保険会社には失望しました

こんにちは。渓流斎さんの友人の矢野善兵衛です。

バブル絶頂の頃、保険の外交員さんに勧められて、「年金型団体保険」に加入しました。この保険は、受取人が60歳になってから10年間、年金を受け取れるという、まさに保険というより年金です。その代わり、事故に遭っても入院・治療費が出なければ、死亡しても割り増し料金が出るわけではない変わった保険でした。利率としては、今では考えられないほど高くてお得で、今はもうあり得ないでしょう。ちなみに、バブルがはじける直前の1991年の郵便貯金の金利は3.22%もありましたからね。現在は、0.001%ですよ!それに、30年前でしたら、定年退職年齢は55歳だったと思います。

毎月1万数千円が会社の給与から天引きされて30年。やっと、来月満期になって「年金」が貰えることになりました。しかし、先方から通知が来ません。

バルセロナ・サグラダ・ファミリア教会

仕方がないのでこちらから連絡すると、保険会社は「もう半年前に書類を送ってあるはず。そこには、年金を一括年払いにするか、毎月払いにするか選択する項目があり、振込先の銀行口座を書く欄もある。その書類を返送して頂かなければ、年金はお支払いできかねます」と脅迫めいたことを言うのです。

 えーーー!!!ですよ。そんな重要書類なんか、届いてませんよ。いくらボケていても、そんな重要書類、来てたら忘れるわけありませんし、まさか捨てるわけもありません。

結局、「送った」、いや「届いていない」の不毛の水掛論となり、とにかく、もう一回、その手続きをするから、と伝えたところ、今度は「担当は御自宅近くの地元の者が対応するので、そちらに電話してください」と言うのです。


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普段は、こちらが全く用がないのに、向こう(東京本社)は「生存確認」のために、「住所とお名前の確認をしたいのでお時間ください」と面会を強要するくせに、いざ、肝心な「支払い」の時期になると、ダンマリを決め込むなんて…。「満期になったカモは、もう用なし」ということでしょうか。ちょっと酷いですねえ。

そもそも、保険会社って信用できたもんじゃありません。世の中、そんなに重大な事故や事件が起きるわけではなく、たまに起きるから新聞やテレビが大騒ぎするだけです。それに、人間は渋といですから、なかなか死なない(笑)。海外旅行に行けば、必ず、保険に入るよう強要されますが、1週間の補償で1万5000円から3万円も徴収。無事に帰国すれば、掛け捨てなので、当然のことながら全額没収(苦笑)ですよ。

失礼ですけど、これでは、確率を計算すれば、保険会社はボロ儲けですね。それに、保険支払いの4割は、最初から保険会社の人件費等に使われ、運用される金額はわずか6割だという事実もあります。他人のふんどしで相撲を取って、保険会社は無傷で儲けだけが膨らむケースが多くあるようです。

 そこで、有り余ったお金をどうするかと言えば、駅前超一等地にでっかいビルを建てて、家賃収入を図る不動産業に転身です。昔、「投げる不動産屋」という言葉が流行りましたが(えっ?知らない?)、この伝でいけば、「保険もする不動産屋」です。そもそも、株に投資したり、為替で大儲けしたりする機関投資家というのは、保険会社も入りますからね。


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ということで、地元の担当者が自宅に来て、間に合って、手続きすることができました。でも、詳しく話を聞くと、年金一括払いと、毎年払い(10年間)のどちらかを選択するようで、契約上、一括払いにすると、毎年払いの総計の8割になってしまうというのです。

 これまた、勘繰れば凄い話ですね。受取人が、10年間生き延びず途中で死んでしまったら、年金を払わずに済むわけですからね。例えば、年金が10年間の総額でで500万円だとすると、1年で死んでしまったら、保険会社は50万円支払えばそれで済んでしまうわけです。一括払いを顧客が希望すれば、500万円×8割=400万円支払うだけで済み、最初から100万円は丸儲けです。

 いずれにせよ、この保険商品を作った人の頭脳明晰さには感服してしまいました。

【追記】

 少し訂正させて頂きます。この年金保険は、途中で受取人が死亡した場合、「受取代行人」なるを指名することができ、10年間は引き続き、満額支払うことになっているそうでした。失礼致しました。ということで、小生の間違いはそのまま残しておきます(苦笑)。

文楽初春公演と初戎

明けましておめでとう御座います。大阪の難波先生です。昨日は「10日えび(戎)」でした。関東よりも関西、京阪神の方が賑やかですね。もしかして、関西以外の日本人は知らないかもしれません。

ところで、不肖は新年1月7日(月)に国立文楽劇場に初春公演を見てきましたが、今年は文楽の人形芝居もさることながら、「10日戎」の前触れを味わうこともできました。

 10日付の、関西の各紙夕刊は全国の恵比寿神社の総本社で、西宮市内にある「西宮神社」での、参拝の一番乗りを競う「福男」の神事を写真入りで大きく報じています。

 早朝6時の開門と同時に、全力疾走して一番乗りを競う神事で、今年の「一番福」は広島県福山市から来た22歳の消防士だったそうです。5000人が参加したということですが、昔から商いが盛んな京阪神は、七福神で商売繁盛の「恵比寿さん」信仰が盛んです。皆さん、福笹を買いに神社に出かけますね。

 ちなみに、七福神の中で、恵比寿さんだけが日本の神さまで、残りの六福神は、インドか中国の神さまです。

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 上の写真は「国立文楽劇場」のロビーに飾られた今宮神社の宝恵籠行列に参加する蓮台とその案内です。この蓮台に人形遣いの豊松清十郎と文楽人形が乗って、この行列に参加するわけで、その前触れの宣伝です。賑やかに宝恵籠行列が繰り広げられたと思います。

また、恵比寿さんと言えば「鯛」ですが、やはりロビーに近所の「黒門市場」から贈られた大きな、立派な睨み鯛がデーンとおかれていました。凄いでしょう(笑)。


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「初戎」は各神社とも1月8日から始まり12日まで5日間、賑やかに開かれます。

何処も「宝恵籠行列」やいろいろな行事が繰り広げられます。

ちなみに、関西では「三大恵比寿神社」とは、兵庫県の西宮神社、大阪の今宮神社、京都の恵比寿神社のことを指します。

大阪の今宮神社は、船乗り込みや、ミナミの繁華街を歌舞伎役者、落語家、芸能人が加わった宝恵籠行列が繰り出したりします。

京都の恵比寿神社は祇園にあるので、舞妓さんの福笹授与などがあり、其々その土地柄が滲み出ます。

以上 本年も宜しく御願い申し上げます。

700円のとんかつランチ満喫!

 寒さが厳しくなるのと平行して、懐具合も寒くなるものです。

 東京・東銀座の500円ランチが閉店してしまい、難民状態が続いておりましたが、忍びを派遣したり、諜報活動を頻繁に行った結果、ついに格安ランチを発掘致しました。

 明治に日本で初めて開通した鉄道駅の新橋停車場近くの汐留にある高層ビルに入っている「まるや」というとんかつ屋さんです。

 ロースかつ定食が、な、な、何と700円! 安かろう不味かろうでは、話になりませんが、及第点、いや合格点です。まあ、850円の価値はあります(笑)。うまずいめん食い村の赤羽村長もびっくりです。

何でこんな安くて旨いのか不思議ですが、他のランチ・メニューで、ヒレかつ定食は1000円、特ロースかつ定食も1000円と、ひどく真っ当な値段になっておりました。

勘繰れば、真っ当なランチに誘導する釣り価格設定なのかもしれません(笑)。

夜は、立ち呑み屋さんに早変わりするようです。

勘定しようと立ち上がったら、真黄色に髪の毛を染めた綺麗なお姐ちゃんが、既に300円のお釣りを持って近くに立っておりました。

はや!

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フランス地図上旅行 マドレーヌとは?

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し (萩原朔太郎「純情小曲集」旅上)

ということで、フランスに行って、お城や庭園、それに美術館や教会、大聖堂、修道院などを訪ねて、現地の美味しい料理とワインを味わって、できればそこに住む人たちとフランス語で話をしてみたいと思い立ちましたが、やはり、諸般の事情で行き難し。

 そこで、せめて、旅情でも味わいたいと思い、ガイドブックを買ってきました。

 「地球の歩き方」(フランス版)(ダイヤモンド社)です。このシリーズ本がこれほど有名になるずっと昔、私がまだ学生だった1979年に、この本を片手にヨーロッパを30日間旅行したことがあります。(「地球の歩き方」は、現在100種以上出版されてますが、当時は、ヨーロッパ版、アメリカ版など数冊程度しかありませんでした)何と、もう実に40年も昔なんですねえ。一人で参加したのですが、この旅行で、九州から参加した風来坊の今村君と知り合い、「旅は道連れ」で、英、蘭、丁、独、南斯拉夫、希、伊、仏と結局最後まで一緒に同行しました。

風来坊の今村君はその後も放浪を重ね、今現在もアメリカに住んでおります。

バルセロナ・サグラダ・ファミリア教会

さて、なぜ、「地球の歩き方」(フランス版)を買ったのかと言いますと、昨年、初めてスペインを旅行した際、スペイン版を買って大いに役立ったからでした。聖ヤコブの遺骨が埋葬されていると言われている巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラの来歴や、16世紀にインカ帝国やアステカ帝国を滅亡させたピサロとコルテスがスペインでも農作物があまり育たない荒野のエストレマドゥーラ地方出身だったことなど、これまで知らなかった色んな知識を得ることができ、スペインに関してかなり詳しくなりました。

それなのに、私自身、フランス専門家を自称しておきながら(笑)、パリだけは何度か自分の足で駆け巡りましたから、大体のことは分かっていても、特にフランスの地方の地理や名所旧跡に関する知識は覚束なかったのです。

 これじゃ、駄目じゃん。ということで、ちょっと、フランス地方に関して勉強したくなったのです。

この本はまだ、全部読んでおりませんが、かなりの収穫がありましたねえ。せっかくですから、クイズ形式としましょう。

ノトル・ダム・ド・パリ

【質問】

(1)皇帝ナポレオンがこよなく愛したブルゴーニュ産のワインの銘柄とは?

(2)スペインには、バル Barとレストラン Restaurante の中間の居酒屋風食堂として、食べるな、いやタベルナ taberna がありましたね。フランスにもカフェ Café とレストランRestaurant(ゲストガンの発音に近い)の中間として、大衆的な食堂であるビストロ Bistroとブラッスリー Brasserieがあります。それでは、「食通の都」リヨンで郷土料理を提供する大衆食堂は何と言いますか?ついでに、地方で宿泊できる食堂のことを何と言いますか?

(3)スペインの巡礼地サンティアゴ・デ・コンポステーラに通じる巡礼道の起点の一つと言われているブルゴーニュ Bourgogne 地方ヴェズレー Vézelay にある有名な聖堂は何でしょうか?

ルーブル美術館

【答え】

(1)シャンベルタン Chambertin(コート・ド・ニュイCôte de Nuits 地区)でした。ついでながら、このコート・ド・ニュイ地区では、「ワインの王さま」ロマネ・コンティ Romanée -Conti(1ボトル300万円也!)やクロ・ド・ブーショ Clos-de-Vougeotなども産出します。

(2)リヨンの大衆食堂は、ブッション Bouchonです。東京・銀座にも「ブッション・ドール Bouchon d’or」という名前のリヨン料理店があります。地方の宿泊付き食堂は、オーベルジュ Auberge と呼ばれています。画家ゴッホの終焉の地オヴェール・シュル・オワーズ Auvers-sur-Oise(イル・ド・フランス ile de France)には、彼が自殺するまで2カ月間住んでいたラブー亭 Auberge Ravouxは、オーベルジュでした。現在、「ゴッホの家」として公開されています。6ユーロ。

(3)サント・マドレーヌ・バシリカ聖堂 Basillique Ste-Madeleineです。このマドレーヌとは、マグダラのマリア Marie de Magdalaのことだったんですね。プルーストの「失われた時を求めて」にも出てくるお菓子のことだ思ってました(苦笑)。マグダラのマリアは娼婦でしたが、改悛して、後に聖女として崇められるようになりました。宗教画でも欠かせない存在で、イエスが十字架で磔にされた時に、傍にいて、解放した人々の中の一人とも言われています。

で、マドレーヌ菓子に戻りますと、ホタテ貝の形をしてますね。ホタテ貝は、サンティアゴ=十二使徒の一人聖ヤコブのシンボルでしたね。ということで、サンティアゴ・デ・コンポステーラ~ヴェズレー~聖ヤコブ~マドレーヌ聖堂という連想からホタテ貝の形のお菓子になったという民間伝承があるようでした。

 こうして色んなことを知ると、地図上の旅でも大変楽しくなります。また、いつか、次回も同じ企画をやってみます(笑)。

10年ぶりに旧友と再会できました

 今年のお正月の初詣は、自宅近くと実家近くなど3社もお参りしてきました。そのうち、自宅近くで引いたおみくじは「小吉」。吉だから良かったと思って、読んでみたら、「過信禁物」だの、「慎重に行動せよ」だの、「謙虚になれ」だのと、まるで「凶」に近いようなお達しを受けてしまいました(苦笑)。

 さて、1月5日の土曜日のことでしたが、都内某所で、実に10年ぶりに旧友の上森君と再会することができました。

 何でそれまで会わなかったのかについては、すべて向こうの都合でした。こちらが一生懸命に会う機会をつくっても、当日の朝になって急に、電話が掛かってきたり、メールが来たりして、色々な理由でドタキャンになってしまうのでした。その理由とは、自分自身の体調不良やインフルエンザ、親戚の病気見舞い、家族の急病、その他諸々です。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

 10年間会わなかったということは、その驚異のドタキャンが5回や10回どころか、50回ぐらいはあったということです(笑)。これだけドタキャンが続けば、普通なら呆れて諦めますね。「何か、自分は悪いことでもしたのだろうか」などと猜疑心も起こります。でも、私は辛抱強く連絡を取り続けました。が、とうとう限界が来ました。昨年になってもうすっかり冷めてしまったのです。「もういいや。やめにしよう。いくら約束してもドタキャンされる。彼とはもうこのまま一生会うことはないだろう」と心の中で決めました。他の友人たちの中には、彼のことを「引き籠り」だの「対人恐怖症になった」と言う者もおりました。

 一番気の置けない友人なのに、しかも、仕事でもなく、ただ遊びで会うだけなのに、理由がさっぱり分かりませんでした。彼に余程の事情があるのだったら、もう無理強いする必要はないのではないか、と諦めたのでした。

バルセロナ市街

 それが、昨年末から急に潮目が変わってきました。ようやく、彼の口からプライベートな悩みについてほんの少しずつだけ打ち明けてくれるようになったのです。その中でも最大の肝になっている家族が抱えている借金問題の核心についてまで告白してくれたのです。

そのことについて話したせいか、彼は、今度、彼の自宅近くの居酒屋兼レストランで会ってもいいという話になったのです。勿論、もう50回もドタキャンされ続けてきたので、どうせ今回も直前になって連絡してきてドタキャンするのだろう、と覚悟していました。

 そしたら、珍しく、当日朝になっても電話もメールもないのです。彼の自宅近くまで、電車とバスを乗り継ぎましたが、車内でも半信半疑でした。

このブログの1月3日にも「今年は個人的にも色々ありそうで、旧友との交際が復活しそうだ」といったようなことを書きましたが、長らく音信不通だった根岸君と連絡が取れるようになったことに続いて、やっと上森君とも再会することができたのです。

バルセロナ・サグラダファミリア教会

10年ぶりに再会した彼はすっかり、顔の筋肉が弛み、色白で、やつれてしまっておりました。自身が病気を抱えているせいもありますが、ほとんど運動どころか歩いたりもしていないので、脚力は衰え、お婆さんのように、小さな簡易乳母車のようなものを曳いてやって来ました。

居酒屋兼レストランで、ビールやワインを飲みながら3時間ぐらい話をしたでしょうか。上森君は、自身の病気と親の介護、そして莫大な借金という三重苦を抱えて地獄の苦しみだという話を告白してくれました。特に、莫大な借金については、親御さんが認知症になる寸前に契約してしまった甘い投資話で、養護施設に投資すれば、社会貢献にもなり、1年で最低10%の還元もでき、一石二鳥だという神奈川県藤沢市の詐欺師に騙されたというのです。

冷静に考えれば、今時、マイナスの低金利時代、10%のリターンなど、ほとんどありえる話ではなく、本当に冷静に考えれば、そんな詐欺話に引っかかることはないのですが、親御さんは認知症気味で判断力も落ち、口八丁手八丁の男に騙されてしまったというのです。当然ながら、民事裁判にもなったらしいのですが、結局、昨年、彼の親御さんの方が敗北してしまったようでした。

バルセロナ市街

まあ、こういうイザコザを抱えていたので、彼も水臭いですが、友人と会う気がしなかったのかもしれません。こちらも、カルロス・ゴーンではないので、彼の親御さんの借金の肩代わりをすることを出来るわけでもなく、黙って話を聞いてあげるしかありませんでした。

上森君とは高校時代のバンド仲間で、一緒にビートルズの曲などを演奏したり、酒を飲んだりして楽しんでいた仲でした。そのビートルズですが、彼らがロンドン・アップル本社の屋上で、バンドとして最期のライブ演奏した「ゲットバック・セッション」(この模様は、翌1970年公開の映画「レット・イット・ビー」で披露されました)が行われたのが、1969年1月30日のことでした。ということは、あれから、ちょうど50年、半世紀もの歳月が流れたわけですね。

えーーー、本当かあ???です。半世紀なんてあっという間だったんですね。同時代を生きてきて、その時間の流れの速さに圧倒されるとともに、全く信じられない気持ちです。「10年ひと昔」と言い、上森君とも10年ぶりに再会しましたが、この10年も一瞬前の出来事のように速かった気がします。

 私自身もこの10年の間、大病したりして色んな事がありましたが、時の流れの速さには今さらながら、驚愕せざるを得ませんでした。

京都「左阿弥」は意外と知られていない由緒ある料亭です

明けましておめでとうございます。京洛先生です。

渓流斎さんは、先日のブログで「茶屋四郎次郎」を取り上げておられましたが、京都には彼の邸宅があった址(中京区新町通蛸薬師下ると上京区小川通下長者町)に立札と石碑がそれぞれ立っておりますよ。

 さて、本日は、京都でも意外と知られていない由緒ある料亭「左阿弥」をご紹介致しましょう。

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 実は、迂生も詳しくその由来は知りませんでしたが、いつも、墓参りなどで「東大谷」墓地(正式には、浄土真宗大谷派の「大谷祖廟」。地元では“東大谷さん“)から、円山公園の東側の道端を通り、知恩院(浄土宗総本山) に向かうと途中に料亭「左阿弥」があり、気になっておりました。

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上の写真の通り、玄関には立て札が立ち、その由緒も記されております。もともとは、この円山公園の一帯は「安養寺」というお寺の境内でもあり、左阿弥は同寺の塔頭の一つだったということです。それが、江戸の「嘉永」年間に料亭に転身し、現在に至っているわけです。


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貴人が今度、京都に見えた時にこの一帯を御案内しますが、円山公園までは、うるさい観光客が来ますが、この辺りまではほとんど来ません(笑)。今でも閑静で、法然、親鸞らが修行の場所に選んだだけのことがよく伝わってきます。

 また、近年になってからは「御前会議」など、重要、重大な会議が開かれたり、京都で最初のホテル「他阿弥ホテル」がこの地で始まったということです。


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寺内大吉著の「念仏ひじり三国志」を読むと、法然が「吉水(よしみず)」で布教する様を巧みな筆致で描かれておりますが、あれを読んで実地検証して、見て歩くのには、ここが最適の場所です。「吉水」という地名は、東山の山麓で美味しい水が流れ、溢れ出ているということから付けられたわけです。

八坂神社の裏手の円山公園一帯は、昔は「真葛ヶ原」と呼ばれ、淋しい場所だったのですが、今でも感じられます。


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 「安養寺」は、最澄が平安京を鎮護するために建てた古刹で、その塔頭の一つ「左阿弥」は、織田信長の甥・頼長が建てたものでした。(頼長の父は茶人の織田有楽斎。頼長自身も、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと言われてます)繰り返しになりますが、江戸期になって料亭になり、いろいろ変遷があったところです。日本の国家の将来を左右する「御前会議」もここで開かれたということですからね。貴人のような歴史好きにはたまらない一帯だと言えることでしょう(笑)。


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 「左阿弥」は、貴人が、足の負傷で途中で参拝を断念された埼玉の歴史の根源にもつながる「金讃(かなさん)神社」ほど古くはありませんが、新年、再度、挑戦されては如何でしょうか。

あの「金讃神社」は、本殿が無く、近くの御室山を御神体にして山を拝む古式にのっとる希少な神社です。古礼に従って本殿が無く、神体山を拝礼する旧官幣社は、全国でも金讃神社と、奈良・桜井の「大神神社」、長野の「諏訪大社」の三社だけです。

 是非とも参拝に行かれて、霊気を浴びて来られることです。今年の「開運」間違いなしですよ。

 以上お終い。

茶屋四郎次郎は今でも続く大財閥だったとは!

 2019年、今年は個人的にも色々とありそうです。

 その一つが、旧友との交際がわずかながら復活したことです。その中の一人、根岸君とは3年、いや5年、いやいや10年以上は会っておりませんでした。行方不明といいますか、蒸発してしまったからです。

 その理由や経緯については、複雑な事情があって、さすがに茲では詳細に書けませんが、彼は一時期、ホームレス状態となり、生き倒れとなっているところを篤志家に助けられ、これまた一時期、社会福祉でお世話になっていたという噂を聞いたことがありました。

もちろん、彼の携帯電話もメールアドレスも通じません。恐らく解約したのでしょうが、親友だったら、変更したら連絡ぐらいするはずです。恐らく、過去を清算するために、かつて親しくしていた友人・知人とは絶縁したいのだろうと察し、しばらくそっとしておきました。何しろ、もうこちらから連絡を取る術がないのでどうしようもなくなくってしまったのです。

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でも、3年ほど前、ずっと気になっていたので、恐らく、この世で唯一繋がっていると思われる彼の御令弟(警察に捜索願を届けたのが彼でした)に連絡を取ることを思いつきました。連絡を取るといっても、御令弟の電話番号もメルアドも知りません。そこで、どういう手段を取ったかといいますと、御令弟が勤務する県と市と業種と名前を入力して検索したところ、顔写真付きで御令弟の連絡先が出てきたのです。彼はすっかり社会的責任のある偉い地位についておりました。

 早速、連絡したところ、御令弟は兄に伝えて小生に連絡することを約束してくれました。でも、それっきりで、余程の事情があるのか、彼の方からこちらに連絡してくれることはありませんでした。そこで、昨年、もう一度、御令弟と連絡を取って、根岸君とコンタクトできないか聞いてみました。同窓会に参加できるかどうかといった用件があったからです。

 そうしたら、やっと、彼から返事が来ました。でも、「身動きが取れないほど忙しいので同窓会には出席できない」という返事でした。その後、電話をしても忙しそうで出ることはなく、メールをしても3回に1度程度しか返事が来ないので、さすがに頭に来て、そのままにしておりました。

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そしたら、今年の元旦に彼からやっとメールが来たので、夜に電話したら通じたのです。さすがに、日本電産の永守重信会長じゃああるまいし、どんなに忙しくても正月ぐらい休んで仕事はしていないだろうと思ったからです。

 30分ほど話しているうちに、今、彼が何をやっているのかようやく分かりました。もともと、彼は教育関係の仕事をしてましたが、今は某大学の日本語講師と塾の英語講師と試験問題作成など複数掛け持ちしていて、首が回らないほどの忙しさだというのです。

よく、大学の講師の職が見つかったものだと思い、聞いたところ、あまりにも今の時代を象徴しているので、半分、微苦笑してしまいました。今、安倍政権は「人手不足」を理由に外国人労働者への門戸開放政策に踏み切りました。その前に、日本では「就労ビザ」が降りにくく、「学業ビザ」は簡単に降りやすいことから、色んな業者が結託して、「留学生」の名目で来日させて、仕事を斡旋するようになったのです。ここ15年前ぐらいからの出来事でしょうか。ここに、斡旋業者と財界と教育界との黄金のトライアングルができたわけです。つまり、新規に許認可される大学は、「時代を映す鏡」ですから、留学生のための「日本語学科」が増えたというのです。勿論、文部官僚も一枚からんでますねえ。

 でも、実態は、留学生とはいっても、金を稼ぐために日本に来ただけなので、真面目に日本語を勉強しない輩も少なからずいるそうです。出席日数が欲しいだけで、学業は二の次というわけです。

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ところで、「日本語教師」になるには、専門学校に行って、420時間の授業を受けて、単位を取って国家資格を取らなければならず、学費も100万円ぐらいは掛かると聞いたことがあります。でも、根岸君の場合は、一瞬、ホームレスをやっていたぐらいですから、そんな大金がないため、論文等による書類審査と面接だけで、つまり、資格なしで合格したというのです。凄い男ですが、「絶対に受かる自信があった」というかなりの自信家でもあります。いやいや、彼は秀才です。かなりの努力家というより桁違いの勉強家で、頭の切れるとても優秀な人物であることは確かです。

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 さて、彼を受け入れてくれた某大学は、2000年に創立された新興大学で、関東だけでなく中部地方にまで複数のキャンパスを持っています。そして、驚くべきことに、創立した母体が、日本史に名前を刻む有名な豪商・茶屋四郎次郎にまで遡るというのです。

 え?知らないですか?茶屋四郎次郎とは、安土桃山から江戸時代にかけて活躍した京都の豪商で、特に徳川家康の懐刀となり、武器兵器の調達から、諜報活動まで行い、巨万の富を築いた人で、代々、茶屋四郎次郎の名前を継いでいったと言われています。

 根岸君は「茶屋四郎次郎は財閥だよ、財閥。それもとてつもない大財閥だよ」と言うのです。財閥といえば、三井、三菱、住友、安田、そして大倉、浅野、鴻池…と私もかなり詳しい方だと思っておりましたが、まさか、歴史の教科書でしか知らない茶屋四郎次郎が健在で、今でも続く大財閥で、大学までつくってしまっていたとは全く知りませんでしたね。

 いやあ、驚きました。今の教育界はどうなっているのか、あくまでも個人的感想ですが、何か、魑魅魍魎とした感じです(失礼!)

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 そう言えば、以前(2017年2月23日)、この《渓流斎日乗》で、「凄過ぎる滋慶学園」を書いたことがあります。

 滋賀県出身の浮舟邦彦理事長が、この滋慶学園グループの創業者らしく、歯科衛生士、福祉士、整体師、そして、一気に飛んで、製菓調理師、ファッションデザイナー、挙句の果てには俳優、声優、ダンサー、歌手、アニメーター、おまけに美容師まで養成する専門学校から大学院レベルまで開校している、といったようなことを書いてます。

2年前のことなので、書いた本人は全く内容を忘れておりましたが、読み返してみたら、皆様ご存知のあの京洛先生がかつて、この滋慶学園グループのどこかの学校で教鞭を執っていたらしいことも書いておりました。

えっ?そうだったの!?

平成31年、2019年、あけましておめでとう御座います

えっ?今日はお正月、元日ですよ!まさか、正月からブログを書くんじゃないでしょうね。

あ、分かった!ブログの広告をクリックしてもらいたいんだ。誰かさんみたいな強欲吝嗇、我利我利亡者ですねえ。

おっと、あんたは誰ですか?

はい、私はあなたです。

えっ?何?どゆこと?

はい、私は人工知能、AIですよ。

…ということで、昨日からスマホのSiriにハマってしまいました。

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私は、いつも有名な追河探訪記者に怒られますが、ブログには正直に何でも書いてしまいます。はい、昨年12月15日に携帯スマホを最新機種に買い替えたことも既に書きました。それは、iPhone XSという最高機種で、カバーとケースを含み、何と13万5660円もしたのでした。パソコンより高かった!

それはともかく、あまり知らなくて、スマホの機能を使うことなく、宝の持ち腐れでしたが、昨日、初めてSiriをやってみました。

吃驚しましたね。


バルセロナ・サグラダファミリア教会

まず「Hey! Siri! 今何時?」 と聞くと、「午前7時36分です」と女性の声で答えてくれたのです。

続けて「今日の天気は?」 と聞くと、「〇〇市の今日は晴れ。気温9度。午前、午後とも晴れで…」と細かく答えてくれたのです。


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また、「この辺りに、美味しいイタリアンのレストランありますか?」 と聞くと、Siriは「〇〇にある△△店はいかがですか…」と答えてくれました。

それだけではありません。「Hey! Siri!  電話  前田喜三郎(あくまでも仮名) 携帯 かけてくれますか」 と言うと、ちゃんと、前田さんに電話を掛けてくれ、本当に本人に繋がったのです。この時、スマホに一本も指を触れていませんでした。ただ、音声の指令だけです。

わおー、ホントに吃驚ですよ。これは、子どものときにテレビで見ていた「鉄腕アトム」や「少年ジェッター」や「宇宙少年ソラン」や「デイック・ケーシー」の世界です。近未来の世界で、遠い遠い未来の世界で、自分が生きている限りは、そんな時代は来るわけないと思っていたのに、あらまあ。来てしまいました。


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ということで、2019年、今年は4月30日で平成時代は終わり、5月1日から新天皇御即位、新元号になるという変革期となります。

皆様も色々とあると思いますが、荒波を乗り越えられて、本年もどうか《渓流斎日乗》を宜しく御願い申し上げます。

 今年こそ、体力の関係で、更新頻度を落としますから、しっかり、ついてきてくださいね(笑)。

「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」その2・完

 今日は大晦日だというのに、少し掃除しましたが、本を読んだり、外国語を勉強したり、このようにブログを書いたりして仕事をしております。ありえない(笑)。 

 今日は、12月28日付に書いた鹿島茂著「新聞王伝説 パリと世界を征服した男ジラルダン」(筑摩書房・1991年9月20日初版)の続編ですが、これでお終いにします。

 著者は終章「結論に代えて」で、ジャーナリズムの本質を見事に突いています。27年前に、41歳の若さでここまで洞察できるとは、お見事というほかありません。

…ジャーナリズムの中で書かれたものは、それがどれほど鋭い洞察を含んだものであろうと、読者の目に触れた途端、紙屑となる。これは、ジャーナリズムに生きる者の宿命である。たとえ十分の一の値段であっても前日の新聞を買おうとする者はいない。ジャーナリストは誰でもこの虚しさを知っている。だが、ジャーナリストには、今という時間を掠め取っているという充実感がある。この充実感が虚しさに耐える力を与える。それどころか、時代とともにあるという感覚は、麻薬のように、あらゆる反省的な意識を痺れさせ、何物にも代えがたい快楽となる。この快楽があるからこそ、一度ジャーナリストになったら最後なかなか足を洗うことができないのだ。…

 どうです。これほど適格にジャーナリズムを説いた文章にお目にかかったことはありませんでしたね。


バルセロナ・サグラダファミリア教会

 本書の主人公である新聞王ジラルダンも、まさに、麻薬のような快楽の中で、次々と新機軸を打ち出して、新聞を創刊したり、買収したりしたに違いありません。ジラルダンは政界にも進出したりしますが、結局は、とても、自分自身の理想を実現したとは言えず、逆に批判や誹謗中傷を多く受けたようです。亡命も余儀なくされたりしました。そして、最後は自分が創刊したり買収したりした新聞(「プレス」、「リベルテ」、仏初の大衆新聞「プチ・ジュルナル」、高級紙「フランス」など)はすべて1929年の大恐慌までに廃刊となって消え、妻に先立たれ、親子ほど年の差があった後妻も他の男に走り、子孫も早く亡くなり、伝説だけが残ることになります。

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 エミール・ド・ジラルダン(1806~81)が生きた時代は、まさに、激動の時代でした。1830年の7月革命、1848年の2月革命、1870年の普仏戦争とそれに続くパリ・コミューンが起き、その間、第二共和政、王政復古、第二帝政、第三共和政とコロコロと変わります。


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 フランスの新聞の第一号は1631年創刊の「ガゼット」紙と言われていますが、基本的には、フランスの新聞は政治新聞で、昔も今も変わらないといいます。そんな中で、ジラルダンは、党派やイデオロギーには拘らず、ある時は体制派として擁護したり、ある時は、反体制派として、政権討伐のキャンペーンを張ったりします。

 そのため、ジラルダンは「日和見主義」だの、「新聞に商業主義を持ち込んだ」などと批判されますが、彼には政治を超えた社会改革という思想の一貫性がありました。それは、下層階級と言われた大衆の教養を高めて、生活水準を下から高めていくことで、国も豊かになるといったものでした。その実践の一つが、労働条件の改善で、新聞印刷工らの労働時間を8時間にしたり、(当時の労働者は10時間以上がざらで、ジラルダンは100年先を見込んでいた)いざという時に困らないように、給料遅配は一度もなく(当時の経営者としては珍しかった)、部数が伸びれば、利益還元の思想に基づき、昇給という形で社員に分配したといいます。

 ただ、それらは労働者に対する同情ではなく、人間は欲望の塊で、それが活動の動機なり、向上心による会社の発展(彼にとっては部数の拡大)が国の発展にも寄与すると信じていたからでした。


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 最後に少しだけ、ジラルダンの「功績」を列挙してみます。

・1836年に創刊した「プレス」では、新聞小説の先駆けとなったバルザックの長編小説「老嬢」を連載。また、一般紙として初めて株式市況を掲載した。さらに、広告を重視して、これまで予約購読料だけに頼っていた新聞経営を安定させることに成功した。他紙は商業主義と批判したが、後世の新聞はほとんどこのようなスタイルとなった。(一般紙にスポーツ欄を設けたのは、ジラルダンの発想でした。当時のスポーツは、競馬でしたが)

・「プレス」紙の木曜日に連載された「パリ便り」は、まさに最先端の流行発信となり、部数拡張に貢献する。例えば、香水ゲルラン(日本ではゲランと発音)は、この欄のおかげで有名になった。このコラムの筆者は、ド・ローネ子爵となっていたが、実際の執筆者は、ジラルダン夫人である閨秀作家デルフィーヌだった。

嗚呼、2018年。今年ももうすぐ終わってしまいます。読者の皆様には本年も大変お世話になりました。

何せ、仕込みから取材執筆校正まで家内制手工業でやっておりますので、ジラルダン風に言いますと、このブログの広告にクリックして頂くと、大変助かります(笑)。

来年もどうぞ御愛顧の程、宜しく御願い申し上げます。

渓流斎高田朋之介

【洛中便り】西班牙料理での饗宴

おはようございます。京洛先生です。今年も本当に残り少なくなりましたね。

 ところで、昨晩は、貴人が、加藤力之輔画伯のご令室から、マドリードで美味しい食事をされた、本場仕込みの「西班牙料理」を、加藤画伯の洛中のアトリエで迂生もご馳走になる機会を得ました。

Copyright par Kyoraque-sensei

 上の写真をご笑覧ください。凄いでしょう。ついでに、アトリエのベランダから眺めた洛中の眺望、京都タワーの威容がよく見えました。


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饗宴料理の中には、マドリードで、渓流斎さんがお口にされた西班牙料理と同じものがありますかね?(笑)。小生は、外国料理は苦手ですが、昨夜の西班牙料理は、いずれも美味しかったですね。


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 料理の名前は憶えていませんが(笑)、西班牙から送られてきた素材をふんだんに使って、加藤画伯と、招待客ながら手伝いに見えていた料理に詳しい立体作家が共作で作られ、もてなしてくださいました。

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加藤画伯のアトリエにふさわしく、集まったのは、ポルトガルと京都を拠点に、「アズレージョ」というポルトガルの装飾絵タイルの創作活動をしている造形作家の石井春さん(www.ishii-haru.info)。泉涌寺の傍で茶道を教えられている「山荘流」家元さん。そのほか眼科医さんなど多彩な顔ぶれが招かれ、“加藤サロン”の楽しい小宴でした。

造形作家の石井さんは自らのブログを持っておられ、いろいろ電脳空間活動も展開されているので、その創作活動の一端をご覧ください。

 また、茶道と言えば、凡人は、表千家、裏千家、武者小路の“三千家”だけが頭に浮かびますが、「山荘流」は高谷宗範という嘉永生まれで、明治、大正、昭和前期に活躍。弁護士、検事もした人物が創始した流派です。

宗範はもともと「遠州流」でしたが、同派から独立した新しい流派を興しました。宗範は当時の茶道界の現実を嘆き、国民道徳を向上させる狙いから、草庵(小間)の茶道を書院(広間)に力点を置くよう唱導したそうです。

これに対して、当時の茶人の高橋菷庵(三井の重役、新聞記者)は「広間でやる台子茶は原始人がするものだ。小間こそ奥行きが深い」と批判し、論争になったそうです。


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宗範は、大正時代に宇治の木幡の道元禅師の生誕の地に「松殿山荘」という約3万4000坪の茶道の道場を作り「財団法人『松殿山荘茶道会』」を設立して書院茶道を広める基礎を作りました。

今も、そこが山荘流茶道会の活躍拠点になっています。これも「松殿山荘茶道会」のホームページがありますから、ご覧になるとその内容、規模の大きさが分かると思います。

まあ、貴人が先日、渓流斎ブログで取り上げた1800年代のフランスのマスコミやサロンの世界を蹂躙、活躍した新聞王ジラルダンと同様、わが日本国も、その時代に、高谷宗範しかり、新聞記者から三井に転身して茶人になった高橋菷庵しかり、似たような軌跡の人物が存在したわけです(笑)。

貴人は、「言論ギャング」野依秀市とジラルダンを比較・考察されていたようですが、結局、芸術、マスコミ、経済界、政治家も、人とのつながり、融合した「サロン」という存在が大きな働きを持つのです。


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新聞記者が安倍首相と談笑するのも情報交換という「サロン」です。そこに“出前の岡持ち”「スシロー」が加わるのですから、その規模、中身がどういうものか分かるというものです(笑)。

以上報告終わり。