湯築城、宇和島城、大洲城=四国9名城巡り最終3日目(下)

宇和島城(現存12天守)

11月26日付「高知城、松山城、今治城」編に続く「四国9名城巡り」3日目の最終編です。いくら事前に少し「予習」したとはいえ、九つも城を廻ると、何が何だか分からなくなり、頭が混乱してしまいます。

 でも、ツアーの地元バスガイドのKさんはベテランで、流石に手馴れているというか、熟練の技を発揮され、それぞれのお城の築城者や歴史だけでなく、地元の特産品や、この他の四国の名勝名跡まで、しっかり頭に入っていてメモなしで話をしていたので感心してしまいました。「実は、わたしは、松山市郊外の愛媛みかんの農家の娘なんです」と打ち明けておられましたが、非常に頭脳明晰で、大変勉強熱心な方だということはすぐ分かりました。こちらも色々と教えてもらい、松山の名産「六時屋タルト」は、松山藩の久松松平家が長崎奉行を務めていた際に、ポルトガル人から製法を秘伝され、今では皇室御用達になっているとか、このブログに書いていることは、ほとんどガイドさんからの受けおりみたいなものです(笑)。

 前日に泊まった今治市では、タオルの生産が日本一で約8割も占め、市内には150社ほどもありますが、厳選な資格審査、しかもアポなしで製品審査を強行して、それに通った会社しか「今治タオル」のブランドを名乗ってはいけないことも教えてもらいました。ですから、数千円から3万円もするタオルがあるそうです。また、安倍晋三政権時代に大きな問題になった加計学園が今治市にあり、バスで近くを通ると、「ここからは見えませんが、あの小さい丘の向こうにあるんですよ」と、しっかり忖度なしに教えて頂きました(笑)。

湯築城(100名城)

 最終日の最初、初日から数えれば7番目に訪れた城は、愛媛県松山市にある湯築城(国指定史跡)でした。今治市からバスで南下して1時間ちょっとです。松山城の近くなので、当初は2日目に松山城と一緒に廻る予定でしたが、湯築城は、月曜日が休館だったため、この日に変更されたのでした。

 正直、湯築城に関しては、ほとんど知らず、事前にそれほど興味がある城ではありませんでした。そしたら、この資料館で「ある事実」を知り、椅子から転げ落ちるほど驚いてしまいました。

 その前に、前日の今治城では、地元のボランティアガイドさんの話を無視して聞かずに、自分勝手に廻っていたツアーの同行グループの人たちのことを、このブログで「私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだ」と酷評しましたが、この日は打って変わって、地元ボランティアガイドさんについて熱心に話を聞いているのです。まるで優等生です。これが同じメンバーだと思うと、信じられないほどです。他人の評価は当てにならないものです。思わず、勝海舟の「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」という言葉を思い出してしまいました。

湯築城

 一言で言って、湯築城は中世の城です。自然の岩山は除き、石垣はなく土塁です。中世の伊予の国の守護だった河野氏が、南北朝時代から戦国時代まで約250年間居城としていました。

 河野氏は風早郡河野郷(松山市北条地区)を本拠とし、源平合戦では河野通信(みちのぶ)が源氏方として功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ます。しかし、通信は、承久の乱で京都方について負け、奥州平泉に流されてその地で没し、河野氏は没落します。それでも、元寇の際は、通信の曾孫に当たる通有が大活躍し、一族が復活し、それ以降代々、この湯築城を拠点にするわけです。

湯築城 子の通り、本丸から松山城が見えます。目と鼻の先でしょ?

 私が先に、「椅子から転げ落ちるほど驚いた」と書いたのは、この城の資料館でビデオを拝見していたら、承久の乱で敗れた河野通信の孫が、時宗の開祖一遍上人だったことを知ったからでした。あ、そう言えば、河野氏と言えば、何処かで聞いたことがあると思いました。一遍上人の本名は河野智真で、河野通信の子通広の子息です。まだ河野氏が復活する前の没落した時期だったので、仏門に入らざるを得なかったのでしょう。

 ということは、河野通信が承久の乱で鎌倉方についていれば、そのまま河野氏の栄華は続き、一遍上人という時宗の開祖は生まれなかったかもしれません。私は仏教史にはとても関心があるので、湯築城がいっぺんに身近に感じてしまいました。

 湯築城は「日本100名城」に選ばれているので(今回廻った四国9城全てが100名城)、資料館で100名城スタンプを押したところ、その場に持っていた個人の資料ファイルを置き忘れる失態を演じてしまいました。後で、「これ、忘れた人、どなたですか?」と添乗員のKさんが届けてくれましたが、注意力散漫症は茲でも健在でした。

宇和島城

 湯築城の後、バスは南進して宇和島城に向かいました。宇和島市は愛媛県の南端に近く、高知県の傍です。途中で、真珠店を兼ねたハイウエーレストラン宇和島で、名物「鯛めし」の昼食でした。観光バスツアーといえば、大抵、旅行会社とお土産店が結託して、行きたくもないお土産店に何度も何度も連れて行かれますが、最近のツアーはほとんど減りました。今回のツアーも茲だけでした。それに、殆どの人は買い物をしてませんでした(笑)。

 私自身も全く知りませんでしたが、真珠といえばミキモトで、三重県の英虞湾で養殖されて日本一の生産地だと思っていましたが、実は日本一は愛媛県で国内生産の80%も占めるんだそうです。真珠は神戸にある取引所で競りにかけられ、現在、1玉1万円から1万6000円が相場だそうです。ネックレスをつくるのには40玉必要なので、ひとつ40万円となるわけです。バスガイドのKさんは「段々、真珠は取れなくなるので、将来上がるので今のうち勝っておいた方がいいかもしれませんよ」などとセールストークをしていました(笑)。

宇和島城

 さて宇和島城です。現存12天守の重要文化財で、縄張りしたのが「築城の名人」藤堂高虎でしたから、大いに期待しました。もともとは海城だったらしいのですが、堀はほとんど埋められ、現在はその面影はありません。

 現存天守は藤堂高虎というより、伊達家のお城です。幕末の四賢侯の一人、伊達宗城(むねなり)が最も有名ですが、不勉強だった昔は、宇和島に何で伊達なんだろう?と思っていました。勿論、仙台の伊達政宗の末裔です。慶長20年(1615年)、政宗の長男秀宗が宇和島に入城し、明治を迎えるまで伊達9代の居城でした。秀宗は長男だったとはいえ、庶子で、正室に嫡男が生まれたため、宇和島を拝領したわけです。

宇和島城 現存12天守(伊達家)珍しく玄関口がある

 宇和島城は、二代藩主宗利が寛文6年(1666年)頃に建築したもので、既に平和な幕藩体制が確立した後だったので、全国の城でも珍しく「玄関」があるお城なのです。

 明治になって、新政府に接取され、大阪鎮台の所管となりますが、明治22年、伊達家が買い戻します。地元ボランティアガイドさんの説明によると、四賢侯の伊達宗城が明治になって、大蔵卿となり、部下の渋沢栄一と知り合い、渋沢に財産の運用を託したところ、かなり資産が膨れ上がって裕福になったから出来たそうです。この逸話はあまり書かれていない、現地でしか聞けない話でした。(昭和24年に宇和島市に寄付)

 宇和島城ではまたまたバスの駐車場が分からなくなり、迷子になりそうでした(苦笑)。

大洲城

 さて、宇和島城から松山方面にUターンして向かったのが、このツアー最後の9番目の城、大洲(おおず)城6万石でした。これも100名城に選ばれていますが、ほとんど知らず、全く期待していませんでしたが、もしかしたら、一番印象に残るお城でした。

 何しろ、平成16年(2004年)に、企画段階も含めて約20年かけて四層四階の木造天守を復元したのです。天守は明治21年に姿を消しましたが、図面や雛型や写真が残っていたお蔭です。富山県から優秀な宮大工も招聘し、鉄くぎなしで、吹き抜けは安土城の影響と言われています。総工費の13億円は、市民から1万円以上の寄付を募ったそうです。中には、地元不動産業の女性社長さんが、ポンと1億1000万円も寄付されてます。郷土愛は宇和島の人より、強い感じでした。

 面白いことに、商魂たくましく、天守をホテルとして貸し出し、1泊4人まで100万円で泊まれるそうです(1人増えると10万円プラス)。年に何組からか予約があるようです。当日は、篝火がたかれてお殿様お姫様のようなお出迎え。天守内に畳が敷かれ、城内の露天風呂にも入れ、料理人を呼んでその場で調理してもらえるという話です。

大洲城(12億円かけて木造復元された)

 大洲城は、あの築城の名人、藤堂高虎も関わったりしていますが、江戸になって賤ヶ岳の7本槍の一人、脇坂安治が立藩し、元和3年(1617年)、脇坂家が信濃飯田藩に転封となった後、米子から加藤貞泰が移封され、加藤家が明治まで続きます。

 幕末の大洲藩は勤皇の気風が強く、鳥羽伏見の戦いでは官軍側で参戦しています。また、坂本龍馬の海援隊が運用し、沈没事件でも有名になった蒸気船「いろは丸」はこの大洲藩が貸し出したものでした。

大洲城

 大洲城は、事前にそれほど予備知識もなく、あまり期待していなかったのですが、行ってみたら、こじんまりとした城下町で、地元愛が強い町で木造天守が復活し、なかなか良かったでした。

 以上、3日間で、四国の九つの名城を巡ってきた漫遊記でした。ここまで随分長いお話を読んでくださった皆様には感謝申し上げます。読むのは大変でしたでしょうけど、書く方はもっと大変でした(笑)。この記事の初回を読んでくださった会社の後輩のW君は「僕も冷蔵庫を開けて、何を取ろうか一瞬忘れてしまったり、自宅で立ち上がってから、あれっ?自分は何をしようとしたか分からなくなることがありますよ」と励ましてくれました。

 W君は私より一回り以上若いのに、大丈夫なのかなあ、と逆に心配になりました(笑)。

高知城、松山城、今治城=四国9名城巡り2日目(中)

松山城(現存12天守、重要文化財)広い、本当に広い

 11月24日付の「徳島城、高松城、丸亀城」編に続いて、四国9名城巡りの2日目です。執筆者の体力と知力の都合で、かつてとは違い、なかなか更新できておりませんが、単なる漫遊記なので、お気軽にお読みください。

高知城(現存12天守)

 城巡り第4弾の高知城(現存12天守、重要文化財)は、泊まった高知のホテルからバスでわずか3分でした。

高知城(現存12天守)

 前日は徳島城で「迷い人」になってしまいましたが、この日はホテルで朝食を取った後、部屋に戻ろうとするとカギがない!室内に置き忘れたことが分かり、慌ててフロントに降りて、係りの人にお手数を煩わせてしまいました。綾小路きみまろの世界は続きます(笑)。

高知城(現存12天守)山内一豊像

 高知城(現存12天守)は、既に南北朝時代に大高坂山城として築城され、戦国時代は長宗我部元親が拠点にしたという説もあります。が、やはり、何と言っても、山内一豊でしょう。信長、秀吉の家臣ながら、関ケ原の戦いでは徳川方について手柄を立て、一豊は遠江5万5000石の掛川城から、土佐一国9万8000石(後に24万2000石)を与えられ、築城します。

 山内一豊と言えば、困窮時代に糟糠の妻千代さんが、そっとヘソクリを出して、「これで馬をお買いになって出陣してください」と援助したお蔭で出世していったという逸話はあまりにも有名で、小説(司馬遼太郎「功名が辻」)やドラマ、映画などになっております。

高知城(現存12天守)算木積石垣

 高知城=土佐藩は、幕末に「薩長土肥」の一角として、多くの偉人を輩出しました。坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太(瑞山)…そして最後の藩主山内容堂。彼は幕末の四賢侯の一人で、徳川慶喜に大政奉還を勧めた人でした。大酒飲みで「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と、陰で揶揄されましたが、最近では再評価されているようです。

高知城(現存12天守)板垣退助像

 城内には板垣退助像もありました。明治の自由民権運動の旗手として有名で、銅像もその演説姿のようですが、実は土佐藩の家老クラスとも言える馬廻組(300石)の上士です。もともと板垣家は、武田信玄の重臣板垣信方を祖とする家柄で、武田家滅亡後、掛川時代の山内一豊の家臣になったわけです。土佐藩だけでなく、江戸時代は身分社会でしたから、武士の中でも階級があり、坂本龍馬らは郷士と呼ばれる下士で、板垣や後藤象二郎のような上士とは住む場所も違っていました。

 100円札にもなった板垣退助は、明治の言論人、政治家のイメージが強いですが、もともと上級武士ですから、幕末の戊辰戦争の際は、新政府側の迅衝隊(じんしょうたい)を率いて、近藤勇らの新選組とも戦っています(甲州勝沼の戦い)。

松山城(現存12天守)本丸6000坪

 次に向かったのは松山城(現存12天守)=第5弾=です。四国の南の高知からまた北上して愛媛県ですから、2時間ちょっと掛かりました。(高知高速道を通り、途中、石鎚山SAで休憩)

 松山と言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台であり、漱石の親友正岡子規の故郷で、今でも俳句が盛んです。また、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の秋山好古・真之兄弟の故郷でもあります。道後温泉と蜜柑の産地としても有名で、私も何度か松山を訪れたことがありますが、若い頃はあまりお城に興味がなかったので、松山城も、そして今回廻った四国9城全て、生まれて初めて訪れました。

松山城(現存天守12)20メートルの石垣 7階建物

 (この石垣は、「坂の上の雲」の秋山真之が、若き頃、スルスルとよじ登ったという逸話が残っているそうです。)

 松山城の高さは海抜132メートルで勝山の山頂にあります。。実はここまで来るのにロープウェイ(帰りはリフトでしたが)を使って来たのです。勿論、歩いて登って来る方もいますが、ツアー参加者には往復切符(ロープウェイとリフトの両方使える)が手渡されました。

松山城(現存12天守)

 松山城の創設者は、秀吉の家臣で、賤ヶ岳の合戦で七本槍の一人として活躍した加藤嘉明です。昔は、「かとう・よしあきら」という振り仮名だったのでそう覚えていたのですが、最近は「かとう・よしあき」が多いですね。

 そう言えば、高知城の山内一豊も、昔は「やまのうち・かずとよ」と呼ばれていましたが、最近は「やまうち・かつとよ」と読む説が有力なんだそうです。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する三代将軍源実朝を暗殺した公暁は、昔は「くぎょう」と習ったのに、ドラマでは最新学説を取っているらしく、「こうぎょう」になっています。何という日本語の曖昧さ! どないなっとるねん!? でも、この曖昧さが、長い歴史を持つ日本人の心因性を形作っているような気がします。テキトー(適当)というか、清濁併せ吞む、というか、自分の名前さえどう呼ばれようと気にしないという大らかさと言うべきか、それとも逆に、大胆不敵と言うべきか…。

松山城(現存12天守)

 加藤嘉明も、1600年の関ヶ原の戦いでは、山内一豊と同じように、徳川家康方についてその戦功を認められ、伊予20万石の大名となります。道後平野の中枢部にある勝山に城郭を築く許可を得ますが、着工から25年の寛永4年(1627年)、松山城完成を目前にして義明は、会津へ転封となってしまいます。(もっとも、42万石に加増されたので栄転ではありますが)

松山城(現存12天守)安土城の影響か、天守と御殿が一体

 その後、あの蒲生氏郷の孫・忠知が出羽国(山形県)上山城から入国し、二之丸の築造を完成しましたが、寛永11年(1634年)8月、参勤交代の途中の京都で病没し、嗣子がいないので断絶します。

松山城(現存12天守)天守

 蒲生家断絶の翌年の寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名城主松平(久松)定行が松山藩主15万石に封じられ、それ以来14代世襲して明治維新に至りました。久松家(菅原道真を祖とする)の戦国武将俊勝が、徳川家康の生母於大の方(伝通院、水野忠政の娘)の再婚相手となったことから、代々、久松家は松平姓を名乗ることを許されたのでした。

 松山藩は親藩ですから幕末は当然のことながら、幕府方についたため、朝敵として追討され、財政難の中、15万両も朝廷に献上し、藩主、重臣の蟄居、更迭などで赦免されました。

 それにしても、これだけの立派で広大な曲輪を持つ城が、一部復元再建されたにせよ、21世紀までよく残ったものです。大袈裟ですが、世界に誇っていいお城です。(松山城ばかり贔屓にしてはいけませんが)

松山市「鯛めしスタンド」天然鯛めし定食1850円。養殖ものは1300円でしたが、やはり、せっかくですから天然鯛を選びました。

 松山城も昼食時間を含めて2時間半ぐらい自由時間があったので、ゆっくり見物できました。と思ったら、リフトで麓に降りて、近くのロープウェイ街にあった「鯛めしスタンド」でランチしていたら、そこに無料のマップが置いてありました。

 それを見たら、近くに「坂の上の雲ミュージアム」や「秋山兄弟生誕地」があるので行ってみることにしました。

松山市 秋山兄弟生誕地

 そしたら、「秋山兄弟生誕地」は月曜日で休館日。「坂の上の雲ミュージアム」もやっと見つけましたが、中に入って見学していたら、とてもバスの集合時間には間に合わないことが分かり、泣く泣く退散しました

今治城(海城)と藤堂高虎像

 松山城を北上して、2日目最後の目的地、今治城=第6弾=にはバスで1時間ほどで到着しました。松山も今治も同じ愛媛県で、現在は松山市(人口約52万人)が県庁の所在地として栄えていますが、今治市(人口約16万人)は古代の伊予国の国府が置かれた所だったといいます。つまり、古代は今治の方が栄えていたのでしょう。

 高松城と同じ海城である今治城を、6年の歳月をかけて慶長13年(1608年)に築城したのが、関ヶ原で戦功をたて、伊予半国20万石を領した藤堂高虎です。彼の銅像も建っています。

今治城(海城)の天守

 藤堂高虎は、「築城の名人」と言われ、今治城の前の文禄4年(1595年)に、同じ伊予(愛媛県)に、大洲城と宇和島城(現存12天守)をつくり、今治城の後の慶長13年(1608年)には、伊勢22万石に移封され、伊賀上野城、そして(安濃)津城を大改修しています。

 藤堂高虎は190センチを超える大男だったと言われますが、主君を8回とも10回とも言われるぐらい(仕方なく)変えて、足軽クラスの身分から大大名にまで出世した逸話は事欠かないのですが、茲では省略しておきます。

今治城(海城)天守から見えるしまなみ海道、手前右下に藤堂高虎像が見えます。

 天守からは、今治市と広島県尾道市を結ぶ全長60キロのしまなみ海道が見えました。バスガイドさんの説明では、瀬戸内海には725もの島々があるそうで、第1位は淡路島、第2位は小豆島、第3位は周防大島の順。

 今回のツアー参加者は16人だったと初日に書きましたが、失礼ながら、私がこれまで参加したツアーの中でも最低のメンバーだと思いました。何故なら、バスガイドさんの話はバスの中で身動きが取れないので聞かざるを得ません。一方、各お城に、結構年配の地元ボランティアガイドさんがいて、熱心に説明してくれますが、今治城では、グループの人たちは一切無視して、話も聞かずに自分勝手に見て回っていたのです。

 あまりにも気の毒だったので、私一人だけが、一生懸命に70代半ばと思われる男性ボランティアガイドさんの側にくっついて話を聞いてあげましたよ。

今治国際ホテルの超豪華ディナー

 今回のツアーでは、夕食は1回しかつかなかったのですが、今治で泊まったホテルの夕食は豪華絢爛で大変美味でした。2泊3日分の夕食でした(笑)。

今治城(海城)夜景 あ、失敗!
今治城(海城)夜景 大成功

 夕食後、バスガイドKさんのお薦めで、ライトアップされた今治城の写真を撮りに行きました。

 一応、今治市の中心街なのでしょうが、街中は薄暗いので驚いてしまいました。後で分かったのですが、街灯があまりなかったのです。でも、東京などの都心は真夜中でもライトが煌々とついていて昼間のようですから、考えてみれば、東京の方が異常だということになります。

 それにしても、今治城の夜景は素晴らしかった。海城ですから、海水の内堀に映る天守が見事です。「来て良かった~」と思いました。正直、2日目の高知城も松山城も今治城も甲乙つけ難いほど、どれも素晴らしかったでした。

つづく

徳島城、高松城、丸亀城=四国9名城巡り初日(上)

丸亀城 すんばらしい

 しばらくブログを更新しておりませんでしたが、11月20日(日)から22日(火)まで、2泊3日で、C社が主催する「四国9名城」巡りに行っておりました。何しろ、全国で現存天守12ありますが、そのうち四国にある4天守全部回ってくださるというので、9月の新聞広告を見て、直ぐ申し込みました。一人で四国中のお城巡りをしたら、交通費、タクシー代など幾ら掛かるか分かりません。旅程計画も大変。その点、ツアーに紛れ込んでしまえば、バスで安価で運んでくれます。こんな良いお買い物はない、というわけです(ちなみに、全国旅行支援が使えて、8万5640円だったのが6万9640円となりました。このほか、3000円×2泊のクーポン券付き)。

徳島城

 でも、正直、今回の旅行で、生きていく自信を少し失いました(苦笑)。今まで出来たことが簡単に出来なくなったことが分かったからです。加齢によるもので、綾小路きみまろの世界です。重症ではありませんが、注意欠陥症みたいな感じです。ホテルの部屋の鍵を室内に忘れるやら、100名城スタンプ台の側に大切な資料ファイルを置き忘れるやら、鬼より怖い御家人からの御土産メモを失くすやら、注意力が散漫するようになっていたのです。

徳島城

 体力も落ちました。初日の第一弾は徳島城(徳島県)でしたが、かなり急勾配の山城で、階段が正確には数えていませんでしたが、500段近くあったんじゃないかと思います。途中で何度も一息いれたほどです。あの身延山久遠寺の急勾配の階段「菩提梯」を思い出しました。

 そうそう今回のツアーは、結構、自由時間が多く、決まった時間までにバスに戻れば良いというシステムでした。食事も2泊3日で、朝食2回(ホテルのバイキング)、昼食1回、夕食1回しかなかったので、同行者とはあまり顔を合わせることはなく、まるで一人で旅行している感じでした。今回の参加者は16人で、ペアが5組、一人参加が6人(男女各8人)でしたが、一人参加者の2、3人の方と少し言葉を交わした程度で、勿論お名前も何処から来られたのか最後まで分からず仕舞いでした(笑)。

徳島城 蜂須賀家政公

徳島城は、既に南北朝時代に築城されましたが、豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀小六(正勝)の嫡男家政が17万6000石の阿波の領主として天正13年(1585年)に入国し、蜂須賀家が幕末まで続きます。明治8年に城のほとんどの建物は解体され、太平洋戦争の際、米軍の空襲もあり、現在、建物は何も残っていません。

 この山城の「麓」には、現在、徳島市立徳島城博物館があり、入館しましたけど、どういうわけか何が展示されていたか覚えていないのです。ここでも、うわの空といいますか、注意力散漫を発揮してしまいました。はい、綾小路きみまろの世界です。(笑)。

 さて、バスに戻る時間が迫って来たので、戻ろうとしたところ、二又の道があり、「あれ?駐車場はどっちだっけ?」と迷ってしまいました。左の道を進むと、バラ園がありました。「あれ?来る時、バラ園なんか見なかった。もしかして、右に行かなければならなかったのか」と思い、元来た道を戻ると、C社のバッジを付けた同行者らしき女性二人連れがいたので、声を掛けたら、「この道で大丈夫ですよ」と仰るではありませんか。あれ?バラ園なんか全く覚えていません。そう言えば、来るとき、ガイドさんの旗ばかり見て、一生懸命についていき、周りの景色はあまり見ていなかったことに気が付きました。これを他山の石として、次回から、帰りに迷子にならないように、周囲の看板や景色を頭を入れておくことにしました。(とは言っても、もう一回、迷子になりそうになりました!=苦笑)

高松城

 第2弾は高松城(香川県)です。私の出身高校と同じ海城です。もっとも、こちらは「うみじろ」と読みますが、私の東京の新宿区にある高校は「かいじょう」と読みます(笑)。以前、NHKの「ブラタモリ」で放送されていたので、訪れるのを楽しみにしていました。

高松城 向こうに見えるのが二の丸から本丸に続く鞘橋(さやばし)

 山城で急勾配を登らなければならない徳島城と違い、高松城は海城(うみじろ)なので、平地です。戦さの時、大丈夫だったのかな、と心配したくなるほど散策しやすいお城です。もっとも、現在は、「玉藻公園」として公開されています。園内の総面積は約8万平方メートルもあるとか。

高松城 本丸に残る天守台 3層5階の天守は残ってません

 高松城は、天正16年(1588年)、ということは本能寺の変の6年後、豊臣秀吉の家臣生駒親正(ちかまさ)が築城し、生駒家4代54年間、水戸徳川の松平家(初代は水戸黄門の兄松平頼重)11代228年間にわたり居城した海城です。

高松城 復元された桜御門
高松城 艮(うしとら)櫓 有名な月見櫓は工事中でした

 城内には当時、天守のほか、約20もの櫓があったそうですが、空襲などで建物のほとんどが喪失しました。が、艮(うしとら)櫓などは残り、重要文化財に指定されています。他に、桜御門などが復元されました。松平藩時代に政庁・御殿として使用された被雲閣は、明治になって老朽化したため取り壊されましたが、大正6年に再建され、現在、事務所のほか、茶会、会議などで利用されているそうです。

 高松城巡りは、昼休み休憩も含み、2時間ぐらい自由時間がありましたので、この後、近くのJR高松駅に向かい、駅ビルの2階の「杵屋」で、名物の讃岐うどん(とり天、870円)を頂き、1階のコンビニ兼土産物店(高松銘品館)で上官の命令に従い、買い物をしました。

丸亀城(現存天守12)
丸亀城(現存天守12)

 初日最後の第3弾は、現存天守12のうちのひとつ丸亀城(香川県)です。高松城と同じ生駒親正が慶長2年(1597年)、築城を開始します。江戸時代となり、一国一城令により、一時、廃城となりますが、生駒家がお家騒動で所領が没収され、その後、山崎家、そして京極家が継いで、幕末まで続きます。

 大変見事な素晴らしいお城でした。高さ60メートルの日本一の高石垣を誇るそうで圧倒されました。

丸亀城(現存天守12)

 こりゃあ、凄い。(ここから、急坂を登るのに、大変つらい思いをさせられます!)

丸亀城天守 

 これが、3層3階の現存木造天守12の一つですが、意外と小さい。

 石落としや、弓や鉄砲を打つ狭間もしっかりあります。この天守は、四国の中で最も古く万治3年(1660年)に完成したそうです。

丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋

 丸亀城二の丸辺りから見える瀬戸大橋。バスガイドKさんの説明によると、瀬戸大橋は、6本の橋で出来ており、全長9368メートル。6本の橋のうち、5本香川県、1本岡山県にあるそうです。1988年に全線開通し、総工費は何と1兆1300億円だとか。

高知市のひろめ市場 四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」

 1日目の3城の日程を消化して、バスは一路、この日に宿泊する高知市へ。北の香川県から南の高知県まで1時間40分ほど、高知高速道路を通って、その途中で四国山地(坂本龍馬が脱藩の際、登った)を突き抜けるわけですから、トンネルだらけでした。

 この日は夕食が付いていなかったので、バスガイドKさんお薦めの「ひろめ市場」に行きました。新阪急高知ホテルから歩いて7分ほどです。ホテルから高知城にも歩いて7分ほどで行けます。このホテルは、35年ぐらい昔、仕事で泊まったことがありますが、当時はお城にほとんど興味がなかったので、こんな近くにお城があったとは、灯台下暗しです。

 ひろめ市場は、大きな体育館のような建物に70軒の屋台のような居酒屋や御土産屋さんなどがひしめいています。私は見たことがありませんが、テレビの「ケンミンSHOW」という番組で何度か取り上げられたらしく、観光客でいっぱいでした。ほとんどの店が満席で、やっと「鰹処ぼっちり」という居酒屋前に相席を見つけて、座っていたおじさんに断って、座らさせてもらいました。

 鰹のたたき定食900円と土佐の地酒(名前は失念)、それに、相席のおじさんの薦めで四万十川の栗焼酎「ダバダ火振」も後で注文しました。お酒は色々と呑んで来ましたが、栗焼酎なんて初めてでした。

高知市ひろめ市場近くで 高知は坂本龍馬を始め、歴史上の偉人、有名人だらけです

 相席になったおじさんは、ちょっと変わった人で、70代前半といった感じ。三重県の四日市から来た、と言ってました。私も三重県出身の友人がいて、結構、三重県内は旅行したことがあるので話は弾みました。おじさんは、この時期、高知市で趣味の蘭の品評会があって、毎年、3日間ほど市内に泊まるそうです。高知には沢山の友人がいる、と仰ってましたが、独りで呑んでいたのは何故かしら。

 いずれにせよ、このおじさん、ご職業は何だったのか知りませんが、私が「城巡りで四国を旅行しています」と話したら、彼は異様に戦国武将に詳しいことが分かりました。私と互角に話が出来るのですから(笑)。そして、彼は三重県出身ということで、名古屋に対する尋常ならざる敵愾心を燃やしていました。

 「名古屋名物、と言われている(伊勢)海老フライもひつまぶしも味噌カツも、本当は伊勢名物なんですよ。伊勢の人間は宣伝が下手なんです。それに比べて尾張の連中は…」といった具合です。那古野(名古屋)は織田信長、豊臣秀吉、加藤清正、蜂須賀小六ら多くの戦国武将を生んでいますが、野心家さんが多いのかしら。

 三重県のおじさんが頼んだ餃子を一つだけ、あまりにも薦めるので、頂きましたが、そのうち、彼は何の挨拶もなく、プイと帰っていなくなってしまいました。

田野屋塩二郎「シューラスク」

 帰りがてら、バスガイドKさんが薦めていた田野屋塩二郎のシューラスクというお菓子を買ってみました。田野屋塩二郎さんという人は東京の人でしたが、30代半ばで一念発起して高知で、火力は使わず、天日と潮風だけに拘って塩づくりをしている方で、その塩は高級レストランのシェフらに大好評。もっとも、1キロ当たり100万円もするという超高級の塩で(ホンマかいな?裏は取ってませんが)、本物の塩は買えないので、せめて、お菓子を買ってみたのでした。

 甘くて、ほんの少ししょっぱい今まで食べたことがない不思議なお菓子でした。

つづく

人類と家族の起源を考察=エマニュエル・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」

 本日、スマホを紛失してしまいました。焦りましたよ。でも、今日ランチに行った築地の「千秋」に戻ってみたら、案の定、その店で忘れておりました。もう六時です(洒落です)。でも、一瞬、命が縮む思いでしたから、見つかってよかった、よかった。

 さて、先月、ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)を読んで大いに感心感動したことはこのブログにも書きました。そのお陰で、文化人類学への興味が復活してしまいました。私が学生だった1970年代は、レヴィストロースを始め、文化人類学がブームでした。しかし、不勉強な私は、他の事(音楽のバンド活動でしたが)に夢中になってしまい、読書に勤しむことがなかったことを未だに後悔しております。

 その罪滅ぼしとして、先日、レヴィストロースの名著「悲しき熱帯」上下(中公クラシックス)を買い込み、早速読み始めました。それなのに、瀧井一博著「大久保利通 『知』を結ぶ指導者」(新潮選書)や松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書)など、次から次と読むべき本が登場してしまい、レヴィストロースさんは後回しになってしまいました。

 大方の緊急課題本は読了出来ましたので、では、レヴィストロースさんを再開しようかと思ったら、困ったことに、またまた新たに興味深い本が出現してしまいました。エマニュエル・トッド著、 堀茂樹訳の「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」(文藝春秋、2022年10月30日初版、ただし原著は5年前の2017年刊)です。今、その 上巻「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」を読んでいるところです。

 デシルヴァ著「直立二足歩行の人類史」、レヴィストロース著「悲しき熱帯」といった「人類学」の一連の流れの一環です。大雑把に言えば、歴史はチマチマした人間の業の行いの記録ですが、古人類学は、話し言語や文字が生まれる前の二足歩行を始めた約1100万年前の類人猿の話から始まりますので、雄大で膨大です。人間として生まれて来たからには、誰でも「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」は気になります。この本、スラスラ読めるかと思いましたら、結構、著者特有の専門用語が多出するので、つっかえ、つっかえ読んでいます。

 著者のトッド氏と言えば、ソ連崩壊などを予言した歴史人口学者として世界的に著名ですが(親日家で、目下来日中)、私のような仏文学を昔かじった学徒としては、「ポール・ニザンの孫」というのが真っ先に思い浮かんでしまいます。恐らく日本人のほとんどの方は知らないでしょうが、ジャーナリスト、作家のポール・ニザンはサルトルの親友で、1940年5月、通訳として転属されたダンケルクの戦いで戦死しています。行年35歳。代表作「アデン アラビア」は「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しい時代とは誰にも言わせない」という一文で始まり、若き頃の私が大変な衝撃を受けた出だしでした。

 エマニュエル・トッドの実父オリヴィエ・トッドもジャーナリスト兼作家なので、「なあんだ、彼の並外れて優れた知性は遺伝じゃないか」なんて思ってしまいます(笑)。

東銀座「むさしや」創業明治7年

 相変わらず、長々と前書きを連ねてしまいましたが、この本の要約がなかなかまとまらないからです(笑)。それに、まだ上巻の半分しか読んでいません。でも、ここまで読んできて、強引に最も印象に残ったことを茲に書くとすると、現生人類ホモ・サピエンスは元々、一夫一妻制だったということです。それが、一夫多妻や、稀に一妻多夫になったりしますが、文明が高度に発達した地域になれば、一夫一妻制に戻るというのです。

 これまで一般的に太古の家族共同体では、人類はひしめき合うように雑居し、性的に混乱し、原初的な近親相姦も頻繁に行われていた、という仮説が通説でしたが、それに意義を唱えて全面否定したのが、フィンランド人の哲学者・人類学者エドワード・ウェスターマーク(1862~1939年)でした。ウェスターマークは、近親相姦のタブーは文化事象ではなく、生存競争上の有利さをもたらすものとして自然選択された無意識の行動だと結論付けました(1891年「人類婚姻史」)。トッド氏は言います。「明らかにウェスターマークは正しい。彼より後に登場したフロイトやレヴィストロースらは近親相姦の回避の内に一つの文化事象を見ようとしたが、それは誤りだった。悲しいかな。人文科学はこうした知的後退に満ち満ちている」と皮肉交じりに叙述しています。えっ?あのレヴィストロースが間違いだったとは!?(トッド氏は、構造主義にも否定的に言述しております。)

 最新研究によると、霊長類の類人猿は今から約600万年前にヒトとチンパンジーに分かれます。だから、人間とチンパンジーの染色体はほとんど同じで、塩基配列の違いは約 2%に過ぎないと言われています。しかし、人類とチンパンジーの決定的な違いは、家族です。初期のホモ・サピエンスは一夫一妻制の核家族でしたが、チンパンジーは夫婦関係は知らない。群れでは、メスを庇護するオスが次々と変わり、オスとメスの安定した関係は認められない。第一、父子関係が確定できないというのです。野性のチンパンジーの平均寿命は15年。片や「人生100年時代」。このように、人類が霊長類、いや生物の頂点に君臨して長寿を保つことができるようになったのも、家族が関係しているのかもしれません。

(つづく)

童謡のおばあちゃんYouTuber逝く

 もう今年も残り1カ月半を切りました。早いなあ、あっと言う間だなあ、という感想しか思い浮かびません。

 11月半ばになり、そろそろか、と来年の年賀状を買いに、新橋の「さくらや」に買いに行きました。昨年は12月に入って買いに行ったら、売り切れていたからです。裏面カラー絵入り印刷で、1枚73円。他のショップは大体75円、有楽町では80円ぐらいしたので、茲が日本で一番安いんじゃないかと思いました(笑)。

 年賀状書きの季節ともなると、同時に、残念ながら、喪中はがきも届きます。人間の定めだからしょうがありませんが、同時代人として同じ時間を共有した人たちが、この世からいなくなってしまうと思うと、さすがに悲しみで落ち込みます。

何処? パリ? いえいえ、東京・新富町ですたい

 今年は、また宮さんから喪中はがきが届きました。今年5月に、実姉の内藤昭恵様が亡くなられたというのです。あれっ?何処かで聞いたことがある、と思ったら、直ぐに思い出しました。2018年10月1日付の《渓流斎日乗》の「あの初音ミクに童謡を歌わせているのは 88歳のおばあちゃんYouTuber」でご紹介させて頂いた宮さんの御令姉様、内藤昭恵さんでした。4年前ですから、行年92歳ということになります。

どこでマスターされたのか、自己流で覚えたのか聞きそびれましたが、ご自分で作詞作曲した曲をコンピューター上のAI初音ミクにその歌を歌わせているのです。いずれも、どこか懐かしい日常風景を童謡風にアレンジしております。

 人生100年時代ですから、もう少し長生きしてほしかったですね。というのも、宮さんからこんな返信メールを頂いたからです。

 「姉は97曲をYouTubeにアップしました。もう少しで100曲になるから、と励ましましたが叶いませんでした。…残念でなりません。自宅で亡くなったのですが、面倒を見ていた姪が『最期まで前向きに生きていた』と知らせてくれました。…渓流斎さまのブログに取り上げていただいたこと大変喜んでいました。有難うございました。」

 これを読んで、さすがの私もジーンと来てしまいました。

 そこで、勝手ながら、内藤昭恵様のご冥福をお祈り致しまして、彼女が作詞作曲された童謡「ひがんばな」を、この渓流斎ブログでアップさせて頂きたいと存じます。

内藤昭恵さんは、ハンドルネーム「kogomi88」で投稿されていますから、YouTubeで検索すれば他にも沢山出て来ると思います。

織田信長も見たのか「皆既月食+惑星食」?=442年ぶりの「天体ショー」

  昨日(11月8日)の夜は、皆既月食の最中に、天王星が月でその姿が隠れる惑星食も442年ぶりに起こる「天体ショー」が奏でられ、世間は大騒ぎでした。

2022年11月8日午後6時56分

 野次馬の私も勿論、自宅で観覧致しました。

2022年11月8日午後7時15分

 私は、都心から離れた高層長屋に住んでおりますが、空気は都会より澄んでおり、しかも、自宅の天守閣では群衆から誰にも邪魔されず、悠々と眺めることが出来ました(笑)。

2022年11月8日午後7時16分

 マスコミは、「皆既食中に、天王星食のような惑星食が見られるのは442年ぶり」「天王星食は4000年以上なかった」「次回は322年後の2344年の土星食」(国立天文台)などと報じていました。

 322年後に生きている今の人類は確実にいないと思われますから、茲では442年前の話をー。

 前回は、1580年7月26日(土星食)だったというのです。日本は天正8年、安土桃山時代です。この2年後の1582年に「本能寺の変」が起きるので、織田信長の全盛期と言えます。信長拠点の安土城は4年前の1576年に完成しているので、もしかしたら、信長は安土城の天守から見たかもしれません。この時、信長46歳。羽柴秀吉は43歳。徳川家康は37歳(いずれも満年齢)となります。

 当時の史料が残っているのかどうか、分かりませんが、信長は安土城下に家臣を住まわせていたので、もしかして、家臣と一緒に眺めたかもしれません。

2022年11月8日午後7時16分

 でも、当時は、予告してくれるメディアもなかったし、望遠鏡も南蛮から手に入ったのかどうか…。そもそも、望遠鏡は、1608年にオランダのリッペルスハイによって発明されたと言いますから、1580年の時点では存在していなかったことになりますね。

 とはいえ、偶然に、月の満ち欠けに遭遇して、色が赤っぽく変色する月を「何じゃ、こりゃあ~」と見ていたかもしれません。ま、そういうことにしましょう(笑)。

2022年11月8日午後8時43分

 ちなみに、1580年は、スペイン国王フェリペ2世がポルトガルを併合した年です。この8年後の1588年にスペイン無敵艦隊が、アルマダの海戦で英蘭連合艦隊に大敗したことで徐々に国力が衰えていきますから、この年はスペインが世界一の覇権大国だったと言えます。でも、「皆既月食+土星食」は日本でしか見られなかったのかしら?

2022年11月8日午後8時31分

 何もよく分かっていないのに、ブログを書くべきではありませんね。このブログを読んだ322年後の人類に笑われてしまいますよね。(東京~新潟より東、つまり東北、北海道辺りでは、天王星食までは見られなかったようです。)

 ともかく、いずれにせよ、私は、今回、442年ぶりの歴史的瞬間の現場に立ち合った気分になれました。

「クレイ賞」受賞を祝福致します=松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」

 (2022年10月27日付「日本のスーパーコンピューターの父」のつづき)

 松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書)を読了しました。後半は、「科学少年」だった著者が如何にコンピューターの世界にのめり込んでいったのか、個人的遍歴が書かれ、また、コンピューターは日進月歩の世界ですから、早くも5年後、10年後を見据えた「富岳」の後継機やGAFAなき日本の人材の育成まで考慮しておりました。

 私は前回、著者のことを「日本のスパコンの父」と書いてしまいましたが、もし本人がその箇所を読んだら驚いてしまっていたかもしれません。著者の松岡氏は、本文の中で「『富岳』は何百人、何千人が関わったマシンなので、わたしひとりの成果ではまったくない」と書いているからです。

東京・銀座

 ただし、スパコン富岳をつくるに当たって最高責任者としてチームをリードする際の苦労話なども包み隠さずに書かれておりました。その際、著者は、米国の1960年代のアポロ計画の報告書を精読して、それらを参考にしたそうです。同計画では、何度も失敗しても挑戦し、念には念を入れて何度も何度も試作を試みた上で、ついに人類初の月着陸を成功させました。

 著者も同じように、何度も技術的困難に直面し、失敗もしてきた、と正直に告白しておりました。でも、私のような人間から見れば、大変、「縁」と「運」に恵まれて来た人だと思いました。著者が名門武蔵高校生時代、学校の帰りにパソコン・オタクがたむろしていた池袋の西武で、当時、東工大生で、後に任天堂の社長になったゲームクリエーターの岩田聡氏(惜しくも55歳で早世された)や、あのビル・ゲイツから「プログラミングの天才」と評された鈴木仁志氏らと知り合う機会を得て、著者が研究者の道を選ぶ影響を与えた人だったことも書かれていたからです。

 勿論、御本人の相当な努力の賜物もあったことでしょう。改めて、スパコン賞の世界的な最高の名誉である「シーモア・クレイ賞」と日本のNECの「C&C賞」の受賞、おめでとう御座いました。

「日本のスーパーコンピューターの父」=松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」

 ”Passage”, Jimbo-cho Copyright par Duc de Matsuoqua

 ちょっと御縁が御座いまして、目下、松岡聡著「スパコン富岳の挑戦」(文春新書、1210円)を読んでおります。10月20日発売ということで、本屋さんに足を運んだのですが、売り切れてしまったのか、見当たりませんでした。仕方がないので、家に帰ってネットで注文しましたが、なかなか届きません。この後、注文した他の本が先に到着するぐらいで、どうしたものかと思っていたら、やっと25日に到着しました。

 昨日まで、「最高傑作」ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋)を読んでいたので、本日からやっと読み始めました。

 私のようなガチガチの文科系人間が、高度な理科系知識が要求されるスーパーコンピューターの本なんか、理解できるのかどうか覚束なく、正直、当初は躊躇しておりました。でも、読んでみたら、著者は私に気を遣って(笑)、なるべく専門用語を使わず、使ったとしても丁寧に語彙説明をしてくれて、とても読みやすいのです。

 スパコン富岳に関する私の知識は、「処理能力(速度)世界一」といった程度でした。たまに新聞で、富岳による新型コロナウイルスの飛沫やエアゾルの広がりのシュミレーションなどが掲載されたりして、「頑張ってるなあ」といった程度の感想です。要するに、最初から内部構造や仕組みなどを知る意欲に欠けているのです。違う言い方をすれば、私にとっては、専門外の雲の上のような話なので、最初から理解することを諦めていたのです。

 しかし、この本を読むと、スパコン富岳の能力だけでなく、その社会的役割や将来の可能性まで理解することが出来ます。何しろ、著者の松岡氏は、2018年から理化学研究所計算科学研究センターのトップのセンター長を務め、スパコン富岳の開発を指揮した人です。この人以外で富岳について多く語れる人は他にはいないことでしょう。

 スパコン富岳で何が出来るのか?ーは素人が一番知りたいところですが、この本には事細かく書かれています。例えば、先ほどの新型コロナの飛沫のシュミレーションは、自動車開発のための空力性能を富岳を使って調査した神戸大学教授で計算科学研究センターの坪倉誠氏のチームでした。自動車のエンジンと感染症とは一見、無関係に見えますが、と著者は説明します。自動車エンジン内ではガソリンなどの燃料が噴霧し、その粒子が気化しながら移動します。同じように新型コロナも、ウイルスが飛沫によって運ばれ、エアゾルとなって拡散していきます。原理はほぼ似たようなものなので、自動車エンジンの調査手法を感染症でも短期間で応用できたというのです。

 このほか、スパコン富岳は、天気予報や地震、洪水、津波の予知や航空機開発、創薬などに応用されています。私が意外に思ったのは、この高価なスパコン富岳が一般でも、適正な審査に合格すれば、利用できることでした。それというのも、スパコンは莫大な費用が掛かり、国家プロジェクトとして開発されるからです。富岳の場合、開発費は1300億円で国費(つまり税金)が1100億円投入されたといいます。それでも、現在、欧米と中国を中心にスパコン研究開発競争が熾烈に繰り広げられており、各国が投資する国家資金は5000億円から1兆円にも上るといいますから、日本は随分、格安で開発できたと言えるかもしれません。

 富岳は、その前のスパコン「京」と比べて計算速度が50倍~100倍向上し、電力効率も50%程度向上したといいます。

 著者の松岡氏は、スパコン富岳を開発する前の東工大教授時代に、スパコンTSUBAME(2006年運用開始)を開発し、当時、国内トップの性能で大きな話題になりました。その実績を引っ提げて、富岳の開発責任者になったわけですが、TSUBAME開発時に掲げていたモットーである「至るところで使える」「みんなのスパコン」という目標が受け継がれていることが素人目からしても素晴らしいと思いました。誰にでも開放している、ということがです。

 富岳の2021年度の稼働率は97%だったらしいですが、コロナの重症化リスクの遺伝子レベルの解析やロックダウンによる経済的損失のシミュレーションなどにも使われたわけです。

◇余談ですが

 最初に「ちょっと御縁が御座いまして」と書きましたが、著者の松岡聡氏は、小生のブログの話題提供などでも長年お世話になっている満洲研究家で美術評論家の松岡將氏の御子息ということで、直接お会いしたことはありませんが、間接的にお噂などを伺っていたのでした。松岡將氏が1970年代に米ワシントン勤務時代、御子息の聡氏も米国で過ごし、教育を受けたので、英語はネイティブ以上です。

 その松岡聡氏は、スーパーコンピュータの最高峰の業績賞で、「スパコンの父」と呼ばれたシーモア・ クレイの名を冠 した「クレイ賞」の 2022年受賞者に選出され、来月11月18日、米テキサス州ダラスで、授賞式と記念講演が行われることを御尊父を通じで知りました。また、併せて、国内ではNECの C&C財団(Computer and Communication)から「C&C賞」まで受賞されました。日本のメディアではほとんど報道されなかったので、松岡聡氏の業績を讃え、このブログにも記載させて頂くことに致しました。

 恐らく、松岡聡氏は、将来、「日本のスパコンの父」と呼ばれることでしょうから。

1100万年の類人猿ダヌビウス・グッゲンモンから始まった?=ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」

 会社の後輩、と言ってもあまり若くない高齢者ですが、毎日、通勤の際に、上野駅から会社がある銀座まで歩いて来ているという話を聞いて吃驚してしまいました。

 首都圏にお住まいでない方は、感覚的に分からないかもしれませんが、その距離は、約5キロ。時間にして1時間5分か10分掛かるというのです。天候が悪い日は、午前の行きではなく、帰りの夕方にしたりして、無理はせず、1日1回、「遠足」するそうです。お蔭で、毎日1万5000歩は歩くそうです。

 常軌を逸している!

 と、思いましたが、よく話を聞くと、ダイエットが目的だというのです。その努力が実って、わずか半年で、10キロもの減量に成功したそうです。

 これで、驚きから尊敬に変わりました。

 ヒトは、歩くことが大切なんですね。逆に歩けることがヒトをして霊長類、はたまた万物の頂点に至らしめる要因だと言えます。

 そう断言できるのは、今、ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋、2022年8月10日初版、2860円)を読んでいるからです。この本の存在を知ったのは、先週購読した「週刊文春」で、仏文学者の鹿島茂氏が「今年一番の収穫」と太鼓判を押していたからです。立花隆さん亡き現在、日本で最も影響力のある天下無敵の鹿島茂氏が薦める本ですから間違いありません。

 その通り、この本はまだ途中ですけど、間違いなく、面白い本です。翻訳家の功績もありますが、文章が抜群にうまいし、恐らく、かなりのメモ魔で、幅広い教養の持ち主だということがよく分かります。先週、週刊誌を買わなければこの本の存在を知らなかったわけで、この本に巡り合って、微かながら奇跡を感じました。

 最近、「誰が誰を殺して天下を取ったのか」とか、「お涙頂戴の復讐劇」などといった人間どもの歴史にうんざりしていたところに、古人類学の本です。古人類学というのは、まさに先史時代の考古学で、「我々は何処から来たのか?」という根本的な命題に答えてくれます。

 発掘されたホミニンと呼ばれる化石人類を分析、研究するのが古人類学者です。最新の研究によると、人類の起源と直立二足歩行の起源は、これまで鮮新世(530万年~260万年前)と考えられてきたものが、中新世後期(1160万年~530万年前)にまで一気に遡ることになったといいます。それは、1100万年以上前の地層から出て来た類人猿ダヌビウス・グッゲンモンの化石から、直立二足歩行をしていたことが分かったというのです。

 地層が何百万年前なのか、どうして分かるのかと言えば、カリウムや炭素などの放射性同位元素で年代測定が分かる仕組みを本書で詳しく説明されていました。

 古人類学者が世界で何人いるのか分かりませんが、欧米中心ですが、意外にも多く(本書では私なんかとても覚えきれない沢山の古人類学者が登場します)、そのため、化石の骨の分析も、ある人は頭骨、ある人は脊髄…などと専門化しているというのです。この本の著者のデシルヴァ氏の専門は足骨ということで、当然のことながら、人類がいつから、なぜ直立二足歩行を始めたのか、最も興味がある学者の一人であるわけです。

 映画ファンなら当然、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)を観たことがあると思いますが、その映画の最初に四つん這いの猿が段々進化して、二本足で立ち上がるようになり、空いた両手で棍棒のような武器を持つ人類が登場する場面が出て来ます。つまり、人類が直立二足歩行になったのは、武器や道具を使うためだったという定説がこれまでありました。しかし、現在ではそれは否定されています。(直立二足歩行になった結果、武器も使えようになった、ということ。また、道具を使うのはヒトの特権ではなく、チンパンジーも道具を使う)。他に、直立二足歩行の起源と理由については、色々な説がこれまで登場しましたが、現在の最新研究でも、その答えは「まだ誰も分からない」というのが正確だというのです。著者のデシルヴァ氏は「ダチョウの物まね」説を唱えているほどです。

 いずれにせよ、類人猿が進化してチンパンジーから分岐してヒトになったのは今からわずか(笑)600万年前(±50万年)のことです。それから、ヒトは、サヘラントロプス、オロリン、アウストラロピテクス(318万年前のルーシーが最も有名)、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ネアンデルタール人…などと進化し、現生人類であるホモ・サピエンスが出現したのは25万年~30万年前ということになります。

 そのホモ・サピエンスが今から1万年前に農耕定住生活を始め、その後、奴隷都市国家、中世の王国、近世の皇帝国、植民地主義国、そして現在の資本主義国や共産主義国となるわけですが、1100万年に及ぶ類人猿の歴史から見ると、人間(ヒト)の歴史など、まだほんのわずかの瞬間だということが分かります。

 ヒトの祖先を遡ると1100万年も昔になると言っても喜んでばかりはいられません。その前に隆盛を誇った恐竜は、今から2億3000年前の中世代三畳紀に出現し、隕石衝突による気候変動で6600万年前の白亜紀に滅亡するまで約1億6000万年間も繁栄していたわけですからね。

 となると、人間の歴史など、そして人間の個人の悩みなど、小さい、小さい、と思いませんか?

(いつか、つづく

AIが支配するデジタル監視社会となるのか?= 世界の「知の巨人」招いた「朝日地球会議2022」を視聴しました

 世界の「知の巨人」招いた「朝日地球会議2022」(朝日新聞社主催)が10月16日(日)~19日(水)までオンラインで開催されました。

 4日間の開催で登壇者は約64人という大変大掛かりなプログラムですので、とても全てをカバーできません。そこで、独断と偏見で、米国の経済学者ブランコ・ミラノビッチ氏とイスラエルの歴者学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏、フランスの人類学・歴史学者エマニュエル・トッド氏、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエル氏の4人が登壇する4日目の19日(水)だけ、会社をズル休みして自宅で拝聴しました。

 これだけ現代を代表する錚々たる「知の巨人」が登場するというのに、視聴するのに無料(ただし、パソコンの電気代や通信費はかかりますが)だったというところが凄い。まさか、知の巨人の皆様にただで登壇してもらうわけにはいかないでしょうから、気になるのはその原資です(笑)。旭硝子やサントリーなどがスポンサーになっているほか、国際交流基金なども特別共催していました。国際交流基金は外務省の外郭団体ですから、予算という名の税金が投入されています。ということは、無料でも一国民として堂々と視聴できる権利があるのかな、と下らないことばかり考えておりました(笑)。

 会議の模様は、そのうち朝日新聞の紙面に掲載されるほか、10月下旬に(YouTubeか何かで)ネット配信されると告知していましたから、見逃した方は是非ともアクセスされたら良いと思います。

◇世界的な監視社会の到来か

 「朝日地球会議」は今年で7回目らしいですが、私自身は初参加です。メインテーマは昨年と同じ「希望と行動が世界を変える」で、新型コロナのパンデミック後の世界や社会の有り様やロシアによるウクライナ侵攻、安全保障や食料、エネルギー問題、それに気候変動の問題が主な具体的なテーマになりました。

 これらの問題について、世界の知の巨人たちは何と答えたのか、茲ではとても書き切れないので、是非とも新聞かネット配信でご確認して頂きたいと存じます。ただ、私自身が一つだけ注目したことは、デジタル技術の進歩とパンデミックによって世界的に監視社会が強化されたことについて、知の巨人たちが何と発言するかということでした。

 経済学者ブランコ・ミラノビッチ氏は、グローバリズム推進論者で「経済成長を止めれば、世界の人口の20%が絶対的貧困になる」という論者だけあって、「SNSは世界市民となり、プラスに働いている」と実に楽観的でした。その一方で、哲学者のマルクス・ガブリエル氏は最近、自身のツイッターやフェイスブックを閉鎖したらしく、その理由について、「適度で科学的であるべきなのに、極端化した。自由で民主的ではなく反民主的になった。ツイッターやフェイスブックは、ステレオタイプ的な思考を強制する。例えば、プーチンと戦うためには、(ロシアから輸入されるエネルギーを節約するために)暖房を止めよう、などと発言する人がいるが、その前に、ネットの方を止めるべきではないか。矛盾している」などと発言していました。

 私もこのマルクスさんの見解に近い感じです。

 人類学・歴史学者エマニュエル・トッド氏に言わせると、確かに監視社会は強化されたが、一体誰が監視していますか?という話になりました。「監視者にとって、殆どの人は重要ではない。彼らが自己陶酔的なら尚更です。彼らが監視する対象は、権力ゲームの中にいる一部のエリートです。何故、欧州のエリートが米国に従属的になるのか?それは、ネットでの銀行送金が、米国の情報機関に丸見えになっているからです」などと恐ろしいことを暴露していました。

 ◇無神経で無意識過剰で生きたい

 私が一番聴きたかったのは、「サピエンス全史」の歴者学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏でした。ロボット工学者の石黒浩氏との対談形式で発言されていましたが、この中で、テクノロジーは良い面と悪い面があり、悪い面では、今や、人工知能AIを塔載した(感情がない殺戮)兵器のロボットさえできている。今後、原爆投下の核ボタンにしても、人間の権限ではなく、アルゴリズムに任せるようになることもあり得る。そんな事態になる前に、グローバルな合意形成が早急に必要だ、ということを強調しておりました。

 私自身は悲観的過ぎるかもしれませんが、世界の知の巨人たちの話を聞いて、おぞましい将来しか描くことが出来ませんでした。

 だからこそ、メンタル障害になる前に、出来るだけ物事を楽観的に考え、なるべく無神経で無意識過剰で生きたいという願望を持つようになりましたよ。

【追記】

 司会進行役は、朝日新聞の論説委員や編集委員らが務めていましたが、世界の知の巨人と堂々と渡り合い、彼らの英語スキルがネイティブ以上の優秀さでした。さすが、ジャーナリズムを牽引する人たちだなあと納得しました。