平成三〇年(2018年)新年明けましておめでとう御座います!

La vue de Mont Fouji du balcon du immeuble situé dans le centre de Tokio copyright par Duc de Matsouoquasousoumou

アケオメ

コトヨロ

La vue de Mont Fouji de Higashikouroume copyright par Osamoutakada

《渓流斎日乗》のご愛読の皆様

最近の日乗は「長い」「つまらん」「読むのがかったるい」とお嘆きの読者諸兄姉の皆様方

平成三〇年の元日を無事迎えられまして、恐悦至極に存じ上げ奉ります。

新年の執筆始めとしまして、今年は皆様方のご要望にお応えしまして、二言のみと致しました。

ですので、今年も宜しゅう頼んます…(笑)。

大晦日と「京都学派酔故伝」

鎌倉街道

◇1年間御愛読有難う御座いました

今日はもう大晦日です。今年も本当に色んなことがありましたが、1年間はアッという間でした。年を取ると、年々幾何学級数的に歳月の流れが早くなりますね。

今年も一年間、わざわざ検索して、この《渓流斎日乗》を御愛読して頂きました皆々様方には感謝申し上げる次第で御座います。

今年は何と言っても、《渓流斎日乗》が新規独立して、オフィシャルサイトが開通したことが最大のイベントとなりました。これには、東京・神保町にあるIT企業の松長社長には、大変お世話になりました。改めて御礼申し上げます。

◇戦勝国史観だけでは世の中分からない

日々のことは、毎日この《日乗》に書いた通りですが、 個人的な今年の最大の収穫は、数々の書籍を通して、物事も、歴史も、色々と多面的に眺めることができたということでしょうか。世の中は、数学のようにスッキリと数字と割り切れるわけではなく、スポーツのように勝ち負けで勝負がつくわけでもなく、哲学のように論理的でもなく、小説や映画の世界のように善悪で割り切れるわけでもなく、社会倫理のように正義と不正義に峻別されるわけでもないことがよおーく分かりました。

来年のことを言えば、鬼も笑うかもしれませんが、個人的な抱負としましては、引き続き、健康には気をつけますが、「何があっても気にしない」(笑)をモットーにやって行きたいと存じます。

あと、毎日電車の中でスマホでこの《渓流斎日乗》を更新し続けてきましたら、今年9月下旬に急に体調を崩してしまい、「これはいけない」ということで、「スマホ中毒」からの脱出を図ることに致しました。

以前のように、毎日更新できないかもしれませんが、今後とも御愛読の程、宜しく御願い奉ります。

京都にお住まいの京洛先生のお薦めで、櫻井正一郎著「京都学派 酔故伝」(京都大学学術出版会、2017年9月15日初版)を読んでいます。著者は英文学者の京大名誉教授。残念ながら、あまり読みやすい文章ではありませんが、「京都学派」という知的山脈の系譜が「酔っ払い」先生をキーワードに描かれています。

京都学派というと、私のような素人は、湯川秀樹博士のような物理学者を思い浮かべましたが、著者によると、初めて京都学派という言葉が使われたのは1932年で、戸坂潤が「西田=田辺の哲学ー京都学派の哲学」という著書の中で使ったもので、哲学の分野が最初だったといいます。

そこから、京都学派の第1期は、哲学者の西田幾多郎、田邊元、九鬼周造、東洋学者の内藤湖南、中国学者の狩野直喜らが代表となります。第2期では、中国文学の吉川幸次郎、仏文学の桑原武夫(実父は第1期の東洋学者桑原じつ蔵)、生物学の今西錦司、梅棹忠夫、作家の富士正晴、高橋和巳らとなり、本書では彼らを取り上げて詳述しています。

京洛先生は、三高と京大の名物教授だった英文学者の深瀬基博(織田作之助も三高生のとき習った)が贔屓にしていた祇園ではなく「場末」の中立売通のおでん屋「熊鷹」(今はなき)が、お近くのせいか、えらくお気に入りになって、「現場」まで足を運んだそうです。

この本の中で、赤線を引いたところはー。

・仏文学者の桑原武夫は、小林秀雄に対して厳しく、「小林君というたら無学でっせ」と言ったとか。同じ仏文学者の生島遼一も小林には厳しく、後輩の杉本秀太郎が生島の家で小林を褒めると、生島は「君たちは小林小林と言うけど、彼は僕や桑原君みたいにはフランス文学は知りませんよ」と言うなり、杉本に出していたカステラを取り上げて、窓を開けてカステラを犬に食わせたとか。

・「海潮音」の翻訳で知られる上田敏は、京大英文科の初代主任教授だった。

・中国文学者の吉川幸次郎が、東京・銀座の金春通りにあった料亭「大隈」に飾ってあった、客として来た画家の岸田劉生が書き残した画賛が読めなかった。生真面目な吉川は「これは語法に合うとらん」と言った。そこに書かれていたのは、

鶯鳴曠野寒更新

金玉瓶茶瓶茶当天下

後日店を訪れた中野好夫は、吉川とは三高時代の同期だったので「吉川はこういうもんは読めんよ」と素っ気なく言ったとか。

これは、謎かけや隠し言葉を楽しんでいた江戸文化がまだ残っていたもので、「長らくご無沙汰していた年増女の懇願する内容」ということで、後は皆様御自由に解釈くだされ(笑)。

・古代ローマで一般教育「リベラルアーツ」の習得は自由民だけに限られ、奴隷、職人はタテ社会の一員として親方から専門教育だけを伝授された。リベラルアーツの初級は、「文法」「修辞学」「論理学」の3科目。上級は、「算術」「天文学」「地理学」「音楽」の4科目だった。

・筑摩書房の創業者古田晃は、東大出だったが、国文学の唐木順三、独文学の大山定一ら京都学派の本をよく出版した。かなりの酒豪で、最期は東京・神保町の「ラドリオ」で酔い潰れ、帰りのタクシーの中で帰らぬ人となった。

石橋正和さんって誰?「白いばら」が閉店とは!

新聞の片隅に出ていた石橋正和さんがどんな人なのか気になりました。

田村正和に似たいい男?それとも、ブリヂストン財閥の親戚の方?

正解は、寿司職人さんのようです。

昨晩、日本の国家最高権力者で、御自身のことを「リベラル」と自称されている安倍首相が、アッキー夫人同伴で大物国会議員夫妻らとディナーに訪れたのがこの東京・銀座のお店だったのです。

「銀座通」を自称する私も知らなかったので、気になって少し調べてみました。

クリスマスイブ

所は銀座三丁目。正式名称は「鮨一 石橋正和」。あの地方別出身のホステスさんを取り揃えて、「貴方のご出身の女性を御指名下さい」と看板に書かれているグランドキャバレー「白いばら」の真向かいにあるそうです。

あたしは、東京生まれの東京育ちなもんで、この店に行ったことはありませんが、京都にお住まいの「地獄耳」の京洛先生から、「『白いばら』はもうすぐ閉店してしまいますよ」という極秘情報を先日聞かされたばかりでした。

こちらも調べてみますと、「白いばら」は何と昭和6年創業。満洲事変があった年ではありませんか!(ちなみに、同じ年に、松屋浅草店と新宿ムーランルージュが開業してます)来年1月10日に87年の歴史の幕を閉じるそうなのです。

何とまあ、歴史と伝統があるキャバレーだったんですね。昭和初期ですから、ミルクホールの流行ったモボモガの時代です。太宰治(青森)や檀一雄(福岡)、坂口安吾(新潟)ら地方出身の無頼派も通ったかもしれません。恐らく、全盛期は昭和30年代、石原裕次郎や浅丘ルリ子を気取ったナウいヤングが、ごゆるりと集ったことでせう(笑)。

あ、石橋正和さんのことでした。この鮨一という店は、ミシュランの星を取ったり、外されたりしたそうで、高いようで、そうでもないようで、美味いという人もいれば、それほどでもないという人もあり、「白いばら」の凄さと比較したら、何かどうでもよくなってしまいましたよ…(笑)。

【特別エッセイ】男のサガについて

三島市「山中城」障子堀 Copyright par Osamoutakata

先日、テレビで、ある女性の心理学者さんが男と女の面白い違いを指摘してました。

テーブルの前に何枚かカードを伏せて並べて、一瞬だけ見せてからまた直ぐ伏せて、「何が描かれていましたか?」と質問すると、女性が「バナナがありましたね」などと答えるのに、男性の場合、あったカードではなくて、「葡萄がなかったですね」などと、なかったカードについて言及するというのです。

この話を聞いて、私なんか「はっはー」と思いましたね。

男という生物は、「ないものねだり」と言いますか、なくなったものに対して、妙に執着心があると思ってしまうのです。女性は、「ある」ものにしか興味がない、とも言えます。

だから、男は「失われた時を求めて」のような長編小説が書けるし、今はない幻想を追い求めたり、まあ、過去の歴史が好きだったりするんでしょうね。

男は、もう別れてしまった恋人や愛人やガールフレンドだけでなく、交際が絶えてしまった同性の友人たちについても、時々、ふと思い出したりします。

ところが、女は違うんですよね。

築地・イタリア食堂「のら」

女は、今、現前にあるものにしか相手にしません。「歳月日々に疎し」とよく言われます。英語では、Out of sight, out of mind. つまり、目の前から消えたら、はい、さようならです(笑)。

ある友人の話ですが、彼が遠く離れてしまった昔の女性に、誕生日が近いので久し振りに連絡したところ、電話も通じず、メールもラインのアドレスも変更されていたというのです。それは、それは、誠にお見事なものだったそうです。つい2〜3カ月前までは通じていたのに、一切、予告なしにプッツリ切れてしまったというのですからね。

昔、山本リンダの唄の中の歌詞に「ボヤボヤしてたら、あたしは誰かのいい娘になっちゃうよぉ〜♪」というものがありましたが、今の時代からすると、凄い歌詞で魂消てしまいますが、一理ある歌詞だったんですね(笑)。

いなくなってしまった人やモノのことでウジウジ悩んでいる男性諸君!貴方のせいではありません。単なる男のサガだったのです!

【教訓】

これからは、「ない」ものに執着することはやめて、今「ある」もの(明日飢えない程度のお金と、雨風を避けられる住む家、優しく声を掛けてくれる友人たち等)に感謝の気持ちを持って生きていけば宜しいのではないでしょうか。

佃島渡船場跡〜再び、勝鬨橋【動画】

佃島渡船場跡

奮発して、佃大橋まで足を延ばしてみました。

風情があると思ったら、ガッカリ。車両優先で空気も悪く、行かなければよかったと思いました。

佃大橋は、東京五輪が開催された年、つまり昭和39年8月にできました。

この橋ができる前は、佃島は島(自然の寄州)でしたから、「本土」と島を結ぶ交通手段は、隅田川の渡し船しかありませんでした。(ちなみに、佃島は、徳川家康が大阪の佃村から漁民を移住させて漁業権を与えた。佃煮の発祥地)

◇嗚呼、懐かしやの「ポンポン大将」

渡し船は、俗称ポンポン船。昔、桂小金治が主演した「ポンポン大将」というテレビドラマがありましたが、今では誰も知らないでしょう。

私は「船長さんは朗らか〜ポンポン大将〜」という主題歌は、今でも諳んじることができますが(笑)。

佃大橋は、車両優先で風情も何もありませんでしたが、橋のたもとに「佃島渡船跡」の碑がありました。

全盛期は昭和30年で、「一日70往復もあった」と書かれていました。そして、繰り返しになりますが、昭和39年8に佃大橋ができて、300年もの歴史があった渡し船は廃止されるのです。

今は便利な世の中で、データベースによると、「ポンポン大将」は、NHKのドラマで、昭和35年9月4日から昭和39年4月5日まで、日曜日夜6時から、実に3年半も当時としてはロングランで放送されていたようです。

ちょうど渡し船の全盛期から廃止直前までの同時代が描かれていたわけですね。

内容は覚えていなかったのですが、またまたデータベースによると、子どもの時、浮浪児だった桂小金治扮する船長さんが、施設から三人の子どもを預かって育てる話だったようです。駄菓子屋のおばちゃん役が飯田蝶子だったとは!

昭和35年は、まだ戦後15年しか経っていないので、戦争孤児らは、まだまだ身近な問題だったことでしょう。

佃大橋があまりにも風情がなかったので、お口直しに、再び、勝鬨橋へ。

カモメが飛んでいました。

【書評】「永六輔」を読んで

畏友隈元信一さんの書いた「永六輔 時代を旅した言葉の職人」(平凡社新書)を読了しました。

今、ネット通販アマソンの何とか売上ランキングで第1位を獲得してベストセラーになっているようで、嬉しい限りです。

私が著者の隈元さんとお見知り置きになったのはもう30年近く昔ですが、彼の著作を読むと同時に彼の息遣いと声を聴こえてきます。不思議なもんですねえ。

この本は、放送作家、作詞家、放送タレント、芸能史研究家、ラジオパーソナリティーという戦後のマルチタレントの魁を行った多面体の天才的な人物の評伝ですが、著者の隈元さんが、永六輔という人を心底敬愛し、少なからず私淑していたんだなあ、という気持ちが伝わってきます。

何しろ、彼は永六輔が出版した200冊以上の本を読破し、「読書案内」まで載せる念の入れようです。

私は彼と同世代ですので、ほとんど同時代人として、テレビやラジオを通してですが、同じような体験してますので、話の内容はよく分かりますが、永六輔を全く知らない若い世代でも分かるように、安倍首相のように丁寧に説明文を付記する心の配慮があります(笑)。

ジュリエット像=イタリア・ヴェローナ

私の知らないことも結構ありました。

永六輔の師匠に当たる三木鶏郎(1914~94)の本名は繁田裕司(しげた・ひろし)。東大法学部卒のインテリで、筆名はミッキーマウスから無断拝借して、ミッキー・トリオから文字ったんだそうですね。(三木鶏郎がつくった「冗談工房」からは野坂昭如や五木寛之らが巣立ちます)

早熟の永六輔は、早稲田の高校生の時から、ラジオの放送作家として活躍しますが、初期の頃の今で言うラジオのプロデューサーが、NHK音楽部副部長の丸山鉄雄で、この方、ジャーナリスト丸山幹治(白虹事件で大朝を退社し、後に大毎に入社)の長男で、政治学者の丸山真男の兄に当たる人だったんですね。

永六輔の「仕事」として、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」などの作詞家として芸能史に名を残すでしょうが、作詞家は若い頃の10年ほどで、その後は、諸般の事情(シンガーソングライターの登場など)で、断筆してしまうんですね。これも知りませんでした。

それでも、私の世代ではよく聴いた「えっ?あの曲もそうだったの?」という歌が結構多いです。

「黒い花びら」「夢であいましょう」「誰かと誰かが」「見上げてごらん夜の星を」「女ひとり」「いい湯だな」「筑波山麓合唱団」「二人の銀座」…キリがないのでやめておきます。

著者の隈元さんは、永六輔のことを「古典的なジャーナリストの原点を体現するような人物だった」と評し、メディア史が専門の山本武利氏(一橋大・早大名誉教授)の「新聞記者の誕生」(新曜社、1990年)から引用して、その理論的裏づけとしていたので驚いてしまいました。

山本武利氏は、先日、この《渓流斎日乗》で「陸軍中野学校」の書評で取り上げさせて頂いたばかりでしたから。

巻末には「参考文献」のほか、「関連年表」も掲載され、昭和と平成の日本の芸能史と社会の動きが分かるようになっています。

1963年を見ると、この年に、永六輔作詞、中村八大作曲、坂本九唄の「上を向いて歩こう」が全米で第1位に輝き、その年末は、梓みちよ唄の「こんにちは赤ちゃん」が、レコード大賞を獲得します。彼が作詞した曲がレコード大賞に輝くのは1959年の「黒い花びら」(水原弘唄)に続き、2度目です。永六輔、この時まだ30歳ですからね。やはり、早熟の天才だったということでしょう。

放送作家、タレントとして、テレビ草創期の「夢で逢いましょう」をつくった永六輔も、晩年はラジオ中心の仕事に重心を置く経緯などが本書に詳しく書かれています。

「顔は長いが、気は短い」と自称し、意にそぐわない仕事はすぐ辞めてしまい(大橋巨泉らがその後釜に入った)、若い頃は相当生意気だったようで、大先輩作家の柴田錬三郎に批判されて、凹んでしまう逸話なんかは、本人に直接取材しなければ聞けない話でした。

永六輔は2016年7月7日に永眠。享年83。最後まで「現役」に拘って、走り抜けた生き方には感銘を覚えました。

公用電波を民間に開放へ、その裏に何が?

ミラノ・ドゥオモ

名古屋の篠田先生です。

どうも、渓流斎さん、お身体の調子が悪いようですので、あたしが肩代わりして本日は執筆することにしやんした。

何しろ、歯磨き粉を顔に付けたまんま、電車に乗ったり、銀座を歩いたりしたそうですから、相当危ないです(笑)。

◇楽天、第4の携帯電話事業者に

昨日、IT大手の楽天が第4の携帯電話事業会社に参入することを表明して、安倍政権も期待しているというニュースが世界を駆け巡りました。

しかし、このニュース、何処か胡散臭い。裏があるんじゃないかということで、あたしも調べてみました。

で、結局、あたしゃ、冬のボーナス319万円を貰えるような永田町の住人じゃないので、はっきりした証拠はつかめませんでしたが、どうも臭い。何かあるんじゃないか。これは、最初から出来レースじゃないかと、あたしなんか睨んだわけですよ。

つまり、来年辺り、安倍政権は、警察と防衛省の公用電波を一部民間に開放、てゆーか、規制緩和の名の下で、下々の民に分け与えてやるという政策を早晩発表しますが、その伏線を張っているんじゃないか、とあたしなんか見ているんですがね。

電波なんか、土地と同じように有限の希少価値です。それをお上が民に開放するということですから、入札競争です。何処が手を挙げて立候補しても構わないわけです。

それなのに、もうそれらの電波は楽天に引き渡すような既成事実を作り上げてしまおうというのが、今回のマスコミへの示し合わせたリークじゃないかと、あたしなんか睨んでいるわけですよ。

そりゃあそうでしょ?

第一、事情に精通しているいずれのマスコミも、批判の一つもしないじゃありませんか。

ミラノ・ドゥオモ

◇大田弘子女史の規制改革推進会議の正体

まあ、例の大田弘子女史の規制改革推進会議のように、「規制緩和!」を叫んで新利権を生み出す仕組みも、また、電波オークション導入を主張しているのも、こうした背景があるわけですね。

建前は、財政難で「財源、税収を増やす」ですが、「加計学園」同様に安倍首相の”お友達”に新利権を与えることが最終目的で、その最高権力者の意向を官僚が忖度するわけです。

規制緩和=新利権の仕掛けは、もう、子供でも分かる腐敗の構図です。東京地検特捜部がなぜ強制捜査しないのか。これも忖度かもしれませんね(笑)。

マスコミも「規制緩和は良いことだ!」「新規参入は、料金の値下がりにつながる」などと相変わらずステレオタイプの報道ばかりしておりますが、いい加減にそんな悪習から脱却するべきですよ。

マスコミも何処かで「忖度して」、大田弘子女史らと一緒になって「規制緩和=新報利権音頭」を踊っていることになるわけです。

こうなると、もう犯罪に近いのです。

iPhone 新機種断念は残念無念

シュークリーム fabriqué à la main

朝出勤して、トイレの鏡を見たら、口の周りに白い歯磨き粉が山賊のようにべったりとくっついていました。この顔で、バスに乗り、電車に乗り、華の東京は銀座の街を闊歩していたので、我ながら、一瞬、冷や水を浴びせられたような心境で微苦笑してしまいました。

怪しい変なおじさんです。

Milano

私のスマホは、2年前に初めてiPhoneに買い換えてすっかり気に入ってしまい、通話から、写メール、インスタ映え(やってましぇん)、静止画に動画撮影、そして、電車の中でのこの《渓流斎日乗》書きと八面六臂の活躍をしてくれています。

でも、購入して2年ともなると、電池の消耗が早くなり、何よりも、アプリやシステム設定の更新が頻繁に来るようになりました。そこで、「2年契約」の縛りも切れることですし、新機種に乗り換えようかと画策しました。

◇iPhone6はタダだった!

実は、今持っているiPhone6は、2年前は最新機種より2世代ぐらい古い昔の機種だったため、「一括ゼロ円」で購入したのでした。つまり、タダ!

しかし、そんな素晴らしい制度は、総務省の鶴の一声で廃止されてしまいました。私が画策した範囲内ですが、何処に行っても「一括ゼロ円」がなくなったどころか、量販店でも正規ショップでも、場末の裏街の携帯屋でも、ほぼ全く料金が同じになってしまったのです。店員が同じようなタブレットを持っていて、価格をはじき出すだけでした。

今、iPhoneの最新機種は「8」と「Ⅹ」ですが、一番安いiPhone8の64GBでも約9万2000円。iPhoneⅩ256GBとなると15万円もするのです。

繰り返しますと、それが何処に行ってもほぼ同じ値段なのです。

そこで、正規ショップで、値崩れした古い機種のiPhone7を購入しようとしたら、近くのショップは全て売り切れ。遠いショップも10軒以上電話で問い合わせてみましたが、全て在庫なしでした。価格は7万5000円ぐらいです。

確かに、量販店にはiPhone7はありましたが、正規ショップの1万5000円の割引券(ポイント還元)が使えないばかりか、3240円の手数料も取られるので、馬鹿らしい。

結局、新機種買い換えは諦めてしまいました。

何しろ、今、パソコンが、台湾製ながら特別価格で2万円を切る価格で販売されているんですからね!もう文房具に近くなってきました。しかも、高級万年筆よりも安い!

しょうがないので、今のiPhone 6でも十分に使えますので、半年後、新機種iPhone 8EかiPhone 9が発売された時に、値下がりしたiPhone 8でも買おうかなあと思っています。

やっぱり、変なおじさんでした。

【動画】有楽町で逢いませう!

ミラノ・ドゥオモ

12月14日。嗚呼、忠臣蔵ですか。…早いもので、年の瀬。今年2017年も残り少なくなってきました。

日本の首都東京・銀座のイルミネーションも綺麗ですが、有楽町も負けていませんでした。

昔あった有楽町そごう百貨店のコマーシャルソング「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫・作詞、吉田正・作曲、フランク永井・唄)に引っ掛けて、「有楽町で逢いませう!」の動画を撮ってきました。

浦安でもないのに、急にミッキーマウスが出現して吃驚しました。

病気療養中で、都心にまで足を運べない北原さんにプレゼント致します。

トランプ大統領が可視化した米国の日本占領体制

クロード・モネのジヴェルニーの庭 ©️Hina

◇神保太郎氏のメディア批評

社友の真山君から読むように勧められた今月発売の「世界」(岩波書店)2018年1月号の中の神保太郎著「メディア批評」(2)上すべりするトランプ来日報道―は実に面白かったです。

この神保太郎という人は、筆名で、大手新聞社に勤務するジャーナリストらしいのですが、どなたか不明です。月刊「文藝春秋」の名物政治コラムの赤坂太郎と同じように複数のジャーナリストの代表筆名の可能性もあります。

この神保太郎をネットで検索すると、「メディアの内部にいる人間が匿名でメディアを批判するとは如何なものか」と批判する地方新聞記者の方がおりまして、こんな批判をする当人が、面白いことに、どう画策したのか、今年4月から有名大学の教授になった、と自分のブログに誇らしげに書いてありました。

イタリア・ヴェローナ

さて、神保太郎氏は、11月に来日したトランプ米大統領の日本のメディアの報道の仕方を大批判されております。

安倍首相と一緒に、やれ、霞ケ関カンツリー倶楽部でゴルフをしただの、銀座の高級鉄板焼き屋でステーキを食べただのといった報道ばかりで、肝心要のことが抜けているというのです。

でも、ま、神保先生、それこそが覗き見主義のジャーナリズムの本領を発揮した最たるものじゃないでしょうか(笑)。概して、ジャーナリズムは他人の不幸やスキャンダルや戦争(の脅威)で飯を喰っていることはなきにしもあらずですからね。

◇治外法権を飛び歩いたトランプ大統領

本題に入りますと、トランプ大統領の来日は、戦後、日本が独立を回復してから、歴代大統領がやったことがない空前絶後のやり方だったというのです。

まず、米国から大統領専用機で日本の法律が及ばない、つまり治外法権の軍事基地(東京・福生市の横田基地)から入国し、ここから埼玉県の霞ケ関カンツリー倶楽部に飛びます。ゴルフをした後、ここからヘリコプターで六本木ヘリポートに降り立ち、東京都心の地に足を踏みます。この六本木ヘリポートも日本の法律が及ばない米軍施設で、国会や首相官邸は目と鼻の先にあるのです。

ノンフィクション作家の矢部宏治氏によると、これらの飛行経路である「横田空域」は、日米安保条約に基づいた米国支配の象徴とみなされてきたといいます。つまり、首都圏上空に設定されている米軍専用の空域で、日航や全日空さえ(我が国なのに)米軍の許可がないと飛行できないというのです。

永田町には「日本に反米政権ができたら、米国から刺客がやって来て、横田基地からヘリで六本木に飛び、ひと仕事終えたら横田から出ていく。行動の足はつかないので日本の警察は何もできない」という冗談があるんだそうですね。

初めて聞きましたが、おっとろしいブラックジョークです。

◇いまだに米軍占領下の日本?

こんな事実を大手メディアは、新聞もテレビもどこも、あまり報道しなかったのに、「週刊新潮」11月7日号が、「安倍総理はトランプ父娘の靴を舐めたか」の特集の中で、「戦後72年経てなお、我が国が事実上の『51番目の州』であることがそこに存在した」などと報じています。

つまり、今回のトランプ大統領の来日行為は、いまだ日本は米国の支配下、占領下にあることを白日の下に晒し、「可視化」したと言ってもいいのかもしれませんね。