日本国民の義務を果たして来ました=確定申告騒動記

 昨日は、1年で1回の、そして年間を通じて最も嫌いな確定申告に行って参りました。

 新型コロナウイルスの感染が過去最多を日々更新している最中(東京ではついに2万人を超えたとか)、何で好き好んで、わざわざ会社の休みまで取って、税務署にまで出掛けるかと言いますと、自分一人ではとても出来ないからです。

 今、e-TAXとかいって、自宅で居ながらにして楽に出来まっせ、というのが国税庁のプロパガンダではありますが、私なんか、これはどうすればいいのか、何と書けばいいのか、すぐ行き詰ってしまい、匙を投げたくなってしまいます(手引書を何冊も読んでもです!)。側に係りの人がいてくれて、困ったときに助けてくれれば、こんな楽なことはありません。実際、今回、手助けしてくれた係りの人たちが本当に天使に見えましたから。

 実は、昨年も同じ時期に確定申告に行って来まして、今年は事前の準備もかなり濃厚にやって来ましたから、心の中では「楽勝」と踏んでいました。そしたら、今年は昨年の2倍も時間が掛かってしまいました。

 原因は、最初についた係りの70代ぐらいのお爺さんが、適当な方で、私に違う申請書類を渡してくれてしまったのです。数字の入力が4分の3ほど終わった時点で、別の若い優秀な係りの人が間違いに気づきましたが、もう一回、同じことを書類に書き直さなければならなくなり、大幅に時間を取られてしまったのです。

 もう一つは、昨年は、会場内にパソコンが設置されていましたが、今年は、何と全て撤去されていました。登録はどうするのかというと、自分のスマホを使え、というのです。今さら、目の前に置いてあるマニュアルを見ながら操作するんですかあ? ま、四苦八苦、文句たらたら言いながら、何とか、数字を入力していきましたよ。

地元市健康マイレージで、1000円分の図書カードが当選しました。今年は運が良いです(笑)。

 そして、全部で2時間ぐらいでやっと入力が終了しました。立ち作業でしたから、脚も疲れ、喉もカラカラ。でも、一番最後の「帳票表示・印刷」をタップしても、なかなか印刷してくれません。傍にいた50歳ぐらいの男性の係りの人は、失礼ながら、あまり深く認知されていないように見える方で、手助けして頂きましたが、「おかしいなあ」と言いながらも、うまくいきません。5分間以上格闘しましたが、ウンともスンとも最後の「終了」のサイトに移行してくれないのです。

 結局、30代半ばぐらいの若い人がやって来て、「ああ、大丈夫ですよ」と言いながら、瞬時に操作してくれて、ついでにデータをスマホ内のブックアプリに保存までしてくれて、無事終了することが出来ました。一人だったら、匙を投げて、パニクっていたかもしれません。

 いやあ、本当に、チカレタビー(死語ですが、何か?)

 目が飛び出るような?納税額はQRコードによるコンビニ払いにして、帰り道にあるローソンで振り込んで来ました。これで、日本国民としての義務を果たせて、ホッとしたところです。

 それにしても、もう一回言いますが、本当にチカレタビー。

渓流斎は女性講師を贔屓にしている?=「一日一善」の話

 今日は、というより、今日も、とりとめのない雑文の羅列になってしまいますが、御了承の程、宜しく御願い致します。

 私は、頼まれもしないのに、好き勝手にセミナーや講演会の「感想文」をこの渓流斎ブログに掲載したりしておりますが、自分で言うのも何なんですが、感謝されたり、お褒めに預かったりしております。しかし、その一方で、「いかがなものか」と批判される方もかなりいらっしゃる、と最近、ディープスロートから報告があり、「えっ?何で?」と思ってしまったのです。

 批判される方の一つが、「渓流斎は女性講師の場合、好意的に扱っている」というものでした。あれっ?バレたかあ……んなわけないでしょ! たまたま、そう思われたなら仕方がないのですが、特に意識していたわけではありません。それは、「騎士道精神」に則ったものです、と御理解くだされ。

 でも、批判される方も、長い文章を随分熱心に読んでくださるんですね。こちらこそ感謝申し上げます。

東京・新橋「かおりひめ」鯛定食1300円→1100円

 さて、昨日の夜中、パッと目が覚めて、「いずれ死んだら無になるのだよ」との「お告げ」がありました。「人間、過去の体験と思い出しか残らない」と思い知らされて、我ながら無間地獄に堕ちてしまったようで、ゾッとしてしまいました。

  となると、私は真面目ですから、少しでも他人様の人助けになるような善行を積むしかないと思いました。

 「一日一善」となると、笹川良一さん(今の若い人は知らないかも?)のスローガンになってしまいますが、一日、何か陰徳を積むことが大切だと再認識したわけです。つまり、「何か良いことがないかなあ」と、毎日、受け身に生きるのではなく、「今日は何か良いことをしよう」と能動的に生きるということです。

 我ながら良い事を思いついたと思ったのですが、現実世界では真逆のことが起きています。昨年12月には大阪市北区の心療内科で放火殺人事件がありましたが、何で何人もの多くの人を救ってきた立派な精神科医が殺されなければならないのでしょうか。そして、先日は、今度は埼玉県ふじみ野市で、善意の訪問医が猟銃で殺害されるという痛ましい事件が発生しました。

 「恩を仇で返す」ような取り返しがつかない悲惨な、身勝手な事件が最近多いように感じます。「神も仏もいないものか」と天を呪いたくなります。

 そういえば、こちらが良かれ、と思ったことでも、相手にとっては不愉快で、余計なお世話だということもあったりします。

 お年寄りが重い荷物を持って階段を上がろうとすれば、私も年寄りですが、「お持ちしましょうか」と声を掛けたくなりますが、これまた、泥棒に間違えられたくないという気持ちも同時多発的に発生したりします。

 ということで、時と場所に寄ることでしょうが、「一日一善」に関しては、お節介にならないよう、日ごろの心掛けだけは準備万端にしておこうと思っています。

【追記】2022.2.2

 昨日の夜中、「いずれ死んだら無になるのだよ」との「お告げ」があった旨、書きましたが、本日、大阪にお住まいの佐伯さんの御令嬢から、彼女の御尊父、つまり佐伯さんの訃報が届きました。あのお告げは佐伯さんだったのか?

 年賀状の返信がなかったので、どうされたのかと思っていましたが、昨年5月に既に亡くなられていて、自分の不明を恥じました。

 佐伯さんはもう30年以上昔ですが、大阪の産経新聞のスポーツ記者で、私も現場でよくお会いして情報交換したものでした。7年前にご令室に先立たれ、相当苦労されているという噂を聞いてましたが、こんなに早く旅立たれてしまうとは、私も思わず落涙してしまいました。

 佐伯さんのご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

PCR検査に初めて挑戦=果たしてその結果は?

  東京・銀座のど真ん中、ということは銀座4丁目交差点近くのビル1階で、臨時に無料の「PCR検査所」が設けられていたので、初めて挑戦してみました。

 実は、そんな会場があるとは知らず、たまたま朝の通勤の際に通り掛かって発見したのでした。私は会社にはいつも早めに(30分前とか1時間前とか)に到着しているので、時間的に余裕があったのです。外で立っていた若い係りの人に「時間はどれくらいかかりますか?」と聞いたところ、「10分か15分ぐらいです」と応えてくれたので、思い切ってやってみることにしました。

 まあ、早起きは三文の得、といったところでしょうか。

東京・銀座4丁目交差点付近のビルで、臨時のPCR無料検査を実施

 でも、「無料検査」ということで、少し、不安になりました。主催者が「東京都」になっているのがチラッと見えたからでした。私は都民ではないので、都民税を支払っていませんからね(でも、地元ではしっかりと納税しておりまする)。しかし、もう一つの主催者は「内閣府」であり、私は日本国民であり、都心の銀座の職場に通勤しているわけですから、通用するのではないか、と開き直りました。

 それでも、受付の人から、色々と細かく聞かれ、何で検査したいのか理由まで聞かれ(後で記入)、「会社の同じフロアで感染者が何人も出たからです」と答えると、先方はやっと納得して、了承してくれました。

◇さて結果は?

 やり方は、細いプラスチックの容器に唾液を入れるだけですが、なかなか一定量が貯まりません。最初に係の人に「これでいいですか?」と見せたら、「まだ、足りませんよ」と言われ、再挑戦してやっと認めてもらいました。やはり、15分は掛かったでしょうか。

 で、どうなったのか? 実は検査を受けたのは昨日の朝9時ごろのことでした。もし結果が悪かったらどうしよう、と内心怖れていたのです。こんなことブログなんかに書かなければよかった、と後悔したかもしれません。いずれにせよ、検査を受けて陽性だった人は必ず保健所に届けることが義務付けられ、署名もさせられました。

 で、結果はどうだったのか?

 うーん、いやにタメますねえ(笑)。

 実は、たった今、主催者から、メールで返答があったのです。

 結果は「陰性」! 特に熱もないし、咳も出ないので、大船に乗った気持ちではありましたが、実は内心、ビクビクしていたのです。

 これで一安心ですが、これからも早寝早起き、うがい手洗い、消毒、三密回避、栄養のある食事摂取、適度な運動等は続けていこうと思ってます。

 他人様に御迷惑をお掛けしたくありませんからね。

「闘う講談師二代目松林伯円」と「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所」=インテリジェンス研究所主催第8回特別研究会

1月29日(土)は、第8回特別研究会(インテリジェンス研究所主催)をオンラインで聴講しました。ZOOMのオンラインなので、なるべく目立たないように、自画像はオフにして、音声はミュートにし、息もせず、瞬きもせず、伊賀の忍者か隠れキリシタンのように自分を消していたつもりでしたが、ある方から、(名前は口が裂けても言えませんが)、「本日の講演はいかがでしたか?」と聞かれてしまい、「ありゃま、こりゃ逃げられないわいなあ」と観念したわけです。

 観念した、というのは、正直、講演の内容が難しくて、もしくは、自分の認識力がついていけなかったからでした。何と言っても、講演の画面の切り替えが早かったり、講師のお話が聞きとれなかったりして、メモを取るのができなかった箇所がいくつもあったからでした。「とても、ブログにはまとめきれないなあ」と観念したわけです。

 と、クドクドと前書きを長く書いたのは、とにかく、逃げ切れないので、この特別研究会のことを書くことにしますが、本文が短くなると予想されるので、行数を稼ごうという魂胆があったことを告白しておきます(笑)。

 さて、報告者はお二人の特別研究員の方でした。最初は、昨年、「たたかう講談師: 二代目松林伯円の幕末・明治」(文学通信)を出版された目時美穂氏で、演題は「明治政府の国民教化政策に対する大衆芸能の対応―講談を例として」。続いて登壇されたのは、昨年「『善通寺俘虜収容所』ハンドブック : 太平洋戦争初の捕虜収容所と人々の記録」(私家版)を上梓された名倉有一氏で、演題の副題は「新資料『吉田文書』を中心として」でした。

 最初の目時氏の講演に登場した講談師二代目松林伯円という人物は、不勉強で私は全く知りませんでした。

 伯円は、明治期に、一般大衆から大物政治家に至るまで絶大なる人気を誇った講談師ということですが、私が知らないだけかもしれませんが、歴史に埋もれてしまった人物といえるでしょう。明治の講談は、木戸銭が二銭五厘(現在の250円ぐらい)と安価で庶民が気楽に楽しめる娯楽だったといいます。

 当時の講談の演題は「鼠小僧治郎吉」といった伝説物だけでなく、新聞に掲載された時事ネタや犯罪、そして自由民権運動など政治的な話までも題材にして創作されたといいます。その講談などの人気に目を付けた明治政府は、国民の道徳の涵養や天皇を中心とした国家神道を奉じる中央集権国家であることを国民に知らしめる目的で、大衆芸能を利用します。山縣有朋が伯円の大ファンで、彼に接近したといいます。

 明治政府は民権運動を弾圧するために、新聞条例や讒謗律(明治8年)、集会条例(明治13年)などを発布して監視体制を強化し、講談も少なからず影響受けたといいます。

 そのため、伯円は、講談小屋が閉鎖されたりしてはたまりませんから、山縣有朋ら大物政治家については、お客さんとして歓迎はしても、権力者側になびくことはなく、自分の考えや芸道に邁進していたのではないか、というのが目時氏の見立てでした。(伯円の政治信条は分かりませんが、と付言されましたが)

 もう一つ、今回勉強になったことは、明治政府は幕末に欧米と締結した不平等条約改正の一環として、日本を「文明国」として諸外国に認めてもらうために、新聞の普及を推進したという話です。その具体的な政策の中には、「聚覧所」と呼ばれる新聞が読める場所を設置したり、講談師に新聞を読み聞かせる「訓読会」を浅草で開催したりしたといいます。「郵便報知新聞」など当時の大新聞と呼ばれる政治色が強い新聞はインテリ向けで、漢籍の素養がある人しか読めなったからです。(現代人も、とても読めませんよ!)

 お二人目に登壇した名倉有一氏の「太平洋戦争初の善通寺捕虜収容所:新資料『吉田文書』を中心として」は、非常にマニアックといいますか(良い意味で)、これまで誰も成し遂げることができなかった善通寺捕虜収容所の歴史と実体をまとめた労作の話でした。

 善通寺捕虜(当時は俘虜)収容所とは、昭和17年1月14日、香川県善通寺町(現善通寺市)に太平洋戦争中に国内外を通じて初めて開設された米、英、豪州人らの捕虜収容所で、当初は355人で、終戦間近には720人いたといいます。「吉田文書」というのは、善通寺捕虜収容所に関わった陸軍の吉田茂主計中尉が残した資料のことです。

 名倉氏は、捕虜の扱いについて、日本は当初、国際法に遵守して厳格に守ってきたのですが、敗戦色が濃くなると、将校に関しては労働に従事させないという国際法を破って労働に参加させたりした実態も明らかにされていました。

 この捕虜の利用については、名倉氏は、陸軍省は主に労働力として、海軍軍令部は情報源として、情報局は、日本の立場を海外に主張するプロパガンダ(宣伝)として、陸軍参謀本部(第2部第8課恒石重嗣少佐)も、敵兵や敵国民に厭戦や反戦気分を高める宣伝として使った、などと図解で区分けされてましたが、非常に明瞭で分かりやすい説明でした。

 これらのプロパガンダは、内閣と情報局と大本営の代表が集まった「連絡協議会」で方策を決定し、実務は日本放送協会と国策通信社の同盟通信社が主に実践部隊として担ったという話でしたが、私もメディアの片隅に棲息する人間として興味があり、もっと詳しく聴きたかったでした。

 あれっ?結構長い文章になってしまいましたね。最後までお読み頂き洵に有難う御座いました。

社会保険労務士になった先輩とこれから目指す友人

 会社の「同窓会報」に目を通していたら、以前懇意にして頂いた先輩のN氏が定年後、一念発起して社会保険労務士の国家資格を取得して、現在、沖縄県那覇市で社労士事務所を開業していることを知りました。

 私は、社労士というのは全く門外漢なので、どんな仕事するのか知らなかったのですが、市民の年金相談や治療と就業との両立や顧問会社の規定見直しなどの相談に乗っているといいます。

 N氏は、もう20年近い昔ですが、私が北海道の帯広支局に赴任していた時、旭川支局長だった方で、当時、話題を呼んだ旭川動物園の小菅園長を講演会にお呼びする際に、彼に橋渡しになってもらい、お世話になったりしたのでした。

 N氏はその後、沖縄の那覇支局長にも赴任したので、そこで知り合ったと思われる不動産仲介業最大手の会長さんからの要望で那覇に事務所を開業したようです。

 社会保険労務士という国家試験はかなり難しいらしく、N氏は60歳で定年退職してから沖縄を離れて京都で受験勉強し、6回目でやっと合格したといいます。合格率7.9%といいますから、相当難関です。私は、確定申告でさえ、よく分からず、ギャアギャア騒いでいるぐらいですから、とっても無理ですね。

 そう言えば、北海道にお住まいの私の親しい友人A君も、これから社会保険労務士の試験を受けようか、どうしようかと悩んでおりました。彼も60歳定年で会社から再雇用してもらえないので、ある「信頼する人」に相談したところ、「社労士の資格を取って仕事を続けなさい」との御託宣を得たというのです。

 A君が社労士向きなのかどうか分かりませんが、何しろ、北海道に移住したのも、その「信頼する人」の御託宣で決めたといいますから、相当な入れ込みようです。

 第2の人生、社労士の試験を受けるか受けないかは彼の判断ですから、自分の信じた道を進めばそれでいいのではないか、と私は思い、そう彼には伝えておきました。どちらにせよ、陰ながら応援しています。

 「自分の信じた道を進む」というのは、実は私の筆名(ペンネーム)「信之進」のことだったのです(笑)。

「コロナ後」は、もう「コロナ以前」に戻らない?

 オミクロン株の感染拡大が止まりません。第6波の真っ最中です。

 昨日(25日)は、全国で6万2610人の感染拡大が確認され、首都東京は1万2813人といずれも過去最多を記録してしまいました。もっとも、日本の人口の3倍弱の米国では25日の1日だけで、実に100万8502人もの莫大な感染者を輩出?していますから、それに比べれば微々たるものかもしれませんが。(米国の死者は87万人近くに及び、南北戦争での死者=75万人~90万人=に匹敵してきております)

 とはいえ、私が勤務する会社の同じ階のフロアで2人も感染者が出てしまいました。でも、どうも、「コロナ慣れ」してしまったのか、大騒ぎせず、周囲は緊張感が足りないように感じています。

 会社は、第5波までは、「自宅待機」処置にするなど、「密」を避ける方策を打ち出していたのに、今回は、そんな素振りもなく、毎日、「何処そこで(社員の)感染者が出ました」と、他人事のように、事務的に、淡々と、社員に一斉メールで報告するだけです(ここ数日は、毎日です!)。

 私がよく行く、地下にある銀座のイタリア料理店でも、以前は、入店前に厳しく体温測定していたのに、本日ランチに行ったら、測ることなく「素通り」です。本当に緊張感が足りないなあ、と感じました。

東京・汐留

 さて、昨日はこのブログで「築地の電通旧本社の思い出」と題して、芥川賞作家のA氏のことを書いてしまいましたが、実は、必要に迫られて、ここ1カ月、私自身のこれまでの経歴を振り返ってみたら、色々と思い出してしまったからでした。

 30年も40年も昔のことで、時効みたいな話なので勘弁してほしいのですが、「あの頃は、今ではとても考えられないことも普通に起きていたなあ」と感じる今日この頃です(歌謡曲か!?=笑)。

 「歴史は繰り返す」とよく言われますが、40年前と今ではかなり時代が変わり、恐らく、現代人は、能動的に過去を繰り返すことはないだろうと思います。40年前の常識は、今の非常識になっていることが多い、と言えるでしょう。

 例えば、40年前でしたら、スポーツ選手は「途中で水なんか飲むな、それが常識だ」と鍛えられましたが、今では、途中で水どころか、お菓子まで食べてしまうスポーツもあります。

 何と言っても、女性の権利が少しは向上したのではないでしょうか。ウチの会社は以前から男女平等の給与でしたが、大半の企業も男女差別が少なくなったと思います。そのせいか、共働きの家庭も増え、今では専業主婦が白い目で見られたり、逆差別されたりする世の中です。

東京・汐留

 個人的な会社の仕事の話ですが、コロナ前は、霞ヶ関の官公庁や企業などが発表する資料を「バイク便」といって、オートバイを使って担当者に取りに行ってもらったものですが、コロナになってからは、官公庁も発表資料はホームページにアップするか、記者クラブ員宛メールに添付するようになりました。その結果、最近、社内ではバイク便が廃止されたというのです。(オートバイのお兄さんはどうなっちゃったのかなあ?)

 今は100年に一度のパンデミックに襲われていますから、以前の物差しでは全く通用しなくなりました。これだけは言えますが、「コロナ後」は、もう「コロナ以前」に戻ることはないでしょう。

 つまり、コロナ後も、バイク便が復活することはないでしょうし、以前のように元に戻ることはないと思います。

 仕事も遊びも、今さら、ネットがなかった時代に戻れないのと同じように。(アーミッシュのような生活をするしかありません)

 

 

築地の電通旧本社の思い出=作家A氏に呼びつけられて

 久しぶりに、築地・明石方面でランチしようと、ブラブラしていたら、築地の電通の旧本社ビルがあった一帯の4棟のビルが解体工事であることを知りました。

 電通の旧本社ビルは、建築家の丹下健三(1913~2005年)が設計を手掛け、竣工は1967年。老朽化を理由に、電通本社は、汐留に移転しましたが、その汐留のビルも、電通は、不動産大手ヒューリックなどが出資する会社に売却することを昨年、発表しておりました。(売却額は3000億円規模で、約890億円の売却益を見込んだとか)知らなかった!

 築地の旧本社ビルなど4棟のビルは、住友不動産が2014年に取得し、解体工事は大成建設によって昨春から始まっており、今夏には終了。住友不動産は計画をまだ明らかにしていませんが、大型オフィスや住居や商業施設など大規模な再開発地区になることでしょう。

築地・イタリアン料理「のら」

 丹下健三が設計したコンクリート剥き出しの旧電通本社ビルには思い出があります。1996年頃だったでしょうか。当時私は文芸担当記者でした。毎月1本は、有名作家さんにエッセイを書いてもらうことも仕事の一つでした。そのため、文芸出版のパーティーなどで作家さんを見つけると、名刺を渡して、「先生、何か書いてもらえませんでしょうか。ペラで5、6枚で構いませんから」などと立ち話をするのが常でした。

 ペラとは業界用語で、200字詰め原稿用紙のことです。

 「数打てば当たる」と名刺をばら撒いていたのですが、そのうち、電通社員ながら芥川賞を受賞したA氏から電話が掛かってきて、「電通本社に来ないか」と誘われたのです。「お、これは、エッセイでも書いてくれるんだな」と私は喜び勇んで、丹下健三設計ビルに足を運んだのでした。

 そしたら、通されたのは応接室でも何でもなく、彼の職場のデスク。彼がどこの部署だったか忘れましたが、次長クラスで、「次長なんて、石を投げれば誰にでも当たる。そこら辺にうじょうじょいるよ」と自嘲気味に話し、「何でもいいからお好きなテーマでエッセイを書いて頂けませんか」と、こちらが御願いすると、「『何でもいい』というのは一番良くない。作品を全て読み込んで、この作家には、このテーマが一番相応しい、と最初から持って来なければ駄目なんだよ」と散々、このほか、あれやこれやと30分ぐらい説教されました。

築地「のら」あさりトマトソース・スパゲッティ・ランチ 990円

 説教するぐらいだから何か書いてくれるのだろう、と期待したのですが、答えは「今は忙しいから駄目だ」の一言でお終い。一体、何のために、人を呼びつけたのか、非常に腹が立って会社に戻りました。「書く気がないなら、お前なんかより遥かに忙しい、ライバル社の3倍は働かされる、貧乏会社の記者を呼びつけるんじゃないよ!」と怒りが再燃しました。

 いや、実はその作家に対しては、長い間、腹の虫が収まりませんでした。その後、私は文芸担当を離れましたが、何年かして新しく文芸担当になった男は、文学の「ぶ」も知らないような、あまり本は読まない、世間知の低い人で、Aはその新人をうまくだまくらかして、自分が指名した銀座の高級フランス料理店での「取材の打ち合わせ」を条件に(しかも夫婦二人分)、短いエッセイを書いたのでした。

東京・中央区役所(元土佐藩中屋敷)

 その新人だった文芸記者は、5年前に若くして亡くなりました。

 著名な作家A氏も昨年、訃報に接しました。

源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞

「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集をやっと読了しました。2週間以上かかったでしょうか。でも、お蔭様で、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の御家人の名前と経歴、それに時代背景を覚えてしまいました。こんなに賢くなってどうするの?といった感じです(笑)。

 「便乗商法」というより、「便乗学法」ですね。大河ドラマがなければ、これほど北条義時に関心を持つことはなかったでしょう。1月21日付の渓流斎ブログ「承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?」でも書きましたが、北条義時は800年の武家政権の礎を築いた人であり(私の説)、日本史上では「逆賊」のイメージを払拭して、その功績をもっと見直されなければいけいないと思いました。

 そして、今は「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読んでいます。同じ鎌倉幕府を扱いながら、切り口が全く違うので、この本からも新たな知識が吹きこまれます。

 特に驚いたのは、源氏も平家も、位階はもともと六位という極めて低い下級職だったという事実です。警護や軍事を担当し、貴族の周辺に「さぶろふ」から侍と言われたり、武士と言われたりしましたが、「清和源氏」「桓武平氏」と言われるように、本来の始祖は天皇の子息でしたから、もっと位階は高いと思っていました。五位以上が貴族です。位階については、渓流斎ブログ2021年12月15日付「『従三位』と『正六位』の違いは何か?=位階(叙位)について考える」を再読されて思い出してほしいものです。21世紀の現在も叙位叙勲が続けられていますが、六位とは、小中学校の校長先生らに授与される位階です。

 それが、地方で反乱(天慶の乱、前九年の役、後三年の役など)があると、彼らは鎮守府将軍などに任命され、戦功があると、恩賞で四位まで昇任されたりしました。

 その後の出世頭は何と言っても平清盛です。保元・平治の乱を制した清盛は永暦元年(1160年)、三位の参議となり武士として初めて公卿となります。そしてその7年後はついに太政大臣という公卿のトップに立ち、一位を獲得するのです。(織田信長は正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣でした)

 平安末期の院政時代、もしくは武家の台頭から中世が開始したという説が有力ですが、それ以前の古代は、天皇の外戚を利用して権力を握った葛城氏、蘇我氏、藤原氏などのように、「女系」が為政者でした。それが、中世になって武家が政権を握ると、一転して「男系」となります。そのため、親と子や兄と弟、伯父(叔父)と甥との間で、跡目争いという血生臭い権力闘争が起きる、といったことが書かれていましたが、妙に納得してしまいました。

ジョン・スメドレー(創業1784年)のカーディガン3万4,000円

 話は変わりますが、山城の元祖は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ一人、楠木正成の千早・赤坂城だという説があります。何で、不便な高い山に城なんかを築かなければならなかったのかという理由は、鎌倉幕府の坂東武者が騎馬による攻撃を得意としていたためです。馬が登って来られないように、わざわざ山城を築いたというのです。

 承久の乱から100年余。鎌倉幕府の滅亡は、元寇による疲弊で、恩賞ももらえなかった御家人たちの不満が高まったことが理由に挙げられますが、このように鎌倉幕府が戦力的にも戦略的にも時代遅れになったこともあったのでしょうね。

三菱食品!?ローソンは三菱グループでした! 何で本文と全く関係ない写真なんだ!関係ある写真は著作権の関係で使いないためです。

 もう一つ、備忘録として書き残したいことがあります。NHKの「歴史探偵」という番組の中で、長崎のオランダ語通詞(通訳)の話が出てきましたが、彼らは当時の最先端の科学者でもあって、「引力」「遠心力」「分子」「動力」「弾力」「物質」「加速」「真空」「楕円」「惑星」「鎖国」などの翻訳語を考え、生み出した人たちだったというのです。

 これには吃驚。てっきり、福沢諭吉か西周か柳河春三か中江兆民ら幕末の語学の天才が考えたものだと思っていました。

 恐らく、恐らくですが、これら、科学用語も、「経済」「自由」などと同じように、本家本元の中国でも逆輸入されたと思われます。

 

心温まらない泣けるお話=浅井商店物語

Copyright par Shoko Hiraoka

  自宅近くに浅井商店(仮名)という、ゆうに80歳の坂は越えていると思われる老夫婦が営む、どう見ても、小奇麗とは言えない雑然と商品が並べられている、家屋も傾いたお店が住宅街の中に一軒あります。

 商品は、主に子どもの駄菓子ですが、「駄菓子屋さん」とは言い切れず、クリーニングの代理店を請け負ったり、郵便切手・葉書などもあり、雑然と並べられた物の上に置かれた古い汚い新聞紙をどければ、缶詰やラーメンやボンカレーなども見つかりそうなので、昔の田舎なら何処にでもあった「何でも屋さん」「萬屋さん」といった感じです。今は、コンビニに取って代わられ絶滅危惧種と言ってもいいでしょう。

 この店の前を通ることはあまりないのですが、週末に、散歩で通りがかったします。でも、決まってお客さんは一人もいなく、「この店、大丈夫かな」と不安になったりします。とはいえ、私としては、買うものがないので仕方ありません。

 年末になると、自宅近くの複数の電柱に、ミミズが走ったような汚い手書きの字で「年賀状あります。浅井商店」と書かれた紙が貼ってあることがあり、店の健在ぶりを確認します。が、私は、年賀葉書は、裏が干支のイラストで印刷されたものをまとめて都心で買ってしまうので、この店では買わず申し訳ない気持ちになります。汚いミミズの字を見る度に「頑張ってるのになあ…」と涙が出てきてしまいます。

 しかも、ここ1年は、店内外で、温厚そうな旦那さんの姿が見えず、もしかして、自宅療養されているのか、他界されたのかもしれません。

平岡尚子写真展「matters」(東京・エプソンスクエア丸の内)2022年1月7日(金)~1月19日(水) Copyright par Shoko Hiraoka

 そんな中、やっと浅井商店で買うものが見つかりました。往復葉書です。2月に都内で開催されるドナルド・キーンさんの御子息らの講演会(抽選70人)の申し込みが、往復葉書による応募になっていたからです。「そうか。週末に浅井商店へ往復葉書を買いに行こう」と、ある企みで出掛けて行ったのです。

 ある企みとは、細かいお金がなかったので釣銭を受け取らないことにしたのです。126円の往復葉書わずか1枚しか買わないので、大した儲けにならないはずです。1000円札や1万円札ではちょっと向こうも気が引けると思い、200円を渡し、「お釣りは結構ですからね」と言ってお店を出たのです。「いやいや、駄目ですよ、駄目ですよお」という奥さんの声を振り切って。

平岡尚子写真展「matters」(東京・エプソンスクエア丸の内)2022年1月7日(金)~1月19日(水) Copyright par Shoko Hiraoka

 そしたら、「お客さん、お客さん」と彼女としては精一杯の大声を出しながら、そして、彼女としては全速力で私を追い掛けてきたのです。ぜいぜい息を吸ったり、吐いたりしながら、彼女の皺くちゃの手には10円玉7枚と1円玉4枚がしっかり握られていました。よく彼女の顔を見ると、80歳どころか、90歳を越えているようにも思え、何だか申し訳ないことをしてしまった気がしました。

 小商いとはいえ、彼女には、商人として長年やってきた矜持があり、誠実さと正直さと律儀さに満ち溢れていたのです。しかも、「私は、1円だろうが、間違いや誤魔化しは絶対にしたくありませんからね」とでも言いたげな、半ば憤っているような感じさえ受けたのです。

 私は、「この程度のことなら大丈夫だろう」と、良かれと思ってやったのですが、さすがにこの時は、自分の行為を恥じてしまい、帰り道は感極まって涙が出て来ました。

 小商いの老夫婦のことなど歴史として語られることはないでしょうが、このような誠実で真面目な庶民こそが歴史をつくっていると言ってもいいはずです。有名な戦国大名とか明治の元勲だけが歴史をつくっているという考えは大間違いです。

地の底に堕ちたマスコミ=朝日新聞も知らない警察官

 朝日新聞の本日19日付朝刊の政治コラム「多事奏論」で、斯界では有名な高橋純子編集委員が、正月早々、自分が運転していた車が商業施設のパーキングで駐車中の車のバンパーに「軽く」ぶつけてしまい、念のため、警察を呼んだ逸話を書いております。

 駆け付けて来た20歳そこそこのお巡りさんから、名前、職業、そして勤務先を聴かれ、「朝日新聞です」と答えると、そのお巡さんから「あさひは、平仮名ですか、カタカナですか?」と聞かれた上、漢字なら「旭日のあさひ、じゃなくてですか?」と確かめられたといいます。

 高橋編集委員は「ひと昔前は朝日新聞と告げると、良くも悪くも警戒されたものだけど、ね」と皮肉ってますけど、私は椅子からズッコケ落ちるほど驚愕しましたね。

 若い人は新聞を読まなくなったと言われて長いですが、警察官まで読まなくなったとは衝撃以外他に何ものでもありません。時事通信を知らないのは分かりますが、朝日新聞を知らないとは!!

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 高橋編集委員の「ひと昔前」をお借りすると、私の経験では、その「ひと昔前」ですが、朝日新聞の人から「朝日の記事にならないニュースはニュースではない」とまで豪語されたことがあります。1993年のことですから、30年近い昔のまだインターネットが普及していない牧歌的時代です。その朝日新聞の人は傲慢さが脳と皮膚に染みついていたのでしょう。

 当時の朝日新聞の夕刊で、園山俊二さんの「ペエスケ」という四コマ漫画が連載されていました。1993年1月20日のことですが、その園山俊二さんが57歳で急逝されたということで、私は、仕事として彼の訃報を書かなくてはならなくなりました。いつ、どこで、何の病気で亡くなり、業績はどうのこうの、といったあれです。

 そこで、園山さんの御自宅に電話すると、奥様らしい方が出てきて、「その件に関しまして情報は、全て朝日新聞にお任せしているので、朝日新聞に聞いてもらえないでしょうか」と丁重なお言葉があったので、私は朝日新聞の代表電話にかけて、担当者につないでもらいました。

 こちらの会社名と名前と、趣旨を説明すると、その担当者は「あ、その件は、(朝日新聞の)夕刊に出ますからそれを見てください」と言い放ったのです。私は、怒りで一瞬、頭が真っ白になりました。その夕刊の時間帯に間に合わせたいから、こうして、取材しているのではないか! 遺族の方も「窓口」を朝日新聞に指定されたので、電話しているだけじゃないか!

 しかし、相手はけんもほろろでした。あくまでも、夕刊を見てくれ、と主張し、ウチが載せない記事はニュースに価しない、とまで傲慢ぶりをかましてきたのです。

 その後、どうなったのか、御想像にお任せします(笑)。

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 それより、何と言っても、私が言いたいのは、時代の趨勢で、マスコミを代表する天下の朝日新聞が、今では警察官にさえ知られていない、吹けば飛ぶような存在に堕ちてしまったことです。ネット時代となり、ニュースは、どこの誰なのか得たいの知れない人間まで発信していますから、氾濫しています。若い人たちは、ニュース源がどこだろうと、どうでも良いのでしょう。

 (本当にどうでも良いのですが、最近の新聞やテレビは「SNSで話題」なんていう安易な話題づくりは止めてもらいたいものだ!)

 気になったのは、先ほどの30年近い昔の朝日新聞の傲慢な中年か初老の記者です。今はもう御存命ではないかもしれませんけど、この高橋編集委員のコラムを読んだら、口から泡が出て卒倒することでしょう。

 確かめたいので、その傲岸不遜紳士さんには是非ともこちらに連絡してもらいたいものです。