高野山の修旅=如是我聞(上)ー経済的基盤

一生に一度は、死ぬ前に必ず訪れてみたい地が高野山でした。空海(774~835年)が弘仁8年(817年)に開いた総本山です。(その前年の816年に嵯峨天皇より高野の地を賜った)

 今回は偏見を持ちたくなかったので、なるべく予備知識を得ないで、白紙の状態で行ってみることにしました。高野山は秘境なので、個人で行くには手間と時間が掛かってしまうので、某旅行会社のパックツアーに単独で潜り込むことにしました。(個人ではなかなか行けない所に特別に?連れて行ってもらったので、これは正解でした)

 事前に勉強しなかったとはいえ、俗世間に染まってウン十年、俗説やら伝説やらフェイクニュースなどが頭に詰まってますから、なかなか素直になれません(苦笑)。それに、私自身は、初詣に行って、クリスマス・ケーキを食べ、葬式は仏式という典型的な現代日本人で、真言宗の信徒ではありません。真言宗は、密教(秘密仏教)ですから、他宗派の人間からは伺い知れないことばかりで、どうも、護摩焚きにしろ、空海上人が手に持つ三鈷杵など武器のように見えて、どんな用途があるのか知らず、何か恐ろしそうです。

 特に、真言宗でよく使われる梵字が「よく読めない!!」(笑)

丹生都比売神社

でも、今回は目から鱗が出る話ばかり見聞することができました。

 意外にも、真言宗は、どんな宗派に対しても寛大で、例えば、戦国武将らの墓や供養塔がずらりと並んでいる「奥の院」は、信徒でなくて、他宗派でも、そしてキリスト教徒でも敷地を買うことができるのだそうです。(座布団大の大きさで70万円、最低その4倍の面積が販売可能だとか)

 また、「南無大師遍照金剛(なむだいし へんじょう こんごう)」と唱えるだけで、他宗派の人間でも、空海弘法大師さまのご慈悲に縋りつくことができ、苦難から救いの道に導いてくれるというのです。

 有難い話です。

 ということで、今まで書いてきたことも、これから書くことも、参加したツアーの添乗員さんやガイドさんや講話などをしてくださった高野山の僧侶らから聞いた話をまとめたものです。まさしく如是我聞です。

 聞いただけの話ですから、漢字が分からなかったり、年代があやふやだったり、矛盾したりして、また色々調べ直したりしなければなりませんでしたから、相当時間も掛かりました。(例えば、年齢も満年齢にしたりしました。)用語統一のために、文献は主に、お寺のパンフと現地で買った「高野山ガイドブック」(ウイング出版部、540円)を参考にしました。

 このブログの中で、固有名詞や数字の明らかな間違い等がありましたら、ご遠慮なく、コメントして頂ければ幸甚です。すぐ訂正します(笑)。ただし、聞いた話も諸説ある中の一説かもしれませんし、私が聞き間違ったか、史実として正しくない話かもしれないこともお断りしておきます。いや、そんな大した話は書けませんけどね(笑)。

丹生都比売神社

 ツアーは7月11日(木)から13日(土)までの2泊3日でした。お蔭様で、3日間で高野山を満喫することができました。ギリギリ、オフシーズンだったせいか、人も閑散としていて、さすがに聖地ですから、斎戒沐浴と森林浴で心が洗われました。本当に、娑婆世界の周囲の白眼視を乗り越え、振り切って、思い切って行ってよかったでした。

 高野山は、平成16年(2004年)、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されました。また、平成27年(2015年)には高野山開創1200年を迎えました。(本来なら開創1200年は、2017年だと思いますが)

 初日の11日(木)、最初に訪れたのが、その世界文化遺産にも登録されている高野山の麓にある丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)でした。正直、事前勉強をしていなかったので、この神社のことは知りませんでした。ですから、何で、この神社を最初に参拝するのか意味が分かりませんでした。

 しかし、それは、とんでもない浅はかで、高野山、そして空海にとって、なくてはならないとても重要な神社だったのでした。

 その理由は、勿体ぶってますが、最後に書きます(笑)。丹生都比売のことは覚えておいてください。

大門

 高野山は標高約900メートル。ですから、下界よりも気温が2~3度低い感じでした。夏でも涼しい。冬は雪も降り、猛烈に寒いらしいですね。

 高野山は東西6キロ、南北3キロの広さに現在117の寺がある寺町です。このうち、52寺が宿坊といって民宿のような宿泊所になっています。

 江戸時代は、1000以上の寺があったそうです。寺の庇護者は各藩の大名です。明治になって、大名が没落し、廃仏毀釈などもあり、寺は10分の1ぐらいに減少したのでしょう。そして、庇護者がいなくなった後は、寺は宿坊として「経営」を支えざるを得なくなったと思われます。

 大門は、高野山の西の入り口で、昔は「女人禁制」でしたから、この門から先は女性は入れなかったわけです。

 大門の左右に設置されている金剛力士像は、奈良の東大寺に次ぎ、日本では2番目の大きさだそうです。

 驚くことに、この大門は、日本古来の建築方式で、礎石の上に柱が乗っているだけだとか。湿気を防ぐためらしいです。乗っているだけなので、強風が吹くと数ミリ程度、動くそうです。

 大門を背にして麓を眺めると、運良く、遠くに淡路島が見えました。

 高野山は和歌山県ですが、淡路島が見えるとは本当に驚きです。

 二晩お世話になった宿坊「天徳院」の隣は、高野山大学でした。真言宗の僧侶になるには、この大学が最高峰ということになるのでしょう。

天徳院

 宿坊「天徳院」の入り口の門です。立派です。注連縄がありますよね。これは、実はとても珍しいことなのです。寺院なのに、神社みたいな注連縄はおかしい、という意味ではありません。

 高野山が創建された弘仁8年(817年)の頃は、仏教が伝来(538年)して300年近く経過し、寺院と神社との融合、つまり「神仏習合」は当たり前だったのです。寺院に注連縄があることは珍しくありません。これは、明治の廃仏毀釈まで続きました。

 それでも、高野山は、ある事情で注連縄が珍しく、それに代わるものが考案されたということです。その具体的なお話は後の回に致します。

天徳院 庭園

 天徳院は、元和8年(1622年)に加賀前田藩三代目当主利常の夫人天徳院の菩提のために創建されました。

 天徳院は、二代将軍徳川秀忠の次女で、外様大名だった前田家が、徳川家との縁戚を結ぶために、3歳で嫁として迎えましたが、わずか24年で生涯を閉じました。天徳とは、「徳川を天として崇める」という意味が込められている、と若い当代住職が教えてくれました。

 庭園は、かの有名な小堀遠州の作庭だということで、立派なものでした。天徳院は、最大110人が宿泊できる広大な宿坊ですが、我々が泊まった時は、ツアーに一人で参加した昔若かった男女5人(他のツアー複数参加者25人の宿坊は「福智院」)と、どこかの夫婦(1泊)だけでしてから、それはそれは広々としてました。

 こんな素敵な庭が目の前で眺められて、「VIP待遇」と喜んでいたところ、この庭の池に主のように何百年も棲みつく、石川五右衛門も吃驚するような大きな蝦蟇が、一晩中、「ゲー、ゲー、ゲー、ゲー」と、どでかい声で鳴き通すので、夜はあまり眠れませんでした。

初日から、高野山のどこかの寺院の住職さん、稲葉さんと仰ってましたが、彼の案内による「壇上伽藍ナイトツアー」が催されました。夜7時前出発でしたが、御覧の通り、まだ明るいのです。

 高野山の総本山金剛峯寺の通路には、桶が並んでいますが、翌日行われる「内談義」に備えているそうでした。昔は、この桶は、馬用の盥だったようです。あと、高野山は、何度も何度も、火災(落雷によるものと、蝋燭の不始末など)に遭ったため、防火水槽ようとしても使われたようです。

 金剛峯寺については、二日目に再度取り上げます。

 いよいよ、伽藍に到着です。空海が「曼陀羅」を具象的に配置したと言われ、高野山の修行道場の中心地です。えっ?金剛峯寺が総本山の中心じゃなかった?はい、金剛峯寺は、高野山全体の寺院の総合寺務所であり、真言宗の宗務所でもあるのです。詳細は、2日目の話に書きます。

 上の写真の手前が東塔、遠くに見える朱色の塔が、今や高野山のシンボルになっている根本大塔(こんぽんだいとう)です。

 根本大塔については、三日目のお話の時に、また書きますが、内部は金剛界曼荼羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手を輪のようにする胎蔵界大日如来です。

 上の写真の右が朱色の根本大塔、左が「金堂(こんどう)」です。空海が伽藍の造営に当たり、最初に建立したもので、当初は「講堂」と呼ばれていました。

 しばしば火災に遭い、現在の建物は、昭和7年(1932年)の再建。

金堂の近くにあるのが、御影堂(みえどう)です。空海の弟子真如親王 (高岳親王=平城天皇第三皇子、薬子の変で廃太子となり出家) の筆と言われる「大師御影」が奉安されていることから、最も重要なお堂で、高野山の寺院の住職による輪番で、ここでは1年365日欠かさず、お経が挙げられています。

 隣の金堂が火災に遭った際、火の粉が飛んで延焼を防ぐために、当時は柱などに味噌を塗ったそうです。

現在は、周囲に水を張り巡らせ、周囲の地中に消火ホースまで用意されています。それだけ重要だということです。

西塔

 上の「西塔」は、「根本大塔」と対をなすものです。根本大塔の内部が、金剛界曼荼羅を表すなら、この西塔の内部は、胎蔵曼陀羅を表現しています。それなのに、本尊は、両手は印を結んだ金剛界大日如来です。

 不思議です。案内役の稲葉さんは、「逆ですね」と仰ってましたが、その理由は明確ではないのか、説明されませんでした。

御社(山王院本殿)

 「御社」と書いて「みやしろ」と読みます。

 ここで、初日にしていきなりハイライトというか、大団円というべきか、私が日頃から疑問に思っていたことを解決してくれるお話を、案内役の稲葉僧侶が教授してくれました。

 それは経済的基盤です。空海は大学を中退して厳しい修行を経て、20歳で出家します。その後、延暦23年(804年)、唐の国に私費留学します。この時、同時に国費留学したのが、後に天台宗を伝える最澄でした。

 当時30歳だった空海はまだ無名の若者でしたが、唐の都長安では、密教の権威だった恵果和尚(けいか・かしょう)に師事し、1000人に及ぶ弟子の中で空海の成績は首席という稀にみる天賦の才能を認められて、20年の留学期間をわずか2年で終えて帰国します。帰りには、写経した膨大な量の経典や、数珠や三鈷杵など多量の仏具などを日本に持って帰ります。

 でも、単なる私費留学生だった無名の若者に、そんな経典や仏具を買う財力があったのでしょうか? 

その答えを解明してくれるのは、この御社(みやしろ)です。空海が伽藍開創に当たり、最初に鎮守神社として建立したものです。

 ここには、丹生都比売(にうつひめ)と高野明神が祀られています。丹生都比売は、このブログの前半に出てきた丹生都比売神社の祭神でした。一説には天照大御神の妹といわれています。

 問題は、高野明神です。案内役の稲葉僧侶によると、最近の研究成果によると、この高野明神のことが分かり、本名が丹生(にう)という金属精製技術を持った中国からの渡来人だったというのです。

 そして、どうやら、今ある丹生都比売神社辺りで金が採掘できたらしく、丹生氏は、空海のパトロンになって、空海が唐に私費留学する際に、そこで採れた金塊を与えたのではないか、というのです。

 これで、空海の経済的基盤が分かりました。以前、寺社仏閣研究家の松長氏から、高野山にしろ、身延山にしろ、宗教家が、人里離れた山奥に総本山を建立するのは、そこは金山だったり、銀山だったり、何らかの鉱物資源があることを霊力で見抜いていたからではないか、という説を唱えていましたが、見事、合致したわけです。

 伝説では、空海が高野山を発見したのは、白と黒の二匹の紀州犬に導かれて到達したとか、長安から投げた三鈷杵が、高野山の伽藍の松(後に「三鈷の松」と呼ばれ現存)に引っ掛かったから、といったものがありますが、実際は、全国を渡り歩いているうちに有力なパトロンである丹生氏に会うことができたから、というのが、史実として有力だと思われます。

京都・旧「三井家下鴨別邸」の紫陽花が見ごろです

 おはようございます、京洛先生です。

 相変わらず、千葉県の佐倉城址公園、国立歴史民俗博物館と、勉強熱心ですねえ(笑)。「還暦」過ぎの、インテリ老人は、ちゃらんぽらんに人生を過ごすことが得手でないようです。何でも「勉強!勉強!」ではダメですよ。“狐狸庵センセイ”のように大ウソつき、ほらを吹いて、世間を煙に巻くようにならないとブログも面白くありません。

 最近は、男だけでなく、女も歴史が好きだということで、「歴女」とかいう流行語があるようですが、これも、お勉強一筋で、余裕が無い「ガリ勉」の延長です。人間は正直です。無駄がないと、その反動が、ギスギスした表情や物腰に表れるのですよ。

 ところで、迂生が推薦した映画「警視庁物語」を見に行きましたか?芦田伸介の出た「七人の刑事」(TBS系、1961~69)や波島進演じる立石主任の「特別機動捜査隊」(NET、現テレビ朝日系、1961~77)などテレビの刑事ドラマの原型ですから、それこそ“現代映像資料館”だと思って、東京のミニシアター「ラピュタ 阿佐ヶ谷 」に行くべしです。そうしないと、90歳、100歳と長生きできませんよ(笑)。

 さて、貴人から「季節にあった写真はないか」というご下命、注文が飛んできましたので、昨日(6月23日)、京都・下鴨神社に隣接する旧「三井家下鴨別邸」=重要文化財=の紫陽花が綺麗だというので足を運び、写真を撮ってきました。

 三井はもともと養蚕の神様(蚕ノ社)を信仰していました。というのも呉服商ですから縁がありますね。また、三井家の祖霊の「顕名霊社(あきなれいしゃ)」も、京都・太秦の「木嶋神社」に祀っていましたが、明治初めの廃仏毀釈などあれこれ騒ぎがあって、明治42年に三井高安(三井家の遠祖、三井高利=三井家の家祖=の祖父)の三百年忌を機会に下鴨・糺の森に「顕名霊社」を遷座し、その参詣のための休憩所としてこの別邸を作ったわけです。

 昨日、一昨日と二日間はこの旧三井家下鴨別邸の敷地にある「紫陽花苑」を無料開放したので綺麗な紫陽花を見ようという大勢の人で賑わいました。

 貴人は以前、映画の草創期の大スターだった“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助の銅像が下鴨神社そばの「糺の森」にあったのを覚えていますか?糺の森というのも、元は木嶋神社境内あって、今ではそこは「元・糺の森」と呼ばれています。

 糺の森とは誤ったことを正すということですね。今度、京都に見えたときに木嶋神社を案内しますが、ここには「三柱鳥居(みつはしらとりい)」という変わった鳥居があります。鳥居を三基合わせたもので、東京の向島の「三囲神社」に行くとこの木嶋神社の三柱鳥居を原型にした「三柱鳥居」が見られます。

この「三囲神社」も、三井家、三井グループがあれこれバックアップ、支援しています。逸話が好きな貴人は、是非一度訪ねてみることです。感激するでしょう。

以上

おしまい。

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高野山奥の院と青龍山安養寺とトランプ大統領来日の真の目的

 早いもので、もう6月ですか。。。うーん、ネガティブなことを書くのはやめておきましょう。泣こうが、喚こうが、時間は経ち、人生は過ぎていきます。泰然自若の境地でいるしかありません。

 そこで、明るい気持ちになろうと、早くも夏休みの計画を立ててみました。一応、いまだに会社組織にしがみついている身なので、自由はききませんけど、休みが取れればということで、二つの大きな計画を立ててみました。本当は昨年のスペイン旅行に続いて、ポーンと、また海外旅行に行きたかったのですが、お代官様の目が厳しくて今年は無理そうです(苦笑)。

 ということで、国内に絞りました。一つは、7月に弘法大師空海の高野山に行くことです。一生に一度は行きたいと思っていたからです。NHKの「ブラタモリ」の影響もあるかもしれませんが、是非とも「奥の院」に行って、織田信長や明智光秀ら戦国武将のお墓(供養塔?)をお参りしたいと思います。

 もう一つは、京都です。皆様ご案内の通り、このブログのおかげで、作家村上春樹氏の従弟である村上純一御住職と不思議なご縁ができましたが、その村上住職が預かる左京区の青龍山安養寺にお詫び行脚に行こうかと思っているのです。村上おっさん(和尚様のことを京都ではそう呼びます。「お」にアクセント)は、とても怖そうなお方で、お会いするなり、「喝!」を入れられそうですが、お許しを戴ければ、8月の「送り火」辺りにお伺いしようかと思っています。ただ、8月はお盆ですから、1年で一番忙しい月ですからね。一番混む時期なので、また、京洛先生に御厄介をお掛けしてしまうと思います。

◇F35が1兆2000億円

今日書くことはこの辺にしておこうかと思いましたが、先日、国賓として来日したトランプ米大統領のことを書いておこうと思います。

 トランプさんは一体、日本に何しに来たのでしょうか?「新天皇陛下に面会することはスーパーボール観戦の100倍も凄いこと」と安倍首相に説き伏せられたから?それとも、ゴルフをして相撲を観戦して、優勝力士に米大統領杯を授与するために?

 ほとんどのマスコミはそんなお祭りムードめいた報道一色だったので、多くの日本国民もそう思い込んだことでしょう。

 でも、実際は、「ディール(取引)」に来たのでしょう。その辺りの事情をうまくまとめていたのが、5月28日付東京新聞の「こちら特報部」だけでした。見出しだけ見ても、血の気を引いてしまいそうです。「安倍爆買い外交の数々」「農産品関税削減 参院選後の譲歩を確約?」「米の顔色うかがい、国益にならず」…。これでは、ゴルフをしながら、トランプさんが「ちゃんと約束を果たしてくれるかどうか確かめに来たんだよ」と言えば、安倍首相も「おっしゃる通りです」「はい、その通りに致します」と、まるで植民地か属国のように、宗主国に対してペコペコしている感じに見えてしまいます。

 その取引の金額が半端じゃないのです。米国製最新鋭ステルス戦闘機F35、105機の追加費用が何と1兆2000億円。地上配備型迎撃システム「イージス・ショア」2基の取得関連費2404億円、維持運用費を含めて計4389億円。垂直離着陸輸送機オスプレイ1機100億円、17機導入で1700億円。これらは全て、国民の税金ですからね。でも、この桁違いの金額については、国民のほとんどは知らないでしょう。

 極め付きが、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)。カジノ運営のノウハウは日本にはないので、米国の業者が中心に請け負い、その額はプライスレスだとか。つまり、天井知らずの日本人のお金が、米国に吸い取られることになります。

 東京新聞は「金で米国の歓心を買う安倍政権。『貢ぎ物』は軍事に限らない」と、大丈夫かなと思うくらい、露骨にあからさまに書いてますから、これでは、安倍政権に嫌われるはずです。菅官房長官が東京新聞女性記者の質問を受け付けない理由が分かりました。

深谷城~渋沢栄一記念館への旅

 先ごろ、鹿島茂著「渋沢栄一」全2巻の大作を読んだ影響で、渋沢栄一の生まれ故郷を見たくなり、一躍「1万円札採用」で再度ブームになっている埼玉県深谷市にまで足を延ばしに行って来ました。

 この日、JR東海道線で人身事故があり、高崎線にも影響があり、当初の予定よりも深谷駅に着くのが遅れました。午前11時過ぎでした。

 観光案内所で聞いたところ、「渋沢栄一記念館」へのバスは、10時55分に行ってしまったばかりで、次のバスは2時間後の12時50分だというのです。「えー、2時間に1本しか出ていないんですか?」と聞いたところ、「(運転手が)お昼休みなんで、すみません」と謝られてしまいました。

 「いえいえ、謝られてもあなたのせいではありませんから…」と、こちらが却って恐縮してしまいました。

 あと2時間もあるので、駅近くにある深谷城址に先に行くことにしました。

 その前に駅周辺を散策。深谷駅の駅舎は、このように東京駅舎のように立派なレンガ造りです。東京駅と同じ辰野金吾博士の設計なのでしょうか。いや、違いました。今は簡単に調べられます。JR東日本建築設計事務所が東京駅をモチーフにして設計し、1996年7月に完成された、とありました。

 渋沢栄一は、日本初のレンガ工場をつくった人ですから、レンガ造りは、それにちなんだことでしょう。

 上写真にバス2台止まってますが、後方の小さいマイクロバスが、渋沢栄一記念館にまで行く「くるりん」ちゃんです。12人乗りです。深谷駅から記念館まで約30分。途中のバス停留所は市役所やスーパーやコンビニなどで、まさに市民の足になってます。

一日乗車券が200円。一日何回でも乗れるそうですが、私は往復の2回で十分でした(笑)。

 深谷駅北口前にある渋沢栄一像です。銅像は他に市内に何箇所もあります。

 まさに郷土が生んだ偉人です。

 駅から歩いて約10数分。城跡らしき風格が見えてきました。

 深谷城址公園です。

 深谷城は中世の平城ですから、このような石垣と塀だったわけではありません。

 深谷城は、戦国時代の深谷上杉氏の居城でした。

 深谷上杉氏は、関東管領の山内上杉憲顕が14世紀後半に六男憲英をこの地に派遣したことに始まり、約230年間、深谷を拠点とした氏族です。当初、初代憲英から四代憲信までは国済寺に庁鼻和(こばなわ)城 を構えておりましたが、五代房憲が深谷城を築き、その後九代氏憲までここを居城としました。

 今はこうして公園になっていて、市民の憩いの場になってます。

 深谷城の本丸は、今は深谷小学校の敷地内にあります。

 物騒な世の中になってしまい、昔なら簡単に部外者でも小学校の敷地に入れましたが、今は門扉が閉まり、不可能です。

 諦めかけたら、敷地の垣根の隙間から、本丸跡の石碑が見えました。少し望遠にして写真に収めることができました。

 ちなみに深谷城は、中世の城ですから渋沢栄一の時代は既に廃城となっており、江戸時代は岡部藩です。でも、この岡部城も維新後、廃城となり、今は跡形もないようです。しかも、天守はなく、陣屋だったようなので、今回はパスしました。

 バス発車時刻までまだ時間があるので、駅近くの老舗蕎麦「立花」で、きのこせいろ(700円)を食しました。美味い。名物深谷ネギもしっかり入ってました。女将さんがとても感じがよく、「またいらしてくださいね」と言われ、その気になってしまいました。

「くるりん」ちゃんに乗って、駅から30分。ついに渋沢栄一記念館に到着しました。建物はかなり立派です。

 有難いことに入場無料でした。(館内は撮影禁止でした)

 展示品に関しては、正直、東京・王子飛鳥山にある「渋沢史料館」の方が豊富で、充実していた感じでした。

 でも、この中で、渋沢栄一自身が書いた「孝経」( 中国の経書の一つ。曽子の門人が孔子の言動を記す )の写しが見事な達筆で、「字は体を表わす」と言いますか、渋沢栄一の律儀な性格がものの見事に表れている感じでした。

 また、渋沢栄一が幕末に、徳川昭武の渡仏団の一員としてフランスに滞在した際、その世話係が銀行家のブリュリ・エラールで、渋沢は彼の「サン・シモン主義」に大変影響受けたことが例の鹿島氏の著書に何度も出てきましたが、本には顔写真がありませんでした。

 この記念館では、ブリュリ・エラールの肖像写真が展示されていて初めて拝見することができました。銀行員だというので、もう少しヤワな感じかと思っていたら、髭もじゃで、かなり精悍な顔つきでした。

 記念館から渋沢栄一生誕の地、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に向かいました。

 清水川沿いは青淵公園になっており、上の写真のように「渋沢栄一の言葉」が立てかけられています。

 着きました。本当は、青淵公園から回ると「裏口」に到着したのですが、表玄関にまで回ってきました。平成29年には天皇皇后両陛下(当時)がこの地を訪れ、邸内では写真パネルが飾られてました。

 農家とはとても思えない。武士のような立派な門構えです。

 門をくぐると、このように、渋沢栄一像が出迎えてくれます。

  敷地は1000坪と広大です。蔵が四つもありました。ここに来て、渋沢家は豪農だったことを肌身で感じました。

 「中の家」を正面から見たところです。明治に再建された家ですが、江戸時代はこの2階で養蚕と藍玉づくりが行われていたそうです。

 いずれにせよ、大変失礼ながら、こんな辺鄙な不便なところから、「日本の資本主義の父」となる偉人を輩出したとは信じられませんでした。

 また、失礼ながら、今でも買い物にも不自由なところです。若き渋沢栄一の学問の師であった従兄の尾高惇忠(後に官営富岡製糸場の初代工場長)の家までここから歩くと30分ぐらい掛かります。

 昔の人は本当に偉かった。

平清盛一族の屋敷跡か?=何と、葬送の鳥辺野で

おはようございます。京洛先生です。

水戸漫遊記や、お城巡りと休日は歴史探索をされているようで何よりです。

ところで、昨晩のNHKの全国ニュースでも報じられていましたが、当地、洛中では、ホテル建設の工事現場から「平清盛一族の屋敷跡か?」とみられる遺構が見つかりました。

昨日はその発掘現場で、遺跡の説明会がありました。迂生も「どんなものか」と野次馬の一人として見てきました。

 場所は京都市内は東山通五条西入る付近で、通称「五条坂」と呼ばれ、清水焼の窯元などがあるところです。

 清水寺に行く観光客でごった返す五条通りに面しています。観光客の激増で、京都市内は、ホテルの新築ラッシュですが、その工事現場から、平安時代後期のそれらしき堀や石垣、井戸などが見つかったのです。

 この遺構は、武家政権を初めて確立した平清盛(1118~1181年)時代のものと、推定されるということで、清盛の屋敷跡ではなかったかと歴史学者、専門家は見ています。

浄土真宗本願寺派(西大谷)

 最初の写真のように堀は東西約15メートル、幅3メートルで、石がしっかり積み上げられていました。出土品から、12世紀頃に作られたと見られます。

 また、この周辺は古代以前から葬送の場所で、平安時代からは「鳥辺野」(とりべの)と言われていました。平氏など武家は、この界隈に軍事拠点や住居を構えていたと見られます。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)が起きた頃です。

六波羅密寺

  特に、今回注目されていることは、鎌倉幕府が西国の御家人、朝廷を監視するためにつくった「六波羅政庁(探題)」が出来る以前の、平清盛の頃の遺構が見つかったということでした。

 また、遺構の見つかった場所からは、弥生時代後期の「方形周溝墓」も見つかり、平安時代よりもさらにもっと古くから、葬送がこの地で行われていた歴史を知ることができます。

 昨日の遺構現場には大勢の見学する人が来て、発掘した専門家の説明を熱心に聞いていました。流石に、煩い観光客は居ませんでしたね( ´艸`)。

 今回の発掘では、同時に、「平安京」が成立(794年)するもっと大昔の「古代」が、ちらっと地中から垣間見られた瞬間でもありました。

 まずは、ご報告まで。

 以上

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水戸漫遊記=水戸城址を訪ねて

 昨日18日(土)、ついに水戸城址に行って参りました。何しろ御三家で、最後の将軍徳川慶喜を輩出した藩ですからね。

 でも、遠かったあー。自宅から3時間以上掛かってしまいました。行く前に会社の後輩から「水戸に行くんですか?成田空港より遠いですよ」と脅されていましたが、まさかこんな遠いとは(苦笑)。筑波山よりも遠いんですからね。

 そう言えば、この間、古河城址に行った時、地元のお好み屋のおばちゃんから、「県庁の水戸まで行くのに遠過ぎる。栃木県の宇都宮や埼玉県の浦和だったら近いのに」と嘆いてましたが、その気持ちが良く分かりました。

水戸学の道

でも、行ってよかったですね。書物だけじゃ駄目です。実際に自分で現地に行かなければいけません。新聞記者の原点である「足で稼がなければ」なりませんね。

 土曜日だというのに、上の写真の通り、人が少なかったでした。さすがに水戸駅前は人が多かったでしたが、ちょっと離れた城下町に入るとタイムスリップしたような感覚に襲われました。

 古河市も素晴らしい城下町でしたが、何度でも言いますが、水戸は御三家です。やはり、規模が違いました。でかい。広い。

 上の看板写真のように、あちらこちらに案内図があり、「城歩き」には大変便利でした。

 水戸彰考館は、上の写真の説明にある通り、水戸黄門(黄門とは、中納言の唐風の呼び方)こと二代藩主徳川光圀が、「大日本史」の編纂のために創設した学問所です。勿論、現物は残っていません。昭和20年8月2日、アメリカ軍の爆撃で焼失しました。

 この水戸城三階櫓もアメリカ軍にやられました。このように戦前の写真が残っていますが、誠に惜しい櫓を失いました。

 水戸城は、御三家にしては質素な平城で、この三階櫓が天守のシンボルのようなものだったといわれています。説明文には「水戸空襲で焼失した」とだけしか書いておらず、主語が抜けています。忖度したのでしょうか?

二の丸は「藩の政務の中心施設」と書かれています。

 現在、この広大な二の丸の敷地跡には、筑波大付属小学校、市立水戸第二中学校、県立水戸第三高校があります。

 茨城県は、全国の魅力度ランキングで47都道府県中、6年連続最下位と聞いたことがありますが、教育に力を入れているんですね。もっと、アピールしなければいけませんよ。

 このように、現在、大手門の復元工事を行っていました。完成は今年9月30日ということですから、ご興味のある方は、お出掛けになったら如何でしょうか。魅力度アップに貢献してください(笑)。

 これは、二の丸と本丸の間の土塁と言われていますが、現在、JR水郡線が走っております。

 やっと本丸跡に着きました。えーー?看板が剥げて読みにくい。こりゃないよー。到達感が味わえない!

 こんな無粋で、興醒めするような碑を建てちゃ駄目でしょ?これでは、魅力度が落ちるはずだ。(何か、持ち上げたり下げたり忙しいですね)

 本丸は、現在、名門水戸一高になっており、敷地内は関係者以外入れませんが、私のような城好きの文化財視察者には特別に開放されているわけです。

 水戸一高は、旧制茨城中学で、小説「土」を夏目漱石に激賞された長塚節は中退していますが、この学校の出身です。

 上の説明文にある通り、旧水戸城薬医門は、旧水戸城で現存するただ一つの建造物で、現在は、水戸一高の校門みたくなっています。文化財見学者は、許可は取らなくても、ここまで入れます。

 土曜日でしたが、水戸の高校は授業があるようでした。生徒さんたちが帰るところでした。

 本丸から二の丸に戻って、三の丸に向かいました。ここには、藩校の弘道館があります。

 九代藩主徳川斉昭が天保12年(1841年)につくった日本最大級の藩校で、あの吉田松陰らも訪れています。最後の将軍慶喜は5歳のころから、ここで英才教育を受けたといいます。

 また慶喜は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂から逃れ、江戸城を出て、ここでしばらく、新政府軍に恭順の意を示すために、謹慎しました。

 この弘道館は、昭和20年8月のアメリカ軍の爆撃では、必死の消火作業で、延焼を免れたと、案内係の人が説明してくれました。ということは、今年で創建178年ですか。昭和39年には国の重要文化財に指定されていますので、まだの方は、是非行かれるといいでしょう。

 水戸駅に戻って、バスで茨城県立歴史館を訪れました。

 そう言えば、申し遅れましたが、バスを利用するのでしたら、水戸駅に着いたら最初に「水戸漫遊1日フリーきっぷ」を買うといいです。乗り放題で大人400円。

 水戸駅から歴史館・偕楽園まで往復480円ですから、80円のお得。それだけでなく、弘道館、歴史館、偕楽園好文亭などの入場料も割引になりますから、買わなきゃ損。私は、水戸駅を降りて、バス停の看板でその存在を初めて知りました。

 ただし、バスは1時間に1~2本ですから、前もって時刻表を確かめて行動するといいでしょう。

茨城県立歴史館内にある旧水海道小学校

 水戸市内には、私も昔行ったことがある水戸芸術館をはじめ、茨城県近代美術館など多くの美術館・博物館があります。私も事前に調べて、何処に行くべきか迷ったのですが、時間の関係で、最低1カ所だけしか行けないのでしたら、そして、城好き歴史好きでしたら、この歴史館がお勧めです。

 個人的な感想ながら、水戸藩と言うと、どうしても朱子学や尊王攘夷思想などの影響で、幕末は桜田門外の変や天狗党事件などを起こし、過激派のイメージが強いことは確かです。

 歴史館ですから、最初は古代の縄文土器や埴輪などに始まり、中世、近世、近代と時系列に展示されています。その最後の方で、私は思わず、あっと叫びそうになりました。

 太平洋戦争末期の昭和19年9月から11月にかけて激戦が行われた太平洋パラオ諸島のペリリュー島の戦い。ここで、水戸の歩兵第2連隊(第14師団)が中核となって戦い、全滅したというのです。日本軍の戦死者1万人以上、米軍も2300人以上戦死したといわれます。

 私も思わず、パネルに向かって黙祷しました。

 歴史館から歩いて13分ほどで偕楽園に着きます。入場無料は、大変有難い。

好文亭表門から入りました。

 広い、広い。日本の三大名園ですが、一番規模が大きいようです。

 梅シーズンを外したので、それほど混雑しておらず、ゆっくり森林浴が出来ました。

目指すは好文亭(200円が割引で150円に)です。天保13年(1842年)、徳川斉昭が自ら設計した別邸です。

好文亭

 好文亭もアメリカ軍の空爆で焼失しましたが、戦後、復元したようです。

 さすが、ここは観光ガイドブックに載っているのか、外国人観光客でごった返していました。(写真には写っていません)

常磐神社

 最後に訪れたのが、偕楽園に併設している常磐神社。二代藩主徳川光圀と九代藩主徳川斉昭を祀る神社です。

水戸市内には多くの寺社仏閣がありますが、時間の関係で一カ所しかお参りできなければ、ここが究極の選択になるかもしれません。

お土産に水戸の名物の青梅でも買おうかと思ったら、青梅が出るのは6月の中旬だそうです。残念でした。

 とにかく、行ってよかったでした。水戸城は「名城100」のうちの一つでした。そんなら、本丸跡の碑は、もうちょっとしっかりして下さいね。

【補遺】「人間には3種類しかいない」「長谷川家住宅」「使うな、危険!」、そして渋沢栄一

 ■映画「バイス」を観て、後から思ったのですが、主人公のチェイニー米副大統領には、彼を支えてくれる家族が頻繁に登場しますが、本当に心を割って話せるような親友がいない感じでした。

 そこで思い出したのが、かつて外務大臣を務めた田中真紀子さんが言った言葉です。

 「人間には3種類しかいない。家族か、敵か、使用人だ」

 いやあ、これは名言ですね。勿論、皮肉ですが。

 使用人というのは、普通の人は決して使う言葉ではありませんが、恐らく彼女は父親角栄さんの会社経営を一部引き継いだことがあり、それで、会社法の役員ではない社員を指す「使用人」という言葉がすぐ出てきたのではないか、と同情してしまいました。

 映画を観終わって、チェイニーさんも、彼の頭の中には「家族」と「敵」と「使用人」しか存在しないのではないかと思ったわけです。

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 ■渓流斎ブログ2019年4月7日付「 京都『長谷川家住宅』で松岡氏の『在満少国民望郷紀行』スライドショーが開催 」で触れた「長谷川家住宅」ですが、講演を終えて、京都から東京の自宅に帰宅した松岡將氏から、メールで詳しい情報を寄せて下さいました。

 まず、この長谷川家住宅は、有形文化財に登録されていますが、幕末は、何と、あの「蛤御門の変」の際に会津藩士の宿舎だったというのです。現在の当主の中川氏は、松岡氏の農林水産省時代の後輩に当たる人で、開催に当たって全面的に支援してくださったようです。

 開催案内のパンフレットも添付して送って頂きましたが、何と、後援として、農林水産省近畿農政局、京都府、 朝日新聞京都総局、京都新聞、古材文化の会と、錚々たる名前が連ねておりましたから、かなりの規模だったことが分かります。

 参加者の中には、「近畿満鉄会」の会員で、歌手の加藤登紀子さん(満洲・哈爾濱生まれ)の御令兄(元大手金属会社副社長で現在、ロシア料理店社長)や東京帝大の「新人会の研究」などの著作がある日本の近現代史専門のヘンリー・スミス・コロンビア大学名誉教授らも臨席されたそうです。

関宿城

■4月8日付では「関宿城址を巡る旅」を書きましたが、遠足だというのに、手を拭くウエットティッシュを持って行くのを忘れてしまい、難儀してしまいました。

 そしたら、昨日読んだ小岩順一著「使うな、危険!」(講談社)を読んでいたら、コンビニやドラッグストアなどで売っているウェットティッシュには、人体に影響を与える塩化ベンザルコニウムやパラベン、グルコン酸クロルヘキシジンなどが含まれているというのです。

 ウエットティッシュで拭いた手で握った寿司を口にしようものなら、食中毒になりかねないといった警告も書かれていました。

 あらまーー。それなら、ウエットティッシュを使わずにそのまま、おにぎりを食べたことは、よかったということになりますね。衛生的にどうかと思いましたが、免疫力がついたかもしれません(笑)何せ、現代人は「無菌」だの「無臭」だのと、やたらとうるさすぎます。ウエットティッシュで殺菌されたと勘違いして、もし食中毒になったりしたら、本末転倒です。これは、笑えませんよ。

 この本では、ウエットティッシュの代わりとして、20度の焼酎甲類ミニボトルを買い、ティッシュペーパーに濡らして使えばいい、と書かれていました。手の消毒になりそうですね。次回はその手を使ってみましょう。

 この本には、他にも色々書かれていますが、ご興味のある方は、古い本ですから、図書館でも借りてみてください。

Copyright 財務省のHPから引用

■昨日は新紙幣のデザインが正式発表されました。1万円が渋沢栄一、5000円が津田梅子、1000円が北里柴三郎になることは、皆さん、御案内の通り。

 でも、新紙幣の発行は5年後の2024年。5年も前に発表しますかねえ?何でこの時期? 何か政治的臭いを感じますねえ。。。

 さて、この中で一番の注目は、1万円の渋沢栄一でしょう。私も東京都北区王子の飛鳥山公園内にある記念館を訪れたことがありますが、この人、怪物みたいな偉人ですね。「日本の資本主義の父」で、500近い企業を創業したというのですからね。

 出身は、現在の埼玉県深谷市。映画「翔んで埼玉」が話題になっている今、埼玉県人は大いに喜んでいることでしょう。何しろ、映画では「埼玉県人はそこら辺の草でも喰っていろ!」と虐待された県民ですからね(笑)。

 昨晩、天下のNHKラヂオを聴いていたら、女性アナが大興奮していて、「私は埼玉県出身なんですが、小さい頃、郷土の歴史で、渋沢栄一が如何に偉い人なのか習いました。そんな郷土の英雄が選ばれるなんて感無量です」と、ずっと喋り続けていたら、隣の男性アナが「渋沢栄一は、埼玉県の英雄というより、日本の英雄ですよ」と、たしなめていたので可笑しかったですねえ。

 渋沢栄一が関係した会社として、王子製紙、みずほ銀行、キリンビール、三井物産、日本経済新聞など今でも大活躍している企業が名を連ねています。

 王子の渋沢栄一記念館に行った後、あまりにも色んな所に渋沢栄一の名前が出てきたので、その後、しばらくの間、どこに行っても渋沢栄一の名前が頭の中に出てきて、夢にまで出てきたので少し困りました。

 ここまで、彼の偉業ばかり書きましたが、ひねくれた見方も書き添えておきます。渋沢栄一は、2回結婚してますが、他にお妾さんが数多いらっしゃって、子どもが20人ぐらいいたそうです。

 当時は、普通のことだったかもしれませんが、20人とは凄い。「英雄色を好む」と言いますか、それでも、よほどの資産がないと沢山の子どもたちを養育できないでしょうから、偉人だったことは確かです。

 渋沢栄一の最初の結婚は、従妹の尾高千代でしたから、現在でも渋沢家と尾高家とは濃厚な縁戚関係になります。クラシック音楽通なら誰でも知っている「尾高賞」の作曲家・指揮者の尾高尚忠、その長男の尾高惇忠(作曲家)、次男の尾高忠明(指揮者)らも渋沢一族だったんですね。

 最後に、天保年間生まれの渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農出身ですから、身分は農民です。それでも、幕末は「徳川慶喜に取り立てられて幕臣になった」と何処の本にも書かれていますが、どうやって幕臣になれたのか何処にも書いていません。恐らく、豪農でしたから、お金で、武士の株券でも買ったのではないでしょうか。それに、幕末は身分制度が曖昧になり出したと言います。最も武士らしいと言われた新撰組の近藤勇も土方歳三らも、元々は、日野村の農民でしたからね。

 

京都御所で梅を愛でる

京洛先生です。新生「渓流斎ブログ」が、早くも10万アクセスを突破されたようで、おめでとう御座います。御同慶の至りです。

 何やら、迂生の名前まで出して謝辞を述べられておられましたが、迂生は黒子ですからいいですよ。多羅尾伴内のように、ある時は弁護士、ある時は美術鑑定士、そしてある時は…の職業不詳、住所不定の神出鬼没ですから、影武者です(笑)。

 人は、70歳になっても、80歳になってもテレビに出たり、舞台に上がったりして、とにかく目立とう、目立とうとしますが、迂生は御簾に隠れて、三味線を弾いたり、笛を吹いたり、時には大きな銅鑼を鳴らして、けしかけたりする方が性にあっているんですよ(笑)。

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 さて、帝都の本日(2月9日(土))は、大雪だそうですね。まだまだ、厳しい寒さが続きますが、渓流斎先生もご高齢ですから、身体はくれぐれも労わってください。過日、写真をお送りしました折にお伝えしましたように、「北野天満宮」では、8日(金)から境内の「梅苑」公開がスタートしました。週末ですから、9日(土)と10日(日曜)は、梅を愛でる観光客で、かなり混雑することでしょう。


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 迂生はへそ曲がりですから、北野天満宮は避けて、観光客があまり来ない洛中の穴場の「京都御所」の梅を見に出かけました。京都御苑にはおよそ4万の樹木が植わっているそうで、春夏秋冬、何かしらの樹木の花が咲いており、これほど優雅な時間を過ごせるところはあまりないでしょうね。


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 しかも、大宮御所、仙洞御所を囲むように、明治の遷都まで、天皇に身近で奉仕していた近衛、閑院宮、一条、九条、桂宮、賀陽宮、中山、有栖川宮などなど貴族の邸宅跡やこれらに関連する「学習院」など関連施設の旧祉・旧跡もあり、碑や「立て札」で、所在の場所が分かるので歴史の勉強になります。


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 上の写真の「西園寺邸」跡には、今は時季が過ぎた山茶花が少し残っておりました。もともと、西園寺家は「雅楽(琵琶)」の家元で、邸宅跡に「白雲神社」があり、音楽家やミュージシャンらが技芸の上達に祈願に来ております。フォーク歌手の長谷川きよしが寄せた祈願もありました。


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 西園寺は「立命館」の建学にも関わりましたが、”立命館・発祥の地”という謂われの碑文も残され、記されていました。

 この西園寺家跡の前に「梅林」があり、これから3月末まで、紅白の梅が咲き誇ります。


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 桓武天皇が、延暦13年(794年)に長岡京から平安遷都した時には、今の京都御所よりも西の千本通りを中心に、平安宮や内裏などいわゆる「御所」がありました。それが、たびたびの火災で、天皇は宮内裏(仮御所)を転々としました。今の京都御所のある所は、もともと、摂関政治の基礎をつくった藤原良房や、その後の藤原道長らが住んで居た所なのです。


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 正元元年(1259年)になり、当時の里内裏がやはり焼失してしまい、「土御門東洞院殿」を此処に移して改築したそうです。そして、元弘元年(1331年)に光厳天皇が「即位」をして、それが明治2年(1869年)まで続くわけです。今の京都御所は安政2年(1855年)にできたもので、実はまだ歴史的には新しい建物なのです。

以上 

フランス地図旅行 Fin

 「地球の歩き方』フランス版(ダイヤモンド社)は、本当に勉強になりました。私自身、知っていたこともあり、全く知らなかったことも沢山ありました。せっかく知識として得たのですから、備忘録として書いておきます。

【生誕地】

●アンリ4世(ブルボン王朝創始)=ポーPau(大西洋岸Côte d’Atlantique地方)

●ブレーズ・パスカル(哲学者)=クレルモン・フェラン Clermont-Ferrand(中南部オーヴェルニュ Auvergne地方、ノートルダム・ド・ラソンプシオン大聖堂 Cathedrale Notre-Dame l’Assomption、ノートルダム・デュ・バジリカ聖堂 Basilique Notre-Dame du Port、ミシュラン発祥地)

●スタンダール(作家)=グルノーブルGrenoble(中南東ローヌ・アルプ Rhône-Alpes地方)

●ヴィクトル・ユゴー(作家)=ブザンソンBesançon(中東部フランシュ・コンテFranche-Comté地方、指揮者コンクールで小澤征爾、沼尻竜典ら多くの日本人が優勝 )

●リュミエール兄弟(映画発明者)=ブザンソン Besançon 生まれ、映画の誕生地はリヨン Lyon (中南東ローヌ・アルプ Rhône-Alpes地方)

●ノストラダムス(星占学者)=サン・レミ・ド・プロヴァンス(南部プロヴァンス Provence 地方アヴィニョン近郊、画家ゴッホが同地の精神病院に入院)

●ルイ14世(国王)=サンジェルマン・アン・レーSt-Germain-en-Laye(パリ近郊イル・ド・フランス Ile de France地方)

●クロード・ドビュッシー(作曲家)=サンジェルマン・アン・レーSt-Germain-en-Laye (生家が記念館に)

●ジャン・フランソワ・シャンポリオン(ロゼッタストーン解読)=フィジャックFigeac(南西部Sud-Ouest地方 )

●トゥールーズ・ロートレック(画家)=アルビ Albi(南西部Sud-Ouest地方、少年時代は祖父の家ボスク城で過ごす )

●ギュスターヴ・フロベール(作家)=ルーアンRouen(北東ノルマンディーNormandie地方、父は外科医師。ジャンヌ・ダルクはこの地で火刑)

【物語の舞台・執筆地】

●シャルル・ペロー作の童話「眠れる森の美女」の舞台=ユッセ城 Château d’Ussé(中西部ロワール Loire地方アゼー・ル・リドーAzay-le-Rideau郊外)

●バルザック「谷間の百合」「ゴリオ爺さん」執筆=サシェ城 Château de Saché (中西部ロワール Loire地方アゼー・ル・リドーAzay-le-Rideau郊外)

●アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」の舞台=イフ城 Château d’If(南部プロヴァンス Provence地方マルセイユ Marseille、主人公ダンテスがイフ島のイフ城に監禁される)

●マルキ・ド・サド侯爵が領主を務めた村=ラコストLacoste(南部プロヴァンス Provence リュベロン地方、この近くのルールマランLourmarinはアルベール・カミュが晩年に過ごした村で、墓もある)

●アルフォンス・ドーデ「風車小屋だより」=フォンヴィエイユFontvieille (南部プロヴァンス Provence地方 アルル Arles郊外)の風車小屋で執筆。ドーデの生誕地は南西部Sud-Ouest地方ニームNîmes=仏最古のローマ都市。

フランス「地図」旅行を楽しみ、雑学王に(続編)

 今年1月9日付の渓流斎ブログ「フランス地図上旅行 マドレーヌとは?」でも書きましたが、「地球の歩き方」フランス版(ダイヤモンド社)を通勤電車の行き帰りに少しずつ読み、至福の時間を過ごしております。

同時に、かなりの「フランス通」と言いますか、雑学の泰斗にさえなりました(笑)。例えば、アルミニウムの原料となる鉱石ボーキサイト bauxite。これは、中世に南フランスのアルル郊外を支配したボー家 Les Bauxから名付けられたんですってね。御存知でしたか? ボー家は、全盛期には80の町を支配していましたが、15世紀にボー家の血筋が絶え、1631年にはルイ13世の宰相リシュリューによって町はことごとく破壊されます。現在、アルル北東のレ・ボー・ド・プロバンス村 Les Baux-de-Provence(人口470人)に廃墟の城が残っていますが、この辺りでも鉱物ボーキサイトが採取されていたようです。

バルセロナ・カタールニャ広場

 フランスには日本人の名前が付いた「通り」もありました。

パリに近いイル・ド・フランスIle-de-France地方グレ・シュル・ロワン村 Grez-sur-Loing (フォンテーヌブローの森の南外れ)にある「黒田清輝通り」です。日本の近代洋画を切り開いた黒田は、1890年から約2年半、この村に滞在しました。ここは他に浅井忠ら多くの日本人画家が滞在して写生作品も残しています。

フランスで最も有名な日本人は、エコール・ド・パリの藤田嗣治でしょう。(戦後、フランスに帰化)彼が、シャンパンで有名なマム社 G.H.Mummの資金援助を受けて手掛けたフジタ礼拝堂 Chapelle-Foujitaが 北東部シャンパーニュChampagne地方のランス Reinsにあります。ランスは、ノートルダム大聖堂 Cathédrale Notre-Dame (藤田はここで洗礼を受けます)があることで有名です。13世紀着工のゴシック様式。20世紀初頭の大修復の際にシャガールがステンドグラスを寄進します。フジタ礼拝堂には藤田と君代夫人が眠っているそうです。

もう一人、フランスで有名な日本人は高島北海(1850~1931)です。何?知らない? 日本画家ですが、絵は独学。もともとは明治新政府の技術官僚で、北東部ロレーヌLorraine地方のナンシーNancyにある森林高等学校に留学します。この街で、後にアール・ヌーヴォーの代表的な芸術家となるエミール・ガレらと知り合い、ガレは高島から日本の美意識を学び、そのジャポニスムの影響が強い工芸品を次々と生み出します(ナンシー派とも)。

バルセロナ・カタールニャ広場

美術の話になったので、その線で話を進めますと、フランスは「芸術大国」と言われますが、しっかりと、過去の芸術家の所縁の地を観光資源として残してます。美術館を建てたり、画家が写生した現場に看板を立てたりしています。計算高い国ですねえ、行きたくなるじゃありませんか(笑)。クロード・モネ(「睡蓮」連作で知られる北西ノルマンディーNormandie地方ジヴェルニーGiverny、「印象:日の出」を描いた同地方ル・アーヴル Le Havre)、ポール・セザンヌ(生まれ故郷の南仏プロヴァンスProvence地方エクス・アン・プロヴァンスAix-en-Provenceとサント・ヴィクトワール山)ら自国民は当然のことながら、オランダのフィンセント・ファン・ゴッホ(終焉の地であるパリ郊外イル・ド・フランスIle de France地方オヴェール・シュル・オワーズAuvers-sur-Oise、南仏プロヴァンスProvence地方アルルArles)、スペインのパブロ・ピカソ(65歳で陶芸を始めた南仏コートダジュールCôte d’Azur地方ヴァロリスVallauris、絵画製作のため滞在した同地方アンティーブAntibesのグリマルディ城Chateaux Grimaldi=現ピカソ美術館など)らは、各地に足跡を残しています。

 そう言えば、ルネサンスの巨匠レオナルド・ダヴィンチなんかイタリア出身ながら、フランソワ1世に招かれて豪邸(北中西部ロワールLoire地方アンボワーズAmboiseのクロ・リュセ城Châteaux du Clos Lucé )を与えられ、同地のフランスで生涯を終えてましたね(同地の聖ユベール礼拝堂Chapelle de St. Hubertにお墓があります)

バルセロナ

嗚呼、ワインやグルメの話、古城の話、ロマネスク様式、ゴシック様式建築、 歴史的に重要な宗教都市(法王庁があったアビニョンAvignon、アンリ4世によって勅令が発せられたナントNantesなど)と伝説都市(ルルドLourdesなど)聖堂、修道院、物語(「眠れる森の美女」「岩窟王」「星の王子さま」など)の聖地などについても、色々と書き残しておきたいのですが、長くなるので、これからまた分割して書いていきます。

【追記】

 地名や聖堂には聖人の名前が多く使われています。サンテティエンヌ(聖エティエンヌ)の語源が気になって調べたら、エティエンヌとは新約聖書の「使徒行伝」に出てくるステパノ(またはステファノ=ギリシャ語で冠の意味)のことで、キリスト教徒最初の殉教者でした。ステパノは英語でStephen、スティーヴン(女性名はstephanie、ステファニー)。スティーヴン・スピルバーグ(映画監督)、スティーヴン・ホーキング(物理学者)、スティーヴン・キング(作家)、フランス象徴派詩人ステファヌ・マラルメら多くいますね。