「ぐるなび」を徹底的に調査してほしいとの依頼がありました。

 任せてください。これでもその筋の端くれですからね(笑)。

バルセロナ・グエル邸

まず、「ぐるなび」サイトの「会社概要」によりますと、事業内容は、「パソコン・携帯電話・スマートフォン等による飲食店のインターネット検索サービスその他関連する事業 」とあります。同業他社の中に、カカクコム・グループが運営する「食べログ」がありますが、食べログが消費者からの情報を主軸に基本的に無料で発信しているのに対して、「ぐるなび」は、有料加盟店からの広告収入から成り立っています。総掲載店舗数約50万店のうち、有料の加盟店舗数は5万6967店(2016年3月期末)となっております。

ということは、「ぐるなび」は広告代理店ということになります。同社の公式サイトの沿革には、「1996年6月、株式会社NKBの一事業部として飲食店検索サイト『ぐるなび』をインターネット上に開設」とあります。このNKBとは何かといいますと、1948年に創業された交通広告会社で、旧社名は、交通文化事業株式会社。主に、地下鉄のベンチなどの看板広告を手掛ける会社として出発しました。創業者は、瀧冨士太郎(1903~1975)。

この方、もともとジャーナリストで旬刊誌「交通研究」を発行しておりました。その関係で、阪急の小林一三、東急の五島慶太ら鉄道界の大物との交際を深め、監督官庁の運輸省(当時)高官の天下り先を忖度して交通文化事業株式会社を設立し、広告事業を展開します。新規事業を行うには、政財官の「黄金のトライアングル」が威力を発揮することを熟知していたのでした。


バルセロナ・グエル邸

 交通・観光事業に従事する関係者の子息らへの奨学金として、彼の名前を冠した「瀧冨士基金」が現在でもあります。この育英事業は、瀧が設立した公益財団法人「日本交通文化協会」が行っているもので、同協会はこのほか、駅構内の壁画などパブリックアート事業や展覧会なども開催しております。

瀧冨士太郎の子息が瀧久雄氏(1940~)です。この人こそが「ぐるなび」の創業者です。東工大を卒業し、三菱金属に入社した技術者でしたが、父親の急逝により、後を継ぐことになります。先見の明があった同氏は、看板広告の将来性を案じて米国に視察に出掛け、まだ今後どう展開するか分からなかったインターネットに注目し、「ぐるなび」を始めたわけです。国土交通省の元高官らを顧問に迎えるなど父親のビジネススタイルを踏襲しました。

瀧久雄氏の趣味は囲碁です。NKBの関連会社として、囲碁対局サイトを運営する「株式会社パンダネット」(1962年6月創業)の代表取締役も務めています。話は飛びますが、このパンダネットですが、日本棋院利光松男理事長(1923~2004、日本航空相談役、JALパック社長)が自殺した遠因があったという情報が真しやかに流れております。これは、対局ソフトを開発する際の提供企業の選定をめぐって、日本棋院が「パンダネット」から韓国の「世界サイバー棋院」に切り替えたことで、理事会内で大問題となり、利光理事長の心労が重なったと言われています。


バルセロナ・グエル邸

先ほど、瀧冨士太郎が創刊した旬刊誌「交通研究」の話が出ましたが、鉄道・運輸関係の老舗といえば、1943年に創刊された「陸輸新報」の流れを汲む「交通新聞」があります。交通新聞が美空ひばりなら、交通研究は、丘みどりです(笑)。

交通新聞は業界紙なので、一般の人は知らないかもしれませんが、「時刻表」「旅の手帖」、そして「散歩の達人」を出版している会社だと言えば、分かるかもしれません。戦中から「時刻表」を出すぐらいですから、国鉄、そして政府関係者、労働組合、関連政党などと密接な関係があったという証左になります。

交通新聞社は、瀧氏のNKBと共同出資して、2000年に「トラベルサイト」を設立しましたが、現在機能しているかどうかは不明です。

 以上、まとめサイト「NEVER(決して~ない)」でした。 

京都・東寺で御修法=真言宗最高の秘儀

おはようございます。京洛先生です。最近の渓流斎ブログを拝読しておりますと、名古屋の篠田先生だの、大阪の難波先生だの、色んな先生が登場され、貴人も果報者ですね。吉田兼好も「徒然草」の中で「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり 」と言っております。何事も先人の助言を虚心坦懐に聞いておけば、早まった決断をすることなく、あとで後悔しないものですよ。

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さて、昨日の14日は、貴人もご存知の「東寺(教王護国寺)」で、国家安泰を祈願した真言宗の最高の秘儀「御修法(みしほ)」が終わりました。

「ああ、あれですね!」と言われるでしょうか。それとも、「えっ?それ何でしたっけ?」と素惚けることでしょうか(笑)。何度も渓流斎ブログでも取り上げて頂いた御修法ですよ。迂生は、今年も一年に一度だけ特別開扉される境内の国宝「灌頂院」に入ってきました。


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以前も書きましたが、もうお忘れかもしれませんが(笑)、「御修法」は、真言宗の開祖・弘法大師が承和元年(882年)に「国家鎮護」を祈祷して始めたものです。明治時代までは宮中で行われておりましたが、明治以降は、遷都になったこともあり、場所がここ東寺の「灌頂院」に代わりました。

  今月8日に宮内庁京都事務所が天皇の「御衣(みころも)」を東寺に預け、それを祈願した御衣を、14日には勅使が受け取りに同寺に訪れました。


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 御修法には、全国の真言宗の16派18総本山の長老、高僧が一堂に集まるいわば“真言宗サミット”でもあり、毎年のことですが、大勢の真言宗の僧侶、関係者が集まり、天気も良いので大変な賑わいでした。


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 例年と同じように御修法で祈祷された「御衣」を再び、宮内庁に引き渡すため「唐櫃」に入れた御衣と、祈祷した長老、高僧の還列があり、全国から集まった真言宗の寺院のお坊さんや関係者が手を合わせていました。


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頭髪をそり上げてテカテカに光るお坊さんのアタマというのは、本当に後光がさすというか、清潔感が漂いますね(笑)。ユール・ブリンナーが人気があったのもよく分かります(笑)


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 正午過ぎから、御修法の終わった灌頂院に入り、志納金(千円)で護符を頂くのですが、全国から見えたお坊さんの中には、壇信徒から頼まれたのでしょう、一人で何枚も護符を受け取る人もいました。


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一年に一度の「御修法」ですが、京都人でもほとんどの人は知らないでしょう。灌頂院前に並ぶ列もほとんど坊主頭のお坊さんばかりです(笑)。勿論、観光客はいません。

迂生は毎年出かけていますが、灌頂院の中は、先程まで祈祷されていた護摩木の匂いが残っていて、祈祷に使われた仏具やお供えの饅頭、干菓子などがそのまま残されておりました。「胎蔵曼荼羅」「金剛曼荼羅」など重要文化財も掛けられていて、ある意味で“究極の美術展”でした。


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 今年の「御修法」の導師(長老)の栄誉を受けたのは奈良の真言宗豊山派総本山「長谷寺」の田代弘興化主(79)です。

以上

フランス地図上旅行 マドレーヌとは?

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し (萩原朔太郎「純情小曲集」旅上)

ということで、フランスに行って、お城や庭園、それに美術館や教会、大聖堂、修道院などを訪ねて、現地の美味しい料理とワインを味わって、できればそこに住む人たちとフランス語で話をしてみたいと思い立ちましたが、やはり、諸般の事情で行き難し。

 そこで、せめて、旅情でも味わいたいと思い、ガイドブックを買ってきました。

 「地球の歩き方」(フランス版)(ダイヤモンド社)です。このシリーズ本がこれほど有名になるずっと昔、私がまだ学生だった1979年に、この本を片手にヨーロッパを30日間旅行したことがあります。(「地球の歩き方」は、現在100種以上出版されてますが、当時は、ヨーロッパ版、アメリカ版など数冊程度しかありませんでした)何と、もう実に40年も昔なんですねえ。一人で参加したのですが、この旅行で、九州から参加した風来坊の今村君と知り合い、「旅は道連れ」で、英、蘭、丁、独、南斯拉夫、希、伊、仏と結局最後まで一緒に同行しました。

風来坊の今村君はその後も放浪を重ね、今現在もアメリカに住んでおります。

バルセロナ・サグラダ・ファミリア教会

さて、なぜ、「地球の歩き方」(フランス版)を買ったのかと言いますと、昨年、初めてスペインを旅行した際、スペイン版を買って大いに役立ったからでした。聖ヤコブの遺骨が埋葬されていると言われている巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラの来歴や、16世紀にインカ帝国やアステカ帝国を滅亡させたピサロとコルテスがスペインでも農作物があまり育たない荒野のエストレマドゥーラ地方出身だったことなど、これまで知らなかった色んな知識を得ることができ、スペインに関してかなり詳しくなりました。

それなのに、私自身、フランス専門家を自称しておきながら(笑)、パリだけは何度か自分の足で駆け巡りましたから、大体のことは分かっていても、特にフランスの地方の地理や名所旧跡に関する知識は覚束なかったのです。

 これじゃ、駄目じゃん。ということで、ちょっと、フランス地方に関して勉強したくなったのです。

この本はまだ、全部読んでおりませんが、かなりの収穫がありましたねえ。せっかくですから、クイズ形式としましょう。

ノトル・ダム・ド・パリ

【質問】

(1)皇帝ナポレオンがこよなく愛したブルゴーニュ産のワインの銘柄とは?

(2)スペインには、バル Barとレストラン Restaurante の中間の居酒屋風食堂として、食べるな、いやタベルナ taberna がありましたね。フランスにもカフェ Café とレストランRestaurant(ゲストガンの発音に近い)の中間として、大衆的な食堂であるビストロ Bistroとブラッスリー Brasserieがあります。それでは、「食通の都」リヨンで郷土料理を提供する大衆食堂は何と言いますか?ついでに、地方で宿泊できる食堂のことを何と言いますか?

(3)スペインの巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラに通じる巡礼道の起点の一つと言われているブルゴーニュ Bourgogne 地方ヴェズレー Vézelay にある有名な聖堂は何でしょうか?

ルーブル美術館

【答え】

(1)シャンベルタン Chambertin(コート・ド・ニュイCôte de Nuits 地区)でした。ついでながら、このコート・ド・ニュイ地区では、「ワインの王さま」ロマネ・コンティ Romanée -Conti(1ボトル300万円也!)やクロ・ド・ブーショ Clos-de-Vougeotなども産出します。

(2)リヨンの大衆食堂は、ブッション Bouchonです。東京・銀座にも「ブッション・ドール Bouchon d’or」という名前のリヨン料理店があります。地方の宿泊付き食堂は、オーベルジュ Auberge と呼ばれています。画家ゴッホの終焉の地オヴェール・シュル・オワーズ Auvers-sur-Oise(イル・ド・フランス ile de France)には、彼が自殺するまで2カ月間住んでいたラブー亭 Auberge Ravouxは、オーベルジュでした。現在、「ゴッホの家」として公開されています。6ユーロ。

(3)サント・マドレーヌ・バシリカ聖堂 Basillique Ste-Madeleineです。このマドレーヌとは、マグダラのマリア Marie de Magdalaのことだったんですね。プルーストの「失われた時を求めて」にも出てくるお菓子のことだ思ってました(苦笑)。マグダラのマリアは娼婦でしたが、改悛して、後に聖女として崇められるようになりました。宗教画でも欠かせない存在で、イエスが十字架で磔にされた時に、傍にいて、解放した人々の中の一人とも言われています。

で、マドレーヌ菓子に戻りますと、ホタテ貝の形をしてますね。ホタテ貝は、サンティアゴ=十二使徒の一人聖ヤコブのシンボルでしたね。ということで、サンティアゴ・デ・コンポステーラ~ヴェズレー~聖ヤコブ~マドレーヌ聖堂という連想からホタテ貝の形のお菓子になったという民間伝承があるようでした。

 こうして色んなことを知ると、地図上の旅でも大変楽しくなります。また、いつか、次回も同じ企画をやってみます(笑)。

【洛中便り】西班牙料理での饗宴

おはようございます。京洛先生です。今年も本当に残り少なくなりましたね。

 ところで、昨晩は、貴人が、加藤力之輔画伯のご令室から、マドリードで美味しい食事をされた、本場仕込みの「西班牙料理」を、加藤画伯の洛中のアトリエで迂生もご馳走になる機会を得ました。

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 上の写真をご笑覧ください。凄いでしょう。ついでに、アトリエのベランダから眺めた洛中の眺望、京都タワーの威容がよく見えました。


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饗宴料理の中には、マドリードで、渓流斎さんがお口にされた西班牙料理と同じものがありますかね?(笑)。小生は、外国料理は苦手ですが、昨夜の西班牙料理は、いずれも美味しかったですね。


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 料理の名前は憶えていませんが(笑)、西班牙から送られてきた素材をふんだんに使って、加藤画伯と、招待客ながら手伝いに見えていた料理に詳しい立体作家が共作で作られ、もてなしてくださいました。

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加藤画伯のアトリエにふさわしく、集まったのは、ポルトガルと京都を拠点に、「アズレージョ」というポルトガルの装飾絵タイルの創作活動をしている造形作家の石井春さん(www.ishii-haru.info)。泉涌寺の傍で茶道を教えられている「山荘流」家元さん。そのほか眼科医さんなど多彩な顔ぶれが招かれ、“加藤サロン”の楽しい小宴でした。

造形作家の石井さんは自らのブログを持っておられ、いろいろ電脳空間活動も展開されているので、その創作活動の一端をご覧ください。

 また、茶道と言えば、凡人は、表千家、裏千家、武者小路の“三千家”だけが頭に浮かびますが、「山荘流」は高谷宗範という嘉永生まれで、明治、大正、昭和前期に活躍。弁護士、検事もした人物が創始した流派です。

宗範はもともと「遠州流」でしたが、同派から独立した新しい流派を興しました。宗範は当時の茶道界の現実を嘆き、国民道徳を向上させる狙いから、草庵(小間)の茶道を書院(広間)に力点を置くよう唱導したそうです。

これに対して、当時の茶人の高橋菷庵(三井の重役、新聞記者)は「広間でやる台子茶は原始人がするものだ。小間こそ奥行きが深い」と批判し、論争になったそうです。


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宗範は、大正時代に宇治の木幡の道元禅師の生誕の地に「松殿山荘」という約3万4000坪の茶道の道場を作り「財団法人『松殿山荘茶道会』」を設立して書院茶道を広める基礎を作りました。

今も、そこが山荘流茶道会の活躍拠点になっています。これも「松殿山荘茶道会」のホームページがありますから、ご覧になるとその内容、規模の大きさが分かると思います。

まあ、貴人が先日、渓流斎ブログで取り上げた1800年代のフランスのマスコミやサロンの世界を蹂躙、活躍した新聞王ジラルダンと同様、わが日本国も、その時代に、高谷宗範しかり、新聞記者から三井に転身して茶人になった高橋菷庵しかり、似たような軌跡の人物が存在したわけです(笑)。

貴人は、「言論ギャング」野依秀市とジラルダンを比較・考察されていたようですが、結局、芸術、マスコミ、経済界、政治家も、人とのつながり、融合した「サロン」という存在が大きな働きを持つのです。


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新聞記者が安倍首相と談笑するのも情報交換という「サロン」です。そこに“出前の岡持ち”「スシロー」が加わるのですから、その規模、中身がどういうものか分かるというものです(笑)。

以上報告終わり。

京都・東寺で「終い弘法」開かれる

おはようございます。京洛先生です。

京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 そちらでは「忘年会」で大いに盛り上がったようで結構でした。会場は以前「渓流斎ブログ」の”アクセス数〇〇万達成、突破記念”をされた東京・内幸町の「はらぺこ」ということですが、そういえば、以前は、渓流斎ブログに、アクセス数が毎日出ていましたが、最近、見かけませんね(笑)。どういう理由か分かりませんが、ブログを見た人の数字は”人気のバロメーター”です。定期的に出すようにされたらどうですか。新聞や雑誌と同じで「発行数」「販売部数」が明記されないと、広告もつきませんよ(笑)。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 ところで、当地では弘法大師のゆかりの「東寺」(教王護国寺)で、毎月21日(弘法大師の命日)に「市」が開かれます。今月師走の21日は、今年最後の「弘法市」であり、別名「終い(しまい)弘法」と言われています。

 貴人とは、毎月25日の菅原道真の命日に、北野天満宮で開かれている「天神市」に出かけましたが、「弘法市」はまだ行かれたことはないでしょう。天神市も、今月25日に「終い天神」があります。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 東寺には、JR「京都駅」から歩いて10分ほどで着きますが、天神市と同じように古着、骨董、陶器、がらくた品はじめ、漬物、果物、野菜、饅頭、おでん、焼きそばなど1200もの露店が並び大変な賑わいでした。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 夕方のテレビのニュースでもこの様子を報じていましたが、洛中は朝から好天気で、京都市内だけでなく、全国からおよそ10万人の人出があったそうです。凄いですね。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 また、東寺については、来年3月26日(火)から、新元号を跨いで6月2日(日)まで、そちら、東京・上野の国立博物館で「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅展」(主催 読売新聞,NHK)があります。すでに準備のため展示される仏像などが東京に運び出されています。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 特に今回の展覧会では”空海ワールド”を東博で繰り広げるようで、この渓流斎ブログでも何度か紹介して頂いたことがある、正月14日に終わる真言宗の最重要の秘儀で、国家鎮護を祈願する「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」の道場が、展覧会で再現されるそうです。どんな秘儀か、会場に出かけられるとよいでしょう。

以上 京洛先生でした。


京都・東寺 (著作権:京洛先生)

 渓流斎です。

 いつも、「京の風物詩」お送りくださり、誠に有難う御座います。

 残念ながら(笑)、「終い弘法」は、家族で行ったことがありますよ。大阪に住んでいた時代ですから、もう30年ぐらい昔です。ちょうど、天下のNHKのクルーが来ていて、若気の至りで取材インタビューを受けてしまい、夕方のローカルニュースに小生は登場したのでした。出演ですよ。ワハハハ

 それと、アクセス数ですが、サイトの右横下に掲示されてますから、毎日御覧できるはずなのですが。。。どうぞ宜しく御願い申し上げます。

国史跡 八王子城跡、踏破記

大袈裟なタイトルですが、昨日の勤労感謝の日の祝日は、「山城歩き同好会」に参加させて頂きまして、「国史跡 八王子城跡」を踏破してきました。

かなりきつい「登山」でした。まず、一人だったら、ギブアップして帰ったことでしょう。確信を持って言えます(笑)。

けもの道のような狭い崖プチも歩きましたから、険しくて、「人間が行く所じゃない」(笑)と顎が出ましたが、昔の人は偉いですね。こんな高い所に山城を作ったのですから。

お仲間の皆様がいたおかげで、踏破できました。

集合のJR高尾駅。高尾山には何度か登ったことがありますが、最寄駅は、京王線の高尾山入口でしたから、このJRの駅で降りたのは初めてでした。ここも、東京都です。

八王子城は、小田原に本拠を置いた後北条氏の三代目氏康の三男北条氏照(うじてる=?~1590)が築いた山城でしたが、豊臣秀吉のいわゆる天正18年(1590年)の「小田原攻め」の一環として、この八王子城も前田利家・上杉景勝連合軍によって攻められ、落城します。

城主北条氏照は、小田原城で切腹しますが、その100年後に、奮闘死した家臣の中山勘解由の孫である水戸藩家老中山信治が、追善供養のために、この八王子に、上の写真のような「北条氏照及び家臣墓」を建てたのでした。

八王子城跡は「国史跡」ですから、いわゆる国有地として管理され、かなり発掘も進み、整備されておりました。

上の写真のように、400年以上昔の石垣がそのまま残っていました。城好きにはたまりませんね(笑)。

上の写真は「御主殿跡」といって、城主の北条氏照の居館があった所でした。(「ガイダンス施設」では、居館の想像図のCGも公開されておりました)ここから、陶器のほか、何と、イタリア・ベネチア産のガラス器も出土したそうで、どういう経緯なのか詳しくは分かりませんが、後北条氏は、あの時代で、既に広域な貿易をしていたことになりますね。

この写真は「御主殿の滝」と言われてますが、探すのに大変苦労しました。

落城の際に、武将やその婦女子らが自害してこの滝に身を投じたらしく、その血で城山川が三日三晩赤く染まったと言われてます。

現在は、城山川も干上がって、滝もこのような調子でした。

八王子城本丸に行くには、八王子神社を経由して、このような急こう配の山道を登って行かなければなりませんでした。

ぼやぼや登っていたら、八王子神社の天狗さまが現れて「しっかりしろ」と怒られてしまいました。

やっと本丸跡に着きましたが、「猫の額」ほどの狭さには吃驚。標高は約446メートルでしたが、登りが大変きつくて、そんな低さには感じられませんでした。

敷地が狭いので、天守はなかったようですが、平屋の城ぐらいはあったかもしれません。

ここでお昼休憩。同好会の女性陣と男性陣から「おやつ」の差し入れがありまして、頂きました。やはり、甘いものが食べたくなります。どうも有難う御座いました。

本丸で、「山城歩き同好会」の男性陣と女性陣は分かれて、男性陣4人のみで、標高約547メートルの富士見台を目指しました。

女性陣はそのまま下山して、「ガイダンス施設」で待機することになりましたが、その方が正解でしたね。

富士見台まで本丸からわずか1.2キロ、100メートル登るだけでしたが、何と、山道のきついこと。登っても、登っても、なかなか、着きません。

ほとんど「けもの道」のような狭い道で、「ありえない」感じでした。

しかも、「富士見台」ということで、快晴に恵まれたので、富士山の展望を期待したのですが、山林に囲まれて、全く見えませんでした。

がっくりでした。

でも、昔の人は健脚で、本当に偉かったんですね。

行く前は、二次元の地図を見ていただけでしたので、「楽勝」なんて思っていたんですが、なかなかの難所急こう配で、帰り道も難儀しました。

でも、山城好きにはとてもたまらない充実した日を過ごすことができました。

天候に恵まれ、森林浴ができたことが何よりです。

万全の準備をして頂いた幹事長さまを始め、同行の皆様、有難う御座いました。

嗚呼、あの森林浴は本当に気持ち良かった。こんな風に、喫茶店に籠って、パソコンでブログを打っているなんて、最悪ですよ…(苦笑)。

京都に善光寺? 秋の新善光寺展が開催中

おはようございます。お久しぶりです。京洛先生です。

えっ?お久しぶり、じゃない? 昨日も登場した?

おかしいですねえ。

あ、分かりました。昨日の「永観堂と南禅寺」の原稿は、もう2週間も前に渓流斎さんのGメールに送ったのですが、どうやら届いておらず、その後、何度もGメールに送付したのですが、届いていなかったというのです。

おかしいですね。一体、何処の電脳空間に消えてしまったんでしょう?

やはり、ただのメールは駄目ですねえ。仕方がないので、渓流斎さんに他のメールアドレスを教えてもらって再々送したのでした。

以下の原稿も改めて送稿したものですが、是非ともお付き合いください。

さてさて、紅葉の時季になり、洛中は観光客が押しかけ有名寺社は正月三が日のような賑わいです。

ところで、皆さんは京都にも「善光寺」があるのはご存知でしょうか。「え!善光寺は信州、長野じゃないですか」と目をぱちくりされるでしょう´艸`)

 実は、あるのですよ、京都にも「善光寺」が。鎌倉時代、時の天皇が「遠い信州に行かなくて、近くでお参りできるように」と建てられたのです。ですから、お寺の名前は「新善光寺」です。

京都に住んでいても知る人ぞ知るお寺です。渓流斎さんが先日、鎌倉での個展に出向かれた加藤力之輔画伯の、京都でのアトリエのそばに「新善光寺」があるのです。

偶々、この「新善光寺」が大方丈の瓦の葺き替えが終わったのを記念して、「新善光寺展」(午前10時〜午後4時、入場料500円)が一昨日(11月17日)から来月1日まで開かれているのです。

 天下のNHKをはじめ、地元の新聞や各紙が地域版その紹介のニュースも流しています。

この新善光寺は772年前の、寛元元年(1243年)に、後嵯峨天皇の勅願で創立されました。

御本尊は信州の「善光寺」と同じ阿弥陀如来で、同仏同体に作られた鎌倉時代の仏像です。後嵯峨天皇は、京都から信州までは、すぐには行けないので、新たに、一条通り大宮に「新善光寺」を開山されたわけです。

その後、「応仁の乱」で、新善光寺も焼失となり、新たに文明5年(1473年)、土御門天皇の勅願で、皇室の御寺「泉涌寺」内の現在の地に移されました。

写真の通り、“皇室の御寺”と呼ばれる「泉涌寺」の境内ににあるだけに、周囲は静寂で、此処では、変な外国人の姿があまり見えませんね´艸`)

境内の周りも紅葉が目立ち、お寺の庭を見ながら、お薄をいただきましたが、気持ちがゆったりしました。

「新善光寺展」では、日ごろは非公開の本堂、庭園や、寺宝の狩野探幽の「鯉の図」、狩野周信の襖絵はじめ、皇室の遺品などが公開されていて、一昨日は、泉涌寺の歴史資料館の学芸員の方が、新善光寺の歴史由来をお話しされておりました。

加藤画伯はアトリエがすぐそばにあり、会期中は同展の受付でお手伝いされておられました。

玄関先での加藤画伯の写真もお送りしますが、これは「肖像権」の問題もあり、《渓流斎日乗》で使っちゃあいけませんよ(笑)。

おしまい。

※写真は全て「新善光寺」 Copyright by Kyoraque-sensei

【追記】

小生のGメールにメールされた方で、もしかして、届いていないものもあったかもしれません。小生、几帳面ですから、必ず返信しております。返信がないのは、こちらにメールが届いていない可能性があります。

Gメールのアルファベット社に代わってお詫び申し上げ奉ります。

京都は今、永観堂と南禅寺の紅葉が見ごろです

南禅寺

だいぶ寒くなってきましたね、渓流斎さん。京洛先生です。

毎日、北関東の集合住宅から「新橋演舞場」にご出仕、ご出勤ご苦労様です。貴方が演舞場の舞台裏で、黒子として大活躍されているのは知る人ぞ知るです(笑)。

永観堂

舞台表で、汗をかく人もいれば、裏舞台でそれをスムーズに進行させるため汗をかく人がいればこそです。「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」と古来から言われておりますが、世の中、表もあれば裏もあるのです(笑)。

そういう渓流斎さんに比べ、当方は最近、めっきり汗をかく機会が減り、運動不足です。それを解消するため、一日「1万歩」を目標に洛中、洛外を歩き回ることにしています。日々、朝晩の出勤は、そういう意味で、気分転換とメリハリをつけて、健康管理にもなっていると思いますね。

永観堂

そんな京都はそろそろ、紅葉の季節を迎えました。洛外は既に「見ごろ」になっていますが、京都市内の洛中はこれからです。あと1週間くらいすると何処も「見ごろ」になることでしょう。

そんな中、比較的、早くも見ごろになってきた「永観堂」と、色づきはじめた「南禅寺」をまわってきました。

永観堂

永観堂は、古今和歌集でも「秋は紅葉の永観堂」と言われる古くからの紅葉の名所です。

東山の山腹の傾斜地にあり、紅葉の色づきに最適な土地なのでしょう。平安貴族で歌人の藤原関雄が別荘にした場所に、西暦853年(仁寿3年)に、弘法大師の弟子の真紹僧都が、真言密教の道場に永観堂を建立したということです。

その後、鎌倉時代初期に当時の静遍僧都という人が、法然に帰依したため、お寺は真言宗から浄土宗になったわけです。

永観堂

永観堂で、有名なのが「見返り阿弥陀」(重文)で、紅葉の時季には本堂を拝観する見どころになっています。

しかし、写真のように境内の紅葉は、いつ見ても色鮮やかで、観光客が押しかけて、「凄い!見て見て、綺麗ね!」、「超!綺麗」と感激するのはよーく分かります。

永観堂

次に、永観堂から10分ほど、ぶらぶら歩きして着いたのが「南禅寺」です。

南禅寺

こちらは、まだ「色づく」程度で、本堂の紅葉もこれから「見ごろ」を迎えると思いますが、週末でしたので、紅葉見物の観光客でごった返していました。

南禅寺

以上、ご報告まで。

南禅寺

あ、序に、もう一つ、南禅寺らしい景色をお楽しみください。

南禅寺

おしまい。