日本人の顔の個性がなくなった?=日本一高い?ハンバーガーを食べながら

 先日は、宇宙や物理や星座関連の書籍をいっぱい買い込んで、思い切って「理科人間になります」と宣言致しました。 

 でも、もしかしたら、手遅れだったかもしれませんね(苦笑)。色々と、専門用語が頭に入っても、なかなか覚えられないのです。目下、永田美絵著「星座図鑑」(成美堂出版)を読んでいまして、「夏の大三角形とは、デネブ(白鳥座)、ベガ(琴座)、アルタイル(鷲座)のこと」「冬の大三角形とは、ベテルギウス(オリオン座)、シリウス(おおいぬ座)、プロキオン(こいぬ座)のこと」などと書かれていてもすぐ忘れてしまうのです。駄目ですねえ。あと100回、呪文を唱えるように記憶に定着させれば、覚えられるでしょうけど、なかなかページが進みません。

 もし、子どもの時だったら、2回ぐらい繰り返して読めば、すぐ覚えられていたことでしょう。でも、まあ、考えてみれば、老人になっても、まだ只管、子どものように勉強している人なんて私ぐらいです(笑)。まず、世の中にはいませんからね。もしかして、100万人に1人ぐらい、いるでしょうか。そんなことを言って、自分自身を慰めています。

 ということで、ブログもなかなか書けず、本日は、学術的なお話はお休みして、いつもながらのランチの話でお茶を濁すことに致します(笑)。

 本日4日付の東京新聞朝刊を読んでいたら、「比べてみたら」のコーナーで、「日本生まれのハンバーガーチェーン店」を取り上げていました。「和食の味を取り入れ」たモスバーガー(1972年、東京・成増駅近くで開業)、「牛肉にこだわり」のフレッシュネスバーガー(1992年、東京・渋谷区で誕生)、「国内最古チェーン店」のドムドムハンバーガー(1970年、東京・町田市で開業)の3チェーン店です。私が行ったことがある店は、モスバーガーだけで、他の2店は知りませんでした。でも、記事を読んでいるうちに、本日はどうしてもハンバーガーが食べたくなってしまいました。(東京新聞の影響力は絶大です。以前も掲載されていた八丁堀の蕎麦屋に走って行ったことがありました。)

 3店を検索してみたら、銀座にあるのはドムドムハンバーガーだけでした。でも、本日行くことにしたのは、いつも店前を何度も何度も通ったことがある新富町の「ブラザーズ」という豪州発のグルメバーガー店です。日本進出は2000年(日本橋人形町店)で、新富町店は2012年に出来たようです。

新富町「Brozers’」 チーズバーガー1595円、ジンジャーエール275円=1870円

 何と言っても、この店、異様に高いのです。もうしばらく行っておりませんが、世界一のバーガーチェーン店のビッグマックは450円ぐらいです。それが、この「ブラザーズ」ではランチで安くてもハンバーガーは1320円もするのです。こりゃあ、清水の舞台から飛び降りる覚悟でなければ、入店出来ません。

 本日は、東京新聞の呪文もあり、思い切って、スッと入店しました。M店のようにカウンターの前に順番に並ぶのかと思ったら、テーブル席に案内してくれて、若い男性が接客してくれました。

結論を先に書きますと、目の玉が飛び出るほど驚くほど美味しいバーガーかと思いましたが、それほどまでの驚きはありませんでした。かといって、M店に入るような気分とはまるっきり違って、かなり贅沢な気分だけは味わえました。やっぱりお肉が全く違うんでしょうね。何しろ、チーズバーガーとジンジャーエールを注文しただけで1870円でした。私がこれまでの人生で食した「最強のハンバーガー」でした。

 周囲を見ると、やはり、M店に来るようなオーディナリー・ピープルではなく、富裕層とはいかなくても、小金持ちといった感じのお客さんばかりでした。若い人が多かったのですが、こういう高級店に入れるのは、やはりお金持ちのボンボンかお嬢様、それに外国人観光客ぐらいでしょう。私の後から、身なりの良い、薄いサングラスをかけた若い男性3人組が入店しましたが、その顔立ちから、てっきり、韓国人か香港人か台湾人か、もしくはタイかインドネシア人(の観光客)かと思っていたら、流暢な日本語を話し始めたので、吃驚しました。同じエイジアンではありますが、最近の若い日本人は、ますます、区別が付かなくなりました。

 2022年の1人当たりのGDPで、日本は同じアジアのシンガポール(6位)に抜かれ、香港(20位)に抜かれ、目下、世界30位です。今年か、来年にも台湾(32位)や韓国(33位)に抜かれるのではないか、とも言われ、日本がアジアの中で埋没していくのと比例して、経済力も、個性も、影響力も低下していったことは否めないことでしょう。(世界第2位の経済大国である中国の台頭が言うまでもなく。)

 誤解を恐れずに言えば、日本人の若者の顔立ちが、他のアジア人に似てきて、その中に埋没していったのも、その影響力の低下の表れなのかもしれません。

物理学、相対性理論、宇宙論、星座関連本を購入=おらあ、理科人間になるだあ

 ありゃまあ、もう7月ですかあ。今年も半分も過ぎてしまいました。まあ、何とまあ。。。

 あまりボヤボヤしていられませんので、本当に久しぶりに大型老舗書店に行って参りました。やはり、本を買うには、ちゃんと書店に足を運ぶのが一番です。それに、全く買うつもりがないのに、「偶然の産物」で見つけた本を買ってしまう楽しみがあります。ネット通販だと、最初から買うものが決まっていて、ピンポイントで購入するのは便利でしょうが、偶然の産物にありつけることはありません。それに、書店に同じような類書があると、自分にとって何が一番合うのか、手に取って確かめることが出来ますからね。

 私はもういい年なのですが、年を取っても、何歳になっても「変身願望」があります。私自身は、高校生以来文系で、歴史や文学、哲学、宗教学、絵画彫刻、寺社仏閣、お城、音楽等に興味があり、その筋の本ばかり読んで来ました。逆に言えば、数学や科学などの理系の勉強は疎かにして来たわけです。そこで、変身願望というのは、いい年こいて「理系人間になりたい」という願望だったのです。ズバリ、

  おらあ、理科人間になるだあ

 作戦です。人間、幾つになっても、努力次第で変わることが出来るというのが私の信念です。

 ついでながら、私自身の性格は、いつも不安と不満に苛まれ、苦悩の塊みたいなものです。そのため、若い頃からずっと宗教や哲学に救いを求めて来ました。しかし、宗教や哲学では、一時的に気が楽になっても、相も変わらず、苦しみや悩みは消えません。根本的には「われわれは何処から来て、何処へ行くのか?」というアポリア(難問)があります。

 そこで、人間とは何か、科学的に検証する人類学や進化生物学等の本に触れると、目から鱗が落ちるかのように、腑に落ちてきます。はっきり言ってしまえば、所詮、人間とは遺伝と環境と偶然の産物だということです。例えば、ろくに仕事をしようともせず、他者を陥れることしか考えない人間を、いくら責めても始まりません。相手は、どうせ悪党の遺伝子を受け継いでいるだけなので、治りようがありません。悔悟心も自責の念も罪悪感も全くありませんからね。

 ところで、進化生物学者が説くところによると、あらゆる悩みは、人間として生を受けたからだといいます。人間というものは、良心的人間なら、最初から悩むように、苦しむように、迷うように生まれついているというわけです。

 個人的ながら、こういったことを知ると、宗教哲学よりも、理系思考の方が救われるようになり、だんだん、理系人間になりたいと、思うようになったわけです。

おらあ、理科人間になるだあ

 大型老舗書店に足を運んだのも、もう一度、理数系の勉強をやり直そうかと思ったからでした。まず、最初に手に取ったのは、ニュートン別冊「学びなおし 中学・高校物理」(ニュートンプレス、1980円)です。人間の悩みの90%は、人間関係です。だから、もう嫌な人間と関わるのは懲り懲りですよ(笑)。別に世間に背を向けるつもりもありませんが、そんな人間どもの気まぐれを相手にするより、自然界はどんな力学が働いて動いているのか基礎知識を学ぶ方が魅力的です。中学、高校時代は物理の勉強はさぼってしまいましたから、やり直しです。(振り返ると、「組み合わせ滑車」の計算が全く出来なかったことがきっかけで、物理が嫌いになり、落ちこぼれてしまいました。)

 その次に手に取ったのが、またニュートン別冊「相対性理論」(ニュートンプレス、1980円)です。人間として生まれてきたからには、相対性理論を知らずに死ねるか、といった気持ちです。アインシュタインは、文学、哲学でいえば、ドストエフスキーやカントみたいなもので、音楽でいえば、バッハやモーツァルトやベートーヴェンみたいなもので、相対性理論は人類にとって必修でしょう。

 その後、書棚を見回すと、やたらに目立って多かったのが、「宇宙のおわり」の書です。「宇宙のはじまり」の本もありましたが、「おわり」はその3倍ぐらいの量です。そこで、当初は全く買うつもりはなかったのに、またまたニュートン別冊の「宇宙の終わり 誕生から終焉までのビッグヒストリー」(ニュートンプレス、1980円)も購入することにしました。そこには、宇宙に誕生があるように、宇宙にも終焉があるといったことが書かれていました。宇宙誕生138億年、地球誕生46億年ですが、20億年後、太陽は1.2倍の明るさとなり、地球は灼熱の大地となり生物は死滅するといったことも書かれていました。人類も、その前に絶滅していることでしょう。極貧に喘いで不幸な孤独の人生を歩んだ人間も、最高権力を手にして大豪邸で何不自由のない裕福な生活を送った人間も等しく滅び、その遺産も遺跡も跡形もなく消えるわけです。そう思えば、何を悩むことがあるのでしょうか?

築地「かつ平」ヒレカツ定食1200円 池波正太郎がこよなく愛した店 銀座、築地界隈で一番美味しいかも

 忘れるところでした。大型老舗書店に足を運んだのは、「星座」関係の本を買うためでもあったのでした。ネット通販で、星座関係の本を検索すると、星占いの本ばかり出てきて、自分が探し求めているものとは全く違いました。私が欲しかったのは、夜空の星座の観測も出来る手引きとなり、その星座の由来やエピソードも書かれた一般向けの書籍でした。書店には、それに該当する星座関係の本は「天文年鑑」も含めて10冊以上ありましたが、ちょっと、ペラペラと読み比べて、これだという1冊が見つかりました。永田美絵著、八坂康磨写真「星空図鑑」(成美堂出版、1100円)です。早速、7月7日の七夕の織姫星は、こと座のベガ、彦星は、わし座のアルタイルだということを教えてもらいました。星座観測が楽しみになりました。

 この4冊で、7040円。ちょっと高い買い物をしてしまったかな、と思いつつ、これから少しずつ読んで、勉強していきます。

 おらあ、理科人間になるだあ

「歴史は繰り返す」のか、「霊が霊を呼ぶ」のか?=倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」

 倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」(SB新書、2021年8月15日初版)なる本が、小生の書斎で、どういうわけか見放されて積読状態になっていたのを発見し、読んでおります(もうすぐ読了します)。

 これが、実に、実に面白い。どうして、積読で忘れ去られていたのかしら? 思い起こせば、この本は、確か、月刊誌「歴史人」読者プレゼントの当選品だったのです! 駄目ですねえ。身銭を切って買った本を優先して読んでいたら後回しになってしまいました。

 この本、繰り返しますが、本当に面白いです。かつての定説を覆してくれるからです。一つだけ、例を挙げますと、長南政義氏が執筆した「新説 日露戦争」です。日露戦争史といえば、これまで、谷寿夫著「機密 日露戦史」という史料を用いた研究が主でした。この本は、第三軍司令官乃木希典に批判的だった長岡外史の史料を使って書かれたので、当然、乃木将軍に関しては批判的です。しかし、その後、第三軍関係者の日記などが発見され、研究が進み、乃木希典に対する評価も(良い方向に)変化したというのです。

 有名な司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」も、谷寿夫の「機密 日露戦史」を基づいて書かれたので、乃木大将に対しては批判的です。旅順攻囲戦でも、「馬鹿の一つ覚えのような戦法で」無謀な肉弾戦を何度も繰り返した、と描かれ、「坂の上の雲」を読んだ私も、乃木将軍に対しては「無能」のレッテルを貼ってしまったほどです。

 しかし、そうではなく、近年の研究では、第三軍は、攻撃失敗の度にその失敗の教訓を適切に学び、戦略を変えて、次の攻撃方法を改良していったことが明らかになったというのです。また、第三軍が第一回総攻撃を東北正面からにしたのは、決して無謀ではなく、「極めて妥当だった」と、この「新説 日露戦争」の執筆者・長南政義氏は評価しているのです。

 また、勝負の分かれ目となった二〇三高地を、大本営と海軍の要請によって、攻撃目標に変更したのは、「司馬遼太郎の小説「殉死」の影響で、児玉源太郎が下したという印象が強いかもしれませんが、実際に決断したのは乃木希典でした。」と長南政義氏は、やんわりと「司馬史観」を否定しています。他にも司馬批判めいた箇所があり、あくまでも、小説は物語であり、フィクションであり、お話に過ぎず、実際の歴史とは違いますよ、といった達観した大人の態度でした。「講釈師、見て来たよう嘘を言う」との格言がある通り、所詮、小説と歴史は同じ舞台では闘えませんからね。

 でも、神格化された司馬先生もこの本では形無しでした。

大聖寺 copyright par TY

 ところで、日本史上、もし、たった一つだけ、代表的な合戦を選ぶとしたら、1600年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」が一番多いのではないかと思います。それでは、日本史上最大の事件を選ぶとすれば、殆どの人は悩みますが、少なくともベストスリー以内に「本能寺の変」が入ると私は勝手に思っています。本能寺の変の後、明智光秀は、中国大返しの羽柴秀吉による速攻で、「山崎の戦い」(1582年)で敗れ、いわゆる「三日天下」で滅亡します。

 関ケ原の戦いが行われたのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、古代から関所が設けられた要所で、ここを境に東を関東、西を関西と称するようになりました。古代では不破道(ふわのみち)と呼ばれていました。そして、山崎の戦いが行われたのは、天王山の麓で、現在の京都府乙訓郡大山崎町です。古代は山前(やまさき)と呼ばれていました。

 この関ケ原と山崎、古代では不破道と山前ー何が言いたいのかといいますと、倉本一宏氏が執筆した「新説 壬申の乱」を読むと、吃驚です。この不破道と山前が壬申の乱(672年)の重要な舞台になった所だったのです。不破道は、大海人皇子(後の天武天皇)が封鎖を命じて、壬申の乱の戦いを優位に進める端緒となりました。そして、山前は、壬申の乱で敗れた大友皇子が自害した場所だったのです。

 何で同じような場所で合戦やら事件が起きるのか?ー「歴史は繰り返す」と言うべきなのか、怖い話、「霊が霊を呼ぶ」のか、何とも言えない因縁を感じましたね。

浅草物語=Aさんと10年ぶりの再会

 25日(日)は、久しぶりに浅草に行って来ました。友人のAさんと10年ぶりぐらいに会うためでした。

 Aさんは日本人ですが、もう長らくフランスに住んでおり、何年に1度か帰国する程度で、今回、久しぶりにタイミングが合ったので、渡仏する前日にお会いすることにしたのです。

浅草寺 雷門

 Aさんとは老舗蕎麦屋で待ち合わせしましたが、時間があったので、一人で観音様にお参りすることにしました。

浅草寺

 日曜日なので、凄い人出でした。でも、ほとんどが外国人観光客という感じでした。コロナの第9波が始まったという報道もありましたが、彼らは、もうほとんどマスクもせずに満喫しておられました。

浅草寺

 でも、考えてみれば、外国人観光客が東京見物するとすれば、浅草ぐらいしかないんですよね。奈良や京都のように広大な敷地を持つ寺社仏閣が東京にはほとんどありませんからね。

 私も以前、外国人観光客のツアーガイドをしたことがありますが、やはり、浅草と秋葉原と銀座ぐらいでした。あとは原宿の明治神宮ぐらいでしょうか。

 だから、浅草に人が殺到するのでしょう。本堂の参拝所の前は、ほとんどが外国人観光客で、かなりの行列でしたので、参拝は諦めて、目的地に向かいました。

浅草 そば処「弁天」天せいろ 1980円

 目的地のそば処「弁天」は昭和25年創業で、江戸時代から続く店もある浅草の中では、それほど老舗ではありませんが、もう70年以上続いています。グルメ雑誌「dancyu」で紹介されていたので、3週間も前に予約を取っておきました。

 天せいろに板わさ、それにビールと日本酒を注文しました。さすがdancyuお勧めとあって、蕎麦の旨味、カラット揚がった天婦羅との相性が抜群で、その美味に舌鼓を打ちました。

 久し振りの再会で、積もる話もあり、調子に乗って呑んでいたら、店の主人が不機嫌そうな顔をして「ここは2時間で制限してます」と言うではありませんか。こちらもそのつもりでしたが、まだ!1時間半しか経っていません。我々も気分を悪くして、勘定を済ませる時に、私が「まだ1時間半でしたよ」と嫌味を言ったら、向こうは「本当は日曜日の予約を取っていないんですよ」と反発するではありませんか! それなら最初から、電話で予約を受けた際に「日曜日は予約受け付けていない」と言えばいいじゃないか! 味は「日本一」で、最高だけど、もう二度とこの店の暖簾をくぐるものか、と思いましたね。(※あくまでも個人の感想です。鬼平ファンのAさんのために、せっかく日本酒と蕎麦の組み合わせで蕎麦屋さんにしたのに残念でした。)

浅草「神谷バー」デンキブラン 350円

 このまま別れるつもりでしたが、気分直しに有名な「神谷バー」に行こうと提案したら、Aさんも「私も行きたかった店です」と言うではありませんか。凄い偶然。その前に、通りすがりにビジネスホテルがあったので、私が当てずっぽうに「(前泊するのは)ここのホテルでしょ?」と聞いたら、ズバリでした。偶然の一致が続きました(やはり、人生とは偶然の産物でした=笑)。

 Aさんは大変慎み深い人で、あまりネットに書かれることは好まれないので、細かい事は省略させて頂きますが、パリ郊外の某大学で、日本語と日本文化の教鞭を執っておられる方です。久しぶりにお会いして、話は脈絡がないほど多岐に渡りましたが、超エリート教育を進めるフランスのグランゼコールの話などを伺いました。

 神谷バー名物のデンキブランは2杯で打ち止めにして帰宅しました。昨年は40度の焼酎で泥酔して帰りは傷だらけとなり、今でもその傷跡が残るぐらいですから、さすがに自重しました(笑)。

フランスとシリアとレバノン

 6月23日(金)は、東京・恵比寿の日仏会館で開催された黒木英充氏による講演会「フランスとシリア・レバノンー幾重にもアンビバレントな関係」を聴きに遠路遥々、わざわざ会場にまで足を運びました。(参加者は、定員の3分の1の50人ほど)

 そしたら、怖い顔をした司会者が「写真を撮るな」「録音、録画は絶対するな」とうるさく上から目線で高飛車に言ってきたので、不愉快になり、ブログに書くのはやめようかと思いました。(ちなみに、おらあ、写真も撮らず、録音も録画もしてねえだ)

 しかし、ロシアのプリゴジンによる勇気ある反乱を見聞してからは、「何をビビってるんだ? 老い先短いくせに、格好付けるんじゃないよ!」という反骨精神が頭をもたげてきたので、前言を撤回して書くことにしました。

写真はこんなもんしか載せられない。日仏会館の目と鼻の先にある恵比寿「ちょろり」 ラーメン650円

 「書く」とは言っても、話の内容が複雑過ぎて、ほとんど持論ばかり展開すると思います。講師の黒木氏は、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(私が学生の頃はAA研と呼ばれていました)教授などを務め、シリア・レバノンに関しては「日本の第一人者」との紹介がありました。何しろ、彼が今年3月にレバノンに行った際、パスポートを確認したら、これが「108回目」のレバノン渡航だと分かったといいます。私は、シリアもレバノンも中東もアフリカも一度も行ったことがないので、ぶっ魂げました。

 今でもあちこちで紛争が続く中東ですから、根底には宗教問題と民族対立があり、一筋縄ではいきません。同じイスラム教でもほとんど敵対しているスンニー派(サウジ、エジプトなど)とシーア派(イランなど)があり、キリスト教でも、カトリック(ローマ)と東方正教会(ロシア、ギリシャ、シリアなど)が対立しながら存続しています。いくら日本の第一人者といっても、わずか1時間半超で、この複雑な宗教・民族紛争を素人にも分かりやすく指南することは、まさに指南、いや至難の業です。

 恐らく、日本人の多くはシリアにもレバノンにも行ったこともなく、ということは一生に一度もシリア人やレバノン人に会ったことはなく、区別もつかないと思います。私もそうです。が、私自身の管見によれば、第一次大戦で負けたオスマン・トルコ帝国の中東アラビアの領土を、英国が南半分、フランスが北半分を分捕って、植民地化、正確に言えば、委任統治した結果が現代の姿だと言えると思います。つまり、大国同士で、勝手に線引きして国境を決めたということです。地中海沿岸の中東の「フランス領」だけに話を絞ると、民族的には同じアラブ人でしたが、フランスの統治者は、特にキリスト教徒が多く住んでいる所(鳥取県ぐらいの広さ)を切り取ってレバノン国とし、残りの大半をシリア国にしたと思われます。

 ですから、シリアもレバノンもアラブ系で、公用語も同じアラビア語を使いますから、区別がつかないと思われます。ただし、シリアではイスラム教徒(スンニー派74%、シーア派13%)が87%を占め、レバノンではキリスト教マロン派が大半を占めているので、服装や食習慣の違いはあり、それで区別がつくかもしれません。

 今、私は「レバノンではキリスト教マロン派が大半を占めている」と具体的な数字を書きませんでしたが、それには理由があります。黒木教授によると、仏委任統治時代の1932年のレバノンには、キリスト教徒が50.0%、イスラム教徒(スンニー派22.4%、シーア派19.6%)が48.8%を占めていましたが、それ以降、90年間も国勢調査をしていないといいます。もし、調査を実施したら必ず政治問題化して紛争が起きるからだといいます。そこで、今のレバノンは、大統領がキリスト教マロン派、首相がイスラム教スンニー派、国会議長がイスラム教シーア派のそれぞれ出身者に取り決めているといいます。

恵比寿「ちょろり」餃子550円 「ラーメンと餃子」という庶民料理が1200円かあ。。。

 私は先に、シリア、レバノンの建国は、第一次世界大戦でのオスマン帝国敗退の混乱に乗じたもの、といったことを書きましたが、実は欧州人が中東を襲ったのは、20世紀が初めてじゃなかったのです。中世の十字軍があったのです。これは、11世紀末から13世紀末にかけて、キリスト教徒が特にイスラム教徒に占拠されたエルサレムの聖地回復を目指して、7回に渡って(8回という説も)軍隊を組織して遠征したことです。最終的にはイスラム勢力の反撃によって遠征は失敗しますが、その間に欧州側は中東にエデッサ伯国やエルサレム王国やアンティオキア公国など「十字軍国家」を建国していたのです。特に、エデッサ伯国を建国したボードワン1世は、十字軍の指揮官だったフランドル伯ボードワンでフランス人でした。その家臣や遠征軍の多くはそのまま土着した者も多く、地元民と混血したりして、中東にはトルコ人、アラブ人、ユダヤ人、アルメニア人だけでなく、欧州人の血も入っているということになります。

 そう言えば、レバノン系で日本人にとって、最も有名な人物はあのカルロス・ゴーンで決まりでしょうが、ハリウッド映画スターのキアヌ・リーブスもそうでした。(レバノンの首都ベイルートは、内戦前までは「中東のパリ」と呼ばれていました)

 シリアの面積は日本の面積の半分ほどの18万5000平方キロメートルですが、人口(2130万人)は地中海沿岸に集中し、内陸部は砂漠というか土漠で作物が育たず、ほとんど人が住んでいないことを黒木教授から教えられました。同じようにシナイ半島もほとんど人が住んでいない(というより住めない?)と聞いて、「へ~」と思ってしまいました。

 講演会では司会者が怖かったので、質問も出来ませんでしたが、後から、「そう言えば、シリア内戦は、アサド大統領側にはロシアがテコ入れしていたはず。ウクライナ戦争の影響でロシアによる支援が止まり、シリア内戦は今どのような状況なのか、質問すればよかった」と思いました。後の祭りでした。

 

「最新研究でここまでわかった! 縄文と弥生」保存版特集=「歴史人」7月号

 「歴史人」7月号(ABCアーク)の「最新研究でここまでわかった! 縄文と弥生」保存版特集は、確かに、古い世代の人間にとっては「新発見」ばかりでした。

 なぜなら、私のような1970年代で学業を修了してしまったロートル世代にとって、古代遺跡として習ったのは、登呂遺跡(静岡県、1943年発見)ぐらいですからね(笑)。世界遺産に登録された巨大縄文集落、三内丸山遺跡が本格的に発掘調査が開始されたのは1992年、日本で一番有名な弥生遺跡である吉野ケ里遺跡の発掘調査が開始されたのは1986年のことですから無理もありません。教科書に載るわけが御座いません。

 しかも、現在、国宝に指定されている土偶のほとんどが1980年代以降に発掘されたものばかりです。例えば、棚畑遺跡(長野県茅野市)の「縄文のビーナス」は1986年、風張1遺跡(青森県八戸市)の「合掌土偶」は1989年、西ノ前遺跡(山形県最上郡)の「縄文の女神」は1992年、中ツ原遺跡(長野県茅野市)の「仮面の女神」は2000年にそれぞれ発掘されているのです。縄文文化については、岡本太郎さんが特別な関心を持って注目しておりましたが、土偶ブームになったのは1990年以降のことではないでしょうか。

 1970年代の古代知識では、全くお呼びでない、ということですね(苦笑)

 また、近代、年代測定技術が飛躍的に向上し、遺跡から出土した貝殻や獣骨などに含まれる放射性炭素14Cを測定すると、これまで縄文時代は1万2000年前に開始されたといわれておりましたが、実は1万5000年前に始まり、2400年前まで続いていたことが分かったといいます。つまり、縄文時代は1万2600年間続き、世界史的にもこれほど長い時代区分は存在しないというのです。これは驚きです。

 しかも、稲作は弥生時代になって初めて大陸から齎されたことになっていましたが、実は、縄文時代後期に既に稲作が伝わっていた、というのが新説です。

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 弥生時代の時代区分はいまだ確定していないものの、これまでの定説を500年遡り、紀元前10世紀に始まり、紀元3世紀まで続いたといいます。(それ以降から古墳時代が始まります)

 弥生時代ともなりますと、貧富や社会格差が出て来たほか、他の集落からの略奪などもあり、敵から身を守るために、集落に壕をめぐらしたり、物見櫓を建てたりしているので、もう環濠集落は、お城みたいなもんです。

 また、吉野ケ里遺跡からは、前漢と後漢との間に王莽が打ち立てた新朝(紀元8~23年)の貨幣「貨泉」が出土したといいますから、かなり大陸との交流があったということになります。まだまだ、知らなかったことがいっぱいあり、勉強になりました。

 実は、この本を買ったのは、特別付録として「土偶シール」が付いていたからでした。何処に貼っ付けようかなあ。。。

ホットドッグ屋から国防次官ポストを目指す野心家=ワグネル創設者プリゴジンとは?

本日(6月25日)の朝刊各紙は、ロシアの民間軍事組織「ワグネル」が、あわやモスクワに進軍するのではないか、ということでプーチン大統領が、反乱軍として投降を呼びかける演説をしたことが1面になっていました。その後、ワグネルはモスクワに侵攻することなく、ベラルーシ方面に向かったという続報が出たので、内戦まで発展せず、万事休すです。

 それにしても、よくテレビで、強面の顔でロシア国防軍を厳しい表情で常に非難して登場するこのワグネルの創設者プリゴジンさんとやら、一体、どんな経歴の持ち主なのか? 日本の新聞では、単なる「実業家」だの「プーチン大統領に近い人物」程度の情報しか書いておらず、いかなる人物なのか、さっぱり分からなかったのですが、たまたま読んだ英高級紙ガーディアンにプリゴジン氏の人となりについて、かなり詳細に報道されていました。

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 そのガーディアンの6月24日付の長文記事(電子版)は「エフゲニー・プリゴジン Yevgeny Prigozhin ホットドッグ売りからプーチンの戦争マシーンのトップに躍り出た男」(意訳)というタイトルでした。

 それによると、プリゴジンは1961年、旧ソ連時代のレニングラード生まれ。父親を幼くして亡くし、病院勤務の母親に育てられたといいます。スポーツ学校でスキーのクロスカントリーなどに励みましたが、プロのスポーツ選手になることはなく卒業。しかし、悪友3人と路上強盗を何度も働いて逮捕され、1980年3月の18歳の時に懲役13年の実刑判決を受けたといいます。ブレジネフ書記長の死もゴルバチョフのペレストロイカも知らないまま、10年後の1990年に出所したプリゴジンは、レニングラードからサンクトペテルブルクと名前を変えた地元でホットドッグ屋を始めます。これが月に1000ドルも売り上げるほど大ヒットし、野心のあるプリゴジンは、スーパーマーケットの株を買って大儲けし、これを元にレストランを開業します。「オールド・カスタムズ・ハウス」と名付けた店で、パートナーは、ロンドンのサヴォイ・ホテル出身で、サンクトペテルブルクの高級ホテルで働いていたトニー・ギアという男でした。このギアの才覚で、ストリッパーが出演する風俗レストランから高級食材を使った超高級レストランに転換すると、グルメのポップスターやビジネスマンらに大評判の人気店となり、ついに、サンクトペテルブルクのアナトリー・ソブチャク市長が副市長に起用したプーチンをこの店に連れてくるようになりました。

 プーチン元中佐は当時、KGBを退職して政治活動を始めたばかりで、勿論、首相にも大統領にもなる前です。ですが、プリゴジンは、将来の大統領候補の胃袋をつかんだことになります。プリゴジンはプーチンだけでなく、サンクトペテルブルク在住の世界的なチェリスト、ロストロポーヴィチとまで親密になり、彼が2001年、自宅にスペインの女王を招待した際に、プリゴジンに食事のケイタリングを任せたほどでした。

 そして、プーチンが首相、大統領に昇り詰めると、世界の首脳らと私的食事会をサンクトペテルブルクで開いた際、利用したのが、このプリゴジンの超高級レストランでした。この中にはブッシュ米大統領やチャールズ英皇太子(当時)らも含まれ、これら要人とプリゴジンも一緒に写真に収まっています。これらの写真は、野心家によって大いに利用されたことでしょう。

 プリゴジンは、プーチンを通して、政府関係のケイタリング・ビジネスに食い込んだだけでなく、その後、シリアで内戦が起きると、食事関係だけでなく、軍装備調達まで手掛けるようになります。2014年にはワグネルを創設して、ついに民間軍事会社として、クリミア半島の占領戦争にも参加したりするわけです。

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 半グレの少年強盗あがりから、社会の大混乱を利用して、一介のホットドッグ屋から叩き上げで高級レストランのオーナーとなり、「先物買い」で著名人との人脈を利用して、のし上がってきた男だということが分かります。プリゴジン氏がロシアのショイグ国防相を非難しても、プーチン大統領だけは批判しないのは、プリゴジン氏にとって、プーチンは大恩人だからだということなのでしょう。勿論、プーチン大統領もプリゴジンを安価な傭兵として利用し、これからも利用し続けることでしょう。

 彼は、日本史でいえば、野心家の成り上がりの羽柴秀吉に近いのかもしれません。今後のプリゴジン氏の動きには目が離せません。一体、この先どうなるのか、誰も予想できませんが、結構、彼がウクライナ戦争の勝敗の鍵を握っているのかもしれません。

【追記】2023.6.30

 約1週間も遅れて、日本の主要新聞各紙もプリゴジンの経歴と人となりを、やっと掲載するようになりました。特に、6月30日付日経朝刊では、かなり詳しく報じていました。プリゴジンの企業グループには、軍事会社ワグネルや飲食業、不動産のほか、「トロール工場」と呼ばれるSNSなどによる世論操作会社もありました。2016年の米大統領選挙に介入し、米国はプリゴジンに制裁を科したといいます。

 ベラルーシに亡命したプリゴジン氏は、目下、同国内に軍事拠点基地を建設中らしく、これからも一波乱ありそうです。

背広1着100万円=NHK「世界ふれあい街歩き」ロンドン編

 以前は、全くといっていいぐらい、ほとんどテレビは見なかったのですが、最近では結構見るようになりました。もっとも、「見る」とはいっても、大抵はナマではなく、ビデオ録画したものですが。

 よく見る番組は、やはり、大半は歴史ものか、旅行ものです。特に好きな番組は、NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組です。この番組は、カメラを旅人目線に設置して、世界中の有名、無名の街を、まさに地元の人と触れ合いながら旅をする1時間の番組です。途中で、博物館の館長らが出てきて、その土地の歴史を説明してくれたり、くさい演技をする地元の女子大生がその土地の名物グルメを紹介したりするコーナーもあり、毎回、パターンは同じですが、結構知らないことばかりなので楽しめます。

 BSだけでなく、地上波でも再放送したりしているので、私なんか、30分ぐらい見て、やっと初めて、「あっ! 前に見たことがある!」と気付いたりします。(随分、加齢力が付いてきました。)

 番組では、街で偶然すれ違った人に声を掛けると、「ウチにいらっしゃい」と自宅に招待してくれたり、朝出会った人が、夕方に偶然にパブや劇場などで再会したり、何処かで音楽が聴こえる、と思って近づいたら、偶然、午前中に一度会った人がバグパイプを吹いていたりするような同じパターンが、毎回、毎回、様式美のように繰り返されます。

 それにしても、あまりにも「偶然」があり過ぎます。さすがに、最後のテロップで「コーディネーター」の肩書の人が登場したりするので、「偶然」ではなく、かなり事前からちゃんとアポイントを取っているのは確実で、偶然を装って、演技をしてもらっていることが容易に想像できます。そりゃそうでしょう。いきなりカメラを持った日本人が、顔の目の前にやって来たりしたら、誰でも怪しむはずですよ。

 先日は「格式高きクールな街 ロンドン メイフェア&ソーホー」というタイトルで、ロンドン一の高級住宅街を特集しておりました(再放送か再々放送)。メイフェアは、May fair で、17.8世紀に、ここで5月にマーケット(定期市)が開かれたことから付けられたそうです。昨年逝去したエリザベス女王(2世)もこのメイフェアの祖母の家で生まれたといいます。

 高級住宅街ですから、王室御用達の店も立ち並びます。特に有名なのは、日本語の「背広」の語源になったとも言われるサヴィル・ロウ地区です。この辺りに十何軒か洋服仕立て屋さんがありますが、番組では「偶然に」入った店が「ヘンリー・プール」Henry Poole という店でした。数ある洋服店の中でも最古の老舗らしく、1806年創業です。首相を務めたウィストン・チャーチルが若い頃から贔屓にしていたといわれ、今でも彼の顧客名簿と型紙が残っていました。調べてみたら、フランスのナポレオン三世まで海を越えて愛用したようです。ナポレオン三世の写真を見たら、以後は、「おっ?あの服はヘンリー・プールかな?」と考えるようにします(笑)。

 番組では、この店の支配人らしき人にインタビューしておりましたが、驚いたことに、背広1着のオーダーメイド代が6000ポンドから、日本円にして100万円からというので魂げてしまいましたよ。支配人は「20年は持ちますから、それほど驚くべき価格ではありません」と胸を張っておりました。

 もう一つ、たまたま通りすがりにあった会員制の社交場「ジェントルマンズ・クラブ」も紹介されていました。室内には宮殿のような豪華な調度品が並ぶ邸宅は、もともとは銀行家のJPモルガンのロンドンの自宅だったといいますから、これも驚くばかりです。ここの会員になるには、6人の会員からの推薦がなければならないのですが、年会費は「意外に安く」、1600ポンド(27万円)だと言っておりました。

 これまたヤラセ、おっと失礼、偶然にも、室内で3人の紳士会員が談笑しておりましたが、3人とも全員、恐らく、ヘンリー・プールで誂えた100万円の高級スーツを身に纏い、「ここでは服装規定dress code はありませんけど、それなりの格好をしなければ…」と、穏やかにクイーンズ・イングリッシュで応答しておりました。

 下衆な勘繰りではありますが、会員の皆様方は一体、どんな話をされるんでしょうか? 恐らく、天下国家や株やファンドの値動きやウクライナ戦争の話なんかでしょうか? ジャーナリストの会員さんもおりましたが、まさか、英オーディション番組で決勝進出した、とにかく明るい安村や広末涼子の話なんかしないことでしょうね。

人物相関図がよく分かりました=平山周吉著「小津安二郎」

 平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を何とか読了致しました。まるで難解な哲学書を読んでいる感じでした。基本的にはエンターテインメントなので、もっと楽しみながら読めばいいのに、苦行僧を演じてしまいました(苦笑)。でも、色んな収穫もありました。

 最大のハンディは、私自身、小津作品をほとんど観ていなかったことでした。代表作「東京物語」(1953年)は流石に何度も観ておりましたが、原節子「紀子」三部作(「晩春」=1949年、「麦秋」=1951年、「東京物語」)でまだ観ていなかった「晩春」は慌てて観ました。そうしないと、「『晩春』の壺」と書かれていても何のことなのかさっぱり分からなかったからです。そして、「麦秋」は15年ぐらい昔に安いDVDを買って観たのですが、細かい内容は忘れていました。

 この397ページに及ぶ大作の中で、何度も何度も、大陸戦線に徴兵された小津安二郎監督と、「弟分」として慕っていながら28歳の若さで戦病死した山中貞雄監督との親密な関係と暗喩がしばしば語られています。フィルムが残っている山中貞雄監督の作品は、わずか三作しかないといいます。「丹下左膳余話 百万両の壺」(1935年)、「河内山宗俊」(1936年)、「人情紙風船」(1937年)です。私は、山中監督の名前と代表作名だけしか知らず、まだ作品は観ていなかったので、原節子(16歳)が出演した「河内山宗俊」だけ慌てて観ました。

 著者の平山氏によると、戦後、小津監督は、山中監督へのオマージュとして、自分の作品の中に、山中作品を暗喩するものを登場させたというのです。「風の中の牝鶏」(1948年)の中に「紙風船」を、「晩春」の中に「壺」を、「麦秋」の中で歌舞伎の「河内山」を挿入したりしたことがそれに当たります。

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 「東京物語」にしばしば「書き割り」として登場する葉鶏頭の花も、どうやら山中貞雄監督を隠喩しているらしいのです。昭和12年8月25日、召集令状が来た山中監督らが東京・高輪の小津監督の自宅に挨拶に来たので「壮行会」のようなものを開いた際、山中監督が庭に咲いている沢山の葉鶏頭を見て、小津監督に「おっちゃん、ええ花植ゑたのう」と呟いたといいます。そして、程なく小津監督も召集され、最前線の中国大陸でも葉鶏頭の花が沢山咲いていたといいます。

 個人的に「東京物語」は10回ぐらいは観ましたが、葉鶏頭の花は全く覚えていませんねえ。これでは、映画鑑賞の巧者ではない、という証明になってしまいました。

 小津監督の「秋日和」(1960年)、「小早川家の秋」(1961年)、「秋刀魚の味」(1962年)が「秋三部作」だったことも知らず、また、この本で詳細な解説をしてくれる「早春」(1956年)、「東京暮色」(1957年)、「彼岸花」(1958年)まで観ていないか、観ても内容をすっかり忘れておりました。これでは、話になりませんねえ(苦笑)。そこで、慌てて、最後の作品、つまり遺作となった「秋刀魚の味」をもう一度観ました。それで、この本で出てくる「鱧」と「軍歌」の話はよく理解できました。小津作品の大半を(再)鑑賞してから、この本を読むべきでした。これから小津作品を観るように心掛けて、この本を再読すれば面白さが倍増するに違いありません。

 小津監督は昭和2年の「懺悔の刃」(松竹キネマ蒲田撮影所)で監督デビュー(24歳)しているので、戦前には30本以上の無声(サイレント)映画も撮っております。そこで、たまたま、この本で何度も取り上げられていた「非常線の女」(1933年)が、ユーチューブでアップされていたので、観てみることにしました。失礼ながら、内容はつまらないB級のギャングアクション映画でしたが、主演の時子は、若き頃の田中絹代でした。私の世代では、田中絹代と言えば、老婆役が多かったので、「こんな若かったとは!」と驚いてしまいました。調べてみたら、田中絹代は1909年生まれ(太宰治と同い年!)ですから、この時、23~24歳。そして、老女かと思ったら、1977年に亡くなった時は67歳でした。今ではまだまだ若い年代なので、二重に驚いてしまいました。

 そうなんです。華やかな芸能界と言われても、すぐに忘れ去られてしまい、世代が違うとまるで何も知らないのです。例えば、「非常線の女」で、ぐれた与太者・宏の姉・和子役で出演した水久保澄子(1916年生まれ)という女優も、本書にも登場していて初めて知りましたが、大変清楚な美人さんで、原節子より綺麗じゃないかと思いました。この水久保澄子は、かなり波乱万丈の人生だったようで、医学留学生を自称するフィリピン人と電撃結婚したものの、騙されたことが分かり、一児を残して帰国。しかし、それまで自殺未遂を起こして降板したり、他の映画会社に電撃移籍したりしてトラブルを起こしていたことから、映画界からはお呼びが掛からず、1941年に神戸でダンサーとして舞台に出ていたことを最後に消息不明になったといいます。戦後は「東京・目黒でひっそり暮らしている」と週刊誌に掲載されたりしましたが、その後の消息は不明のようです。水久保澄子は「日本のアイドル第1号」と言われたこともあるらしく、何か、人生の無情を感じてしまいました。

 この本を読んで初めて知る「人物相関図」が多かったでした。小津安二郎は最後まで独身を貫き通しましたが、小津の親友の清水宏監督は、田中絹代と「試験結婚」。後輩の成瀬巳喜男は東宝に移籍してから主演女優の千葉早智子と結婚(後に離婚)。先輩監督の池田義信は大スター栗島すみ子と添い遂げ、戦前の小津組のキャメラマン茂原英雄の姉さん女房が飯田蝶子、大部屋俳優だった笠智衆は、無名の頃に蒲田撮影所脚本部勤務の椎野花観と早々に結婚したといいます。(152ページ)

 このほか、山中貞雄の「丹下左膳余話」で、やる気のない若殿役を演じた沢村国太郎(歌舞伎役者から映画界に転身。長門裕之と津川雅彦の父)は、沢村貞子と加東大介(山中の「河内山宗俊」や小津の「秋刀魚の味」や黒澤明の「七人の侍」などに出演)の実兄でした。無声映画「その夜の妻」に主演した岡田時彦は、女優岡田茉莉子の父、「東京物語」で笠智衆の旧友服部を演じた十朱久雄は、女優十朱幸代の父だということも教えられました。

 さらには、「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」で皮肉な重役を演じた中村伸郎の養父は小松製作所の社長で、自身も役者をやりながら、小松製作所の子会社・大孫商会の代表取締役を兼任していたといいます。小松製作所は戦時中、爆弾の信管やトラクターのキャタピラの国内生産の8割を占める軍需産業でしたが、中村伸郎は、自ら代表を務める会社・大孫商会が扱っている漆を敵陣に投下して戦意喪失させる案を某大学教授から提案されましたが、養父に相談することなくこの仕事を断ったといいます。

 もう一人、蒲田撮影所の所長から松竹の社長・会長まで務めた城戸四郎は、あの精養軒の創業者北村家で生まれ育ち、旧制一中~一高~東京帝大法学部という絵に描いたようなエリートコースを歩み、松竹入社後、創業者の大谷竹次郎の愛人と言われた城戸ツルと養子縁組し、その娘と結婚し(彼女は病没したが)、松竹内での地位を揺るぎなく確立したといいます。(329ページ)これも、「へ~」でした。

 最後に、273ぺージには「支那事変従軍で小津のいた部隊が毒瓦斯部隊だったことは、余りにも周知となっている。」と書かれていましたが、私自身は初めて知るところでした。やはり、小津安二郎は絵になり、字になる人で、今後も語り継がれることでしょう。

生物は意味もなくただ生き延びるのが目的か?=ダーウィンの「種の起源」余話(続)

 昨日は、ダーウィンの「種の起源」の余話として、「人生は偶然か、必然か?」を書きましたが、まだ書き足りないことがありました(笑)。

 恐らく、この《渓流斎日乗》ブログを長年、欠かさずお読み頂いている方は、それほど多くはないと思いますが、何で、この人(主宰者=執筆者)は、脈絡もなく、乱読しているのか、と思われているのではないかと思っております。

 勿論、年を取っても、辛うじて知的好奇心を保っている、ということもありますが、私自身、これまでの人生経験からどうしても知りたい、分析したいと思ったことがあったからなのです。それは、どうして、ヒトはこうも厄介な人間が多くて、無神経で図々しく、簡単に人を裏切ったり、黙殺したり、誠意がなかったり、自己主張が強かったり、自己保守に走ったり、他人を蹴落としてでも成り上がろうとするのか? 放送禁止用語を敢て使えば、奇人、変人、狂人のオンパレード。偽善者と詐欺師ばかりではないか、といった素朴な疑問でした。

 歴史を勉強して偉人から平民に至るまで研究してみてもよく分からない。法華経や密教などの宗教書を読んでもよく分からない。そこで、自然科学からアプローチしてみたらどうか、ということで、古生人類学から生物学、はたまた宇宙論から進化論に至るまで関連書籍を乱読してみました。

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 それで、何となく分かったことは、自然科学からのアプローチでは、人生には意味も目的もない、ということでした。生物は、ただ「生き延びる」ことだけが目的で、その間に、壮絶な生存闘争が行われ、自然淘汰で絶滅する生物は、二度と復活しない。だから尚更、生物は、種の生き残りに全生命、全生涯を懸けるわけです。

 生き延びるためには手段を選びません。戦争や紛争などの大掛かりなものから、個人的な他者排斥、裏切り、寝返りまであります。ということは、現在生き残っている生物=人間は、それらの闘争に勝ち残った子孫であることは間違いありません。つまり、裏切ったり、寝返ったりした子孫でもあるわけです。となると、DNAの中に、闘争本能と寝返りと日和見と虚言僻が引き継がれているわけです。

 残念ながら、現代人の中で、生存闘争本能と裏切り精神と虚言癖がない人間はいません。ない人間は子孫を残せず、裏切られた人間は自然淘汰され、絶滅しているからです。絶滅した人種は二度と復活しません。

 となると、人間と付き合う際は、相手が大ウソつきで、隙を見せれば高飛車に出てきて、飽きたら、つまり利用価値がなくなれば関係を絶つ、というのが自然だと思えばいいのかもしれません。それが、人間の自然な姿だと思えなければ、その人は淘汰されますね。絶滅街道まっしぐらです。

 でも、その一方で、ひょんなことで、突然変異した人類も少なからずいるのかもしれません。その人は、正直で、自己犠牲を厭わず、誠心誠意、他者に尽くす人です。利他主義者です。ただし、そういったDNAは一代限りでしょうね。少なくとも、ダーウィン理論に従えば。

 ただし、ダーウィン理論も含めて、これらは実験によって実証されたわけではありません。ですから、もともと、人間は、汚れのない善人として生まれてきて、悪に染まっただけという「性善説」も考えられます。自己犠牲を厭わない利他主義が本来の人間の姿だというのが正しい、という考え方です。

 でもねえ、と私なんか思います。実際、手痛いしっぺ返しに遭ったりすると、人間は生まれながら悪党、というのが言い過ぎだとしたら、他者を排斥してでも生き残りを図る「性悪説」の方を信じたくなります。私の個人的な人生体験から、その方が合点がいきます。

 老若男女関係なく、ややこしい人間がいれば、「そっかー、そいつは手練手管を使って生き延びた悪党の子孫なのか」「そんな悪に染まったDNAの乗り物なのかあ」と思えば気が楽です。ですから、彼や彼女だけが悪いわけではありません。悪いのは遺伝子です。悪党の遺伝子を受け継いで、たまたま現代人という姿形として現れているだけです。彼や彼女は、生物学的に複雑に絡み合ったDNAが表出しているに過ぎない。そのうち消え失せ、また同じようなヒトが再生される。そう思えば、どんなに救われることか。。。。

 えっ? あまりにも悲観的過ぎますか?

 それなら、どなたか、強烈な理論とエビデンス(具体例)で、「人間=性善説」を解き伏せてほしいものです。