知能と意識は全くの別物=ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」を読みながら

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 12月某日、木曜日。日本を代表する週刊誌「週刊文春」と「週刊新潮」の発売日。朝の通勤電車内。7人掛けの椅子に座っている7人のうち5人、その前に立っている9人全員がスマホの画面とにらめっこしていました。週刊誌を読んでいる人、ゼロ、新聞を読んでいる人、ゼロ。本を読んでいる人、1人。それは私でした。

「サピエンス全史」が世界的なベストセラーとなり、現在、世界的に最も著名になった歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ著「21世紀の人類のための21の思考」(河出書房新社、2019年11月30日初版発行)を今、読んでいます。

 まだ、半分しか読んでいませんが、私的には、ブログを書くことが「主」で、本を読むことは「従」なので、まだ途中なのにこの本のことを語ろうとしています(笑)。実は、私はハラリ氏の前作「サピエンス全史」も「ホモ・デウス」も読んでいません。が、梗概だけは何となく知っています。そして、ハラリ氏がインタビューされている番組をテレビで見たことがあり、大変頭脳明晰ながら、かなり、かなりの饒舌家で、しゃべる速度と内容が思考の回転について行っていない様子で、ところどころで矛盾するように思われる箇所もあり、「内容明晰・意味不明」に陥っている感じでした。

 この本を読んでも同じ印象を受けました。論理展開が早すぎるのです。現代の話かと思ったら、1714年のバルセロナの大虐殺が出てきたりします。本人は納得していても、読者はついていけない面がありました。それでも、不思議にも4分の1ほど読み進めていくと、彼の策略に嵌ったかのように、分かってきます。なぜなら、環境問題にせよ、雇用問題にせよ、第1次資料は、市販かネット上から拝借された新聞や雑誌の記事や、テレビからの情報が多いからです。毎日、新聞を読んでいる人なら、そして世界史の知識があれば、目新しい話はなく、ついていけないことはありません。

 それよりも、ハラリ氏を有名にした言説の一つは、前作「ホモ・デウス」で明らかにした「人工知能(AI)とバイオテクノロジーの力でごく一握りのエリート層が、大半の人類を『ユースレスクラス(無用者階級)』として支配するかもしれない 」といった推測でしょう。彼は歴史学者であり、未来の予言者ではないので、必ずしも将来、彼の推測した通りにはならない、とひねくれ者の私なんか思っているのですが、耳を傾ける価値はあると確信しています。(私なんか、若いハラリ氏の容貌と体形がどうも未来の人類か宇宙人に見えてきます)

本書ではこんなことを書いています。

 吉報が一つある。今後少なくとも数十年間は、人工知能(AI)が意識を獲得して人類を奴隷にしたり、一掃したりすることを決めるというSFのような本格的な悪夢に対処しなくて済みそうだ。私たちは次第にAIに頼り、自分のために決定を下してもらうようになるだろうが、アルゴリズムが意識的に私たちを操作し始めることはありそうにない。アルゴリズムが意識を持つことはない。

 …現実に、AIが意識を獲得すると考える理由はない。なぜなら、知能と意識は全く別物だからだ。…(ただし、)AIが独自の感情を発達させるのが絶対に不可能ではないことは言うまでもない。不可能だと言い切るほど、私たちは、意識についてよく分かっていない。(99~100ページ、一部漢字改めなど)

 これは非常に分かりやすい論法であり、大いに納得します。

 人類のほんの数%の人間だけが、富と権力を独占し、残りの多くの人間がAIによって仕事を奪われて、不要階級に没落するというおっとろしい御託宣よりも…。(つづく)

「江戸・東京の被差別部落の歴史」を読んで

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沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」のことを会社の同僚の川本君に話したら、彼は浦本誉至史著「江戸・東京の被差別部落の歴史」(明石書店・2003年11月10日初版)を貸してくれました。彼がこのような問題に興味があったとは知りませんでした。

 著者の浦本氏は、「連続大量差別はがき事件―被害者としての誇りをかけた闘い―」 ( 解放出版社 、2011年3月10日初版)という本も上梓された方で、謂れもない差別に苦しんだ人でもありました。この事件とは、2003年5月から1年半にわたって、東京を中心に全国の被差別部落出身者や団体に差別文言をつらねた匿名のはがきや手紙や、注文してもいない高額商品が代引きで大量に送りつけられたりしたもので、逮捕された犯人は都内に住む34歳の青年でした。浦本氏個人に対する恨みではなく、「就職難のストレスから、部落差別の意図を持って一連の犯行を行った」と自供したといいます 。 これに対して、浦本氏は「無知が差別を生む」と、講演で全国を駆け巡っているといいます。

 世の中には実にさまざまな考えを持っている人がおり、彼らの個人的信条については尊重しなければなりませんが、中には根も葉もないデマを信じて被害者妄想に駆られて、法を犯す行為を厭わない悪質な人間もおります。刃(やいば)は弱者に対して向けられます。このような不特定少数向けのブログに対してでさえも、誤解や誤読や思い込みで、犯罪行為に走るような人間が世の中に少なからずいるので、困ったものです。

 その上で強調したいのは、この本は名著だと思います。著者は、内藤清成「天正日記」や「弾左衛門由緒書」「武江年表」など当時の文献を渉猟し、アカデミズムの学者以上によく調べ、よく研究し、私もこの本で沢山のことを教えてもらいました。

 差別問題は、古代からありましたが、制度として固められたのは近世に入った徳川幕府からでしょう。特定の職業(死んだ牛馬の処理、革製品の製造、街の警護や刑場の管理、祭礼の清め役など)を押し付け、 統治しやすいように特定の場所に住まわせ、リーダーを認めてトップダウン方式で支配してきました。幕府が穢多と呼称し、自分たちは「長吏」と自称した頭は、代々弾左衛門の名前を襲名してきました。この中で、四代目弾左衛門集久(ちかひさ、在籍1669~1709年)は歌舞伎の市川團十郎家の十八番「助六」の敵役の髭の意休(意久)のモデルだったという説があります。「助六」は、歌舞伎の興行権を巡る訴訟争い(勝扇子事件)から着想を得て、全く新しくつくられた世話物(作者不詳)で、正徳3年(1713年)、江戸木挽町(今の東銀座)の山村座で二世團十郎によって初演されました。 山村座は、翌年の正徳4年(1714)に江島生島事件で廃絶されていますから、歌舞伎通にとっては感慨深い逸話です。

 家康が関東江戸に入府した天正18年(1590年)、弾左衛門とその配下は、それまで居住していた日本橋尼店(あまだな、現室町、日本銀行がある所)から上野の鳥越に移住させられます。これは、日本橋にあった刑場が鳥越などに移転したことと関係があると思われます。同様に、正保2(1645 )年 には、鳥越から、浅草新町に再び、移住させられますが、これも、刑場が鳥越から品川の鈴ヶ森と北浅草の小塚原に移転したことも関係しているのでしょう。 蝋燭や行灯の芯である「灯心」の独占製造販売権も持った弾左衛門の浅草新町の屋敷(役所も兼ねていた)の敷地は740坪もあり、旗本か、小さな大名クラスの規模だったようです。

 長吏頭・弾左衛門の下に4人の非人頭がいたとも書かれています(93~94ページ)。浅草の車善七、品川の松右衛門、深川の善三郎、代々木の九兵衛です(こちらも代々襲名)。浅草と品川には「溜」と呼ばれる囚人の看護や身寄りのない病人や少年の世話をする施設があり、それを管理していたのが、それぞれ車善七と松右衛門でした。非人たちは、町や堀川などの清掃、刑場での労役などのほか、鑑札を発行してもらって、「物貰い」をすることも生業だったといいます。物貰いは、他の町人らには許されていませんでした。

 また、非人頭は、乞胸(ごうむね)や願人(がんにん)(下層僧侶)と呼ばれる大道芸人を支配していたといいます。史料によると、乞胸の稼業は、綾取( 竹に綱をつけ、まりなどを投げ上げては受け止める曲芸 )、猿若(顔を染めて芝居をする芸)、江戸万歳、辻放下(つじほうか=手玉芸)、操(あやつり)、浄瑠璃、説教、物真似、仕方能、物読、講釈、辻勧進(芸のない者や女や子どもたちが往来に出て銭を乞う)などでした。願人の代表芸は、「住吉踊り」でした。

 乞胸は、被差別民ながら、平民だったといわれ、町人が、無宿となって非人になったりする場合も多く、明確な規定などもなかったようです。要するに、支配者階級が、都合の良いように利用し、決めつけた制度に過ぎず、驚くことに、弾左衛門と配下らは、関ヶ原の戦いや、幕末の長州征伐にまで参戦させられた史料までもが残っていました。

「仏像でめぐる日本のお寺名鑑」で巡る日本のお寺

 この本は本当にためになりました。これまで、自分が如何に無手勝流に、気儘に、散漫に仏像を鑑賞していたかよく分かりました。

 まず、仏像には「尊格」というものがあって、 「如来」「菩薩」「明王」「天部」「その他」があります。

如来」=釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など

菩薩」=観音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩など

明王」=不動明王、軍荼利明王、愛染明王など

天部」=四天王(広目天など)、梵天、毘沙門天、弁財天、鬼子母神、二十八部衆(迦楼羅王など)、十王(閻魔王など)

「その他」=十大弟子(舎利弗など)、役小角など

如来とは、菩薩が六波羅蜜の修行と艱難辛苦の末に、悟りを開いた最高の格でしたね。阿弥陀如来は、法蔵菩薩が正覚(しょうがく)したお姿でした。

この本の「如来」の中に、弥勒如来があったので、弥勒菩薩の間違いではないかと思いました。私は、個人的ながら、京都・広隆寺の弥勒菩薩像が大のお気に入りで、苦しい時に、よく写真を見て心を落ち着かせていたことがありました。奈良・中宮寺の弥勒菩薩像もよくお参りしました。

 そしたら、弥勒如来とは、釈迦が入定されて56億7000万年後に、弥勒菩薩が如来になることが約束された救済主のことだったんですね。その間に、一切衆生を救済するのが地蔵菩薩でした。あたしなんか、お地蔵さんなんて、道端によくある道祖神かと思っていましたら、地獄に堕ちた者どもさえも極楽浄土に導いてくださる偉い偉い菩薩さまだったのです。

 種類が多いのは、衆生が「観音様」と気軽に読んでいる観音菩薩です。聖観音菩薩(地獄)、千手観音菩薩(餓鬼)、 馬頭観音菩薩(畜生)、十一面観音菩薩(修羅)、不空羂索観音菩薩准胝観音菩薩(人間)、如意輪観音菩薩(天)と六道に沿って救済してくれます。このうち、如意輪観音菩薩の如意とは、「如意宝珠」のことで、苦しみを取り除く働きをし、輪は、「法輪」のことで煩悩を打ち砕く働きを持ちます。仏様の持ち物に注目すると、これまた興味深いです。

 脇侍(わきじ、または、きょうじ)とは如来の右左に侍る菩薩のことで、三尊像としてパターンが決まってます。釈迦如来なら普賢・文殊菩薩、阿弥陀如来なら聖観音・勢至菩薩、薬師如来なら日光・月光菩薩といった具合です。

 そういえば、京都・泉涌寺即成院では、毎年10月第3日曜日に「二十五菩薩お練り供養」がありましたね。文字通り、25もの菩薩様が壇上でお練りします。 仏像に関する知識があれば、より有難みが分かります。

 明王とは、五大明王(不動明王=中央、降三世明王=東、大威徳明王=西、軍荼利明=南、金剛夜叉明=北)がその代表で、仏様の教えに目覚めない衆生に対して、怒りの炎を光背にして、憤怒の表情で諫めるお姿になってます。

 天部は、この本では「ガードマン」と分かりやすく書かれていました。その代表的は四天王は、持国天(東)、広目天(西)、 増長天(南) 、多聞天(北)です。この本は大変素晴らしいのですが、80ページで、増長天を西、広目天を南と誤記されていました。間違って覚えてしまうところでした。たまたま、京都・東寺で買った伽藍の写真を照合したら間違いを発見しました。良い本なので、速やかに訂正してほしいものです。

 北を護衛する多聞天は、単独ですと、毘沙門天となります。梵天は、バラモン教の最高神ブラフマンのことですが、インドでは仏教が衰退して密教化した中で、インドの古代の神々を取り入れていったことが分かります。

 沖浦和光説によると、仏教を開いた釈迦は、その人の生まれや種姓とは関係なく、誰でも真理に目覚めれば覚者(ブッダ)になれると、「四姓平等」「万人成仏」の道を明らかにし、カースト制差別の永遠性と合理性を根拠づけようとするバラモン教に対して根底的に批判したと言われます。

 それが、釈迦入滅後、500年も1000年も経つと、翳りが出て、平等主義を唱える釈迦の教えとは似ても似つかない色々なインドの神々を取り入れて延命策を図ったのではないか、釈迦如来より上位に置く大日如来もバラモン教の影響ではないか、というのが沖浦説でした。

 お釈迦様自身も偶然崇拝には反対だったとも言われ、そう言われてしまうと、仏像好きの私としては立つ瀬がなくなってしまいます。

 それでも、この本の本文や巻末には、全国の寺院や博物館が収蔵する重要文化財や国宝の仏像リストが掲載されているので、極楽浄土に行く前に、一度は巡ってみたいと思っています。

12月23日(月)放送NHKファミリーヒストリー「阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に」をご覧になってください

 満洲研究家の松岡將氏から、大変嬉しいメールを頂きました。

…実は、資料提供その他、小生が色々と協力したNHKのファミリーヒストリー番組「阿川佐和子~祖父は知られざる名建築家 そして父の遺品に」が12月23日(月)夜7時30分から放送されることとなりました。よかったら、ご覧になってみてください。

 内容は、阿川家三代(阿川甲一、弘之、佐和子・尚之)のお話で、この阿川甲一は、拙著『在満少国民望郷紀行』の始めに出てくる(露清密約に基づく)ロシアの1898年東清鉄道建設着工当時からハルビンに渡るなど、時代の風雲児であり、日露戦争後、満鉄長春附属地にて、多くの土木工事を手掛けた、阿川組のトップでした。それで、あまり長くはならないようですが、(現在の)長春のシーンなども出てくるようです。

 本件に関して、阿川弘之著『亡き母や』には、「明治42年、日露戦争に通訳官として従軍した阿川甲一は、戦後長春で阿川組を設立、事業を興し、羽振りをきかし…」とあるのだが、その証左として、小生が提供した阿川組のオフィスの在所(満鉄長春附属地内 日本橋通り16)の地図が出てくる筈です。ご覧のように、「日本橋通り16」は、新京(長春)駅直近で敷地も広く、しかも、オエラさんたちが出入りしていたヤマトホテルにも直近。これも、拙著『在満少国民望郷紀行』執筆・刊行の“お勉強”の成果です(同書P133参照)。

満鉄長春附属地内 日本橋通り16  Copyright par Duc de Matsuoqua

7年ほど前にも、NHKの番組には、フィギュアスケーター小塚崇彦一家の件(祖父小塚光彦が満洲国協和会職員)で協力したことがあるのだが、今回も、その繋がりもあったかと思われます(この時は、担当者に協力して、拙著『在満少国民望郷紀行』P151、③の写真を発掘したりもしたのでした)。

 今回のファミリーヒストリーの番組最後には、小生の名前が、地図や資料提供者としてクレジットされる由。こういった機会は、小生自身にとっても、問題意識を持って歴史を深掘り出来る、大変いい機会だと思っています。…

 凄い話ですね。私も楽しみに拝見させて頂くことにします。

古代史が面白い

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最近の古代史研究は、発掘された考古資料から、木の年輪や放射性炭素を用いた科学的手法で飛躍的進歩を遂げ、大幅に歴史が書き換えらています。

 と、断定的に書きたいところですが、その科学的手法を使っても年代測定に誤差が生じ、何と言っても、いまだに邪馬台国が九州か大和かの論戦に決着がついていないといいます。(大和説の方が有力な遺跡発掘が出てきたようですが)

 騎馬民族征服王朝説も、否定されたかと思ったら、いまだに根強く残っていて、まだ分からないことだらけです。が、私の世代のように40年も50年も前に学校で習った古代史研究と比べれば、飛躍的進歩を遂げていることは確かで、もしかして、古代史が今、一番面白いかもしれないとさえ思えてきます。

 恐らく、日本列島に長らく住んでいた縄文人(アイヌ、蝦夷、隼人、熊襲など)は、稲作の技術を持った弥生人(という言い方はしませんが)から征服、という言葉が強すぎれば、制圧されたか、同化されたか、していったことでしょう。時代は前後しますが、それら渡来人は、北方の鮮卑やツグース系や、大陸の江南(揚子江の南)や半島の朝鮮系、はたまた遥かインドネシア、それにミクロネシアなどの南方から渡ってきたことでしょう。

 そんな予備知識を持って、街を歩いて、日本人の顔を見るとはなしに見てみると、確かに色んな顔があることが分かります。欧米人には区別つかないでしょうが、モンゴル系もいれば、朝鮮系のような顔の人がいます。ジャワ系の人もいますね。日本人は単一民族ではないことが分かります。

 先ほど読了した武光誠著「一冊でつかむ古代日本」(平凡社新書)から、色んなことを教えてもらいました。2011年7月15日初版ということで、「最新情報」とまでは言い難いので、また何かいい本があったら教えてください。少し列挙します。

・2009年8月に島根県出雲市の砂原遺跡から、12万年前から7万年前といわれる旧石器が出土した。現在のところ、これが日本列島最古の人類の生活の跡だということになる。

・現在のところ、青森県外ヶ浜大平(おおだいら)山元Ⅰ遺跡から出土した縄文土器が日本最古というのが有力。それは、約1万6500年前から1万6000年前のもの。

・水稲耕作の技術は朝鮮半島南端から伝わったと考えられる。江南の水稲耕作が朝鮮半島の中部・南部に広まったのは紀元前1100年から同1000年頃で、その技術は早い時期に日本に伝えられた。

・近年になって、水田跡とともに縄文土器が出土する遺跡がいくつも報告された。(弥生時代初期の福岡・板付遺跡など)→並存しているということは、弥生人が縄文人を征服したわけではないかも。

中略

・5世紀末に朝鮮半島南部の伽耶から移住してきた有力豪族が秦(はた)氏と東漢(やまとのあや)氏。6世紀に新たに来た豪族を今来漢人(いまきのあや)と呼ぶ。

・これまで「大王」と呼ばれた王族の頂を初めて「天皇」と名乗ったは、天武天皇。北極星を神格化した道教の「天皇大帝」にちなむ。中国皇帝と同格の地位を宣言し、これまでの「倭国」の国号を廃して「日本」の名称を対外的に用いた。

・奈良時代の人口は約450万人で、そのうち平城京の人口は10万人。このうち1万人が下級官僚だった。五位以上の貴族の人数は150人程度。家族を含めると800人ほどだった。平城京と周辺には1万人の僧侶もいた。

・古代の朝廷の政務は、太政官を中心に運営され、天皇は、太政官の決定を追認する形だった。太政官には、左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議がおり、総称して「公卿」と呼ばれ10数人。すべて、公卿による合議で決められた。→天皇は祭祀の長という性格を持ち、独裁者ではなかった。これは明らかに古代中国やローマ帝国とは違っていた。

🎬「カツベン」は★★☆

 黒澤明監督が亡くなって以来、あまり、監督目当てに映画を観ることはなかったのですが、周防正行監督は例外で、「この人なら外れはないな」と思いつつ鑑賞してきました。「シコふんじゃった。」「Shall we ダンス?」「それでもボクはやってない」「舞妓はレディ」など観て来ました。

 今回も期待したのですが、残念ながら外れでした。喜劇は喜劇でも、ドタバタ過ぎて、ストーリー展開も見え見えで、「伏線」の置き方があからさまなので、次の場面がすぐ想像できてしまう。

 …いやあ、ちょっと貶し過ぎですかね?

 今から100年前の活動弁士が大スターとして活躍した時代背景は、うまく描いたとは思いますが、悪役の安田(音尾琢真)がやたらと拳銃をぶっ放して、単なる「作り物」の作品を意識するように見せつけられた感じで、興醒めでした。

 いやあ、やっぱり褒めていませんね(笑)。時代考証に見合った衣装や自動車やポスターやロケでつくった劇場などは随分とお金を掛けているように見受けられました。

 でも、誰とは言いませんけど、俳優さんの中には演技が大袈裟で、ちょっと付いていけないところもありました。引いてしまった、という感じです。

 無駄な場面も多く、その場面を20分ぐらいカットすれば引き締まって、作品の世界だけに没入できたと思います。

「現代用語の基礎知識」が半分になってしまった!

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 今年も「新語・流行語大賞」が発表されました。 既報の通り、今年日本で開催されたワールドカップ・ラグビーの日本代表が掲げた公式テーマ「ONE TEAM」 が大賞に選ばれたことは皆さま御案内の通りです。

 今日はその話ではなく、この大賞を選考している主催者の自由国民社の発行する「現代用語の基礎知識」のこと。本当に腰を抜かすほどビックリしましたね。今年発売の「2020年版」が、前年の半分になってしまっていたのです。

 上の写真の通りです。最初は、2020年版とは知らず、19年版の付録だと思ってしまい、正直、大笑いしてしまいました。

 比較すると、2019年版が、1224ページで、3456円だったのが、2020年版となると、その4分の1ぐらいの280ページで、価格も半分以下の1650円です。

 調べてみると、「現代用語の基礎知識」 が創刊されたのは1948年10月だとか。発行する自由国民社は 昭和3年(1928年)8月5日、初代社長長谷川國雄によって設立された「サラリーマン社」が創業母体。「時局月報」「雑誌サラリーマン」等、反権力のマスコミの一端を担った、などと会社概要に書かれています。へー、そうでしたか。

  私の記憶違いかもしれませんが、かつて、東京・銀座に本社ビルがあったと思いますが、今の本社は高田馬場のようです。

 個人的には仕事の関係で、随分昔に「現代用語の基礎知識」は毎年のように何冊か購入していました。百科事典のようにずっしりと重く、全部読みこなしていたわけでもありませんでした。最近は買うことはありませんでしたが、こんな薄っぺらになってしまったとは、隔世の感があります。

 当然のことながら、人は、用字用語はネットで検索して、それで満足してしまうので、売れなくなったことが原因なのでしょうね。その変わり目のエポックメイキングが今年だとは思いませんでした。「現代用語の基礎知識」のライバルだった「イミダス」(集英社)と「知恵蔵」(朝日新聞社)は、ともに2006年に休刊しています。これまで、よく頑張ってきたとはいえ、 やはり、寂しいですね。

 

沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」を読んで

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 個人的ながら、今年に入って、30年ぶりぐらいに仏教思想の勉強が復活しています。きっかけは、この夏に初めて高野山を参拝し、真言宗の密教とは何なのか、という疑問に目覚めたこと。もう一つは、このブログを通して知遇を得ました京都の西山浄土宗安養寺の村上純一御住職にお目にかかって、日本の浄土思想に共鳴し、こけつまろびつしながら、関連書を読み始めたことです。

 浄土思想に関しては、このブログでもご紹介致しましたが、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に大変感銘を受け、影響も受けました。

 色々と勉強していくと、30年前は理解できなかったことが、その後、荒波の人生を経験したせいか、少しは分かるようになりました。それは「ミッシングリング」を発見したような喜びがあります。若い頃は、般若心経を暗記したことがあり、今でもその前半部を諳んじることができますが、それほど奥深く意味を理解していたわけでもありませんでした。

 それが、勉強を復活させると、「そういうことだったのか」と分かるのです。例えば、般若とは、般若波羅蜜のことでした。そして、波羅蜜とは、菩薩が如来になるため、迷いの世界から悟りの世界へ至る修行のことで、それは六つあり、そのうちの一つである般若は智慧ともいい、物事の本質を見極めることでした。法蔵菩薩はこれら六波羅蜜の修行を経て、阿弥陀如来に正覚したはずです。そういったことが分かると、「般若心経」の理解度が深まります。(残りの五つは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定ですが、どういう意味か、京都・六波羅蜜寺のサイトにある「六波羅蜜とは」を参照してください)

 さて、今、北九州・小倉にお住まいの工藤先生のお薦めで、沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」(河出文庫、2007年9月20日初版)を読んでいますが、目から鱗が落ちるような話ばかりで、また「そういうことだったのかあ」と感心ばかりしています。この本は、新聞や雑誌などに掲載された論考をまとめたもので、1990年9月に弘文堂から出た同名書を底本にしており、古いと言えば、古いですが、ここに書かれた真相と深層は不滅です。

 この本では、日本民族の起源や天皇制から、(今では差別用語ですが)賤民(せんみん)に至るまで、実にさまざまなことが書かれていて、長くなるので、特に感心したことを書いてみます。沖浦氏は、桃山学院大学の学長まで務めた民俗学者ですが、後半生は被差別部落問題の研究に打ち込み、象牙の塔に閉じ籠らず、日本全国だけでなく、インド等までフィールドワークを続けたフットワークの軽い現場主義の学者でした。

 沖浦氏は、ヤマト政権とは、中国東北地方の騎馬民族が3世紀から4世紀にかけて、半島から九州に渡ってきて、アイヌや蝦夷、隼人など長く日本列島に住み着いていた縄文人を征服してできた政権という江上波夫が提唱した「征服王朝説」を取っています。

 ◇カースト制→密教→浄穢思想

 同書の中の「鎮護国家仏教の〈貴・賤〉観ーインドのカースト制と日本の密教」によると、ヤマト王朝は、政権を運営するに当たり、中国の髄・唐に倣って律令制度を取り入れて、世俗の身分を超越した聖なる天皇をいただき、卑しい賤民を最底辺とする「貴・賤」の身分制度を確立したといいます。そして、中世に入ると、インドのカースト制度に倣った「浄・穢」思想を取り入れて、差別観念を助長したといいます。この浄穢思想は、近世になって穢多、非人と呼ばれる被差別者を生み、住む場所や職業まで限定されます。

 この浄穢思想のカースト制度を生み出したのが、仏教よりも古いインド古来のバラモン教です。紀元前15世紀頃、北方から西北インドに侵略してきたアーリア人が、自らを「高貴な人(アーリアン)」と称し、インダス文明を築いた先住民族であるドラビダ人やモンゴル系などを征服して、「敵(ダーサ)」と呼び支配下に置きます。紀元前10世紀頃、アーリア人は、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族・戦士)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(隷属民)というカースト制度の原型を成立させます。この時はまだ、不可触賤民は出てきませんが、バラモンからヴァイシャまでをアーリア人が独占し、先住民らをシュードラに位置付けします。つまり、「制服ー被征服」が、そのまま「差別ー被差別」へ転化したわけなのです。差別とは、征服者側の論理ということになります。バラモン教の聖典「ウパニシャッド」は、紀元前5世紀に成立し、その後に成立した仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教に大きな影響を与えます。沖浦氏はこう書きます。

 (ただし、仏教を開いた)釈迦は、悩み苦しむ多くの衆生とともに生きながら、バラモン教の説く絶対神による救済を否定し、個々人の自覚と行為によって悟りを得ることができると考えた。すなわち、その人の生まれ・種姓とは関係なく、誰でも真理に目覚めれば覚者(ブッダ)になれると、「四姓平等」「万人成仏」の道を明らかにしたのである。

 つまり、釈迦は、カースト制差別の永遠性と合理性を根拠づけようとするバラモン教に対して根底的に批判したわけです。

 しかし、インドではヒンドゥー教が隆盛となり、仏教が衰退する中、仏教は延命策としてヒンドゥー教を取り入れた密教化していきます。曼荼羅の中心には釈迦に代わって大日如来が位置し、沖浦氏によると、大日如来にはバラモン教の大宇宙原理であるブラフマンの影を見ることができ、釈迦以来の仏教の独自の教義をほぼ完全に喪失していったといいます。

 この密教を日本に伝えたのが、9世紀に唐に留学した最澄であり、空海だったわけです。この密教にくっついてきたカースト制度の浄穢思想が、中世の日本社会に大きな影響を及ぼすことになった、というのが沖浦氏の説なのです。

 ◇平等社会を目指した釈迦

 なるほど、身分社会を打破して平等社会を目指した釈迦の革命的思想がよく分かりました。と同時に、これまでの皇族や貴族ら特権階級だけのものだった日本仏教を庶民に開放して浄土宗を開いた法然の功績も思い出しました。沖浦氏は、被差別部落民の95%が、「南無阿弥陀仏」の易行易修を説く浄土宗、浄土真宗、時宗の門徒である、と書いています。(101ページ)

 沖浦氏は、「密教はヒンドゥー教と癒着した」とまで書いてますが、確かに仏教には、毘沙門天(財宝神クベーラ)、吉祥天(ヴィシヌ神の妻)、梵天(バラモン教の最高神ブラフマン)、帝釈天(雷神インドラ)など、インドの神が取り入れられています。

 ◇痛烈な空海批判

 また、沖浦氏は、天皇を美辞麗句で賛美する一方、日本の先住民である蝦夷のことを旃陀羅(せんだら=不可触賤民)で「仏法と国家の大賊」であると断定する空海弘法大師を徹底的に批判します。(116~122ページ)空海がそんなことを書き残していたとは全く知りませんでした。

 日本古来の神道には、ケガレの精神があることから、中世になって急に浄穢思想が日本で隆盛したと私には思えませんが、差別意識は日本の精神風土の底流に流れていて、仏教も側面から援護し、社会からつま弾きにされた被差別部落の人たちが、傀儡(くぐつ)、鉢叩き、説経師から猿楽、田楽、能・狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎に至る芸能や茶筅や皮革などの職人芸を苦悩の末に生み出さざるを得なかった歴史的背景もよく分かりました。

【追記】◎最も重要な大嘗祭(190ページ)

 戦前の「登極令」でいえば、践祚の儀、即位の礼、大嘗祭、改元ー以上四つである。中でも天孫降臨神話に出てくる真床覆衾(まとこおうふすま)によって、新帝への天皇霊の転移が確かめられる秘儀である大嘗祭が、最も重要な皇位継承儀礼となる。これを執り行えなかった新帝は、古くから”半帝”であるとみなされたのである。

四半世紀も経って読む小林恭二著「俳句という愉しみ」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 先月11月29日に投稿した「こんな近くに遠くの楽しさ=吉竹純著『日曜俳句入門』」 のお話を覚えていらっしゃる方はいないと思われますが、その本を、金子兜太の弟子である俳人の会社の後輩に貸したところ、逆に彼から「この本読んでください」と、借りをつくってしまいました。

 それは、小林恭二著「俳句という愉しみ」(岩波新書)という本で、1995年2月20日の初版ですから、もう25年近い昔の本でした。

 以前にも書きましたが、小生は、短詩型に関しては「食わず嫌い」ですからね。あまり、読む気がしなかったのですが、「それじゃあ悪い」と思い直して、読み始めたら止まりません。「めっちゃくちゃ面白かった」と正直に告白します。もう四半世紀も前ですから、登場した俳人の中には鬼籍に入られた方も多いですけどね。

 吉竹氏の「日曜俳句入門」は、どこの結社にも入らなくても、新聞や雑誌に投句して、腕を挙げて掲載される喜びを楽しめ、といった内容でしたが、この本は真逆で、結社というか、句会に参加して、散々、お互いの句を品評し合って、点数まで付けて、楽しみましょ、といった内容でした。

 著者の小林氏はこう書きます。

 …俳句は師系を重視する文芸である。…なんとなれば、俳句は個人が独力で生む文芸というよりは、関係性から生まれる文芸だからである。…俳句は詠む人間と読む人間がいて初めて俳句たりうる。そうした場を共にするというところに師系の意味がある。…俳句が成立するためには、座といういわば横の関係だけでなく、時間という縦の関係もまた必要になってくるのである。…(144ページ)

 なるほど、そういうわけで、俳人は集団になって、徒党を組んで、吟行したり、合評したりするんですね。

 で、この本では、三橋敏雄、藤田湘子、有馬朗人、摂津幸彦といった巨匠ともいうべき俳人8人が句をひねり、合評の面白さを存分なく発揮してくれます。

 やり方については、簡略しますが、お題に沿って各自が句作した後、どなたの句か分からないように清書して、ワイワイ、ガヤガヤと選評し合うのです。最も面白かったのは、散々貶した張本人がその句の作者だったりして、一堂大爆笑。「役者やのお~」といった感じで、小芝居を観ている感じになれます。もっとも、かなり真剣勝負ではありますが。

 座が開かれた東京都下の御岳の「河鹿荘」には、戦前から活躍していた三橋俊雄先生や前衛短歌の騎手でもある岡井隆先生も参加し、短歌と俳句の違いや、「短歌の方が戦争に協力していた」といった時局的な話も盛り込まれていました。

 今さらながらですが、入門書としてはピッタリでしょう。

 ちなみに、この句会で最多得点で優勝したのは大木あまり先生。先日もこのブログに書きましたが、詩人の大木惇夫の三女だそうで、言語感覚が冴え渡りました。

 30年近い昔、彼女とは2度ほど、何にも分からずに、東京・新橋の居酒屋「均一軒」で10人ほど集まった句会でお会いしたことがありました。会社の先輩に誘われたまま、その場で、俳句の基本も分からず、句をつくり、箸にも棒にも掛からなかったことが苦い思い出として残っています。この本が出版される前の話で、あまり先生も今や大家になられたということですが、当時は、何も知らずに接してしまい、大変失礼致しました。

この本では、例の桑原武夫の「第二芸術論」も出てきて、当然のことながら、桑原武夫のことを俳句のハの字も知らない「フランスかぶれの日本人」と断罪しておりましたが、そう言われると、自分にも矢を向けられているようで、冷やっとしました。

 多分、これから、投句したり、句会に参加したりしないと思いますが(ブログを書くのに忙しい!!)、もう、俳句や短歌を「第二芸術」と言いませんから勘弁してください。

清岡智比古、大木あまり、原田マハの3氏

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 「ブログは毎日更新しなければ駄目ですよ」との京洛先生の教えに従って、今日も何かネタがないものか、と自分の渓流斎ブログを開いたところ、異様なアクセス数に驚愕してしまいました。

 普段は1日300アクセスぐらいなのに、本日は何と、2100以上もアクセスがあるではありませんか。何事かと思って、分析したところ、2005年10月8日に書いた「中村哲氏と火野葦平」の記事へのアクセスが集中していることが分かりました。中村氏とは勿論、このほどアフガニスタンで献身的な医療と灌漑活動などをしながら、武装集団に暗殺された中村哲氏のことで、火野葦平は「麦と兵隊」などで知られる芥川賞作家です。二人は甥と伯父の関係だったことを書いています。

 でも、14年2カ月も昔に書いた記事ですからね。本人も書いたことすら忘れています(笑)。恐らく、ニュースで話題になっている中村哲氏のことを検索して、このサイトに行きついたのでしょう。ご愁傷さまでした(笑)。

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 ということで、14年前に倣って、今日も、有名人の意外な縁戚関係を取り上げてみようかと思います。多くの皆さんは御存知のことかと存じますが 単に私が知らなかっただけ、という理由ですのでお許しください。

 政治家と芸能人はまるで世襲のように、親子関係が続いていて、珍しくも何ともないので、割愛します。 いわゆる文化人を取り上げます。

 最近驚いたのは、NHKラジオでフランス語の講座を拝聴しているのですが、その講師を務める清岡智比古・明治大学教授(1958~)。少し変わった名前だな、と思ったら、何と、「アカシヤの大連」で芥川賞を受賞した作家で詩人・評論家の清岡卓行(1922~2006)の御子息だったんですね。智比古氏は、清岡卓行の先妻の子で、卓行は、作家の岩阪恵子氏(1946~)と再婚していました。

 最近、俳句の本を読んでいますが、俳人として今や大御所になっておられる大木あまり先生(1941~)がいらしゃいます。もう25年ぐらい昔、東京・新橋の「均一軒」という居酒屋の2階で行われた句会で1~2回お会いしたことがあります。彼女が詩人の大木惇夫(1895~1977)の御息女だったことを知りませんでした。言語感覚というのは遺伝するんですね。

 もう一人。「楽園のカンヴァス」や「風神雷神」など今や美術を題材にした小説では右に出る者はいないと言われる作家の原田マハ氏(1962~)。彼女は、小説家、エッセイストの原田宗典氏(1959~)の実妹だったとは、つい最近知りました。

 まあ、御存知の方は「そんなことも知らなかったの?」と怒られそうですが、恐らく、この記事も、また14年後にも読まれると期待しながら書きました。

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